Thursday, October 25, 2007

引っ越しに備えて

いくつか無料のblogを借り、blogger + haloscanにトラックバックを発砲してみたが一向に反映されず。やはり近日中に引っ越す方針かなあ。

今まで書きためてきたbloggerにはbloggerなりの良さがあったし、mixiで弐もそれなりの良さがあるのだが、やはり顔を知られずにものを書ける場所が一つはほしいものだ。

Wednesday, October 24, 2007

本日は晴天なり

引っ越しに備えて、各ブログとのトラックバック関係などを調べるためのエントリ。

特に他意はありませんです。

Thursday, October 11, 2007

気力の障害

 気分障害というのは、精神科で最もよく扱われる病気の一つである。いわゆる「うつ病」などがこの病気に含まれる。

 では、気分というのは何か。私もこの気分障害を患っているし、何よりもメシの種であるから、せめて他人にこれはどういうものです、とちゃんと説明できるようになっておきたいのだ。

 ということで、辞書で「気分」を引いてみることにした。
 参考:Yahoo辞書

きぶん1 【気分】
「きぶん」を大辞泉でも検索する

[1] その時々の漠然とした心・気持ちの状態。
・―をこわされる
・遊びに行く―になれない
[2] からだの生理的な状態に応じて起こる、快・不快などの心の状態。気持ち。
・乗り物酔いで―が悪くなる
[3] その物事に対してだれもがもつ、特有の心の状態。
・お祭り―
・新婚―
[4] 〔補説〕 孔子家語(執轡)
気質。気性。
・―のよい男
[5] 〔専門〕 心 からだの生理的な状態と密接な関係をもつ、比較的弱く長時間持続する感情の状態。
→情動

[ 大辞林 提供:三省堂 ]


 「カプラン精神医学」など、きちんとした精神医学の教科書をひもといてみても、上の[5]のような説明と似たり寄ったりである。つまり、「長く続く感情=気分」というわけだ。

 では、「感情」とは何か。それについてわかれば、きっと「気分」についてもわかるにちがいない。再び辞書に聞いてみる。


[1] 喜んだり悲しんだりする、心の動き。気持ち。気分。

・―に訴える
・―を顔に出す
・―を害する
・―を込めて歌う
[2] 〔専門〕 心 ある状態や対象に対する主観的な価値づけ。「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと、「快い」「不満だ」など主体自身に関するものがある。また、一時的なものを情動、持続的なものを気分と呼び分ける場合もある。
→かんせい(感情)
→(句)感情(かんじょう)を害(がい)・する

[ 大辞林 提供:三省堂 ]


 つまり、辞書の解説を信じるとすればこういうことだ。「物事に対する主観的な価値付け(=感情)」が、持続的に障害された状態が「気分障害」である。

 (ちなみに、「感情」にまで言及している精神医学のテキストはほとんど無い。ただし私がまだきちんとした古典を読み込んでいないせいかもしれないので、もしお気づきの点があればご教示いただければ幸いです)


 少なくとも自分の経験からは、これは納得のいく説明では無いのである。

 確かにうつ病の極期には、「何も考えられず、それでいてただ涙があふれてきた」ということを訴えることがある。しかし、その経験が必ずしも「悲しみ」という感情と結びついているのか、というと違う気がする。

 うつ病の本態は、精神的疲労にあるのではないか、と個人的に考えている。専門的には「易疲労感(イヒロウカン)」と呼んだりするが、うつ病では、例えば書類仕事を1時間していないのに、8時間ぶっ続けで働いたのと同じような疲労感が感じられる。肉体労働に対する疲労は筋肉内の乳酸蓄積だとか、まだ定量化する方法があるのだろうが、中枢神経の疲労を定量化する方法、もっといえば写真に写す方法に至っては、われわれはほとんど持ち合わせていないのである。従って、有名なDSM-IV-TRの診断項目のような、面接上の質問によってそれを推し量るしかない。


 最近病の状態が回復してきたので、物理学の教科書をじっくり読み込んだりしていた。

 ファインマン先生がいうには、物理学において時間というものは定義するのが非常に難しいのだそうである。しかし、とにかく砂時計にしろ、それを計る方法だけがある、と。

 精神医学における「気分」も案外似たようなものかも知れない。


 専門用語で「気分障害 mood disorder」というとき、この「気分」という言葉はわれわれが日常に用いるところの「気力」に近いのではないだろうか。気分障害は、気力障害と読み替えた方が一般の人にとっても理解しやすくなると思うのである。

 もっとも、昔のエントリーで書いたように、「気力」だの「精神力」だのと言う言葉についても、私たちはほんの少ししか理解していないのだけれども。

--
 それにしても、昔のドラマによく出てくる、往診鞄を提げた医者が、「過労ですな・・・」と診断をつけるのシーンには、味がある。

大したことは書いていなかった

 このblogを学生時代に書き始めてからずいぶん時間が経った。

 働き始めてから、見たり聞いたりしたことを書くのは守秘義務とのかねあいもあるし、それ以前に様々な諸先生方が医師として立派な記事を発信されているのを読ませていただくと、自分の書こうとしている文章なんて気恥ずかしくてとても他人に読ませる価値がないと思えることばかりだった。

 今日、しばらくぶりに書きためた記事を読んでみて気付いた。

 なんだ、もとから大したことは書いてなかったんだ。

 少し、ほっとした。

 ただ、振り返ればよかったんだ。


 bloggerの仕様か、日本語のトラックバックやコメントが高確率で文字化けするということが少々気になるので、、メインのブログはどこかに引っ越しするかも知れない。ただし、これからも暇を見つけては何か書き込んでいこうと思う。

Thursday, May 24, 2007

ランボー4がスプラッタ路線に転換したことについて

シルベスター・スタローンの「ランボー」シリーズといえば、
パート1・2はシリアスなベトナム帰還兵問題を扱い、パート3でコメディー路線(戦車で縁と体当たり勝負を挑む、アフガンのムジャヒディンをCIAの手引きで支援しにいく)に転換したアクション映画として知られている。

そしてパート4は「悪魔のはらわた」もびっくりのスプラッタ路線に転換したようである。
還暦を迎えたスタローンもといジョン・ランボー、敵の首をはねるわ、至近距離からのM2重機関銃で相手をケチャップボトルにするわの大活躍で、(予算の割に)ファンの期待を裏切らない大作になりそうである。

え?
僕はとりあえず"shooter"「極大射程」に期待。ボブ・リー・スワガー・サーガは全巻そろえておりますゆえ。
原作で描かれている海兵隊員の「武士道」ともいえる心の動きを、どう映像化しているのかが見所であろう。

Wednesday, March 28, 2007

北海道の恥

かとうれいこさんのところで知った。

これはひどい。これはまずい。

「農業体験実習生」でググると確かに出てくるのは北海道の募集記事だらけ、しかも「独身女性」としているところがゴロゴロ出てくる。

確かに私の生まれ育った町でも、農協の「若妻会」が平均年齢80歳という、笑えない現実はある。だけれど、あたかも純粋な技術研修のように見せかけて花嫁募集という、こんなやりかたはなんというか、恥そのものである。

これでは本当の「実習」に来ていたことのある人も、そういう目で見られることになってしまう。

募集の仕方から、糾弾されても仕方がないと思う。

Wednesday, March 21, 2007

紫の心臓

入隊し、前線で任務に就いてから2年が過ぎようとしている。

戦地に赴き、自慢になるほどではないが人並みの戦闘を行い、そして負傷した。

傷痍軍人になってみて、初めて気づいたことがある。
この軍隊には、あるべき勲章がない。少なくとも、世界最大の軍隊である米軍には当然のごとくあるものである。

それは、パープル・ハートである。

日本語に訳せば、「名誉戦傷章」とでもなろうか。また、この勲章は戦闘により命を落とした場合にも叙されるため、戦死の比喩につかわれることもある。


誓って言うが、私の周りに、勲章欲しさのために戦う兵士などいなかった。
だが、国と国民を守るために命を賭した者に対し、この国のシステムはあまりに冷たい。

勲章の代わりにかけられたのは、片輪者に対する奇異の視線だけであった。軍規として、傷病兵を面と向かって蔑むことは許されない。だからある意味、耳に聞こえぬ罵声とも言える。


そして、あることに気づいた。
そもそも、この国には戦傷者、戦死者を賞するという習慣がないのだ。


戦いで傷を負うということは、その兵士自身の未熟さを意味し、従ってそれは「恥」なのである。

負傷を恥とする文化で、前線に立ちつづけるのは非常に難しい。

病院船の床で死の夢を見た。死のイメージを伴う、これ以上ない恐ろしい夢。死後の世界を見た、その先には本当に何もないのだ、という強い思い。

目が覚めて強い思いにとらわれる。
死ぬことに意味などない。

軍の広報誌などに目を通していると、よく高級将校が、若い頃いかにひどい戦場を生き延びてきたか、得々として語る文章が載っている。「若い士官諸君には、ぜひ自分の限界に挑戦して欲しい」などと書いてある。

だが、私には分かった。

部下に「限界を試せ」という場合、その上官には欠けてならない一つの資質がある。その部下がどういった最期を遂げたとき、「限界に達した」というのか、その姿が見えていなければならないと思う。

敵弾に当たったときなのか?地雷を踏んだときか?明らかに不合理な突撃命令を連日のように下し始めたときか?自室で拳銃を片手に死んでいたのを発見していたときか?

そして、そういった最期を迎えることを、自分が本当に部下に望んでいるのか?

これらの問いに即座に返答できないような将のもとで働く下級指揮官は、不幸の一言に尽きる。


あと数日でDEROSを迎える。
くにから届いた母の手紙には、「おまえは国のために立派に戦いました。恥じることはありません」とかいてあった。

片手、片足を失ってもまだ命はある。

いかに卑怯な手を使っても、生き延びねばなるまい。


軍事的補遺:
DEROS[Date of Estimated Return from Overseas]いわゆる「くにに帰れる日」のこと。米軍人はその任期を全て外地(イラク、ベトナムなど)で過ごすわけではなく、6ヶ月間の外地勤務→1年6ヶ月の米国本土生活、のようにローテートするのが一般的である。当然、戦地ではほぼ全ての将兵がDEROSを心の支えとして戦っていると言ってよい。

--
 しばらく前から構想は練っていたが、中原利郎先生の過労死が裁判で認められた記事を読み、公開することにした。「うつになったのは本人の脆弱性」って、人間の言葉とは思えない。真っ先に思い浮かんだのはレッドリボン軍総帥だった。

医者がカゼにできること

 本日未明厚労省審議官名で「10代の患者に対するタミフルの使用は原則として控えるよう」通達が出された。これをマスコミ各社は「原則禁止」と表現しているようだ。

 私の感想としては、まあタミフルが認可される以前からインフルエンザ自体は存在していたわけだし、それなしでも多くの場合治癒していただけのことである、というところだ。

 タミフルはインフルエンザの症状が発現してから使い始めまでの時間が早ければ早いほど、症状緩和・有熱期間の短縮に効果があると言われている。だがインフルエンザの診断をつける(キットが陽性反応を示す)ためには感染成立後しばらくの時間がかかるため、そこでジレンマが生じていた。

 タミフル使うな、という話になれば、そもそも「インフルエンザという診断をつける」ことの意義が損なわれるため、「カゼ」に対しての治療は全て
(1)解熱剤の処方(アセトアミノフェンのみ)
(2)支持療法(脱水に対し点滴とか、熱を氷嚢で冷やすとか)
という、一昔前に広く行われていたものになるだろう。それで大きな問題は生じない。

