Friday, November 26, 2004

自ら経験しないものを信じることについて

 しばらく前のことになるが、外である堅気の女性と話していたときのこと。私は何の気なしに、大学内のうわさ話を漏らしていたのだが、こんなつっこみに、はっとさせられた経験がある。

 「ねえ、自分で実際に見たことでもないのに、何でそんなに簡単に信じるわけ?」

 元々私は話し言葉がうまくないせいもあるが、そのときは言葉に詰まってしまった。


 それからしばらくの間、そのことについて考えていたが、ふとあることに思い至った。そもそも、私が医者になる上で、「常識」として受け入れなければならない知識の中で、実際に経験できることというのはどれくらいあるのだろう?

 たとえばブドウ糖やタンパク質、脂肪が体の中でどうエネルギーに変わるか、といったことを扱う「代謝」という学問がある。その経路図はたとえばこんな風になっていて、覚えていなければならないことなのだが、ここに書かれている「酵素」のうち、自分で結晶を見たことがあるもの、またケミカルに定量した経験があるものはゼロに等しい。

 また、代謝分野で各段階の一つ一つについて検証した論文について当たろうとすると、おそらく広辞苑を遙かに超える分量のものを読まなければならないだろう。生化学の教科書一つでも広辞苑一冊くらいはあるのに、そこまで検証している暇な学生はいない。どんな疑い深い学生でも、教科書に書かれていることをそのまま「事実」として受け入れざるを得ないところなのである。さもないと目前の試験という、もっとリアルな現実を乗り越えられない。

 従って代謝の知識はいわば「常識」と考えられているし、代謝経路のどの酵素が失われるとどんな病気が起こるか、という事柄については他人に説明できなくてはならないことになっている。代謝酵素欠損病にはTay-Sachs病だとか、Hurler症候群だとかいろいろ人の名前が付いた病気があって、本当に苦労させられるのだが、実際私はその患者に一人も出会ったことが無い。試験には必ず出る。

 我々は一年生の頃からずっと、こういった「自ら経験し得ないこと」をあたかも自分で見聞きしたかのように受け入れ、そして人に話すといったことを繰り返してきたのである。これは構造的に「宗教」と変わらない。


 「聖書には全能の神が人間を作ったと書いてある。それはA社から出版された聖書にもそう書いてあるし、B社のも同じだ。また、私の尊敬するH神父も、神が人間を作ったことについて実に筋が通った解説本を書いている。うちの父さんも、母さんもそう言っているし、教会で出会う人の中でこのことを疑っている人はいない。多くの人が一様に信じることだから、『神が人間を作った』というのは否定しがたい事実だ」

 結構似たようなことをやってきた。


 もちろん、宗教でも医学でも、このような構造が成り立つ上には、その個人が属するコミュニティーに対して絶対の信頼を置いている、ということが前提となる。

 医学界の有名な「お経」として、「ヒポクラテスの誓い」というものがある。医科大学によっては卒業式で「ご唱和」させられることもあるくらい有名なものだが、ふつうこの「誓い」は、『害をなすな』など、医の基本的な倫理を規定するものとして語られることが多い。しかし、ここではあえて注目されることの少ない、以下の文言に注目したい。

私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。


 ここに書かれているのは「医学」という、一つのコミュニティーに対する絶対的な帰依である。いわば兄弟の契りによって、同じ医師であるもの同士は基本的に信頼しあうべきである、ということが書かれているのだ。


 もちろん、盛んに言われている「EBM」に対しても、これと同じようなことが言える。

 例を挙げる。ある白血病に対する治療法に対して、薬●×▲の組み合わせがいいのか、それとも■△○の組み合わせがいいのか、といった問題がある。白血病に対しては、現在非常に細かい分類がなされているので、本来的にはこれらの分類ごとに最適な治療方針が存在するはずだ。だが、まだまだ「これが完璧だ」という治療法を確立するのは難しく、数年ごとに治療法はアップデートされるのが普通である。

 従って、●×▲と■△○の組み合わせのどちらがいいか、という問題は、相当数の患者数を対象に検定しなければならないのだが、前述のように細かい分類がなされているので、一つの施設内において同じ分類の症例が多数そろう、ということは考えにくい。従って多くの病院の間で行われた治療方針の選択とその結果を、厚労省の研究班なりといったところにデータとして送り、集約化して初めて「こちらの方が優れている」という結論になる。

 つまり、大規模臨床試験において「全部私が見た」という人は存在しない。だが、個々のデータに対する信頼と、学会などの正統性に基づく権威の元に、次世代の治療方針(ガイドライン)が決定されていく。実際に現場で治療に携わる医療者は、そのガイドラインが正しいプロセスに基づいて検証されていることを前提として、眼前の患者に対する方針を決定する。

 学会などが、本当に正しいプロセスを経てガイドラインを決定しているのか、臨床家が疑問を抱くことも時々ある。そういう場合は、根拠となった臨床試験の結果、論文などを自ら集めて検証することも可能なのだが、多忙な日常の中でそこまでやる臨床医はごく少数である。多くはそういった権威への「信頼」を根拠にして、目の前の患者に責任を負うのである。


