Sunday, October 31, 2004

五十歩百歩

情報乱れ政府迷走、「米軍頼み」に限界 イラク人質事件[asahi.com]

混乱の原因は「最初に現場にいた米軍の関係者の情報が不正確だったため」(町村外相)というが、イラクの治安が悪化する中で、事件への対応を米軍に依存せざるをえない日本政府の限界があらわになった。

 この記事を書いた記者は、「米軍」を「日本政府」に、「日本政府」を「朝日新聞」にそれぞれ置換しても、全く同じ構図が成り立つということに気がついているのだろうか。

 大本営発表をそのまま紙面に載せてしまう、というのは戦前さんざん犯してきた誤りであって、その歴史を繰り返すな、というのが戦後報道の原点だったはずだが、どうも最近一回転して元に戻ってきている気がする。

 本来国民の目となって働いてくれるべき大手マスコミの取材能力は、こんなとき全く役に立っていない。

Saturday, October 30, 2004

修理完了

 頭にきたのでシステムボードごと交換して、メインマシン復活。神様、私のAthronを焼かないでいてくれたことに感謝いたします。

 ビデオカードは1,750円の一件のままだが、ここはKISS(*)の格言に従ってそのままにしておく。別にこの期に及んでAmerica's Armyとか3Dゲームをガンガンやるわけじゃないのだ。

 ついでにいままで「ケースファン」というものをつけていなかったことに気づいたので、1,100円程度の一件を購入してネジ込む。

 なぜかGIGABYTEのマザーボードを買うと、おまけでNorton Internet Securityがついてくるのだが、今までの経験上インストールするとものすごい悪運に見舞われることになる気がするので、無視してAVGを用心棒に雇う。

 何はともあれ、これでメインマシンは完全に復調した。これでリンクとぶ度に5秒かかる生活から脱出できる。

 (*)Keep it simple,stupid!

いま、「民間防衛」を読む

 地震やテロといった大災害が起こると、必ず売れる本にスイス政府編「民間防衛」がある。スイスでは一家庭につき一冊ずつ無償配布されている本だが、日本で同じことをやったらおそらく大騒ぎになるだろう。というのは、邦訳版の表題に「あらゆる危険から身を守る」とあるものの、その中身をよく読むと、実は「あらゆる危険からを守る」であって、スイスほどの軍事国家(国民皆兵制度は有名で、すぐに動員できるよう成人男子の家には必ず自動小銃と実弾が備えてある)でも、危急の場合には国が必ずしも個人を守りきれないこともあるのだ、ということがよく分かるからである。

 「民間防衛」はもともと、永世中立というスイスの理想を実現するため、他国による侵略戦争から生き延びることを念頭に置いている。私が凄いと思うのは、「戦争に入る前のことも当然ながら、戦争に●●●場合のことも書いてある」ということだ。「●●●」には何が入るかは、あとで書く。しばし考えてみてほしい。


 さて、「民間防衛」は非常事態に対し、日頃からどういった蓄えをしておくべきか、という点については実に優れた教科書である。家族一人あたりに対し、水は何リットル、小麦粉はこれだけ、米はこれだけ、食用脂肪はこれだけのものを、こういった場所に蓄えておきなさい、ということについて、実に懇切丁寧に書いてある。その意味では、大地震のような状況に備える日本人にも、大いに参考になるだろう。


 だが、この本には特に目を引く項目が2つある。

 一つ目は「スイスが侵略を受ける場合」について書かれたページである。「民間防衛」では、これについて次の二つを想定している。

 すなわち、「敵は我が領内を(進撃路として)通過しようとしている」か「敵は我が領土を併合しようとしている」かのいずれかであり、前者に対しては「敵はその道が時間を要すると知れば、他のルートを考えるだろう」後者に対しては、「敵はその試みが非常に高くつくと知れば、あきらめざるを得ないだろう」と説いている。現代戦において、あまりに長期化する戦争は国内世論、国際世論の双方から支持されないことを計算に入れているのだ。

 日本が戦争に巻き込まれることはないだろう、と考えている方々は、果たして日本が「通過」「併合」のいずれを採っても価値のない土地だと考えておられるのだろうか。「不沈空母」として、ある意味、すでに「併合」されているというのは過言だろうか。


 もう一つは、「怒りを抑えて時を待とう」というページである。これは、敵国の占領下において、相手国の兵士に対する組織化されない攻撃は、犯罪として厳しく(敵国の司直によって)処罰されうる、ということについて述べている。

 そうである。「民間防衛」は、「戦争に負けた」場合についても書いてあるのだ。もちろん、単に敗北主義に走るのではない。

 不幸にしてスイスの首都が陥落しても、脱出に成功した一部の指導者たちが友好国で「亡命政府」を組織すること、国民は表面上相手国の占領政策に同調し、受け入れるがごとく振る舞うべきこと、国外からの援助のもと、密かにスイス政府を復興すべくゲリラ戦が展開されること、そしてその過程で多くの国民に犠牲が生じうることについてまで、言及されているのである。


