Thursday, April 24, 2003

それは、まずいだろう。

 K協同病院での一件である。

 4月19日のasahi.comによると、
「川崎市川崎区の川崎協同病院(堀内静夫院長)で98年、気管支ぜんそくから意識不明になった患者に、当時主治医だった医師が患者の気道を確保するための気管内チューブを取り外して筋弛緩(しかん)剤を投与し、「安楽死」させていたことが19日、わかった。病院側が記者会見して事実を公表した。患者本人の意思が明らかになっていなかったことなどから、堀内院長は「主治医の行為は安楽死ではない」との判断を示した。神奈川県警は、殺人容疑などを視野に捜査を始めた。」
 とのことである。

 国内では、安楽死は立法こそされていないものの、同記事にもあるとおり、「95年、執行猶予つきの有罪判決を下した横浜地裁は「積極的な安楽死が許される要件」として(1)患者に耐え難い肉体的苦痛がある(2)患者の死が避けられず死期が迫っている(3)苦痛を除くための方法を尽くし代替手段がない(4)患者本人が安楽死を望む意思表示をしている--の4要件を示した」という判例によって一つの指針が示されていたわけであり、今回はこれらの要件が明らかに満たされていたわけではない。とくに、(2)(3)のあたりは、第三者から見ても大いに疑問の残るところでは無かろうか。


 その昔、「振り返れば奴がいる」というドラマがあった。その中で、病院一の名医である司馬光太郎(織田祐二)が、末期ガンの患者ササオカ氏に、「先生、オレもう長くないんだろ、そのときが来たらさ、一思いにやっちゃってくれないか」と懇願されるのである。
 そこで司馬は「リビング・ウィル」の書類をササオカさんに作るよう勧めるが、その前にササオカさんは危篤状態に陥り、書面による意思表示のないまま司馬は塩化カリウムの注射筒を手にするのであった。
 この一件を、対立する外科医の石川(石黒賢)によってマスコミへ暴露された司馬は、病院を去るのだが・・・。

 医学部に入って、この脚本を書いた三谷幸喜もやはり重大な誤りを犯していることに気付いた。「リビング・ウィル」というのは、日本国内では任意団体の扱いで行われている運動であり、この書類にサインしたからと言って安楽死を行った医師が免責される、と言う保証はない。「単なる紙切れのせいで人生棒に振らないように」というようなことを教わった。

 すなわち、どこの医学部でも基本的に「安楽死は御法度」と教えられているはずなのである。しかも、たとえ遺族側から不満の声が上がらずに、一件「皆が満足した」ように見えても(まずそんなことはあり得ないが)、いったん事が明らかになれば、このような医師を純粋に法・倫理の観点から告発しようとする組織は存在する。

 すなわち、やる方にも相当な覚悟がいるはずなのである。

 以前、京都の私立病院においても、院長が友人の苦しむ姿を見るに忍びず、筋弛緩剤を注射して死に至らしめるという事件が起こっているが、結局このときも刑事罰が下されることはなかった。

 いつも思う事であるが、筋弛緩剤を大量に投与した場合の死因は呼吸筋麻痺による窒息であり、しかも中枢作用はほとんどない(つまり、意識清明なまま息が詰まってゆく)ため、患者には相当な恐怖と苦痛が伴うはずである。それを熟知しているはずのベテラン医師たちがなぜ、このような行動をとったのか。

 「東海大安楽死事件」では、家族からのプレッシャーや想像を絶する多忙によりチームから孤立し、研修医がたった一人で重大な決断を迫られた事による「チームとしての医療の破綻」が問題であった、と結論付けられた。

