Sunday, December 26, 2004

日本版「民間防衛」配布へ

弾道ミサイル対策、政府が「サバイバル指南書」作成へ[Yomiuri Online]
 政府は25日、弾道ミサイル攻撃や生物・化学(BC)兵器テロを受けた際の効果的な避難方法を説明するパンフレットを、2007年度に国内の全世帯に配布する方針を固めた。
(中略)
 パンフレットは2部構成とし、国が作る第1部には海外で実際に効果があった避難ノウハウなどのほか、地震や津波など自然災害への対応策を盛り込む。第2部は自治体が作成し、地域事情を踏まえた具体的な緊急避難先などを示す方針だ。

 以前紹介した「民間防衛」だが、同様の物を我が国でも配布するようだ。

 この種のパンフレットを作成する上で、一番困難と思われるのが政治的「中立性」をいかに確保するか、ということだ。一つそこを間違えると、作成の段階で様々な方面から圧力がかかり、結局出版までこぎ着けることができずに終わるだろう。

 一つ例を挙げる。スイス政府編「民間防衛」では、「避難に際して準備すべき物」として、ろうそくや食料、ラジオといった生活用品の他に、堂々と「聖書」を挙げている。これはいかなる事態が起こってもスイスの国教はキリスト教であり、来るべき避難生活において究極的な精神的支柱とすべきである、という思想に基づいている。

 しかし、今年は米国でも「"Merry Xmas"ではなく"Happy Holidays"を用いるべきだ」という議論が持ち上がっているくらいである。およそ宗教に限らずとも、政治的中立性 -political correct- というのは世界がグローバル化し、一つの国家の中に複数の民族が同居するのが当然となった現代において、避けては通れないテーマである。

 しかし、「他国からの攻撃」を想定する以上、パンフレットの方もそこを避けて通るわけにはいかない。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することが前提の憲法の下で、果たして「悪意を持った他者」の存在を政府がどのように表現するのか、その点だけでも今から興味は尽きないのである。

Tuesday, December 21, 2004

病院は善意の客を前提にしている

総合病院で入院患者ら3人死傷[asahi.com - gooニュース]
 浅見容疑者は肝臓がんなどで10月14日に入院、内科治療を受けていた。包丁は以前から病室に持ち込んでいて、調べに対し「助からない病気なのでやけになっていた。普段からベッドをのぞかれていた」などと供述しているという。亡くなった2人は、脳梗塞(こうそく)で今月に入って入院したという。現場は東病棟の3階の8人部屋。通報で駆けつけた同署員が浅見容疑者を取り押さえた。

凶器の包丁、見舞客に依頼し入手か 病院入院患者殺傷[asahi.com - gooニュース]
 この男性は「果物を食べるのに使うので買ってきて欲しいと頼まれた」と話しているという。同庁は、浅見容疑者が事前に犯行を計画した可能性もあるとみて調べている。

 臨床実習に入る前受けた前期OSCEの時のことだが、「医療面接」の講義で、教材となるビデオを供覧した。ビデオのナレーションは言う。「医療面接の現場では、患者のプライバシーが十分守られるよう、配慮しなければなりません」。

 なるほど画面に映っているのは、実に立派な壁で区切られた診察室である。厚い扉がついていて、会話が外に漏れる心配もなさそうだ。

 うちの大学病院を含めて、多くの病院の外来ではせいぜい樹脂板と鉄パイプでできた衝立があるだけで、隣の診察室の会話内容が聞こえてしまうような構造になっているところが、まだまだ多い。

 ビデオ画面の「お手本」は、まるで会社の応接室のように立派な個室だった。そこで医者(役の俳優?)と患者(役の俳優?)が一対一の医療面接をしてみせるのだが、私はそれを見て「ああ、ここでもし患者がオレを殺そうと思ったら、絶対に助からないな」と思ってしまった。


 医療を語る上では、病院に来る客、普通「患者」と呼ばれる人たちは善意の客である、という絶対の仮定がある。つまり、「病気で悩んでいて、その病気を治すという目的を持って病院へやってくる」のが当たり前だ、と考えられている。

 しかし、実際相当数の客が「善意の客」ではない。どうしても労災認定を受けるために診断書を取らなければならない、家族持ちの中年男性。マスコミの目から逃れるために、「過労」の診断で入院し続ける政治家。北朝鮮から帰ってきたものの、先進国の生活にアジャストするまで時間を必要とする老軍曹。勤め先の看板芸人を訴えるため・・・(以下自己規制)。

 「そういった人々を保護する役目も、実は病院にはあるのだ。病気を治すだけが病院の使命ではない」。学部生として受けた最後の講義で、教授はそう言った。


 病院の売店へ行けば、果物ナイフの一本や二本、いくらでも手に入るのが普通だろう。むしろ入院患者が果物や菓子などを取り分けるのに、小さな刃物が要りような時はある。管理責任を問う、ということになれば、病院のチェック体制が甘い、といった批判の仕方があるだろう。だが、普通どんな病院でも、精神病棟でない限りは患者の荷物や見舞い品など、いちいちチェックしない。患者は「善意の客」であるという前提に立つからだ。


 この事件の「反省」がヘンな方へ進んでしまうと、この大いなる前提が崩れてしまうのかも知れない。病院の待合室には「患者様の権利」とともに「患者様の義務」が大きく張り出され、外来では医者の隣にテープレコーダーを構えた弁護士と、ゴツい警備員が立つ。もちろん診察室の中は随時ビデオモニターで集中監理されている。

 そんな時代は、皆にとって不幸だと思うのだが。

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 そろそろ気力を無くしたので筆を置くが、この事件には「凶器が殺人を犯すのではなく、人が犯すのだ」という問題、「死期の差し迫った人間にとって、法による規範は意味を為し得るか?」という根本的な命題が隠れているように思う。

 「少年による残虐な事件が増えているので、少年法を改正すべきだ」と同様、「老人による残虐な事件が増えているので、老人法を創設すべきだ」という持論は、ここら辺にあったりする。

Monday, December 20, 2004

本当にこわい家庭の医学

 たけし師匠のやっている方じゃなくて、Yahoo!の「家庭の医学」がすざまじい。

 試しに「子供の病気」から「麻疹(はしか)」を引いてみよう。なになに、「一般的な治療法」だ?

以下一部引用:
1)発熱
 発熱時のために解熱剤(アセトアミノフェン)が処方されます。
 (体重10kgの場合)
 ・アンヒバ坐薬(100mg) 1個/回
 38.5℃以上の時使用。次の使用まで8時間以上あける

 おいおい、コレさえあれば半分医者できるじゃねえか。

 確かに、別に医者でなくても金さえ出せば「今日の治療指針」を買うことはできる。そう言う意味では、今の時代、薬の処方量なんて秘密でも何でもない。

 先輩諸兄のお話を拝聴すると、おそらく「だったらアンタの方で勝手に処方書いて○ンキ・ホーテで薬買ってこい」と言いたくなる患者様には、この先多く出会うことになるのだろう。下手すると「Yahoo!にはアンヒバって書いてあるのに、何でうちの子供には出してくれないんですか先生!」という患者様がこの先現れないとも限らない。この際ついでにYahoo!の方で「処方箋の偽造法」ってカテゴリ設けてくれれば完璧だ。

 実はそれこそ小児医療を立て直す鍵だったりして。
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 コプリック斑とか永山斑とかチンギス斑とか天津斑とか、もうそろそろ・・・。

Thursday, December 09, 2004

再現問題

 数年前から医師国家試験は完全問題非公開制になった。つまり、試験終了後問題用紙は一枚残らず回収され、決して表に出ることがないのだ。(※1)

 とは言っても、相当記憶力に優れた集団のこと。3つの出版社が懸賞金を出して、試験を終えた受験生からアンケートを採り、再現問題集を作っている。その再現精度はなかなか高いが、レントゲンやCT、心電図といった画像ものは、受験生によって「見る」場所が違うため、3社それなりに再現がバラバラだったりする。それは仕方がないことだ。

 面白いは、かなりいい精度で再現されている(つまり、3社から出版されている再現問題集による文章の相違が少ない)にも関わらず、解答が3社バラバラな問題が相当数存在することだ。これは問題内容と同時に公式解答も発表されなくなったためである。

 出版社はそれなりの人物(当然医師免許を持っている人物)に依頼をして解答を作成するわけで、その解答が割れるというのは、絶対に満点が取りようがない試験であるということを示唆する。つまり、全国成績トップの3人を呼んできても、その3人の選んだ選択肢は全部違うおそれがある。(※2)

 今まで公開されていた分の試験問題にも、「えっ、何でコレが正解なの?」という問題は多数存在した。それは、こじつけとしか思えないような苦し紛れの解説(出版社が後で付け加えるもの)が添付されている問題集に見ることができる。しかし、厚生省(当時)が「コレが正解だ!」と言っている以上、ヘンな問題でも1点は1点で、それで泣き笑いが出たりするものだから、その「ヘン」な考え方に受験生は合わせなければならなかった。

 そういう意味で考えると、マークシートであるところは大学入試センター試験に酷似しているのだが、数学や生物といった試験科目よりも、むしろ現代文に似た感触を持った試験であるように思う。

※1 しかし、出題内容が不適切だったとされる問題については、採点除外されるため公開される。
※2 成績上位層の多くがが選んだ選択肢と、実際出題者が想定した正解肢が乖離する場合も、採点除外の対象になるという説がある。

Monday, December 06, 2004

近くの医者のようなもの

 「近医」と言う言葉がある。それは「バールのようなもの」と同じくらい正体不明な「国試用語」なのだが、それで小説を一つ書いてしまうほどの才能は私にない。そこで、おおかたは「初めて患者を診たものの、無効な医療をしてしまうヘボい医者」という意味で使われているのだろう、と下種の勘ぐりをしてみる。

 例を示してみよう。

96D-57(再現)
29歳の女性。一週前から発熱および咳嗽を認めたため近医を受診し、胸部X線検査によって肺炎と診断された。セフェム系抗菌薬を4日間投与されたが解熱せず、胸部X線写真で悪化が認められたため紹介されて来院した。紹介状によると、喀痰培養では正常細菌叢であった。体温39.4℃。呼吸数20/分。脈拍94/整。血圧106/64mmHg。血液所見:赤血球420万、白血球8000。血清生化学所見:総蛋白7.0g/dl。CRP 7.0mg/dl(基準0.3以下)。
 可能性の高い起炎菌はどれか。
(略)
[医学評論社 Approach5 '04より]

 まあ国家試験の問題をお作りになるような大先生方にしてみれば、紹介状を書いて病院に回してくるようなそこらへんの医者はみんな「近医」になってしまうのかも知れない。

 たとえばUSMLE STEP2あたりで、近医をformer physicianと表現するかというと、そういうことはあまり無くて、「セフェム系抗菌薬を4日間投与したが改善しない。次に処方すべきはどれか」というように、解答者の責任において無効治療を行っていたことを想定させる問題の書き方が多い。

 本国には医者の「仮免許」制度があり、一般大学を卒業してのちmedical schoolの2年次を終了した時点で、学生はある程度の診療行為を任されることになっている。一応日本にも同様の制度があることにはなっているが、様々な理由により実際に「やらせてくれる」ことはずっと少ない。ここにそうした違いがあることを見ることができる。

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 抗ガン剤や免疫抑制剤など、次世代の医薬品を天然物に求めることがある。そうした場合、たとえば富士山麓に生えているコケを片っ端から集めて有効そうな成分を抽出する、といった研究を行っている薬学者がいる。数名、多いときは数十名の学者が集まってフィールドワークを行い、何千種類というコケを集めてきたりするわけだが、その中で本当に薬として製品にできるのは一つあるかどうか、という世界である。

 ここで問題になるのは、仮に有効成分が見つかったとき、その成果を論文にまとめるときのことである。一つの方法は、その一つの有効成分を見つけてきた学者の名前を筆頭にして、仲良しグループだけが論文に名を連ねるというやり方。もう一つは、論文の見栄えは悪くなるももの山探しをした全員の名前を書くという方法である。

 前者には、「最初に見つけたものに優先権がある」という考え方、また後者には、「有効でないコケを(何千-1)種見つけてつぶしたからこそ、有効成分を含むコケを見つけることができたのだ」という考え方が隠れている。

 私などは後者の考え方に納得がいくほうで、「近医が無効治療をやってくれたからアンタが正しい診断にたどり着けるんだろっ」と思ってしまうのだが、これは「近医」への第一歩に違いない。。

Friday, December 03, 2004

「人を撃つと思わずに、動く標的をモノにするくらいの軽い気持ちで引鉄を落とす」

米陸軍、マシンガンを装備したロボット「Talon」を2005年導入へ[ITmedia]

 タイトルを見たときはネタかと思ったが、そのうち本当にロボットと人間が戦う時代がやってくるようだ。

 いわゆる「ハイテク戦争」の最大の問題は、兵士が「殺人を犯している」という自覚を持ちにくいことであるという。

 たとえば肉眼で見える標的を小銃で撃つのと、夜間暗視装置やサーモグラフィー越しに見える相手を撃ち倒すのとでは、後者のほうが圧倒的に精神的負担は少ない。

 軍隊が「いかに人間を効率的に殺すか」を追求する組織である以上、兵士の精神的負担を軽減することはその目的にかなうのである。

 戦争における「人殺し」の心理学では、南北戦争において、装填されていていつでも発砲できる状態にありながら、数多くの小銃がそのまま放棄されていた(すなわち、多くの兵士が発砲しなかった)という事例から、たとえ訓練された兵士であっても眼前の人間を殺すという行為が、精神的に非常な障壁を伴うことであることを導いている。

 America's ArmyをはじめとするPC上のビデオゲームを用いた訓練、スクリーン上の標的を実銃に近い感覚で射撃できるシミュレータ、そして赤外線による命中判定を利用した実戦訓練と言ったものを通して、「人を殺す」感覚に慣れさせると行ったことは現代の軍隊では普通に行われている。

 記事によると最終的な射撃の判断はまだ人間が行うことになっているようだが、果たして自分の生命を危険にさらさずして相手を撃てるとなった場合、その平気を操る人間がどのような心理状態に陥るのか。

 超えてはならない一線を越えてしまうような気がしている。

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 記事によるとロボットが装備するのはFN-MINIMIのようだが、どうしてもWestinghouseのM25 Plasma Pulse Gunを思い出してしまう。「ターミネータ」でシュワルツェネッガー演じる殺人マシーンが、銃砲店の親父に頼むが「お客さん、それは来週入荷だ、ニイさん銃に詳しいねぇ」とむべなく拒否されてしまうライフルである。シュワちゃんは仕方なく12ゲージのSPAS12か何かで我慢するのであった。

Friday, November 26, 2004

自ら経験しないものを信じることについて

 しばらく前のことになるが、外である堅気の女性と話していたときのこと。私は何の気なしに、大学内のうわさ話を漏らしていたのだが、こんなつっこみに、はっとさせられた経験がある。

 「ねえ、自分で実際に見たことでもないのに、何でそんなに簡単に信じるわけ?」

 元々私は話し言葉がうまくないせいもあるが、そのときは言葉に詰まってしまった。


 それからしばらくの間、そのことについて考えていたが、ふとあることに思い至った。そもそも、私が医者になる上で、「常識」として受け入れなければならない知識の中で、実際に経験できることというのはどれくらいあるのだろう?

 たとえばブドウ糖やタンパク質、脂肪が体の中でどうエネルギーに変わるか、といったことを扱う「代謝」という学問がある。その経路図はたとえばこんな風になっていて、覚えていなければならないことなのだが、ここに書かれている「酵素」のうち、自分で結晶を見たことがあるもの、またケミカルに定量した経験があるものはゼロに等しい。

 また、代謝分野で各段階の一つ一つについて検証した論文について当たろうとすると、おそらく広辞苑を遙かに超える分量のものを読まなければならないだろう。生化学の教科書一つでも広辞苑一冊くらいはあるのに、そこまで検証している暇な学生はいない。どんな疑い深い学生でも、教科書に書かれていることをそのまま「事実」として受け入れざるを得ないところなのである。さもないと目前の試験という、もっとリアルな現実を乗り越えられない。

 従って代謝の知識はいわば「常識」と考えられているし、代謝経路のどの酵素が失われるとどんな病気が起こるか、という事柄については他人に説明できなくてはならないことになっている。代謝酵素欠損病にはTay-Sachs病だとか、Hurler症候群だとかいろいろ人の名前が付いた病気があって、本当に苦労させられるのだが、実際私はその患者に一人も出会ったことが無い。試験には必ず出る。

 我々は一年生の頃からずっと、こういった「自ら経験し得ないこと」をあたかも自分で見聞きしたかのように受け入れ、そして人に話すといったことを繰り返してきたのである。これは構造的に「宗教」と変わらない。


 「聖書には全能の神が人間を作ったと書いてある。それはA社から出版された聖書にもそう書いてあるし、B社のも同じだ。また、私の尊敬するH神父も、神が人間を作ったことについて実に筋が通った解説本を書いている。うちの父さんも、母さんもそう言っているし、教会で出会う人の中でこのことを疑っている人はいない。多くの人が一様に信じることだから、『神が人間を作った』というのは否定しがたい事実だ」

 結構似たようなことをやってきた。


 もちろん、宗教でも医学でも、このような構造が成り立つ上には、その個人が属するコミュニティーに対して絶対の信頼を置いている、ということが前提となる。

 医学界の有名な「お経」として、「ヒポクラテスの誓い」というものがある。医科大学によっては卒業式で「ご唱和」させられることもあるくらい有名なものだが、ふつうこの「誓い」は、『害をなすな』など、医の基本的な倫理を規定するものとして語られることが多い。しかし、ここではあえて注目されることの少ない、以下の文言に注目したい。

私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。


 ここに書かれているのは「医学」という、一つのコミュニティーに対する絶対的な帰依である。いわば兄弟の契りによって、同じ医師であるもの同士は基本的に信頼しあうべきである、ということが書かれているのだ。


 もちろん、盛んに言われている「EBM」に対しても、これと同じようなことが言える。

 例を挙げる。ある白血病に対する治療法に対して、薬●×▲の組み合わせがいいのか、それとも■△○の組み合わせがいいのか、といった問題がある。白血病に対しては、現在非常に細かい分類がなされているので、本来的にはこれらの分類ごとに最適な治療方針が存在するはずだ。だが、まだまだ「これが完璧だ」という治療法を確立するのは難しく、数年ごとに治療法はアップデートされるのが普通である。

 従って、●×▲と■△○の組み合わせのどちらがいいか、という問題は、相当数の患者数を対象に検定しなければならないのだが、前述のように細かい分類がなされているので、一つの施設内において同じ分類の症例が多数そろう、ということは考えにくい。従って多くの病院の間で行われた治療方針の選択とその結果を、厚労省の研究班なりといったところにデータとして送り、集約化して初めて「こちらの方が優れている」という結論になる。

 つまり、大規模臨床試験において「全部私が見た」という人は存在しない。だが、個々のデータに対する信頼と、学会などの正統性に基づく権威の元に、次世代の治療方針(ガイドライン)が決定されていく。実際に現場で治療に携わる医療者は、そのガイドラインが正しいプロセスに基づいて検証されていることを前提として、眼前の患者に対する方針を決定する。

 学会などが、本当に正しいプロセスを経てガイドラインを決定しているのか、臨床家が疑問を抱くことも時々ある。そういう場合は、根拠となった臨床試験の結果、論文などを自ら集めて検証することも可能なのだが、多忙な日常の中でそこまでやる臨床医はごく少数である。多くはそういった権威への「信頼」を根拠にして、目の前の患者に責任を負うのである。


 ちまたではよく「医者は互いにかばい合う」などといわれている。また、EBMにおいて「権威者のアドバイス」はエビデンス(治療方針を決定するための根拠)として最も低いものの一つに分類されている。

 しかしながら、医学という学問が成立する上では、「コミュニティーに対する信頼」というものが不可欠な要素であることも、また事実なのである。なんだかんだと言って、100名近くの若者を6年間も一つの集団におく、という教育プロセスについては、この信頼感の醸成、と言う要素があるのではないか、などと邪推してみる。

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 昔ある医者の書いた文章の中で、「医者というものは、論文や教科書で見聞きした患者のことを、実際に自分が診たかのように記憶してしまうことがあるものだ」という記述を目にしたことがある。そのときは「んなこたーあるわけねーじゃねーか、何言ってんだこのオッサンは」と思った。

 だが、今は十分に起こりえることだと考えている。むしろ文章の中の記述を、まるで実際に目の前で起こっていることのように考えられる想像力がある人こそ、優れた医者なのではないかと思っている。

 そう考えてみると、「私はキリストの復活を見た!」などと言う人を笑ってもおられないのかも知れない。

Thursday, November 25, 2004

除隊検定

 紆余曲折があったが、今日で卒業試験が終了した。卒業試験に通ればあと2ヶ月後に国家試験を受験し、その後(受かっているかどうかの不安を胸に)沿岸警備隊本隊に配属となる。卒業試験に通り、国家試験に落ちるとめでたくNEETの仲間入り。

 どこの大学でもそうなのだろうが、卒業試験に通るための勉強と、国家試験に合格するための努力はかなり異なる。

 たとえば、卒業試験では同じような病態に対しても外科と放射線科では全く違った結論の問題を作る傾向にある。外科はとにかく「切った方がいい」というような問題を作りたがるし、放射線科は「IVR(切らない治療)の方が体に負担をかけないし、幅広い患者に適用できる」といった結論を作りたがる。内科が問題を作ると多分この中間ぐらいの結論で、「何cmまでの~に関してはIVRでいい」ということを問題にしたがる。

 前もって「過去問」を見ているせいで対処できるのだが、そういうところで頭の「スイッチ」を切り替えるのは実に疲れるものだ。国家試験はある程度問題の選別が行われているため、こういったところは気にしなくていい。

 もう一つ気になったのは「~という報告が多い」という選択枝である。厳密に考えると、その問題の真偽を判定するためには、最近の学会誌やなんやらにすべて目を通さなければならないわけで、学生のレベルを遙かに超えることを要求している。百歩譲ってそうしたとしても「多い」かどうかはその人の主観によるのである。

 そもそも科学的な情報のレベルには

 学会報告・原著論文<レビュー論文<紀要・展望<専門書<教科書

 といったヒエラルキーがあるとされている。

 左に行くほどフレッシュな情報で量的にも膨大(*1)だが、10年たってみると全くの間違いであった、ということになっているかも知れない、信頼度の低い情報でもある。一方、右へ行けば行くほど出版物の数は少なくなる。しかしいわゆるその道の「権威」と呼ばれる人々が編者となって、下位の情報源からまず間違いないだろう、というレベルの情報を選不プロセスがあるので、比較的長い時間を経て検証され得た情報が載っていることになる。

