Monday, January 31, 2005

本を読むということ

 最近忙しくてまともな本を読む暇がない。暇がないというのは詭弁であって、本当はあるのかも知れないが、試験に関係あるもの以外の本を読むのに、強い抵抗を感じるのだ。

 古い話で強縮だが、大学に入って、まず痛感させられたことは、「自分にはものを読む力がない」と言うことだ。これはゆゆしき自体だと思った。

 まさか大学生にもなって、少なくとも日本語が読めないはずはない。そうおっしゃる向きもおられようが、実は大学生になる上で、文章を「読む」力などほとんど必要がないのだ。試験問題に出てくる文章のパターンなどほとんど決まり切っていて、センターなんか結局は5つの選択肢のうちから1つの異質なものを選べばよいのだから、せいぜい「当てはまるものを選べ」と「当てはまらないものを選べ」という2パターンの日本語さえわかればいい。(ちょっと極端か)

 私たちのような理科系の大学受験生にとっては、二次試験で「現代文」の試験が出ることなどほとんど考えなくてよかった。医科大学によっては、面接・小論文という形でその受験生の日本語力を試すところもあるが、まあ試験問題のパターンとしては決まり切っているので、対策の方も知れようというものだ。

 実際、予備校でも「小論文」の講義は用意されていた。だが、それが夜遅い時間帯に開講されていたせいと、北海道の医学部受験における「黄金パターン」を採ることに早々にして決めてしまったおかげで、他の科目に対する予習・復習の時間を勘案した上で「小論文は訓練しない」ことにした。

 何事にも反動というものはある。ここに何のかんのと書いているのも、そのときの「反動」のせいであろう。


 閑話休題。

 大学に入って、「読む力がない」と感じたのは、やはり大学指定の教科書を見たときだった。いくら読んでみても、中身が全く頭に入った気がしない。と言うのは少し極端だが、教科書に書かれている文章のうち、どこが「理解」すべき場所で、どこが「記憶」すべき場所なのか、ということがさっぱりわからないのだ。

 はてはこのオレも、LD児(学習障害児)の一人なのではないか、と思ったことさえあった。


 しかしながら考えてみれば当然すぎるほどの当然な話で、私はそれまで大学に入るまでの学習で、まともに「教科書」なるものを読んで理解したことがなかったのだ。

 もちろん、小説のたぐいは人並みに読んでいた。だが、基本的に教科書というのは、数学にしても理科にしても「これ以上の範囲から問題を出すことはないから、ここまで勉強していればよろしい」という一種のルールブックのようなものだ、とどこかで考えていたのだ。

 今どき、「教科書さえきちんと理解して読んでいれば、それなりの大学に入学できる」などとは誰も信じていないだろう。(もっとも、数年後には大学全入時代が到来するので、文部科学省のお役人が言いそうな「理想」が実現するのかも知れない。)

 従って高校時代、化学の教科書は実質「チャート式新化学IB・II」だと思っていたし、(実際高校の検定教科書も数研出版だったので、ほとんど似たような構成だった)社会科で受験科目に選択した政治・経済では、検定教科書よりも「資料集」の方に慣れ親しんだ方が得点力につながるのを熟知していた。生物も、教科書よりも様々な図が載った「資料集」の方にたくさんの線を引いて覚えていた。大学入試の生物は、「実験の結果から何を考察するか」という思考力を試すよりも、「過去行われた有名な実験の方法・結果・導き出された結論を、それぞれきちんと覚えておく」ことが点に結びつくものの方が多い。

 だが、こうした「資料集」や受験参考書には、きちんとした論理関係を持った文章が並んでいるというよりも、図や表を駆使して「ビジュアルに訴えかける」路線のものが主流であった。これを理解するのには、ほとんど文章の読解力や構成力といったものを必要としないが、それが受験成功への近道であった。


 「書く力」に関しては、大学受験の時点ですでに弱さを自覚していた。前述の通り二次試験では国語の試験こそ無いものの、生物では記述の問題が多く出る、そういう大学だったのだ。予備校でも、直前期に「生物記述対策講座」なるものを用意していて、これは私も受講したのだが、知っているはずのことをうまく自分の言葉で書けない、そういったもどかしさを感じる場面が多々あった。公平性を期する試験であるから、記述問題で満点解答を出すためには、いくつかのキーワードを逃さずに文章の中に盛り込めばいい。それだけのことだが、やけに難しいと感じたものだ。


 その当時 ---センター試験が終わって二次試験が始まるまでの間--- 浪人仲間
でも「本が読みたい」という渇望に駆られるものは少なくなかった。それほど、「まともな」本を読む機会から遠ざかっていたのだ。


 数年前、当時の有馬文部科学相が、中高生と直接の公開討論をする。そんな企画がNHK教育テレビであって、それなりに興味深く見ていた。番組の中で、ある生徒が「受験勉強で忙しくて、本を読む時間がありません。もっと本を読むことが報われるような仕組みにしてください」と言っていたのを覚えている。

 対する有馬大臣は、「なんで本を読む時間がないなんて言うの?僕の時代も、大学に入るためには、それは大変な試験があったのです。それでも受験勉強とは別に、本を読むことは十分に出来たのです。本を読む、読まないは、その個人の意欲の問題じゃないのかなあ。」というお返事であったと記憶している。

 私はそのとき、「ああ、この先生(大臣)は、実に優れた学生に囲まれて教職を送ってきたのだな」とも思ったし、「こういった考え方の人が大臣では、この先子供たちは大変になるな」とも思った。


 現在、日本で出版される新刊本は、1日180タイトルに近い(*1)と言われている。純文学からエロ本まで、こんなに図書が氾濫する時代にあって、果たして本を読むことはいいことだ、ドストエフスキーを読みなさい、文章を読んで理解することは大切な能力なんだと、次の世代に自信を持って言うことが出来るのだろうか。

 「てにをは」の使い方より、スタイルシートの書き方のほうが、生きていく上では大事なことだよ。いつかそんな時代がやってきても、私はあまり驚かないだろう。

*1 こちらの記事にある「日本では年間56~57万タイトルの書籍が流通し、毎年6万5000タイトルの新刊が出版されている。実店舗ではとても並べられないがオンライン書店ならそれが可能だ。また、実店舗では実際にその本を手に取ってみることができるという、オンライン書店にはない強みがある」という記述を参考にしました。


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 だから結局STEPとイヤーノートさえ読んでりゃいーんだよ、俺らは。「できった血液」は、いわゆるひとつの、ふきゅーのめーちょ、ってやつよ。

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