 問題は、「鳥インフルエンザが流行した場合に備えて」国がタミフルの備蓄をすでに予算化してしまっているということである。元々「効くとすればこれだろう」レベルのものをこれだけ買い込んでしまって、誰が責任取るんだ、という話になっているのだろう、あのお役所では。

 医者としての意見を述べるなら、タミフル処方中止後も全国で(インフルエンザ感染による脳症で)異常行動が報告されるのではなかろうかという疑念がある。

--
 それにしても、最近こうして下に記事を貼り付けなければならないのには不便を感じる。でも、そうしておかないと元記事が削除された時に、後で読み返してみて報道が正確にはどういった言葉を使用していたか、分からなくなってしまうのだ。

タミフル服用後の飛び降り・転落の報告は15件 厚労省

2007年03月21日21時50分

 厚生労働省は21日、インフルエンザ治療薬「タミフル」服用後、自宅2階から飛び降りて大けがをする事故が新たに2件発生したとして、輸入販売元の「中外製薬」(本社・東京)に対し、添付文書の警告欄に「10歳以上の未成年の患者に、原則として使用を差し控えること」を書き加え、医療関係者に緊急安全性情報を出して注意喚起するよう指示したと発表した。事実上、10代の使用を制限する措置となった。また同日までに同省に報告された10代の飛び降り・転落事故は計15件あることも判明した。

 厚労省は21日午前0時から、同省で緊急記者会見を開いた。中外製薬幹部も同席した。10代に区切って使用制限したことについて、体の大きい子どもの異常行動を親らが抑えることが難しいため、などと説明した。

 指示のきっかけになった2件の異常行動は20日、同省に報告された。12歳の男児が2月7日、37・8度の発熱があり、医療機関でインフルエンザB型と診断された。昼と夜にタミフルを飲み、8日午前2時ごろ、素足で外に出て、近くの駐車場へ走り出した。父親が家に入れたが、2階の窓から飛び降り、右ひざを骨折した。入院後、独り言や、突然笑い出すなどの症状があったという。

 別の12歳の男児は3月18日に発熱。19日、インフルエンザB型と診断され、2度タミフルを服用、同午後11時半ごろ、家で就寝したが、約30分後に突然2階に駆け上がり、母親に連れ戻された。その後もう一度2階に上がり、家族が追いかけたが間に合わず、ベランダから飛び降りた。右足のかかとを骨折した。

 いずれも、命に別条はないものの、本人に飛び降りた時のはっきりした記憶はないという。

 同省は「タミフルカプセル75」と「タミフルドライシロップ3%」の添付文書の警告欄の改訂を指示した。使用制限のほかに、自宅にいる際には「少なくとも2日間、保護者は未成年者が1人にならない配慮をするよう患者・家族に説明する」とも加える。

 医師ら向けの緊急安全性情報の配布を同省が指示するのは04年3月以来。中外製薬の上野幹夫副社長は「指導にもとづき速やかに実行したい」と話した。

 一方、21日に明らかになった15の飛び降り・転落事故例のうち、同省が公表していたのは死亡の4例を含む6例(交通事故死の1例を除く)。他のケースを公表しなかったことについて、「愛知県、仙台市で連続して転落死が起き、注意喚起をした2月28日以前の事故だったため」と説明している。

Tuesday, March 13, 2007

僕には分からない

 なぜ敗血症を疑って血液培養を取る場合、それは抗菌薬投与以前になされるべきなのだろうか。
 実は僕には分からない。
 抗菌薬が「当たって」いなかった場合、どちらにしても起因菌は生き残るはずであるから、血液培養は抗菌薬投与後でも良いのではないか。