 試験に出していいのはせいぜい「専門書」レベルのことである。たとえば「癌にはアガリクスが効く!」などということは絶対に国家試験に出ない。新しい情報だが、確かな検証に耐えていないからだ。

 しかし、各講座の中でそれぞれの研究テーマを有している以上、「学生にはやはり最新の情報に触れてもらおう」ということで、ずいぶんマイナーなことを試験に出してしまうところがある。また、血液腫瘍などの分野では、かなり標準治療の世代交代が早く、最新の情報を知っていないと話にならない、ということもある。

 学生としては、なるべく「教科書」レベルの知識で済んでほしい、と思うところだが、なかなかそうもいかないのである。ただし、隣の大学の人の「常識」と全く違うことを、ウチでは喜々として教えているのではないか、という一抹の不安を感じてしまう。


 それはとりもなおさず、私が田舎者である所以なのだろう。

 (だが4年生を対象に実施した試行試験では、今までウチのCBT(*2)の成績はガタガタだったらしい。それはつまり、あまりにマイナーなことばっかり教えてる、という証明じゃないのかな、なんてね)

(*1)一年間に出版される原著論文を積み重ねたとすると、医学分野だけでも優に富士山を越えてしまう高さになると言われている。どんなに優秀な医者が一年中患者を診ずに論文だけ読み続けたとしても、このすべてに目を通すのは事実上不可能である。

(*2)来年度から医学部4年生を対象に義務づけられる臨床実習前の試験。全国統一基準で実施され、しかもコンピューターで一人一人ランダムに選ばれた問題が出題されるといった特徴がある。アメリカ本国で行っているUSMLE STEP1を植民地でもマネたといわれている。

Monday, November 22, 2004

この48時間

 3時間しか寝ていないし、変なお注射も打っていないのに眠くない。

 明日あたり相当に「クル」のではないかと思っている。

Sunday, November 21, 2004

グローバル・ポジショニング・システム

GPSで居場所が通知される携帯電話?(高木浩光@自宅の日記)

 実際私もGPSケータイを持ってはいるが、いちいち作動させるたびに莫大なパケット料が発生するし、電力をかなり消費するので「ここ一番」でしか使っていない。

 確かに5メートルの誤差で、第三者が携帯電話の持ち主を特定できるとしたら、それはそれで恐ろしい監視社会の実現だろう。「エネミーオブアメリカ」の実現だ。困るのは、「いらない機能つけないでくれ」というユーザーの意図が携帯メーカー側には通じにくいことだ。新しい機種で、GPSもカメラ機能もついていない製品を探すのはとても難しい。

 そもそもケータイについているGPSというものが、本当に衛星からの電波を拾っているのか、私にはその仕組みがよくわからん。衛星からの電波を拾うとすれば、何で屋内でもちゃんと地図が表示されるのだろうか。衛星放送のアンテナだってわざわざ屋外におかなきゃいかんのに。ある人は「いや、衛星じゃなくて地上の基地局から三角測量してるだけですよ」と、ウソとも本当ともつかないことを言って私を混乱に陥れてくれた。

 いっぺん山奥の「圏外」エリアでGPSを作動させてみよう、本当に衛星の電波を拾っているならば、基地局からの電波が届かなくても位置がわかるはずだ・・・ってこりゃだめか。位置がわかっても地図がダウンロードできない以上、どっちにしてもエラーになるのだ。

 高木氏はセキュリティーの専門家であるがゆえに、この人の日記には「イッパン人」のわれわれからすると考えすぎなんじゃないか、と思う部分も散見されるのだが、の最後「あるいはもしや、犯人はこれを見たために、殺害の意思を……??」とある部分だけでも読む価値はある。

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 「昔ジーコはカシマサッカースタジアムの看板の位置で、フィールド内の位置を把握していた」という。私も基本的に、初めて行く土地には地図と磁石を携えるようにしている。

Thursday, November 18, 2004

枝葉はゆれても・・・

あえてリンクも張らなきゃコメントもしないが、爆笑しますた。

GET Firefoxと、言ってみるテスト。

 私の愛用のブラウザはMozilla Firefoxである。今まではいわゆる「お試し版」であったが、このたび正式版1.0がリリースされたので広告してみる。

 いわゆるオープンソースソフトフェアの一つであり、平たく言うとタダである。兄貴分のMozilla(メーラー、ブラウザ、HTMLエディタ、IRCクライアントが一緒になっている)に比べると、大変軽くて起動しやすい。また、拡張機能Extensionによって、様々な機能を後から「つけたし」できるのが大きな特徴である。

 おすすめの拡張機能は、Tabbrowser ExtensionWeatherFoxである。

 Firefoxはタブブラウザーだが、素にインストールしただけでは今ひとつタブブラウジングの利点が生かし切れない。そこでTabbrowser Extensionの出番だ。WindowsユーザならLunascapeを愛用する人も多いだろうが、この組み合わせでほぼLunascapeと変わらない使用感を提供できる。

 WeatherFoxは、ある特定の地点の「今の天気」を表示する。・・・・って、自分で窓の外みればいいだけの話だが、外気温も表示されるので室外温度計の代わりに(?)なる。

 前にも述べたが、このページは実はFirefoxでみると微妙に変なところがあるのだが、それは見る人の楽しみを奪うため書かない。

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 Sleipnir作者を襲った悲劇:一刻も早くこの泥棒がとっつかまることをお祈り申し上げる。

Sunday, November 14, 2004

BODY COUNT

「制圧作戦ほぼ完了」 ファルージャで1000人殺害[共同通信]

イラク暫定政府のダウード国務相は同日、記者会見し「制圧作戦が一部の武装勢力の拠点は残っているが、作戦はほぼ完了した」とし、これまでに武装勢力約1000人を殺害、約200人を拘束したことを明らかにした。

 ふつう戦闘行為において「何人殺したか」という記録は不正確になりがちであるし、味方の残虐性を強調するきらいがあるということで、積極的に発表されることは珍しい。しかしながら、今回米軍はこの数字を前面に出している。


 正規軍同士が正面を切ってぶつかる会戦では、敵味方のにらみ合う戦線(前線)が形成される。従って、戦争を進めていく上で、自分たちの軍隊が挙げた「成果」はどれだけ戦線が的の本拠地に近づいたか、ということになる。終結したことになっている「イラク戦争」の時は、「連合軍はバグダッドまであと何kmまで迫りました」であって、「連合軍は何人殺しました」という報道ではなかったはずだ。

 また、戦線で生じた死傷者は、それぞれが後送するため、敵側に生じた正確な死傷者数というものはわかりにくい。従って、会戦が一段落してのち、それぞれが主張する数字がメディアに載ることになる。

 ところが、今回のような明確に占領すべき拠点が決まっていないで(米軍は一応ファルージャ市役所前に新イラク国旗を立てて見せたが、そこが敵の本拠ではないだろう。ザルカウィも捕まらなかった)、また小部隊が独立した行動をとって襲ってくるゲリラ戦では、敵味方が入り乱れるため、前線の移動を持って具体的な「成果」とすることができない。


 従って、こういう場合には、確かに殺して死体袋に詰めた敵兵の数(ボディーカウント)を披露することでしか「我が軍はこんなにがんばりました」とアピールできないのである。

 しかし、そもそも相手はゲリラ兵(つまり、市民から明確に区別しうる統一された軍服を着用していない)なのだから、はっきり言って死体袋の中身が全部兵隊なのかどうかもわからない。極端な話を言えば、適当にそこら辺の市民を撃ち、「手榴弾を投げてきたゲリラ兵だ」と主張することもできる。まさに「殺せば殺すほどほめられる」状況なのだから、成績アップのため、そういうがんばり方をする兵隊がいないとも限らない。

 戦争の成果がボディーカウントによって記述されるようになった状況は、40年前のインドシナ半島に酷似している。なんだかいやな予兆である。

Saturday, November 13, 2004

医療過誤報道を読む

医療過誤:心臓手術で死亡、執刀医を聴取 埼玉の病院[毎日MSN]

 新聞記事には、「偏らない視点」が求められると、一般的にはそう思われている。従って、このような医療事故(*)の記事で、「病院 vs. 患者遺族」の構図が成り立つときには、記者は双方の言い分を記事にしなくてはならず、苦労することだろう。


 以下は完全に個人の邪推であることをご了承いただきたい。

 第2段落目の「関係者らによると~」から第3段落の全部、そしておそらく第4段落の「午後4時ごろ~」の一文までは病院側の説明による。ビデオカメラで手術を中継してくれるような、よほどオープンな病院でない限り、手術室は事実上の「密室」である。従ってこの部分の記述に何しては、そのとき「中にいた人間」の証言に頼るしかない。

 「午後9時ごろ~」から、第5段落の終わりまでは家族から記者が聞いたことだろう。「午後9時ごろ~家族は『~』という」と、第5段落の最後「~という」の2文は、記者が明示的に伝聞形で書いている。

 問題になるのは、「しかし、医師は経緯について『心臓の動きが鈍くなったため、人工心肺を装着したら血管がはく離した』と説明したが、心臓の傷には触れなかった。」という一文である。やや恣意的な解釈だが、病院側はきわめて婉曲的な表現で(もちろんそれ自体避けるべき行為だが)傷を付けたことを説明したが、家族は動転して覚えていなかった、という可能性がある。しかしこの一文は伝聞形で書かれていない。

 修辞上記者が連続する表現を避けたのだろうが、読み方によってはここがテープレコーダーや、署名されたInformed Concentの記録といった証拠に基づく「事実」であるようにも受け取れる。訴訟上も、ここは「真実の隠蔽」なら慰謝料等の算定に大きく影響するポイントだ。


 全体的にみると、どこからどこまでが病院の言い分で、どこまでが患者遺族側の言葉なのか、それとなくは知れる、なかなかフェアな記事だと思うのだが、記事というものの持つ本質的な問題を考えるため、あえてここに記してみた。

(*)あえて今の段階で「過誤」という言葉を使うことを私は避ける。何でだ、と言われれば「そう訓練されているから」と答えることにする。

布石の国

ちりんのblogKU。

日本軍事情報センターのWhat's New 11月12日分。

 もし東シナ海に原潜が沈没し、爆発すれば、海流に乗って放射能を帯びた海水が日本に向かって流れてくる。爆発しなくとも、海底に沈んだ原潜を回収することは至難の業である。いやそれ以上に、艦内に乗り込んでいる乗員の命が奪われることになる。ロシアのクルスク原潜沈没事故を忘れたのか。

 (中略)

 どうして政府やマスコミは今回の異常事態に気がつかないのか。すでに中国は潜水艦救難艦や潜水艦曳航船を出動させた。ここで日本政府が中国政府に関係なく、救助のために海自の潜水艦救難艦を派遣しても文句は言われない。

 このままでは日本はサムライの心を知らない冷血漢になってしまう。急げ、無駄であってもいいから急げ。

 確かに中国海軍の原潜がなんらかの事故を起こしている可能性は、100%否定できるものではないだろう。だが、「領海内で放射能漏れが起きる事態を避けるために、日本の海自が救難艦を出せ」というのはいかがなものだろう。

 その論理でいけば、「放射能漏れを恐れるが故に海上自衛隊は、領海内に侵入してくる原子力潜水艦を絶対に撃沈できない」ということになってしまう。まさに「張り子の虎」だ。

 それでは、何のために自衛隊はディーゼル潜水艦やアスロックといった装備を所有し、訓練しているのか。どこか日本列島から離れた、外国の海で潜水艦を沈めるためなのか。それこそ「専守防衛」に反するだろう。

 緊急事態が起こったのであれば、どこの国の潜水艦であろうと浮上して、堂々と国旗を掲げて航行すればよいだけの話である。このような潜水艦の航行の仕方は、国際法上許容されている。浮上した潜水艦を友軍の救難艦が助けにくる、というのであればそれこそお茶の一杯も出してやればいいだろう。緊急浮上が技術上不可能で、しかも何百キロも航行できる状態、というのは考えにくいのである。

 むしろ、速力10ノット、蛇行しながら中国本土へ移動、というのはあとで「事故を起こして思うように操船ができなかった」と言い逃れをするための方便であろう、と私は考える。やはり目的は日本側の反応を探り、海底の地形を測量するためであり、あらかじめ救難艦が付近に展開していた、というのも、国際政治の場で弁解の余地を残すため中国側が打った巧妙な布石であろう、とみる。そういえば「布石」という言葉も囲碁の国、中国から来たのだ。

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 だから「医療系ブログ」じゃないんですってば。

Thursday, November 11, 2004

漠然とした「態度」でクビにできるか

「笑顔ない」理由に解雇は無効[asahi.com]

 女性は98年から、入院患者の身の回り世話する介護員として、1年の雇用契約の更新を続け4年3カ月間働いていた。ところが、02年6月、病院側から「笑顔がない」「不満そうなオーラが出ている」などを理由に、契約の更新を拒否された。


 医師国家試験には禁忌肢というものがあり、3日間の試験日程中で出題されるたくさんの問題の中から、「やってはいけない」選択枝を2つ(問題数ではなく、選択枝数だ)選ぶと、たとえそのほかの問題がすべて正解であったとしても問答無用で不合格になる。

 近年の国家試験では「笑顔がない」とか、「患者に対する態度がデカい」とか、態度を問題にする選択枝に禁忌肢がある、といわれている。去年の問題では、「私は外科の専門医だから安心して手術を受けるように、と強く説得する」が禁忌であった、とささやかれている。(数年前から問題文・解答が非公開になったので、実のところ厳密な基準はわからない。)

 教官たちから「医学生たるもの、態度に留意するように」(・・・教授になればまあ何やってもいいのだろうが)と日頃やかましく言われ、試験までやらされた身からすると、意外な判決ではある。

 それこそOSCEの時には、あらかじめ講義で「にこやかな笑顔を患者に向けるように注意せよ」と言われていたのに、本当の試験で実際そのようにしたら、「患者の前でニヤけながら診察するな!」と減点を食らった仲間もいたようで、こういったものをどう評価するかというのは、裁判長の言うとおり「主観」の問題だろうと思う。

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 もっともここの病院名で検索すると、雇用関係を巡って過去にも何度か訴訟があったらしい。今回もそのシリーズの一つなのだろうか。

Wednesday, November 10, 2004

存在感を示す

陸自、4万人減に猛反発 財務、防衛の攻防本格化[河北新報]
空自戦闘機300から216機に 財務省の削減案に防衛庁が強く反発[Yahoo! 産経新聞]
装備費削減めぐり過熱/攻める財務省、守る防衛庁[東奥日報]

不審潜水艦:沖縄・先島の領海内潜航 海上警備行動を発令[毎日MSN]

 財務省は防衛予算を削りたくて削りたくて仕方がないようだ。だが、忘れてならない点が一つだけある。

 軍隊は、その存在価値を示すためなら、いつだって戦争を「作れる」のだ。それは歴史が証明している。

 あくまでもこれは仮定の話だが、航空自衛隊が発足して以来、スクランブル(緊急発進)の回数は19,000回を超えている。もしこのうちの一回でも、「電気系統のトラブルにより」自衛隊機がミサイルを発射していたらどうなったか?

 これまでも中国の潜水艦ぐらいはちょくちょく領海を侵犯していたが、あえて政治的判断で行動を起こさなかっただけなのではないか。そういう「ネタ」は自衛隊としていくつか把握しているものがあって、出すべき時に出してきているだけなのではないか。

 そう考えることもできる、というだけの話だが。

 防衛予算は、文民的思考しか持たない人から見ると無駄の固まりであり、いくら削ってもいいところに見えるのだろう。だが、軍隊というのは国家を転覆しうるほどの「実力」を持った集団であり、それをいかに文民政府が使いこなすか、という問題は現代国家における最大のテーマである。

 「文民統制」を厳格に法で定めているアメリカ合衆国にしても、実際は軍産複合体が合法的なやり方で政治に強く干渉しているのは、皆のよく知るところである。

○○対▲▲の壮絶なる戦い

NHKの労組が海老沢会長への辞任要求を正式決定[asahi.com]

 NHKの職員でつくる日本放送労働組合(日放労、約8500人)は9日、中央委員会を開き、相次ぐ不祥事への対応の仕方に問題があったとして、経営側に対し、海老沢勝二会長の辞任を求めることを正式に決めた。要求書は10日に提出する予定。日放労が経営トップの辞任を求めるのは、1948年の組合結成以来、初めてという。
 岡本直美書記長によると、チーフプロデューサーによる番組制作費の着服が7月に発覚して以来、「NHKはきちんと説明責任を果たしていない」として受信料の支払いを拒否する視聴者が相次いでおり、「このままでは業績が好転するとは思えない」と判断したという。

 NHKなんか受信料払ってもらえなくても、いざとなれば国庫という「打ち出の小槌」があるんだろうな、と思っていたのだが、下の資料を読むと予算のほとんどは、やはり受信料に依存していることがわかる。

平成16年度 収支予算と事業計画(要約)(PDF)[NHK発表資料]

 つまり、NHKにとって「受信料支払いを拒否される」というのは、民間放送にとっての「スポンサーが離れる」のと同じくらいの意味を持つ、それこそ死活問題であるわけだ。

 ただ一つ引っかかるのは、罰則規定こそ無いもののNHKの受信料を払うことは放送法上の義務である。そもそもの起源からして、民間放送とNHKは対立関係にあるわけだが、民放側が「NHKの不祥事のせいでこんなに受信料拒否が増えていますよ」ということを報道番組で盛んに言うのは、ある意味不法行為をそそのかしていることになりはしないのだろうか。

 もちろん、事実をありのままに言うのは「報道の自由」そのものである。しかし、「NHKの受信料を払わないのは一応法律違反に当たります」ということを言わないでいるところには、「報道の中立」を軽視する姿勢が見え隠れしている。

 しばしばゆがんだ形で現れるものの、「中立」に何より気を遣ってきたのがNHKであることも確かだ。

 どっちにしろ、今回の海老沢会長辞めろコールは、何かによって扇動を受けているような気がする。「民間防衛」の読み過ぎだろうか。

新聞協会は、またNHKの「商業化」を批判しているという。NHKの肥大化を批判するなら、なぜ郵貯のように「民営化しろ」という話が出てこないのか。それは、現在の民放の番組がひどすぎるからだ。いしいひさいちの漫画でいえば、レベルの低い「地底人」NHKが、それよりも低い「最底人」民放と闘っているという図である。
池田信夫 blogより。

 考えてみれば、読売新聞=日本テレビのように、テレビ局と新聞社がそれぞれ系列関係にある、というのは日本のマスコミ界特有の構図である。これに対してNHKは、新聞のようなほかのメディアを所有していない。(NHK出版は日刊紙を出してるわけではない)。したがって日本テレビのニュースで報道されたことは必ず同じ論調で読売新聞に載ったりするのだが、ことに今回のNHK不祥事の件に関してはテレビも新聞も各社足並みをそろえて「叩く」わけで、逆説的に翼賛体制と言えなくもない。

 受信料もペイパービュー制にしろ、というのは昔からよく言われていることだが、そうなるとますます商業ベースのスカパー!なんかと変わらなくなってしまうのではないか、という気がする。

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 しかし、上でリンクした放送法32条は「NHKの放送を受信することができるテレビをお持ちの場合」といっているわけで、「うちのテレビはどうがんばってもNHKが受信できない北朝鮮仕様だ!」って言う人がいたらどうするのだろう。払わなくていいのかな。

 チューナー付きケータイは受信料払わなくていいとか、いまいちそこらへんのルールがよくわからない。

Monday, November 08, 2004

リアルを教えるということ

 短機関銃版にも書いたが、中学校で生徒自身から採血させて血球を観察させた先生が問題にされているらしい。

生徒の血液使い理科授業 和歌山・橋本の男性教諭[共同通信]

 いろいろ感ずるところがあるので本編でも書いておくことにする。

 現在の教育課程がどうなっているのか詳しくは知らないが、私が中学生だった頃、心臓の仕組みを理解させるのに「左心室」「左心房」「右心室」「右心房」といった用語が出てきた。

 当時の理科の先生はなかなか都会的で、「試験で点が取れるような教え方」というものを心得ていた人であった。従って、心臓はこのように描けるようにしろ、と教えてもらった。

 すなわち、数学の「単位円」を書くように、小さな円と、それを仕切る十字型の直線を描く。これが心臓になる。次に、「体循環」「肺循環」を円の外に描く。その後、消しゴムを使って動脈、静脈の入り口を作り、左心系と右心系の対応を間違えないように大血管と弁を書き加え、一応の完成をみる。

 ほとんど中学校の理科(高校入試の問題を解くための理科)は、この図で間に合ってしまうのだった。本当にあのころはなんていい先生だろうと思っていた。


 さて、大学に入ってから解剖学の時間最初に習ったことの一つに「左心室は決して『左』に無いし、『右』にあるからといって必ずしも右心室とは限らない」ということがある。

 たとえば、ブラックジャックにも出てきた「内臓全転位症」という病気があるが、「左にあるのが左心室」と定義してしまうと、ずいぶん変な話になってしまう。いくつかの心臓の病気を考える上では、「どちらが左心系か?」ということを決めるのはとても大事なことだが、専門家は主にこれを「弁の位置」を基準にして考えている。

 ちなみに、権威ある解剖学書の一つであり、オンラインで公開されているGray's Anatomyでは心臓はこう描かれている。少なくとも円と十字で書ききれるような、単純な位置関係でないことはおわかりになると思う。(たぶん今回の件に文句をつけるような親御さんは、きわめて写実的な上のような絵を見せても「グロいもの子供に教えるな」と激怒されるのだろう。)


 しかし、現行の教育課程ではたとえ高等学校に進んだとしても「生物を採らない」で卒業することは可能になっているし、医療系・生理系の学部に進まなかった大学生はことによると「円と十字」の心臓を心に描いたまま大人になっているのかもしれない。

 もちろんそれでも立派な大人になれることを否定はしないが、「せめて血球ぐらい見せてやれよ」と思うのも事実である。


 私は大学の系統解剖の時、教官が皮神経を剖出して見せてくれたとき、「これが神経だ」といわれて現物を見せられても「いや、こんなあからさまなものが神経のわけないだろう」と本気で思っていた。