 私はこの章を読んだとき、心底スイスという国が恐ろしくなった。そして、スイスに戦争を仕掛けようなどと考える指導者は、とんでもない愚か者だ、という感想を持った。おそらく本書を読んだ読者も似たような感想を持つことだろう。ということは、政府による「民間防衛」の出版という事業は、抑止力として立派に国防の一翼を担っているのである。


 翻ってイラクに目を向けてみよう。米軍がバグダッドを占領し、外交権・警察権を掌握し、一見戦争は終わっているかのように見える。しかし、本当はそこからが新たな戦争の「始まり」だったかも知れないのだ。我々のいうテロリストたちは「民間防衛」の手順を忠実に実行しているのかも知れない。それを知る意味でも「民間防衛」は一度読んでおく価値のある本である。

--
 果たして、我々の国家においても「主権回復」は水面下で進められているのだろうか。

Friday, October 29, 2004

続・地震のショックで死亡

 25日に書いた件だが、実際治療に当たられた先生がテレビに出演していた。

 車中泊により、いわゆる「エコノミークラス症候群」を発症される方が多く見られるとのこと。また、「地震によって驚いたことによるショック死」というよりも、むしろ避難生活による疲労の結果、基礎疾患を抱えているお年寄りの中に脳血管系、循環器系の急性症状でお亡くなりになる方が出た、ということらしい。

 とくに、現在も相当数の方々が車中泊をされているわけで、ヒーターを焚きながら(空気が乾燥して水分を奪われる)、座って睡眠を取るという生活は非常に「エコノミークラス症候群」を誘発しやすいらしい。

 私は「災害医療」に対して、発生直後24時間、48時間をいかに乗り切るかが勝負なんだろう、と勝手に想像していたが、どうも勘違いをしていたようだ。地震のように大きな災害は、ある意味緩慢なやり方で人を死に追いやることがあることを学んだ。だが、それは医療の力だけで防ぎきることの出来る問題ではないだろう、とも感じる。

修理状況

 未だメインマシンが直らない。

 とりあえず電源がイカれているのは分かったので、玄人志向の400W電源を買い。これで何とか電源投入は可能になった。だが、今度は起動の途中、ログイン画面表示のところで画面表示が乱れてしまい、使用不能になってしまう。

 何回かBIOSの設定をいじりいじり試してみたが、やはり途中で固まる。しかも、デスクトップのアイコンが滅茶苦茶だ。なぜかワードのアイコンがゴミ箱マークになっていたりする。そのアイコンを削除すると、今度は別のアイコンがゴミ箱になっている、という具合だ。こりゃいかん。

 Windows XPを再インスト-ルしてみるが、やはり起動の過程でビデオカードの認識がうまくいかず、画面が乱れて止まってしまう。

 以前にも似たような症状があり、その時は思い切ってビデオカードを交換してうまくいった経験がある。とりあえず、格安のビデオカードを探して見る価値はあるはずだ。

 そこで今日は近くの「じゃんぱら」へ行き、nVIDIA(だと思う)のAGPビデオメモリ16MBの中古カードを\1,800足らずで購入。ちょっと風邪を引いて診療所にかかってもこの程度はかかるご時世。診断料と考えれば、まあ看過し得る出費ではある。部屋に帰って、今まで刺さっていた玄人志向のRadeon7000と交換してみる。

 すると、今度はログインののちデスクトップの表示まではスムーズに行った。だが、IEを起動させ、Yahoo!を表示させていたたところ、いきなりHDDのアクセスランプがつきっぱなしになり、フリーズしてしまった。仕方なく電源を落としたが、今度はBIOSメニュー表示後HDDが認識されなくなってしまった。

 いい加減e-Machinesから一つ買った方が安いんじゃないか、という気がし始めたが、せっかく私が命を吹き込んだマシンなので、むざむざと捨ててしまうには気が引ける。

 せめてAthronが熱で焼けてないと良いのだが・・・。これからの時間は一層貴重になるだけに、明日はSocket A対応のマザーボードを探しに行くべきかどうか考えている。

【鑑別診断】
マザーボード(特にAGPスロット周り)の破損/CPU(Athron XP)の焼損/物理メモリの寿命/電源を急に落としたことによるHDDの破損/実はケースのスイッチ周りがおかしい/呪われている

Monday, October 25, 2004

地震のショックで死亡

 今回の新潟県中越地震において、複数のお年寄りが「地震のショックで死亡した」と伝えられている。医学用語の「ショック」(血圧低下)と、堅気の衆が使う「ショック」(精神的衝撃)では意味が異なるのはよく知られていることだ。

 おそらく、「地震のショック」とは後者、つまり精神的衝撃のことを言っているのだろうが、私が不勉強なせいであろうか、「人が精神的ショックで死ぬ」ことをうまく説明できない。似たような医学用語に「神経原性ショック」というのがあるが、これとはちょっと違うだろう。昔はプロレスラー(かみつきブラッシー)の流血シーンでテレビの前のお年寄りが数人亡くなったと言うが、それは「ユリ・ゲラーの超能力で壊れた時計が動いた」というのと、似たような仕掛けがあるのではないかと思っている。

