Thursday, July 21, 2005

無為という罪になるのか

患者の覚せい剤使用、医師通報は正当[Yomiuri Online]
 覚せい剤の反応が出た尿を医師が警察に引き渡したのは、医師に課せられた守秘義務に違反するかどうかが争われた裁判で、最高裁第1小法廷(横尾和子裁判長)は、「必要な治療や検査の過程で採取した尿から違法な薬物を検出した場合、捜査機関に通報するのは正当な行為であり、守秘義務に違反しない」との初判断を示した。

「麻薬使用を診断した場合は直ちに警察に届け出なければならないが、覚せい剤使用を診断した場合には医師は通報の義務を負わない」というのは、公衆衛生分野で毎年のように出される「国試のツボ」のひとつであった。

 以前から「麻薬はだめで覚せい剤はセーフ」というのは、明らかに法整備のミスであるようにしか思えず、そこを鬼の首を取ったかのように突いてくる試験のあり方には少なからず疑問を抱いていたのが正直な気持ちだが、来年の国家試験からはこのネタが出題されることはなくなるのだろう。

 しかし、そもそも「人を裁く」「正義を行う」プロセスに、(法医学者は別としても)臨床医の積極的な関与を求めることは、現場に大きな混乱を招くのではないかと懸念している。以前にも「死刑囚を治療するか」という記事に書いたが、私は、医者というものは社会的な「ものの善悪」を判断しない立場であるべきだと考えている。


 たとえば、救急外来に、説明のつかないあざを多数認める幼児を連れてきた母親がいるとする。今、私が子供の全身に対しX線撮影をオーダーしたところ、あちこちに骨折が見つかった。

 このような場合、私が医療者としてとるべきスタンスは「幼児虐待」という、親の側に存在する一種の疾患を診断し、その疾患に対する治療を考えていく、ということになる。当然医者だけの力では幼児虐待を止めさせることはできない。従って、児童相談所、福祉事務所などと連携をとって、家族構造全体に対するアプローチをとるのが正しいのである。この場合、私は警察に通報する義務はないとされる。(警察機関の介入はむしろ治療の妨げになるという考え方から)

 一方、法的な観点からこのケースを考えてみれば、親が子供に対して行った行為は明らかに「傷害罪」にあたり、これは親告罪ではないので、もし警察官の知るところになれば、その親を逮捕することもできるだろう。


 今回の判決によって、医師が通常の診療業務を行う上で知りえた情報に基づき、犯罪の通報を行うことが事実上認められたことになる。上のようなケースのほかにも交通外傷で運ばれてきた患者の血液からアルコールが検出された場合、特に患者が人身事故の加害者であった場合など考えると、後々になって「医師は警察に通報することができたのに、目の前で起こっている犯罪をあえて見逃した」と非難を受けることが考えられる。いや、被害者側が民事訴訟を起こした場合、医師側に賠償責任が求められることも今後考えられるだろう。(まあ、実際は事故状況に不審な点がある場合、救急車にお巡りさんが「同乗」してくる場合が多いので、証拠保全の作業は(呼気アルコール検査など)そちらでやっていただくことになる。けれども、なかには相当微妙なケースもある。あえて詳しくは書かない。)

 正直、現場に出てみると、われわれは必ずしも「社会正義」を実現できてはいないのだ、と痛感させられることがままある。「正義を行うことではなく、ただ単に助けを求めてきた客に対し、その人の利益を追っていくのが私の仕事」という、一見奇麗事に見えて、実は相当な諦観を含む論理で夜を過ごす、そんな時もある。

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 久しぶりに書くと、ダメダメだな。

Sunday, May 15, 2005

最近

 「アンパンマン日記」に妙なシンパシィを感じてしまって、困っている。

 「俺は●●じゃないただの●●なんだよ。」とか「ただの●●だ。」とか、当てはまるフレーズが多くてイヤになる。

Wednesday, May 04, 2005

国民の休日

 今日は、国民の休日だそうである。

 「国民」の休日なのに一日中仕事した私は、「非国民」だと言うことか。

 北海道本土の盾となって国民の生命と安全を守るために戦ったのに、この仕打ちか。

 そう考えたとき、田中正造ばりに直訴状持って天皇陛下の馬車につっこんでやろうか、と思ったが、それをやると流れ的に「成年後見人制度の被補佐人」となり、自動的に免許を失うことになってしまうことに気付いた。

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 「国民の生命と安全を守るために戦った」って、たいした仕事もしてないのにそりゃちょっと言いすぎである。

Monday, May 02, 2005

効率と、重圧と、some luck

 尼崎駅で起きた脱線事故のことを知ったのは、月曜のかなり深夜になってのことだったのだが、事の背景がだんだんと明らかになるにつれて、列車運転士と当直研修医の心情にはかなり似通った部分があるのではないか、などと僭越な感想を抱くようになってきている。

 新聞・テレビ報道によると、JR西日本では私鉄との乗客獲得競争に打ち勝つため、異様に入り組んだダイヤを編成し、それを一分一秒違わず実行するよう運転士らに強いていたという。オーバーランや遅刻など、ダイヤを乱す行為を行った運転士には、事務所の片隅で延々と反省文を書かせるなど、過酷な懲罰行為が科されたらしい。


 現在私がいる病院では、夜間救急当直業務は1・2年目の若手研修医が原則として行い、その後ろに診療部長クラスのベテラン医師が控える、という形を取っている。これとは別に、内科・外科・小児科・整形外科など、各科ごとに中堅クラスの医師の当番が決められており、若手が判断に迷った場合は躊躇無く電話するように、と申し渡されている。

 この病院に集まってきた研修医のの多くは、総合診療を目指してきており、乱暴な言い方をすれば「聴診器一本で診断をつける」事を理想にしているものが多い。従って、救急当直の場というのは、我々にとっても貴重な「学び」の場となっているのである。例えばレントゲンに写る骨折の影と、実際に患部を圧迫したとき痛みにはどのような関係があるか、ということを実際に経験しておく事は、将来機材に乏しい地域で働くことを目標にしている医師たちにとって大切なことである。

 いわゆる北米型の大病院に付随する「ER」では、このような「救急の場は若手の未経験な医師が担当するものである」という暗黙のコンセンサスが成り立っている。つまり、もしあなたがベテラン医師の診察を受けたければ、まず自分の家庭医を受診し、その紹介状を持って予約を受けるというプロセスを必要とする。そのプロセスを省略する以上、ERに受診することは(未熟な医師の診察を受けるという)ある程度のリスクを伴うことなのだ。もちろん、ERの若手医師が専門家への転送を必要とする、と判断した場合は、家庭医の紹介状と同様、優先されて扱われるのだが。

 日本でも「北米型の研修」を謳った研修施設は、ここ数年でどんどん増えてきた。しかし、「北米型」の前提となっているこの考え方が、果たして病院を利用する側に浸透しているのだろうか。そこは大事なポイントだと思うのだが。


 話を私が勤める病院の話に戻すと、研修医たちはとにかく、どんな患者についてもまず病歴を詳細に把握し、綿密に身体所見をとった上で、検査をオーダーし、診断を下してから治療に移ろうとする。総合診療の場では、そうすることが正しい、と教えられてきたからだ。

 しかしながら、当然このやり方では患者一人に対する時間が長くかかってしまう。夜間帯の診療開始から2,3時間もたつと、(当然日によって患者さんの多い少ないはあるのだが)診察待ちの人数は5人、6人と増え、外来看護師長の機嫌が怪しくなってくる。時にはズバリと、時には無言で、当直医へプレッシャーをかけてくる。

 「チンタラ病歴取りや身体診察なんかしてないで、早く検査や処方のオーダーを出してください」というわけだ。

 これは看護職の立場からするときわめて妥当な意見である。なぜなら「助けを求めて病院にやってきた人に対し、その苦痛も取らず長く放置したままにする」のは看護の精神に著しく反する行為であるからだ。

 当直医の言い分はこうだろう。「疾患背景や身体診察を怠ったまま、むやみに検査・投薬を行うのは一番愚かな医師のすることだ。痛み止めを使ってしまったばかりに病気の本体が隠蔽され、正しい診断にたどり着けないことだってある。それがしばしば致死的な事態に結びつく事だってあるのだから、例え誰に急かされようとも、基本的な診察に割く時間を惜しんではいけない」と。

 この病院では、結局のところ患者さんを「溜めて」しまい、診療部長のお出ましか、あるいは気の知れた研修医仲間の支援を要請することも珍しくない。


 だが、他の病院で研修を受けた医師たちの中には、また違った考え方をする人もいるだろう。例えば、夜間熱と激しい咳を訴えて来た患者に対して、まず顔も見ずに胸部X線写真と血液検査をオーダーしておき、その結果が帰ってくるまで別の患者を診る。結果が出そろったところで写真と検査表に目を通し、頭の中にざっと病態を思い描いた上で初めて患者を「見る」。とりあえず死にそうな状態ではない、と判断したら、テキトーな抗菌薬と熱冷ましを処方し、明日の外来に来るように、と言って診察終了。患者さんも薬がもらえて満足だし、何より血液検査とX線写真という「診療した客観的証拠」が残る。

 このやり方をとると、時間効率は非常によい。それこそ患者さんをあまりお待たせせずに、快適な外来診療となる。しかし、このやり方を未熟な医師が実行すると、予断を持って診療に当たることになりがちであり、結果かなりの確率で齟齬が生じる。だが多くの場合何らかの幸運(その多くは、夜間救急を受診する患者さんの多くが軽症であることによる)が働くため、「医療事故」としては表に出てこないことになる。

 「いかなる患者にもまず病歴聴取と身体診察」を重視する考え方と、「実際に多数の患者が来ている以上、数をこなしていくための工夫が必要」とする考え方、どちらの考えがいいのか、私の立場はまだ固まらない。だが、本当に僅かな期間で、どちらの立場に行くべきなのか、決断を迫られている気がする。


 旅客運送業のサービスとして、「乗客を安全に目的地に送り届ける」という事柄と、「定刻通りに電車を運行する」という事柄を考えたとき、当然第一に優先されるべきは前者であろう。しかし、様々なプレッシャーの中で、23歳の運転士氏の中では後者が何事にも代えがたい比重を持って存在していて、結果として107人が死亡する事になってしまった。

 医者は人の命を預かる職業だ、とは使い古されたフレーズである。しかし、一介の医者の判断ミスで100人以上の人命が失われることは考えにくい。現在マスコミには、この運転士の未熟さ、判断の甘さを責める論調が目立つのだが・・・。


 正直なところ、あまり他人事とは思えないのである。

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 喜劇王チャップリンは、人生に必要なものは「希望と勇気とsome money」だと言った。今の私に必要なのは、「知識と体力と、some luck」だと思う。まじで。

Saturday, April 30, 2005

ある新任少尉の日記から

 この小隊に配属されてから2週間が過ぎた。

 配属される前に受けた説明では、小隊の指揮はほとんど中尉が取り、私の仕事は補佐的なものだけだと聞いていたのに、実際には中尉も大尉も不在になることが多く、ひどいときは小隊すべての指揮を私が取らされることもあるのだ。

 士官学校を出たての私にとって、軍曹からの指示要請が来るたびに胃と心臓が締め付けられる気分だ。

 「少尉、前方500mに敵偵察分隊らしき影を発見しました。一体いかが処理しましょうか?」
 「少尉、昨日設置した機関砲ですが、600発/分撃つ予定が寒冷のせいか、300発/分しか出ません。側面の機関銃斑をを2個に増員しますか?」
 「少尉、C型糧食が尽きかけています。B、F、Gの各糧食はまだ5日分ほど持ちそうですが、本日から糧食を変更しますか?それとも大隊本部からC型を融通してもらいましょうか?」

 くそ、勘弁してくれ。

 もちろん、自分で決断が下せない事柄に関しては、その都度大尉に打電して指示を仰ぐのが正しいことはわかってる。大尉だって自身交戦中で、いつもすぐに返事がくる訳じゃない。

 問題は、そういうことじゃないんだ。

 軍曹連中は、この場面で何が一体正しい決断なのか、実は知っているんだ。機関銃だって寒くても油を差せば500発/分ぐらい撃てるし、C型が無いときは「A型非常食」で数日持たせるのが普通なんだ。そんなことはイヤというほど知っていながら、「将校の命令」というお墨付がほしいだけなんだ。

 配属初日に起こったことを書こう。

 「少尉、敵機動部隊らしき影が見えますが?」
 「よし、・・・・・。第3分隊から1個斑、偵察に送れ」
 「ハア?もう赤外線サーモグラフィー設置済みですが、1個斑、人員割くんですか?」

 士官学校では、指揮官は下士官の報告や機器のデータを鵜呑みにせず、自らの目で戦況を確かめよ、と習った。もちろん私もそうした。野外教練の時間に習ったやり方で、相手に見つからないように目標点に近づき、何かが動く影を見つけた。野生動物かも知れなかったが、こんなところに絶対味方や一般市民がいるわけはないんだ。私は無線交信で大隊本部に緊急火力支援要請を行い、当該地点に迫撃弾を撃ち込むことにした。隣のF小隊にいた2年目の少尉がそうするようにアドバイスしてくれたのだ。

 さて、やっとの思いで小隊指揮所に戻ってみると軍曹がこの一言だ。

 「少尉、あなたがお持ちの擲弾筒では対処できなかったんですか?小隊からの火力支援要請となると、敵機動部隊確認ということになって私どもも大隊本部に書類を送らなければならないんですが。」

 そうなんだ。この小隊では、過去ずーっと、そういうやり方をしてきたんだ。怪しい影が見えたら将校が40mm擲弾筒をドカンといって、一件落着。そこにいたのが鹿だろうが敵さんだろうが、それでとりあえず解決ということだ。

 結局、「あなたが擲弾筒一発撃ってくだされば小隊は満足したんです」ということか。

 だけど、「一兵たりとも敵の接近らしき徴候が見えたときは必ず大隊本部に連絡」というのが全軍通じての規則だったはずだ。そんなのが単なる紙の上のもんだった、というのを始めて知った。

 今、ちょっとした迫撃砲の発射命令や、機関銃の射撃命令は私が出すようになってしまった。明らかに味方がいない方向へ、ちょっとした弾をぶち込むというのは、まあ雑用といってしまえばそれまでなんだが、軍隊というところは何でも将校の命令を必要とするものなのだ。

 ときどき、「現在国籍不明の車両がこちらへ向かって接近中です、少尉!」といった、急ぎの報告が入ることがある。そんなときに限って前線の将校は私一人だ。急いで大尉との交信を試みつつも、乏しい知識から車両のシルエットが西側のものか、東側のものか引っ張り出しつつ、出来るだけ火力の小さい兵器を使って威嚇発砲させる。

 発砲命令を受けた下士官/兵は、目標めがけて精一杯ぶっ放すだけだが、私はいつもガクガクと膝が笑うのを感じてしまう。

 もし、あれが民間車両だったらどうなるのか?

 きのうなんか、私の命令で銃撃を受けた車に近づいてみると、なんとそいつは民間仕様のランドクルーザーだったのだ。あのときは本当にピストルで自分の頭を撃ち抜こうかとさえ思った。しかしその後よく車内を調べてみると、AK47が数丁見つかった。結局は敵のゲリラ部隊の車だったのだが、今後あんな車が近づいてきたら、一体どうすればいいのかわからない。

 明日から数日、休暇で大尉が部隊を離れる。中尉と私でこの小隊を分掌しなければならないのだが、私がつまらないことで一々中尉にお伺いを立てていたのでは、分隊レベルでの士気にも関わってくる。つまり、「この少尉が下した命令は本当に信じていいのか?」ということになるのだ。

 何が「つまらないこと」で、何が「上官に報告すべきこと」なのか。まずそのことで心身をすり減らしてしまう。平和な士官学校の机の上で、前線で次々と決断を下していく将校になりたいと夢見ていたあのころが、今となっては懐かしい。

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 この文章はフィクションです。しかし、私が何を言いたいのか、わかる人たちにはわかる文章だと思います。

Sunday, April 24, 2005

この一週間を6文字でまとめる。

「色々あった。」

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すいません清水義範先生。

でも、書けることと書けないことがあって、そのほとんどが書けないことなんだよ。

Tuesday, April 19, 2005

くそ、来ちまったか

これで責任もたされちゃうじゃないか。

Sunday, April 17, 2005

おーい、来ないぞ

 医師として活動できるのは「医籍に登録された時点から」である。過去の医師国家試験にも出た重要事項だ。

 医籍というのは、読んで字のごとく「医者としての戸籍」のようなもので、医者の生年月日から本籍地、免許取得年月日、現居住地までが記載された、厚労省が持つエンマ帳みたいなものである。(医師は2年毎に厚労省に対し、これらの情報を申告しなければならない。)

 問題は、我々医師免許申請中の者が、その医籍に登録された、ということをどうやって知るか、ということである。

 医師免許証は小学校の卒業証書のように、墨字で書かれた大変立派な一品であるが、これが我々の手元に届くまでは3ヶ月から6ヶ月はかかるといわれている。つまり、医師免許証の到着を待ってから研修を始めたのでは、ほぼ半年間が無駄になる可能性がある。

 そこで、免許申請時に提出する書類の中には「医籍登録の葉書」があって、一応任意ということにはなっているがほぼ全員がこれを提出することになっている。前述のように正式な免許証の発行には時間がかかるので、医籍登録番号と厚生労働大臣のハンコが押された、この葉書の到着をもって、「自分が医籍に載った」ことを知るのだ。(申請から約2週間程度、と書いてあったが?)本当はこの時点から自分の判断で検査オーダーも出していいし、処方も書いていいし、採血したいと思ったらすることが出来る。

 ・・・・・3月31日に免許申請し、来週から本格的に働くことになっているのに、まだ葉書が来ない。従って、「オレは医師免許を拒否される理由が何もないから、当然医籍に登録されているはずだ」という予断の元に、業務を開始することになる。非常によろしくない。


 すこしボヤきを入れさせて頂くと、今年から国家試験を1ヶ月早めた理由というのは、「4月から始まる臨床研修をスムーズにスタートさせるため」だったはずだ。しかるに、こういう事務的なところで遅滞が生じる、というのは非常にいかんのではないだろうか。
 これは各大学でも異なると思うが、私の大学では、事務方が各学生に、国家試験出願の時点で戸籍抄本や「(成年後見人制度に)登記されていないことの証明書」を準備させた。これは国家試験の出願には直接必要ない書類なのであるが、合格発表後すぐに免許申請へ移行できるように、とのご配慮であった。こういうご配慮は、大学側が示したものとしては希有な部類にはいるのだが。

 厚労省側のタテマエとしては、「国家試験の合格≠免許の授与」だよ、ということなのだろう。しかし、例えばあらかじめ出願の時点でこれらの書類を集めておき、合格発表の後は国家試験の受験票に各地保健所長のハンコを押すことで「医者の仮免許証」とする、といった方法の方がずっとスマートであろう。むしろ、こうした事務手続きの簡素化の方が「研修をスムーズに進める」上ではより大事なことであるように思うのだが。


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 したがって、4月2日の「少尉任官」という記事、あれは厳密にはウソである。

Monday, April 04, 2005

今日の執筆基準

~私はこう書いている~ シリーズ


基準の第二項

無理してまで書かない。

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 無理してまで書くと、本来書くべきでないことまで「ネタ」として絞り出してしまう危険がある。意外と大事な項目であると考える。

Sunday, April 03, 2005

誰かに似た人

 病院での面通しも終わり、新任研修医同士での面通しも一段落した。これから少なくとも二年間は楽しくやって行けそうな具合である。

 ふと思うのは、それぞれほぼ初顔合わせに近い面々であるにも関わらず(もちろん実習や採用試験の時に会ったりしてるわけだが)、「あれ、この人同期の●●に似てる」とか、「●●先輩によく似てるなあ。兄弟じゃないんだろうか」と思えるようなシーンがよくあることである。容姿もそうだが、特に思考・行動パターンや言葉使いなどが、同じ大学で過ごした知人とよく似ている、ということである。

 昔うちのオフクロがS医科大学病院に入院したとき、「医者はみんな同じような顔してる」と訳のわからないことを言ったことがある。日本全国津々浦々に医科大学があるわけだが、ひょっとすると医学部というところは人をずいぶんと「パターン」に当てはめてしまう、そんなところでは無かったのだろうか、と恐ろしいことを考えてみる。

 もちろん今まで会ってきた医者・医学生のタイプに全く当てはまらない面々もいるわけで、他人から見ると私は一体いかなる人物に見えているのか。そんなことがふと気になったりするこのごろである。

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 基準の第一項
 サイトバレは避ける方向で。

Saturday, April 02, 2005

少尉任官

 下記のような事情がありながらも、結局資格だけは取れてしまったわけで、私などより数段実力が上でありながらも今年不幸にして凶弾に屍れた仲間のことを思うと果たしてあの試験自体が妥当であったのかどうか、という疑念をぬぐいきれないのである。

 毒茸先生のように国家試験10回受けたら12回受かるような層はともかくとして、我々ボーダーライン組にとって受かるか落ちるかには一抹の「運」が関与している。


 しかしながら少尉任官の命を受けて、これまでの「ニート予備軍」から正式な沿岸警備隊の一員として配属されるに当たり、まずやっておかなければならないことが一つあると思う。

 それはここのブログに書くことの「基準」を設けるということである。とかげ先生の一件以来、医療ブログ運営者の皆さんは改めて「何を書くべきか、書くべきでないか」という基準についてそれぞれお考えになったことだろうとお察しする。

 しかしながら、たとえば日本医師会あたりが「医師個人のホームページ運営に関して」なんて文書を出し、すべからく医者がみんなその基準に従ってブログを書かなければならない、などということになったら、これは窮屈で仕方のない事態である。

 従って、こういった「基準」はブログの書き手それぞれが、自分自身で決めていくしかないことなのである。

 以前から言い続けているように「ブログとはウンコである」のだが、現在たまるだけのモノがまだ無いような気がしている。従って一月ばかりたまってきたところで、改めて自分なりの「基準」をここに掲示したいと思っている。

親元に届いた合格証書

「オマエよう点数配分考えたな」と微妙なコメントだった。

推して知るべし。

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 のっけから「生活笑百科」みたいなタイトルだ。

Thursday, March 31, 2005

モデムがない

 引っ越し先で実は自分のマシンにモデムがついていないことに気付く。周辺の電器屋さんを片っ端から当たってみたが、そもそもが時代遅れの代物なのでどこにも見つからず、まる3日ほどネット難民として過ごした。

 救いは定額制の3G携帯を持っていたことで、これで何とかAmazonに外部モデムの注文を出すことが出来た。今日それが届き、今こうしてカキコしているわけである。本当に焦った。

Friday, March 04, 2005

なげそうじ

 国試総論を書く、というようなことを前回書いておきながら、ずいぶんほったらかしにしてしまった。引っ越しと旅行準備で忙しかったものだから、というような言い訳をしておく。

 引っ越し先が「潜水艦の艦長室」並の大きさであり、現在の2Kマンションから引っ越すには物理学上の制約が大きいので、泣く泣くたくさんのものをゴミとして出す作業に追われている。

 昔買った一太郎や携帯電話の箱など、よくもまあこんなもの取っておいたわい、と自分でも思うようなものから、2年生の時の生理学のノートなど、捨てるにはエイという気合いを必要とするものまで、様々なものを札幌市指定の半透明ゴミ袋に詰める。瞬く間に70L入りポリ袋が10袋ばかり満タンになっていく。

 高校生から教養課程の頃まで、ずいぶんと読んできたブルーバックスや、新書のたぐいも、相当数処分せざるを得ないだろう。●ックオフに売るということも一瞬頭をよぎったが、、あいにく私は所有する本のカバーを接着剤で表紙に貼り付けてしまうという全く持って貧乏くさい習性を持っており、これでは彼らがさんざんな査定しかしないであろうこと、また以前彼らに大量の本を売りに行ったとき、一冊10円-20円という、まさに二束三文の値段で買いたたかれた恨みもあり、その考えから早々に捨てることにした。

 また家計簿というほどでもないが、日々購入したもののレシートをまとめていたものがあり、それが7年間分たまっていたのだが、この機会に捨てることにした。とはいえ、個人情報のカタマリとも呼べるものでもあり、ヘタすると過去7年間、私がある特定の日に何をしていたかがすべて把握されるおそれのあるものでもあった。田舎ならダイオキシン発生装置とも呼ばれる個人焼却炉でぽんぽんと燃やしているところだが、物質的にはノリとカミのカタマリでもあるそれを都市で処分するのはいささか困難であり、仕方なく燃えるゴミで出すことにした。

 北海道ではものを「捨てる」ことを「なげる」と言う。従ってこのように家財道具をぽんぽん処分することを「なげそうじ」といっているのだが、ひょっとするとこれは我が家だけの方方方方言かも知れないので、あまり自信を持って広めないことにする。

 しかし、こうしてみると私はずいぶんと「なげられない男」のようだ。昔、「片づけられない女」という言葉がちょっと流行になったことがあって、いやそればしつけとか環境の問題じゃなくてADHDという高次脳機能障害なのだ、とかいろいろ言われていた。人間関係も物品も、そんなに簡単に捨てられるものじゃないだろう、と言い訳してみるが、まだこの部屋からは30袋ばかりのゴミ袋が出そうである。

Wednesday, February 23, 2005

国試各論

 本来は総論を書いてから各論を書くのがスジだと思うが、細かいことはどんどん失われていくので、とりあえず先に書くことにする。

 今年は試験監督が「机の上に書き込みがないかどうか確認してください。問題用紙回収の時点で、机や受験票に書き込みを発見した場合は不正行為とみなします」ということをしつこく言っていた。おそらく、精度の高い「再現問題」が出回るのを防ぐため、試験問題を机に転記することをやめさせる狙いがあったものと思われる。

 国家試験問題作成委員会だってアホじゃないだろうから、当然今年出た問題がどの程度「再現」されているのかくらいは調べるだろう。試験回収を行うのも、いわゆる「プール問題」を確保するためだが、良問ほど受験生がよく研究し、勉強するので差がつきにくい。そこで「ネタ」がつきた結果として今年のような間抜けな問題続出、ということになったのではないか、と私は見ている。


 ちなみに必修の「肛門カルテ問題」だが、標準外科学と内科診断学(ともに医学書院)ではみごとに書き方が違っている。標準外科の肛門の項では、円の中に波線で円腔が描かれた図(aに近いが、国試のはやけに対称的な図形だった)が載っており、一方内科診断学には大円の中にオチョボ口のようなマーク(d?)が描かれている。しかしいずれの教科書でも、「痔瘻・裂肛の位置は時計式に記載する」ことを教える趣旨の参考図であり、「標準的なカルテ図示の仕方」という意味合いではない。我が国の代表的な教科書にさえ典拠がない以上、病院ごとで記載の仕方は異なるのが普通で、これは不適切問題になるのではないかと考える。ちなみに私は「痔には奥行きがあるから」と考え、(a)(十字線入りの円を底面とする円錐状の図)を選んだ。(b)の図はなんだかやけに卑猥だった記憶がある。だれがつくったんだこの問題。

 「正しい注射器の捨て方問題」は、微妙な絵のタッチに思わず引き込まれそうになってしまった。一応今のところ、正解であるという説が優勢な(e)(針のついたままの注射器をキャップなしで捨ててある。バケツの外にあふれていない)を私も選んだが、現場ではいわゆる「安針缶」などを使い、リキャップしないまでも針は分離するところが多いのではないだろうか。私は、「どうしてもリキャップするときは台の上に置いたキャップを、片手に持った針ですくうように取り、万が一先端がキャップを突き破ってもいいように、逆の手でキャップの根本を押さえて止める」ように教わった。また、あるところでうっかり針を使用済み注射器と同じバケツに捨てたら、「おまえ、針は外してこっちに捨てなきゃダメだろ」と怒られて、オーベンがそのバケツの中に手を突っ込んで拾っていた記憶がある。従って少なからずあの絵には違和感を覚えたが(針も注射器もメスも一緒に捨ててあった)、「もっとも正解に近いものをマーク」という原則に従えばやっぱりeだろう。

 「朝起きたらぐったりしていたという乳児、来院時心肺停止で30分蘇生したが回復せず死亡確認。全身に打撲の跡を認める」問題では、周囲にかなり「母親から詳しく事情を聞く」を選んだ人がいた。私は「警察に通報する」という選択肢を選んだし、落ち着いて考えればこちらが正しいとわかるはずだ。(異状死体の届け出義務、すでに患児死亡しているため母親からの病歴聴取は意味がない)。しかし、模擬試験、問題集などでは「幼児虐待の疑いがあるときは警察に通報する」選択肢を「児童相談所に通報するのが正しいので誤り」とする問題が多々あったため、惑わされた人が多かったようだ。

 そう言う私もやはり本番の緊張というものはあるもので、後から思い起こしてあっ、と思ったような問題がいくつかあった。3日目の、病歴・心エコーから明らかにIE→MRを選ばせる問題でもなぜかMSを選んでしまったし、2日目の「洞不全症候群でペースメーカー装着している男性。突然意識消失して来院」問題では、全くMRIが禁忌選択肢であることを意識していなかった。(急性の経過を示す脳卒中ではCTが優先だろう、ということで何となくCTを選んでいたので、これは踏まずに済んだ。また踏んだとしても必修ではないのでカウントされないだろう。)帰ってから2ちゃんねるで見たときは、思わず顔が青ざめてしまった。


 いつもの模擬試験と同じく、迷った問題に関しては見直しの段階で「正解にマークしていたのに直して誤答にしてしまう」パターンと、「誤答にマークしていたが考え直して正解に付け替えた」パターンが同程度の頻度で発生したもの、と勝手に考えている。それでも、やはり見直しはするべきだろう。というのも、数年前からX2問題(5つの選択肢のうち、正しいもの2つにマークを付ける)が出てきており、これに対してマークを1つしか付けていない、あるいはその逆、といったアホらしいミスを避けることが出来るからだ。実際私も「徒手筋力テストは2」の記載にある数字だけを見て勝手にX2だと思いこみ、見直しの段階で気付いた問題があった。

 不親切だと思うのは、「適切でないのはどれか」の表現は太字で強調されるのに対し、このX1、X2問題に関しては「~はどれか」と「~はどれか。2つ選べ」の表現がまったく普通の文字で記載されているため、受験生にとってはうっかり取り間違えそうになることである。今回私はやらなかったが、まず試験が始まったときに問題用紙をぱらぱらめくり、最後の一文が「2つ選べ」で終わっているものに関しては大きく「2」と書くなどの対策も有効だろう。(問題用紙への書き込みについてはまた書く。)

 今日はこれまで。

Monday, February 21, 2005

状況終了

とりあえず、寝る。
いろいろ書きたいことはあるが、寝る。
いろいろ気になったこともあるし、いろいろ後輩に伝えたいこともあるが、まずは寝る。

Wednesday, February 16, 2005

イメージトレーニング

 左サイドから鋭く内側に切り込んできたクラウディオ・ロペス、DF一人かわしてゴール右隅へ強烈なシュート、キーパー反応して弾いたところを詰めてきたアイマール(またはサビオラ)、胸でトラップすると同時に大きく息をフッと吐き、下へ落としたボールを基本通りのインサイド・キックで流し込む!

 Goaaaaaaal!


--
 振り返ってみると、5つある選択肢のうち、最後の2つにまで絞り込んでから外すとことが今まで多すぎた。ドリブルで持ち込みキーパーと一対一になった瞬間全身の力を込めてけり込んだボールがキーパーの真っ正面に行くようなもので、しかもループを狙うほどの技術はないものだから、当日のイメージはこれで行く。

Friday, February 11, 2005

無題

  今さら勉強したら負けかなと思ってる
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        l イ  '-     |:/ tbノノ 
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 ニート予備軍  25歳




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 そ、そんなこたーないぞー。

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 やりゃーいいってもんじゃない。
 やらなきゃいいってもんでもない。

Sunday, February 06, 2005

燃料投下の責任をとって

■ [医療]医療従事者としての予防の捉え方
http://d.hatena.ne.jp/chirin2/20050204#p3

 上のリンクでちりん師がいろいろと述べられているが、本を正せば去年の10月8日に私がこんな燃料を落とすから悪いのである。下の記事のコメント欄参照のこと。
http://d.hatena.ne.jp/chirin2/20041008

 ちりん師が書かれた記事を読んで、適当に「予防接種 反対」とかでぐぐってみると、ちょうどまた絵で描いたようにおあつらえ向きな記事を見つけてしまったものだから、つい燃料として投下してしまったのだが、ちりん師が実際ここまでかみついていくとは思わなかったので、正直めちゃくちゃびびりまくっている。

 問題になった記事はジャングルシティというコミュニティサイトの中にある、「かずよの子育てエッセイ・第20回」である。シリーズ通してみると、読み物としてはなかなかおもしろい。

 私を含めて、これから医療で飯を食っていこうという人間からみれば、いろいろとつっこみどころがある文章なのだが、結構痛いところはついているような気もしたのだ。そういう意味で、みんなが議論を深めていく題材としてはちょうどいいんではないか、と思ったのだが、きっかけを作った張本人の私が何も言わないのでは卑怯だと思うので、今日は引用を交えながらコメントしていく。
 
アメリカでは、生まれたばかりのちっちゃい赤ちゃんに、一度に何本も予防接種をします。針を刺すかわいそうさプラス、得体の知れないものがあんなちっちゃい体に入れられるなんて、無気味だと思いませんか?私の予防接種の感想は『乱暴』。むちゃくちゃな気がします。それでも先生は「もう何年も実績があるし大丈夫よ」の一点張り。それでも私はなぜか信用できません。私が信用できないと結論付けた理由をいくつか挙げてみます。
 なかなか感情的な表現で、大変よろしい。もうね、こういう意見を必死に探していたわけです。
それって、私たちの子供を使って人体実験をしているような気がしませんか?十分なデータを取ってから認可しているはずなのに・・・。
 実を言うと、ワクチンのような薬剤は、すべからく「人体実験」の最中である、と言えなくも無いのだ。
 新薬の臨床試験、いわゆる「治験」には第I相試験から第IV相試験まで、4段階に分けられている。ここに詳しい。
  第III相試験を終え、問題ないと判断された段階で、新薬はたとえば保険収載されたりして「大っぴらに使える」扱いになるのだが、ワクチンのような薬剤では「第IV相試験」として、市販された後も、本当に副作用が看過し得るものなのか、有効性は十分なのか、といったことは監視されているのだ。だからこそ、ここに書かれているような「溶連菌の予防接種が取りやめになった」こともあるのである。
 そういう意味で言えば、このお母さんの視点はなかなか鋭い。
少し前ですが、水疱瘡の予防接種を作っている会社のテレビコマーシャルが盛んに流れていました(水疱瘡は多くの州でまだ義務ではなく任意)。子供のおもちゃが泣いていて、「毎年○人(正確には忘れましたがたぶん40人?)の子供が水疱瘡で亡くなります」「親ができることはしてあげましょう」と結んでいました。脅しとしか捉えようのないこの宣伝。ひどいと思います。
 ここに書かれているのは、「医療の名を借りて金儲けすること」に対する素直な嫌悪感であり、私もまた同様に抱いているものである。
 ディスコ経営が破綻した後介護事業に乗り出し、その後やはり経営的に成り立たんと見るや否や地方をバッサリと切り捨てた某社とか、テレビをつけた瞬間流れてくるア○コの保険CMとか、「医療を食い物にしている」としか思えない奴らのことは、私も大嫌いだ。そういう奴らのせいで、こっちが食うパイが減っている本当に医療が必要な人達へはお金が回って来ないことになるのだ。全くもってけしからん。
特に風疹は妊婦がかかると胎児に影響が出るといわれています。だから、もし予防接種をしていないうちの娘が風疹にかかり、知らない間に妊婦にうつしたらだめでしょう、ということなのです。社会責任とでもいうのでしょうか。でも私は全くこの考えには反対です。社会責任のために私は自分の子供に予防接種をうったりしません。自分の子供を守りたいから打つだけ、他人の利益なんて、乱暴ですが、考えません。少しでもリスクのあるものを、社会責任の名のもとに私のかわいい子供に押しつけられてはたまりません(もちろん、我が子を守りたいからこそ予防接種をするのだと先生に言われますが)。
 ここにみんな噛みつくわけだが、本質的に母親ってこういうものなんじゃないかなあ、と私などは思うわけだ。どんなにアホな子供でも、自分の子供まではかわいい。自分の子供までは。むしろそうでなかったら母親として失格じゃないのか。

 思い出しても見なさい。大学受験の時、あなたの親は何て祈っていたんだろうか。おそらく「うちの子が受かりますように」と思わない親はいないだろう。合格枠がある以上「うちの子が受かる」と「うち以外の子供が落ちる」は表裏一体のことなのだが、一方「世の中に受験失敗の悲しみを味わう子供が出ませんように」「うちのアホな子供より本当に優秀な人間がこの大学に受かって世のため人のためにになりますように」と祈る親御さんはほとんどいないだろう。親ってそういうもんだ。


 最後に、今回の「ジャングルシティ」がとった対応について。

 「ジャングルシティ」に抗議文を送ったところで、文章自体の著作権は書いた人に帰属しているだろうし、いくらこちらの意見が医学的にまっとうなものだったとしても「こんなアホな記事は信用しないでください」とサイト運営者が、記事の下に告示するわけにも行かないだろう。あくまでも読む人の良識と判断にお任せする、と言う態度はごく中立的で、私は特段の問題を認めない。

 むしろこういった意見がweb上で読めること自体が大変意義あるわけで、気に入らないから、間違っているからこんな意見はweb上から無くしてしまえ、と言うのでは、山崎宏之「大」先生が、かけそば先生のblogをぶっ潰したことを自慢したり、炎の営業マン福田実氏がAmazonから批判的なカスタマーレビュー全部削除させたりといったことと、あまり変わらないのではないか、と思う。

 時に誤った知見や、穏当とは言えない意見が跋扈するのがwebの特性であるが、あくまでも言論に対しては言論による反撃を試みるのが正道である。自分の子供に予防接種を受けさせるべきか悩んでいる親御さんがたとえば「予防接種 副作用 有効性」と言ったキーワードで検索したときに、「こっちのページに書かれていることより、こちらのサイトの方が理屈にかなったことを言っているな」と思われるような、そういった情報を発信していくことこそが、我々の思う「まっとうな」行動を広める上では有用だと考える。

Friday, February 04, 2005

ひとをみる

via. ちりんのblog 並びに 「歯医者そうさん」先生の「最新日記」2005年2月3日(木)付け記事

 医歯学部4年に患者応対テスト 新年度から108大学で[asahi.com]

 医師の無神経な言動で傷つけられる患者は少なくない。未熟な医師による医療ミスも相次ぐ。医療不信を招くこうした問題の一因に、5年生からの臨床実習が、主に指導医の診療の見学に終わるなど、十分に機能していないことがあると指摘されてきた。
    (中略)

 試験では、医学知識を問う問題に加え、模擬患者を問診してもらう。そのやりとりから、患者が信頼して症状や悩みを相談できる態度がとれるかどうか、患者の訴えに耳を傾けられるか、意思疎通が図れるか……などを判定する。

 さらに脈拍・血圧測定、頭から胸、腹部などの診察や、救命救急の処置などもチェック。歯学系では、抜歯や歯科治療などの技能も問う。


「ドクハラ」という言葉が一人歩きしていくのには少なからず抵抗を覚えるものの一人である。だが、この言葉の仕掛け人であるところの土屋先生が自ら語られる分に関しては、耳が痛いけど、まあそこは業界全体として正していく必要があるのかな、と思う。だが、マスコミがこの言葉を使う際には、少なからず彼らの悪意を感じてしまう、というのも正直な気持ちだ。

 ひとしきり「ドクハラ」に対する「毒」を吐いたところで、本題にはいる。
 
 今年から4年生には全国的にOSCEとCBTが導入され、上の学年に進級する上での関門試験とする大学も多いようだ。つまり、これらの試験に通らないと臨床実習に出さないぞ、ということである。

 面白いのは、「こちら側」にいると、このOSCEというのはむしろ「態度や言葉遣い」を試験すると言うよりも、「診察や処置の技術」を重点的に試すものであるように思われ、「あちら側」(マスコミや、それを通じて形成される堅気衆の世論)はその逆を期待している、ということだ。

 私が去年の夏に受けた後期OSCEでは、試験全体として8つほどのパートに分けられ、「X線写真の基本的な見方」や「心電図計の装着」「腹部・胸部の診察法」といった知識・技術に関する項目が7つ、そして「医療面接」の項目が1つという構成であった。

 7つの「診察法」に関しては頭に詰め込むことがいろいろあるが、「医療面接」に関しては何をどう勉強したらいいのかわからない。そこで当然、「医療面接」に関してはほとんどぶっつけ本番、と言う仲間も多かった。結局のところ、頭に詰め込む項目が7つで、配点の比重としてはめちゃくちゃ重いわけだから、「医療面接」で少々のことがあったとしてもどうと言うことはない。幸いにして、医療面接で落第になった仲間はいなかったが。

 私たちのところでは、過去私たちの病院に患者として来ていた方々にお願いして、模擬患者(SP)を演じて頂き、またSPさんがつける配点もあったのだが、今年から制式にスタートするOSCEでは、このところは一体どうなるのだろうか。


 数年前から、医学部入試には面接を導入するところが増えてきて、国公私立を問わず入学者全員に対してそれが課されそうな勢いである。けれども、こうしたことが本当に世間一般が求めている「医師として適切な」人格を入学させるのに役立っているか、というと、必ずしもそうであるとは思わない。理由はいくつかある。


 第一に、面接官である医学部教官が、必ずしも「人を評価する」能力に長けていないのではないか、ということである。企業の入社試験などであれば、人事課の担当者という「短時間で人を容赦なく評価する」ことに長けた経験者をそろえたセクションがあるだろうが、残念なことに「面接」で人を評価する訓練を受けた医学部教官は、かなり少ないものと思われる。
 どこの大学でも誰が面接官になるのか、というのは入試の機密事項だと考えられるが、一般論としてはもっとも「人を見る」ことが得意である(と、考えられている)精神科や、総合診療畑の先生たちが中心になることが多いのではないだろうか。それにしても面接時間の10分やそこらで、すべての受験生に公平かつ厳正な点数をつけると言う作業は、普段の業務内容からはかけ離れている。
 各科から持ち回りで選ばれて、いきなり面接官に任命された教官としても、どのポイントで人を評価していいものかわからず、また自分の採点で受験生の人生を左右してしまうことに対する感情的なハザードもあったりして、「全員に同じような点数をつけてしまう」傾向がある、と言われている。

 第二に、医者の側から見た「ほしい人材」と、医療のエンドユーザーである患者側から見た「なってほしい人材」とは必ずしも一致しないことがある。
 医者の側から見てほしい人材とは、「少々人格に問題があっても、ずば抜けた記憶力と、情報処理能力のの速さを持った人間」である。患者側から見るとこれは逆なのだろう。 はっきり言ってしまえば、人のいい奴はゴマンといる。全員入れてしまえば医学部はパンクする。それに引き替え、頭がよくて、しかもこの時代に医者になろうなどと考える奴は貴重だ。

 私が面接官なら、こう思うこともあるだろう。「こいつは人間としての品格には少々問題があると取られることもあるだろうが、記憶力と自己顕示欲の強さがひしひしと伝わってくる。実に魅力的な人材だ。将来伸びる可能性がある。何より、私の上司のX教授がこういうタイプじゃないか。ここで落として別の大学に行かれてしまったりしたら困る」と。

 どの世界、どの組織にも「人格的にやばい」人はいるだろう。アメリカの医療ドラマ、ERでもロバート(ロケット)・ロマノ先生という「人格破綻者」な先生が出てくる。ロマノ先生は診療部長なのでERのスタッフたちよりは数段上の存在で、いつもERを振り回してくれる。「ロマノ先生を見てホッとした」とは、いつか書いたことがある。


 いま冷静に考えてみると、「とかげ先生」の書いたことは正直まずいと思う。堅気の人が見たら、「なんてひどい奴だ」とか「人格障害だろう」とか言われるのは、それは当たり前のことだ。

 入学試験の面接突破して、OSCE通って、おそらくは国家試験の「面接態度に関する問題」を正解して、それでもやっぱり「他人に対する共感を欠く」とか「他者に対するいたわりが欠ける」という仲間も、何人かは思いつくことが出来る。「こっち側」にいる私の方から見てもそうなのだ。だが、そういった人材を排除する仕組みは、この業界の「内側」には存在しない。

 たとえば入学試験の段階から、患者団体の代表を面接官に加えるだとか、そういった「外圧」に頼らないと、この構造は変わらないものと考える。おそらく、「こちら側」の多くは、変える必要もないし、変わることもないと考えているだろうが。

Wednesday, February 02, 2005

芽が出てきた

 去年の夏書いた「無性生殖」「枯れた」の続きだが、今朝ふと残していたパキラの「切り株」を見てみると、なんと脇芽がのびている!

 一時はもう枯れてしまって、燃えないゴミの日に出さなきゃいけないかな、と思っていたのだが、持ち前の無精さからなかなか片づける気にもならず、ほったらかしにしていた。しかし、何を思ったか真冬の、一番気候の厳しい時期に脇芽をニョキニョキと延ばしていたわけで、なんだかうれしくなってしまう。

 と同時に、こういう植物性のしぶとさとか、生命力の強さといったものは、完全に切除し得たと思っていた癌が、新たな転移巣でニョキニョキと増殖を始める様もイメージさせるわけで、自分の中でこの喜びが、畏敬というか、どこか恐怖に似た感情につながっているのを感じる。


 つくづく因果なものだ。

いつから「医学生」になったか

 なんだか最近大学生活を総括するblogになってきている。

 私は医科大学の医学部医学科に在籍する学生であり、もうすぐ国家試験を受験する身である。故に「医学生」という呼称を名乗っても、まあヘンではないだろう。しかし、この「医学生」という言葉が個人的にあまり好きでは無いし、表であまり乱発すると無用な反感を買っても、味方を作ることにあまり役立たないように思うので、意識して避けるようにしている。

 そもそも、いつの時点で私は「医学生」というやつになったのか。世間的には、医学部医学科に入学したとたん「医学生」になるという認識があると思うのだが、果たしてそれは正しいのか。


 自分のことを思い出してみる。

 大学1年。センター試験と英語、数学、化学、生物からなる二次試験をパスし、これらの「受験科目」についての知識はそれなりにあっただろう。しかし、このころのカリキュラムは哲学、統計学、基礎生物学やドイツ語など一般教養があっただけで、直接「医学」に関係する科目は無かった。当然、知識もゼロである。この当時から「医学生」と名乗ったら、少々おこがましいだろう。

 大学2年。解剖学とそれに伴い解剖学実習が始まる。一応ここは「医学生」ということにしておかないと、何となくご遺体に申し訳ない気がした。うむ、このころは確かに「医学生」だったかも知れない。だが、「死体解剖保存法」には「教授または助教授」が解剖をするのはいい、とは書いてあるが、「医学生が解剖していい」とはどこにも書いていないのだ。となると、この「医学生」なる呼称も大した意味はないだろう。うちの場合マクロ実習は3ヶ月弱と異様に短いこともあり、また科目的にも生理学、生化学と記憶を強いられる科目ばっかりで、この時期は毎日が本当にしんどかった。

 大学3年。うってかわって、自由時間が増える。病理学や免疫学など、自由時間でじっくり基礎医学の教科書を読む時間は増えたが、教科書を読むのは医学部に限らずどの学部の学生でもやることだろう。取り立てて「医」学生と名乗ることもない。それに、聴診器の当て方、血圧の取り方も満足に出来ないのに「医学生」と名乗るのは、やはりおこがましい気がしていた。やっぱり「学生」で十分だ。

 大学4年。3年生と似たようなもの。しかし、後期から臨床講義が始まり、内科学、外科学といった「医者らしい」科目が出てきた。でも基本的に所見取ったり、心電図の解釈するとか技術レベルは、お話にならないものだ。やはり「学生」でいいだろう。

 大学5-6年。臨床実習で実際の患者さんと出会う機会も多くなった。だけど先生方には「学生さん」と呼ばれているし、やっぱり「学生」でいいんじゃないかなあ。何の学生なのかは先方もよくおわかりだろうし、とりたてて「医」をつけて呼ぶ必要性もそれほど感じない。

 現在。時折学校に行ってみたりもするが、もっぱら6年間買い貯めた教科書と問題集とともに部屋にこもっている。「学生」かどうかも怪しいもんだ。


 結論:「医学生」だったのはほぼ1年。ヘタするとこれからNEET。

 現在では、各大学のカリキュラムも変わってきて、臨床科目・基礎科目をシンクロさせながら教えるところが増えてきた。となると、後輩たちには私の頃よりずっと「医学生」の名に値する資格があるのかも知れない。

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 本当に学校の外で「医学生」と名乗ったことなんか、一度もないんじゃないかなあ。医者になってからも飛行機に乗るときなんか、職業欄に「団体職員」「技術職」とか書いてたりして。
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 1年生の頃えっちなビデオを借りようとして、某ビデオ屋の会員登録をしようとしたら、学生証見られて「え、医学生なんですね」と顔を覚えられてしまい、結局その店での目的は果たせなかった思い出がある。思い起こせば、そのころからその呼称がイヤになってしまったのかもしれない。

Tuesday, February 01, 2005

走りながら休むんだ!