 それまで座学で習った「神経」といえば、なにやら黒板の上に、一本だけ足を長く伸ばしたクラゲのような図で描かれたものであったし、二本の平行線の間にプラス記号とマイナス記号がたくさん書かれたものでもあった。それだけ「神経」に対して、ある種神秘的なイメージを抱いていたのだった。

 実際目の前にある黄色い繊維質の一件を見せられたとき、それが今まで教科書で習ってきた「神経」であることを、知識として受け入れはした。だが、神経が目に見えるものであり、場合によっては縫合することもできるものだ、ということを心の底から納得するには、相当長い期間を要したのである。実を言うと系統解剖終わってからだったような気がする。


 「実物を見る」という機会は大切にしなくてはいけない。今だからこそ、そう言える。



 また、いくつかのblogで、「先生は感染に対する配慮が足りなかった」という意見がみられたが、これに対しても少し述べておきたい。

 まず、「消毒」と「滅菌」の違いについて確認しておきたい。「消毒」とは、病原性のある微生物を取り除く操作のことであり、「滅菌」とは病原性のあるなしを問わずすべての微生物を殺す操作のことを指す。皮膚などは「消毒」できるが、「滅菌」するのは不可能だ。

 医療従事者が採血するときには、必ずガスなりガンマ線なりで「滅菌」された注射器・注射針を用いるのが常識である。それは、感染を起こさないことはもちろんだが、採取した検体内に余計な微生物が混入していれば検査結果を狂わせることになるからでもある。

 記事では「熱消毒した針と消毒液」を用いた、と書いてある。器具をガスバーナーの炎の中にくぐらせる、というやり方は、「火炎滅菌」と呼ばれ、注意深く行えばこれはかなり信頼性の高い「滅菌」法の一つである。従って、記事にある「熱消毒」は我々がふつう目にする用語ではないが、この先生が大学で培養法や無菌操作を学んでいた方であれば、針からの感染はほぼ心配しないでいいレベルであったことが推測される。

 しかし、針でつついた程度の傷から重大な感染症が起こる、ということはほとんど心配しないでいいようにも思える。もちろん、生まれつきASDやVSDといった心疾患を抱えている子供については配慮する必要があるだろう。しかし、ふつう針で刺した後は絆創膏くらい巻くだろうから、たとえば破傷風だとか、あるいは菌血症になって死ぬだとかいうことは考えなくていいレベルの話だ。そんなのあればたぶんLancetぐらい載るぞ。

 この場合問題となるとすれば、むしろ採血手技を行った後の針の行方である。原則的に「血は汚いものと仮定せよ」というのは、さっきまで述べたこととは逆説的だが、医療の常識である。(これについて詳しく説明するとさらに長くなるので割愛する)。従って、針はすべて「感染性廃棄物」として処分すべきなのだが、中学校や高校の理科教育でその予算があるのだろうか。

 また、「他の人が使った針は絶対にさわらない」ことも生徒に徹底させる必要があるだろう。気にするとすればそんなところだ。

Wednesday, November 03, 2004

この船に何人乗せるのか

 あまりに長いので、項を分けたが『移民政策』からの続きである。

 「トリビアの泉」では「2003年のデータで計算すると 西暦3000年に27人になる」と言っていた。まさか27人まで減ることは有り得ないとしても、我々の日本国は、たとえば2100年までにはどれくらいの人口であるべきなのだろうか。

 その国家戦略というものが見えてこないのである。果たして、人口減少を受け入れるのか否か、それさえも見えてこない。Jリーグでさえ百年先を見ているのに。

 人口減少を受け入れるか否かで、たとえば具体的に次のような目標が立てられるだろう。(数値は適当だが)

[その1]日本国は,2100年までに人口8,000万人を目指す。
[その2]日本国は、2100年も人口12,000万人を維持する。

さらに、[その2]に対して、次のようなオプションが考えられる。
  [その2A]日本人8,000万人と、移民4,000万人の多民族国家を目指す。
  [その2B]純粋に日本人だけで12,000万人の単民族国家を維持する。

[その1]を選択した場合、人口減による国力の低下は否定しようがない。日本はもはや世界のリーダー、いやアジアのリーダーたる立場を目指さない。それは韓国か中国か、ともかく最近とみに伸長しつつある新興国家へ譲り渡し、ひたすら「老人の、老人による、老人のための福祉国家」を目指して邁進する。「ノーベル賞受賞者を100人出す」などといった幻想は諦めて、たとえば高度先進医療に投入していた資源はすべて地域医療に回すことにする。

 だが、おそらくこういう政策は、大多数の国民自体が望まない。某政党が公約に掲げているような政策であり、そこがたいした得票を得ていない事実が、如実に示していることである。


[その2A]を選択した場合。海外からの労働力輸入を積極的に推進する。フランスやアメリカのような多民族国家を理想におくのである。将来的には、青い目で金髪の人物が日本国総理大臣の座に着くことも考えられる。

 だがもし、日本が多民族国家へと変遷を遂げた場合、ある日本民族の一家系にすぎない「天皇家」が、果たして日本国の象徴たることが許されるであろうか?すなわち、多民族国家への移行の過程で、必ず憲法改正と共和制への移行を議論しなければなるまい。現在はまだ「事実上の単一民族国家」と自称することが可能であり、天皇を「最大のタブー」とすることが可能な時代であるが。


[その2B]の選択は、多くの国民が無意識に「そうであればいい」と望んでいることではあるが、実現が非常に困難な選択枝である。現況の出生率は1.39程度であり、長期的な人口減少は避けられないと言われている。

「日本の出生率低下の要因分析:実証研究のサーベイと政策的含意の検討」 伊達雄高 清水谷諭[内閣府経済社会総合研究所]
 次に、出生率低下の諸要因の中で、女性の就業と賃金上昇による機会費用の増大については、数多くの実証分析が蓄積されており、ほとんどの分析で、子供をもつ機会費用の増大が出生率を押し下げる方向に作用することが明らかになっている。こうした就業と育児・出産の二者択一が出生率を押し下げていること、さらに、女性の高学歴化などを踏まえ、就業と育児・出産のトレードオフが人的資本蓄積にマイナスの効果を与えることを踏まえれば、女性の就業と育児・出産の両立を可能にする政策が不可欠である。



 私は、出生率を上昇に転じさせるためには、今まで考えられてきた「家庭は子育ての基盤である」という考え方を捨てねばならないのではないか、と考えている。つまり、「産む人」と「育てる人」の分離を考えるべき時にきているのではないか、と思うのだ。

 子供は6歳に達した時点で原則全員、全寮制の公立小学校へ入学させる。両親に会うことができるのは、夏休みや冬休みといった長期休暇の時だけである。従って、子供の生育・教育に関しては、教諭が大きな権限と責任を担うことになる。その代わり、産んだ親の方はほぼ1年に10ヶ月の間、自らの業務に専念できることになる。

 希望する両親に対しては、ゼロ歳児から公的育児サービスを受けられることにする。少々きつい言い方をすれば「産み捨て」を可能にするわけだ。


 とんでもないことを言う、とお思いだろう。私も、とんでもないことを書いていると思う。

 しかし、現実としてこういう方向へ進むのではないか、という根拠がいくつかある。

 まず第一に、高齢社会の実現とともに、「年寄りは家庭で面倒をみる」という概念は崩壊した。デイサービスや訪問介護というシステムができて、「それはあくまでもお年寄りが家庭で暮らせるよう支援するシステムなのです」と言われる人がいるかもしれない。しかし、「老人介護の問題は、個人や家族でカバーしきれる問題じゃないんだ」というコンセンサスが得られるようになってきたこと、これが大きい。

 つまり、「子供の養育」も、個人・家庭の単位から「社会として担うべきシステム」にシフトしても、そうおかしくはないだろう、ということである。

 もう一つの問題は、家庭そのものが子供の育成に対する力を失いつつある、と言うことである。きょうだいの数も少なく、核家族化が進んだ現在、子育ての経験は蓄積されず、「子供とどう接していいかわからない」という親が増えている。また、虐待によって失われる命も多いのである。いっそのこと、子育てはすべて「その道のプロ」に任せることにした方がいいのではないだろうか?

 最新作は見事にコケたようだが、「ハリー・ポッター」シリーズがベストセラーになったのも、実はこの要素があるのではないか、と考えている。ハリーの親は彼が幼い頃に亡くなり、以後叔父の家に引き取られて育てられるが、虐待同然の仕打ちにあう日々。そんなある日、魔法学校からの入学許可証が届く。魔法学校でハリーは親密な友情と、厳しくも暖かい教師たちに囲まれて、一人前の魔法使いへと成長していく・・・というストーリーには、「失敗した家庭」と「(集団)教育への期待」というテーマが隠れている。



 いずれにせよ、私などのあずかり知らぬところでどうやら[その2A]へ向けて、動き出しているようである。

移民政策

フィリピンからの看護師、介護士受け入れへ FTA交渉[asahi.com]
 看護師や介護士の受け入れに関する日本側の案は(1)日本語の習得と日本の国家資格の取得を条件とする(2)特定活動ビザで3~4年、日本に滞在できる(3)国家資格取得後は就労目的ビザで長期在留できる、というもの。日本政府関係者によると、フィリピン側は、日本案を了解した、という。また、受け入れ人数とともに、現地での日本語の学習期間や費用負担などは今後の検討課題となる。

2004年10月29日付の記事である。

 フィリピンは看護師や介護士の「輸出」にかけては実績のある国であり、スウェーデンなど北欧の国々が高い福祉政策を維持できているのも、実は安価なこれらの労働力を利用できているからだ、という説がある。

 そういった意味で、私はフィリピン人看護師の「質」に関しては、想像よりも高いのではないか、と考えている。だが、看護職という一種の聖域ながらも、日本政府が「労働力」を目的とした移民政策を決定したことの意味は大きい。

 相当数の看護師が国内に長期在留することを認めれば、その多くは日本で家庭を築き、永住を望むようになるのは明らかなであり、実質的な移民受け入れと考えられるからである。

本来、こういったことは100年単位での国家ビジョンがなければやるべきでない、と思うのであり、彼/彼女らの職務内容よりも、むしろそのことについての疑念が残るのである。

Sunday, October 31, 2004

五十歩百歩

情報乱れ政府迷走、「米軍頼み」に限界 イラク人質事件[asahi.com]

混乱の原因は「最初に現場にいた米軍の関係者の情報が不正確だったため」(町村外相)というが、イラクの治安が悪化する中で、事件への対応を米軍に依存せざるをえない日本政府の限界があらわになった。

 この記事を書いた記者は、「米軍」を「日本政府」に、「日本政府」を「朝日新聞」にそれぞれ置換しても、全く同じ構図が成り立つということに気がついているのだろうか。

 大本営発表をそのまま紙面に載せてしまう、というのは戦前さんざん犯してきた誤りであって、その歴史を繰り返すな、というのが戦後報道の原点だったはずだが、どうも最近一回転して元に戻ってきている気がする。

 本来国民の目となって働いてくれるべき大手マスコミの取材能力は、こんなとき全く役に立っていない。

Saturday, October 30, 2004

修理完了

 頭にきたのでシステムボードごと交換して、メインマシン復活。神様、私のAthronを焼かないでいてくれたことに感謝いたします。

 ビデオカードは1,750円の一件のままだが、ここはKISS(*)の格言に従ってそのままにしておく。別にこの期に及んでAmerica's Armyとか3Dゲームをガンガンやるわけじゃないのだ。

 ついでにいままで「ケースファン」というものをつけていなかったことに気づいたので、1,100円程度の一件を購入してネジ込む。

 なぜかGIGABYTEのマザーボードを買うと、おまけでNorton Internet Securityがついてくるのだが、今までの経験上インストールするとものすごい悪運に見舞われることになる気がするので、無視してAVGを用心棒に雇う。

 何はともあれ、これでメインマシンは完全に復調した。これでリンクとぶ度に5秒かかる生活から脱出できる。

 (*)Keep it simple,stupid!

いま、「民間防衛」を読む

 地震やテロといった大災害が起こると、必ず売れる本にスイス政府編「民間防衛」がある。スイスでは一家庭につき一冊ずつ無償配布されている本だが、日本で同じことをやったらおそらく大騒ぎになるだろう。というのは、邦訳版の表題に「あらゆる危険から身を守る」とあるものの、その中身をよく読むと、実は「あらゆる危険からを守る」であって、スイスほどの軍事国家(国民皆兵制度は有名で、すぐに動員できるよう成人男子の家には必ず自動小銃と実弾が備えてある)でも、危急の場合には国が必ずしも個人を守りきれないこともあるのだ、ということがよく分かるからである。

 「民間防衛」はもともと、永世中立というスイスの理想を実現するため、他国による侵略戦争から生き延びることを念頭に置いている。私が凄いと思うのは、「戦争に入る前のことも当然ながら、戦争に●●●場合のことも書いてある」ということだ。「●●●」には何が入るかは、あとで書く。しばし考えてみてほしい。


 さて、「民間防衛」は非常事態に対し、日頃からどういった蓄えをしておくべきか、という点については実に優れた教科書である。家族一人あたりに対し、水は何リットル、小麦粉はこれだけ、米はこれだけ、食用脂肪はこれだけのものを、こういった場所に蓄えておきなさい、ということについて、実に懇切丁寧に書いてある。その意味では、大地震のような状況に備える日本人にも、大いに参考になるだろう。


 だが、この本には特に目を引く項目が2つある。

 一つ目は「スイスが侵略を受ける場合」について書かれたページである。「民間防衛」では、これについて次の二つを想定している。

 すなわち、「敵は我が領内を(進撃路として)通過しようとしている」か「敵は我が領土を併合しようとしている」かのいずれかであり、前者に対しては「敵はその道が時間を要すると知れば、他のルートを考えるだろう」後者に対しては、「敵はその試みが非常に高くつくと知れば、あきらめざるを得ないだろう」と説いている。現代戦において、あまりに長期化する戦争は国内世論、国際世論の双方から支持されないことを計算に入れているのだ。

 日本が戦争に巻き込まれることはないだろう、と考えている方々は、果たして日本が「通過」「併合」のいずれを採っても価値のない土地だと考えておられるのだろうか。「不沈空母」として、ある意味、すでに「併合」されているというのは過言だろうか。


 もう一つは、「怒りを抑えて時を待とう」というページである。これは、敵国の占領下において、相手国の兵士に対する組織化されない攻撃は、犯罪として厳しく(敵国の司直によって)処罰されうる、ということについて述べている。

 そうである。「民間防衛」は、「戦争に負けた」場合についても書いてあるのだ。もちろん、単に敗北主義に走るのではない。

 不幸にしてスイスの首都が陥落しても、脱出に成功した一部の指導者たちが友好国で「亡命政府」を組織すること、国民は表面上相手国の占領政策に同調し、受け入れるがごとく振る舞うべきこと、国外からの援助のもと、密かにスイス政府を復興すべくゲリラ戦が展開されること、そしてその過程で多くの国民に犠牲が生じうることについてまで、言及されているのである。


 私はこの章を読んだとき、心底スイスという国が恐ろしくなった。そして、スイスに戦争を仕掛けようなどと考える指導者は、とんでもない愚か者だ、という感想を持った。おそらく本書を読んだ読者も似たような感想を持つことだろう。ということは、政府による「民間防衛」の出版という事業は、抑止力として立派に国防の一翼を担っているのである。


 翻ってイラクに目を向けてみよう。米軍がバグダッドを占領し、外交権・警察権を掌握し、一見戦争は終わっているかのように見える。しかし、本当はそこからが新たな戦争の「始まり」だったかも知れないのだ。我々のいうテロリストたちは「民間防衛」の手順を忠実に実行しているのかも知れない。それを知る意味でも「民間防衛」は一度読んでおく価値のある本である。

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 果たして、我々の国家においても「主権回復」は水面下で進められているのだろうか。

Friday, October 29, 2004

続・地震のショックで死亡

 25日に書いた件だが、実際治療に当たられた先生がテレビに出演していた。

 車中泊により、いわゆる「エコノミークラス症候群」を発症される方が多く見られるとのこと。また、「地震によって驚いたことによるショック死」というよりも、むしろ避難生活による疲労の結果、基礎疾患を抱えているお年寄りの中に脳血管系、循環器系の急性症状でお亡くなりになる方が出た、ということらしい。

 とくに、現在も相当数の方々が車中泊をされているわけで、ヒーターを焚きながら(空気が乾燥して水分を奪われる)、座って睡眠を取るという生活は非常に「エコノミークラス症候群」を誘発しやすいらしい。

 私は「災害医療」に対して、発生直後24時間、48時間をいかに乗り切るかが勝負なんだろう、と勝手に想像していたが、どうも勘違いをしていたようだ。地震のように大きな災害は、ある意味緩慢なやり方で人を死に追いやることがあることを学んだ。だが、それは医療の力だけで防ぎきることの出来る問題ではないだろう、とも感じる。

修理状況

 未だメインマシンが直らない。

 とりあえず電源がイカれているのは分かったので、玄人志向の400W電源を買い。これで何とか電源投入は可能になった。だが、今度は起動の途中、ログイン画面表示のところで画面表示が乱れてしまい、使用不能になってしまう。

 何回かBIOSの設定をいじりいじり試してみたが、やはり途中で固まる。しかも、デスクトップのアイコンが滅茶苦茶だ。なぜかワードのアイコンがゴミ箱マークになっていたりする。そのアイコンを削除すると、今度は別のアイコンがゴミ箱になっている、という具合だ。こりゃいかん。

 Windows XPを再インスト-ルしてみるが、やはり起動の過程でビデオカードの認識がうまくいかず、画面が乱れて止まってしまう。

 以前にも似たような症状があり、その時は思い切ってビデオカードを交換してうまくいった経験がある。とりあえず、格安のビデオカードを探して見る価値はあるはずだ。

 そこで今日は近くの「じゃんぱら」へ行き、nVIDIA(だと思う)のAGPビデオメモリ16MBの中古カードを\1,800足らずで購入。ちょっと風邪を引いて診療所にかかってもこの程度はかかるご時世。診断料と考えれば、まあ看過し得る出費ではある。部屋に帰って、今まで刺さっていた玄人志向のRadeon7000と交換してみる。

 すると、今度はログインののちデスクトップの表示まではスムーズに行った。だが、IEを起動させ、Yahoo!を表示させていたたところ、いきなりHDDのアクセスランプがつきっぱなしになり、フリーズしてしまった。仕方なく電源を落としたが、今度はBIOSメニュー表示後HDDが認識されなくなってしまった。

 いい加減e-Machinesから一つ買った方が安いんじゃないか、という気がし始めたが、せっかく私が命を吹き込んだマシンなので、むざむざと捨ててしまうには気が引ける。

 せめてAthronが熱で焼けてないと良いのだが・・・。これからの時間は一層貴重になるだけに、明日はSocket A対応のマザーボードを探しに行くべきかどうか考えている。

【鑑別診断】
マザーボード(特にAGPスロット周り)の破損/CPU(Athron XP)の焼損/物理メモリの寿命/電源を急に落としたことによるHDDの破損/実はケースのスイッチ周りがおかしい/呪われている

Monday, October 25, 2004

地震のショックで死亡

 今回の新潟県中越地震において、複数のお年寄りが「地震のショックで死亡した」と伝えられている。医学用語の「ショック」(血圧低下)と、堅気の衆が使う「ショック」(精神的衝撃)では意味が異なるのはよく知られていることだ。

 おそらく、「地震のショック」とは後者、つまり精神的衝撃のことを言っているのだろうが、私が不勉強なせいであろうか、「人が精神的ショックで死ぬ」ことをうまく説明できない。似たような医学用語に「神経原性ショック」というのがあるが、これとはちょっと違うだろう。昔はプロレスラー(かみつきブラッシー)の流血シーンでテレビの前のお年寄りが数人亡くなったと言うが、それは「ユリ・ゲラーの超能力で壊れた時計が動いた」というのと、似たような仕掛けがあるのではないかと思っている。

 完全な推察であるが、地震前後に起こった「不詳の死」の多くが、「地震によるショック死」として処理されているのではあるまいか。

 つまり、平時でも、こたつに当たってお茶飲んでテレビ見てるおばあちゃんが突然胸を押さえてうずくまってしまい、そのまま救急車で運ばれる、ということはある程度の確率で起こり得ることだ。いつもならば、そのまま病院なり救急センターに運ばれて、徹底した検査を実施して、ICUに収容して、大動脈解離なり心筋梗塞なり、何らかの病名をつけられることになる。不幸にして亡くなった場合も、遺族から了解が得られれば病理解剖に付して、病理診断までつけることが出来る。

 しかし、地震というのは、一時に多数の負傷者が発生するという特殊状況下である。このせいで救急医療機関が飽和されたがために、あるいは平常時であれば治療を受けられた可能性のある方々が、不幸にも満足な治療を受けられずに亡くなってしまった、ということである。

 もちろん、「満足な治療」を受けられればそれらの方々を救命し得たのかどうかは分からない。どんなに救急システムを改良したところで、絶対的にマンパワーの不足する大規模災害においては、こういった死が生じることはやむを得ないのかも知れない。

 自動車同士が衝突して、重傷者が4人いる、と言う場合のトリアージと、地震が起きて外来に300人の外傷患者が押しかけている、と言うときのトリアージは違ってくる、ということも聞いたことがある。前者の場合は、設備が整った施設という前提で「4人全員の救命」を目標とすべきだが、後者の場合は全員救命することが不可能だ。

 私はその現場にいるわけではない。いま被災地で活動しておられる先生方のご苦労を推測することしかできない。地震によって住み慣れた場所を離れなければならないストレスや、急激な気温の変化など外部環境の変化も、死の遠因にはなっているといえるだろう。

 遺族を含めて、みんなが納得するためには、「おばあちゃんは地震のショックで亡くなったんだよ」という言い方がこの場合最も良いのかも知れないが、医科の学生としてはちょっとした割り切れなさを感じるのも事実である。

チャカ傷の話

駐在所の巡査長の拳銃暴発、子どもけが 愛媛[asahi.com]

 同署の調べでは、拳銃は、ベルト付きの拳銃ケースに入れた状態で、駐在所事務室の隣の居間の押し入れに置いてあったという。長男がケースを押し入れから取り出し、拳銃を抜いて触っていたところ暴発し、ふすまで隔てられた廊下にいた次男にあたったらしい。同署は「拳銃には複数の実弾が込められていた」と説明した。


 この記事を読む限りでは、巡査長の拳銃保管の方法がまずかった、としか言いようがない。だが、10歳と言えばちょうど悪戯したい盛りの年頃である。かくいう私も、このころマッチ遊びを母親に見つかって壁まで張り飛ばされたことがある。

