Wednesday, June 30, 2004

権利と義務

 「患者様の権利」で検索した場合と、「患者様の義務」で検索した場合

 「権利の裏には義務がある」とは、高校でイヤになるほどPTAから聞かされたセリフなのだが、いろいろと考えることがある。

見えない失敗

 もし私が車のセールスマンであったとする。約5年のスパンで自家用車を買い換えてくれる顧客を、500人抱えていたとする。平均して、私は一年に車を100台ずつ売ることが出来る。
 ここで、私が不用意な言動で、1人の顧客を怒らせてしまったとしよう。たいてい起こった顧客は周囲の人々にその体験を、誇張して話すことになる。その影響で、20人の顧客が減ることになる・。
 当然、こういうことは普通の会社では、私の責任になるわけで、こういったことが続けば、セールスマンとしての立場自体が危うくなる。

 ひるがえって、医者の場合について考えてみよう。
 もし、私が不用意な言動で、1人の患者を怒らせてしまったとしよう。たいてい怒った患者は周囲の人々にその体験を、誇張して話すことになる。その影響で、20人の患者が減ることになる。
 では、こういうことは病院では、私の責任になるのだろうか。また、こういったことが続けば、医者としての立場が危うくなるだろうか。

 勤めているのがどういう病院であるかによる、と考える。

 民間病院であれば、当然こういった医者への不満は、病院としての収入減少につながる。従って、当然患者に冷たい態度をとり続ける医者の居場所は無くなっていく。


 ところが、大学病院や、研究を主題に抱える公的病院などでは話が変わってくる。患者の方がその病院を「選ばなければならない」事情(既に小規模施設では対応しきれない疾患など)があるので、民間病院のような患者側の選別が進みにくい。
 このような事情があるので、患者が病院に対し正直な気持ちをぶつけてくることは少ない。訴訟にまで発展することはむしろ少なく、大概の場合、憤慨した患者は黙ってその病院から「いなくなる」のである。患者の側でも、医者同士の間に強い結びつきがあるのは、もうイヤと言うほどわかっていることである。あえて事を荒立て、選択枝を少なくすることはない。多くの場合は、いなくなって、他の病院へ行くことになる。ひどい場合は根拠の全く不確かな代替治療や、「拝み屋さん」のもとへ足を運ぶことになる。

 静かに「いなくなる」患者の存在は、必ずしも医者としてのキャリアに減点となるわけではない。元々大規模施設では回転数が多く、医師・患者関係が希薄になりがちなせいでもある。

 だが、世間一般としての概念から言えば、顧客が自分のもとに来なくなるのは、紛れもなく営業として失敗なのである。それは絶対にカルテに記載されることもなく、誰かの履歴書の賞罰欄に書かれることもない、見えない失敗となるのである。

トレーニング・デイ

 数年前デンゼル・ワシントンというアフリカ系アメリカ人の俳優がアカデミー賞を受賞した作品である。

 今は無き東宝日劇という、まともな映画館で初めて見た映画が彼の出演作「クリムゾン・タイド」であった。ハンター少佐役を演じた彼を、いい役者だと思った。それから、彼が出演した映画はほとんど見た。

 さて、トレーニング・デイではデンゼルが珍しく悪役(アロンゾ・ハリス捜査官)を演じている。

 イーサン・ホーク扮するジェイク刑事は、交通課から麻薬捜査課に配属されてきたばかりだ。いわばテスト期間中の第1日目を、麻薬課では伝説的な存在であるハリス捜査官と共に過ごすことになる。
 だが、ハリスはとんでもない「怪物」であった・・・。

 というのがストーリ-であるが、この映画では、我々の中に住む正義と悪、遵法と脱法と言った観念がいかに曖昧なものであるかを否応なく突きつけるのである。

 アロンゾは確かに清濁併せのむ刑事であり、ジェイクにいきなりPCP(エンジェル・ダスト)なんて言うすごい麻薬を吸わせたりする。だが、実際彼のおかげで町の麻薬はコントロールされてきたのだ。映画の終わりは、もっぱらジェイクの持つ「正義感」に沿ったものとなっているが、必ずしもどちらが善でどちらが悪、と決めつけられない内容だ。


 今日、この映画を思い出すような出来事があった。医業を目指す以上、これからも似たようなことが、いやというほどあるだろう。私には具体的に書く勇気がないが、このまま抱え込むこともないので、ここに記すことにする。

 それは患者さんの利益になることだったのか、と言えば結局はうまくいったのだからそうなったことになる。だが、それをやろうと思ったのは間違いなく自分のエゴからであり、本来は規則上すべきでないことであった。「今まで来てもらった人にはみんなやってもらっている」ということを言われれば、こちらから「それは規則上出来ないことになっています」、と言うわけにも行かず、むしろここは積極性をアピールしなければ排除される、と考えたのだ。
 今日はうまくいって良かった、という感想だけでは、これからも似たような状況で、似たような決断を下すようになるだろう。

 しばらく前、青戸病院の泌尿器科の先生が刑事で立件された事件があった。私も将来、彼らと同じような思考法を行う可能性があると感じた。当時ずいぶんマスコミに「人体実験」と叩かれたが、実際どんな企業体の中にも、功名心にはやる個人は存在するわけで、それを持たない人間はむしろ排除される。

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結論:バレなきゃ何やっても良い。

Tuesday, June 29, 2004

植物つながり

 昔々、中学校でカメさんが出てくる「LOGO」という言語を教わった人なら、必ずやその心をくすぐりそうなプログラミング言語がある。

 それは「ひまわり」という。

 少しいじってみるとわかるが、メール送信(SMTP中継)や圧縮・解凍(要統合アーカイバDLL)といったかなり日常的に使える機能をたくさん実装している。

 大学の授業で習ったC言語は、苦痛以上の何者でもなく、Cを使って何かを成した覚えは無いのだが、これなら何とか使えそうである。ちなみにPerlは独学中。

 「ひまわり」の開発環境に同梱されているサンプルプログラム「机上右置縦書和時計」は、かなり気に入った。今年、西暦2004年が平成何年だったか、うっかりしているとすぐに忘れてしまうのである。