 抗菌薬投与後に血液培養を取った場合、偽陰性になる可能性が高いという事実。(*)
 それは感染症の教科書に書いてある。

 しかし、なぜそうなるのかきちんとした説明を読んだことがないし、聞いたこともない。

 なぜ(*)のようになるのか。

 今、ここに敗血症の患者を想定して、抗菌薬投与後に血液培養をとったとする。
 静注なり経口なりの経路で投与された抗菌薬は血中に存在するから、当然その血液を採取して培養ボトルにつめた段階では、ボトル中に「起因菌+血液+抗菌薬」が存在することになる。

 一つの仮説としては、「生体内(in vivo)での抗菌薬はダイナミックに変化する(腎排泄・肝代謝を受ける)ために、ボトル内環境(in vitro)においては抗菌薬は、生体より高濃度になり、生体に対して期待されたよりも強力に働くのではないか」という考えができる。

 もう一つの仮説として、「敗血症を来すに至るまでには、腎盂腎炎なり肺炎なりといった原感染巣の存在があるはずである。その原感染巣に対しては無力な(抗菌薬の)血中濃度であっても、血中の起因菌を殺すには十分であり、従って偽陰性になる」という考えもできる。

 しかし、どちらの考えにしても、「ではなぜ血中の起因菌を駆逐することのできる抗菌薬が、敗血症という病態を改善し得ないのか」という疑問が残る。実際臨床上困るのは、抗菌薬が「外れて」いるにもかかわらず、培養結果は偽陰性が出続ける、ということであるからである。

 そろそろ後進を指導する立場になるのだが、わからないことばかりである。

Word使い

MS-Word 2007では「印刷」コマンドからbloggerへの投稿ができるようになっている。

だからといって乗り換える気はあまりないのだけれど。

(しかもココログなど、日本国内のメジャーなblogサービスには対応していない。中途半端だ。)

それにしても、一太郎officeの発売遅延はこたえた。Justsystemはこの傷を取り戻せるだろうか。

Monday, February 19, 2007

意思表明

我々は福島事件で逮捕された産婦人科医の無実を信じ支援します。

取り急ぎ本文のみ。

Thursday, February 01, 2007

パラダイム・シフト

 初期臨床研修も残すところ後2ヶ月。万感の思いを込めながら、感じたことをできる限り淡々と、数回に分けて書いていこうと思う。

 まず第一回目は、臨床研修におけるパラダイム・シフト。なんだかDoctors' Magazineに書いてそうなタイトルだが、しばらくぶりの長文につき適当な題を思い浮かばなかったので陳腐さはご容赦願いたい。


 実は2年ほど前、この新臨床研修制度(全員にスーパーローテートを義務づける)を作った厚労省の方と、直に会って話す機会があった。

 あまりに突然の事だったので、緊張のあまり言いたいことの1割も言えなかった様に記憶している。だが、だいたい先方の言うことは次のようなことだったと記憶している。

----
 臨床研修を大学病院で行う慣習が長かった我が国では、専門分化が進むあまり、総合的に患者を診ることのできる医師というものがなくなってしまった。一例を挙げると、ある精神病院において結核が蔓延していた事例がある。これは、そこを管理する精神科医が本来医師であれば誰でもできるはずの、基本的な胸部写真の読影能力さえ持っていなかったのが原因である。

 われわれ厚生省としては、医師の「品質保証」という観点から、少なくとも「医師免許を持つ人ならばここまではできる」というレベルは維持したいのだ。本来、これは卒業以前の段階で当然身に付いているはずの技術、知識であるはずだが、それができていないないために今回我々は2年間の初期臨床研修を必修化することにした。

 そうすれば、たとえば飛行機の中で急病人が出たときに、医師が乗り合わせているにもかかわらず名乗り出てこない、といったことはおこらないだろう。
----

 最後の「飛行機の中で~」については、項を改めて述べたいので、ここで詳しく書かない。
 しかし、あとになって考えてみたとき、この方の頭にあるパラダイムとは、次のような事ではなかろうか、と思ったのだ。

厚労省のパラダイム:『良い医師とは、「何でもできる、どんな状況にも対処できる」医師である。医学生もそのような医師になろうと思っているし、教える側としてはそうさせなければならない。」

 今になってみると、疑問が残る構図である。

 日本の医師国家試験は、他国と比べてもその出題範囲も広く、たとえば耳鼻咽喉科医になろうと思わない医学生であっても、その専門分野に介してはかなり微細な知識を習得する事が求められる。これはおそらく、医師国家試験が抱える本質的な問題であるとは思うのだが、おそらく厚労省内でのセクションが違うためだろう、臨床研修を設計する人たちはこちらの問題に手をつけようとはしなかった。

 医学生の多くは、素直で勤勉な(?)者達であり、彼らは要求される課題に応じて、ある程度自分たちの興味を励起させるという特質に富んでいる。すなわち、細かいことを聞かれれば聞かれるほど、その知識を使いたくなる衝動に駆られるよう、自分たちを改造してきたのだ。

 したがって、大学卒業~その間近の時期の医学生たちは、「なんでもできる」医師になろうと思うし、そういった研修病院には人気が集まる。

 彼らが実際に医師免許を取得し、ローテーターとして市中病院での研修に出た後のこと。

 確かにローテーターたちは、確かに「何でもできる」医師に出会う。しかしそれは、ごく一部、生まれながらの知力と体力を備えた医師であって、しかも彼らが病院内で必ずしも高い地位、報酬を得ているかというと、必ずしもそうではないことに気づかされるのである。(もちろん、総合診療部といったセクションを備えている病院もある。しかし、他の科との関係性、将来性を考えたとき、その分野に進もうとするには様々な意味での障壁を感じるのも事実である).

 万能型の医師ほど「いいように使われ」、より多くの危険にさらされ、損耗していく現実。

 かくして、多くの研修医たちは次のような現実解に出会う:

新しいパラダイム:『何でもできる医師ではなく、最後まで「生き残る」のが良い医師』

 死んだら負けだもの。

 研修医向けの教科書には、「サバイバルガイド」とか、一見すると軍隊のマニュアルと見間違える様なタイトルのものが少なくない。それもそのはず、名のある研修病院では本当に死んだ研修医が幾人かいるものである。

 学生の頃、ある教授が、「うちの科はアメリカじゃエリートしかできないんだぞ」と自慢していた。確かに、アメリカではマイナー科ほど人気が高く、また各科の定員も毎年限られているため、訴訟リスク・肉体的リスクの少ない科ほど高倍率。結果として、各大学の成績優秀者は眼科や皮膚科を目指すといった現象があるという。

 アメリカにもローテート制は存在する。しかしそれは、たとえば膠原病内科を志望する研修医が消化器・腎臓内科を半年ずつローテートする、といったシステムである。日本の「スーパー」ローテート制は他の国に例を見ないのである。

 聞くところによれば、伝統ある~毎年多くの研修医を集める~病院でも、厚労省が「最低限の」要求としてまとめた手技、症例リストを100%経験させた施設は皆無であり、「よくて80%」というところだそうだ。

 人間の能力には限りがある。「なんでもできる」層は確かに存在するのだが、その一部に合わせて全体を設計するのはどうなのだろう。

 本国(米国)より進んだ研修制度を導入した結果、研修医たちのマイナー指向が米国より速いペースで進んでしまうのではないか。そうなると、産科や小児科(次に内科、外科が来るだろうが)の人員不足は今後ますます進むんだろうな。

 私は安全な場所に身を置きながら、そのさまを記述する側につこうと思う。

Tuesday, January 30, 2007

理由が分からない

理由なんて、「面白くなければテレビじゃない」からに決まってるじゃないか。

関西TV「理由分からぬ」、フジTV「深くおわび」
「原因究明は、第三者の調査を待ちたい」

 「発掘!あるある大事典2」の捏造問題について29日、大阪市の関西テレビ本社で行われた社内調査の中間報告発表で、孫請け会社「アジト」による捏造の経緯などが説明された。

