Wednesday, November 29, 2006

Saturday, November 25, 2006

スタイルシートをいじる

久しぶりにCSSの改変に取りかかり、我らがFirefoxで
「記事がサイドバーを回り込み、直近の記事を読むの
にえらくスクロールさせなければならない」問題を解
決できた、と思ったらIE7では全然改善されてない・・・。

この際Firefoxを含む「Geckoエンジン専用サイト」と
公言してしまいたい欲求に駆られたり。

LunascapeだってGecko選べる時代なんだから・・・ねえ。

これ以上やると自分の執着正確が病勢に影響しそうなので、
皆さんこのページはMozilla系ブラウザでごらんになること
を強くお勧めします。

オープンソースに光あれ!

死んだら負け

 私がまだガキだった頃「とんねるずの生でダラダラいかせて!」という番組で、レギュラーメンバーがラフティングで対決するという企画があった。

 いくつかルールがあったが、その中でもひときわ目を引いたのが最後の「死んだら負け」という一行であった。

 もう打ち切りになって久しい番組だが、あらゆるスポーツの中で「死んだら負け」というルールは厳然として存在しているように思う。いわば真っ白い文字で読めないようにルールブックの最後に記されている言葉である。

・いくらがんばってエベレスト登頂に成功しても、降りる途中で死んだら負け。
・マラソンで一番にテープを切っても、表彰台に上るまでに心臓発作で死んだら負け。
・いくらドライバーズポイントで他者を引き離していても、最後のグランプリレースで事故って死んだら負け。


 このところ、中高生の自殺のニュースが世間をにぎわしている。

 気になるのは、こういう事件を起こしたときにマスコミが、死んだ子供が周囲に訴えたかった(で、あろう)内容を微に入り細に入り報じることである。

 以下は最近ようやくマスコミ自身により報じられるようになってきた「自殺を予防する自殺事例報道のあり方について」のWHO勧告(2000年)[NPO法人 自殺対策支援センター]である。
1)やるべきこと
・自殺の代わり(alternative)を強調する。
・ヘルプラインや地域の支援機関を紹介する。
・自殺が未遂に終わった場合の身体的ダメージ(脳障害、麻痺等)について記述する。

2)避けるべきこと
・写真や遺書を公表しない。
・使用された自殺手段の詳細を報道しない。
・自殺の理由を単純化して報道しない。
・自殺の美化やセンセーショナルな報道を避ける。
・宗教的、文化的固定観念を用いて報道しない。


 より詳細に知りたい方はこちら[WHOによる自殺予防の手引き 国立精神・神経センター精神保健研究所 PDF]を一読されると良い。
 上記の項目、原文を当たりたい方はここ[PREVENTING SUICIDE
A RESOURCE FOR MEDIA PROFESSIONALS, www.who.int, PDF 8ページ目]へ。)


 いじめを受けて自殺する、と言う行動の裏には「自殺することによって、初めて話を聞いてくれる」という期待がある。もちろん中には、抑うつ状態に陥った結果発作的に死を選んだ、と言う事例もあるだろうが、「少年期のうつ病(による自殺)」については、それ自体の存否について専門家でも議論のあるところなのである。

 「いじめた人の名はXXと○○です」などと遺書に記す行為は、自ら去った後マスコミにより当事者が糾弾されることを十分に予期してのものと考えられる。まるでマスコミが「死んだら勝ちだよ、きみの話をみんなが聞いてくれるんだよ」と訴えているかのようだ。


 しかし、自殺を考えている少年よ、世の中そんなに甘くないのだ。

 マスコミ(と、やり玉に挙げられている「教育委員会」)の面々というのは君が思うより、そして君をいじめ抜いた連中よりももっともっとタフで、悪党なのだ。彼らは「ほとぼりが冷める」という言葉の意味を、イヤと言うほど知っている。