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 先生のことは大嫌いでもかまいません。
 先生が教える科目が大嫌いでなければ、先生はそれで合格です。

無性生殖

4週間前にパキラの取り木を試みた。

 観葉植物としてよく知られているパキラは、非常に「切り戻し」に強い。
 我が家のパキラは、私の予備校生時代から飼い始めているので、かれこれ7年目になる。その間植え替えを一度実施したが、基本的に伸ばし放題にしていた。

 パキラは、伸ばし放題にすると、まるで椰子の木のようにひょろ長くなった茎の上に葉っぱがふさふさとした風体になる。それでも別に枯れはしないのだが、やはり見栄えがよいものではない。また、何だが根本からぽっきりと折れそうになって何だか不安である。

 そこで、幹の中程から「取り木」を試みた。冒頭に書いたとおり、パキラは切り戻しに強い。上手くすると、梢側・根本側の2本に増やせるかも知れない。

 ところが、4週間前に皮をはぎ、水苔の上からサランラップで覆った茎からはいっこうに発根が得られない。皮のむき方が浅かったのかと思い、さらに削ってみたが特にそのようなことはなさそうだ。

 こんなこともあろうかとホーマックで買っておいた植物ホルモン「ルートン」を少量の水で練り、改めて剥皮したところに塗りつけてみた。これで発根しなければ、ただ単に木を傷めただけのことになる。

 G-CSFやEspoに比べれば安いものだが、果たしてこれは効いてくれるだろうか。やや心配である。

Sunday, June 27, 2004

興業見学

 札幌市内で開催中の「人体の不思議展」を見てきた。

 なんだか普通のおばさんやら、女子高生やらでいっぱいの中を、堅気のM浦先生と一緒に散歩してきた。

 私としては、久しぶりに解剖体に触ることが出来て、忘れかけていた(「最初っから詰めてないだろオマエは」というツッコミが聞こえるがクロルブロマジンで対処)知識を確認できた体験であった。だが、M浦先生の言うとおり、やはり学術的な目的というよりは、「死体を見たい」という大衆の好奇心を満たして利益を得るのが目的であるような気がして仕方がなかった。

 死体を見るというのは、ある程度の年の人ならばそれほど珍奇な体験では無いはずである。それは、少なからず親族の死を経験してきているはずだし、そこで死体を見るということがあったはずである。

 にもかかわらず、「本物」というキーワードであれだけの人を集めることが出来るのはなぜなのだろうか。

 一つの理由として、「死」というものが、既にマスコミにおける重要な商品になっているのではないか、という仮説を立てた。最近読んだ中島らも氏の「ガダラの豚」の影響が多分に入っている。
 彼らにとっては、「死」も「健康」と同じ次元において金のなる木なのだ。

 二つ目の理由は、人体構造が持つ「美」を堪能しに来ているということ。

 確かに、上肢・下肢の血管のみをプラスティネーションで抽出した標本は見事だった。ただし、各地で興業を行っているせいか、移送の衝撃で細かな血管が破損してきている。本来ならば博物館などで静的に保存されるべき資料だと思われるが、残念である。
 展示されている標本は確かに美しい。見やすく、よく加工されている。だが、本来血管や神経といったものがごちゃごちゃに入り交じって配置されているのが実際の人体の姿であり、結合組織を取り除き、見やすくしていくのが医科・歯科大学で学生の行う解剖という作業である。


 人体の構造を理解するためだけならば、必ずしも解剖実習を行わなくても良いのだ、という説がある。現代の技術を持ってすれば、本物の御遺体に非常に良く似せた精巧な模型をつくることは不可能ではないだろう。学生レベルの実習に耐えられる、という留保がつけばなおさらである。
 そのような模型を用いて実習としても良いのだろうが、実際問題としてその模型はずいぶん高価なものになるだろう。心臓一個の模型だって,ちゃんとしたのは20~30万円もするのである。
 ましてや、工業的につくられた模型は一つ一つに差異が生じない。様々なモデルを用意しようとすれば、さらにコストがかさむ。

 詰まるところ、なぜ医科歯科の実習で御遺体を解剖するのか、といえばそれは、「実際の患者さんにとてもよく似た模型であるから」ということになる。解剖実習を通じて倫理が身に付くのか、といえば、そういうやつもいるだろうし、そうでないやつもいるだろう、と答えるしかない。
 だいたい、御遺体を前にして哲学的に何か考えることで倫理が身に付くなら、アイヒマンやポルポトといった方々は、ずいぶんな人格者であったことだろう。

結論:
 死体に触る経験の多さと、その人の倫理観の深さは比例しない。

翻訳エンジンの楽しみ

babelfish translationを介してこのページを見てみた。(Japanese->English)

タイトルが"Two type coast patrol logbook reforming"で、

「一級体罰士」は"1 class corporal punishment loyal retainer"

になる。

あってそうで微妙に違うのだが、この誤訳を手動添削することによって読める日記に・・・・ならないか。

Wednesday, June 23, 2004

たまには反応してみる

 一点の「濁り」もない生活より。

>一方近頃の親はどうだろう。
>バイト先にいるといろんな親子の客も来る。
>見ていると、全部が全部そうだというわけではないが、
>なんとなくだが子供を甘やかしすぎな印象を受ける。
--- (中略) ---
>また、仮に怒っていたのだとしても、ただヒステリックに
>怒鳴りつけるのが怒るということではない。