 完全な推察であるが、地震前後に起こった「不詳の死」の多くが、「地震によるショック死」として処理されているのではあるまいか。

 つまり、平時でも、こたつに当たってお茶飲んでテレビ見てるおばあちゃんが突然胸を押さえてうずくまってしまい、そのまま救急車で運ばれる、ということはある程度の確率で起こり得ることだ。いつもならば、そのまま病院なり救急センターに運ばれて、徹底した検査を実施して、ICUに収容して、大動脈解離なり心筋梗塞なり、何らかの病名をつけられることになる。不幸にして亡くなった場合も、遺族から了解が得られれば病理解剖に付して、病理診断までつけることが出来る。

 しかし、地震というのは、一時に多数の負傷者が発生するという特殊状況下である。このせいで救急医療機関が飽和されたがために、あるいは平常時であれば治療を受けられた可能性のある方々が、不幸にも満足な治療を受けられずに亡くなってしまった、ということである。

 もちろん、「満足な治療」を受けられればそれらの方々を救命し得たのかどうかは分からない。どんなに救急システムを改良したところで、絶対的にマンパワーの不足する大規模災害においては、こういった死が生じることはやむを得ないのかも知れない。

 自動車同士が衝突して、重傷者が4人いる、と言う場合のトリアージと、地震が起きて外来に300人の外傷患者が押しかけている、と言うときのトリアージは違ってくる、ということも聞いたことがある。前者の場合は、設備が整った施設という前提で「4人全員の救命」を目標とすべきだが、後者の場合は全員救命することが不可能だ。

 私はその現場にいるわけではない。いま被災地で活動しておられる先生方のご苦労を推測することしかできない。地震によって住み慣れた場所を離れなければならないストレスや、急激な気温の変化など外部環境の変化も、死の遠因にはなっているといえるだろう。

 遺族を含めて、みんなが納得するためには、「おばあちゃんは地震のショックで亡くなったんだよ」という言い方がこの場合最も良いのかも知れないが、医科の学生としてはちょっとした割り切れなさを感じるのも事実である。

チャカ傷の話

駐在所の巡査長の拳銃暴発、子どもけが 愛媛[asahi.com]

 同署の調べでは、拳銃は、ベルト付きの拳銃ケースに入れた状態で、駐在所事務室の隣の居間の押し入れに置いてあったという。長男がケースを押し入れから取り出し、拳銃を抜いて触っていたところ暴発し、ふすまで隔てられた廊下にいた次男にあたったらしい。同署は「拳銃には複数の実弾が込められていた」と説明した。


 この記事を読む限りでは、巡査長の拳銃保管の方法がまずかった、としか言いようがない。だが、10歳と言えばちょうど悪戯したい盛りの年頃である。かくいう私も、このころマッチ遊びを母親に見つかって壁まで張り飛ばされたことがある。

 しかし、駐在さん、と言えば家族ぐるみで、その村の治安を守るただ一人の警察官、と言うイメージがある。津山30人殺しのような事態が起こったとき、駐在さんがすぐにアクションをとれないことはとてもまずいわけで、寝るときは鍵をかけて保管庫へ、というのは規則として正しいかも知れないが、少々不安の残ることである。

 おそらくこの駐在さんには厳しい処分が下ることであろうし、場合によっては職を失うことになるかも知れない。その場合、長男は「弟を撃ってしまった」という悔恨を背負って一生を送らなければならないし、そのせいで家族を路頭に迷わせた、と言う責め苦をも負うだろう。この家族に降りかかる運命を考えると、どうしても暗くなってしまわざるを得ない。

 たった一つの明るい要素は、次男が肺を撃たれたにもかかわらず死亡していないことである。ふすまを一枚貫通してから次男に当たった、とのことであるから、ちょっと考えると、ああ、そのせいで弾の勢いが弱まっていたから助かったんだな、と思うところだ。だが、実はこういう弾丸こそ体内で停止してしまう可能性があるため、運動エネルギーが生体組織に全部伝わってしまい、致死的になりやすい。(今回は結局貫通銃創になったようだ。この点に関してはもう一つ書きたいことがあるが、本筋を離れるのでやめておく。)
 
 岩田健太郎先生の「悪魔の味方」によると、近年アメリカでは、殺人事件が減少の傾向にあるそうだ。その背景にあるのは、治安や警察力ではなく、むしろ「救急医療体制の向上」であるという。所詮「医者の書いた本だからそうなんでしょ」と言ってしまえばそれまでなのだが、医者の技量によって、一人の人間のしでかしたことが「傷害」なのか「傷害致死」なのか、変わってしまうということである。

 そう考えてみると、医者が関わるのは単に「目の前の患者」の人生だけでは無い、ということだ。それは、大学病院の医者であろうと村の診療所の医者であろうと、それぞれについて言えることなのである。

 延びすぎたので、今日はここまで。

--
 医学部で「君、毎月読んでいる雑誌とかあるの?」と聞かれ、「月刊GUN」ですと答えると、なぜか「Cancer Researchかね、君よく勉強してるね」と感心される。



 んなわけねーだろ。

Friday, October 22, 2004

メインマシン故障

 ここのところほぼ24時間稼働に近い状態で酷使していたのが響いたのか、メインマシンが故障してしまった。

 普通にFirefoxを用いてwebを巡回していたのだが、突然シャットダウンが開始され、電源が自動的に落ちてからは起動できなくなった。電源スイッチを押しても反応がない。