 昔中学校の体育の時間、長距離走で息を切らし歩いている生徒を見つけると、体育の先生はこう怒鳴ったものだった。

 その当時は訳のわからんことを言う人だと思ったが、今は違う。

 今私がやっていることが、まさしくそれなのだ。

Monday, January 31, 2005

本を読むということ

 最近忙しくてまともな本を読む暇がない。暇がないというのは詭弁であって、本当はあるのかも知れないが、試験に関係あるもの以外の本を読むのに、強い抵抗を感じるのだ。

 古い話で強縮だが、大学に入って、まず痛感させられたことは、「自分にはものを読む力がない」と言うことだ。これはゆゆしき自体だと思った。

 まさか大学生にもなって、少なくとも日本語が読めないはずはない。そうおっしゃる向きもおられようが、実は大学生になる上で、文章を「読む」力などほとんど必要がないのだ。試験問題に出てくる文章のパターンなどほとんど決まり切っていて、センターなんか結局は5つの選択肢のうちから1つの異質なものを選べばよいのだから、せいぜい「当てはまるものを選べ」と「当てはまらないものを選べ」という2パターンの日本語さえわかればいい。(ちょっと極端か)

 私たちのような理科系の大学受験生にとっては、二次試験で「現代文」の試験が出ることなどほとんど考えなくてよかった。医科大学によっては、面接・小論文という形でその受験生の日本語力を試すところもあるが、まあ試験問題のパターンとしては決まり切っているので、対策の方も知れようというものだ。

 実際、予備校でも「小論文」の講義は用意されていた。だが、それが夜遅い時間帯に開講されていたせいと、北海道の医学部受験における「黄金パターン」を採ることに早々にして決めてしまったおかげで、他の科目に対する予習・復習の時間を勘案した上で「小論文は訓練しない」ことにした。

 何事にも反動というものはある。ここに何のかんのと書いているのも、そのときの「反動」のせいであろう。


 閑話休題。

 大学に入って、「読む力がない」と感じたのは、やはり大学指定の教科書を見たときだった。いくら読んでみても、中身が全く頭に入った気がしない。と言うのは少し極端だが、教科書に書かれている文章のうち、どこが「理解」すべき場所で、どこが「記憶」すべき場所なのか、ということがさっぱりわからないのだ。

 はてはこのオレも、LD児(学習障害児)の一人なのではないか、と思ったことさえあった。


 しかしながら考えてみれば当然すぎるほどの当然な話で、私はそれまで大学に入るまでの学習で、まともに「教科書」なるものを読んで理解したことがなかったのだ。

 もちろん、小説のたぐいは人並みに読んでいた。だが、基本的に教科書というのは、数学にしても理科にしても「これ以上の範囲から問題を出すことはないから、ここまで勉強していればよろしい」という一種のルールブックのようなものだ、とどこかで考えていたのだ。

 今どき、「教科書さえきちんと理解して読んでいれば、それなりの大学に入学できる」などとは誰も信じていないだろう。(もっとも、数年後には大学全入時代が到来するので、文部科学省のお役人が言いそうな「理想」が実現するのかも知れない。)

 従って高校時代、化学の教科書は実質「チャート式新化学IB・II」だと思っていたし、(実際高校の検定教科書も数研出版だったので、ほとんど似たような構成だった)社会科で受験科目に選択した政治・経済では、検定教科書よりも「資料集」の方に慣れ親しんだ方が得点力につながるのを熟知していた。生物も、教科書よりも様々な図が載った「資料集」の方にたくさんの線を引いて覚えていた。大学入試の生物は、「実験の結果から何を考察するか」という思考力を試すよりも、「過去行われた有名な実験の方法・結果・導き出された結論を、それぞれきちんと覚えておく」ことが点に結びつくものの方が多い。

 だが、こうした「資料集」や受験参考書には、きちんとした論理関係を持った文章が並んでいるというよりも、図や表を駆使して「ビジュアルに訴えかける」路線のものが主流であった。これを理解するのには、ほとんど文章の読解力や構成力といったものを必要としないが、それが受験成功への近道であった。


 「書く力」に関しては、大学受験の時点ですでに弱さを自覚していた。前述の通り二次試験では国語の試験こそ無いものの、生物では記述の問題が多く出る、そういう大学だったのだ。予備校でも、直前期に「生物記述対策講座」なるものを用意していて、これは私も受講したのだが、知っているはずのことをうまく自分の言葉で書けない、そういったもどかしさを感じる場面が多々あった。公平性を期する試験であるから、記述問題で満点解答を出すためには、いくつかのキーワードを逃さずに文章の中に盛り込めばいい。それだけのことだが、やけに難しいと感じたものだ。


 その当時 ---センター試験が終わって二次試験が始まるまでの間--- 浪人仲間
でも「本が読みたい」という渇望に駆られるものは少なくなかった。それほど、「まともな」本を読む機会から遠ざかっていたのだ。


 数年前、当時の有馬文部科学相が、中高生と直接の公開討論をする。そんな企画がNHK教育テレビであって、それなりに興味深く見ていた。番組の中で、ある生徒が「受験勉強で忙しくて、本を読む時間がありません。もっと本を読むことが報われるような仕組みにしてください」と言っていたのを覚えている。

 対する有馬大臣は、「なんで本を読む時間がないなんて言うの?僕の時代も、大学に入るためには、それは大変な試験があったのです。それでも受験勉強とは別に、本を読むことは十分に出来たのです。本を読む、読まないは、その個人の意欲の問題じゃないのかなあ。」というお返事であったと記憶している。

 私はそのとき、「ああ、この先生(大臣)は、実に優れた学生に囲まれて教職を送ってきたのだな」とも思ったし、「こういった考え方の人が大臣では、この先子供たちは大変になるな」とも思った。


 現在、日本で出版される新刊本は、1日180タイトルに近い(*1)と言われている。純文学からエロ本まで、こんなに図書が氾濫する時代にあって、果たして本を読むことはいいことだ、ドストエフスキーを読みなさい、文章を読んで理解することは大切な能力なんだと、次の世代に自信を持って言うことが出来るのだろうか。

 「てにをは」の使い方より、スタイルシートの書き方のほうが、生きていく上では大事なことだよ。いつかそんな時代がやってきても、私はあまり驚かないだろう。

*1 こちらの記事にある「日本では年間56~57万タイトルの書籍が流通し、毎年6万5000タイトルの新刊が出版されている。実店舗ではとても並べられないがオンライン書店ならそれが可能だ。また、実店舗では実際にその本を手に取ってみることができるという、オンライン書店にはない強みがある」という記述を参考にしました。


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 だから結局STEPとイヤーノートさえ読んでりゃいーんだよ、俺らは。「できった血液」は、いわゆるひとつの、ふきゅーのめーちょ、ってやつよ。

Sunday, January 30, 2005

紀伊國屋書店札幌大通本店閉店

 昭和47年より33年間にわたって札幌市の中心部に店を構えてきた紀伊国屋書店大通本店が、本年1月31日をもって閉店する。
 (閉店するのはテレビ塔前の地上1,2階部分であり、大通地下街オーロラタウン店は営業を続ける。)

 テレビ塔前の紀伊国屋の大看板は、「札幌大通」のシンボルの一つとも言えるものであった。中学生時代から、札幌へ上ると必ず訪れる店の一つであり、大学に入ってからもよく買い物をした。

 まあ、最近の紀伊国屋大通店は、旭屋書店コーチャンフォーなどの売り場面積の大きな他店にも押されていた感がある。また、Amazonに代表される無店舗書店の進出も大きな影響を与えただろう。

 正直な話、医学書に関して言えば、札幌の中心的な位置を占める書店としては、品揃えが今ひとつであった。ただ、医学書「専門」の書店は北海道には皆無といっていい状況で、一番品揃えがいいのは北大生協、とまで言われたこともあった。

 しかしながら、そのページを一度も開いたことがない本を、ネットでいきなり購入するのはかなり勇気の要る行為である、と私は思う。書店の店先で数ページを繰ってみたのものの、その場で購入する気にはならず、それでも後日やはりあれは買っておけば良かったのに、という本がかなりあるものだ。地方に暮らしていたときは、次に札幌に出るまでそういう本を手に入れる機会は無かったわけで、だからある程度の金額を懐に、少々「余分」と思われるものまで「買い付け」に出てしまうのが恒例だった。そのクセが今でも後を引いているような気がする。

 そういう意味でネット書店の存在は大きいのだが、実際の本を手に取る機会が減る、というのは、いろいろな意味で勿体ない気がする。米国のAmazonなどでは、一冊の本のうちあらかじめ用意された数ページを画像ファイルとして読むことが出来るが、主に索引や目次などのページであり、あれで買う、買わないを決定するには少々無理がある。


 大通店が閉店する代わりに、4月上旬札幌駅周辺に紀伊国屋が大型書店をオープンさせるそうである。現在売り場面積では北海道最大と言われている、小樽の喜久屋書店、コーチャンフォー・ミュンヘン大橋店をしのぐ規模の店舗にする予定で、まあオプションが増えるという意味では大変結構なことである。・・・となると札幌ロフトの紀伊国屋はどうなるんだろう?

 しかし、電器屋にしてもそうなのだが、最近同じような系統の店が札幌駅周辺に出来過ぎである。ヨドバシカメラとビッグカメラとベスト電器が札幌駅を取り囲むように出店しているのだが、明らかに駅前に電器屋が3つは多過ぎだ。実際3店のうちの、少なくとも1店は、明らかに出店の見通しを誤った、と言ってもいい状態なのである。

 あそこに3店舗も集中するぐらいなら、そのうち1店舗は大通に来てくれれば冬でも何とか歩いて行けたのに、と恨めしく思ったことが何度もある。マツヤデンキ、長崎屋が倒産した現在、大通にまともな電器屋は無くなってしまったからである。


 大通店が撤退した後も、前述の通り地下街の紀伊国屋は営業し続けるし、まだ三越の隣に丸善があるわけで、当面大通の書店事情は維持されるだろう。

 しかしながら、様々な地域で、それなりの規模で営業していた店舗が札幌駅から半径500mの圏内にどんどん集中していく動きは、かえって札幌という都市の魅力を奪ってしまうような気がしている。「北の大地」という表現は、私のもっとも嫌う言葉の一つだが、いくら何でも北海道の文化が集中しすぎである。

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 本日は北海道民、あるいは札幌市民でない方には全然興味のない話だったと思います。読んで頂いたそれ以外の方々、どうもすみません。

 参考:札幌大通テレビ塔周辺[Yahoo!地図情報]
    札幌駅周辺[Yahoo!地図情報]

Saturday, January 29, 2005

いわゆるひとつのrobots.txt

 robots.txtというファイルがある。これはあるディレクトリ内に置くと、そのディレクトリ以下に置いてあるファイルが、Googleなどの検索エンジンに引っかからなくなる、と言う魔法のおまじないである。正確には、検索エンジンに「ここの内容はあなたの検索範囲に含めないようお願い申し上げます」という意図を伝えるものだ。