 ちまたではよく「医者は互いにかばい合う」などといわれている。また、EBMにおいて「権威者のアドバイス」はエビデンス(治療方針を決定するための根拠)として最も低いものの一つに分類されている。

 しかしながら、医学という学問が成立する上では、「コミュニティーに対する信頼」というものが不可欠な要素であることも、また事実なのである。なんだかんだと言って、100名近くの若者を6年間も一つの集団におく、という教育プロセスについては、この信頼感の醸成、と言う要素があるのではないか、などと邪推してみる。

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 昔ある医者の書いた文章の中で、「医者というものは、論文や教科書で見聞きした患者のことを、実際に自分が診たかのように記憶してしまうことがあるものだ」という記述を目にしたことがある。そのときは「んなこたーあるわけねーじゃねーか、何言ってんだこのオッサンは」と思った。

 だが、今は十分に起こりえることだと考えている。むしろ文章の中の記述を、まるで実際に目の前で起こっていることのように考えられる想像力がある人こそ、優れた医者なのではないかと思っている。

 そう考えてみると、「私はキリストの復活を見た!」などと言う人を笑ってもおられないのかも知れない。

Thursday, November 25, 2004

除隊検定

 紆余曲折があったが、今日で卒業試験が終了した。卒業試験に通ればあと2ヶ月後に国家試験を受験し、その後(受かっているかどうかの不安を胸に)沿岸警備隊本隊に配属となる。卒業試験に通り、国家試験に落ちるとめでたくNEETの仲間入り。

 どこの大学でもそうなのだろうが、卒業試験に通るための勉強と、国家試験に合格するための努力はかなり異なる。

 たとえば、卒業試験では同じような病態に対しても外科と放射線科では全く違った結論の問題を作る傾向にある。外科はとにかく「切った方がいい」というような問題を作りたがるし、放射線科は「IVR(切らない治療)の方が体に負担をかけないし、幅広い患者に適用できる」といった結論を作りたがる。内科が問題を作ると多分この中間ぐらいの結論で、「何cmまでの~に関してはIVRでいい」ということを問題にしたがる。

 前もって「過去問」を見ているせいで対処できるのだが、そういうところで頭の「スイッチ」を切り替えるのは実に疲れるものだ。国家試験はある程度問題の選別が行われているため、こういったところは気にしなくていい。

 もう一つ気になったのは「~という報告が多い」という選択枝である。厳密に考えると、その問題の真偽を判定するためには、最近の学会誌やなんやらにすべて目を通さなければならないわけで、学生のレベルを遙かに超えることを要求している。百歩譲ってそうしたとしても「多い」かどうかはその人の主観によるのである。

 そもそも科学的な情報のレベルには

 学会報告・原著論文<レビュー論文<紀要・展望<専門書<教科書

 といったヒエラルキーがあるとされている。

 左に行くほどフレッシュな情報で量的にも膨大(*1)だが、10年たってみると全くの間違いであった、ということになっているかも知れない、信頼度の低い情報でもある。一方、右へ行けば行くほど出版物の数は少なくなる。しかしいわゆるその道の「権威」と呼ばれる人々が編者となって、下位の情報源からまず間違いないだろう、というレベルの情報を選不プロセスがあるので、比較的長い時間を経て検証され得た情報が載っていることになる。

 試験に出していいのはせいぜい「専門書」レベルのことである。たとえば「癌にはアガリクスが効く!」などということは絶対に国家試験に出ない。新しい情報だが、確かな検証に耐えていないからだ。

 しかし、各講座の中でそれぞれの研究テーマを有している以上、「学生にはやはり最新の情報に触れてもらおう」ということで、ずいぶんマイナーなことを試験に出してしまうところがある。また、血液腫瘍などの分野では、かなり標準治療の世代交代が早く、最新の情報を知っていないと話にならない、ということもある。

 学生としては、なるべく「教科書」レベルの知識で済んでほしい、と思うところだが、なかなかそうもいかないのである。ただし、隣の大学の人の「常識」と全く違うことを、ウチでは喜々として教えているのではないか、という一抹の不安を感じてしまう。


 それはとりもなおさず、私が田舎者である所以なのだろう。

 (だが4年生を対象に実施した試行試験では、今までウチのCBT(*2)の成績はガタガタだったらしい。それはつまり、あまりにマイナーなことばっかり教えてる、という証明じゃないのかな、なんてね)

(*1)一年間に出版される原著論文を積み重ねたとすると、医学分野だけでも優に富士山を越えてしまう高さになると言われている。どんなに優秀な医者が一年中患者を診ずに論文だけ読み続けたとしても、このすべてに目を通すのは事実上不可能である。

(*2)来年度から医学部4年生を対象に義務づけられる臨床実習前の試験。全国統一基準で実施され、しかもコンピューターで一人一人ランダムに選ばれた問題が出題されるといった特徴がある。アメリカ本国で行っているUSMLE STEP1を植民地でもマネたといわれている。

Monday, November 22, 2004

この48時間

 3時間しか寝ていないし、変なお注射も打っていないのに眠くない。

 明日あたり相当に「クル」のではないかと思っている。

Sunday, November 21, 2004

グローバル・ポジショニング・システム

GPSで居場所が通知される携帯電話?(高木浩光@自宅の日記)