 本日の午前中に再雇用したノートン先生を用いて、完全スキャンを実施していたところだったので、ウイルスによる物とは考えにくい。それに、ウイルスのせいならばBIOSが立ち上がらないのはおかしい。

 となると熱暴走など、ハードウェアトラブルを疑いたいところだが、しばらく待って、CPUを冷やしてみても立ち上がってこない。まったく電源スイッチに無反応である。

 キーボードやモニタケーブルなど、スパゲッティのように絡んだコード類をとっぱらい、とりあえずケースを開けて中身をのぞいては見たものの、別に煙を噴いているところはない。CPUの冷却ファンや放熱フィンまで外してみたが、とりあえず焦げてはいなかった。

 となると次に考えたいのは、マザーボードのBIOSがとんだか、電源の寿命が来たかであるが、とりあえず試験が終わってから修理に入る。マザーボードのマニュアルはすでにメーカーからダウンロードしたが、どうせ各部品の保証期間などとうの昔に切れてしまっている。

 ことによると来年春までこのサブマシン(Libretto L1)で乗り切ることになるかも知れない。また、マッチングの結果によっては、住宅事情から考えて、就職先にこのマシンを持ち込めない可能性がある。更には、部品を求めてかけずり回る労力を考えれば、しばらくお金を貯めてからDELLの直販でも買った方がいいということになるかも知れない。


--
 こういうときは、たとえ牛のように遅くとも、少なくともWindows PCであるLibrettoの存在が無性にいとおしく感じる。「どこでも使えるコンピュータこそ、最強のマシン」

カストロ議長も_| ̄|○

 いやあ、何だか世界的に_| ̄|○が流行しているようで、元気が出てきました。個人的には昨日、模試云々よりも相当_| ̄|○な出来事があったのだが、それを吹き飛ばすぐらいのインパクトが。

 ご丁寧にasahi.comは連続写真付きだ。

 この際だから、カストロ議長も野球界再編に協力して欲しいものだ。

--
 韓信匍匐【意味:大物になる奴は_| ̄|○が上手い。】

Wednesday, October 20, 2004

_| ̄|○

模試の結果が返ってきた。

<一般問題・臨床問題>
既出問題の学習が一般、臨床とも不十分です。
再度既出問題を徹底的に勉強してください。

成績の推移
第一回 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
第二回 ▲▲▲▲▲▲▲


_| ̄|○。。。

--
 「模試を受ける」のも、「病院にかかる」のも、金を払って悪いニュースを聞くという点については共通する部分がある。しかし、だからといっていい大人がそこから目を逸らしてはいかんのだ。
 たぶん。

Tuesday, October 19, 2004

blogとはウンコである

 - 副題 page viewを減らしてみよう -

 私は文章を書いて飯を食っているわけではない。つまり、ここにくだらないことを書いているのは、完全に私の趣味であり、誰かに強制されて「一日一編ずつ書け」といわれているわけでもない。

 当然、書くことがたくさんある日もあれば、何も書かない日もある。書きたいことがないのに、無理矢理ひねり出して書くことはない。しかしながら、しばらく書かないでいると、書きたいことは溜まってきてしまう。頭の中がそれでいっぱいになって、書かないわけにはいかない、ということになってしまうことがある。今、書いているのがまさしくそういうことだ。

 ふと気付いた。

 これはウンコそのものではないかと。

 日によって柔らかい日もあれば、固いときもある。一日に何回も出て、どうにかなってしまうのではないかと思う時があるかと思えば、具合が悪くて何も出ないことがある。朝一番に出るときもあれば、夕方ふとしたときに出したくなることもある。旅先で、バスの中で、路上で、山の中で、トンネルで、本屋の中で、食事時に、どうにもこうにも出したいことがあって、急に紙が欲しくなることがある。

 そうだ。まさしく、blogとは精神のウンコそのものなのだ。

--
 何だか最近、眼鏡をかけた白髪のロシア人に、いつも追視されているような気がして、その人の考えが頭に流入してきているような気がする。いかん、こんな事では北海道「本土」の盾になれないぞ。

トラックバック考。

 最近、やっと「トラックバック」とは何者なのか、わかってきた。ここに整理しておく。

 通常、ある人物の著作を引用するときは、いったい誰の文章を引用したのか、明らかにしておく必要がある。「引用」とは、他人の文章の一部分を切り取ったものである以上、私の文章力不足によって引用元が不当な評価を受けることがあってはいけないからである。

 私が書いた文章は、当然第三者が読む事を想定しているから、その読み手が引用元を容易に参照できるようにしておくのがよい。つまり、原文に対してリンクを張ることである。しかし、この「リンクを張る」行為は、直接トラックバックとは関係がない概念である。従って、このリンクは手動で張らなければならない。


 さて、誰かの文章を引用する場合、第一義的にはその引用元に連絡を取る必要はない。それは、インターネットにおける「リンク」の概念による。通常、自分が著作したサイト内容ではないことが明らかにわかる場合、たとえ「リンクフリー」の標記が無くとも、リンクを張ることは、マナー違反ではない。