 実際、町中で「このガキオレが殴ってやろうか」というガキお子様を見かけることは少なくないのである。ある友人の前でそのことをこっそり口にしたら「小児科医になろうという人間が、そういうことを言うのはまずいんではないか」といわれた。

 だが、どうも最近のお子様を見ていると、どうもフィジカルな教育がきちんとされていないのではないか、という感が否めない。


 ロバート・R・ハインラインというSF作家がいる。彼がヒューゴー賞に輝いた作品に「宇宙の戦士」がある。後にポール・バーホーベンが「スターシップ・トゥルーパーズ」という名前で映画化したので、興味のある方はこの映画の方からごらんになると良いだろう。

 映画では省かれているが、原作「宇宙の戦士」のほうに、教師デュボアと学生リコとの対話が出てくる。
 ・・・・・
 「君は、飼っている子犬がお漏らしをしたとき、優しく話して聞かせるかね?」
 「いいえ、とんでもありません。
  お漏らししたところに鼻をこすりつけ、尻をひっぱたいてやります。」
 ・・・・・・
 
 「宇宙の戦士」はハインラインが軍事国家の姿を描いた、かなり右寄りの作品であるとされている。しかし、その中に出てくる上記のような体罰論議は、我が国でもごく最近になって、養老孟司先生が「バカの壁」で示された、「肉体教育を見直せ」というテーゼにも引っかかってくるのである。


 以前、大人になればなるほど善と悪の区別はつきにくい、と書いた。
 増してや、現代は価値観がことごとく多様化している。本来子供に善悪を教える親という存在自体が、何を良いこと、悪いこととして教えていいかわからないのだと思う。


 私は、体罰それ自体は悪いことではないと考えている。問題なのは、骨を折ったり、脳外傷を負わせたりといった行き過ぎた体罰が行われることである。
 「体罰を禁ずる」という規律は、実際の親によるこのような行き過ぎた体罰(虐待)には無力である。そもそも、「こういうことをされたらどれだけ痛いのか」という、体罰を行う側の経験の欠如が虐待に結びついているのではないだろうか。(もちろん、幼児虐待を行う親の多くに、過去自身も虐待を受けた既往がある、ということは統計的に知られている。)



 昔、冗談半分に「体罰を行う教師に免許制を設けてはどうか」と言った事がある。

 10級体罰士・・・教科書の角で居眠りした生徒を小突ける。
  9級体罰士・・・平手打ちが可能。
  8級体罰士・・・拳固が可能。
   (略)
  2級体罰士・・・大外刈りが可能。
  1級体罰士・・・教室内でジャイアントスイングが可能。
  特級体罰士・・・拳銃が使える。

 もちろん、各級ごとに厳正なる資格試験を実施する。つまり、空手・柔道の有段者のように、その打撃・技が肉体に及ぼす影響を熟知していないと、必要な級をとれないようにするのである。また、自分の免許以上の体罰を実施した教師は、厳罰に処される。


 しかし、こんな体罰を国家が認めるような社会というのは、紛れもなくヤバいのである。
 子供を育てる主体が家庭ではなく、国家にある社会というのは、昔はヒットラー・ユーゲントのナチスドイツ、現代では日本海の向こうの国家しか思いつかない。

奢り

 今日も外来患者さんの予診をとった。

 3週間の選択実習も終わりに近づいているせいか、これしきの経験であってはならないはずの「慣れ」がでてしまった。

 予断を持って患者さんの話を聞いてしまった。
 あまりに長々ととりとめのない話に思えたために、話の腰を折ってしまった。
 患者さんが口にしていないことを、勝手に思いこんでしまった。


 自分にないはずの「要領」を使おうとすると、得てしてこんな事態になってしまう。

 つくづく、自分のスタイルは重戦車、爆撃機なのだ、と自覚した。

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「映画になるのは戦闘機乗りだが、歴史を作るのは爆撃機乗りだ。」
- 出典:『戦闘航空団解剖』 T・クランシー -

へえ。

 いつもは「フライトアテンダント」なんてたいそうな名前で呼ばせておきながら、人の興味を引きたいときは「スチュワーデス」[asahi.com]って名乗るの。



 ( ´_ゝ`)ふーん。

バカであり続ける権利

 二日前の欲求を満たすべく、「めしのはんだや」へ行く。だが、肝心のチキンカツはなく、「チーズとささみのフライ」なる何とも怪しげな一品にメニューが変わっていた。

 はんだやなんか、それこそ「Uの字テーブルで、いつ殴り合いが始まってもおかしくない」ところなのだが、とりあえずそのフライと、揚げ餃子(韓国製でないことを切に祈る)と玉子サラダ、串カツ一本、それにめしのミニと豚汁を頼んでかっ食らう。

 明らかに脂ぎった、栄養学的に見て賢いとはいえないメニューなのだが、はんだやへ行くと言うことはそれを欲していると言うことである。

 バカであり続ける権利は、誰にも侵害し得ない。あまりにもバカらしすぎて、憲法にも書いてないが、ちゃんとした国民の固有の権利である。
(本当に「書いてない」が、ちゃんと有効な法律があるらしいとさ。コレ。[asahi.com])

 私もバカの一人だ。バカの一人として、せめて他のバカの役に立てるよう、今日も研鑽を積もうと思う。

Tuesday, June 22, 2004

みなさん、何をお探しで?