 おまじないである、というのは、検索エンジンによってはrobots.txtの設定を全く無視してやってくる、はた迷惑なものが存在するからだ。たとえば、メールアドレスらしきものを片っ端から集めているspam業者の検索エンジンなどである。


 知っている人はとっくに知っているようなことをここにわざわざ書くのは、あるサイトで「このサイトではrobots.txtをこんな風に書いていますよ。よっぽど見られたくなかったんでしょうねえ」というような記述を目にしたからである。ふと気になったことがあったのだ。

 知っている人は知っている、と言う一方で、今ここでそんなものの存在を初めて知った、と言う方も多いだろう。普通はrobots.txtに向けてわざわざリンクを張るようなことをしないし、「私のサイトではこんなrobots.txtを使っています。どうぞごらんになってください。」という風に積極的にアピールしているところも珍しい。

 つまり、robots.txtは「絶対に見えないようには出来ないけど、出来ることなら他人に見られたくない」というファイルの一つである。

 あるサイト内容を一部の人間以外に見られたくない場合は、ユーザー名とパスワードを用いるBASIC認証を使う方法が有名である。だがrobots.txt自体に認証をかけてしまったら、検索エンジンはパスワードを知らないわけだから、検索エンジンがrobots.txtを読むことが出来ない。無意味である。

 従って、あるサイト(ここでたとえばhttp://www.example.com/とする)にrobots.txtが存在するかどうかは、手打ちでディレクトリを示す"/"以下に"robots.txt"を追加して、http://www.example.com/robots.txtとすることによって簡単に確認できる。


 行きつけのサイトで試す前に、以下のニュースを見てほしい。

 ACCS不正アクセス裁判、検察側は元研究者に懲役8カ月を求刑

 今回の事件では、元研究員はCGIフォーム送信用のHTMLソースを改変し、CGIの引数にファイル名を渡すことにより、CGI本体のファイルと個人情報が含まれるログファイルを取得したとされている。この行為そのものについては弁護側・検察側とも事実であるとして同意しており、公判では行為が「不正アクセス行為」に当たるかということが論点となってきた。
参考:slashdot.jp:ACCSがoffice氏に約744万円の賠償を請求

 CGIや引数といった、頭が痛くなるような言葉が出てくるが、問題となっているのは被告(通称office氏)が、サーバー設置者にとって見てほしくないファイルを、あるURLを打ち込むことによって簡単に見ることが出来た、というものである。

 office氏はこの結果、ACCSのサーバーにあった個人情報の一部を学会で報告し、「ACCSのサーバー管理はこんなにずさんなんですよ」と公表してしまった。これ自体は非難されて然るべき行為である。

 しかし、裁判の争点となっているのは、「URLを打ち込むことによって、簡単に見えるようなものを見てしまったからと言って、それは不正アクセス禁止法に触れるのか?」という点である。
 参考:不正アクセス行為の禁止等に関する法律

 もしこれでoffice氏が有罪になるようなことがあれば、たとえば「http://www.example.com/secret/以下のディレクトリは絶対にのぞかないでください」という、鶴の恩返しみたいな告知一つで、そこのURLを興味本位でアドレスバーに入力した人間を訴追することが出来るようになるわけだ。

 当然、あるサイトのrobot.txtを覗くことも、サイト管理者が積極的に許可していない以上違法となるだろう。

 やっぱり、どちらかが間違っているようにしか思えないのである。

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 昔、大学に入り立ての頃、師匠から「大事なファイルはそもそもネットワーク上に置くな」と言われた。今でも至言であると思っている。

Thursday, January 27, 2005

学習能力

 blogを更新する場合、まずブラウザを立ち上げ、ホスティングサービスの管理画面にログインした後、その日の記事をフォーム内に入力して、「投稿」ボタンなりを押す。これが一般的な手順である。

 ところが、blogサーバによっては、あらかじめ決められたメールアドレスに送信することによって、記事の投稿が可能であるところもある。goo blogなどでは、この方法が便利だったりする。

 bloggerにもずいぶん前からこの機能がついていた、ということを昨日知り、、早速試してみたのだが、メールのSubjectに当たる部分(記事のタイトルに相当する)がひどく文字化けすることに気づいた。しかも、メールから投稿した場合には記事内容が反映されるまでかなりのタイムラグがあったりする。

 そして気づいた。

 上のニュースが出た当時(2004年5月10日)、私は早速この機能を試してみたのだった。そして今と同じく「こら使い物にならん」とあきらめていたのだった。

 この分では春にやった分のアプローチとか大脳皮質から消え失せているんでは、と不安になってみたりして、と書きながら他人に無用のプレッシャーを与えてみるテスト。

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 でも「やらないよりは、やった方がまし」。ある意味投げやりにも聞こえるが、浪人時代、予備校の先生の口癖だったこの言葉は、ここ一番、と言うときに自分を支えてくれた言葉でもある。

Sunday, January 23, 2005

善人たちの庭

 以下に述べることは、しばらく前に受けた臨床講義の中で、ある先生が「小咄」の一つとして述べられたことであり、いわゆる「医学界の都市伝説」の一つぐらいに考えていただきたい。

 それはちょうど糖尿病の講義だった。
 えー、以上のように、糖尿病の合併症には、腎症、神経症、網膜症という重篤なものがあるわけです。

 少し前ですが、○○市の一角に、「糖尿病専門」の看板を掲げて、ある医院が建ちました。開業と同時に患者さんは満員。連日、糖尿病の患者さんでいっぱいになっておりました。

 その理由は何であったか。

 先ほど私が黒板に書いたとおり、糖尿病の治療法は、運動療法、食餌療法、薬物療法の三本柱であります。ところがこの医院では、「私の薬だけ、安心して飲んでなさい。」という大変優しい先生がやっておられて、他の内科医が言うような、「運動しろ」だとか、「食事の量減らせ」だとか、そういう厳しいこと全然言わないわけです。だから患者の間で大変評判が良く、人気があった。

 その医院が開業してから、数年たった頃。

 同じ町にある、眼科の医院が大変繁盛し出しました。そうです。件の「糖尿病専門」医院にかかっていた患者さんたちが皆、糖尿病性網膜症を来たし、眼科に受診する羽目になっていたのです。

 別の病院にいた我々は、このことについてあれこれと医局で茶飲み話しておりましたが、結局「あの医院の先生は糖尿病の治療が運動療法、食餌療法、薬物療法をそれぞれ使わなきゃいかん、ということを知らないんだろう。知らないんじゃしょうがない。」ということで落ち着きました。

 さて、ある日のこと。

 市内の医者を集めて、「現代の糖尿病を考える」というセミナーが開かれました。件の医院の先生も、市内で一番糖尿病患者を診ておられるということで、演者の一人としてお呼ばれになったのでした。

 その糖尿病医院の先生の講演内容は何であったか。

 「糖尿病の治療方針は、運動療法、食餌療法、薬物療法の三者がそれぞれ欠かすことのできないものであります」

 なんと、ちゃんと正しい糖尿病の治療方針を得々として語るわけであります。この日を境に、我々の間で彼の評価は変わりました。

 「あいつは犯罪者だ」と。

 こんな私にも、今日は少し「いい人」をやりすぎたのではないか、と自分で思う日がある。そんな時にいつも頭をよぎるのは、この話である。

Saturday, January 22, 2005

こっち側の論理、向こう側の論理

 茨城の病院(ATOKは「いばらぎ」でちゃんと変換してくれた)に勤めていた先生のblogに関する一件に関しては、いろいろ書くべきことがあるようにも思うのだが、とりあえず今は「面倒なことは先に延ばす」という方針なので、手抜きする。

 ざっと書いてみると、医者、特にジュニアレジデント(初期臨床研修医)なんて事実上病院が生活の場である以上、blogに書かれる内容が医療ネタに偏ることは当然であろう。それ以外のネタを書こうとすると、かなり無理がある。無理してまでblogは書く必要がないだろう。所詮ウンコなのだから。

 だが、どんなblogにも「サイトバレ」の問題はつきまとう。基本的にはいつ顔見知りの人間に、こんなことを書いていることがばれても、それほど人間関係に悪影響が出ないように注意して書いてきたつもりだ。だが、初めてweb上に日記を書き始めた頃 ---あまりblogなどという言葉は盛んでなく、トラックバックを通じて日記がリンクし合うことがなかった時代--- は、ある特定の人に読まれると相当まずいことになる内容も、「肝試し」の感覚で書いていた記憶がある。

 少し検索して、茨城の先生が書いていたとされるHPの痕跡を探ってみた。「ああ、あの人か」と、私も以前数回ほど見た覚えのあるところだった。

 医療者側、つまり「こっち側」の論理から書かれたblogについては、ちりん師がまとめてくださっている。私は、「向こう側」つまり、医療者でない側の方の視点に興味があったので、少しまとめてみた。あえてリンクを張らず、下記のURL元にはトラックバックも送っていない。やや不親切だが、リファラを探られると前述の「面倒なこと」になりそうなので、ここはアドレスバーにコピペでお楽しみください。

(以下のURLは随時増える可能性があります。)

まず、ここが一番厳しいコメントを出している。何をやっていて有名な人なのかは、あまりよくわからないが「有名そうな雰囲気」はよく出ている。。
http://www.dryamasaki.com/Article/2005/2005-01.html#050115
〔追記〕
医療関係者等のblog[1,2,3,4,5等とそのリンク先]によると、単にウェブに書くことだけをしなければよかった等の軽い見方が大半で、この医師の人間性を問うものはありません。厳重注意だけでよいという意見も見られます。刑事罰さえも予想される深刻さが分かっていないようです。

 なんだかいつも私がお世話になっているblogが数件ここで晒されていますが・・・。あんまり書くと「堂々と戸籍上の氏名並びに住民票上の住所を明記して、書面にてこちら(私の顧問弁護士)宛」に書かなきゃならなくなるので、こんくらいにしときます。

 あ、でも断じてこれは「不服」じゃありませんから、残念!

 他、bulkfeedからざっと検索してみた。まあ今の国内情勢から考えるとそれほど大きく扱われるニュースでもないので、「こっち側」の方々に比べるとやや内容は薄目である。
http://hasemana.cocolog-nifty.com/main/2005/01/post_83.html
http://blog.goo.ne.jp/meowcat/e/0af8ef9e88cad1683b18e609be27c281
http://markzu.exblog.jp/1569900
http://markzu.exblog.jp/1547319
http://power-power.blog.ocn.ne.jp/power/2005/01/post_13.html
http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/PrinceOfLuna/eid/86576
http://otkortho.exblog.jp/1787086
http://blog.goo.ne.jp/goocamry/e/31e69ad443de77b115ba722d74df66fb
http://blog2.fc2.com/luckyclover/?no=46
http://blog.goo.ne.jp/krkrkn/e/9f568ab8a4eea2935047d4ae12edbea1
http://yaplog.jp/chocomama23/archive/86
http://blog.goo.ne.jp/shiratori-chikao/e/67f923822c1e4b833de7cc8b2c0d81ff


ちょっと毛色が違う
http://yakkotai.at.webry.info/200501/article_6.html

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 ここ? 大丈夫ですよ、ここは。
 だって「医療系ブログ」じゃなくて「軍事系ブログ」なんだから。

Friday, January 21, 2005

ニュースを食らう

 昔々、雪印食品という会社があった。(親会社の雪印乳業はまだ存続している)。私は、毎日給食に配達されてくる雪印牛乳を飲んで育ったし、信じられないような味がする給食の中で、唯一雪印の牛乳はいつも心休まる味を提供してくれていた。

 だからある日、大阪で雪印の牛乳を飲んだお年寄りが下痢を起こして亡くなったと聞いたとき、はじめに思ったのは正直こういうことだった。「え、雪印の牛乳飲んで下痢したんなら、下痢した方に問題があるんじゃないの?」だがその後、問題の牛乳は追跡調査され、ついには北海道酪農界のシンボルとも呼べた、雪印大樹工場でブドウ球菌毒素が検出されるに至り、我々田舎道民の持っていた「そんなことがあるはずがない」という絶対の自信は根底から否定されることになってしまった。


