Sunday, May 15, 2005

最近

 「アンパンマン日記」に妙なシンパシィを感じてしまって、困っている。

 「俺は●●じゃないただの●●なんだよ。」とか「ただの●●だ。」とか、当てはまるフレーズが多くてイヤになる。

Wednesday, May 04, 2005

国民の休日

 今日は、国民の休日だそうである。

 「国民」の休日なのに一日中仕事した私は、「非国民」だと言うことか。

 北海道本土の盾となって国民の生命と安全を守るために戦ったのに、この仕打ちか。

 そう考えたとき、田中正造ばりに直訴状持って天皇陛下の馬車につっこんでやろうか、と思ったが、それをやると流れ的に「成年後見人制度の被補佐人」となり、自動的に免許を失うことになってしまうことに気付いた。

--
 「国民の生命と安全を守るために戦った」って、たいした仕事もしてないのにそりゃちょっと言いすぎである。

Monday, May 02, 2005

効率と、重圧と、some luck

 尼崎駅で起きた脱線事故のことを知ったのは、月曜のかなり深夜になってのことだったのだが、事の背景がだんだんと明らかになるにつれて、列車運転士と当直研修医の心情にはかなり似通った部分があるのではないか、などと僭越な感想を抱くようになってきている。

 新聞・テレビ報道によると、JR西日本では私鉄との乗客獲得競争に打ち勝つため、異様に入り組んだダイヤを編成し、それを一分一秒違わず実行するよう運転士らに強いていたという。オーバーランや遅刻など、ダイヤを乱す行為を行った運転士には、事務所の片隅で延々と反省文を書かせるなど、過酷な懲罰行為が科されたらしい。


 現在私がいる病院では、夜間救急当直業務は1・2年目の若手研修医が原則として行い、その後ろに診療部長クラスのベテラン医師が控える、という形を取っている。これとは別に、内科・外科・小児科・整形外科など、各科ごとに中堅クラスの医師の当番が決められており、若手が判断に迷った場合は躊躇無く電話するように、と申し渡されている。

 この病院に集まってきた研修医のの多くは、総合診療を目指してきており、乱暴な言い方をすれば「聴診器一本で診断をつける」事を理想にしているものが多い。従って、救急当直の場というのは、我々にとっても貴重な「学び」の場となっているのである。例えばレントゲンに写る骨折の影と、実際に患部を圧迫したとき痛みにはどのような関係があるか、ということを実際に経験しておく事は、将来機材に乏しい地域で働くことを目標にしている医師たちにとって大切なことである。

 いわゆる北米型の大病院に付随する「ER」では、このような「救急の場は若手の未経験な医師が担当するものである」という暗黙のコンセンサスが成り立っている。つまり、もしあなたがベテラン医師の診察を受けたければ、まず自分の家庭医を受診し、その紹介状を持って予約を受けるというプロセスを必要とする。そのプロセスを省略する以上、ERに受診することは(未熟な医師の診察を受けるという)ある程度のリスクを伴うことなのだ。もちろん、ERの若手医師が専門家への転送を必要とする、と判断した場合は、家庭医の紹介状と同様、優先されて扱われるのだが。

 日本でも「北米型の研修」を謳った研修施設は、ここ数年でどんどん増えてきた。しかし、「北米型」の前提となっているこの考え方が、果たして病院を利用する側に浸透しているのだろうか。そこは大事なポイントだと思うのだが。


 話を私が勤める病院の話に戻すと、研修医たちはとにかく、どんな患者についてもまず病歴を詳細に把握し、綿密に身体所見をとった上で、検査をオーダーし、診断を下してから治療に移ろうとする。総合診療の場では、そうすることが正しい、と教えられてきたからだ。

 しかしながら、当然このやり方では患者一人に対する時間が長くかかってしまう。夜間帯の診療開始から2,3時間もたつと、(当然日によって患者さんの多い少ないはあるのだが)診察待ちの人数は5人、6人と増え、外来看護師長の機嫌が怪しくなってくる。時にはズバリと、時には無言で、当直医へプレッシャーをかけてくる。

 「チンタラ病歴取りや身体診察なんかしてないで、早く検査や処方のオーダーを出してください」というわけだ。

 これは看護職の立場からするときわめて妥当な意見である。なぜなら「助けを求めて病院にやってきた人に対し、その苦痛も取らず長く放置したままにする」のは看護の精神に著しく反する行為であるからだ。

 当直医の言い分はこうだろう。「疾患背景や身体診察を怠ったまま、むやみに検査・投薬を行うのは一番愚かな医師のすることだ。痛み止めを使ってしまったばかりに病気の本体が隠蔽され、正しい診断にたどり着けないことだってある。それがしばしば致死的な事態に結びつく事だってあるのだから、例え誰に急かされようとも、基本的な診察に割く時間を惜しんではいけない」と。

 この病院では、結局のところ患者さんを「溜めて」しまい、診療部長のお出ましか、あるいは気の知れた研修医仲間の支援を要請することも珍しくない。


 だが、他の病院で研修を受けた医師たちの中には、また違った考え方をする人もいるだろう。例えば、夜間熱と激しい咳を訴えて来た患者に対して、まず顔も見ずに胸部X線写真と血液検査をオーダーしておき、その結果が帰ってくるまで別の患者を診る。結果が出そろったところで写真と検査表に目を通し、頭の中にざっと病態を思い描いた上で初めて患者を「見る」。とりあえず死にそうな状態ではない、と判断したら、テキトーな抗菌薬と熱冷ましを処方し、明日の外来に来るように、と言って診察終了。患者さんも薬がもらえて満足だし、何より血液検査とX線写真という「診療した客観的証拠」が残る。

 このやり方をとると、時間効率は非常によい。それこそ患者さんをあまりお待たせせずに、快適な外来診療となる。しかし、このやり方を未熟な医師が実行すると、予断を持って診療に当たることになりがちであり、結果かなりの確率で齟齬が生じる。だが多くの場合何らかの幸運(その多くは、夜間救急を受診する患者さんの多くが軽症であることによる)が働くため、「医療事故」としては表に出てこないことになる。

 「いかなる患者にもまず病歴聴取と身体診察」を重視する考え方と、「実際に多数の患者が来ている以上、数をこなしていくための工夫が必要」とする考え方、どちらの考えがいいのか、私の立場はまだ固まらない。だが、本当に僅かな期間で、どちらの立場に行くべきなのか、決断を迫られている気がする。


 旅客運送業のサービスとして、「乗客を安全に目的地に送り届ける」という事柄と、「定刻通りに電車を運行する」という事柄を考えたとき、当然第一に優先されるべきは前者であろう。しかし、様々なプレッシャーの中で、23歳の運転士氏の中では後者が何事にも代えがたい比重を持って存在していて、結果として107人が死亡する事になってしまった。

 医者は人の命を預かる職業だ、とは使い古されたフレーズである。しかし、一介の医者の判断ミスで100人以上の人命が失われることは考えにくい。現在マスコミには、この運転士の未熟さ、判断の甘さを責める論調が目立つのだが・・・。


 正直なところ、あまり他人事とは思えないのである。

--
 喜劇王チャップリンは、人生に必要なものは「希望と勇気とsome money」だと言った。今の私に必要なのは、「知識と体力と、some luck」だと思う。まじで。