 実際私もGPSケータイを持ってはいるが、いちいち作動させるたびに莫大なパケット料が発生するし、電力をかなり消費するので「ここ一番」でしか使っていない。

 確かに5メートルの誤差で、第三者が携帯電話の持ち主を特定できるとしたら、それはそれで恐ろしい監視社会の実現だろう。「エネミーオブアメリカ」の実現だ。困るのは、「いらない機能つけないでくれ」というユーザーの意図が携帯メーカー側には通じにくいことだ。新しい機種で、GPSもカメラ機能もついていない製品を探すのはとても難しい。

 そもそもケータイについているGPSというものが、本当に衛星からの電波を拾っているのか、私にはその仕組みがよくわからん。衛星からの電波を拾うとすれば、何で屋内でもちゃんと地図が表示されるのだろうか。衛星放送のアンテナだってわざわざ屋外におかなきゃいかんのに。ある人は「いや、衛星じゃなくて地上の基地局から三角測量してるだけですよ」と、ウソとも本当ともつかないことを言って私を混乱に陥れてくれた。

 いっぺん山奥の「圏外」エリアでGPSを作動させてみよう、本当に衛星の電波を拾っているならば、基地局からの電波が届かなくても位置がわかるはずだ・・・ってこりゃだめか。位置がわかっても地図がダウンロードできない以上、どっちにしてもエラーになるのだ。

 高木氏はセキュリティーの専門家であるがゆえに、この人の日記には「イッパン人」のわれわれからすると考えすぎなんじゃないか、と思う部分も散見されるのだが、の最後「あるいはもしや、犯人はこれを見たために、殺害の意思を……??」とある部分だけでも読む価値はある。

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 「昔ジーコはカシマサッカースタジアムの看板の位置で、フィールド内の位置を把握していた」という。私も基本的に、初めて行く土地には地図と磁石を携えるようにしている。

Thursday, November 18, 2004

枝葉はゆれても・・・

あえてリンクも張らなきゃコメントもしないが、爆笑しますた。

GET Firefoxと、言ってみるテスト。

 私の愛用のブラウザはMozilla Firefoxである。今まではいわゆる「お試し版」であったが、このたび正式版1.0がリリースされたので広告してみる。

 いわゆるオープンソースソフトフェアの一つであり、平たく言うとタダである。兄貴分のMozilla(メーラー、ブラウザ、HTMLエディタ、IRCクライアントが一緒になっている)に比べると、大変軽くて起動しやすい。また、拡張機能Extensionによって、様々な機能を後から「つけたし」できるのが大きな特徴である。

 おすすめの拡張機能は、Tabbrowser ExtensionWeatherFoxである。

 Firefoxはタブブラウザーだが、素にインストールしただけでは今ひとつタブブラウジングの利点が生かし切れない。そこでTabbrowser Extensionの出番だ。WindowsユーザならLunascapeを愛用する人も多いだろうが、この組み合わせでほぼLunascapeと変わらない使用感を提供できる。

 WeatherFoxは、ある特定の地点の「今の天気」を表示する。・・・・って、自分で窓の外みればいいだけの話だが、外気温も表示されるので室外温度計の代わりに(?)なる。

 前にも述べたが、このページは実はFirefoxでみると微妙に変なところがあるのだが、それは見る人の楽しみを奪うため書かない。

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 Sleipnir作者を襲った悲劇:一刻も早くこの泥棒がとっつかまることをお祈り申し上げる。

Sunday, November 14, 2004

BODY COUNT

「制圧作戦ほぼ完了」 ファルージャで1000人殺害[共同通信]

イラク暫定政府のダウード国務相は同日、記者会見し「制圧作戦が一部の武装勢力の拠点は残っているが、作戦はほぼ完了した」とし、これまでに武装勢力約1000人を殺害、約200人を拘束したことを明らかにした。

 ふつう戦闘行為において「何人殺したか」という記録は不正確になりがちであるし、味方の残虐性を強調するきらいがあるということで、積極的に発表されることは珍しい。しかしながら、今回米軍はこの数字を前面に出している。


 正規軍同士が正面を切ってぶつかる会戦では、敵味方のにらみ合う戦線(前線)が形成される。従って、戦争を進めていく上で、自分たちの軍隊が挙げた「成果」はどれだけ戦線が的の本拠地に近づいたか、ということになる。終結したことになっている「イラク戦争」の時は、「連合軍はバグダッドまであと何kmまで迫りました」であって、「連合軍は何人殺しました」という報道ではなかったはずだ。

 また、戦線で生じた死傷者は、それぞれが後送するため、敵側に生じた正確な死傷者数というものはわかりにくい。従って、会戦が一段落してのち、それぞれが主張する数字がメディアに載ることになる。

 ところが、今回のような明確に占領すべき拠点が決まっていないで(米軍は一応ファルージャ市役所前に新イラク国旗を立てて見せたが、そこが敵の本拠ではないだろう。ザルカウィも捕まらなかった)、また小部隊が独立した行動をとって襲ってくるゲリラ戦では、敵味方が入り乱れるため、前線の移動を持って具体的な「成果」とすることができない。