 なかなかこういうことを道外の方に言っても理解されがたいと思う。だが、北海道なんて札幌をちょっと離れてみれば、牛にはよく遭遇するし、牛乳を満載したタンクローリーを運ぶためにあるような国道はいっぱいある。

 もう一段たとえを使う。あなたは山間の小さな町で生まれ育った人間である。小さい頃、そこのきれいな沢で遊んだこともあるし、野山を駆け回った思い出もある。ずっとそこの水を飲んで育ってきたし、やがて成長して都会に出た後も、ふるさとの水が一番うまい水だと思っていた。だがある日、保健所が検査したところ、その飲み水には相当量のヒ素が混じっていたことが判明したのだ。

 おそらくこのときあなたが感じるものは、怒りや失望といったものより、「信じられない」「ただただ驚きあきれるばかり」と言ったことではないだろうか。大学1年当時、、私の周りにいた仲間たちの間でも、事件に対する感想は似たようなものであった。特に、過疎地域出身者にその傾向が強かった。


 さて、以前「○○して食う、という表現。 」ということについて書いた。このとき私は、「そもそも土に触らずして食べている人間が、食い物に文句をつける権利があるのだろうか」と記している。また最近、「自ら経験しないものを信じることについて」ということを考えた。それらを振り返りながら、もう少し考えを進めたい。


 最近時間が無くて加工食品漬けの毎日を送っている。大袈裟に言えば私は、食品を、自分で作物を育てたり、家畜を飼ったりせずに、工場だの市場だのスーパーだの、流通機構を介して手に入れているわけだ。こうした行為によって「食」を得ている以上、その食品がどんな場所で作られたか、どんな人間によって作られたか、どんな加工が為されたのか、どんな場所で保管されたのか、私はいちいち知ろうとしない。それでも私がそれを食べるのは、「とりあえず食っても死なない品質のものをつくっているだろう」という、生産・流通機構に対する一応の信頼があるからである。

 ジャスコなどは「トレーサビリティー」をウリにしているが、店頭にある「この牛肉は甲県乙村の某さんが有機飼料で育てました」という書き文句を信じるかどうかは、すなわちジャスコという会社を信頼するか、という問題と同義である。

 店頭に並んでいる食品の中から、より新鮮で、栄養価の高そうなものを選んで購入する、というのは消費者の知恵であり、権利でもある。また、実際に食べてみた食品が腐っているかどうか、判断ができる舌を持つというのも、人間として大切なことだろう。

 だが基本的には、スーパーは売る商品一つ一つの品質に対し、責任を負うべきである。午後4時半に店に現れる目の肥えたおばさんにも、8時頃すっかり品数の薄くなった売り場をとぼとぼとぼ漁るしがない学生にも、最低限「腹をこわさないもの」が届くようにしなくてはならない。たとえ99個の新鮮でおいしいリンゴを売ったとしても、1個の腐ったリンゴを売ってしまったら、スーパーの信用はがた落ちになる。


 最近、「メディアリテラシー」という言葉が語られてきている。もっとも、メディア自体は積極的にその言葉について広めるようなことをしないのであるが。ここでは、「情報」というリンゴを扱うスーパーとして、メディア(新聞、雑誌、テレビなど)を考えてみる。

 もちろん多くのニュースを見聞きし、その多くの情報を自らの頭で分析し、どのニュースが真実で、どれがそうでないかということを考える能力を身につけるのは、大切なことである。スーパーのたとえでいえば、リンゴを買うのにさんざんこね回し、指でぐいぐい押してから選ぶおばさんみたいな態度である。

 だが残念ながら、すべての「客」がそれだけのヒマと労力のある人間ばかりではないのだ。多くの客は、明らかに汚れていそうなリンゴを避ければ、とりあえず大きくておいしそうなにおいをするのを一つ選んで、次の売り場へ向かうだろう。戦後の復興期みたいに栄養失調の時代じゃないから、まあそれでも特に問題は起きないで、毎日過ごすことが出来ている。

 同じことがニュースについても言える。日々流されている多くのニュースについて、忙しく働くマジョリティーには、「自らの頭で考え、分析する」余裕などほとんど無いだろう。従って、多くの人々が、「XX新聞という信頼できるメディアが報じているのだから、おそらく本当のことなのだろう」といった判断に頼らざるを得ない。ちょうど、「これだけでかい店出してるジャスコが、某さんちの牛だと言っているから、そうなんだろう」と同じレベルである。

 食品会社とは、そもそも少々免疫力の弱い老人や子供が食べても大丈夫だと言いきれるほどの品質基準で、食品を製造するべきであった。それが資本主義社会における企業責務というものであり、雪印乳業はこの基本的な責務を怠ったがために厳しく糾弾されたのである。

 果たしてメディアは、少なくとも事件以後の雪印乳業と同じだけ、自らの製品に対する品質保証をなし得るのだろうか。私にはとてもそうは思えない。「さあ売りました、安全に食べられるかどうかはあなたの舌にお任せします」では、まともな企業の態度では無いだろう。自らの看板に過度の自信を持ちすぎて、情報の品質管理を怠ってしまったメディアは、一度雪印のようにガラガラポンした方が良い。

 「メディアリテラシー」という言葉が、可能な限り正確な情報を提供するというメディアの責務に対する免罪符になってしまっては、本末転倒である。

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 それでもやはり、「土に触らずして食う人間」は、添加物、合成甘味料だらけの、どこから来たかも本当にはわからない食物を食うリスクを背負わねばなるまい。

Thursday, January 20, 2005

Lunascape2登場

 いつの間にかWindows用タブブラウザ、Lunascapeもversion 2系列が登場していたので紹介しておく。

http://www.lunascape2.com/

 version 1 からの大きな変更点は、IEとGecko系の双方のHTML解析エンジンを使い分けられるようになったことである。これは相当すごい。

 そんなものどっちがどっちだろうと大して変わらんだろ、と言う方もあろうかと思う。とりあえずIEと、Gecko系ブラウザ(前述したMozilla Firefoxなど)の違いを簡単に示す。
 私はブラウザを立ち上げたとき一番はじめに表示されるホームページに、ローカルのHTMLファイルを置いている。このHTMLの見え方からしてすでに、それぞれのブラウザで違って見えるのである。










(背景はQueen's Handmade Cookiesより)
 左がIEエンジン、右がGeckoエンジンを用いたときのHTMLファイルである。外枠が二重か一重かの違いだが、こうした微妙な見え方の違いは、サイト構築の際に結構気になるものだ。
 参考までにこのHTMLのスタイルシート指定を示す。
BODY { background-image: url("sub/wp-bub007.gif");
font-size:12pt;
font-weight:900;}
a:link {color:#000000;}
a:visited {color:#000000;}
H1.title {background-color:#40C040;
text-align:center;}
TABLE.palam1 {width:100%;
table-layout:fixed;
border-color:#40C040;
border-spacing:0px;
border-style:solid;
}
TD.palam2 {top:2px;
border-color:#40C040 #40C040 #40C040 #40C040;
border-color:#40C040;
border-style:solid;
}

 まあ枠線がどうのこうの言うのも細かい話だが、先日ある友人のblogに対し、まあ実際面識がある相手なので「あまりに字が小さいので読めんではないか」と文句をつけたことがある。渋々ながらも快く改変に応じてくれたのだが、今度は「こんなに大きな文字ではサイトのバランスが崩れるではないか」とメッセンジャー上で不毛な論争になった。

 視線をちょっと右に移していただければわかるとおり、普段私はFirefoxを愛用しているののだが、後日その友人のblogをIE系のブラウザで訪れてみると、なるほど確かに文字がでかい。どうやらIEとGeckoでは、フォントのサイズ指定要素small,midiumなどの解釈順位が異なるらしいのだ。

 こんなこともあるから、ご用心。


 とりあえず私の感想として、両者を比較した上でLunascape上を使うメリットは、Firefoxのように様々なExtensionを導入しなくても「とりあえずインストールしてすぐ使える」仕様にあることだろうと思う。Firefoxだと本体の他に、Tabbrowser Extensionの導入や、検索バーのカスタマイズなどをしておかないと、なかなか使いにくいかも知れない。

 逆にFirefoxの優位性は、様々なプラットフォーム(OS)上で運用できることだろう。世の中Windousユーザばかりではない。現に私は、このblogは少なくとも一人のlinuxユーザが訪れることを知っているので、基本的にGecko系ブラウザでの見え方を標準としてスタイルシートを作るように心がけた。また、version2になってからLunascapeの起動が若干重くなったようだ。

 所詮ブラウザの選択なんか「信仰」と言ってしまえばそれまでだが。

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 IEでもGeckoでも両方同じように見えるように、と考えたあげく、HTMLの内容を結局全部AA混ざりのテキストで書いてしまったことがある。

Friday, January 14, 2005

高脂血症考。

via ちりんのblog

 高脂血症治療薬云々で思い出す一冊の本がある。これである。私は書店の店先で立ち読みしただけであるが、様々な意味で「怖い」本である。正直、この本を買うと印税が著者に入り、訴訟費用に使われてしまうのか、と思うと財布を開く気になれなかった。

 確かに、スタチン類と呼ばれる一群の抗高脂血症薬には、「横紋筋融解症」という重篤な副作用が生じ得ることが知られている。そもそもスタチン類はコレステロールの体内合成を抑制する作用のある薬剤である。だが、コレステロールは人間の細胞膜を構成する上で必須の成分でもある。従って横紋筋融解症とは、スタチン類を過剰投与すると、ときに細胞膜成分が崩壊し、主に筋肉細胞が融解してしまう、という病態である。このとき、細胞の中にあったクレアチンキナーゼ(CK)という酵素が血液中に出てくるので、この値の上昇を見逃さないのが早期診断における重要点であるとされる。

 しかし、この本を読むと、初発症状が出た段階でCKの上昇が見られなかったという。そのときの医者の言い方が「何だ、このくらいのCKの値で、心配するな!」というような言い方だったそうで、それが著者のカンにさわったらしい。他にも様々なところで著者の「怒り」は炸裂している。

 いろいろWeb上を調べてみると、この著者の病態は横紋筋融解と言うよりも、むしろスタチンの服用中に、薬剤とは無関係に発症したALS(筋萎縮性側索硬化症)ではないのか、という意見をお持ちの先生方も多いようだ。だが、著者はAmazonのカスタマーレビューを始め、そうした意見を公表しているところに対し名誉毀損での訴訟をちらつかせるなど、徹底的に攻撃を加え、潰しにかかっているようで、またそのことを自分のHP上で堂々と公表している。(本当に怖いからHPにリンクは張れません。検索すれば簡単に見つかる。)

 語弊があるかも知れないが、こうした「医療クレーマー」とも呼べる人々が確かに存在するということを知っておく上で、この本は読んでおく価値があるのかも知れない。


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 高脂血症薬の処方法に関して、「じぶん更新日記」の方が述べられていることには一理あるだろう。日本の保険医療制度では、一回の診察につき処方できる薬剤は原則2週間分だけ、例外として4週間までである。しかし、高脂血症に関して言えば、薬の治療効果を見る上で本当に必要なのは3ヶ月から6ヶ月に1回の診察でいい、という意見も少なくないようだ。

 しかも、実際は診察せずに薬を処方することは違法、というタテマエがあるので、「お薬だけ」という時でも、書類上は診察料を請求せざるを得ないのである。これでは、患者側からしてみれば「なんかインチキしてるなあ」という気持ちになってしまうだろう。

 重篤な副作用を防ぐという視点にしてみたって、大事なのは「1ヶ月に1回くらい形ばかりの診察をする」ことじゃなくて、「手足のしびれ・けいれん」だとか、何かヘンだなと思ったときすぐに診察に来られるような体制を作ることじゃないのだろうか。そう考えると、必要以上に頻繁な経過観察の目的で、外来をふさいでしまうような現行の保険システムこそ、医療資源の配分上ずっとまずいことをやっているのではないか、と思う。

ウイルス性腸炎考。

 なんだか最近ロタウイルスだのサポウイルスだのSRSVだのと、「ウイルス性腸炎」に関する話題が盛んである。

 今回は老健施設で死者が出たと言うことで、マスゴミ各社も大いに取り上げているのだが、たとえ食中毒にしろ、健康な成人がウイルス性腸炎で死に至ると言うことはなかなか稀な出来事である。