 しかし、駐在さん、と言えば家族ぐるみで、その村の治安を守るただ一人の警察官、と言うイメージがある。津山30人殺しのような事態が起こったとき、駐在さんがすぐにアクションをとれないことはとてもまずいわけで、寝るときは鍵をかけて保管庫へ、というのは規則として正しいかも知れないが、少々不安の残ることである。

 おそらくこの駐在さんには厳しい処分が下ることであろうし、場合によっては職を失うことになるかも知れない。その場合、長男は「弟を撃ってしまった」という悔恨を背負って一生を送らなければならないし、そのせいで家族を路頭に迷わせた、と言う責め苦をも負うだろう。この家族に降りかかる運命を考えると、どうしても暗くなってしまわざるを得ない。

 たった一つの明るい要素は、次男が肺を撃たれたにもかかわらず死亡していないことである。ふすまを一枚貫通してから次男に当たった、とのことであるから、ちょっと考えると、ああ、そのせいで弾の勢いが弱まっていたから助かったんだな、と思うところだ。だが、実はこういう弾丸こそ体内で停止してしまう可能性があるため、運動エネルギーが生体組織に全部伝わってしまい、致死的になりやすい。(今回は結局貫通銃創になったようだ。この点に関してはもう一つ書きたいことがあるが、本筋を離れるのでやめておく。)
 
 岩田健太郎先生の「悪魔の味方」によると、近年アメリカでは、殺人事件が減少の傾向にあるそうだ。その背景にあるのは、治安や警察力ではなく、むしろ「救急医療体制の向上」であるという。所詮「医者の書いた本だからそうなんでしょ」と言ってしまえばそれまでなのだが、医者の技量によって、一人の人間のしでかしたことが「傷害」なのか「傷害致死」なのか、変わってしまうということである。

 そう考えてみると、医者が関わるのは単に「目の前の患者」の人生だけでは無い、ということだ。それは、大学病院の医者であろうと村の診療所の医者であろうと、それぞれについて言えることなのである。

 延びすぎたので、今日はここまで。

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 医学部で「君、毎月読んでいる雑誌とかあるの?」と聞かれ、「月刊GUN」ですと答えると、なぜか「Cancer Researchかね、君よく勉強してるね」と感心される。



 んなわけねーだろ。

Friday, October 22, 2004

メインマシン故障

 ここのところほぼ24時間稼働に近い状態で酷使していたのが響いたのか、メインマシンが故障してしまった。

 普通にFirefoxを用いてwebを巡回していたのだが、突然シャットダウンが開始され、電源が自動的に落ちてからは起動できなくなった。電源スイッチを押しても反応がない。

 本日の午前中に再雇用したノートン先生を用いて、完全スキャンを実施していたところだったので、ウイルスによる物とは考えにくい。それに、ウイルスのせいならばBIOSが立ち上がらないのはおかしい。

 となると熱暴走など、ハードウェアトラブルを疑いたいところだが、しばらく待って、CPUを冷やしてみても立ち上がってこない。まったく電源スイッチに無反応である。

 キーボードやモニタケーブルなど、スパゲッティのように絡んだコード類をとっぱらい、とりあえずケースを開けて中身をのぞいては見たものの、別に煙を噴いているところはない。CPUの冷却ファンや放熱フィンまで外してみたが、とりあえず焦げてはいなかった。

 となると次に考えたいのは、マザーボードのBIOSがとんだか、電源の寿命が来たかであるが、とりあえず試験が終わってから修理に入る。マザーボードのマニュアルはすでにメーカーからダウンロードしたが、どうせ各部品の保証期間などとうの昔に切れてしまっている。

 ことによると来年春までこのサブマシン(Libretto L1)で乗り切ることになるかも知れない。また、マッチングの結果によっては、住宅事情から考えて、就職先にこのマシンを持ち込めない可能性がある。更には、部品を求めてかけずり回る労力を考えれば、しばらくお金を貯めてからDELLの直販でも買った方がいいということになるかも知れない。


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 こういうときは、たとえ牛のように遅くとも、少なくともWindows PCであるLibrettoの存在が無性にいとおしく感じる。「どこでも使えるコンピュータこそ、最強のマシン」

カストロ議長も_| ̄|○

 いやあ、何だか世界的に_| ̄|○が流行しているようで、元気が出てきました。個人的には昨日、模試云々よりも相当_| ̄|○な出来事があったのだが、それを吹き飛ばすぐらいのインパクトが。

 ご丁寧にasahi.comは連続写真付きだ。

 この際だから、カストロ議長も野球界再編に協力して欲しいものだ。

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 韓信匍匐【意味:大物になる奴は_| ̄|○が上手い。】

Wednesday, October 20, 2004

_| ̄|○

模試の結果が返ってきた。

<一般問題・臨床問題>
既出問題の学習が一般、臨床とも不十分です。
再度既出問題を徹底的に勉強してください。

成績の推移
第一回 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
第二回 ▲▲▲▲▲▲▲


_| ̄|○。。。

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 「模試を受ける」のも、「病院にかかる」のも、金を払って悪いニュースを聞くという点については共通する部分がある。しかし、だからといっていい大人がそこから目を逸らしてはいかんのだ。
 たぶん。

Tuesday, October 19, 2004

blogとはウンコである

 - 副題 page viewを減らしてみよう -

 私は文章を書いて飯を食っているわけではない。つまり、ここにくだらないことを書いているのは、完全に私の趣味であり、誰かに強制されて「一日一編ずつ書け」といわれているわけでもない。

 当然、書くことがたくさんある日もあれば、何も書かない日もある。書きたいことがないのに、無理矢理ひねり出して書くことはない。しかしながら、しばらく書かないでいると、書きたいことは溜まってきてしまう。頭の中がそれでいっぱいになって、書かないわけにはいかない、ということになってしまうことがある。今、書いているのがまさしくそういうことだ。

 ふと気付いた。

 これはウンコそのものではないかと。

 日によって柔らかい日もあれば、固いときもある。一日に何回も出て、どうにかなってしまうのではないかと思う時があるかと思えば、具合が悪くて何も出ないことがある。朝一番に出るときもあれば、夕方ふとしたときに出したくなることもある。旅先で、バスの中で、路上で、山の中で、トンネルで、本屋の中で、食事時に、どうにもこうにも出したいことがあって、急に紙が欲しくなることがある。

 そうだ。まさしく、blogとは精神のウンコそのものなのだ。

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 何だか最近、眼鏡をかけた白髪のロシア人に、いつも追視されているような気がして、その人の考えが頭に流入してきているような気がする。いかん、こんな事では北海道「本土」の盾になれないぞ。

トラックバック考。

 最近、やっと「トラックバック」とは何者なのか、わかってきた。ここに整理しておく。

 通常、ある人物の著作を引用するときは、いったい誰の文章を引用したのか、明らかにしておく必要がある。「引用」とは、他人の文章の一部分を切り取ったものである以上、私の文章力不足によって引用元が不当な評価を受けることがあってはいけないからである。

 私が書いた文章は、当然第三者が読む事を想定しているから、その読み手が引用元を容易に参照できるようにしておくのがよい。つまり、原文に対してリンクを張ることである。しかし、この「リンクを張る」行為は、直接トラックバックとは関係がない概念である。従って、このリンクは手動で張らなければならない。


 さて、誰かの文章を引用する場合、第一義的にはその引用元に連絡を取る必要はない。それは、インターネットにおける「リンク」の概念による。通常、自分が著作したサイト内容ではないことが明らかにわかる場合、たとえ「リンクフリー」の標記が無くとも、リンクを張ることは、マナー違反ではない。

 しかしながら、引用に際して、引用元に連絡を取りたい場合がある。それは、多分に個人的な文章を公開するblogというものの性質を鑑みるに、個人対個人のコミュニケーションがとても大事になってくるからである。

 引用元への連絡手段は、それこそメールでも、電話でも、硯と墨を用いても良いのだ。しかし、トラックバックというツールを使うことで、相手先へ「引用したことの通知」と「相手も引用を用いて構築した自分の文章(の概要)」を明示することが出来る。しかも、それは相手の文章を読んでいる第三者にも参照可能である、ということが画期的なのだ。


 銘記すべきなのは、「トラックバックを発砲する」行為は、自身がblogを所有していなくても可能だ、ということである。Moveble Typeや、多くのblogサービスでは、ユーザにトラックバックツールを提供しているため、あたかもWWW上にblogを所有していないとトラックバックは発砲出来ないように思っておられる方も多いと思うが、それは誤りである。

 blogを持っていなくとも、「blogぴんぴん」(Win版(要会員登録)/Mac版)や、このようなスクリプトを用いることで、ローカルから一方的なトラックバックの発信が実現できてしまう。これを悪用すれば、いわゆるトラックバックスパムになる。そうでなくとも、相手の文章と自分の文章が全く関連しない場合にトラックバックを発砲するのは、本来の使い方ではないといえる。


 従って、私はトラックバックを発砲する際に以下のようなことを心得ている。

★相手の文章を引用するか、少なくとも相手の記事を読んでいることが前提条件となって自分の文章が成立する場合にのみ、トラックバックする。
★トラックバックを発砲する際には、相手の記事へ手動でリンクを張る。
★トラックバックは「発砲する」ものである。一度撃ったら取り消せない。
★相手がトラックバックに対応していないサイトの場合、メールを送信するなど、他の代替手段によって引用の事実を知らせる。
★出来る限りローカルツールを使用する。(haloscanからトラックバックすると、日本語サイトではほぼ確実に文字化けが起こるため、個人的な理由。)

 もちろん、トラックバックに対する考え方はまだ個人個人によって異なる部分がある。上記の項目を、私も「必ず」実行しているとは限らない。あくまでもメモである。

枯れた

 6月頃書いたパキラの取り木だが、標記のような結果になった。

 「ルートン」を使ってみたが、結局幹周囲の皮をむいた部分からの発根が得られず、思い切って7月頃切り戻しをかねて幹から上の部分を切断、挿し木を試みてみたが、根が着かなかった。

 「切り戻し」とは、背が高くなりすぎた植物の幹を途中で切り、脇芽を伸ばす操作のことを言うが、今に至るも脇芽が出てこない。ひょっとすると、「殺ってしまった」かも知れない。唯一の希望は、未だに幹が緑色を保っていることであるが、北海道の夏ということを考えると、切り戻す時期が少々遅かったのかも知れない。

 本当はこういうときに農学の専門家が近くにいると良いのだが、・・・。長くなるのでここには書かない。

 結局ホーマックに行って、若い苗を二つ買ってきた。取り木を試みたときに使った出費よりも、苗二本の方が安かった。

 植物とはいえ、本来こんな風に命を粗末にするのはあまり褒められた行為ではないのだが、・・・。長くなるのでここには書かない。

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 今日はずいぶん内輪ネタだった。

Saturday, October 16, 2004

汚れた川に鮭は帰らない

地域の医師不足解消へ入試で「地元枠」増 文科省支援へ
 ただ、地元枠を設けても確実に残ってもらえる保証はない。岩手医大は私立だが、地元枠合格者は卒業までの学費のうち、国立大学の入学金と授業料に相当する額を負担すればいいことにし、差額の1人当たり約4000万円は県が負担している。その代わり、卒業後には県内の公立病院での勤務を義務付けている。県外に出れば、負担金を返還してもらう約束だ。


 一般に、入試における地元枠を増やすことは、地域に出向する医師数の確保につながるかのように思われている。が、果たしてそうだろうか。

 「地元枠」の導入は、大学側の積極的な意図と言うよりも、むしろ地方の医師不足に対して、「大学が医師を送ってくれない」という批判をかわすために導入が決まっているようなものではないか、と思う。

 「オレに逆らうなら北海道で医者が出来ないようにしてやる!」という教授の一言が通用したのは遙か昔の話である。そういう強権的な教授がいた頃はまだ「地方に飛ばす」という必殺技が出たのだが、いまはどこの教授も「本人がイヤだといっているものを、無理に地方に行かせるわけにはいかないよねえ」という具合だ。本人の意志にそぐわないのにに勤務に就かせ、問題を起こされる方が、組織にとってはよほどダメージが大きい。

 従って、「医局ではなく、大学全体としての窓口が地方への医師派遣を斡旋する」という話になってきた。「いや、これは大学の窓口が決めたことだから」という形にした方が、大義名分が立ちやすいと言うことだ。


 私自身、地方出身の医学生である。出身地のA市は、今や2万人を切るくらいに人口が減り、市立病院の産科婦人科、小児科外来は既に閉鎖されてしまった。眼科や耳鼻科といった診療科は、週に2回ほど大学から外来の医師が派遣されてくるだけである。慢性的な医師不足に悩まされているA市は、新臨床研修制度に伴い、破格の給与で新卒の医師を募集することにしている。

 本来ならば、私のような学生こそ、地元に戻って医者をすればいい、というのだろう。

 だが、私の初期研修希望病院リストに、地元のA市立病院は入っていない。正直、産科や小児科、精神科といった新制度では「必修」とされている科のローテートが、事実上そこでは研修できないことになる。十数キロ離れた、他の市の病院へ出向して研修を受けなくてはならないのだ。

 また、医師数が少ない、ということは、必然的に新卒の研修医に対する負担がかなりきつくなる、ということだ。おそらく一年目から一般外来を担当することになる。困ったことがあっても、相談できる上級医をすぐに見つけることが出来るだろうか?ちょっと前「マニュアル片手に手術をしていた」といって叩かれた先生方がおられたが、下手すると毎日マニュアル片手に診療する事があるかも知れない。

 私はA市が、今までどんなに無計画な財政を行い、若者に対しどんな仕打ちをしてきたか、よく知っている。その時点で既に大減点なのだが、全く長期ビジョンを考えずに、「カネさえ出せば何とかなるだろう」式の発想がミエミエで、私は戻る気にならないのだ。

 はっきり言って、A市で研修を行った研修医のほとんどは、2年の期間終了後すぐに大学病院なり、他の病院に転勤することになるだろうと思う。そのための「資金作り」と割り切っている方が多いと思うのだ。

 だが、それは地域医療に於いて最も重要な要素の一つである、「継続性」という概念からは、大きくかけ離れている。


 6年生になった今としては、私も「思い切って地方に行ってみようか」という気がしている。だが、数年前までは、(医学部以外の)都会の大学を卒業して、都会の企業に就職する高校時代の同級生たちを見て、「なんで他人より多くの犠牲を払った俺が、必ず田舎へ行かにゃいかんのか」という羨望の気持ちがあった。

 すぐに偏差値云々を持ち出すのはヒンシュクを買うが、「同じだけの学力があれば、他の大学の理学部にも入れたはずだ。こんな足し算かけ算しか使わないようなイカサマ科学じゃなくて、もっとまともなサイエンスを学べたはずなのになあ」という葛藤を経て、今の私があることも事実である。

 一度大海に出た鮭たちは、どんな気持ちで川を上っていくのだろう。

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 数年前、(準)看護師の「お礼奉公」がずいぶんマスコミに叩かれた事がある。主に医師会立の准看護学校で、学校側から半ば強制的に支給された「奨学金」を盾に、卒業生が無理矢理系列病院で働かせる、という話だった。
 医学部「地方枠」の導入にしても、やっていることは同じだろう、と思うのは私の杞憂だろうか。

Friday, October 15, 2004

騙さないわけない

 「ちりんのblog」KU。

 「偏屈おやじの館blog」を読んではっとさせられた。

 いい大人が人を騙さないはずがないのである。

 大人の世界では、「騙す人間であるかどうか」じゃなくて、「騙されるだけの値がある人間かどうか」が大事なのだ。


 我々もこれから先、自分で選んだはずの研修先で「騙された!」なんて言う場面がたくさん出てくるはずで、下手するとそこが精神的ネックになってしまうのだろう。

 しかしながら、考えてみれば医学部に面接が導入されたとき、面接官のネタとしてよく聞かれるものに「あなたは地域医療に興味がおありですか?」というものがある。

 「いや、私は基礎研究の方に興味があるので、地方に飛ばすのは勘弁してください」なんて正直に答えるのは奇特な受験生で、少なくとも北海道内の医学部を受験する場合には「私は人と人とのふれあいが大好きなので、是非地域医療をやってみたいと思います」とか、適当に大ウソを抜かすのが正しい。

 近頃は受験生が全員面接を受ける事になっているので、ほぼ全員がこの大ウソをつかされるのである。面接官を務める教授の方も、学生が卒業後みんな僻地に行ってくれるなどとハナから期待してはいない。
 
 しかし、中にはとんでもなく誠実で、医師として非常に不適格な人物が紛れ込んでいるかも知れないから、そういうのが間違って合格してしまわないようにする目的がある。

 みんな人を騙して医者になっていくのである。少々のことで「騙された」とか言ってはいかんのだろう。

Monday, October 11, 2004

手塚先生済みません

 今日はもっと別のことを書こうかと思ったが、せっかくテレビ版「ブラックジャック」の初回を見たのでこうしてみる。

99B-21
 10歳の男児。小腸憩室手術後、静脈留置針を設置したが、搬送中他患のベッドと接触し、留置針が折れた。
 直ちに施行した上腕部X線撮影写真と、その30秒後の写真を示す。(別冊カラー写真5)
 その後上腕静脈結紮術、続いて緊急開胸術を実施したが、折れた針の先端は見つからなかった。
 1週間後、留置針が折れた部位と近傍の動脈より、折れた先端部が摘出された。
 直ちに行うべき検査はどれか。
 1,胸部HR-CT
 2.胸部単純X線撮影
 3.気管支血管造影
 4.心臓カテーテル検査
 5.Tc-99m肺血流シンチグラフィ

a.(1),(2) b.(2),(3) c.(3),(4) d.(4),(5) e.(1)(5)

この問題はフィクションです。答えがあるかどうかについても責任取りません。

 どう考えても「どこかにシャントが存在した」と考えるのが自然であって、「折れた針が肺まで行って、どこも傷つけずに出てきた」と考えるのは解剖学的に、ものすごく無理がある。手術場の大学の先生も、天下の名医ブラックジャックも一言もこのことに触れないのは・・・_| ̄|○。

 バックグラウンドに心房中隔欠損や動脈管開存や肺動静脈瘻があるかも知れないのに、そこを「生命の不思議」で終わらせてしまってはイカンだろう。

【堅気の方へ解説】
(シャント:普通血管はおおまかに、動脈→毛細血管→静脈とつながっているものだが、まれに動脈→静脈と直接つながっている事があり、これを「シャント」と呼ぶ。心臓や肺の近くの血管にこれが存在すると、「酸素たくさんの動脈血」と「酸素に乏しい静脈血」が混じり合ってしまうため、効果的な血液のガス交換が行われず、病気として扱われる)


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 医者には「科学的に正しいことをやるのなら、結果的に病気が治らないことがあってもやむを得ない」と考える人と、「病気が治るのならば、別に科学的に正しいかどうかは問題ではない」と考える人がいる。医者の間で評価が高いのはどちらかといえば前者であり、私もまあ「いい医者」というのは前者のような人を言うのだろう、と考えつつも後者へ傾いてしまうのを自覚している。

 しかし、ここはツッコまずにいられなかった。高校生の頃、同じエピソードを単行本で読んでいて、そのときは純粋に感動したのだが、年を取るというのは本当にイヤなものである。

Thursday, October 07, 2004

わからないことだらけだ

 昔、金曜ロードショーには3ヶ月に一本の割合で「刑事コロンボ」が登場したものだ。コロンボ警部はたいていこういう風に犯人を追いつめて行く。
 「実はね、現場とホトケさんをちょっと調べてみたんですが、それがわからないことだらけでして。」
 倒叙ものである「刑事コロンボ」では、犯人が殺人を「自然な死」に見せるように小細工したりするのだが、我らがコロンボ警部にはちゃんとそれが「わからないこと」に見えるのである。


 昔、ある基礎医学の教授から言われたことがある。

 「医学なんて、わからないことだらけなんだから、研究する価値があるし、面白いんだ。」


 確かに、わかっていることよりも、わからないことの方が圧倒的に多い。

 わからないことを明らかにしようと言うのも「医学」だが、わからないことはわからないなりに、今生きている人間を何とかしようと言うのも「医学」である。

 たとえば抗生物質であるエリスロマイシンが、細菌感染が本態ではないDPB(びまん性汎細気管支炎)になぜ効くのか、ということは長い間謎だったし、ASO(閉塞性動脈硬化症)は何でタバコを吸っている人に多く起こるのか、ということについても明確な説明は未だ与えられていない。

 しかし、DPBの患者にエリスロマイシンを投与すれば、長期予後は大きく改善するということ、そしてASO患者には禁煙させた方が予後が良い(最新のHarrison'sによると必ずしもそんなことはないらしいが国家試験的には「禁煙指導」だ)ということがわかっている。

 究極的に言えば、人間の体なんかまだまだブラックボックスで、いくら整然とした理論が与えられたところで、「ある治療」に対して本当に「ある反応」が起こるかどうかは、多数の「人柱」を使って確かめなければならない。

 「人柱」といえば人聞きが悪いので、上品な言葉でこれをEBMと呼んでいる。


 ちょっと前、利根川進先生がNHKの番組で「サイエンスに頭の良し悪しなんかあんまり関係ない。大事なのは『どういう問いを立てるか』だ」という事をおっしゃっていた。

 私は今まで、意図して人の考えない問いを立ててきたつもりだった。答えの出ない問題は、「考え続けるところに価値がある」が信条だった。

 今でも十分「わからないこと」だらけだ。

 しかし、最近ある考えにとらわれてもきている。それは、「賢い奴は、答えの出ない問いなんか、最初っから立てないのではないのか?」ということだ。答えが出る問題か、それともでない問題かをかぎ分ける嗅覚のある人間こそ、「賢い」のではないのか?