 従って、こういう場合には、確かに殺して死体袋に詰めた敵兵の数(ボディーカウント)を披露することでしか「我が軍はこんなにがんばりました」とアピールできないのである。

 しかし、そもそも相手はゲリラ兵(つまり、市民から明確に区別しうる統一された軍服を着用していない)なのだから、はっきり言って死体袋の中身が全部兵隊なのかどうかもわからない。極端な話を言えば、適当にそこら辺の市民を撃ち、「手榴弾を投げてきたゲリラ兵だ」と主張することもできる。まさに「殺せば殺すほどほめられる」状況なのだから、成績アップのため、そういうがんばり方をする兵隊がいないとも限らない。

 戦争の成果がボディーカウントによって記述されるようになった状況は、40年前のインドシナ半島に酷似している。なんだかいやな予兆である。

Saturday, November 13, 2004

医療過誤報道を読む

医療過誤:心臓手術で死亡、執刀医を聴取 埼玉の病院[毎日MSN]

 新聞記事には、「偏らない視点」が求められると、一般的にはそう思われている。従って、このような医療事故(*)の記事で、「病院 vs. 患者遺族」の構図が成り立つときには、記者は双方の言い分を記事にしなくてはならず、苦労することだろう。


 以下は完全に個人の邪推であることをご了承いただきたい。

 第2段落目の「関係者らによると~」から第3段落の全部、そしておそらく第4段落の「午後4時ごろ~」の一文までは病院側の説明による。ビデオカメラで手術を中継してくれるような、よほどオープンな病院でない限り、手術室は事実上の「密室」である。従ってこの部分の記述に何しては、そのとき「中にいた人間」の証言に頼るしかない。

 「午後9時ごろ~」から、第5段落の終わりまでは家族から記者が聞いたことだろう。「午後9時ごろ~家族は『~』という」と、第5段落の最後「~という」の2文は、記者が明示的に伝聞形で書いている。

 問題になるのは、「しかし、医師は経緯について『心臓の動きが鈍くなったため、人工心肺を装着したら血管がはく離した』と説明したが、心臓の傷には触れなかった。」という一文である。やや恣意的な解釈だが、病院側はきわめて婉曲的な表現で(もちろんそれ自体避けるべき行為だが)傷を付けたことを説明したが、家族は動転して覚えていなかった、という可能性がある。しかしこの一文は伝聞形で書かれていない。

 修辞上記者が連続する表現を避けたのだろうが、読み方によってはここがテープレコーダーや、署名されたInformed Concentの記録といった証拠に基づく「事実」であるようにも受け取れる。訴訟上も、ここは「真実の隠蔽」なら慰謝料等の算定に大きく影響するポイントだ。


 全体的にみると、どこからどこまでが病院の言い分で、どこまでが患者遺族側の言葉なのか、それとなくは知れる、なかなかフェアな記事だと思うのだが、記事というものの持つ本質的な問題を考えるため、あえてここに記してみた。

(*)あえて今の段階で「過誤」という言葉を使うことを私は避ける。何でだ、と言われれば「そう訓練されているから」と答えることにする。

布石の国

ちりんのblogKU。

日本軍事情報センターのWhat's New 11月12日分。

 もし東シナ海に原潜が沈没し、爆発すれば、海流に乗って放射能を帯びた海水が日本に向かって流れてくる。爆発しなくとも、海底に沈んだ原潜を回収することは至難の業である。いやそれ以上に、艦内に乗り込んでいる乗員の命が奪われることになる。ロシアのクルスク原潜沈没事故を忘れたのか。

 (中略)

 どうして政府やマスコミは今回の異常事態に気がつかないのか。すでに中国は潜水艦救難艦や潜水艦曳航船を出動させた。ここで日本政府が中国政府に関係なく、救助のために海自の潜水艦救難艦を派遣しても文句は言われない。

 このままでは日本はサムライの心を知らない冷血漢になってしまう。急げ、無駄であってもいいから急げ。

 確かに中国海軍の原潜がなんらかの事故を起こしている可能性は、100%否定できるものではないだろう。だが、「領海内で放射能漏れが起きる事態を避けるために、日本の海自が救難艦を出せ」というのはいかがなものだろう。

 その論理でいけば、「放射能漏れを恐れるが故に海上自衛隊は、領海内に侵入してくる原子力潜水艦を絶対に撃沈できない」ということになってしまう。まさに「張り子の虎」だ。

 それでは、何のために自衛隊はディーゼル潜水艦やアスロックといった装備を所有し、訓練しているのか。どこか日本列島から離れた、外国の海で潜水艦を沈めるためなのか。それこそ「専守防衛」に反するだろう。

 緊急事態が起こったのであれば、どこの国の潜水艦であろうと浮上して、堂々と国旗を掲げて航行すればよいだけの話である。このような潜水艦の航行の仕方は、国際法上許容されている。浮上した潜水艦を友軍の救難艦が助けにくる、というのであればそれこそお茶の一杯も出してやればいいだろう。緊急浮上が技術上不可能で、しかも何百キロも航行できる状態、というのは考えにくいのである。

 むしろ、速力10ノット、蛇行しながら中国本土へ移動、というのはあとで「事故を起こして思うように操船ができなかった」と言い逃れをするための方便であろう、と私は考える。やはり目的は日本側の反応を探り、海底の地形を測量するためであり、あらかじめ救難艦が付近に展開していた、というのも、国際政治の場で弁解の余地を残すため中国側が打った巧妙な布石であろう、とみる。そういえば「布石」という言葉も囲碁の国、中国から来たのだ。

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 だから「医療系ブログ」じゃないんですってば。

Thursday, November 11, 2004

漠然とした「態度」でクビにできるか

「笑顔ない」理由に解雇は無効[asahi.com]

 女性は98年から、入院患者の身の回り世話する介護員として、1年の雇用契約の更新を続け4年3カ月間働いていた。ところが、02年6月、病院側から「笑顔がない」「不満そうなオーラが出ている」などを理由に、契約の更新を拒否された。


 医師国家試験には禁忌肢というものがあり、3日間の試験日程中で出題されるたくさんの問題の中から、「やってはいけない」選択枝を2つ(問題数ではなく、選択枝数だ)選ぶと、たとえそのほかの問題がすべて正解であったとしても問答無用で不合格になる。

 近年の国家試験では「笑顔がない」とか、「患者に対する態度がデカい」とか、態度を問題にする選択枝に禁忌肢がある、といわれている。去年の問題では、「私は外科の専門医だから安心して手術を受けるように、と強く説得する」が禁忌であった、とささやかれている。(数年前から問題文・解答が非公開になったので、実のところ厳密な基準はわからない。)

 教官たちから「医学生たるもの、態度に留意するように」(・・・教授になればまあ何やってもいいのだろうが)と日頃やかましく言われ、試験までやらされた身からすると、意外な判決ではある。

 それこそOSCEの時には、あらかじめ講義で「にこやかな笑顔を患者に向けるように注意せよ」と言われていたのに、本当の試験で実際そのようにしたら、「患者の前でニヤけながら診察するな!」と減点を食らった仲間もいたようで、こういったものをどう評価するかというのは、裁判長の言うとおり「主観」の問題だろうと思う。

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 もっともここの病院名で検索すると、雇用関係を巡って過去にも何度か訴訟があったらしい。今回もそのシリーズの一つなのだろうか。

Wednesday, November 10, 2004

存在感を示す

陸自、4万人減に猛反発 財務、防衛の攻防本格化[河北新報]
空自戦闘機300から216機に 財務省の削減案に防衛庁が強く反発[Yahoo! 産経新聞]
装備費削減めぐり過熱/攻める財務省、守る防衛庁[東奥日報]

不審潜水艦:沖縄・先島の領海内潜航 海上警備行動を発令[毎日MSN]

 財務省は防衛予算を削りたくて削りたくて仕方がないようだ。だが、忘れてならない点が一つだけある。

 軍隊は、その存在価値を示すためなら、いつだって戦争を「作れる」のだ。それは歴史が証明している。

 あくまでもこれは仮定の話だが、航空自衛隊が発足して以来、スクランブル(緊急発進)の回数は19,000回を超えている。もしこのうちの一回でも、「電気系統のトラブルにより」自衛隊機がミサイルを発射していたらどうなったか?

 これまでも中国の潜水艦ぐらいはちょくちょく領海を侵犯していたが、あえて政治的判断で行動を起こさなかっただけなのではないか。そういう「ネタ」は自衛隊としていくつか把握しているものがあって、出すべき時に出してきているだけなのではないか。

 そう考えることもできる、というだけの話だが。

 防衛予算は、文民的思考しか持たない人から見ると無駄の固まりであり、いくら削ってもいいところに見えるのだろう。だが、軍隊というのは国家を転覆しうるほどの「実力」を持った集団であり、それをいかに文民政府が使いこなすか、という問題は現代国家における最大のテーマである。

 「文民統制」を厳格に法で定めているアメリカ合衆国にしても、実際は軍産複合体が合法的なやり方で政治に強く干渉しているのは、皆のよく知るところである。

○○対▲▲の壮絶なる戦い

NHKの労組が海老沢会長への辞任要求を正式決定[asahi.com]

 NHKの職員でつくる日本放送労働組合(日放労、約8500人)は9日、中央委員会を開き、相次ぐ不祥事への対応の仕方に問題があったとして、経営側に対し、海老沢勝二会長の辞任を求めることを正式に決めた。要求書は10日に提出する予定。日放労が経営トップの辞任を求めるのは、1948年の組合結成以来、初めてという。
 岡本直美書記長によると、チーフプロデューサーによる番組制作費の着服が7月に発覚して以来、「NHKはきちんと説明責任を果たしていない」として受信料の支払いを拒否する視聴者が相次いでおり、「このままでは業績が好転するとは思えない」と判断したという。

 NHKなんか受信料払ってもらえなくても、いざとなれば国庫という「打ち出の小槌」があるんだろうな、と思っていたのだが、下の資料を読むと予算のほとんどは、やはり受信料に依存していることがわかる。

平成16年度 収支予算と事業計画(要約)(PDF)[NHK発表資料]