 また、同じ飲食店で食事を取った人々が同じ症状を呈している、というような食中毒を示唆するような情報がない限り、実際にウイルス感染を証明する努力(糞便培養など)を、腸炎に対して行うことは少ないのである。ウイルス性腸炎に特徴的な所見は少ないし、画像や血液検査などで特異的なものがあるわけでもない。(だから老健施設の理事長先生も診断に時間を要してしまったのだろう、と僭越ながらお察し申し上げる。)

 そこで、「ウイルス性腸炎」は事実上、「よくわからないハライタ」に対してつけられてきた診断名であることも否めない。

 たとえば19歳の少年で、急に腹痛と下痢を起こしたと言って来院しているが、見たところは健康そうで、腹部所見もグル音低下ぐらいで、発熱もなく、血液も特に所見を認めないといった症例を考える。鑑別診断としてはそれこそ炎症性腸疾患(クローン病や潰瘍性大腸炎など)から「過敏性腸症候群」まで、いろいろとある。だがこの年齢の患者に対して大腸ファイバーまでやる意味は、あまりない。もちろん症状が反復したり、便に血が混じっていたりする場合は話が別だが。

 一言で言えば、そういった「おなかを壊す」はcommon diseaseの一つであり、「かぜ」と同様、病院に来ても来なくても大して予後は変わらないものの一つである。しかし、現に患者が心配して病院に来てしまっている以上、何とか病名をつけてしまわなければならない。でないと点滴一本、整腸剤一包にも保険が出ない。

 こういったときによく使われるのが「ウイルス性腸炎」だったりするのである。

 逆に言えば、こういった「あわてる必要のない腹痛」と、腹膜炎や急性膵炎、イレウスといった「本当に処置が必要な腹痛」をきちんと見分けられるかどうか、ということが医者の力量ということになる。


 それを踏まえた上で、例年この時期、センター試験の季節になるとフッと頭をよぎることがある。

 今年は57万人近くの受験生が出願しているそうだが、これだけの数がいればそのうち何人かは、試験当日緊張のあまり寝過ごす奴がいるに違いない。真っ青になった受験生のがまず考えることは、1週間後に行われる「センター試験再試験」を何とか受験できないか、ということだろう。当日急いで受験会場へ赴いたとして、一科目でも受験してしまえば、当日分の全科目について再試験を受ける権利を失うことになっている。

 従って、何とかして医者の診断書を取り、東京での再試験を受験するのが得策なのだが・・・。こういった患者が来たとき、「ウイルス性腸炎」は実につけやすい診断名だろうが、どうやら今年に限って言えばそうでもなさそうだ。「また集団食中毒か」とニュースになってしまう。

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 もちろん、診断が疑わしいものを診断書に記載するのは医師としての責任に反すると言えるし、その対価として金品を受け取れば収賄罪や業務上背任に問われることになるだろう。

 しかし、自分も浪人時代を経験し、一年間を受験対策に費やすということの重さを知っている。医者になって、思い詰めた少年の顔を前にしたとき、当日の日付の入った診断書を書く罪と、将来ある若者の、何十分の一かの人生の時間を奪ってしまうことの意味、果たして自分はどっちをとるんだろうなあ、と考えてしまう。人生この先頼むからそういう患者に出会いませんように。

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 私も国家試験の当日寝過ごしたりしませんように。1日目はいいとして、2日目、3日目の朝とか疲労がたまってて危ないと思うなあ。他の大学とか4年生が起こしてくれたりするんだろうなあ。いいよなあ。

Tuesday, January 11, 2005

医者の「医」の字には酒がある

 お久しぶりに、JIRO氏の日記へリンクさせていただく。

 まず酒は体に悪い、という科学的論拠について。国立がんセンターが大衆向けに発表している「がんを防ぐための12ヵ条」では、「お酒はほどほどに」となっている。ここも以前は「飲酒は少なければ少ないほど癌にかかる可能性が低い」という表現になっていたはずだが、少量のアルコールが虚血性心疾患、つまり狭心症や心筋梗塞を有意に減らすというデータが出てから、循環器学会との関係上穏やかな表現になっているようだ。

 癌だけに注目したとき、現在までの知見から論ずれば、アルコールの摂取量が0に近づくほど発癌可能性は低くなることに変わりはない。ちなみに、「アルコール摂取によって虚血性心疾患のイベントが少なくなる」と主張する循環器内科・外科医が、滅多に癌を専門とすることはない。だからといっては何だが、この分野には大酒家が多く、また「飲める」ことを自慢にする方が多いような気がする。


 さて、感情的な表現が出てきたので、ここからは情緒的に書くことにする。

 私は喫煙という行為も、飲酒という行為も本質的には嫌いである。だが、人間には「嫌いなことを好む」という特性が確かに存在する。その特性のために、子供はニンジンを食えるようになるし、どうしようもないデブが水泳でも始めてみようか、という気になるのである。この特性については、「パイプのけむり」の第何巻だったかは忘れたが、團伊玖磨先生も「アイス・クリーム」という題で随筆を書かれている。

 そういうわけで、私は機会的に喫煙も行うし(3ヶ月から半年に1度)、機会的に飲酒も行う。しかし、本質的にその行為は嫌いである。


 私の親類には、公務員が多く、父親もその一人であった。その関係上飲酒・喫煙には厳格であった。高校生であった時分、電車の中で隣の実業高校生に紫煙を吹きかけられながら、未成年がタバコや酒などとんでもない、ましてや医者を養成する大学ではその点実に厳しい規律があるのだろう、と考えていた。


 医科大学に入ったその日に、私は飲酒の習慣を学んだ。入学式終了後、ある部に勧誘された。その部の先輩に連れられて行った、寿司屋で飲んだビールが生涯初めての酒である。ジョッキを傾けながら、医学部という世界には、この世界なりの独特のルールがあることを感じた。その後ルールブックにはずいぶんな厚みがあることに気づいたし、中には白い文字で書かれていて読んだ気もないのに頭の中に入っているものが多々あるが、この日学んだのが、その第一ページ目だった。その数日後、教授を交えた席で未成年の1年生が大部分の中、当たり前のようにビール瓶が次から次へと運ばれてくるのを目にしたとき、その思いは強まった。

 そのときのある教授の弁が面白い。「喫煙は、若年から吸い始めるほど体に悪いという証拠があるが、酒には1年やそこら先に飲み始めたからといって大差あるという証拠はない。」このエビデンス、今に至るまで私は確認していない。

 その後酒を飲む機会は多々あった。だが、どの席においても、医者というのは酒に甘い。医者の「医」の字はその昔「醫」であって、酒の字を含むが故に医学と酒は切り離せないのだ、といえば聞こえがいいが、必ず酒を飲むよう強制したり、酒がたくさん飲めることがあたかも美徳であるがように振る舞う場面は数え切れないほど見てきた。


 医学生ならば、誰しも生化学の講義でアルコールはALDH(アルコール脱水素酵素)によって代謝されること、酒が飲める飲めないはその個人個人が生まれつきに持つALDHの活性によるところが大きく、「訓練すれば飲める」ものではないことは耳が痛くなるほど聞かされているはずであるし、試験の答案用紙にも書いたことがあるはずだ。

 それでも、今述べたような習慣や価値観を覆すことはできないでいる。もし酒席で今のような「タテマエ」を持ち出せば、たとえ医者、医学生同士の間柄でも「あいつは日本文化を理解せん奴だ」などと言われ、何かと人間関係がやりにくくなってしまう。「僕はカラオケやりませんから」などと同じレベルで、「本当の自分を見せたがらない奴」という評価になってしまうのだ。面白いことにこれがタバコだと、比較的素直に聞き入れられることが多い。(まあそれでも、不愉快そうな顔をされることぐらいは覚悟しておかなければならない)


 医科大学で6年間やってきて、未だに否定できない疑念がいくつかあるが、その中の一つに「実はマリファナは体にいいのではないか」というものがある。私が知っているのは、「マリファナは違法である」という知識である。実は文献的、実験的にきちんと調べていくと「マリファナには実に有用な成分があって、多くの人を苦痛から救い得いる可能性がある」という結論に達するのかも知れない。

 だが、公衆衛生の実習などでテーマを立てるとすれば、「マリファナやコカインのについて」とするのが「賢い医学生」のやるべきことである。なぜなら、たとえ「マリファナは実はいいものだ」という結論に達したとしても、一般に通用している社会的・倫理的通念上教授は「その結論は間違っている。あなたの選んだ文献・資料には偏りがあったに違いない」というコメントしかつけようがなく、成績得点は低いものにならざるを得ない。


 従って、試験問題の選択肢に「患者に禁煙を勧める」というものがあれば間違いなく○をつけるし、「麻薬中毒患者を診断したときは通報する」というものがあればこれも間違いなく○をつける。そのおかげで、「正しいものを2つ選べ」式の問題がずいぶん楽になる場面も確かにあるが、決して自分の信念と一致しているわけでは、ない。(いや、でもマリファナはやっていませんから安心してください)


 酒税法だとか、JTと酒造メーカーの経済的影響力とか、また禁酒法時代のアルカポネだとか、そこらへんのことを考えると、タダでさえ不景気な世の中、「酒はいかん」という方向へ世論が動くことは無いのだろう、と考えている。

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 歴史あるところの玄関には、立派な大理石に必ず旧字体で「醫學部」と刻んである。うちのところはカマボコ板に魚屋のオヤジが墨汁で書き付けたような看板に「医学部」と書いてあるだけである。
 高校時代こっそり見学に来て、この看板を見たとき、正直「ここには通いたくないな」と思った。そういうところには、受かるのである。少なくとも私の人生は、そういう風にできている。

Sunday, January 09, 2005

雲考。

今年のかぜはハラに来るという。

ヒロシマだかキタキューシューだかではお年寄りが亡くなったらしいが、私たちからしてみればヒロシマもキタキューシューもコートジボアールやパプアニューギニアみたいなもんなので、そこがどんなところだか、よくはわからないのだ。

だが、これだけはいえる。

今年のかぜはハラに来る。

私は体験した。

ギョーカイ人だけにわかる符丁で言えば、

「イチゴゼリー」

であった。

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 コキューキナイカやカンセンショーカの先生方に言わせれば、「ハラに来るかぜなど無い!」とおっしゃるかも知れないが、ここは一つ大目に見てほしい。

Wednesday, January 05, 2005

日記再考

 1月である。

 そろそろ、どこの6年生のblogを見ても、それぞれのやり方で「余裕を無くしている」さまが観察できて、やはりオレだけではないのかと気づき、それはそれで大いに楽しいのだが、1日からネタで始めてしまった以上少しまじめに書いてバランスをとることにする。


 多くの人々が1月から日記を書き始める。公衆の目に触れるblogというものと、純粋に私的なことを備忘録として書きつづる「日記」というものは本質的に区物されるべきもので、後者は「読み手」の緩やかな強制力が働かない分、続けるのが非常に難しい。

 私は毎年一冊、見開き4日間の日記帳を購入する。別に自筆でその日あったことを書き込もうというのではない。そういう試みは、まず成功しない。

 都市に住み、他人の作ったものを食らうと言うことはとりもなおさず、金を使うと言うことだ。金を使えば、多くの場合レシートをもらえる。つまり、レシートを日記帳の日付欄に貼り付けているのだ。

 この日記帳を整理して、交遊費にいくら使っただの、食費にいくら、軍事費がいくらだのと細々とした「家計簿」にすれば小金が貯まって良いのだろう。だが、元々「使うときには使う」性格なので、そのようにはしていない。

 しかし、札幌で一人暮らしを始めてから都合7冊、このレシート帳が存在するわけで、そのページを繰ってみると、自分がその日、どこにいて、どんなことを考えて経済活動を行っていたのがが、おぼろげながらも思い出されてくる。そのくらいの効用はあるものだ。

 引っ越しに備えて、そろそろ自分の身の回り品を処分しなければならないときが来ている。だが、この多分にかさばるレシート帳を捨てるべきなのかどうか、今ひとつ踏ん切りがつきかねている。

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 カードの利用明細なども、とりあえず張りまくっているので、捨てるときはよほど注意して「焼く」かどうかしないと、個人情報から体重まで丸裸にされそうで怖い、ということも理由の一つである。

Saturday, January 01, 2005