Sunday, August 22, 2004

我々は媒体にすぎない

 医者は善悪を判断できない。少なくとも、我々が生きるこの21世紀においては、そう規定されていると考える。
 難しい言葉を使えば「父権主義(パターナリズム)の否定」ということである。「患者にとって良かれと思うことを、医者であるあなたが判断するな」ということだ。


 医者になろうと思って医科大学に入り、純真な気持ちを持っていた頃、ずいぶんこれについては考えさせられたものだ。
 日々、それなりの困難の中で前に進むためには、どうしたって世界を「自分」中心に構築しなくてはならない。「オレがこうしたいから」という気持ち、「他の誰よりもオレの方が良い仕事が出来るようになりたい」という気持ちが無ければ、とても研鑽と言ったものは成立しないのだ。つまり、自分の中に「がんばる自分は善、怠ける自分は悪」といった価値観を醸成することが求められる。

 しかし、それまで事実上「医療者主体の医療」であった現場が、「患者さま主体の医療」でなければならない、という概念が浸透してきた。冒頭に述べたとおり、ここで私はその善悪を言わない。だが、正直なところ、医療者にとってそれはまるで「自分」の否定であるかのような感じを受けるのも確かなところなのである。特に、「医療者主体」であった世代の医者を師として教えを請うていれば、ますますその感は強まるのである。


 一時方々のblogで流行ったネタに、「アリ社会の中にも怠けアリが3割程度存在する」と言うものがあった。世の中には、明らかに「がんばれない」人々が存在する。一方、医科大学の同級生というのは、どういう形にせよ「がんばることの出来た」人たちである。私の生まれ育ったのは道央の炭鉱街だったが、大学に入ってみてまず驚いたのは「何でこの人たちは皆『話せばわかる』のか?」と言うことだった。


 ある時、教養課程の教授が、講義中に漫画を読んでいた学生のもとにつかつかと歩み寄り、猛烈に頭をひっぱたいたことがあった。当然私は、教授の行動に対し、学生の側から時間的間隔は開くかも知れないが、何らかの報復行動が起こるものと踏んでいた。
 暴力をふるう教員に対しては、生徒の側からも暴力の可能性が常に存在する。少なくとも中学校では、それが常識だった。
 だが実際、そういうことにはならず、つまりここの学生たちは暴力に対する免疫が無いのだ、という結論に落ち着いた。

 だが、この(医学生の)集団を標準と考えていたのでは、同時に人生に於いて重大な間違いを犯すことになるだろう、とも思った。


 我々人類は、全員が「がんばることの出来る」人間ではない。もし全員が「がんばることの出来る」人たちであれば、内科学の教科書の一章を「肥満」や「動脈硬化」が占めるはずもなく、糖尿病に対する運動療法の効果は、実に切れ味の良いものになるはずだ。
 医者などというものは、むしろその「がんばれない」人々のおかげで飯を食っている。こういう結論に達するまでにはかなりの時間を要したが、これは「兵士の論理」に一種近いものがある。

 近代国家では、市民政府が下した命令に対して兵士は抗弁権を持たない。命令にはただ従うのみであり、その政策が正しいかどうかに対しては、判断の権利を持たないのである。しかし、その内容がどんなに愚かに思えようと、いついかなる命令にも答えるべく、日々兵士は訓練を積む。それを誇りとして。

 現代では、兵士も医師も、他者の目的を満たすがための「媒体」として生きることが期待されているのである。

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