 つまり、NHKにとって「受信料支払いを拒否される」というのは、民間放送にとっての「スポンサーが離れる」のと同じくらいの意味を持つ、それこそ死活問題であるわけだ。

 ただ一つ引っかかるのは、罰則規定こそ無いもののNHKの受信料を払うことは放送法上の義務である。そもそもの起源からして、民間放送とNHKは対立関係にあるわけだが、民放側が「NHKの不祥事のせいでこんなに受信料拒否が増えていますよ」ということを報道番組で盛んに言うのは、ある意味不法行為をそそのかしていることになりはしないのだろうか。

 もちろん、事実をありのままに言うのは「報道の自由」そのものである。しかし、「NHKの受信料を払わないのは一応法律違反に当たります」ということを言わないでいるところには、「報道の中立」を軽視する姿勢が見え隠れしている。

 しばしばゆがんだ形で現れるものの、「中立」に何より気を遣ってきたのがNHKであることも確かだ。

 どっちにしろ、今回の海老沢会長辞めろコールは、何かによって扇動を受けているような気がする。「民間防衛」の読み過ぎだろうか。

新聞協会は、またNHKの「商業化」を批判しているという。NHKの肥大化を批判するなら、なぜ郵貯のように「民営化しろ」という話が出てこないのか。それは、現在の民放の番組がひどすぎるからだ。いしいひさいちの漫画でいえば、レベルの低い「地底人」NHKが、それよりも低い「最底人」民放と闘っているという図である。
池田信夫 blogより。

 考えてみれば、読売新聞=日本テレビのように、テレビ局と新聞社がそれぞれ系列関係にある、というのは日本のマスコミ界特有の構図である。これに対してNHKは、新聞のようなほかのメディアを所有していない。(NHK出版は日刊紙を出してるわけではない)。したがって日本テレビのニュースで報道されたことは必ず同じ論調で読売新聞に載ったりするのだが、ことに今回のNHK不祥事の件に関してはテレビも新聞も各社足並みをそろえて「叩く」わけで、逆説的に翼賛体制と言えなくもない。

 受信料もペイパービュー制にしろ、というのは昔からよく言われていることだが、そうなるとますます商業ベースのスカパー!なんかと変わらなくなってしまうのではないか、という気がする。

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 しかし、上でリンクした放送法32条は「NHKの放送を受信することができるテレビをお持ちの場合」といっているわけで、「うちのテレビはどうがんばってもNHKが受信できない北朝鮮仕様だ!」って言う人がいたらどうするのだろう。払わなくていいのかな。

 チューナー付きケータイは受信料払わなくていいとか、いまいちそこらへんのルールがよくわからない。

Monday, November 08, 2004

リアルを教えるということ

 短機関銃版にも書いたが、中学校で生徒自身から採血させて血球を観察させた先生が問題にされているらしい。

生徒の血液使い理科授業 和歌山・橋本の男性教諭[共同通信]

 いろいろ感ずるところがあるので本編でも書いておくことにする。

 現在の教育課程がどうなっているのか詳しくは知らないが、私が中学生だった頃、心臓の仕組みを理解させるのに「左心室」「左心房」「右心室」「右心房」といった用語が出てきた。

 当時の理科の先生はなかなか都会的で、「試験で点が取れるような教え方」というものを心得ていた人であった。従って、心臓はこのように描けるようにしろ、と教えてもらった。

 すなわち、数学の「単位円」を書くように、小さな円と、それを仕切る十字型の直線を描く。これが心臓になる。次に、「体循環」「肺循環」を円の外に描く。その後、消しゴムを使って動脈、静脈の入り口を作り、左心系と右心系の対応を間違えないように大血管と弁を書き加え、一応の完成をみる。

 ほとんど中学校の理科(高校入試の問題を解くための理科)は、この図で間に合ってしまうのだった。本当にあのころはなんていい先生だろうと思っていた。


 さて、大学に入ってから解剖学の時間最初に習ったことの一つに「左心室は決して『左』に無いし、『右』にあるからといって必ずしも右心室とは限らない」ということがある。

 たとえば、ブラックジャックにも出てきた「内臓全転位症」という病気があるが、「左にあるのが左心室」と定義してしまうと、ずいぶん変な話になってしまう。いくつかの心臓の病気を考える上では、「どちらが左心系か?」ということを決めるのはとても大事なことだが、専門家は主にこれを「弁の位置」を基準にして考えている。

 ちなみに、権威ある解剖学書の一つであり、オンラインで公開されているGray's Anatomyでは心臓はこう描かれている。少なくとも円と十字で書ききれるような、単純な位置関係でないことはおわかりになると思う。(たぶん今回の件に文句をつけるような親御さんは、きわめて写実的な上のような絵を見せても「グロいもの子供に教えるな」と激怒されるのだろう。)


 しかし、現行の教育課程ではたとえ高等学校に進んだとしても「生物を採らない」で卒業することは可能になっているし、医療系・生理系の学部に進まなかった大学生はことによると「円と十字」の心臓を心に描いたまま大人になっているのかもしれない。

 もちろんそれでも立派な大人になれることを否定はしないが、「せめて血球ぐらい見せてやれよ」と思うのも事実である。


 私は大学の系統解剖の時、教官が皮神経を剖出して見せてくれたとき、「これが神経だ」といわれて現物を見せられても「いや、こんなあからさまなものが神経のわけないだろう」と本気で思っていた。