 そういえば昔、某大学の面接でも「君がもし患者の家族から、どうしても、と言われて安楽死を施すようせがまれたら、どうするかね」とうようなことを聞かれた覚えがある。そのときの私は、今から思えば大変に未熟であって、緊張も重なり、「いいえ、自分一人では決してやりません。たとえその家族が頼んだとしても、『患者の家族』というのには自分の目の前にいない人たちもいるわけで、その人たちからの文句が後日付く可能性もあるからです」というようないわばトンデモな答えをしてしまった。東海大安楽死とか、たいそうなことはちゃんと知識としてアタマの中にあったにもかかわらず、である。

 少なくとも、法整備が進んでいない現在、私のように凡庸な医学生がとるべき道は、「とにかく安楽死はいけないんだ、そんなコトしたら自分の首が飛ぶし、病院にも先輩にもたくさん迷惑がかかるんだ」と自分を納得させて、10本でも20本でもチューブを差してでも決して「文句のでない」ような医療を目指すことなのだろう。(たぶん、入院31日目からは事務長から「文句」が出ることになるだろうが。)

 「結局、自分の頭で考えてはいけない。」これが、医学部の中、そして今後の医療界で、賢く生き残る秘訣であるのだから。

Monday, April 21, 2003

写真について

 先日、一眼レフカメラを購入した。購入した動機というのが、なかなか漠然としているのだが、やはり「写真に興味を持ったから」というのがまっとうな答えだろう。
 とは言っても、人間がコトを起こす動機というのは、かなり複雑なものであって、それを一語でいうのはやはり難があると思う。物事の動機を一語で言えるのは、余程悪質な小説の読み過ぎであろう。

 まず第一に、3月の試験が終わると誰だって少しは開放感に浸るものであろう。私の場合、かなり最後まで危ない状況が続いたのでそれは、かなりじわじわしたものであったが、少しく無意味な消費をしてみたくなった。今日日若者が興味を抱くものは、車か女か電化製品と相場が決まっていて、前二者は思い立ったからといってそう簡単に手に入らないものなので、電化製品に思いが移る。

 またそれと平行して、以前から、いくらあがいても人間の生命にはきちんと終点があるものだということがだんだんわかってきていたので、何か「形を残す」ものに関する興味が漠然とあった、ということがある。

 それから、こんな事も一因であろうか。病理学などで絵を描く(スケッチする)実習の時に、人から「随分細かい絵だね」といわれることが多々あった。何のことはない、根が単純であるから左のものを右に描くことしかできないのであって、ちゃんと見るべきものを見て、アタマの中でそれをきちんと処理して描いているやつの絵を見ると、いかに自分の絵が単細胞的であるか恥じ入るばかりであった。どうせ左のもの右に描くしかできねえなら、最初から写真にとっちまえばいいのに、という思いもアタマにあった。

 兎にも角にもこういうマルチタスク型思考の結果、昨今流行のデジカメを買おうか、という気に一時傾いたが、ここでもう一踏ん張りしてひねくれた考えを起こした結果、次のような結論に達した。

 いくら最近のデジカメ市場が円熟期に入っている(画素数・価格の面での競争は緩やかになっている)からといって、所詮電子機器というものは、しばらく経つと激しく「型落ち」するもので、後になってちょっといいのを他人が持っているのを見ると、猛烈にうらやましくなるに違いない。いくら妬みは人の性、資本主義の原動力とは言っても、こちとら貧乏性なので、そうなるのは面白くない。その点、デジタルでない「カメラ」は10年経っても「カメラ」である。デジカメを一台買った気になれば、結構それなりの銀塩カメラが手に入るのでは無かろうか。


 こう結論付けた私は、翌日「初めての一眼レフ」という本を大通りの本屋で購入し、早速勉強を始めた。また、あの「2ちゃんねる」のカメラ板に、善意に立った有用な情報がたくさん載っていたのには驚いた。やはり板によって荒れているところとそうでないところはあるものだ。