 アクセスログを採っている。
 ちょっと試してみればわかるが、この日記の右側に表示されている画像を利用して、いわゆるリモートホストを採っている。

 これによって、どんな方がこの日記を見に来ているかがわかる。
 より正確に言えば、読者の利用しているプロバイダがわかるのである。もとよりそう読者は多くない。固定客がどこのプロバイダを利用しているのか、私はオフ会(というほどのものでもないが)で把握している。そういうわけで、「特定のプロバイダ=特定の読者」という、かなり曖昧な一対一対応がつけられるのである。


 ログを見るとおもしろいことがもう一つわかる。どこのリンクから相手がこのページへやってきたか、それがわかるのである。ただし、「お気に入り」からやってきた場合、あるいはローカルマシンにおいてあるHTMLファイルなどから飛んできた場合、直接アドレスバーにURIを打ち込んだのと同じ扱いになり、直前に見ていたページがどこなのかはわからない。


 この種のログ(リファラ)を見ると、相手が検索エンジンで何を探して、私の日記へやってきたのかということもわかる。つまり、こんな感じのページが見える。

 さて、気になる検索キーワードだが、一番多かったのは「鶴亀メール」「mozilla thunderbird」であった。次に「バカ田大学校歌」「ガリル自動小銃」の順であった。

 つくづくここにはろくな事を書いていないのである。中には「アマリール」なんてまじめな語句で検索してこられたお客様もいらっしゃるようだが、見に来てずいぶんがっかりされたことだろう。

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 火のないところに煙は立たず。
 一旦書いてしまった文章を寝かせておいても、味が深まることはない。

ポイントカード考。

 北海道以外の地域にお住まいの方には全く関係ない話で恐縮だが、道内のセブンイレブンでは去年の秋頃からポイントカード制度が導入されている。

 この話には前段があって、北海道内ではかなりの勢力をふるうコンビニのフランチャイズである「セイコーマート」が、それ以前からポイントカードを導入していたのである。

 しかし、本当にコンビニにポイントカードが必要なのだろうか。

 ポイントカードを初めて考案したのはヨドバシカメラであるとされている。
 商品の価格の十数パーセントを「ポイント」として店が設定した口座に入れておき、次回の商品購入の際にこれを用いて商品代金の一部、もしくは全部に充てる。定義としてはこんなところだろう。

 これによって、店の側からすると顧客の囲い込みが出来るというメリットが生じる。また、顧客の側からすると実際に表示される価格よりも割安に物品が購入できるという錯覚がある。実際、ポイント制があることで厳密な価格の比較を行うことは、顧客(消費者)にとって困難になっている。

 競合する他店よりも有利に商売を進める方法としては、これは一見優れた方法である。


 だが、小規模な店舗が分散する形態を取るコンビニにとって、この方法が果たして店・客双方の利益につながるのだろうか。

 コンビニというのは、どこにあっても気軽に立ち寄る事が出来る場所であるから「コンビニエンス」なのである。いちいちポイントカードの残高を気にして、その系列のコンビニを探していたのではちっとも便利ではない。

 また、同じ系列の店舗でも、ポイントを蓄える事が多い店と、ポイントを使われる事が多い店とが出てくるだろう。たとえば、オフィス街のように、多様な人々がそれぞれ少額の買い物をする店舗では、一人あたりのポイント還元額が少なく、客にとってはポイントが「たまりにくい」状況にある。逆に住宅街など、固定客の多い店ではポイントを「使われる」事が多いと考えられる。
 素人考えでは、住宅街の店舗の方がオフィス街の店舗より、損をするような気がするのだが、果たしてフランチャイズがどんな計算をしてポイント分の損益を配分しているのかは、わからない。だが元々。後者には地元の商店主がフランチャイズに加入してやっているようなところが多いのだから、彼/彼女らが損するようなシステムになっていたとしたらフェアでない気がする。


 電器店・コンビニに限らず、最近は百貨店・スーパーでもやたらにポイントカードを発行するようになっている。そのせいで我々の財布は、本来の紙幣と硬貨を収納するという役割から、プラスチックの、決して薄くはない板を挟み込むためのものへと変貌しかけている。カードに追いまくられて、肝心の通貨が入るスペースがなくなってきているのである。


 電子マネー機能を持つケータイが出来たらしい。最近の技術の進歩はめざましいのだが、せめてそれ以前に「一枚のICカードでヨドバシのにも、ビックカメラのにも、東急ハンズのにも、セブンイレブンのにも、カメラのキタムラのでも共通のポイントカードとして使える」ようなシステムを考えてほしいものである。さもないと、、お金はケータイで颯爽と払えるが、なぜか持ち歩くポイントカードの束がケータイより厚い、という事態が出現しかねない。


 それが出来ないのなら、せめて最初からポイントの分値引きして欲しいものである。

電解質と糖分、脂質への欲求。

 今日は発汗量が多いせいか、台風が近づいているというのに、なぜか「めしのはんだや」に行きたくてしょうがなくなった。あの塩辛い「とん汁」と、脂ぎった「チキンカツ」が食いたくなってしまった。

 腹が減るだけならいいが、実際に欲望を満たす手段が近くにある、というのも困った状況である。

今気づいたことだが

 このページはInternet Explorer系列のブラウザで微妙に意図したのと違う見え方になるようだ。

 まあいい。Mozilla使いの諸君には、見えるべきものが見えている。

魂と身体の救済を求めて

 部屋を掃除中。
 すでに70リットル入りのゴミ袋が3つ満杯になった。

 どうやら私はよほど日常において「捨てる」事が出来ない人間らしい。

Saturday, June 19, 2004

ここら辺でいったんまとめる。

 
  今日はここに書くネタが思いつかない。こういうときにとる方法はいくつかある。

 一番簡単なのは「何も書かない」ということであって、まあ、そうしたからといって別段咎められる事でもない。私は文章を書いて食べているわけではない。

 しかし、それでは怠惰に流れそうな気がする。

 新聞社やポータルのサイトをあさり、おもしろそうなニュースを探すというのもいい。多くのblogはそういうスタイルを取っている。

 ところが、生来が無精である。また、今日知ったニュースについて考察が深まりもしないのに、性急に自らの考えを公表するというのも、私の苦手なことであるという理由で、今日はこの方法を採らない。、


 そこで、今日はこの日記についての設定事項を読者に知らせるために、この一項を使いたいと思う。

***********

Q1.なぜタイトルが「弐式沿岸警備日誌改」なのか?