 それまで座学で習った「神経」といえば、なにやら黒板の上に、一本だけ足を長く伸ばしたクラゲのような図で描かれたものであったし、二本の平行線の間にプラス記号とマイナス記号がたくさん書かれたものでもあった。それだけ「神経」に対して、ある種神秘的なイメージを抱いていたのだった。

 実際目の前にある黄色い繊維質の一件を見せられたとき、それが今まで教科書で習ってきた「神経」であることを、知識として受け入れはした。だが、神経が目に見えるものであり、場合によっては縫合することもできるものだ、ということを心の底から納得するには、相当長い期間を要したのである。実を言うと系統解剖終わってからだったような気がする。


 「実物を見る」という機会は大切にしなくてはいけない。今だからこそ、そう言える。



 また、いくつかのblogで、「先生は感染に対する配慮が足りなかった」という意見がみられたが、これに対しても少し述べておきたい。

 まず、「消毒」と「滅菌」の違いについて確認しておきたい。「消毒」とは、病原性のある微生物を取り除く操作のことであり、「滅菌」とは病原性のあるなしを問わずすべての微生物を殺す操作のことを指す。皮膚などは「消毒」できるが、「滅菌」するのは不可能だ。

 医療従事者が採血するときには、必ずガスなりガンマ線なりで「滅菌」された注射器・注射針を用いるのが常識である。それは、感染を起こさないことはもちろんだが、採取した検体内に余計な微生物が混入していれば検査結果を狂わせることになるからでもある。

 記事では「熱消毒した針と消毒液」を用いた、と書いてある。器具をガスバーナーの炎の中にくぐらせる、というやり方は、「火炎滅菌」と呼ばれ、注意深く行えばこれはかなり信頼性の高い「滅菌」法の一つである。従って、記事にある「熱消毒」は我々がふつう目にする用語ではないが、この先生が大学で培養法や無菌操作を学んでいた方であれば、針からの感染はほぼ心配しないでいいレベルであったことが推測される。

 しかし、針でつついた程度の傷から重大な感染症が起こる、ということはほとんど心配しないでいいようにも思える。もちろん、生まれつきASDやVSDといった心疾患を抱えている子供については配慮する必要があるだろう。しかし、ふつう針で刺した後は絆創膏くらい巻くだろうから、たとえば破傷風だとか、あるいは菌血症になって死ぬだとかいうことは考えなくていいレベルの話だ。そんなのあればたぶんLancetぐらい載るぞ。

 この場合問題となるとすれば、むしろ採血手技を行った後の針の行方である。原則的に「血は汚いものと仮定せよ」というのは、さっきまで述べたこととは逆説的だが、医療の常識である。(これについて詳しく説明するとさらに長くなるので割愛する)。従って、針はすべて「感染性廃棄物」として処分すべきなのだが、中学校や高校の理科教育でその予算があるのだろうか。

 また、「他の人が使った針は絶対にさわらない」ことも生徒に徹底させる必要があるだろう。気にするとすればそんなところだ。

Wednesday, November 03, 2004

この船に何人乗せるのか

 あまりに長いので、項を分けたが『移民政策』からの続きである。

 「トリビアの泉」では「2003年のデータで計算すると 西暦3000年に27人になる」と言っていた。まさか27人まで減ることは有り得ないとしても、我々の日本国は、たとえば2100年までにはどれくらいの人口であるべきなのだろうか。

 その国家戦略というものが見えてこないのである。果たして、人口減少を受け入れるのか否か、それさえも見えてこない。Jリーグでさえ百年先を見ているのに。

 人口減少を受け入れるか否かで、たとえば具体的に次のような目標が立てられるだろう。(数値は適当だが)

[その1]日本国は,2100年までに人口8,000万人を目指す。
[その2]日本国は、2100年も人口12,000万人を維持する。

さらに、[その2]に対して、次のようなオプションが考えられる。
  [その2A]日本人8,000万人と、移民4,000万人の多民族国家を目指す。
  [その2B]純粋に日本人だけで12,000万人の単民族国家を維持する。

[その1]を選択した場合、人口減による国力の低下は否定しようがない。日本はもはや世界のリーダー、いやアジアのリーダーたる立場を目指さない。それは韓国か中国か、ともかく最近とみに伸長しつつある新興国家へ譲り渡し、ひたすら「老人の、老人による、老人のための福祉国家」を目指して邁進する。「ノーベル賞受賞者を100人出す」などといった幻想は諦めて、たとえば高度先進医療に投入していた資源はすべて地域医療に回すことにする。

 だが、おそらくこういう政策は、大多数の国民自体が望まない。某政党が公約に掲げているような政策であり、そこがたいした得票を得ていない事実が、如実に示していることである。


[その2A]を選択した場合。海外からの労働力輸入を積極的に推進する。フランスやアメリカのような多民族国家を理想におくのである。将来的には、青い目で金髪の人物が日本国総理大臣の座に着くことも考えられる。

 だがもし、日本が多民族国家へと変遷を遂げた場合、ある日本民族の一家系にすぎない「天皇家」が、果たして日本国の象徴たることが許されるであろうか?すなわち、多民族国家への移行の過程で、必ず憲法改正と共和制への移行を議論しなければなるまい。現在はまだ「事実上の単一民族国家」と自称することが可能であり、天皇を「最大のタブー」とすることが可能な時代であるが。