 しかしながら、引用に際して、引用元に連絡を取りたい場合がある。それは、多分に個人的な文章を公開するblogというものの性質を鑑みるに、個人対個人のコミュニケーションがとても大事になってくるからである。

 引用元への連絡手段は、それこそメールでも、電話でも、硯と墨を用いても良いのだ。しかし、トラックバックというツールを使うことで、相手先へ「引用したことの通知」と「相手も引用を用いて構築した自分の文章(の概要)」を明示することが出来る。しかも、それは相手の文章を読んでいる第三者にも参照可能である、ということが画期的なのだ。


 銘記すべきなのは、「トラックバックを発砲する」行為は、自身がblogを所有していなくても可能だ、ということである。Moveble Typeや、多くのblogサービスでは、ユーザにトラックバックツールを提供しているため、あたかもWWW上にblogを所有していないとトラックバックは発砲出来ないように思っておられる方も多いと思うが、それは誤りである。

 blogを持っていなくとも、「blogぴんぴん」(Win版(要会員登録)/Mac版)や、このようなスクリプトを用いることで、ローカルから一方的なトラックバックの発信が実現できてしまう。これを悪用すれば、いわゆるトラックバックスパムになる。そうでなくとも、相手の文章と自分の文章が全く関連しない場合にトラックバックを発砲するのは、本来の使い方ではないといえる。


 従って、私はトラックバックを発砲する際に以下のようなことを心得ている。

★相手の文章を引用するか、少なくとも相手の記事を読んでいることが前提条件となって自分の文章が成立する場合にのみ、トラックバックする。
★トラックバックを発砲する際には、相手の記事へ手動でリンクを張る。
★トラックバックは「発砲する」ものである。一度撃ったら取り消せない。
★相手がトラックバックに対応していないサイトの場合、メールを送信するなど、他の代替手段によって引用の事実を知らせる。
★出来る限りローカルツールを使用する。(haloscanからトラックバックすると、日本語サイトではほぼ確実に文字化けが起こるため、個人的な理由。)

 もちろん、トラックバックに対する考え方はまだ個人個人によって異なる部分がある。上記の項目を、私も「必ず」実行しているとは限らない。あくまでもメモである。

枯れた

 6月頃書いたパキラの取り木だが、標記のような結果になった。

 「ルートン」を使ってみたが、結局幹周囲の皮をむいた部分からの発根が得られず、思い切って7月頃切り戻しをかねて幹から上の部分を切断、挿し木を試みてみたが、根が着かなかった。

 「切り戻し」とは、背が高くなりすぎた植物の幹を途中で切り、脇芽を伸ばす操作のことを言うが、今に至るも脇芽が出てこない。ひょっとすると、「殺ってしまった」かも知れない。唯一の希望は、未だに幹が緑色を保っていることであるが、北海道の夏ということを考えると、切り戻す時期が少々遅かったのかも知れない。

 本当はこういうときに農学の専門家が近くにいると良いのだが、・・・。長くなるのでここには書かない。

 結局ホーマックに行って、若い苗を二つ買ってきた。取り木を試みたときに使った出費よりも、苗二本の方が安かった。

 植物とはいえ、本来こんな風に命を粗末にするのはあまり褒められた行為ではないのだが、・・・。長くなるのでここには書かない。

--
 今日はずいぶん内輪ネタだった。

Saturday, October 16, 2004

汚れた川に鮭は帰らない

地域の医師不足解消へ入試で「地元枠」増 文科省支援へ
 ただ、地元枠を設けても確実に残ってもらえる保証はない。岩手医大は私立だが、地元枠合格者は卒業までの学費のうち、国立大学の入学金と授業料に相当する額を負担すればいいことにし、差額の1人当たり約4000万円は県が負担している。その代わり、卒業後には県内の公立病院での勤務を義務付けている。県外に出れば、負担金を返還してもらう約束だ。


 一般に、入試における地元枠を増やすことは、地域に出向する医師数の確保につながるかのように思われている。が、果たしてそうだろうか。

 「地元枠」の導入は、大学側の積極的な意図と言うよりも、むしろ地方の医師不足に対して、「大学が医師を送ってくれない」という批判をかわすために導入が決まっているようなものではないか、と思う。

 「オレに逆らうなら北海道で医者が出来ないようにしてやる!」という教授の一言が通用したのは遙か昔の話である。そういう強権的な教授がいた頃はまだ「地方に飛ばす」という必殺技が出たのだが、いまはどこの教授も「本人がイヤだといっているものを、無理に地方に行かせるわけにはいかないよねえ」という具合だ。本人の意志にそぐわないのにに勤務に就かせ、問題を起こされる方が、組織にとってはよほどダメージが大きい。

 従って、「医局ではなく、大学全体としての窓口が地方への医師派遣を斡旋する」という話になってきた。「いや、これは大学の窓口が決めたことだから」という形にした方が、大義名分が立ちやすいと言うことだ。


 私自身、地方出身の医学生である。出身地のA市は、今や2万人を切るくらいに人口が減り、市立病院の産科婦人科、小児科外来は既に閉鎖されてしまった。眼科や耳鼻科といった診療科は、週に2回ほど大学から外来の医師が派遣されてくるだけである。慢性的な医師不足に悩まされているA市は、新臨床研修制度に伴い、破格の給与で新卒の医師を募集することにしている。