A1.「弐式」というのは、前回takikouサーバに置いていた時期を含め、2002年から書き始めたから。
 「沿岸警備日誌」というのは、頭と要領が悪いんで、絶対いわゆる『沿岸警備隊』(誤解を恐れずに言えば、地域医療に携わる医者)として勤務することになりそうだな、と何となく思うから。
 「改」というのは日記をtakikouサーバに置いていた当初、もっぱらHTMLの直接編集で書いていたのだが、それをCGI利用にしたときにつけたもの。bloggerに移行した後も、これは変える気が起きなかった。


Q2.なぜHarrityと名乗るのか。ネカマか。

A2.将来小児科医をやりたい、と漠然と思っている。「ハリーティ」とは、梵語で「鬼子母神」のことである。鬼子母神は、自分にたくさんの子供があるにもかかわらず、他人の子供をさらっては、むしゃむしゃと食っていた神様である。子供で食っていくのだから、という理由でこれにしている。

 鬼子母神は女の神であるが、私は男性である。
 文句があったらソース嫁。

Q3.なんか配色がすごく軍オタっぽい。

A3.軍オタですが、何か?
 ついでに言うなら、bloggerのテンプレにこの配色がデフォルトで入っていたので、takikou.orgの構成もこの配色にしてしまった。
 基本的に色彩センスに優れるタチではないと思っている。多くの人はそうだろう。
 そう言うときは、専門家がつくった配色に任せるのも一法である。私は、専門家には常に敬意を払う。


Thursday, June 17, 2004

業務連絡

済み。

修羅場

修羅場に遭遇した医者は、おおむね次の3群に別れる。


第一群の医者は、まるでこの修羅場を待ちかまえていたかのように生き生きとし始める。
第二群の医者は、その場からスーッといなくなる。
第三群の医者は、逃げ遅れる。


私は間違いなく第三群の医者になるだろう、と思う。

子供に見せたい番組

 ロンドンハーツがトップ 見せたくない番組[Yahoo!-共同通信]

 見せたい番組のNo.1が「プロジェクトX」だそうで、またこんな事件[zakzak]もあったりしてつくづく子育てって大変だなと思う。

 私が子供に見せたくない番組を一つ挙げろと言われたら、即座に「アンパンマン」と答える。

 理由は簡単だ。「世の中、善がそう簡単に悪に勝てるわけない」ということを子供にきちんと教えなければならない。
 人生をリタイヤした老人が「水戸黄門」を見て、安心して床につくのはかまわないだろう。
 けれども、それと基本的に変わらないストーリーを持つ「アンパンマン」を子供に見せるのは、将来についてとんでもない甘い見通しを持たせる事につながりかねない。

 本当は大人になればなるほど、善悪の区別はつきにくくなるものなのだが。

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 参考:アンパンマン日記[scq]

Wednesday, June 16, 2004

It's automatic?

 先週から精神科にいる。
 必修の実習の他に、自ら志願して3週間の選択実習を申し込んだのだが、やはり精神科はかなり他の科とは異なるところがあると感じている。

 いきなり教科書が「精神科はロマンの香りがする」なんてことから始まるのもそうだが、治療契約をしっかり結ぶ、という考えが他科より厳しい気がするのだ。

 私がは、医学部に入る前、医者というのはおおむね次のような流れで仕事をするものと考えていた。


【純朴な大学受験生の思い描く医療像(A)】
<<<<<<<
1.0.病気で困った人がいる。
+--1.1.0.病気で困った人は、必ず医者のもとへやってくる。

2.0.0.医者と患者が出会う。
+--2.1.0医者は全力を尽くして治療する。患者も一生懸命病気を治そうとする。
+--2.1.1.治療の甲斐あって病気が治る。→(3.1.0)へ
+--2.1.2.治療にもかかわらず、病気が治らない。→(2.1.0.)or(3.2.0)へ

3.0.0.医者と患者がお別れする。
+--3.1.0.治って良かったね、とお別れする。
+--3.2.0残念な結果になりました、と死に別れる。
>>>>>>>>


 まあガキの考えることなんざタカが知れていた、といえばそれまでだが、このチャートには、実際以下のようなケースが抜けている。そういうことがここで6年も暮らす間にわかってきた。


【スレた医学生の思い描く医療像(B)】
<<<<<<<
1.0.0病気の人がいる。
+--1.1.a.病気で困ってはいるが、医者が嫌いなので病院に来ない。
+--1.1.b.病気で困ってはいるが、民間療法で治す。(例:赤塚不二夫氏)
+--1.1.c.病気なのだが、困ってはいない。
+--1.1.d.そもそも病気なのかどうかわからない。
    (しかも実は今までずいぶんたくさんの医者にかかっていたりする。)
+--1.x.x.病気でないと本人も確信しているが、どうしても病気の証明が必要だ。

2.0.0.医者と患者が出会う。
+--2.1.a.患者はそもそも病気だと思っていないので、治す気がしない。
+--2.1.b.患者は病気だと主張するが、医者にはどうしても病気だと思えないので、
    治す気がしない。
+--2.2.a.「コントロール」が治療の目的であり、お別れを目的としない。

3.0.0.医者と患者がお別れする。
+--3.a.0.死亡診断書を出した覚えもないのに、いつの間にか患者が姿を見せなくなる。
+--3.b.0.なぜか大きな鞄を抱えた背広の人が現れ、いかつい明朝体で刷った
     名刺を見せ、「裁判所からあなたに召喚状が届いています」という。
>>>>>>>