 君をいじめた連中は、君が墓に入った後も、君の父さんや母さんが死んだ後も、のうのうと生き続けるのだ。君を苦しめた数々の事件に対して、彼らの都合が良いように言いのけるに決まっているのだ。生きている方には未来がある。君が遺書に書く何倍もの事を、言い続ける事ができるし、書き続けることができる。

 結局のところ、声が大きいやつが「真実」になるのだ。

 君たちが頼りにしているマスコミも、日に日にニュースとしての価値が落ちてくる「いじめ」報道を毎日繰り返している訳にはいかない。それは、野球選手の結婚だとか、くだらないニュースの中に紛れて、次第に人々の記憶から忘れ去られていく。


 ドラえもんの初期に出てきた道具に、「どくさいスイッチ」というのがある。

 ジャイアンにいじめられていたのび太にドラえもんが渡したそのスイッチは、嫌いな人間の名前を口にしながらスイッチを押すと、その人間が消えてしまう。手始めにジャイアンとスネ夫を消したのび太だったが、そのうち恐ろしいことに気づく。

 どうやら「どくさいスイッチ」は、ただ単にその人の存在を消してしまうだけではなくて、人々の記憶からも消してしまう、つまり「最初からいなかったことになる」のだ。

 昼寝をしているうちに怖い夢に襲われたのび太は「もう誰も彼も消えちまえ!」と言いながら無意識のうちにどくさいスイッチを押してしまう・・・。


 人間にとってもっとも恐ろしい刑罰というのは、死刑なんかじゃなくて、むしろ「最初からこの世にいなかったことになる」ことじゃないのか。アサハラショーコーもタクママモルにも、こんな刑罰は裁判官の誰一人与える事ができやしなかった。

 そんな罰を受けなきゃならないのが、何で君なんだ。死んでしまったら、もう誰も君が本当に訴えたかったことなんか、聞くことはできないんだ。

 だから「死んだら負け」なのである。

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 今日も抗うつ薬を飲み下しながら、今までに出た葬式を思い返しつつ、死ぬって事はなんて面倒なんだ、と思いつつ幸いにして希死念慮には襲われていない。明日もそうであるとは限らない、が。

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 「真っ白い文字で読めないように」のフレーズは飛鳥涼氏の"YOU & ME"からパクりました。願わくば氏が松本零士より寛容たらんことを。

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 「くだらないこと」の例として野球選手の結婚をあげたが、松井秀喜選手はきちんといじめ自殺の件に対してコメントを出している。さすが巨人を退団した名選手である。松井選手が結婚するニュースがあれば、それは「くだらなくないこと」であると書いておく。
■本誌(産経新聞)に寄せた全文

 次々と子供たちが自らの手で命を絶つことには、僕も我慢がなりません。いろいろな理由があるにせよ、いじめをしている人、いじめで悩んでいる人には、もう一度じっくり考えてほしい。
 あなたの周りには、あなたを心底愛している人がたくさんいるということを。それは家族であり、親戚(しんせき)であり、友人であり、先輩であり、後輩であり、時にはペットであるかもしれません。
 人間は一人ではない。いや一人では生きてはいけないのです。だから、そういう人たちが悲しむようなことを絶対にしてはいけないと僕は考えます。相手の身になって、もう一度考えてみてください。
 ニューヨーク・ヤンキース 松井秀喜

人事不省

 人事不省と言う言葉に関して、今まで自分は「激しい苦痛や昏迷のために自分の身体にのみ意識が集中し、他者・周囲へ関心が及ばないさま」だと思っていた。しかし、辞書で調べると単に「意識不明」という意味らしい。医学用語として用いられる可能性のある言葉に対して無知であった自分を恥じる。
 従って、タイトルに「人事不省」とつけるのはどうかと思ったのだが、
2005/10/10 22:20
土屋繁裕氏(つちや・しげひろ=キャンサーフリートピア代表、外科医)8日午前10時、くも膜下出血のため福島県郡山市の病院で死去、49歳。福島県出身。葬儀・告別式は12日午後2時から福島県郡山市方八町2の5の8、郡山斎場で。喪主は妻広見(ひろみ)さん。