[その2B]の選択は、多くの国民が無意識に「そうであればいい」と望んでいることではあるが、実現が非常に困難な選択枝である。現況の出生率は1.39程度であり、長期的な人口減少は避けられないと言われている。

「日本の出生率低下の要因分析:実証研究のサーベイと政策的含意の検討」 伊達雄高 清水谷諭[内閣府経済社会総合研究所]
 次に、出生率低下の諸要因の中で、女性の就業と賃金上昇による機会費用の増大については、数多くの実証分析が蓄積されており、ほとんどの分析で、子供をもつ機会費用の増大が出生率を押し下げる方向に作用することが明らかになっている。こうした就業と育児・出産の二者択一が出生率を押し下げていること、さらに、女性の高学歴化などを踏まえ、就業と育児・出産のトレードオフが人的資本蓄積にマイナスの効果を与えることを踏まえれば、女性の就業と育児・出産の両立を可能にする政策が不可欠である。



 私は、出生率を上昇に転じさせるためには、今まで考えられてきた「家庭は子育ての基盤である」という考え方を捨てねばならないのではないか、と考えている。つまり、「産む人」と「育てる人」の分離を考えるべき時にきているのではないか、と思うのだ。

 子供は6歳に達した時点で原則全員、全寮制の公立小学校へ入学させる。両親に会うことができるのは、夏休みや冬休みといった長期休暇の時だけである。従って、子供の生育・教育に関しては、教諭が大きな権限と責任を担うことになる。その代わり、産んだ親の方はほぼ1年に10ヶ月の間、自らの業務に専念できることになる。

 希望する両親に対しては、ゼロ歳児から公的育児サービスを受けられることにする。少々きつい言い方をすれば「産み捨て」を可能にするわけだ。


 とんでもないことを言う、とお思いだろう。私も、とんでもないことを書いていると思う。

 しかし、現実としてこういう方向へ進むのではないか、という根拠がいくつかある。

 まず第一に、高齢社会の実現とともに、「年寄りは家庭で面倒をみる」という概念は崩壊した。デイサービスや訪問介護というシステムができて、「それはあくまでもお年寄りが家庭で暮らせるよう支援するシステムなのです」と言われる人がいるかもしれない。しかし、「老人介護の問題は、個人や家族でカバーしきれる問題じゃないんだ」というコンセンサスが得られるようになってきたこと、これが大きい。

 つまり、「子供の養育」も、個人・家庭の単位から「社会として担うべきシステム」にシフトしても、そうおかしくはないだろう、ということである。

 もう一つの問題は、家庭そのものが子供の育成に対する力を失いつつある、と言うことである。きょうだいの数も少なく、核家族化が進んだ現在、子育ての経験は蓄積されず、「子供とどう接していいかわからない」という親が増えている。また、虐待によって失われる命も多いのである。いっそのこと、子育てはすべて「その道のプロ」に任せることにした方がいいのではないだろうか?

 最新作は見事にコケたようだが、「ハリー・ポッター」シリーズがベストセラーになったのも、実はこの要素があるのではないか、と考えている。ハリーの親は彼が幼い頃に亡くなり、以後叔父の家に引き取られて育てられるが、虐待同然の仕打ちにあう日々。そんなある日、魔法学校からの入学許可証が届く。魔法学校でハリーは親密な友情と、厳しくも暖かい教師たちに囲まれて、一人前の魔法使いへと成長していく・・・というストーリーには、「失敗した家庭」と「(集団)教育への期待」というテーマが隠れている。



 いずれにせよ、私などのあずかり知らぬところでどうやら[その2A]へ向けて、動き出しているようである。

移民政策

フィリピンからの看護師、介護士受け入れへ FTA交渉[asahi.com]
 看護師や介護士の受け入れに関する日本側の案は(1)日本語の習得と日本の国家資格の取得を条件とする(2)特定活動ビザで3~4年、日本に滞在できる(3)国家資格取得後は就労目的ビザで長期在留できる、というもの。日本政府関係者によると、フィリピン側は、日本案を了解した、という。また、受け入れ人数とともに、現地での日本語の学習期間や費用負担などは今後の検討課題となる。

2004年10月29日付の記事である。

 フィリピンは看護師や介護士の「輸出」にかけては実績のある国であり、スウェーデンなど北欧の国々が高い福祉政策を維持できているのも、実は安価なこれらの労働力を利用できているからだ、という説がある。

 そういった意味で、私はフィリピン人看護師の「質」に関しては、想像よりも高いのではないか、と考えている。だが、看護職という一種の聖域ながらも、日本政府が「労働力」を目的とした移民政策を決定したことの意味は大きい。

 相当数の看護師が国内に長期在留することを認めれば、その多くは日本で家庭を築き、永住を望むようになるのは明らかなであり、実質的な移民受け入れと考えられるからである。

本来、こういったことは100年単位での国家ビジョンがなければやるべきでない、と思うのであり、彼/彼女らの職務内容よりも、むしろそのことについての疑念が残るのである。