 まだまだパターンはつきないが、実際精神科の臨床では(B)のような場面がたくさんある。そこで大切になってくる点が少なくとも二つあるように思う。
 まず患者さんが「私は病気である」という意識(病識という)を持って頂くこと。また「医療スタッフも、患者さん自身も病気を治すためにここにいる」という意識を持っていただく(もちろんスタッフの側も含めて)ことである。

 精神科の入院手続きというのは、内科や外科の入院と違って、何やらおどろおどろしい書類をいろいろと書いて頂かねばならない仕組みになっている。

 それは、メチャクチャな医療によって患者さんが被害を被らないための仕組みである、というのが理屈だが、このせいで精神科の敷居がいっそう高くなっていることも事実である。
 何でこんなものを書かせるのだろう、と思ったが、それは上に上げた二つを確認する意味があるのかも知れない。
 付け加えて言えば、画像診断などの力を借りても、その場にいない第三者が「病気か否か」を判断しにくい領域であるため、一層のこと「治療契約」を書面に残すことが重視されるのだろう。実際、「自殺企図を起こさない」事を前提に治療関係を結んでいたのに、実際そのようなことを起こした場合、治療契約が解除となることもあるそうだ。


 そう考えてみると、いわゆる内科外科といった「客観的な」所見が得られる診療科では、「病気の存在→診断・治療→経過」といった流れが、ずいぶん患者の意図と無関係に、オートマチックに進んで行くものではないのか、という見方を得ている。

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No,I have revolver.

Tuesday, June 15, 2004

トラックバック設置。

 ここで文章を書かせて頂いているblogger.comだが、その名に反してなぜかblogっぽくない。

 一番の理由はMovable Typeに備わっているトラックバックやコメントといった機能がないことで、これはなんだか味気ないものだ、と思っていた。

 しかし、本日【Bloggerでブロッグ】からHaloscanといったサードパーティー製のアド・オンサービスが受けられることを知り、早速設置してみた。 

 占有サーバにMovable Typeを設置しようかと思っていただけに、実にコストパフォーマンスの高い解決法であった。Movable Typeのライセンス条件が、いまいちよくわからず、しかもサーバが移転してからSQLの調子が今ひとつ思わしくなかったからである。

 Web上に書く文章は、誰に読まれてもおかしくないわけで、ひょっとすると著者の虚像が広まる可能性がある。筆者に感想が届く仕組みをつけるということは、無用の誤解を避けるという点でも有意義だろう。

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 因みに、右のICQ番号ですが、使ってみても筆者と話せることはほぼ皆無に近いでしょう。最近ICQは滅多に使わなくなった、ということと、穀潰しの用心棒のせいで余分な常駐アプリを使う余裕がないのであります。

Sunday, June 13, 2004

ロケットを飛ばしたい方はどうぞ。

なんだか他人のふんどしで相撲を取るみたいで強縮だが、はてなの質問から。

「産医師異国に向こう・・・」というやつで昔30桁まで覚えたけれど、あの語呂合わせはハッピーエンドじゃなかったような・・・。

PI=3
[http://3.1415926535897932384626433832
79502884197169399375105820974944592.jp/]

!!! ご注意 !!!

 上記のリンクをクリックすると、文字通り果てしないHTMLファイルのダウンロードが始まります。

 どんな内容かを知りたい方はとりあえずこちらからGoogleキャッシュでご確認を、またそうでなくとも右クリックから「対象を保存」されることを強くおすすめします。

追伸:
 Irvineを使ってindex.htmlをダウンロードしてみましたが、50分経ってもまだ止まりません。本当にシャレにならないです。記憶力と集中力は大切ですが、くれぐれも誤った目的にお使いにならないことを、ご来場の皆様に、老婆心ながら申し上げます。

--
 しかし、断じて「3」じゃないわけで。> どこかのお役所

Saturday, June 12, 2004

正統なる医療

「保険のきく医療」[Marvyの日記~あるいは、おしまいのはじまり]という定義は、端的にして的を射た表現だと思う。



 「はてな」のカテゴリー、”医療・健康・美容”というのに目を通している。MLと掲示板を組み合わせたようなシステムで、投稿があると、登録している回答者たちのもとに投稿が配信される。

 なかには「飲酒運転が病院から警察にばれそうなの何とかしてくれ」とか、「輸入禁止になってる漢方薬何とかして手に入れたい」など、「氏ねよおめーら」というツッコミが似合いそうなものから、「東京都内の名医紹介してくれ」など、かなりせっぱ詰まってそうなものまでいろいろなものが来る。

 Marvy氏の投稿も、そんな「名医求む」系の一つであった。詳しくは氏のblogを拝見されることをおすすめするが、氏は現在脳腫瘍で闘病中とのことである。

 いろいろ氏の日記を見て思うことはある。それは以前から私がそうなんだろうな、と思っていたこともあるし、自分自身に全くなかった視点を得ることもある。

 だが、ある日突然この人の日記が更新されなくなったとしたら、見たことも、会ったことも、打電したこともないのに、ずいぶん私がへこむだろうな、と思うサイトの一つであることはここに書いておきたい。

Friday, June 11, 2004

オレはシドニー行きたいんじゃーっ!