 この人、「去年の」秋に亡くなっってたんだ。

 そういえば、去年の今頃自分はニュースに目を通す暇も無いくらい死にかけてたんだったなあ、ということで表題の記事となった次第。もっとも、一年目の研修医なら皆死にかけてて当然の時期。

 故・土屋先生が言った事、書いたことに関しては賛同できる部分も多かった。むしろ先生の造語である「ドクターハラスメント」「ドクハラ」が一人歩きして、いわれのないクレームまでその範疇に入るかのようにマスゴミが増幅したことが問題なわけで。

 ほぼ一年遅れで、黙祷。

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 だいたいドクハラって何だ。探題か。

Wednesday, November 08, 2006

こちらの世界に来てみると

 早いもので研修医生活もあと残り数ヶ月となった。このblogを最後に更新してから、実に1年以上が経過していた。

 最初の3ヶ月間はそれこそ3年間以上に感じた。

 後輩もできる2年目。有形無形のプレッシャーがかかる中、厚労省の指針に従って産婦人科の研修に入る。

 そこで、発症した。


 そもそもはその前の科にいたときから変だとは感じていた。手技的に学ぶ事が多いわけでもなく、ただ患者さんの話を聞くだけ。死に向かって生きる人々の言葉を、20代後半の自分が淡々と受け止める。

 午後4時頃には限界に達していた。病院の仮眠室で体を横たえる。眠れば眠るほど疲れがたまる。徐々に地球の重力が1Gでなくなっていった。

 
 がんばって、なるたけ「いい加減に」やるよう努力していた、つもりだった。数十年の人生を経てきた人の重さを、この若造が受け止めきれる訳がない。のらり、ひらりとかわしていかなければとても続くポジションでは無かったのだ。だが、私のスキルが未熟だったのだろう。


 次に回った産婦人科で、すでに立ち上がれる状態ではなかった。同期のすすめ、診療部長の力添えで他院の精神科を受診した。予期していたことだし、実際それを望んでもいたのだが、後に師匠となる先生にSSRIの内服を勧められたときは、正直がっくりした。泣きそうになった。

 将来の職場として精神科を考えてはいたのだが、自分がいわゆる「メンヘラー」になってしまったのだと思うと,一気に情けなさが込み上げてきた。学生時代、この病を発症してしまったが故に進級を阻まれた友人たちの顔が浮かんでくる。


 うつ病の難しいところは、それが一般に信じられているところの「正常」と切れ目無く連続しているところにある、と思う。自分が病気であるとは思わない、業界用語でいうところの「病識のなさ」が発見を遅らせる。

 何週間か休め、という診療部長に「いえ、2,3日で戻って見せます」と見栄を切ってみせた。当直のローテーションだってある。決してマンパワー豊富な施設ではないのだ。それでも師匠は「2週間ぐらい休んだら?」と手紙を書いてくれた。


 1週間休んでみた時点で、今復帰するのはムリだと思った。そのときは、何で「ムリ」なのか、よくわからなかったけれども、再び戦線に復帰しても元の仕事はできないだろう、という非言語的な予感があった。



 教科書の知識は、うつ病を「気分障害」だという。じゃ、「気分」てそもそも何だ。「あの教師は気分で成績をつけている」「いまはドライブに出かける気分じゃない」なんて、よく聞く表現だ。

 こちらの世界に来てみて分かった事がある。「明日はテストだ、鬱だ氏のう」って成句があるが、「鬱」というのは断じて「何かをいやだ、やりたくないという気持ち」のことではない、ということだ。それは鬱の結果として生じる感情で、鬱の本態ではない。


 今日はここぐらいにしておく。極量のSSRIと少量のTCAが明日の気分を支えてくれることを祈りながら、折角戻った睡眠リズムがまただめになってしまわないことを祈りながら、床につくことにする。