 だとしたら、私は相当「愚かな」人間であったことになる。

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 わからないことは、わからないなりに、「やってはいけないこと」に大きな×をつけ、「まあやってもいいこと」に△をつけ、「普通やっている」事に○をつけるのが国家試験である。

Tuesday, October 05, 2004

あそこは公共の場か、私的空間なのか

ススキノに監視カメラ構想[北海道新聞]

 ススキノは「経由点」としてよく行くのだが、こんなところにカメラが置いてあるとは知らなかった。ススキノよりちょっと手前には、資生館小学校という札幌で一番新しい小学校があるのだが、そのド真ん前に「この地域から暴力団事務所をなくそう」という立て看板があったりする、実にほほえましい場所である。

 ススキノはいわゆる「ロビンソン前」というメインストリートがあり、ここは比較的治安の良い場所として(近くにすすきの交番もある)よく待ち合わせの場所に使われている。しかし、同じストリート上で、昨年暴力団による傷害致死事件が起こっていたりするわけで、まあ一つのデンジャーゾーンであることには変わりない。


 今日ここで問題にするのは、「果たして繁華街の路上にプライバシーは存在するのか」ということである。

 たとえば、私は大通公園にたくさん監視カメラを設置しておこう、という意見があれば、文句なしに賛成する。公園というのは「公共の場」であり、そこで行われる行為についてプライバシーがどうのこうの、というのはナンセンスであるように思える。

 公共の場にカメラを設置することについて、立正大学 小宮信夫助教授「あなたにもできる銃犯罪防止活動」(PDF)から引用する。

(5ページ目)
 防犯カメラの話になりますと、必ずプライバシーの侵害になるのではないかと言う反論があります。しかし、イギリスは世界で最もプライバシーを尊重する国の一つです。プライバシーというのは、個人の私生活がみだりに他人の目にさらされない、と言うことです。そうすると公共の場所に防犯カメラを設置する場合には、そもそもプライバシーとは衝突しないとも考えられます。なぜならば、プライバシーが制限されるからこそ、その場所が公共の場所と呼ばれるからです。ですから、公共の場所におけるプライバシー、という問題の設定自体が矛盾しているわけです。プライバシーが制限されているからこそ、その場所は公共の場所なのです。また、イギリスの場合には、防犯カメラのほとんどは、地方自治体が管理しています。警察ではありません。


 つまり、小宮先生の意見は「公共の場でのプライバシーは制限されるが、私的空間でのプライバシーは厳に守られるべきだ」ということである。

 ここで、ススキノの場合を考える。ススキノは、普通の「お酒を飲むお店」がいっぱいあるところなのだが、その範疇に入らないお店もたくさんあるところである。

 数年前の歌舞伎町ビル火災の際にも明らかになったが、そういうお店に誰それが行っている、ということは相当なプライバシー上の問題になる。また、使いようによってはある人間に対する脅迫材料にさえなりかねない。

 監視カメラを設置することが果たして「公共の場」を守ることになるのか、あるいは「私的空間」を犯す事になるのか、ということについての問題である。また、カメラの管理権を警察に与えて良いのか、という問題でもある。

--
 実は警察に監視カメラ設置されて、一番困るのはススキノをこよなく愛する政治家の皆さんじゃないのか、という気がする。

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 追記:同じ講演の中で、「クライム・ストッパーズ(匿名通報システム)を整備すべきだ」とも言っておられる。私もこの点については賛成だ。

 過去に2回ほど110番通報をした経験から言うと、何もやましいことがないはずであるのに、やはり警察を呼ぶという事に関しては一抹の躊躇が生じるものだ。

 そもそも「オレは○○町から来た××だ!」と名乗って入る強盗もいないわけで、犯罪とはもともと匿名でやるものである。被害者(あるいは被害者予備軍)の方だけ匿名性がない(警察にマークされる)、というのは、どこかフェアでない気がする。

Friday, October 01, 2004

チャカは小さい方が怖い

組員の銃で少年殺害か、同じ25口径と判明 大牟田

 県警などによると、ブローニング・ベビーは暴力団関係者らの間で30万~40万円で取引されているという。ただ、暴力団は口径が大きく殺傷能力の高い銃を持つのが一般的で、ブローニング・ベビーはあまり出回っていないとされる。


 一般に、大口径で、とにかく弾丸に威力のある拳銃ほど「怖い」印象がある。ダーティーハリーご愛用のS&W M29 44Mag.などその最たるものだ。しかし、拳銃は小さなものほど本質的には怖いのである。

 拳銃の意義は、その携帯性と隠匿性にある。実際、現在軍用拳銃として主流の9×19mm口径でも、一般的な訓練を積んだ兵士が狙って当てられるのは10m程度の射程、熟練者でもせいぜい30mである。

 もちろん、9mm口径の方が25口径(※)より威力は大きい。しかし、たとえばナイフを構えた相手がこちらに向かって一直線に走り込んでくるのを阻止するためには、9mmでさえ2発以上の命中弾を必要とする、とされる。従って、「護身用」としては小口径の拳銃は実に使いにくい。

 逆に、誰かを襲うという確たる意図を持った人間にとっては、小口径の拳銃は実に使いやすい武器である。威力の小ささは、隠匿性を生かして十分に接近し、急所を狙うという使用方法で十分にカバーできるのである。つまり、映画のように廊下の向こう側からデザートイーグルを何発も撃つより、こっそり相手の後ろに回り込んで、22口径を延髄めがけてポンと弾く、というやり方が一番致命傷を与えやすい。

 しかも、小さなピストルほど密輸しやすく、手に入れやすい。よく言われるのは、自動車のエンジンシリンダーに分解した拳銃を隠す、という手口である。こんなコトされると、素人目にはどうやって見つけたらよいものだか、ちょっと想像がつかない。


 長崎出島の時代ならいざ知らず、今は一日何千トンという貨物が日本に入ってくるのである。本当に税関の皆様には頭が下がるのである。

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 一般にN口径と言うとき、弾丸の直径は(N×2.52÷100)mmである。

Thursday, September 30, 2004

RSSリーダーを使ってみる

 最近新たに「blog」サービスを始めたところには、必ずRSSだのATOMだのXMLだのといったワケのわからんリンクが張ってある。

 RSSっていったい何なんだ。

 私などがここに書くより、もっとちゃんと解説してあるサイトは数々あるので、詳しいことは書かないが、私の理解としては「ページ更新をわかりやすくするシステム」ということだ。

 たとえば、いつもこのblogにお越しになる方々には、「はてなアンテナ」経由の方が多い。私もユーザーの一人だが、「はてなアンテナ」はサイトに更新されたテキストを取得する仕組みである。

 たいていの場合はそれでもうまくいくのだが、たとえばblogの中には横にカレンダーを表示するようセッティングしてあるものがあったりする。たとえば明日10月1日になると、一斉にそれらのblogでは9月のカレンダーから10月のものに置き換わるわけで、「はてなアンテナ」の方式だとそれを拾ってしまうのである。

 実際、読み手の関心があるのは「記事の内容」であるから、これで「更新」が検出されてしまうのは紛らわしい。


 そこで、RSSリーダーを使う。RSSリーダーが検出するのは、あくまで記事内容(またはタイトル)なので、たとえサイトの体裁だけが変わったとしても、それを更新として検出しない。そのかわり、何か新たな記事が加わったときには間違いなく検出される。

 glogの他にもたとえばasahi.comスラッシュドットジャパンなどがRSSを配信している。

 Headline-Readerを一ヶ月間試用してみて、なかなか使い心地が良かったのでシェアウェア登録した。同様のRSSリーダーとしてはフリーのglucoseがあるが、いまいち不安定で使い心地が良くないのと、何より"glucose"という単語を蛇蝎のように嫌う知り合いがいるので、今は利用していない。

 また、最近gooが無料のRSSリーダーを配布しているが、「gooブログ全体」「教えて!goo」など余計なRSSを拾ってしまうように設定されており、しかも解除できないので、Readerには対価を払ってもまあそれだけの価値がaあったと思っている。

Headline-Readerと同じ作者がHeadline-Deskbarという作品も公開している。こちらはフリーウェアなので、RSS初心者にお勧めである。新しく更新された記事を拾って、デスクトップ上に一行表示してくれる、非常に慎ましやかなソフトである。

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 リファラを探ると、このblogを「医療系blog」に分類して頂いているところが多く、もちろんリンクして頂くことは大変にうれしく思っております。

 しかし、さらに検索ワードを探ると「Mozilla Firefox」から「ガリル自動小銃」「ステアーAUG」「Gripen」でググられて来る方が圧倒的です。果たして、ここは医療系blogなのか、書いている本人も首をかしげております。

Wednesday, September 29, 2004

老いる田舎は、ますます老いる

静内の産婦人科、筋弛緩剤で母死亡 注射直後、胎児も 病院側はミス否定[北海道新聞]

 あまり軽々しくコメントを出すものではないが、この一件は「出産は都市で」という流れを強めるきっかけになるのかも知れない。上の記事を読んだ限りでは、すぐに医療事故として警察に届け出たようで、少なくとも事が起こってからは出来る限りの対応をしたように思われる。

 ただ、難しいのは「出産」というものの扱いである。

 世間一般では、赤ん坊が生まれるのはあたかも自然の成り行きで、「五体満足に生まれるのが当然」という考え方が主流だろう。今回のように帝王切開の最中に起こった事故となると、一般の人が受ける感想としては「医者が無茶な手術を敢行するからこんなことになった」というところが主だと思う。

 しかし、帝王切開を行うからにはそれなりの状況があるわけで、実際国家試験の産婦人科問題でも「帝王切開」が選択枝にある問題は少なくない。すなわち、「こういう危険な状態になったら、すぐに帝王切開をしないと生命に危険が及ぶぞ、おまえらしっかり勉強しておけ、さもないと免許やらんからな」ということなのだ。

 また、出生率の低下が全国的な問題になりつつあるが、新生児死亡率の低さについては、日本は先進国でもトップクラスだ。従って、ますます「生まれて当然」という風潮は強くなり、産婦人科医に求められるものは重くなる。

 従って、昔のように地方の産院で、一人のセンセイががんばって赤ん坊を取り上げる、といった状況は成立しにくくなる。出産は複数の医者がいる都市部の大病院で、という話になるのだ。

 しかし、一旦都会に出た若者は絶対に田舎に帰りたくなくなる、というのが世の常である。(もちろんそれは、田舎出身の医科大学生にもあてはまることだ。)

 となると、ますます田舎で生まれた赤ん坊が、しかるべき年になって都会へ出て、そこで相手を見つけて、都会で家庭を築いてしまう、という流れが完成するわけで、それは長い目で見るとますます過疎化を進めてるだけじゃないのか、という気もする。

 参考記事:
医者がいない/地方の産婦人科ピンチ[asahi.com MY TOWN 北海道]
健診は診療所 出産は病院[YomiuriOnline]
出産は大病院へ集中を 産婦人科医会が見解[Y! 共同通信]

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 大体北海道で「都市部で出産を」といったら、「大学病院のある都市で出産を」という言葉と同義になってしまうと思うのだが。
 そうなると、またどこかの町長サンが赤旗振りかざして激怒するのだろう。

キャラが違う

パラリンピック・アテネ大会が閉幕[asahi.com]

控え目閉会式「がっかりだ」…組織委に選手ら不満も[YomiuriOnline]

 何だか二つの新聞社が伝える記事の内容に、ずいぶん温度差があるぞ。

 前者の伝え方だと、
 夏季大会では初めて、パラリンピックと五輪の組織委員会が一つとなった。約80万人分の切符が売れた。観戦に向かう途中の交通事故で亡くなった高校生を悼み、閉会式の一部が中止された。

とあり、しかも日本選手団が大写しになっている写真と、華やかなダンサーの写真がセットになっている。これを見た人は、「ああ、ちょっとしたセレモニーが中止にはなったものの、閉会式は8割方予定通り行われたんだな」と思うことだろう。

 後者は、
 パラリンピック閉会式は28日、花火などの祭典部分を一切なくし、選手入場や聖火を消す作業などの必要最小限の儀礼部分のみで切り上げられた。27日に起きた、パラリンピック見学に来る途中の高校生7人の交通事故死を追悼するため、組織委員会(ATHOC)が突然発表した前代未聞の変更は、国際パラリンピック委員会(IPC)との不協和音を奏で、参加選手からの疑問を呼ぶ、後味の悪い結果となった。


 当初予定されていたセレモニーがほとんど行われなかったことを伝えている。

 もちろん予定の99%が実施されない場合でも、「一部」には違いないから、朝日の記事が誤報ということにはならない。

 ただ、普段の印象から行くと、最もパラリンピックを華々しく捕らえそうな新聞社と、大して取り上げなさそうな新聞社がそれぞれ対照的な記事の作り方をしているというところが非常に興味深いところである。

Saturday, September 25, 2004

水谷修先生、高校退職

水谷先生、高校教師を辞職へ[毎日interactive]

圏外からの一言」および「北沢かえるの働けば自由になる日記」経由。

 何でも9月8日の記事だそうで、気付くまでにはしばらく時間を要した。


 私はこの先生をテレビや書籍といったメディアを通してしか知らないけれども、一日3時間の睡眠で、繁華街の夜回りをし、さらに定時制高校の教員という定職を続けていらっしゃると言うことで、正直いろいろな意味で「この人、大丈夫なのかなあ」と思っていた。

 毎日新聞の記事で自ら語られているところを読むと、あまりのハードワークで体を壊されていると言うこと。メディアで活動が広まるにつれ、全国津々浦々から四六時中電話がかかってくるわけで、年齢的にもいつまで持ちこたえられるのだろうか、と思っていた。

 また、もう一つ述べられているように、水谷先生のような存在というのは、とかく教職員側の目から見ると邪魔に見えるはずだ。教育委員会からも圧力がかかったらしいが、おそらく同僚からもあまり受けは良くなかったんじゃ無かろうか。これは完全に私の推測であるが。

 先日にも少し触れたが、ある奇特な善意を持った人の行動が、ともすると組織全体の維持を中心に据えた視点から見ると、必ずしも善意に見えないことがある。積もり積もったものが、ある時点において、その個人を組織から抜けさせることを余儀なくさせる。

 こういった構図は、どこにでもあるものだろう。

 少し「小賢しい」ヤツならば、とっとと「NPO法人・夜回りを進める教職員の会」でも設立して、そこの会長に納まるところだろう。「水谷には同僚に対するコミュニケーション能力と協調性が欠けていた」とか言って。

 最後まで誰と連むわけでもなく、たった一人で戦い続けたその姿には、果たして自分につべこべ言わずに彼と同じ事が出来るだろうか、と考えさせるものがあった。

 だが、是非この機会にゆっくり休養して、仲間を集め、体勢を立て直して復活して欲しい。私は切にそう思う。


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「ペスタロッチは優れた教育者であった」を真としても、「教育によってペスタロッチをつくることが出来る」は必ずしも真ではない。それが教育というものの限界である。

Tuesday, September 21, 2004

ババアの文句みたいなもの

 おととい、自転車のヘッドライトをぶつけてしまった。幸い、本体に破損はなかったものの、ライトの電球がどっかへ飛んでいってしまい、その場で見つけることは不可能だった。

 その場所がガソリンスタンドの真ん前であったこともあって、そこでモタモタしていると車に轢かれそうだ、という思いと、豆電球の一個ぐらいどうにかなるさ、という実に安易な思いからその場を後にしたのだ。


 だが、今思えば這いつくばっても探すべきだった。


 家に帰ってから、改めてその電球一個を探しに町へ出た。

 まず、適当な豆電球(2個100円ぐらいの)を買ってはめてみる。合わない。微妙に口金の径が合わず、ネジがかみ合わない。あえなく撃沈。

 仕方がないから、近くのジャスコへ行って自転車売り場を覗いてみる。あった、あったよ、同じライト本体が。喜び勇んで売り場のお姉さんに聞いてみる。
 「すいませーん、このライトの替え玉ってどこに置いてありますか」
 「・・・・・申し訳ございません、替え玉は扱ってないんですよ」

 しょうがないので、元々自転車を買った(そこでライトも一緒に買っていた)市内の某大型量販店へ行く。微妙に型番が合いそうなのがいろいろあるが、よくよく見ると、定格電圧・電流、電球基部径がそれぞれ異なる。しかも一つ700円とかするのである。これはちょっと、当てずっぽうでチャレンジする気にはならない。しかも、同じライトを丸ごと一つ買うとなると、2000円である。

 イヤになってしまって、家に帰って、メーカーサイトでライト本体の型番・適合電球を調べてみた。

 おんなじようなライトの電球でも、これだけの種類があるのだった。しかも、「楽天市場」で買おうとすると、これである。北海道へ520円の電球一つ送ってもらうのに、送料1050円も取られるのだ。

 それが商売というものなのかも知れないが、マイナーチェンジごとに全く互換性のきかない部品をつくって売るやり方には、何だか非常に納得できないものを感じた。しかも、何で北海道だけ送料特別なんだ。深紅の大優勝旗が津軽海峡を渡るこのご時世に。
 私が道知事だったなら、まずこの瞬間に北海道の核武装を宣言しているところだ。

 何だかとにかく、面白くないのである。今度ライトを買うときは、「電球がちゃんと手に入るか」に最大限の注意を払いたいと思う。

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 結局、今はベスト電器で買ってきた294円のペンライトを、ヒモでハンドルにくくりつけて使っている。案外、具合がよろしい。

Monday, September 20, 2004

死刑囚を治療するか

 宅間守が、ついに死刑になった。

 丹波哲郎(昔は初めて「007と競演した日本人俳優」、現在は「温泉の精タンバ」として知られる)の「大霊界」という本を子供の頃読んだことがある。中に今考えると、興味深い一節があった。

 それは、「霊にも進化論が適用できるか」という問題である。

 つまり、有史以来、人間の人口というのは着実に増加しつつあるわけである。輪廻転生を支持する立場からいうと、人間の霊魂の数には限りがあるわけだから、人口というのはほぼ一定数でないといけない。そこで人間が増え続けることを合理的に説明するためには、いわゆる「畜生」の霊が「人間」に進化してこないといけないのではないか、というのである。

 もちろん、正統な仏教界の見解ではやや違った考え方があって、たとえば「あの世には、たくさんの人間の霊魂がプールされている」という説明があったりする。そのプールの人口がどれくらいかなんて、それこそエンマ帳を見ないとわからないから、結構な「逃げ」にはなっている。

 話を宅間に戻すと、この男には全く「同情」という感情が欠けているわけで、温泉の精タンバ様のいうとおり、「畜生」から進化してきたばかりの魂が宿った存在だったのかも知れない。

 さて、「死刑囚の病気を治療するか」という問題がこちらで書かれていた。
(元々はhttp://homepage3.nifty.com/
henachoko_student/index.html
の9/19)

 さんざん述べてきた「医者は善悪を判断しない」という立場から考えれば、「治療する」ということである。善悪を判断するのは司法の仕事であるから、司法がある時刻にある特定の仕事を実行しなければならないなら、それはそのようにする、ということである。
 最近でも、「エホバの証人」に対する輸血事件の最高裁判決が下っている。出血性ショックという、たとえ差し迫った死の危険がある場合に於いても、患者の自己決定権が医師の裁量権に優先するという主旨の判決で、最終的に約55万円の支払いが命じられている。

 私個人の善悪観念を用いて言えば、宗教とは人がいかにして生きるかという問題を扱うもので、人を死に向かわせるようなものを果たして宗教と呼んで良いのか、という気がする。たとえば、同意を得ない輸血の結果、患者は助かり、その後患者側から告訴を受け、3000万の賠償を命じる判決を喰らったとしても、「それは3000万円で人一人の命を買うことが出来た」と記述して良いのではないか、とさえ思うことがある。裁判所に、死んだ人間を生き返らせる力がないことは皆よく知っている。

 しかし、こういう記述を一旦許してしまうと、問題は私一人の話ではなくなってしまうわけだ。他の大勢の医師たちが、その後「あなたは多額の賠償金を払う可能性に恐れをなして、救命努力を怠っているではないか」と糾弾されてしまう可能性をもはらむ。従って何となく釈然としない思いを抱えつつも「患者の自己決定権は尊重しなければいけません」と言わなくてはいけないのである。

 裁判所といえども、宅間という一人の男の頭を無理矢理押さえつけて「どうもすみませんでした」と言わせることは出来なかった。J.S.ミルなんかを持ち出すまでもなく、そのことは、人間の内心の自由というものが、いかなる他者の意図とも独立して存在するということを、厳に示している。

加筆修正

 最近ろくに肉体を使わずにデスクワークばかりを行っていたばかりに、よく回らない頭で不確かなことを書いたところがいくつかある。また、筆が足りていないところままある。
 今日はまず、その誤謬を自ら正していこうと思う。

>Saturday, September 18あ~んあぁ・・・

 このコミッショナーは「野球は論理の世界じゃなくて、感情の世界だった」と述べている。一番言いたかったのは、「じゃあ、その感情の世界に対してあなたは、あなたなりに出来るだけのことをやったのか?」ということだ。
 「論理の世界じゃなかった」という言葉の裏をすごく深読みすると、「だから結局野球選手ってのは●●なんだ」という、軽蔑にも似たニュアンスがあるわけで、結局自分に「感情」を計算する能力がなかったことを露呈する発言である。他人の感情を計算するのは社会生活上、結構大事な能力だと思うのだが、検事総長出身だかのコッミショナーどのが、トップに上り詰めるためには全く必要としなかった能力なのだろう。
 ずいぶん記事のベタ面積を使ってはいるが、その中身は「あ~んあぁ やんなっちゃった あ~ん あ ああおどろいた」以上でも、以下でもない会見である。

>Sunday, September 5宣伝のようなもの

 まだ本日に至るまで一通の申し込みもありません。はてなダイアリーやgooブログ、ココログといった国内ブログが充実しつつある現在において、わざわざblogspotまでやってきて見て下さるブログ上級者の皆さんは、すでにお持ちなのでしょう。
 ちなみに、今を時めく(うわぁ)livedoorのメールは、一応容量1GB提供だそうです。
 まだまだ私のところでは2MBのままですが、MSN Hotmailもそのうち250MBにするそうで、そうなるとHotmailのアカウント4つ取ればGmailとタイです。たぶんそのうち、一日500MBくらいはspamに占拠されると思いますが。


>純粋に軍事的側面から見た学校占拠

 どうも「犯人の方から仕掛けた」という説と、「治安部隊の方から仕掛けた」という説があって、それはマスコミという、エーテル(※)以上にゆがみやすい媒質を通してしか事件を知ることの出来ない私にはどちらが正しい、と言いきることの出来ない問題である。

自己ツッコミ:
 これからの対テロ戦術の原則は、「防御側に準備の余裕を与えるな」が原則となり、事件発生後出来る限り迅速に、攻撃側が、その選択するタイミングで攻撃を行うようになるのではないか、ということである。つまり、ペルー公邸人質事件のような長期化する人質事件は、今後成立しなくなるのではないだろうか。少数の犠牲を払っても、出来るだけ短時間に解決するべきである、という考え方が主流になる。