 前回の続きである。


 今回の内容には、筆者の主観が多分に反映されていることをご承知の上で、稿を読み進めて頂きたい。


 「女性の陣痛には生理的意義がある」(A)と公言する人は比較的よく目にするが、「不妊には生理的意義がある」(B)と公に言う人は少ない、という命題である。

 (A)の見方には、たとえばここ[(財)日本教育文化財団]のような学術的なものから、「人間の生理に意味の無いものは無いのだから、陣痛にも意義があるに違いない」といったblogレベルの意見まで、様々なものが見受けられる。医学生、生命科学専攻の大学生など、比較的知的レベルの高い人の中にも、何となくこのような意見を持つ人が多い。

 一方、(B)の意見を堂々とblogに掲げる人は皆無に近い。たとえあったとしても、それは生命科学畑とはかけ離れた人々の意見に多い。


 (A)、(B)と対立する概念には、それぞれ「無痛分娩を普及すべきである」(A')、「不妊治療を発展させていくべきである」(B')が考えられる。


 なぜ、(A)の意見が多く、(B)の意見は少ないのか。私の考えでは、それは(B')を支持する人口が、(A')を支持する人口より多いからである。

 ”教授”の意見を仰ぐまでもなく、全国的に麻酔科医は不足している。また、麻酔科医全体の中でも、無痛分娩に積極的に関わっていこう、という人はむしろ少数派である。ただでさえうまくいって当たり前、事故が起これば高率で訴訟が起こる、という産科領域に関わる医師の数は少ない。

 一方、産科の範疇から見れば、不妊治療、とくにARTと呼ばれる生殖補助技術は、まさに花形といえる。先に述べたように産科に進もうと考える医学生は少ないが、産科医になろうとなろうと考えている学生の、相当数は先端の生殖補助技術を学びたい、と考えているはずだ。それは、内科医になろうとする学生が漠然と、消化管内視鏡や、血管内カテーテルの技術をどこかで身につけたい、と考えるのと同様である。
 さらに、出生率が絶対的に低下している現在、これらの分野を開発していくことは「国策にかなう」し、流行の言葉で言えば「国益につながる」のである。

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 閑話休題。

 その競技としての魅力以上に、あまりにも商業的演出をしすぎるバレーボールに対して、なかなか興味はわかないのだが、女子が五輪行きを決めたらしいことは知っている。

 いささか強引な流れだが、前監督の葛和氏の口癖は、「オレはシドニー行きたいんじゃーっ!」であった。

 ある意味、専門医の頂点を目指そうとか、それでなくとも上昇志向をもつ医師にとって、多かれ少なかれこの「オレはXXしたいんじゃーっ!」という気持ちを持つことは必須であると私は考える。


 例)
 「オレはどうしても脳死体から肝移植したいんじゃーっ!」という留学中のX医師。
 「オレは絶対に大学の連中よりたくさんIVHの経験積んで帰るんじゃーっ!」っという市中病院で研修中の卒後1年目、Y医師。
 「オレは同期に下剤飲ましてでも心臓バイパス手術の症例数積みたいんじゃーっ!」という○○病院のZ医師。


 こういう強烈なエゴを持たない人が、いい医者にはなるわけはない。ただ、むかし「オレは絶対日本で最初に脳死体から心臓移植決めたいんじゃーっ!」という気持ちが強かったが故に、その後現在に至るまで批判の矢面に立たされている大先生も、心当たりがある。

 もう一つ確認しておきたいのは、こういう自分自身のエゴを、自分の表在意識できちんと認識しているエゴイストな医師というのは、むしろ尊敬に値する。「病気を治すためと言ってはおきながら、実はこの手技を行うのは自分がそれをやりたいからだ」という意識である。
 多くの医者は、「XXを求めている患者さんがいるから、(自分は仕方なく)やっている」といった、実に歯切れの悪い責任転嫁をする。

 本当に患者さんの利益の観点から言えば、研修医なんか全く医療行為をさせないのが(少なくとも短期の)利益のはずだし、てめえら大根でも注射針刺して練習してやがれ、という話になる。「将来立派なお医者さんになるから」なんて、じゃ私が一人前になる前に死んでそうな(たとえば高齢の)患者さんにとってどんな利益になるというのだ。


 もちろん私も来年運良く研修医になれたら、人より多くのものを学びたいと思う。その過程で、今まで述べてきたようなジレンマにはたくさん遭遇すると思うのだ。しかし、私はあくまでエゴイストであろうと思う。

 人間、「死にたくない」という以上のエゴはない。デカルトでさえ、「我思う、故に我あり」と言っている。現代語訳すれば、「結局なんだかんだ言ってもさ、考え事するこのオレって存在を認めなきゃ、考えたって何も始まらないじゃん」ということである。

 人間にとってエゴというものが必然的に捨てられないものである以上、自分のエゴを自覚することなしに、相手のエゴに敏感であることはあり得ない、と考えるのだ。

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追伸:
 「だから葛和さん、勝てないのよ」と○田久美女史がおっしゃったどうかについては、私は定かではない。

Tuesday, June 08, 2004

ノートン先生

「安全はタダではない」ことを考慮して、決して安くはない金額を払って購入。

一日平均5,6回の侵入をブロック。(Norton Internet Security)

完全スキャンしてNetsky.Qを二つ検知。(Outlook使って無くて良かったと思う瞬間)

しかし、ノートン先生導入ご、WinXPの体感動作速度がCeleron 800MHz並みに遅くなった。(実装はAMD Athron1800+)
使用ページファイルは常時236MBとか。(実装メインメモリは256MB)
このためにメモリ積むのはそれこそ金の無駄という気がする。

元々それほど速いコンピュータを、日常生活で必要とするわけではないが、たとえて言うならば、三船敏郎並みに出演料の高い用心棒を雇った感がある。

Monday, June 07, 2004

論理命題として

「女性の陣痛には生理的意義があるのだ」、と書く人は多い。

同様の論理が成り立つと思うのだが、「不妊には生理的意義があるのだ」ということを堂々と書く人は少ない。

あんまりここら辺を突き詰めて書くと長くなるが、今日は疲れたからこの辺で。

被爆考

過剰な検査 疑問の声[YomiuriOnLine 医療ルネサンス]

