Sunday, June 27, 2004

興業見学

 札幌市内で開催中の「人体の不思議展」を見てきた。

 なんだか普通のおばさんやら、女子高生やらでいっぱいの中を、堅気のM浦先生と一緒に散歩してきた。

 私としては、久しぶりに解剖体に触ることが出来て、忘れかけていた(「最初っから詰めてないだろオマエは」というツッコミが聞こえるがクロルブロマジンで対処)知識を確認できた体験であった。だが、M浦先生の言うとおり、やはり学術的な目的というよりは、「死体を見たい」という大衆の好奇心を満たして利益を得るのが目的であるような気がして仕方がなかった。

 死体を見るというのは、ある程度の年の人ならばそれほど珍奇な体験では無いはずである。それは、少なからず親族の死を経験してきているはずだし、そこで死体を見るということがあったはずである。

 にもかかわらず、「本物」というキーワードであれだけの人を集めることが出来るのはなぜなのだろうか。

 一つの理由として、「死」というものが、既にマスコミにおける重要な商品になっているのではないか、という仮説を立てた。最近読んだ中島らも氏の「ガダラの豚」の影響が多分に入っている。
 彼らにとっては、「死」も「健康」と同じ次元において金のなる木なのだ。

 二つ目の理由は、人体構造が持つ「美」を堪能しに来ているということ。

 確かに、上肢・下肢の血管のみをプラスティネーションで抽出した標本は見事だった。ただし、各地で興業を行っているせいか、移送の衝撃で細かな血管が破損してきている。本来ならば博物館などで静的に保存されるべき資料だと思われるが、残念である。
 展示されている標本は確かに美しい。見やすく、よく加工されている。だが、本来血管や神経といったものがごちゃごちゃに入り交じって配置されているのが実際の人体の姿であり、結合組織を取り除き、見やすくしていくのが医科・歯科大学で学生の行う解剖という作業である。


 人体の構造を理解するためだけならば、必ずしも解剖実習を行わなくても良いのだ、という説がある。現代の技術を持ってすれば、本物の御遺体に非常に良く似せた精巧な模型をつくることは不可能ではないだろう。学生レベルの実習に耐えられる、という留保がつけばなおさらである。
 そのような模型を用いて実習としても良いのだろうが、実際問題としてその模型はずいぶん高価なものになるだろう。心臓一個の模型だって,ちゃんとしたのは20~30万円もするのである。
 ましてや、工業的につくられた模型は一つ一つに差異が生じない。様々なモデルを用意しようとすれば、さらにコストがかさむ。

 詰まるところ、なぜ医科歯科の実習で御遺体を解剖するのか、といえばそれは、「実際の患者さんにとてもよく似た模型であるから」ということになる。解剖実習を通じて倫理が身に付くのか、といえば、そういうやつもいるだろうし、そうでないやつもいるだろう、と答えるしかない。
 だいたい、御遺体を前にして哲学的に何か考えることで倫理が身に付くなら、アイヒマンやポルポトといった方々は、ずいぶんな人格者であったことだろう。

結論:
 死体に触る経験の多さと、その人の倫理観の深さは比例しない。

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