 よく考えれば、ロシアは元々そういう国だった。一昔前まで、デモ隊が道間違えないようにお巡りさんが先導してくれるなんて日本だけの光景であって、おおむね東側諸国でお巡りさんの仕事と言えば、、デグチャレフ軽機関銃でデモ隊に面制圧射撃を加えることだったはずだ。
 つまり、「治安部隊」の仕事は「治安を守る」ことであって、「市民の保護」ではない。「治安」とは「政治体制の安定」に他ならない。つまり、事件が長引いて指導部の影響力が低下するよりは、市民に少々の犠牲が出ても一気にやってしまったほうがいい、ということも考えられるわけだ。

Saturday, September 18, 2004

あ~んあぁ・・・

根来コミッショナーが辞意[Yomiuri Online]

 まあ、タイミングを見計らってお辞めになるんだろうな、とは思っていたが、実際に第一報を聞いたとき、浮かんだのはこの方の顔だった。

 「ディスコグラフィー」から、いくつかCDが試聴できるようなので、RealPlayerをお持ちの方はどうぞ。一番下の、「レゲエ」がしっくり来ると思う。

スト決行

 よく言われることに、「こういうことになるのを回避するチャンスが何回もあったにもかかわらず、こうなったことは遺憾の極みである」というコメントがある。

 だがよく思い出してみよう。

 少なくとも、そうなる前に26回のチャンスが与えられていたにもかかわらず、9回裏ツーアウトの場面、ゴロを打った打者は、必ず一塁ベースに向かってヘッドスライディングする。(※)高校野球ではおなじみの光景である。

 つまり、野球とは本質的にそう動くものなのである。本当は、野球ファンも、選手のそういう姿を見たいのである。

※本当は、一塁キャンバスを走り抜けた方が到達時間が短いといわれている。

Friday, September 17, 2004

全てのドクターはフィルターである

 「全てのプログラムはフィルターである」とは、「UNIXという考え方」に出てくる一節である。

 「フィルターである」とはどういうことか。

 どんなプログラムにも、「入力」と「出力」がある。「入力」とは、あなたがキーボードを使って何らかの文字列を打ち込んだり、マウスでボタンをクリックしたりして命令を与える、ということである。「出力」とは、それに応じて、コンピュータが画面に図形を出したり、プリンタから文書を吐いたり、また新しいファイルを書き出したりする、ということだ。
 つまり、「入力」に対して、何らかの操作を与え、ある決まった「出力」を出す。それが「入力」をフィルターしているということである。

 逆に言うと、コンピュータに「フィルターでない」動きをさせるのは非常に難しい。たとえば、「でたらめな数字を考えろ」という命令を実行させるために、多くの言語ではrand関数というものがある。いわゆる「乱数の発生」という奴だが、厳密にはコンピュータは「でたらめ」を考えているわけではない。

 たとえば、x=1のときF(1)=1579846、x=2のときF(2)=-235.157、x=3のときF(3)=9.32564、といった、とんでもなく複雑な関数F(x)をつくることは可能だ。この関数F(x)をあらかじめコンピュータにプログラムしておき、xをユーザが操作する「時刻」として与えてやれば、操作するその都度「でたらめな数」が返ってくるようには見える。しかし、関数F(x)は、一旦プログラムとして組んでしまえば、人間が書き換えない限り変わらないのである。

 つまり、機械は意志を持たない、ということなのである。(当たり前のことをいうのにずいぶんかかってしまった)。


 さて、あるサイトで「ヤクザの書いた本は、医者にとって読む価値があるのか?」という熱い議論が交わされていたのを目にしたので、しばらく考えていた。いや、ひょっとすると重要な論点はそこではなかったのかも知れないが、私が気になったのはそこであった。

 私は移り気な性格なので、医学に関係のない様々な本をつい読んでしまうたちである。そういうわけで、実はこういう「ヤクザの書いた本」にもいくつか目を通していたのだが、なぜ医者がヤクザ本を読んで嫌悪感を覚えるのか、という点に関しては、以下の点に集約されると思う。

 つまり、ヤクザの論理は「いまオマエが何をしたいか明確にしろ」というところが原点でになっている。「あの土地地上げしてワレのもんにしたい」「隣の組ぶっつぶしてシマを広げたい」から、「関東一の極道になったる!」に至るまで、全て自分にとって「まず何がしたいか」というところからのスタートで、それに基づいて全ての行動が組み立てられている。

 これに対し、医者、正確には現代の医者は「まず患者さんの言うことをよく聞きなさい」という点からスタートせよ、といわれている。しかも、いわゆるEBM(証拠に基づく医療)ということで、医者が「自分一人の考えで」何かを決断できる、という場面は狭まる一方なのである。

 現代に求められる医師像とは「プログラムそのもの」なのである。また、「医者は善悪を判断しない」とも書ける。

 この論理に基づけば、「患者の要求と、検査に基づく客観的データ」という「入力」に対して、ある程度決まった「出力」を出せるのが優秀な医者だということになる。究極的にいえば、紙に書かれた問題を出して、マークシートで解答を出させる国家試験というものは、プログラム、すなわちフィルターとしての医者の能力を試している、ということになる。

 現在を生きる医者にとって、「~シタイ」という欲求を、外の世界に出すことは許されない。せめて、「~デアリタイ」「~ニナリタイ」と記述するのみである。

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 もちろん、以上に述べたことは「タテマエ」の話であって、実際には「~したい」という欲望は全ての医者に存在する。もちろん、人それぞれに「善悪」の判断基準がある。(もちろんヤクザにだって「善悪」の基準はある)。
 「ER」の登場人物に、ロケット・ロマノという外科医が登場する。実に野心的な人物で、周囲の犠牲など気にもとめず自分の欲望を満たす、という姿が描かれているのだが、正直彼の姿を見るたびに「やっぱりアメリカにもこういう人物がいるんだ」と、どこかで安心している自分がいる。(我々の教育では、アメリカの医者は全くミスを犯さず、日々患者のために研鑽を欠かさず、問題のある人物はその養成段階で全て選別され、ふるい落とされることになっている。)

 昔、立花隆氏の著作で、「テレビ・シリーズ『コンバット』を見て育った私たちは、日本の陸海軍に比べ米軍は何と民主的なシステムになっているのか、と驚いたものだが、映画『フルメタル・ジャケット』を見て、ああ、やっぱり軍隊の本質というものは洋の東西を問わず変わらないものだと安堵した』」というような記述を目にしたことがある。おそらく、それに近い感情だと思う。

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<追記>
 原文に出てくる「全てのプログラムはフィルターである」とは、他のプログラムが、あなたの書くプログラムを利用して動くことだって考えられるのだから、「汎用性の低いプログラムを書いてはいけない」という文脈にある言葉である。

概日リズム

 動物には生まれもったリズムというものがある。それは概日リズム(サーカディアンリズム)とも呼ばれ、睡眠やホルモン分泌、血圧コントロールなどにも周期性を齎している。

 人間の場合この概日リズムは約25時間周期で構成されているといわれている。地球の自転周期である24時間と、1時間のずれが生じているため、人間には広い範囲の移動が可能なのだ、という説がある。

 前置が長くなったが、私の場合ストレスがかかるとこの概日リズムが大きく狂う。大事なイベントのある日の前夜から朝まで、まず眠ることが出来ない。それでも、朝からもう12時間くらいは何とかレベルを落とさず活動が出来る。だが、次の12時間は睡眠に当てなければならない。ほとんど思考停止に陥る。
 つまり、36時間活動+12時間睡眠という48時間の概日リズムが形成されているわけで、これはこれで個人的に「きつさ」を覚えない生活スタイルである。

 大事なのは、「こういうプレッシャーのかかる日の晩にはよく眠ることが出来ないが、それでも何とかベスト状態の8割の力を発揮することが出来る」という自分の特質を知ることである。それはつまり、「眠れなかったからといって大失敗が起こるわけではない」という、本番の落ち着きを得る意味と、「2割の力が出せないとしても、目的を達成できるように力をつける」ことを普段から心がける意味がある。

 昔、ある大事な日の前に、非常な雑音が入り、その日は全く眠ることが出来なかったことがある。まだ経験の少なかった時分でもあり、結局その日のイベントは思ったような成績を残すことが出来なかったのであるが、今では結局それも、「その日」に至るまでのプロセスに不備があったのあろう、と受け止めている。

 だからといってはなんだが、あまりに恵まれすぎた、静かな環境で訓練を積むことには、恐怖にも似た違和感を禁じ得ないのだ。

Thursday, September 16, 2004

OSCEの週

 今週は後期OSCEということで、神経所見とれるか、人の話ちゃんと聞けるか、X線写真の見所を知っているか、心電図の電極きちんと張れるか、痛いハラを探れるか、という近代5種の実技試験である。

 あと2年もすれば関門試験ということで、こういったことなしに医学部を卒業することは出来なくなるのだが、どうもこういったことに熱心だった大先生が退いてというもの、ずいぶん形骸化した感がある。

 何というか、この微妙な空気を野球のプロテストにたとえて表現してみたい。

<本格的OSCE(アメリカ本国で行われているもの)>
 バッティングピッチャーが20球ぐらい投げる。そのうち、何本ヒット打ったかで合格不合格が決まる。

<和式OSCE(第51州「日本」で行われているもの)>
 人件費の都合で、ピッチャーは、すごく打ちやすいボールを一球だけ投げる。
 ヒットになるかどうかは問題ではないが、とりあえず「ゴロを打ったら一塁にまっすぐ走る」「外野に飛んだらややふくらみがちに走り、ベースの内側を踏んで二塁へ向かう」かどうかを、スカウトがものすごく真剣に見ている。
 さらに実は監督の評価ポイントが、「たとえアウトになっても観客に、にこやかな笑顔を送ることが出来る」で、これで合否が決まっていたりする。


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 しょうがねえだろ、アメリカに戦争に負けたんだから。

Sunday, September 12, 2004

ちょっとしたこと。

 本来小ネタは別館に書くのがポリシーだが、いろいろなところで見かけるあるモノに対して、ちょっと多めの人に見てもらいたいことがあるので、こちらに書くことにする。

 サイト上である特定の書籍を紹介するとき、Amazon.co.jp(Amazon.com)へのリンクという形で表現されることが多い。「はてな」なんかにも実装されているし、いわゆるデファクトスタンダード(事実上の標準)と呼んでも良い感さえある。
 実際、この日記もAmazonアソシエイトに加入して、本の表紙を画像として使わせて頂いている。
 この方法の良いところは、書籍タイトルに固有のIDであるISBNコード(AmazonではASINコードと呼んでいるらしい)を付加して表現できることである。すなわち、同じタイトルの書籍でもハードカバー版、文庫版、新書版といった版が存在することがあるが、そのうちどの版を指しているのかを示す手間、そして紛らわしいタイトルの本が複数存在する場合でも、わざわざ出版社名・著者名を指定する手間を省くことが出来る。

 ここで、今最もよく売れていると思われる「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」にリンクを張る場合について考える。

 よく見かける長いリンクの仕方は、以下のようなURLを張る方法である。
 (bloggerの仕様上、ずいぶん下にいってしまっているが、スクロールしてください)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4915512517/ref=amb_center-1_117092_1/249-7736927-1834752

 しかし、以下の方法も試して欲しい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4915512517/

 おそらく全く同じ書籍が表示されることと思う。

 つまり、[~/ASIN/(ISBNコード)]で、特定の書籍を表現するには十分なのである。

 アソシエイトに加入している場合のリンクの仕方は、以下の通り。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4915512517/takikouorg-22

 クリックして頂くとわかるが、今度は若干表示されるページが違っている。


 完全な推測だが、AmazonはURLやCookieによって、顧客情報を収集しているのかも知れない。これにより最近チェックした商品を表示するなど、便利なサービスを提供するという意味もある。しかし、長いURLには、そのリンクを張ったあなたの情報が知らず知らずのうちに含まれてしまっているのかも知れない、ということである。

 だからどうだとも言わないが、より短いURLでも、ある一意の書籍を表現できることを示しておく。

Monday, September 06, 2004

XとYは独立である

 blogとは「日記」の一形態であるといわれる。日記とは、本来個人的なものであるから、そこに書かれている内容と、それを書いた個人の性格とはとても関連があるように見える。ましてや、その人の顔かたちが判断できないWeb上では、その傾向が一層誇張されて伝わる。

 しかしながら、本来「書き物」と、その人の性格とに関連性を見いださなければならないものだろうか。つまり、その人の書く文章が嫌いだからと言って、その人の人格までもを嫌う必要があるだろうか。

 私は、そういう考え方は非常に損だと思う。


 ちょっと本筋からは離れるが、たとえば音楽や絵画など、他のジャンルの芸術を考えてみよう。

 モーツァルトなんて、相当イヤな奴で、一説によるとそのせいで宮廷音楽長のサリエリに殺られてしまったらしいが、彼の書いた音楽は今もなお多くの人の心を魅了する。つまり、「モーツァルトはいかなる人物であったか?」ということと、「モーツァルトの音楽とはいかなるものか?」ということは別個のことである。
 ゴッホやレンブラントといった画家は、相当貧乏人であったわけだが、だからといって彼らの絵が貧弱であるということにはならない。

 別にそんな古い時代のことを持ち出さなくてもいい。

 長渕剛、槇原敬之といった歌手は、過去に覚醒剤で捕まった経歴がある。そのたびに、全国のCD店では彼らの作品を店頭から撤去する、ということが起こってきたわけだが、その必要が果たしてあるのだろうか。その歌手の音楽と、その歌手がシャブをやっていたと言うことは、全然別の話じゃないか。なぜ音楽を音楽として、純粋に評価できないのだろう。
 教科書や論文などといった、比較的無機質な文章についても考えてみる。その教科書を執筆した先生が、ラボの中ではどんなに独裁者的であり、イヤな性格であったにせよ、教科書の中身はそれと別個に評価されるのが普通である。
 さらに言えば、書いた人の性格などといった余計なことを知ることなしに、知識のみを得ることが出来るというのが、書物の良さである。


 我々は、ついその人の「作品」と「人格」を結びつけて考えがちであるが、それは本当に作品をたのしむ姿勢とは言えないのではないだろうか。すばらしい恋愛小説を書く作家が、その実どんなに不細工であろうと、実行力と魅力を備えた政治家に愛人が何人いようと、それは本筋とは関係ないことなのである。


人生に悔いず

 亀になってしまったが、先週の金曜に高校生クイズをちょっと見た。何を隠そうこの私も高校生時代はクイズ研究会にいたのだが、あの時代から比べるとまさに現代はクイズ会にとって冬の時代である、といえよう。

 いまから10年以上前、まだ「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「史上最大のクイズ王決定戦」といった、正統派クイズ番組が群雄割拠していた時代は、まさに「早押しこそクイズの王道である」といった空気に充ち満ちていた。

 しかし、立命館大学クイズ研究会(RUQS)出身者が圧倒的な強さを見せ、各番組での優勝者を独占していくような状況、またいわゆる複数の番組で同じ「クイズ王」の顔ぶれがそろうような状況は、必ずしもテレビ番組としてのクイズの価値を高めるものではなかった。

 「ウルトラクイズ」も、「クイズ王決定戦」も私が高校生の時期には既に風前の灯火といった状況であった。しかし、「高校生クイズ」だけは最後の砦として残っていた。
 今考えるとぞっとしないが、私もナベツネから深紅の大優勝旗を手渡される日を夢に見ていたものだ。

 私が大学に入る頃、高校生クイズも明らかに規模を縮小した。各地域ブロックごとに予選は行うものの、「金曜ロードショー」の枠で放送される本戦は、全て東京のスタジオ一カ所で収録されることになってしまった。決勝戦が豪華クルーザー「ヴァンデアン号」上で実施される、という伝統さえも無くなってしまい、全てが暗い、閉塞感のあるスペースでの実施となっている。

 他局に目を移すと、フジテレビ系では「クイズミリオネア」が輸入番組という形で開始され、それなりの視聴率を得ていた。しかし、いかにも視聴者の羨望、欲望といったものに迎合するあの番組の造りは、私は嫌いである。それに、高額の賞金を目指して一般視聴者が解答する、といった形式の番組は、過去様々なスキャンダルを生んでいる。それは、たとえば「クイズ・ショウ」といった映画に描かれているがごときである。長い目で見れば、むしろクイズ文化の衰退に寄与しているといった感想さえ受ける。


 話を高校生クイズに戻そう。今回の放送で気付かされたのは、もはや「早押し」といったクイズの文化が失われている、といったことである。

 決勝戦でさえ、アナウンサーが全て問題を読み終わった後に、ボタンが押される。残念ながら、クイズを愛してクイズを研究し尽くした高校生が決勝戦に残った、という感じではなかった。

 そもそも早押しクイズとは、読み上げられる問題文から、解答にたどり着くに足りる情報が得られた時点で、素早くボタンを押して解答権を得る、といった形式のクイズである。実は、こういった「早押し」が成立していたのは、「大事なことは出来るだけ後回しに言う」といった日本語の特性に負うところが大きい。

 実は早押しの芸術が成立しなくなったのも、そもそも「大事なことは最初に言え」という日本語自体の変化の現れではないだろうか。漠然とした寂しさと共に、そんなことを考えた。

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 昔のRUQSは本当に強かった。ともすると上の文章には、RUQSの存在を批判するように読める部分があるかと思うが、それは私の本意ではない。むしろRUQSはクイズ文化に対し、「早押し」の理論構築、クイズの基本的なルールを考案する(たとえば、自分が答えられないような問題を人に出すべきではない、正解には必ず根拠がなければならないなど)といった多大なる貢献ををしているのだ。

 就職情報誌などに目を通していても、「時代はスペシャリストを求めている」という人と、「いや、現代はゼネラリストが求められる時代だ」という人がいて、それぞれの論理に納得できるところがある。実は病院・医者業界でもそうなのだが、「とりあえず新卒の研修医はみんなゼネラリストの方向でいきなさい」というのが厚労省のお考えらしい。

 もし、ゼネラリストの時代である、というのが正解ならば、もっとクイズ番組が栄えてもいいはずなのになあ。高校を卒業してしばらく後、私はクイズ研究会が活動を休止しているのを知った。

Sunday, September 05, 2004

宣伝のようなもの

なんだか2chのネットサービス板にスレが立つくらい、またY!オークションで取引されるくらい貴重なものらしいのだが、私としては全くそう思えないし、そのうち"beta"がとれるだろう、という希望的観測の元に、期間限定でおふれを出してみる。

Gmailのアカウント、あと5人の方にinvite出来ます。欲しい方は右のほうから連絡を。

純粋に軍事的側面から見た学校占拠

 別に私はテロリストの味方ではない。子供を戦闘に巻き込む奴らは誰だろうと最低のクズ野郎ないしクズ女郎だと考えている。今回のことを計画した奴らに、出来る限り長く苦しみを経た死が訪れることを切に祈っている。

 断り書きを入れた上で、今回のロシア学校占拠に対し、純粋に軍事的観点からの考察を加えたいと思う。


 「多数の人質を取って立てこもる」。これは、およそ21世紀のテロの形としては実に時代遅れである。以前同じ国であった劇場占拠、そして我が国が標的にされたペルー公邸人質事件など、過去の例に学べば、そもそも「人質」作戦には無理があるのである。

 理由はいくつかある。まず第一に、立てこもる側(これを便宜的に「防御側」と呼ぶ)は少ない人員と、乏しい物資という条件が付くのに対し、包囲する治安部隊(これを「攻撃側」と呼ぶ)は、その制約からは解放される。時間が経つに連れ、防御側と攻撃側の有利・不利は際だってくる。

 また時間の経過に伴い、防御側と人質に対し、一種の人間的感情が形成されてくる。いわゆる「ストックホルム症候群」として知られているものであるが、これにより人質の価値は相対的に下がることになる。つまり、いざというときに人質に対し手を下すことが出来なくなる。攻撃側は、それを見越して作戦を立てる事が出来るようになる。

 従って、防御側が決死の決意をもって作戦行動を開始した場合、作戦終了までの時間は可能な限り短時間であることが望ましい。出来ることなら、およそたった一人の警察官が駆けつける暇も与えないのがよい。

 つまり、最も効率がよいのは「不意をついた自爆テロ」ということになる。その効果は、ベトナムからマンハッタンに至るまで、歴史が証明している。terror、すなわち恐怖そのもの、ということだ。

 今回の事件で特記すべきなのは、「遺体の引き取り時に爆発音が聞こえ、戦闘に突入した」という点である。すなわち、本来攻撃側に有利なはずの持久戦の様相を呈し始めた、と多くの人が考え始めた、そのタイミングを計らって防御側から仕掛けた、ということである。これはむしろ攻撃側の計画に齟齬が生じた、というより、防御側の計画が実に奏功した、ととらえた方が良いと考える。

 元々1000人以上の人質を、30人程度のテロリストで長期間見張るつもりなど無かったに違いない。「学校占拠」という事件を、国内外のメディアに周知させ、浸透するに充分な時間を経たのち一気に破滅点へと導く。ミュンヘン・オリンピックで「黒い九月」が起こした事件と同様、政府の顔に泥を塗るには充分すぎる結果であった。(もっとも、ミュンヘン事件の場合当時西ドイツにおけるテロ対抗部隊の整備が遅れていたことが原因とする見方が多い。)

 さて、今後、同様の事件が生じた場合、攻撃側(確認しておくが、、治安部隊側)の戦略にある変化が生じるのではないか、という感想を受けた。
 今までそれは、たとえ形式的にしろ、「平和的解決」を至上のものとし、「最大数の人命の保護」あるいは「最大数の人質の保護」を目的としてきた。今回、小児科医が「交渉人」として選ばれたのも、その目的のためである。最も、私の意見としては、防御側には最初からその意図がなかったように思える。
 これからの対テロ戦術の原則は、「防御側に準備の余裕を与えるな」が原則となり、事件発生後出来る限り迅速に、攻撃側が、その選択するタイミングで攻撃を行うようになるのではないか、ということである。つまり、ペルー公邸人質事件のような長期化する人質事件は、今後成立しなくなるのではないだろうか。少数の犠牲を払っても、出来るだけ短時間に解決するべきである、という考え方が主流になる。

 それから考えると、遙か遠くの国で人質になった三人の若者に、幾重もの仲介者を立て、ビルが一軒建つぐらいの費用を払ってまで世話を焼いてくれる我が国は、何とすばらしいことか、と思ってしまう。

Friday, September 03, 2004

Thursday, September 02, 2004

小泉総理、北方領土視察

朝日毎日読売産経童心

 6年前からこの問題に対する私の見解は一致している。

 「ガタガタ言ってないで早く攻め取れ」。

 現代を生きる北海道民としての意見を言う。元々、北方領土という「土地」に価値など無い。沖ノ鳥島と同じ、漁業権を確保するだけの意義しかない島である。必ず北方領土問題を口にすると必ず「元島民」のノスタルジーが語られるが、それを言い出したら「元満州人」のノスタルジーも同様に語られねばなるまい。