 そして、一週間後、行きつけ(本当は、そこのマクドナルドと、アミュージアムに行き付け)のY店に足を運び、その日一番安い値段が付いていた、P社の一眼レフカメラボディとズームレンズ二本のセットを購入した。Y店の兄ちゃんと小一時間相談して決めたのだが、かなり親切に相談に乗ってくれ、こちらがズブの初心者とわかると、それとなく一番安い方を勧めてくれたような気がする。今になって、それは正しい選択だったとわかるが、やはりこういう気遣いのできる店員は、店の財産だと思う。


 さて、カメラを買ってからだが、結構いいことがあった。

 まず第一に、朝早く起きるようになった。写真を始めてから、「光」というものに気を払うようになり、朝の光と午後の光の性質が大いに異なることに気付いてからというもの、午前の時間をより大切にするようになった。

 それから、ものの「見方」ということを普段からよく考えるようになった。結局写真というのは、その人の見ている視界を枠の中にいかに切り取るか、ということなのだが、見る角度、それからどこに注目するかによって、その時間・空間的位置における「視界」を共有し得ない第三者に提示される形としての写真は大きく変わってくる。また、今自分が見ている風景を、そのまま記録するという単純な作業に関しても、それは思った以上に大変な思考・労力を要する行為であることもわかってきた。

 第三に、よくカラダを使うようになった。うちの大学の大先生に、「自然との対話が楽しみなので、オープンカーにしか乗らない」という方がおられるが、私はそのクルマさえ持っていないので基本的に自転車や徒歩で被写体を探すことになる。やはり、自分のカラダを使って、生の空気に触れて探した方が、いいものが見つかる、ような気がする。結局、このために余分な体脂肪が消費されることになり、いいカラダ造りにつながっている。つまり、「写真を始めると、なぜか健康になる」のである。

 今のところ、できるだけ人のいない風景をとって歩いている。絵画の世界で言うところの「静物画」であるが、やはり人様を撮らせて頂くには、それなりの腕にならなくては失礼であろうし、何より人混みの中でシャッターを切るのはどうしても私自身「◯代(マ◯シー)」を連想してしまうのである。

Friday, April 18, 2003

学校から更新

学校の学生実習用機のOSがMac OS Xにアップグレードした。(要するにServerがとれたということ)そのため、以前の環境より飛躍的にユーザーインターフェースが向上している。
もともとサーバーというものは、「他のコンピューターから入ってくる情報を処理して出す」ということに主軸がおかれているため、そのサーバー自体を人間が操作するためのインターフェースGUIはかなり簡素なものであった。
 そもそもC言語の実習ができないと困る、という理由だけでシェルの使えるMac OS X Serverを導入された我々学生としては正直いい迷惑だったが、これでなんとかひと通り「使える」ようになったという声が多い。だいたいOmniwebの代わりにInternet Explorerが使えるだけでもめっけもの、である。

Thursday, April 17, 2003

続「黒い疑念」(3月19日の日記)

世の中には似たようなことを考える人がいるもので、しかも私よりずっとうまい手段を考えている。

やはり、鍵は「嫌がらせにかかるコストの低さ」と言うことだろうか。

Friday, April 11, 2003

朝は弱いか

最近の時間割では、選択科目の関係で朝一講目が空くことが多い。
朝が弱い私にとっては都合がよい。

薬理学の関係から、私はPC12cellという一種の腫瘍細胞におけるSir遺伝子の発現を研究させてもらうことになった。言っている私にも何のことかあまりはっきりとはわからんのだが、これはテロメアーゼ活性の調節によって寿命を延ばす働きがあるかもしれない、ということである。つまり、現代版「不老長寿の薬」といったところか。そんなもん作ってどうするのか、という気がしないでもないが、世の中には「早老症」と呼ばれるいくつかのタイプの遺伝子疾患の人がいて、今のところその病態もよくわかっていない。その治療のためには、やはりこういうものが必要なのである