 本来ならば、私のような学生こそ、地元に戻って医者をすればいい、というのだろう。

 だが、私の初期研修希望病院リストに、地元のA市立病院は入っていない。正直、産科や小児科、精神科といった新制度では「必修」とされている科のローテートが、事実上そこでは研修できないことになる。十数キロ離れた、他の市の病院へ出向して研修を受けなくてはならないのだ。

 また、医師数が少ない、ということは、必然的に新卒の研修医に対する負担がかなりきつくなる、ということだ。おそらく一年目から一般外来を担当することになる。困ったことがあっても、相談できる上級医をすぐに見つけることが出来るだろうか?ちょっと前「マニュアル片手に手術をしていた」といって叩かれた先生方がおられたが、下手すると毎日マニュアル片手に診療する事があるかも知れない。

 私はA市が、今までどんなに無計画な財政を行い、若者に対しどんな仕打ちをしてきたか、よく知っている。その時点で既に大減点なのだが、全く長期ビジョンを考えずに、「カネさえ出せば何とかなるだろう」式の発想がミエミエで、私は戻る気にならないのだ。

 はっきり言って、A市で研修を行った研修医のほとんどは、2年の期間終了後すぐに大学病院なり、他の病院に転勤することになるだろうと思う。そのための「資金作り」と割り切っている方が多いと思うのだ。

 だが、それは地域医療に於いて最も重要な要素の一つである、「継続性」という概念からは、大きくかけ離れている。


 6年生になった今としては、私も「思い切って地方に行ってみようか」という気がしている。だが、数年前までは、(医学部以外の)都会の大学を卒業して、都会の企業に就職する高校時代の同級生たちを見て、「なんで他人より多くの犠牲を払った俺が、必ず田舎へ行かにゃいかんのか」という羨望の気持ちがあった。

 すぐに偏差値云々を持ち出すのはヒンシュクを買うが、「同じだけの学力があれば、他の大学の理学部にも入れたはずだ。こんな足し算かけ算しか使わないようなイカサマ科学じゃなくて、もっとまともなサイエンスを学べたはずなのになあ」という葛藤を経て、今の私があることも事実である。

 一度大海に出た鮭たちは、どんな気持ちで川を上っていくのだろう。

--
 数年前、(準)看護師の「お礼奉公」がずいぶんマスコミに叩かれた事がある。主に医師会立の准看護学校で、学校側から半ば強制的に支給された「奨学金」を盾に、卒業生が無理矢理系列病院で働かせる、という話だった。
 医学部「地方枠」の導入にしても、やっていることは同じだろう、と思うのは私の杞憂だろうか。

Friday, October 15, 2004

騙さないわけない

 「ちりんのblog」KU。

 「偏屈おやじの館blog」を読んではっとさせられた。

 いい大人が人を騙さないはずがないのである。

 大人の世界では、「騙す人間であるかどうか」じゃなくて、「騙されるだけの値がある人間かどうか」が大事なのだ。


 我々もこれから先、自分で選んだはずの研修先で「騙された!」なんて言う場面がたくさん出てくるはずで、下手するとそこが精神的ネックになってしまうのだろう。

 しかしながら、考えてみれば医学部に面接が導入されたとき、面接官のネタとしてよく聞かれるものに「あなたは地域医療に興味がおありですか?」というものがある。

 「いや、私は基礎研究の方に興味があるので、地方に飛ばすのは勘弁してください」なんて正直に答えるのは奇特な受験生で、少なくとも北海道内の医学部を受験する場合には「私は人と人とのふれあいが大好きなので、是非地域医療をやってみたいと思います」とか、適当に大ウソを抜かすのが正しい。

 近頃は受験生が全員面接を受ける事になっているので、ほぼ全員がこの大ウソをつかされるのである。面接官を務める教授の方も、学生が卒業後みんな僻地に行ってくれるなどとハナから期待してはいない。
 
 しかし、中にはとんでもなく誠実で、医師として非常に不適格な人物が紛れ込んでいるかも知れないから、そういうのが間違って合格してしまわないようにする目的がある。

 みんな人を騙して医者になっていくのである。少々のことで「騙された」とか言ってはいかんのだろう。

Monday, October 11, 2004

手塚先生済みません

 今日はもっと別のことを書こうかと思ったが、せっかくテレビ版「ブラックジャック」の初回を見たのでこうしてみる。

99B-21
 10歳の男児。小腸憩室手術後、静脈留置針を設置したが、搬送中他患のベッドと接触し、留置針が折れた。
 直ちに施行した上腕部X線撮影写真と、その30秒後の写真を示す。(別冊カラー写真5)
 その後上腕静脈結紮術、続いて緊急開胸術を実施したが、折れた針の先端は見つからなかった。
 1週間後、留置針が折れた部位と近傍の動脈より、折れた先端部が摘出された。
 直ちに行うべき検査はどれか。
 1,胸部HR-CT
 2.胸部単純X線撮影
 3.気管支血管造影
 4.心臓カテーテル検査
 5.Tc-99m肺血流シンチグラフィ

a.(1),(2) b.(2),(3) c.(3),(4) d.(4),(5) e.(1)(5)