 7回のチェック段階をすべて見落としたお粗末な制作実態も露見。動機を問いただす報道陣に、福井澄郎取締役は「外部委員会の調査後に発表します」と繰り返すだけで、捏造の構図に迫る原因や背景は、最後まで明らかにしなかった。

 質問が集中したのは、米国での取材や国内での実験を単独で行った「アジト」の捏造動機の説明。福井取締役は「納得できる理由がなかなか分からない。一番重要な部分なので、客観的な調査によって説明していきたい」と、苦渋の表情で繰り返した。

 一方、フジテレビでも同日、村上光一社長が定例記者会見を行い、「大変責任の重い不祥事。視聴者の信頼を裏切ったことに対し、深くおわび申し上げる」と陳謝、同席した役員4人と共に深々と頭を下げた。

 村上社長は「改めて社内のチェック体制を徹底し、全力を挙げて再発防止に取り組む」と強調。関西テレビの千草宗一郎社長の処分が「甘かった」とする批判に対しては、「系列局とはいえ、他社の処分。コメントは控えたい」と述べるにとどまった。

 関西テレビの持つ日曜午後9時台の放送枠については、「ゼロからスタートして考えるべきだ」と、変更する可能性を示唆した。
(2007年1月30日0時5分 読売新聞)

Sunday, January 28, 2007

あるある大辞典とか

こういう番組を見るたび思い出すのが、高校生物の参考書にあった一節である。

「ごく簡単にいうと、ブタ肉を食べていたらブタに似てきてしまった、ということがないようにする仕組みを、消化と言います」

ぶひ、ぶひ。

Thursday, January 18, 2007

軍隊食は胃に良くない、らしい

ナポレオンは毒殺ではなく死因は胃がん=軍隊食も大きな原因[Excite~AFP=時事-ウェブ魚拓]

 現代の軍隊食といえば思い浮かぶのがMRE(Meal, Ready-to-Eat)であるが、Wikipediaの記事にも「通常は2週間以上食べ続けるのは控えるべきとされる」と記されている。最新技術の粋を集めた保存食でさえこの有様なのであるから、かの時代の軍隊食というのは想像に難くない。

 もっとも、次のようなニュースもある。

 米でがん死者2年連続減少 禁煙や治療向上などが要因[北海道新聞-ウェブ魚拓]

 「便秘とガンは関係ない」と言ってみたり、喫煙率の低下が癌死の減少に結びついたと言ってみたり。

 ガンで死ぬ前にテロと戦争で死ぬ奴が多いからじゃねえの、というブラックなつっこみは置いておいても、米国のように所得格差の大きい地域では、「癌で死ねる層」というのは「高額医療を受けられる層」という構図が成り立つのではないか、という仮説を立ててみたりする。

 cancer.orgの元ネタを見ると、乳癌、前立腺癌、大腸癌、肺癌の減少が大きいらしい。前立腺癌は微妙だが、その他はやはりスクリーニングが功を奏しているのだろうか。

 いわゆる「有名人」がこれらに罹患すると、こぞって「早期発見」キャンペーンが行われたりするものだが、次のような例はいかがなものだろうか。あえて、コメントしないでおく。

アグネス、右あご裏唾液腺腫瘍摘出…姉が触診し発見[Excite~夕刊フジ-ウェブ魚拓]


--
 なんだか、適当にニュース拾って貼り付けるだけで適当な記事が書けてしまう事に嫌気がさしつつ、そもそもblogってこういうものじゃん、という気もしている。

Monday, January 15, 2007

 昨日も書いた不二家問題について。

 感染症学、という医学の一分野がある。いままで「バイ菌には適当な抗生物質打っときゃ治るだろ」的な治療がはびこっていた日本の医療現場で、まともな感染症に対する考え方がやっと浸透してきたところである。これは岩田健太郎先生はじめ米国帰りの感染症専門医の尽力があってこそのことで、私も卒後ずいぶんと薫陶を受けた。(正確には、「薫陶を受けた先生に薫陶を受けた。」)