Wednesday, April 09, 2003

しかしここも

KS氏とMT氏しか来ていないことが、よくわかる。やはりHT氏は最近忙しいのだろう。

ついでに

 日本の警察機関が装備すべき小銃候補として有力なのはいったい何であろうか。
 まず第一に、自衛隊の制式小銃である89式小銃(Howa Tytpe89)が考えられる。しかしながら、89式は未だ実戦における信頼性が確立されておらず、その評価が定まらないところがある。特に半自動・全自動・三発バーストの選択が可能となっている撃発機構は、あまりに繊細な機構のため前線における野戦分解の範囲では修理できず、問題が生じた場合はユニットごと取り外して交換・後送し、整備を行う必要があるといわれている。(ちなみに、「安全」「単発」「連発」「3点」の頭文字がカタカナで書かれているため、順に読むと「ア・タ・レ」となっている。世界初、洒落の分かる自動小銃!)
 また、実戦での信頼性や火力の点では優れているものの、ドイツのG3、ベルギーのFN-FAL等7.62mm×51口径の小銃は除外されるべきだろう。89式の前任、64式小銃はこの規格であったものの、NATO規格の7.62mm×51弾薬を使用すると日本人には反動が強すぎ、わざわざ国内で火薬の量を減らした弾薬を製造していたぐらいである。
 と、なるとやはりSS109(5.56mm×45)規格の小銃が有力となる。このカテゴリーには、米軍のM-16A2(あのゴルゴ13も愛用)や、オーストリアのステアーAUGが含まれる。M-16はあのイスラエルが自国生産した優秀なガリル自動小銃を押しのけ、イスラエル陸軍制式の座を勝ち取った(そういえば最近パレスチナのニュース映像でもM-16しか見かけないもの)信頼性が売りである。対するステアーはプルパップ方式(ピストルグリップより弾倉を後方に配置する設計)により、日本人の体格に合ったコンパクトさが魅力である。(と、いっても所詮ゲルマン人に合わせてあるのだが)

 なんだ、こんなことならなんぼでも書けるなあ。
 読んでくれるかどうかは、はなはだ疑問だが。

今日から新学期

 日付から見るとどう見ても「昨日から新学期」なのだが、そこら辺は勘弁してほしい。

本日のニュースから:「機関拳銃:全国の警察本部に1400丁配備 武装テロ対策」
 だからいい加減サブマシンガンを「機関拳銃」と訳すのはやめてくれと。戦前のごとく「短機関銃(短機)」と呼んだ方がまだ言葉にしまりがある。
 そもそもニュース映像で見る限り今回警察庁が導入したのは誰がどうどこから見てもH&K MP5 A5であるということがわかるだろうと思われるが、これで果たして火力が十分なのかどうか。
 サブマシンガンの定義は、「拳銃弾を全自動発射できる火器」といったところになろう。すなわち、いわゆるアサルトライフルに比べて
1.最大有効射程がせいぜい100m程度と短い
2.ケブラー製防弾チョッキに対する貫通力が不十分
といった弱点があり、たとえば7.62mmのAK47を使用してくるようなテロリストには簡単に制圧されてしまうおそれがある。
 しかし、MP5に限っていえばその信頼性とともにクローズド・ボルト・ファイアー方式による初弾命中率の高さに定評があり、カウンターテロ部隊の基本装備と言える。問題は、この装備による火力増強を過信せず、さらなる装備の充実を期待したいところだが、このような「警察予備隊的部隊」に対しては、国民の視線はやはり厳しいものになるだろう。だからこそ、「機関拳銃」などというヘンテコな言葉がはやるのである。

Tuesday, April 08, 2003

アクセスカウンター設置

今まで他の鯖にアクセス解析を依頼していたのでありますが、本日からはCGIスクリプトを借りてきて自前でなんとかするようにしました。
main.shtmlの見やすさも直って、よし。
<本文>
今日からは新学期であるが、新学期の第一日目というのは、目が冴えてなかなか眠れないということが経験上わかっている。従って、今日は「寝ない」ことにしてみた。・・・・・。

天気はウソ

強風・おそらく雨。