この問題はフィクションです。答えがあるかどうかについても責任取りません。

 どう考えても「どこかにシャントが存在した」と考えるのが自然であって、「折れた針が肺まで行って、どこも傷つけずに出てきた」と考えるのは解剖学的に、ものすごく無理がある。手術場の大学の先生も、天下の名医ブラックジャックも一言もこのことに触れないのは・・・_| ̄|○。

 バックグラウンドに心房中隔欠損や動脈管開存や肺動静脈瘻があるかも知れないのに、そこを「生命の不思議」で終わらせてしまってはイカンだろう。

【堅気の方へ解説】
(シャント:普通血管はおおまかに、動脈→毛細血管→静脈とつながっているものだが、まれに動脈→静脈と直接つながっている事があり、これを「シャント」と呼ぶ。心臓や肺の近くの血管にこれが存在すると、「酸素たくさんの動脈血」と「酸素に乏しい静脈血」が混じり合ってしまうため、効果的な血液のガス交換が行われず、病気として扱われる)


--
 医者には「科学的に正しいことをやるのなら、結果的に病気が治らないことがあってもやむを得ない」と考える人と、「病気が治るのならば、別に科学的に正しいかどうかは問題ではない」と考える人がいる。医者の間で評価が高いのはどちらかといえば前者であり、私もまあ「いい医者」というのは前者のような人を言うのだろう、と考えつつも後者へ傾いてしまうのを自覚している。

 しかし、ここはツッコまずにいられなかった。高校生の頃、同じエピソードを単行本で読んでいて、そのときは純粋に感動したのだが、年を取るというのは本当にイヤなものである。

Thursday, October 07, 2004

わからないことだらけだ

 昔、金曜ロードショーには3ヶ月に一本の割合で「刑事コロンボ」が登場したものだ。コロンボ警部はたいていこういう風に犯人を追いつめて行く。
 「実はね、現場とホトケさんをちょっと調べてみたんですが、それがわからないことだらけでして。」
 倒叙ものである「刑事コロンボ」では、犯人が殺人を「自然な死」に見せるように小細工したりするのだが、我らがコロンボ警部にはちゃんとそれが「わからないこと」に見えるのである。


 昔、ある基礎医学の教授から言われたことがある。

 「医学なんて、わからないことだらけなんだから、研究する価値があるし、面白いんだ。」


 確かに、わかっていることよりも、わからないことの方が圧倒的に多い。

 わからないことを明らかにしようと言うのも「医学」だが、わからないことはわからないなりに、今生きている人間を何とかしようと言うのも「医学」である。

 たとえば抗生物質であるエリスロマイシンが、細菌感染が本態ではないDPB(びまん性汎細気管支炎)になぜ効くのか、ということは長い間謎だったし、ASO(閉塞性動脈硬化症)は何でタバコを吸っている人に多く起こるのか、ということについても明確な説明は未だ与えられていない。

 しかし、DPBの患者にエリスロマイシンを投与すれば、長期予後は大きく改善するということ、そしてASO患者には禁煙させた方が予後が良い(最新のHarrison'sによると必ずしもそんなことはないらしいが国家試験的には「禁煙指導」だ)ということがわかっている。

 究極的に言えば、人間の体なんかまだまだブラックボックスで、いくら整然とした理論が与えられたところで、「ある治療」に対して本当に「ある反応」が起こるかどうかは、多数の「人柱」を使って確かめなければならない。

 「人柱」といえば人聞きが悪いので、上品な言葉でこれをEBMと呼んでいる。


 ちょっと前、利根川進先生がNHKの番組で「サイエンスに頭の良し悪しなんかあんまり関係ない。大事なのは『どういう問いを立てるか』だ」という事をおっしゃっていた。

 私は今まで、意図して人の考えない問いを立ててきたつもりだった。答えの出ない問題は、「考え続けるところに価値がある」が信条だった。

 今でも十分「わからないこと」だらけだ。

 しかし、最近ある考えにとらわれてもきている。それは、「賢い奴は、答えの出ない問いなんか、最初っから立てないのではないのか?」ということだ。答えが出る問題か、それともでない問題かをかぎ分ける嗅覚のある人間こそ、「賢い」のではないのか?

 だとしたら、私は相当「愚かな」人間であったことになる。

--
 わからないことは、わからないなりに、「やってはいけないこと」に大きな×をつけ、「まあやってもいいこと」に△をつけ、「普通やっている」事に○をつけるのが国家試験である。

Tuesday, October 05, 2004

あそこは公共の場か、私的空間なのか

ススキノに監視カメラ構想[北海道新聞]

 ススキノは「経由点」としてよく行くのだが、こんなところにカメラが置いてあるとは知らなかった。ススキノよりちょっと手前には、資生館小学校という札幌で一番新しい小学校があるのだが、そのド真ん前に「この地域から暴力団事務所をなくそう」という立て看板があったりする、実にほほえましい場所である。

