Saturday, May 24, 2003

金曜ロードショーの裏番組

 「ブラックジャックによろしく」という漫画がある。
 今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
 どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。

 今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。

 確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。

 脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。


 さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。

 このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。

 医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。

 今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。

Sunday, May 11, 2003

医療における競争原理について

 先ほど、医療は一対一のサービスではない、と書いた。この考え方について、もう少し書いておく。


 この4月に話題になった事の一つに、「サラリーマンの医療保険三割負担に」ということがある。今までの本人一割負担に比べれば、単純に考えて負担が三倍になったわけで、患者「様」にしてみれば大変なことである。(ちなみに扶養家族などに関しては元から三割負担だったわけで、「働く世代」の負担が増えたと言うことだ)

 だが、逆に考えれば、依然として七割は「保険様」が払う、ということである。

 その七割は、国民医療保険、あるいは各企業体などで構成している共済保険などの基金が出しているわけで、それも元をたどれば、組合員の掛け金(+税金投入分)が拠出金になっているのである。
 そもそも保険というものは、「わずかな」掛け金を出し合って大きなリスクに備えるものである。つまり、その保険を構成する要員全てに大きなリスクが起こった場合、それは当然保険ではまかないきれないくらいの事態、ということになる。(従って、火災保険などには天変地異に対する特記事項というものがある)


 何が言いたいか。

 つまり、お医者さんというのは実際のところ、病院に来る「患者様」よりも、「少なくとも今は病院に来ていない人」から、たくさんのお金をもらっていることになる。保健医療制度、というのはそういうことなのだ。

 従って、「患者様中心の医療」とか言っている割には、現実には「保険様中心の医療」ということである。

 だって、ふつうに考えてみなさい。町中の医者(あるいは病院経営者)を全部集めてみようと思ったら、次のうちどちらのポスターがふさわしいか。

A.「医師の自由参加による、市民のための健康相談を実施します。」
B.「来月から変わる保険の算定方法についての講習会を開きます。医師の参加は自由です。」


 しかも、医療保険というものが厄介なのは、それが存在することによって医療というものを、市場原理で計算することが一層困難になっているということだ。

 「医療はサービス業」論者は、「患者にとって利益となる医療を行う医者(あるいは施設)は、より多くの患者をとることができる。従って、そのような医療機関はより多くの利益を上げることができ、競争に勝ち残る事ができ、逆の医療機関は淘汰される」という。

 たしかに、これは正しい。仮に患者自らが全額を病院に支払うシステムになっていれば、の話だが。

 実際は、需要側の「患者」と、供給側の「医療」の間に、第三のファクターである「公的保険」が絡むので、あたかも「囚人のジレンマ」のごとく互いの利益は反目しあうのである。


 話をわかりやすくするために、まず「医者」と「病院」の需給モデルを考えてみよう。

まず、患者側の利益を考えると、「安価で、しかも質の高い医療」ということになる。
しかし、病院側は、「高価、しかも質の低い医療」を供給することがベストである。
(経済的な立場から「利益」を論じているので、そういう病院はけしからん、というのは無し。)
この二者の妥協点として、「それなりに適正な価格と質の医療」が供給されることになる。もちろん、この前提には「安価で極度に質の高い医療を求める患者」と、「極度に高価で質の低い医療を供給する病院」は、排除されるということがある。

ここで、第三者たる「公的保険」を登場させる。
(なぜ「公的保険」としたかというと、それは患者に対する掛け金を強制的に集め得る立場にあるからである。保険料が高いという理由で、それから脱退することは、今の日本で認められていない。つまり、先に述べた排除の原則が公的保険には無いのだ)

 消費者たる患者から資金を得る「公的保険」が追求する利益は、ただ一つ「とにかく安価な医療」ということになる。実質上病院から得るものは何もなく、ただ金を払うだけの立場であるからだ。

 そうすると、病院側にとって最優先事項となるのは、消費者たる患者の利益ではなく実際は「公的保険」に対する利益ということになるのである。


 ここに、大きなゆがみの生じる余地がある。
 まず第一に、保険側に大きな利権が集中することによって、たとえば病院が保険機関の構成員に対して何らかの利便を図り、自分たちに回るパイを大きくしようと試みるおそれがある。
 第二に、保険機構の利益と、患者の利益は一致しない。一致しないにもかかわらず、「医療費の削減」という言葉は、消費者たる患者の払う金額を減少させられるかのような錯覚を生じさせる。

 一年ほど前、「ジョン・Q」という映画を見た。息子の心臓移植を求めて、父親が拳銃を手に病院を占拠するという、オスカー俳優デンゼル・ワシントンが熱演した割には、先の容易に読めるストーリー展開ではあったものの、その実みているうちに様々なことを考えさせられる作品であった。

 その中で、研修医が、父親デンゼルと心臓外科の権威に対してこういう言葉を吐く場面がある。「なんで健康診断が息子さんの病気を見逃したかって?HMO(米国の公的医療保険)は、たくさん検診を行っても『異常』の診断を出さない医者にはボーナスを出す。その方が安上がりだからな。」心臓外科医が答えて曰く、『あり得ん話ではないな。」

 前に書いた「たばこは医療費削減によい」というところでも述べたが、実際難しい病気を早期に発見し、長い間治療することよりも、さんざん病態が進んだところで発見し、二ヶ月たったところで「手を尽くしましたが・・・残念です」というほうが都合がいい連中がいる、ということなのだ。

 自己弁護にはなるが、打算的にみても医者はそういう考えでは利益を得られない。早く見つけて、長く治療した方が多く儲かる立場である。


 もちろん、私は医療保険制度の全てを悪いと言うのではない。
 しかしながら、公的な医療保険制度そのものが抱える矛盾というものはそれができた当初から存在する。
 しかも、現在は「入ってくる金よりも出る金の方が絶対的に多い」という医療保険の問題が不況下で浮き彫りになっている時代である。

 ここで単に「企業原理により病院間の競争を進める」事が、本当に消費者(依頼人)の利益にかなうことなのか、医療者の側としても考えることがある、ということだ。

 その意味で、「患者様」という言い方の裏には、何やらテーブルの上では作り笑いを浮かべながら、足の指では、もう半分も無くなったパイを必死で奪い合うことしか考えていない医者たちの顔が見え隠れして、薄っぺらな商業主義の香りがして、何とも吐き気がするのだ。