 ここでは逆に、もし「北方領土返還」が実現してしまったときのことを考えよう。

 現在も、根室やオホーツク地方の開発は進んでいるとは言い難い。日本の中央政府にとっても、道東というのは価値を認めがたい場所なのであろう。鈴木宗男氏のような国会議員が活躍できたのも、そういう事情があるからである。

 新しくできた北方領土に、多額の開発費用を投入する意味も必要もない。そんなところに住んでみよう、と言う人も奇特だろう。だが、国土である以上は管理をせねばならない。すなわち、警察署や自衛隊の駐屯地と言ったものを設営する必要が生じる。そして、北方領土の存在意義はただそこにある、と言った状況が生じるだろう。

 つまり、最もロシアに近い軍事基地が出来る。

 あるいは、日本に返還された刹那、たとえば普天間飛行場の代替地として「歯舞飛行場」を米軍に提供する、と言った事も考えられる。紛れもない「日本の国土」であるからロシアには口出しされない。また、付近に元々日本の住民もいないのだから騒音問題などハナから存在しない。元々利用価値のない土地なのだから、これは実に魅力的な選択枝である。


 単純な背理法だが、だから絶対にロシアが島四つを返すわけが無いのである。そんなことは歴代日本政府も、旧ソ連政府も、ロシア政府も分かり切っているのである。分かり切っていることにもかかわらず、これがあたかも実現し得るような話としてまともに取り上げるマスコミも理解できない。何かから国民の目をそらせようとしているのがあからさまなのである。


 本当に「北方領土が日本固有の領土である」と自信を持って言い切れるのであれば、今この瞬間にでも自衛隊の実力を持って、それを確保すればよい。それは自衛隊の設立目的に何ら反するところはないのである。

 「ガタガタ言ってないで早く攻め取れ」の後段。「国民が命を賭して守る覚悟のない土地を、もはや領土と呼ぶべきではない」。私の真意はそこなのである。

INTERNET KILLED THE VIDEO STAR

SueMe SuBlog経由。


http://www.shockwave.com/content/regurge01/regurge01.swf


 元ネタ"Video killed the radio star"が1979年リリースと言うことは、私と同い年である。Amazonで検索してみたらいずれも廃盤と言うことだ。
 早く来い来いiTunes日本版。
 音楽がCDという、形あるものを媒体にして流通し続ける限り、このように古い音楽が事実上朽ちてしまうこともあるわけで、その意味からも早く音楽の電子販売というものが普及して欲しいものである。

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 CCCDは死んでも買わない。家族が買おうとしているのを見たら、必死で止める。

味覚二題

給食レストラン[毎日MSN]
清水義範氏の短編「時代食堂の特別料理」を思い出した。

究極ラーメン[北海道新聞]
Yahooの発表

 基本的に、ラーメンのチェーン店は信用しないことにしている。
 別に「チェーン店のラーメンは不味い」と言っているわけではなく、ある特定の店の味を、別個の店舗で再現することは原理的に不可能だろう、と考えるからである。
 ハンバーガーやステーキなどの系列店では、肉そのものから、ソースやスープなどは全部中央工場である程度加工したものを各店舗に配送しているわけだから、味のばらつきは少ないわけだ。
 ところが、ラーメンとなると話は違う。ラーメンの味を決めるスープの仕込み、麺のゆで方などは「人」に依存するところが大きい。その「人」の個性を完全に打ち消すことなど出来ない、ということだ。
 うちの隣の、すすけたラーメン屋のラーメンが一番美味しい。(、と、仮定している。)そういうラーメンの味に関する軸が出来ると、他の店ですするラーメンも麺の堅さ、スープの脂っこさなど、比較して考えられるようになる。

Tuesday, August 31, 2004

模試終わり

何だか24時間くらい無駄にした気がする。
しかも、こんな時期にこんなものまで買ってしまって、果たして自分はろくなものになるのだろうかという気がする。

だってあと半年したら全く同じパッケージ内容がこんな値段でしか買えなくなるんだぜ。

ここはマックロソフトに魂を売ったとか何とか言われようと、今買うしかない。
そんな気がして、たまっていたヨドバシのポイントで手に入れた。

本当は何となくPDAが欲しかったのだが、「今買う必要がない」ということと、「自分でコードが書けなければ面白くない」という困った性格が災いして、結局開発環境に投資してしまった

--。
国試終了後の空白の一ヶ月間に使うのもよし。
その後の一ヶ月+一年の空白の期間に使うもよし。

・・・・。
・・・・・・・・・・・。

Saturday, August 28, 2004

事実の羅列

賃金未払いで中国人実習生11人が勤務拒否 室蘭[asahi.com]
看護師受け入れへ研修制度 フィリピンとのFTA交渉[Yahoo! 共同通信]

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 一つ一つの記事は事実の羅列にすぎないが、こうして並べて書くと、時に非常な悪意の発露に見えるわけで、blogを書く上で気をつけねばならぬ事の一つである。
 コメントは、もう少し熟成させてから出したい。

Friday, August 27, 2004

晴れの日が続くがずっと昼夜逆転

毎日新聞:余録 2004年8月24日 東京朝刊

 そもそも牛乳のカルシウム含有量は、牛が食べる牧草地の土壌にも依存する、という説もある。と言うことはその国の土壌と、牛乳を飲む国民の気質には関連性があるかも。(こんなのは医学ではありません)
 かくいう私も小学校高学年頃から、中学生くらいまでは牛乳1リットルくらい毎日飲んでいたものだ。今ではすっかり乳糖不耐。

某ネットバンクでのお話[TOTOROの自堕落 日記]様。やじうまWatch経由。
こわいよう。やはり「送金専用口座」にしとこう。

ネットのリテラシー教育を[毎日MSN]
 杉原さん  10歳児でも同じような事件が起こしうると見ています。そもそも、親は学校について勘違いし、子供のことのすべてをやってくれるところだと思っています。子供にとって担任は神様のようなものという神話もまだ生きています。朝、出掛けにけがをした子供に親が「保健室でみてもらいなさい」といったという話があるくらい、何でも学校まかせ。教員にもそのような意識が残ってます。

 ある意味、患者・病院・医者の関係にも言えることだと思った。

判定に泣きリベンジならず グレコの笹本[毎日MSN]

このタイトルだと、「ヘンな判定にグレてしまった笹本選手」みたいだ。

Tuesday, August 24, 2004

N-3人は何をする?

五輪選手や関係者のブログは禁止 IOC[cnn.co.jp]

>理由は、選手やコーチが報道記者のように働くべきではない、という方針のため。

 この記事をよく読むと「五輪に関連する」文章を公開することを禁じているのである。つまり「きょうダーリンのナンシーから飼い犬のジェニーに子供が出来たってメールが来たぜ」ならかまわないだろう、と思うのだが。

 ぱっと見、「報道機関の利益を守るために」なんておやめになった某球団のオーナーみたいなことを言う、と思った。が、実際我々は、厳密には「テレビ(新聞)の中のアテネ」しか知らないわけである。そういう意味で言えば、やはりブン屋さんの取り分というのも確保せねばならんかな、という気もする。

 しかし、ブログがなぜブログたるかと言えば、それが(担当デスク・キー局など)何らの検閲を受けないメディアであるからだ。少々大げさな言い方をすれば、今まではほとんど選手(文字通り「選ばれた」人々である)と地元の人々のものであった五輪が、Webを通して選手個人個人から世界中の人々を巻き込めるものに発展する可能性だってあるわけで、もう少し何とかならんかな、と思う。

 さらに困ったことに、活字にしても映像にしても、既成のメディアというものは、一度に流せる情報の「枠」が決まっている。私はクレー射撃を生中継で見て、これほどまでにリズム感、スピード感のある種目だったのか、と改めて気付かされた。だが、日本では新聞にも電波にも、クレー射撃の事なんか大して載っていない。

 ある競技にN人の選手が参加すると、同順位が無い限りN-3人の敗者(メダルの当たらない人)が発生するわけで、滞在費もかかるものだから、結局のところそれらの敗者は「おまえらとっとと帰れ」と言うことになる。アジア杯終わってからあれだけ注目されていた山本ジャパンなんか、もうそろそろ反省もなしに「なかったこと」にされそうだ。

 良いんじゃないの、予選落ちした選手とかが「選手やコーチが報道記者のように働い」たって。どうせテレビ局のキャスターだって元「選手」のタレントアナばっかりなんだから。

 それこそYahoo!だとか、オリンピックの公式スポンサーになっているIT関連企業はいっぱいある。どうせなら「オリンピック公式ブログ」もつくれば良かったのに。

 よかった、私は見る方で。

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 私のような人間は、ついどうしてもこんな事を考えてしまう。
 今、アテネなんか行ったら、おみやげ用の記念「金メダル」なんかがいっぱい売られてるんだろうなあ。柔道の井上選手なんか、そんなの見てがっくりしてるんでないかなあ。

 そもそもオリンピック本大会まで来て「予選」というのが、どうも引っかかる。女子サッカーなんか、内容としては1勝2敗にもかかわらず「8強入り」なんて言われて、一番歯がゆいのは本人たちではないのか。

結構な思いつきというものは

 実現するのに普通は10年、異様に短くて5年は要するものだ。特にこうしたものは。

医師免許をICカード化 医療の安全、効率向上狙い[北海道新聞]

問題点

 ICカードの容量ってそんなにあるのか?教授クラスならいろんな学会10コくらい普通に入ってたりするものだが。
 免許証に学会登録情報を入れる、ということは、学会に国がお墨付を与えるというわけで、日本内科学会と日本ホリスティック医学会を同等に扱うわけか?と、誰かが言い出しそうな気がする。・・・い、いや、別に私が言っているわけじゃありませんよ。断じて。
 そもそも、ICカードに「持ち歩く情報」として入力しなければならないものなのだろうか?医者には医籍登録という一意のIDがあるのだから、むしろその登録番号と、所属学会を結びつける公的データベースを厚労省がつくればいいだけの話。それこそ堅気衆がWebで検索できるようにしておけば十分ではないか。
 たぶん、そうしたのではあまりに簡単すぎて、金が動かないのだろう。

さんすうの じかん

  (一)昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがいませんでした。
    (ビートたけしのウソップ童話)

  (二)昔々、おじいさんとおばあさんが、いっぱいいました。
    (クレヨンしんちゃん)

 二発かましたところで、本題に入る。

  (三)昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。二人のうちには皿のついた天秤量りが一つありましたが、残念なことに、きちんとしたおもりがありませんでした。
  そこで、おばあさんは、おじいさんにお金を20文渡して、町でおもりを買ってくるように頼みました。

 <条件>
 甲、天秤を使って1匁から10匁まで、1匁単位で量れるように買う。
 乙、n匁のおもりの値段はn文で買える。
 丙、おもりを買うと、店の人は一つ一つきちんと包装してくれる。
   しかし、その包装代は別料金で、一包みにつき一文とられる。
 丁、おつりはおじいさんのおこづかい。
 ※天秤に目盛りを刻むのは反則。

さて、おじいさんはいくつのおもりを、どのように買えばいいか。

 まあ、答えは簡単だが、ではn匁量るときの最小代金は、と考えると結構な暇つぶしになる。

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 朝飯を買いに行ったら、丁度代金が444円になった。朝から縁起が悪い、と考えるか、それとも朝に4を払う(死を祓う)事が出来た、と考えるか?

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よいこのみんなへ!
はじめていく ぎんこうや ゆうびんきょくでは、
 ・おきゃくさんが なんにん いるかな?
 ・なんにんの ひとが はたらいているかな?
 ・ぼうはん かめらの かずは いくつかな?
かならず かぞえて みよう。
じんせい おいつめられたときに どうするかは いつも かんがえておこう。

Sunday, August 22, 2004

駒大苫小牧、打撃戦制し初優勝

駒大苫小牧、打撃戦制し初優勝
こんな時に言葉なんか要らない。

うわーーーっっ!
勝ったー!!!
苫小牧方面に
総員敬礼!!

我々は媒体にすぎない

 医者は善悪を判断できない。少なくとも、我々が生きるこの21世紀においては、そう規定されていると考える。
 難しい言葉を使えば「父権主義(パターナリズム)の否定」ということである。「患者にとって良かれと思うことを、医者であるあなたが判断するな」ということだ。


 医者になろうと思って医科大学に入り、純真な気持ちを持っていた頃、ずいぶんこれについては考えさせられたものだ。
 日々、それなりの困難の中で前に進むためには、どうしたって世界を「自分」中心に構築しなくてはならない。「オレがこうしたいから」という気持ち、「他の誰よりもオレの方が良い仕事が出来るようになりたい」という気持ちが無ければ、とても研鑽と言ったものは成立しないのだ。つまり、自分の中に「がんばる自分は善、怠ける自分は悪」といった価値観を醸成することが求められる。

 しかし、それまで事実上「医療者主体の医療」であった現場が、「患者さま主体の医療」でなければならない、という概念が浸透してきた。冒頭に述べたとおり、ここで私はその善悪を言わない。だが、正直なところ、医療者にとってそれはまるで「自分」の否定であるかのような感じを受けるのも確かなところなのである。特に、「医療者主体」であった世代の医者を師として教えを請うていれば、ますますその感は強まるのである。


 一時方々のblogで流行ったネタに、「アリ社会の中にも怠けアリが3割程度存在する」と言うものがあった。世の中には、明らかに「がんばれない」人々が存在する。一方、医科大学の同級生というのは、どういう形にせよ「がんばることの出来た」人たちである。私の生まれ育ったのは道央の炭鉱街だったが、大学に入ってみてまず驚いたのは「何でこの人たちは皆『話せばわかる』のか?」と言うことだった。


 ある時、教養課程の教授が、講義中に漫画を読んでいた学生のもとにつかつかと歩み寄り、猛烈に頭をひっぱたいたことがあった。当然私は、教授の行動に対し、学生の側から時間的間隔は開くかも知れないが、何らかの報復行動が起こるものと踏んでいた。
 暴力をふるう教員に対しては、生徒の側からも暴力の可能性が常に存在する。少なくとも中学校では、それが常識だった。
 だが実際、そういうことにはならず、つまりここの学生たちは暴力に対する免疫が無いのだ、という結論に落ち着いた。

 だが、この(医学生の)集団を標準と考えていたのでは、同時に人生に於いて重大な間違いを犯すことになるだろう、とも思った。


 我々人類は、全員が「がんばることの出来る」人間ではない。もし全員が「がんばることの出来る」人たちであれば、内科学の教科書の一章を「肥満」や「動脈硬化」が占めるはずもなく、糖尿病に対する運動療法の効果は、実に切れ味の良いものになるはずだ。
 医者などというものは、むしろその「がんばれない」人々のおかげで飯を食っている。こういう結論に達するまでにはかなりの時間を要したが、これは「兵士の論理」に一種近いものがある。

 近代国家では、市民政府が下した命令に対して兵士は抗弁権を持たない。命令にはただ従うのみであり、その政策が正しいかどうかに対しては、判断の権利を持たないのである。しかし、その内容がどんなに愚かに思えようと、いついかなる命令にも答えるべく、日々兵士は訓練を積む。それを誇りとして。

 現代では、兵士も医師も、他者の目的を満たすがための「媒体」として生きることが期待されているのである。

体育雑感

自転車チームスプリントで日本が銀メダル

 NHKのアナウンサー氏、「きんメダル」と言っているのか「ぎんメダル」と言っているのか非常にわかりにくい。しかも決勝進出の時点で「日本の銀メダルが確定しました」とか言っちゃってるし。解説者が異様に気まずそうだった。

 日本語の「金」「銀」は、プロの発音を聞いても聞き取りにくい場合が多々ある。せめて「白金(しろかね)メダル」とか言ってくれないか。あっ、白金ってプラチナになっちゃうのか。アカガネって言ったら銅になるのか。

 結局金も銀も区別しなくて良いんじゃないのか。よく頑張ったんだから。

 蟹江きんさん成田ぎんさんだってペアで商品価値があったわけだし。

 でも、

 駒大苫小牧、北海道勢初の決勝進出 東海大甲府下す

 どうせならやっぱり「金」の方が良いのか。

Friday, August 20, 2004

「日本語朗読師」の導入を

鈴木健二氏が五輪アナに苦言[MSN-毎日]

 わたしのようなオッサンは、鈴木健二氏というとすぐ「クイズ面白ゼミナール」を思い出すのだが、それはさておき。
選手の言葉にも「言葉が一律で薄っぺらい」と指摘し、自ら客席で朗読を指導した。往年の“テレビの顔”が「(本は)言葉を確実に身に着けられる」と、読書の効用を語った。


 確かに、現在最も豊かな日本語の表現力を持つと思われるアナウンサーが、その能力を生かし切れない番組にいることは残念の極みである。少なくとも彼のスポーツ中継は、表現力という観点から見れば完璧であった。

 「言葉が薄っぺらい」、という問題の他にも、本来国民に正しい日本語を提供するべき職業であるはずのアナウンサーが、あまりにも日本語をないがしろにしている。それに気付くことは、もう珍しくなくなってしまった。

 あるスポーツ番組で、「ロウソクのマグワイヤ、中村紀洋選手」とアナウンサーが言ったことがあって、一瞬考えてしまった。脳内IMEから「再変換」を実施し、それが「浪速のマグワイヤ」であることに気付くには数秒を要した。

 また数年前から、「すごい楽しみです」といった表現を聞くことが多くなった。この分自体が軽薄で実にいやな日本語なのだが、気付くと自分でも使ってしまっていることがある。しかし、もちろん「すごい」の連用形は「すごく」である。しかし、公共の電波に乗るアナウンサーの日本語がこの表現を受け入れるのに、それほど時間はかからなかった。

 韓国籍の歌手、BoAも来日してからしばらくの間、NHKのアナウンサーについて徹底的に日本語のトレーニングを受けたという。ここ最近はかなり怪しい日本語に「戻って」来ているが、デビュー直後は驚くほど正しい文法を用いていたように思う。まあ、怪しい日本語を用いる我々日本人自身にも咎がある。


 いざというとき、アナウンサーの日本語には人命がかかることだってある。果たして現代のアナウンサーは、それに耐えうるだけの職業意識を持ち合わせているのだろうか、と思うことがままある。


 いわゆる「お天気お姉さん」が「気象予報士」という資格によって権威付けされたように(まあI原家の坊っちゃんはともかく)、そろそろ文部科学省国語審議会かどこかが中心となって、正しい日本語を話すアナウンサーに何らかの資格試験を実施すべきである、と考える。それを、たとえば「日本語朗読師」と名付ける。
 もちろん、今までのように容姿中心でアナウンサーを選定することがあっても良いのだが、それは「局アナ」ならぬ「局タレ」として、国家資格に基づく正式な日本語朗読師とは区別するのである。

 もちろん言葉は生き物であり、社会のあり方によって変容することは許容される。従って、各々の時代の日本語に対応するため3、4年おきに資格試験の更新試験を設けねばなるまい。

 また、放送内容を監視する第三者機関を新たに設け、(米国などでは、こうした「アーカイブ」が存在するが、日本には無い。これがいわゆる「報道被害」を立証する上で、一つの壁になっていることはあまり知られていない。)アナウンサーがしゃべる日本語を毎日チェックするのである。あまりに減点が多いアナウンサーは、資格を返上しなくてはならない。

 別に国家資格がなければ報道番組に登板させてならない、という法律まで作ることはない。それは明かな国による言論統制となるが、気象予報士の例に見るように、いわゆる「名称独占」でもそれなりの圧力をかけることは可能であろう。

魂までを罰することは出来ない

中日両国は若者教育を サッカーアジア杯「反日運動」に言及 中国駐札幌総領事が講演[北海道新聞]

 一方、小泉首相の靖国神社参拝に関して「中国では罪を犯した者は、その死後も罪を追及する。中国の国民感情を考えない参拝は問題」と批判した。

我が子を殺害 メディアが多用する「無理心中」の欺瞞[BNN]

 各マスメディアは、この事件を無理心中と報じた。確かに主婦が我が子を手に掛け、自らも命を絶ったことは無理心中にほかならない。
 しかし、家庭の金銭問題、あるいは子どもの障害など深刻な事情があったにしても、これは殺人事件と呼ぶべきではないか。

 日本人には、「魂を罰する」という概念が存在しない。この2件のニュースは端的にそれを物語っている。

 確かに、刑法には禁固・懲役といった刑罰が規定されている。殺人や外患誘致など、重大犯罪に対しては死刑の規定もあり、実際に施行している。一見、日本は犯罪に対して、実に厳しい刑罰を持った国であるように見える。
 しかし、同時に日本国憲法第36条には、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」と書いてある。ここには、本質的な人間の尊厳というものを至上に尊重する態度が表れている。つまり、「違法行為に対しては罰するが、生きている人間の魂を罰しない」ということである。

 キリスト教的世界では、「死後裁きに逢う」という言葉がある。この言葉の真意は、「この世に生きる人間には限りなく真実に近づくことが出来るが、決してそれを手に入れることは出来ない。真実は神のみが知るものだ」というところにある。
 米国で、事実上一審制の陪審員制度が普及しているのも、結局はこの世界観が元になっている。真実かどうかをとことんまで追求するように見えながら、その実は、陪審員という、一般社会のメンバーを巻き込んで、起こりえるマチガイに対する責任を分担する仕組みなのである。
 死刑廃止の議論においても、必ず「人間がやる裁判には必ず冤罪を起こす余地がある。そんなことで人の生死が決定されることがあってはならない」という意見が出てくる。

 養老孟司先生が「逆さメガネ」で書いていることだが、日本人には死人がよみがえって何か悪さをするという概念は、本質的に無いのだという。ところが、中国人は今だに毛沢東先生の肖像画を崇拝する人がいるように、死んでもなお権勢を保ち続ける人物というのがいる、と考える。


 靖国参拝に反応する中国。死刑を恐れない宅間守のような犯罪者。テロ抑止のためなら容疑者に対する拷問もやむなしとする米国世論。

 これらの事象を見るとき、果たして我々に魂を罰する事が許されるのか、というのが根本的な問題であるように思う。そして我々は無意識のうちにそれに否と答えているのである。

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 だがもし、子供に次のように聞かれたらどう答えればいいのか。
「ねえ、死刑になる覚悟があったら人を何人殺しても良いんでしょ?」

精密機器の軽量化に対する一考察

屋根裏からパソコン釣り43台 静岡[MSN-毎日]

最近のノートはずいぶん軽量化が進んだものだ。


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すいません、思いつきで更新するようになっちゃって。

お盆休み中のニュース(2)

F2戦闘機、調達中止へ…高価で性能不足[Yomiuri Online]

だから言ったろう。グリペン買え、グリペン。

 で話は終わってしまうのだが、実際軍オタ系のblogを拝見すると、F/A18スーパーホーネットが有力と見る声が大きい。だめだそんなの。ホーネットは艦載機なんだから、ついでに空母まで欲しくなってしまうではないか。

 そもそも調達中止となったF2の原型は、F-16である。そもそもF-16の設計思想は、「F-15が1機買える予算で2機買える」安くて小型軽量な戦闘機である。それがいつの間にか、大型戦闘機のF-15より高い値段になってしまったわけで、そんなモン買ってられるか、というのは実に率直な感想である。ちなみに現在F-15を装備しているのは、米国・サウジアラビア・イスラエル・日本の4カ国だけである。他の国には高すぎて買えないのである。

 F-16の原型初飛行は1979年。開発はジェネラル・ダイナミクスであったが、同社は93年に航空機部門をロッキード社に売却。ここに新生ロッキード・マーチン社が誕生する。ちなみに現在もジェネラル・ダイナミクスはM2ブラッドレイ歩兵戦闘車等を主力商品に、軍事産業の中心の座を維持している。
 時同じくして、我が国では次期支援戦闘機FSX:Fighter Suppot X計画が持ち上がる。
 当時三菱重工を中心とする「純国産」の開発方針であったが、米国から強烈な横やりが入り、F-16ベースで開発が進められることになる。
 新型F-2の形が見え始めてきた頃、今度は米国議会から「F-16のような新鋭機の技術を日本に譲渡すべきでない」というクレームが付く。日本側が開発の過程で得られた新技術は原則として米国にそのまま供与、というある意味屈辱的な契約条件を結ぶことで、何とか開発は続けられてきた。
 しかし、原型初飛行を終えたF-2に、飛行中主翼に亀裂が入るというおよそ航空機としては致命的な欠陥が判明。主翼部分の補強など付け焼き刃な設計変更がなされたが、本来は材料工学の段階から見直すべき問題であった。

 価格の面から考えれば、陸上自衛隊の小銃(1丁35万円)だって、ロシア製(AK-47:工場出荷で1万5千円。東京マルイの電動ガンより安い。)にした方がいい。
 本当に開発単価を安くしたいならば、日本の工業力で大量生産して第三国に売りさばけばいいのだが・・・?

 どうも最近本気でそういうことをお考えになる方がいらっしゃるようだが、「日本のつくる武器は果たして売れるか?」という問題はまた次回に回す。

お盆休み中のニュース(1)

コンサドーレが酒気帯び運転・新居辰基の契約解除を決定

 とても悲しいニュースだ。

 新居・中尾両選手のしたことは恥ずべき事である。とてもプロとしての自覚があるとは思えない。しかし、私が本当に恥だと思うのは、二人とも札幌のサッカー選手であるにもかかわらず、試合にあった日にススキノで飲酒し、車を運転して帰るということを(飲み屋のお姉ちゃんなり親父なりも含めて)周囲の誰もが止めなかったということだ。

 コンサドーレ札幌は、今まで「地域密着」をテーマに成功したクラブの一例として、川淵チェアマンの時代から褒められてきたチームである。ところが、今回の事件は「二人ともサッカー選手でありながら、敗戦の夜に酒を飲ませた店があった」か、「そもそもプロサッカー選手であると店の人間が気付かなかった」かのどちらかであることを物語っている。
 前者だとすれば、元監督のH谷氏にもその責任の一端があると思えるのだが。そもそもコンサドーレの選手がシーズン中に痛飲するなどと言うことは、氏が監督に就任してから始まった事であるからだ。

 
 また、昨年に続き2年連続で不祥事を起こしてしまったことから、来年3月をめどに、宮の沢練習場近くに20人規模の寮を新築することを発表。24時間体制で選手の管理に努める考えを示した。寮長には村野管理部長を充てる方針。


 石水社長がチームにいろいろと施しをしてくれるのは本当にありがたいことである。今までコンサドーレに投資された「白い恋人」の資金を考えると、本当に頭が下がる。
 しかし、現状を見ると、今のコンサドーレ札幌は本当に市民、道民と密着できているのだろうか、と考えざるを得ないのである。

 本来は「ススキノでコンサの選手を見かけたら、捕まえてとっちめる」ぐらいなのが、本来のサポーターの姿なのではないかと思う。

Thursday, August 19, 2004

カラシニコフ

 新聞連載の時から注目していた記事が単行本化されたので、早速Amazonで注文しようと思った。もとより私に新聞を購読する、という習慣はないが、その日の朝コンビニに出かけて、一番できのいいところの新聞で、童心以外のものを購入することにしている。朝日新聞のその連載は、これは絶対に出版されるであろうというだけの凄みがあった。

 しかし、帰省などでうかうかしている間にずいぶんなベストセラーと化したと見え、何とAmazonでは在庫切れになってしまった。

 こういう時の対処法はいくつかあって、座して重版が刷り上がるのを待つか、あるいは大都市に住む利点を最大限に生かして自らの足で探しに行くか、それともインテリっぽく別のネット書店で置いていないかどうか確かめる、などといったところだ。

 もとより座して何かを待つ性分ではない。かといってあまりにネットのみに依存しすぎるのも不健康だ。

 最近のリアル書店(つまり、小売り店舗を持っている書店)の中にはネット上に在庫状況を表示しているところも多い。そこで一旦その書物の在庫を確かめてから、東へ20km係走って件の書物を手に入れた。

 阿呆と笑わば笑え。


 その本の名前は「カラシニコフ」という。

 本の前半は、その名の通りAK-47に代表されるロシア製突撃銃、カラシニコフについてのルポタージュである。中でも注目は、設計者であるミハエル・カラシニコフ中将とのインタビューである。

 数年前、Scientific American誌の特集では、全世界に出回っているAK系のライフルは4千万丁とのことであった。これは米国製M-16系、ベルギー製FN-FAL系、ドイツ製G3系のライフルを遙かにしのぐトップである。
 ところがこの本によると、現在世界のAKライフルは1億丁あるという。下手をすると今日の飯を手に入れるより、弾を手に入れる方が遙かにたやすい状況が生まれるわけだ。実際に、腹を空かせた武装民兵が、集落を襲撃してその数日間の食事にありつく、といった事例が本書には紹介されている。

 後半はソマリア、南アフリカに代表されるアフリカ諸国におけるNGO、またODAのあり方といったテーマで展開する。既にバラ撒かれてしまったAKライフルを回収するために、NGO、あるいは国連といった組織は何をしてきたのか?そしてそれは果たして成功と言えるものだったのか?国際援助資金といった代物は、最後にどこへ流れていくのか?

 我が国の人は兵器について語ることを好まない。それは、病院の外の人々が病について語ることを好まないのととてもよく似ている。



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 本書の他、邦訳されている銃器ルポの傑作に、ジョン・エリス著「機関銃の社会史」がある。その中から一節を引用する。(以下斜体字部分)

「第2章 産業化された戦争」より
(略)マクシムは、機関銃の開発に取り組むようになった理由について、次のような説明をしている。「一八八二年、以前アメリカで知り合った一人のユダヤ系アメリカ人にウィーンで再会したが、そのときにこう言われた。『科学や電気学なんてくそくらえだ!もし君が一財産つくりたければ、こいつらヨーロッパ人がもっと簡単に互いの喉を切り合えるようなものを発明しろ』」

 果たして、彼ハイラム・マクシムはそれを実行した。結果、水冷式マキシム機関銃は、日露戦争に於いて最も日本人を殺害した兵器として、「カタカタ」の名で恐れられたのである。

たまには意地悪に

 おそらくいい本なのだろうが、既に心電図の本はいろいろと持っている上に、どうも特殊な表現をお使いのようなので、ここに晒してみる。

砂楼の城郭[Google検索]

Sunday, August 15, 2004

なんだかなあ

お盆明けでまだ完全に頭が戻りきっていないので、難しいことを書くのは避ける。
そこで簡単なニュースのみ。

秀丸の正式版である4.11がリリースされた。

今回から追加された主な機能は以下の通り。

・SDI対応
O's editorのように、一つのウィンドウ内で複数のファイルを開くことが出来る。

・秀丸Explorer対応
何だかLynxやw3mの機能を、よっぽどつけてみたかったんだろうなあ、という感じ。
しかし、サーバー上のHTMLをFTP接続で直接いじれるかのような操作感は結構好き。

・バイナリモードの追加。
もはやこれさえあれば秀丸に何も出来ないことはないのではないか、という感さえある。

Saturday, August 07, 2004

外務大臣会見記録

・中国における反日活動

 なんだか上記ページの目次(スクロールしてページ上部を見よ)では「反日感情」となっており、見出しは「反日活動」となっているところに混乱が見え隠れしているような気がする。

 私も、アジアカップのスタジアムにいるのは「中国のサッカーファン」というよりは、「中国のフーリガン」ではないか、という見解を持っている。上海申花に代表される、派手なチームこそあれ、中国国内ではまだまだ一般市民に「スポーツを見て楽しむ」という余裕というか、そういう文化は成熟していないのではないか。ちょうど日本で言う東京オリンピック前夜みたいなものだろう。野球にしろ、サッカーにしろ、まだまだリーグとしては成熟していない。

 って、わが国を鑑みると、どうなんだ?

Friday, August 06, 2004

大きいことはいいことか?

 Gmailに対抗して、Yahoo!Mail(Japan)Hotmailなどもメールボックスの増量を打ち出している。Yahoo!は25MB、Hotmailにいたってはなんと一桁違う250MBだそうで、もう心置きなくSPAM送ってください、といわんばかりである。

 こうなると、私がわざわざ月400円、2MBで契約しているPOPメールサービスがアホらしくなってしまう。

 通常、あるプロバイダに加入した場合、そのプロバイダが提供するメールボックスを使用するのが普通だと思われるが、私はいくつか理由があってそうしていない。
 今の回線を引く際にちょっとしたトラブルがプロバイダとの間に起き、そのせいでメールボックスをそのプロバイダに預けたくない、という気持ちになったことがひとつ。
 もうひとつの理由は、引越しなどでプロバイダを変更するときにも、メールサービス提供業者をプロバイダと別に契約しておけば、余裕を持ってアカウント移転が可能になる、ということである。

 しかしながら、たとえばアマゾンの注文メールや毎月のカード支払額通知メールのように、それなりにプライバシーを必要とするメールが、どうも無料メールサービスのアドレスに届くのは抵抗がある。別にYahoo!やマイクロソフトの人がメールを検閲しているとは言わないし、金を払っているからプライバシーが守られるということでもない。

 意外と知られていないことではあるが、記憶容量1MBあたりの値段を比較すると、ハードディスクというのはCD-Rやフロッピーディスクなどよりもむしろ安いのである。したがって、各社が太っ腹になるのも、まあわからないではないのだが、それでもそんなものがタダでもらえるとなると、一抹の不安を覚えるのである。

Wednesday, August 04, 2004

何が困るかということ

最近Windows XP Homeの具合が特におかしくなってきたのでいっそのこと、と
思いVine 3.0に変更した。まあとりあえずWindowsを再インストールするまで
のつなぎなのだが、なかなかATOK無しでは日本語入力が不自由だ。

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ほとんど「かんな」に対する文句だ。

政治とスポーツ考。

 私は乏しい知見から、以下のような認識を持っている。

 日本は湾岸戦争の時に、90億ドルの実質的な戦費を拠出した。それにもかかわらず、欧米諸国の評価から「金だけ出して人は出さない」と言われ続けた。小泉首相は、そのせいで今度のイラク戦争には積極的に自衛隊を派遣する事にしたわけである。ついでに「自衛隊は多国籍軍に参加します」なんて事まで言ってしまった。つまり、アメリカさんにはよっぽど嫌われたくなかった訳である。


 現在中国ではアジアカップの真っ最中である。日中戦争中、重慶爆撃という出来事があったせいで、重慶では日本代表がワヤなブーイングを受けた。日本代表だけならず、日本国歌にまで容赦ないブーイングが浴びせられた。

 おそらく反日感情の強い土地柄であるせいだろう。私はそう思っていたが、今晩見た済南での準決勝戦においても、日本代表には罵声が浴びせられた。審判も、これは私の主観だが、ずいぶんとバーレーンよりだったように思える。

 つまりは、中国全土において「日本嫌い」の国民感情が浸透しているのではないか。日本時間土曜日の北京で行われる決勝戦においても、同様の事態が起これば、私はそれを確信することになるだろう。

 ここに、外務省が出した「中国に対する2000年度円借款供与について」という文書を見つけた。これによれば、2000年度の時点で、「中国に対する円借款の総額は、2兆6,507億700万円」であるそうだ。湾岸戦争当時のレートと換算しても、90億ドルとは比較にならない額である。

 ずいぶん金を払っているにもかかわらず、ずいぶん中国には嫌われているものだ。別に中国が反日教育を継続しているとか、そういうこと以外にも(もちろんそういうことを含めても)、何かが間違っている気がする。

正しき目的のために

Vine Linux 3.0リリース

まだ各FTPに出回っていないようなので、とりあえずringサーバーから落としてnyに放流してみる。

・・・・まだ誰も取りに来ない。

本来こういうのはBitTorrentを使うといいと思うのだが、国産ディストリビューションではまだ一般的でないようだ。

Tuesday, August 03, 2004

ご利用ガイド

・インターネットバンキングでご利用いただけるブラウザ
(全て日本語に限ります)
OSがWindows95、98、Me、NT4.0、2000、XPの場合
Microsoft Internet Explorer 4.01、5.0、5.01および5.5以上、
もしくはNetscape Communicator 4.51~4.75がご利用になれます。

しかも「モバイルバンキング」って、iモードしか使えないのかい。

だみだこりゃ。
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 よく考えたらここのコンビニが5年ほど前、ネット書籍販売業に手を出したときもずいぶんトラブったんだったなあ。そろそろ「学習」しよう。

同じじゃなきゃいいんだろ。

全閣僚が食中毒なら大変、昼食会の「刑務所ランチ」中止

 旅客機のパイロットなどでは、機長と副操縦士は同じ食事をとらない、とどこかで聞いたことがある。しかし、そういうからには今まで全閣僚は同じ食事をとっていなかったのだろうか。

 どうせなら府中刑務所だけじゃなくて、全国の刑務所から選りすぐりの一品を全閣僚で召し上がるようにすればいいのでは、と私などは考えてしまう。

Monday, August 02, 2004

ネタ作り。

 ネタ作りのために、セブンイレブン系列、アイワイバンクの口座をつくってみた。来年から(たぶん)忙しくなるから、まあ24時間ATMが使えるのは普通に魅力的だったせいもある。
 申込書投函してから、丁度10日経った今日、カードが送られてきた。丁度汗だくで面接に行っていたときに配達記録郵便が来たようで、不在連絡票を持って山鼻郵便局へ。

 封を破って、カードを見る。「お客様支ID」の次に「バラ支店」と書いてある。なんだこりゃ。よくよく読むと、口座を開設した月によって支店の名前が振り分けられるらしい。素直に怪しい。

 帰りに寄った7-11のATMで、とりあえず2,000円預け入れしてみる。平日1900時から0700時までは、月3回まで預け入れ手数料は0円とのこと。これはまあまあの線だろう。

 帰宅してから、早速Mozilla Firefoxでサイトに接続。

 この銀行、月一回、明細表を送らせるだけで口座維持手数料を取られるが、インターネットによる残高照会、利用履歴照会のみを利用する場合、手数料は不要である。カードに書いてあるお客様IDと、申込書に書いた暗証番号を入れ、改めてパスワードを入れる。しかし、パスワード6ケタの数字というのが、微妙に記憶しにくくイヤなところである。

 しかも、Firefox上での挙動がどうもおかしい。ログアウトボタンが無効である。

 仕方なくIEで再ログインしたら、「ただいまあなたはログイン中なので15分経ってからまた来てください」みたいなことが出てくる。おい。その15分の間に誰かが回線に割って入って来たら、ごっそりやられるんちゃうか、という一抹の不安がよぎるが、そのために少額の入金にしといたのである。ここは腰を据えて待つことにする。

 15分経過後、再び純正のIEを用いてログイン。今度は会員メニューをフルに閲覧することが出来、ログアウトも無事完了した。

【苦言】
1.お客様ID、口座番号、暗証番号、パスワードと管理すべき項目がありすぎだ。老人には勧められない。
2.シワをよく伸ばさないとあのATMは受付してくれなさそうだ。
3.せめて利用明細はExellで管理可能なカンマ区切り形式とかを提供して欲しい。
4.まあそんなこったろう、とは思ったがIE以外のブラウザで上手く利用できない。


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 やはり「売上金回収箱」であろう。

マクロ考。

 以前書いたように、bloggerのエディタが全く使い物にならなくなってしまったが故に、まずここの文章は「秀丸」上で編集し、その後コピペという手順を踏んでいる。

 blogを書く上で、文章のある部分にリンクを張る、という行為が頻繁に必要になるときがある。それこそ以前はbloggerのWebエディタがかなり手頃だったのだが。

 仕方がないので、自分でマクロをいじって「秀丸」に実装することにした。まずは秀丸のマクロライブラリを当たって見たのだが、どうも私の必要するものと微妙に挙動が違う。
 いくつか存在するHTML編集用のライブラリと、「『秀丸』を100倍生かす強力マクロの使い方」を参考にしながら、何とか自分の思い通りの挙動をするものをつくってみた。

 ついでに、ASINコードと画像ファイル名を入力するだけで簡単にAmazonアソシエイト用リンクを作成できるマクロも作成。同様の機能はAmazonがWeb上で提供しているが、大げさすぎる。そんなものローカルでつくれるようにしたかった。
 アソシエイトに加入してみてわかったが、画像を使うときAmazonの鯖に直リンしてはいけないのである。いちいち、自分で画像用の鯖を用意して、しかるのちAmazonから画像ファイルを「借りて」そのサーバーへ移し、リンクを張らなければならない。つまり、自分のサーバーに負担をかけねばならない。

 そこまで世の中甘くない、ということか。
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今日の一冊


面接試験

 二日前に外の病院を受験。そして今日は自分のところの大学病院の面接日だった。

 外病院の方の面接では、かなり紋切り型の質問をされた。おそらく他の受験者と不公平にならないようにとの配慮からだろうが、面接官の単発の質問(たとえば、「~についてはどう思うか」とか)について、とうとうとしゃべらされるのはかなり厳しい体験だった。
 面接官から厳しいツッコミがあった方がまだましで、それはコミュニケーションの成立する余地がある、ということになる。正直所属していた部について、「それが何かの役に立つのか」といわれた時が一番答えやすかった。

 本日の面接は「もともと落とす気がない」事が分かり切っているため、一応一年間の関連病院出向はどこへ行きたいか、大学病院ではどの科を重点的に研修したいか、といった確認的な意味合いが強かった。当然、面接官(ポリクリで習った先生だ、もちろん)と、会話のパス交換は実にスムーズに進んだ。

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 何も言われないのが一番つらい。

一安心

少なくとも、術後経過は順調のようだ。

Saturday, July 31, 2004

ミュージシャンにも免許制を導入せよ

 JIRO氏の7月31日分「リコーダー(縦笛)というのは、皆が考えているような、幼稚な楽器ではない。」より、『音楽は厳しいものだ』という意見に賛成する。


 私はいわゆるクラシック音楽を好かない。それどころか、クラシック音楽を奏でるアマチュア「音楽家」にはまず99%殺意を覚える。


 それには理由がある。私の母は、姉と私にピアノを教えさせた。私は途中、というか初めてから3ヶ月ほどであっさりと挫折したが、姉の方はその後もピアノを続け、音楽系の短大に推薦入学した。今でも教員としてその技術で飯を食っている。

 しかし、JIRO氏の言うとおり、一つの楽器をきちんと使いこなすというのは生半可なことでないのである。

 姉は毎日ピアノを弾いた。私が思うに、ピアノの音色には「呪詛」か「怨念」のいずれかの言葉を用いてしか表現使用のない演奏者の念が籠もる。
 基節は冬。ピアノの音が煙突に跳ね返る。「くわあぁぁぁぁぁぁーーーん」と不気味な音が響く。耳を覆っても覆っても防ぐことの出来ない音だ。
 幼い私は押入れに入り、布団の中に隠れて音から逃れようとしたが、音というものは実に厄介だ。不味いものなら食わねばいい。汚い画なら目を閉じればいい。臭いものなら息をしなければいい。しかし、怨念の籠もった音というものは、耳を閉じても頭蓋骨や胸膜を通して否応なしに染みこむものなのである。

 今でも私は、高名な演奏家の姿を見るにつけ、その見事な演奏の裏にある暴力と脅迫の陰を見る。たとえば、純粋に技術的な面から見れば、放送に出てくる北朝鮮の子供たちの音楽的レベルはかなりのものに達している。しかし、その裏にいったいどれだけの脅迫や暴行がこの子たちに加えられただろう、その仕打ちに耐えられずに脱落していった子供たちはいったいどこに行ったのだろう、と考えてしまうのだ。

 しかしながら、またそういった暴力と脅迫なしでは真に洗練された音楽は生まれ得ないものだと信じている。

 
 いわゆるストリートミュージシャンという輩がいる。いつも思うのだが、車を公道の上で運転するという行為は、法律で決められた教習所の場内教習を経、仮免許を受けてからでないと社会的に許されない。それは、公道を行き来する一般の人々を守るための決まりである。

 公道を歩く人々のも守られねばなるまい。どうせ奴らは警察から正式の許可も得ずに公道を占拠しているのである。
 せめて、公的機関が審査を行い、「公道で楽曲を披露するに値する」レベルに達しているかどうかを判断した後(もちろんこのプロセスには、一般市民の参加が不可欠であろう)改めて「路上音楽演奏免許」を発行すべきである。免許を持たぬ雑音製造器はどんどん警察がブタ箱にぶち込めばいい。


 私は、本質的に音楽を奏でる人間が嫌いである。だが、下手な音楽を垂れ流す人間はもっと嫌いである。そういう人間を目にしたときの私の目は、無意識のうちに「アルカトラズからの脱出」の一シーンを再生しながら、近くに手斧がないかどうか探しているのである。