 ススキノはいわゆる「ロビンソン前」というメインストリートがあり、ここは比較的治安の良い場所として(近くにすすきの交番もある)よく待ち合わせの場所に使われている。しかし、同じストリート上で、昨年暴力団による傷害致死事件が起こっていたりするわけで、まあ一つのデンジャーゾーンであることには変わりない。


 今日ここで問題にするのは、「果たして繁華街の路上にプライバシーは存在するのか」ということである。

 たとえば、私は大通公園にたくさん監視カメラを設置しておこう、という意見があれば、文句なしに賛成する。公園というのは「公共の場」であり、そこで行われる行為についてプライバシーがどうのこうの、というのはナンセンスであるように思える。

 公共の場にカメラを設置することについて、立正大学 小宮信夫助教授「あなたにもできる銃犯罪防止活動」(PDF)から引用する。

(5ページ目)
 防犯カメラの話になりますと、必ずプライバシーの侵害になるのではないかと言う反論があります。しかし、イギリスは世界で最もプライバシーを尊重する国の一つです。プライバシーというのは、個人の私生活がみだりに他人の目にさらされない、と言うことです。そうすると公共の場所に防犯カメラを設置する場合には、そもそもプライバシーとは衝突しないとも考えられます。なぜならば、プライバシーが制限されるからこそ、その場所が公共の場所と呼ばれるからです。ですから、公共の場所におけるプライバシー、という問題の設定自体が矛盾しているわけです。プライバシーが制限されているからこそ、その場所は公共の場所なのです。また、イギリスの場合には、防犯カメラのほとんどは、地方自治体が管理しています。警察ではありません。


 つまり、小宮先生の意見は「公共の場でのプライバシーは制限されるが、私的空間でのプライバシーは厳に守られるべきだ」ということである。

 ここで、ススキノの場合を考える。ススキノは、普通の「お酒を飲むお店」がいっぱいあるところなのだが、その範疇に入らないお店もたくさんあるところである。

 数年前の歌舞伎町ビル火災の際にも明らかになったが、そういうお店に誰それが行っている、ということは相当なプライバシー上の問題になる。また、使いようによってはある人間に対する脅迫材料にさえなりかねない。

 監視カメラを設置することが果たして「公共の場」を守ることになるのか、あるいは「私的空間」を犯す事になるのか、ということについての問題である。また、カメラの管理権を警察に与えて良いのか、という問題でもある。

--
 実は警察に監視カメラ設置されて、一番困るのはススキノをこよなく愛する政治家の皆さんじゃないのか、という気がする。

--
 追記:同じ講演の中で、「クライム・ストッパーズ(匿名通報システム)を整備すべきだ」とも言っておられる。私もこの点については賛成だ。

 過去に2回ほど110番通報をした経験から言うと、何もやましいことがないはずであるのに、やはり警察を呼ぶという事に関しては一抹の躊躇が生じるものだ。

 そもそも「オレは○○町から来た××だ!」と名乗って入る強盗もいないわけで、犯罪とはもともと匿名でやるものである。被害者(あるいは被害者予備軍)の方だけ匿名性がない(警察にマークされる)、というのは、どこかフェアでない気がする。

Friday, October 01, 2004

チャカは小さい方が怖い

組員の銃で少年殺害か、同じ25口径と判明 大牟田

 県警などによると、ブローニング・ベビーは暴力団関係者らの間で30万~40万円で取引されているという。ただ、暴力団は口径が大きく殺傷能力の高い銃を持つのが一般的で、ブローニング・ベビーはあまり出回っていないとされる。


 一般に、大口径で、とにかく弾丸に威力のある拳銃ほど「怖い」印象がある。ダーティーハリーご愛用のS&W M29 44Mag.などその最たるものだ。しかし、拳銃は小さなものほど本質的には怖いのである。

 拳銃の意義は、その携帯性と隠匿性にある。実際、現在軍用拳銃として主流の9×19mm口径でも、一般的な訓練を積んだ兵士が狙って当てられるのは10m程度の射程、熟練者でもせいぜい30mである。

 もちろん、9mm口径の方が25口径(※)より威力は大きい。しかし、たとえばナイフを構えた相手がこちらに向かって一直線に走り込んでくるのを阻止するためには、9mmでさえ2発以上の命中弾を必要とする、とされる。従って、「護身用」としては小口径の拳銃は実に使いにくい。

 逆に、誰かを襲うという確たる意図を持った人間にとっては、小口径の拳銃は実に使いやすい武器である。威力の小ささは、隠匿性を生かして十分に接近し、急所を狙うという使用方法で十分にカバーできるのである。つまり、映画のように廊下の向こう側からデザートイーグルを何発も撃つより、こっそり相手の後ろに回り込んで、22口径を延髄めがけてポンと弾く、というやり方が一番致命傷を与えやすい。

 しかも、小さなピストルほど密輸しやすく、手に入れやすい。よく言われるのは、自動車のエンジンシリンダーに分解した拳銃を隠す、という手口である。こんなコトされると、素人目にはどうやって見つけたらよいものだか、ちょっと想像がつかない。


 長崎出島の時代ならいざ知らず、今は一日何千トンという貨物が日本に入ってくるのである。本当に税関の皆様には頭が下がるのである。

--
 一般にN口径と言うとき、弾丸の直径は(N×2.52÷100)mmである。