 診療被爆の問題については、2月10日の日記でもふれた。

 一回り診療科を回ってみて感じることだが、画像診断(CTだのMRIだの)というのは内科→外科へ、の一種のコミュニケーションツールと化しているところがある。

 内科の医者が、もしかしたらこれは手術が必要な病気かも知れない、と思った患者さんを見つけたとする。ところが、そのまま何もせずに外科へ送ったのでは、いい恥をかくことになる。
 手術すべきかどうか判断するのは、最終的には外科の医者と言うことになるが、その判断にはどうしたって画像が要るわけで、その画像を外科に紹介する前に用意していないのは「段取りが悪い」、という話になるわけだ。

 しかし、もともと外科医の判断材料を、外科でない医者が用意するわけだから、慎重な態度を取る内科医ほど、どうしても余分目に画像診断をオーダーする傾向にある。

 でも、これは医者の都合であって、患者の立場にしてみれば利益ではない。

 私見だが、被爆量が少ない国々では、おそらく放射線科医の技術と地位が相当高いのだろう。私の聞く話では、たとえば米国では、放射線科医がいったん「この画像所見は癌ではない、よって手術の必要を認めない」とコメントしたならば、いかに実力のある外科医であろうとその患者に対して手術をすることは許されなくなるそうだ。

 つまり、無駄な被爆量を本気で減らそうとするならば、

 1)外科が必要とする画像のオーダーは外科自身が出すことにする
 2)放射線科が画像診断に対するイニシアチブを握る

といったことになろうが、一般的な外科・内科の仕事量の多さからみて1)はなかなか受け入れられないだろうし、2)を実現するためには、かなり長い期間がかかるだろう、と思う。

Sunday, June 06, 2004

痛くないものを治す

 Wednesday, March 17, 2004の内容に、「後日改めて書く」と記した箇所があった。ずいぶん前の話になるが、責任上今日その顛末を改めて書くことにする。


 医学部の臨床実習の中に、「口腔外科」という科目がある。これはかなり異色な科目である。というのも、普通臨床実習で回る科目の教官は全て医師であるが、この口腔外科の教官だけはほとんど全て歯科医師だからである。
 その関係で、医学部を卒業後口腔外科に進む、という学生はまずいないのが実情である。

 それはともかくとして、その実習の中で自分の歯のレントゲン写真(パントモグラフィー)を撮影する機会があり、そこで虫歯が見つかってしまったのだった。

 虫歯は、ある程度進むと、むしろ痛くなくなる。これが「虫歯が自然に治った」かのように誤解される原因になる。しかし、放っておくと虫歯は顎骨まで達し、下手をするとそこまで骨を削らなくてはならない羽目になる。
 従って、痛くなくなった虫歯はできるだけ早く治療しなければならないのである。


 結局私は開業の歯科医のところで処置をしてもらった。第三大臼歯(いわゆる親知らず)と第二大臼歯の間が不潔になり、そこから第二大臼歯の虫歯がかなり深いところまで達しているらしい。そこで、まず第三大臼歯を抜歯し、その上で第二大臼歯の歯根管治療を開始することになった。

 治療にはかなり難儀した。まず、抜歯後一晩出血が止まらず、結局日曜にもかかわらず歯科医の先生を起こして止めてもらった。(止血に約8時間かかった。)

 また、歯根管治療にも、唾液分泌量が人より多いため、かなり切削・充填に難儀されたようだ。唾液が出るのには理由があって、中学生の時に右唾石症を手術している。口腔内からアプローチしたため、拡張した唾液管が残っているのだ。


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 治療の経過を通じて思いを強くしたことに、「痛くないものを治すためには、患者の意志力が必要だ」ということがある。実際、レントゲンを撮るまで虫歯の存在を意識していなかったのだし、咀嚼には全く不自由を感じていなかった。従って、治療を開始した動機は、「放置すると確実に痛くなる」という学問的知識の他に、「医学生として、痛くないものを治すときの痛みを知っておきたい」ということがあった。


 病院というのは、来た客に対して、良いニュースよりも悪いニュースを聞かせることの方が多い場所である。それだけでも十分「病院嫌い」の原因になる。増してや、どこか痛いところがあって、その痛いところを治すのでさえ充分な恐怖を伴うことなのに、どこも痛くもないのに定期的に病院へ来い、と言われるのは相当大変なことである。

 しかし、内科医になれば高血圧・糖尿病・高尿酸血症・高脂血症など、「とりあえず痛くはないものの放置すると明らかにマズい」ものの治療をしなければならない。むしろ外来診療の多くはこういった「痛くない病気」を診断・治療することである。
 たとえば、明かな自覚症状を呈さない癌はたくさんある。それを見つけることに、がん健診というものの意義がある。


 「病気になったら、病院へ来なければならない」という法律は無いのだから(もちろん指定感染症や、医療保護入院といったものを除いて)、いかに「病院へ来たらトクをするか知らしめる」というのも、医者の仕事なのかも知れない。ただ、その種の活動が「医療の商業化」として批判されることもある。

 つねづね思うことだが、どんな病気にしろ、1ヶ月後に見つかるよりは1週間後に見つかる方がよく、1週間後に見つかるよりは今日見つかった方がいいはずである。もしそうでないとしたら、見つけた医者が何かまずいことをやっている、ということだ。(病気を見つけても、むしろ「何もしない」のが最良の決断であることもある。)一方で、多くの市民が、病院へ行くのは出来るだけ先延ばしにしよう、と考えるのも事実である。


 たぶん、私も不良医学生になる道を進んでいなかったら、虫歯が再び痛み出すまで何の疑いもなく放置していただろう、と漠然たる反実仮想で思うのだ。

Saturday, June 05, 2004

教育に対する一愚見

 学校というものを、「社会に出て歩くべきでない人々を一時的にせよ、恒久的にせよ、隔離する場所」と定義した方が都合のよい場合がある。

 その観点からすると、学生を刑事で裁くというのは、ある隔離所から、別の隔離所へその身柄を移動させる、といった記述が成り立つのかも知れない。