 さて、感染症学の基本的な考え方に、血液検査や、培養といったデータを絶対視せず、患者の臨床所見(発熱、呼吸数、体温など自分の「目で見て、肌で感じられる」所見)を重んじる、といったことがある。(まあ医学一般に言えることだけれど)

 不二家の件に話を戻すと、牛乳が日切れであった、ということは我々の業界における「データの異常」にあたると思う。その材料に対し、毎日同じ菓子を作り続けている調理人が「十分新鮮さが感じられたので、大丈夫だと思った」というのであるから、それは「所見に異常なかった」ということであろう。

 それを第三者が鬼の首を取ったように日切れの牛乳を使っていた、だからあそこは悪い商品を売っているに違いない、と短絡的に報道するのは、いかがなものだろうか。


 何というか、昨今の不二家の一件に対する報道の仕方を見ると、医療報道に対するものと共通なアンフェアさ、不勉強さのようなものと同様のものを感じたので、ここに記しておく次第である。

 札幌大通り地下の不二家では何回も楽しい時を過ごした思い出がある。こんなことで駄目になって欲しくない。

--
「抗菌薬の考え方、使い方」にver.2が出ました。私は、買いました。今第一版と比較しながら読んでいます。・・・もっとも、抗菌薬と縁遠い科へ行きそうだけれど。

--
 それにつけてもケテックの使いどころがよく分からない。

Saturday, January 13, 2007

不二家をあえて弁護する

 不二家がやったのはそんなに悪いことなのだろうか。

 食品生産地に住み、かつての雪印騒動を経験した立場からすると、不二家の人たちがかわいそうでならない。

 だいたい食品の「食える期間」、つまり者消費期限なんざ季節によって変わるのが普通で、牛乳の消費期限が夏も冬も同じ7日だなどということに、そもそも疑問を持たなければいけない。最終的に現場のスタッフが自分の目、耳、鼻と舌で判断して菓子作りをやっていたのであろうし、そのプロセス無しに売れる菓子など作れる訳がない。

 消費期限、というのは統計的に割り出されたデータである。ありとあらゆる食品にそのデータが添付されるようになった今日、末端の消費者は自分の五感で食品を判断する、という習慣を無くしてしまった。それはかえって危険なことではないだろうか。

 食品のトレーサビリティだとか、都市のマンションに住みながら、目の前に出される食品に文句ばかりつけるような事をしていると、いつかとんでもないしっぺ返しが来るのではないだろうか。そんな心配をしている。

不二家:期限切れ牛乳使い、シュークリーム製造[MSN-mainichi]

 菓子メーカー「不二家」(東京都中央区)の埼玉工場(埼玉県新座市)で昨年11月、消費期限切れの牛乳を原料としたシュークリーム約2000個を製造、出荷していたことが分かった。

 同社によると、原料を仕込む担当者が昨年11月に「7日が消費期限の牛乳60リットル分を8日に使用した」と社内改革のプロジェクトチームに申告した。同13日に社内委員会に報告されたが、回収しなかった。出荷前の検査では問題はなく担当者は社内調査に「捨てるともったいない。2年前にも同じようなことがあったかもしれない」と話したという。河村宣行人事総務部長は「今後は再発防止に全力を挙げたい」とコメントした。【弘田恭子】

毎日新聞 2007年1月11日 0時48分 (最終更新時間 1月11日 7時41分)

--
 だいたい「工場でネズミ50匹捕まりました」ってなんだ。それをキモイとか言う、あんたらの家にはゴキブリいったい何匹いるんだ。北海道の家にそんなものいないぞ。

Thursday, January 11, 2007

箴言

何でも願うな。本当に叶ってしまうぞ。
  --ネイティブ・アメリカンの言葉

何でも出来ますと言うな。本当にやらされてしまうぞ。
  --某総合内科医の言葉