Friday, January 21, 2005

ニュースを食らう

 昔々、雪印食品という会社があった。(親会社の雪印乳業はまだ存続している)。私は、毎日給食に配達されてくる雪印牛乳を飲んで育ったし、信じられないような味がする給食の中で、唯一雪印の牛乳はいつも心休まる味を提供してくれていた。

 だからある日、大阪で雪印の牛乳を飲んだお年寄りが下痢を起こして亡くなったと聞いたとき、はじめに思ったのは正直こういうことだった。「え、雪印の牛乳飲んで下痢したんなら、下痢した方に問題があるんじゃないの?」だがその後、問題の牛乳は追跡調査され、ついには北海道酪農界のシンボルとも呼べた、雪印大樹工場でブドウ球菌毒素が検出されるに至り、我々田舎道民の持っていた「そんなことがあるはずがない」という絶対の自信は根底から否定されることになってしまった。


 なかなかこういうことを道外の方に言っても理解されがたいと思う。だが、北海道なんて札幌をちょっと離れてみれば、牛にはよく遭遇するし、牛乳を満載したタンクローリーを運ぶためにあるような国道はいっぱいある。

 もう一段たとえを使う。あなたは山間の小さな町で生まれ育った人間である。小さい頃、そこのきれいな沢で遊んだこともあるし、野山を駆け回った思い出もある。ずっとそこの水を飲んで育ってきたし、やがて成長して都会に出た後も、ふるさとの水が一番うまい水だと思っていた。だがある日、保健所が検査したところ、その飲み水には相当量のヒ素が混じっていたことが判明したのだ。

 おそらくこのときあなたが感じるものは、怒りや失望といったものより、「信じられない」「ただただ驚きあきれるばかり」と言ったことではないだろうか。大学1年当時、、私の周りにいた仲間たちの間でも、事件に対する感想は似たようなものであった。特に、過疎地域出身者にその傾向が強かった。


 さて、以前「○○して食う、という表現。 」ということについて書いた。このとき私は、「そもそも土に触らずして食べている人間が、食い物に文句をつける権利があるのだろうか」と記している。また最近、「自ら経験しないものを信じることについて」ということを考えた。それらを振り返りながら、もう少し考えを進めたい。


 最近時間が無くて加工食品漬けの毎日を送っている。大袈裟に言えば私は、食品を、自分で作物を育てたり、家畜を飼ったりせずに、工場だの市場だのスーパーだの、流通機構を介して手に入れているわけだ。こうした行為によって「食」を得ている以上、その食品がどんな場所で作られたか、どんな人間によって作られたか、どんな加工が為されたのか、どんな場所で保管されたのか、私はいちいち知ろうとしない。それでも私がそれを食べるのは、「とりあえず食っても死なない品質のものをつくっているだろう」という、生産・流通機構に対する一応の信頼があるからである。

 ジャスコなどは「トレーサビリティー」をウリにしているが、店頭にある「この牛肉は甲県乙村の某さんが有機飼料で育てました」という書き文句を信じるかどうかは、すなわちジャスコという会社を信頼するか、という問題と同義である。

 店頭に並んでいる食品の中から、より新鮮で、栄養価の高そうなものを選んで購入する、というのは消費者の知恵であり、権利でもある。また、実際に食べてみた食品が腐っているかどうか、判断ができる舌を持つというのも、人間として大切なことだろう。

 だが基本的には、スーパーは売る商品一つ一つの品質に対し、責任を負うべきである。午後4時半に店に現れる目の肥えたおばさんにも、8時頃すっかり品数の薄くなった売り場をとぼとぼとぼ漁るしがない学生にも、最低限「腹をこわさないもの」が届くようにしなくてはならない。たとえ99個の新鮮でおいしいリンゴを売ったとしても、1個の腐ったリンゴを売ってしまったら、スーパーの信用はがた落ちになる。


 最近、「メディアリテラシー」という言葉が語られてきている。もっとも、メディア自体は積極的にその言葉について広めるようなことをしないのであるが。ここでは、「情報」というリンゴを扱うスーパーとして、メディア(新聞、雑誌、テレビなど)を考えてみる。

 もちろん多くのニュースを見聞きし、その多くの情報を自らの頭で分析し、どのニュースが真実で、どれがそうでないかということを考える能力を身につけるのは、大切なことである。スーパーのたとえでいえば、リンゴを買うのにさんざんこね回し、指でぐいぐい押してから選ぶおばさんみたいな態度である。

 だが残念ながら、すべての「客」がそれだけのヒマと労力のある人間ばかりではないのだ。多くの客は、明らかに汚れていそうなリンゴを避ければ、とりあえず大きくておいしそうなにおいをするのを一つ選んで、次の売り場へ向かうだろう。戦後の復興期みたいに栄養失調の時代じゃないから、まあそれでも特に問題は起きないで、毎日過ごすことが出来ている。

 同じことがニュースについても言える。日々流されている多くのニュースについて、忙しく働くマジョリティーには、「自らの頭で考え、分析する」余裕などほとんど無いだろう。従って、多くの人々が、「XX新聞という信頼できるメディアが報じているのだから、おそらく本当のことなのだろう」といった判断に頼らざるを得ない。ちょうど、「これだけでかい店出してるジャスコが、某さんちの牛だと言っているから、そうなんだろう」と同じレベルである。

 食品会社とは、そもそも少々免疫力の弱い老人や子供が食べても大丈夫だと言いきれるほどの品質基準で、食品を製造するべきであった。それが資本主義社会における企業責務というものであり、雪印乳業はこの基本的な責務を怠ったがために厳しく糾弾されたのである。

 果たしてメディアは、少なくとも事件以後の雪印乳業と同じだけ、自らの製品に対する品質保証をなし得るのだろうか。私にはとてもそうは思えない。「さあ売りました、安全に食べられるかどうかはあなたの舌にお任せします」では、まともな企業の態度では無いだろう。自らの看板に過度の自信を持ちすぎて、情報の品質管理を怠ってしまったメディアは、一度雪印のようにガラガラポンした方が良い。

 「メディアリテラシー」という言葉が、可能な限り正確な情報を提供するというメディアの責務に対する免罪符になってしまっては、本末転倒である。

--
 それでもやはり、「土に触らずして食う人間」は、添加物、合成甘味料だらけの、どこから来たかも本当にはわからない食物を食うリスクを背負わねばなるまい。

No comments: