Friday, June 11, 2004

オレはシドニー行きたいんじゃーっ!

 前回の続きである。


 今回の内容には、筆者の主観が多分に反映されていることをご承知の上で、稿を読み進めて頂きたい。


 「女性の陣痛には生理的意義がある」(A)と公言する人は比較的よく目にするが、「不妊には生理的意義がある」(B)と公に言う人は少ない、という命題である。

 (A)の見方には、たとえばここ[(財)日本教育文化財団]のような学術的なものから、「人間の生理に意味の無いものは無いのだから、陣痛にも意義があるに違いない」といったblogレベルの意見まで、様々なものが見受けられる。医学生、生命科学専攻の大学生など、比較的知的レベルの高い人の中にも、何となくこのような意見を持つ人が多い。

 一方、(B)の意見を堂々とblogに掲げる人は皆無に近い。たとえあったとしても、それは生命科学畑とはかけ離れた人々の意見に多い。


 (A)、(B)と対立する概念には、それぞれ「無痛分娩を普及すべきである」(A')、「不妊治療を発展させていくべきである」(B')が考えられる。


 なぜ、(A)の意見が多く、(B)の意見は少ないのか。私の考えでは、それは(B')を支持する人口が、(A')を支持する人口より多いからである。

 ”教授”の意見を仰ぐまでもなく、全国的に麻酔科医は不足している。また、麻酔科医全体の中でも、無痛分娩に積極的に関わっていこう、という人はむしろ少数派である。ただでさえうまくいって当たり前、事故が起これば高率で訴訟が起こる、という産科領域に関わる医師の数は少ない。

 一方、産科の範疇から見れば、不妊治療、とくにARTと呼ばれる生殖補助技術は、まさに花形といえる。先に述べたように産科に進もうと考える医学生は少ないが、産科医になろうとなろうと考えている学生の、相当数は先端の生殖補助技術を学びたい、と考えているはずだ。それは、内科医になろうとする学生が漠然と、消化管内視鏡や、血管内カテーテルの技術をどこかで身につけたい、と考えるのと同様である。
 さらに、出生率が絶対的に低下している現在、これらの分野を開発していくことは「国策にかなう」し、流行の言葉で言えば「国益につながる」のである。

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 閑話休題。

 その競技としての魅力以上に、あまりにも商業的演出をしすぎるバレーボールに対して、なかなか興味はわかないのだが、女子が五輪行きを決めたらしいことは知っている。

 いささか強引な流れだが、前監督の葛和氏の口癖は、「オレはシドニー行きたいんじゃーっ!」であった。

 ある意味、専門医の頂点を目指そうとか、それでなくとも上昇志向をもつ医師にとって、多かれ少なかれこの「オレはXXしたいんじゃーっ!」という気持ちを持つことは必須であると私は考える。


 例)
 「オレはどうしても脳死体から肝移植したいんじゃーっ!」という留学中のX医師。
 「オレは絶対に大学の連中よりたくさんIVHの経験積んで帰るんじゃーっ!」っという市中病院で研修中の卒後1年目、Y医師。
 「オレは同期に下剤飲ましてでも心臓バイパス手術の症例数積みたいんじゃーっ!」という○○病院のZ医師。


 こういう強烈なエゴを持たない人が、いい医者にはなるわけはない。ただ、むかし「オレは絶対日本で最初に脳死体から心臓移植決めたいんじゃーっ!」という気持ちが強かったが故に、その後現在に至るまで批判の矢面に立たされている大先生も、心当たりがある。

 もう一つ確認しておきたいのは、こういう自分自身のエゴを、自分の表在意識できちんと認識しているエゴイストな医師というのは、むしろ尊敬に値する。「病気を治すためと言ってはおきながら、実はこの手技を行うのは自分がそれをやりたいからだ」という意識である。
 多くの医者は、「XXを求めている患者さんがいるから、(自分は仕方なく)やっている」といった、実に歯切れの悪い責任転嫁をする。

 本当に患者さんの利益の観点から言えば、研修医なんか全く医療行為をさせないのが(少なくとも短期の)利益のはずだし、てめえら大根でも注射針刺して練習してやがれ、という話になる。「将来立派なお医者さんになるから」なんて、じゃ私が一人前になる前に死んでそうな(たとえば高齢の)患者さんにとってどんな利益になるというのだ。


 もちろん私も来年運良く研修医になれたら、人より多くのものを学びたいと思う。その過程で、今まで述べてきたようなジレンマにはたくさん遭遇すると思うのだ。しかし、私はあくまでエゴイストであろうと思う。

 人間、「死にたくない」という以上のエゴはない。デカルトでさえ、「我思う、故に我あり」と言っている。現代語訳すれば、「結局なんだかんだ言ってもさ、考え事するこのオレって存在を認めなきゃ、考えたって何も始まらないじゃん」ということである。

 人間にとってエゴというものが必然的に捨てられないものである以上、自分のエゴを自覚することなしに、相手のエゴに敏感であることはあり得ない、と考えるのだ。

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追伸:
 「だから葛和さん、勝てないのよ」と○田久美女史がおっしゃったどうかについては、私は定かではない。

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