Friday, November 26, 2004

自ら経験しないものを信じることについて

 しばらく前のことになるが、外である堅気の女性と話していたときのこと。私は何の気なしに、大学内のうわさ話を漏らしていたのだが、こんなつっこみに、はっとさせられた経験がある。

 「ねえ、自分で実際に見たことでもないのに、何でそんなに簡単に信じるわけ?」

 元々私は話し言葉がうまくないせいもあるが、そのときは言葉に詰まってしまった。


 それからしばらくの間、そのことについて考えていたが、ふとあることに思い至った。そもそも、私が医者になる上で、「常識」として受け入れなければならない知識の中で、実際に経験できることというのはどれくらいあるのだろう?

 たとえばブドウ糖やタンパク質、脂肪が体の中でどうエネルギーに変わるか、といったことを扱う「代謝」という学問がある。その経路図はたとえばこんな風になっていて、覚えていなければならないことなのだが、ここに書かれている「酵素」のうち、自分で結晶を見たことがあるもの、またケミカルに定量した経験があるものはゼロに等しい。

 また、代謝分野で各段階の一つ一つについて検証した論文について当たろうとすると、おそらく広辞苑を遙かに超える分量のものを読まなければならないだろう。生化学の教科書一つでも広辞苑一冊くらいはあるのに、そこまで検証している暇な学生はいない。どんな疑い深い学生でも、教科書に書かれていることをそのまま「事実」として受け入れざるを得ないところなのである。さもないと目前の試験という、もっとリアルな現実を乗り越えられない。

 従って代謝の知識はいわば「常識」と考えられているし、代謝経路のどの酵素が失われるとどんな病気が起こるか、という事柄については他人に説明できなくてはならないことになっている。代謝酵素欠損病にはTay-Sachs病だとか、Hurler症候群だとかいろいろ人の名前が付いた病気があって、本当に苦労させられるのだが、実際私はその患者に一人も出会ったことが無い。試験には必ず出る。

 我々は一年生の頃からずっと、こういった「自ら経験し得ないこと」をあたかも自分で見聞きしたかのように受け入れ、そして人に話すといったことを繰り返してきたのである。これは構造的に「宗教」と変わらない。


 「聖書には全能の神が人間を作ったと書いてある。それはA社から出版された聖書にもそう書いてあるし、B社のも同じだ。また、私の尊敬するH神父も、神が人間を作ったことについて実に筋が通った解説本を書いている。うちの父さんも、母さんもそう言っているし、教会で出会う人の中でこのことを疑っている人はいない。多くの人が一様に信じることだから、『神が人間を作った』というのは否定しがたい事実だ」

 結構似たようなことをやってきた。


 もちろん、宗教でも医学でも、このような構造が成り立つ上には、その個人が属するコミュニティーに対して絶対の信頼を置いている、ということが前提となる。

 医学界の有名な「お経」として、「ヒポクラテスの誓い」というものがある。医科大学によっては卒業式で「ご唱和」させられることもあるくらい有名なものだが、ふつうこの「誓い」は、『害をなすな』など、医の基本的な倫理を規定するものとして語られることが多い。しかし、ここではあえて注目されることの少ない、以下の文言に注目したい。

私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。


 ここに書かれているのは「医学」という、一つのコミュニティーに対する絶対的な帰依である。いわば兄弟の契りによって、同じ医師であるもの同士は基本的に信頼しあうべきである、ということが書かれているのだ。


 もちろん、盛んに言われている「EBM」に対しても、これと同じようなことが言える。

 例を挙げる。ある白血病に対する治療法に対して、薬●×▲の組み合わせがいいのか、それとも■△○の組み合わせがいいのか、といった問題がある。白血病に対しては、現在非常に細かい分類がなされているので、本来的にはこれらの分類ごとに最適な治療方針が存在するはずだ。だが、まだまだ「これが完璧だ」という治療法を確立するのは難しく、数年ごとに治療法はアップデートされるのが普通である。

 従って、●×▲と■△○の組み合わせのどちらがいいか、という問題は、相当数の患者数を対象に検定しなければならないのだが、前述のように細かい分類がなされているので、一つの施設内において同じ分類の症例が多数そろう、ということは考えにくい。従って多くの病院の間で行われた治療方針の選択とその結果を、厚労省の研究班なりといったところにデータとして送り、集約化して初めて「こちらの方が優れている」という結論になる。

 つまり、大規模臨床試験において「全部私が見た」という人は存在しない。だが、個々のデータに対する信頼と、学会などの正統性に基づく権威の元に、次世代の治療方針(ガイドライン)が決定されていく。実際に現場で治療に携わる医療者は、そのガイドラインが正しいプロセスに基づいて検証されていることを前提として、眼前の患者に対する方針を決定する。

 学会などが、本当に正しいプロセスを経てガイドラインを決定しているのか、臨床家が疑問を抱くことも時々ある。そういう場合は、根拠となった臨床試験の結果、論文などを自ら集めて検証することも可能なのだが、多忙な日常の中でそこまでやる臨床医はごく少数である。多くはそういった権威への「信頼」を根拠にして、目の前の患者に責任を負うのである。


 ちまたではよく「医者は互いにかばい合う」などといわれている。また、EBMにおいて「権威者のアドバイス」はエビデンス(治療方針を決定するための根拠)として最も低いものの一つに分類されている。

 しかしながら、医学という学問が成立する上では、「コミュニティーに対する信頼」というものが不可欠な要素であることも、また事実なのである。なんだかんだと言って、100名近くの若者を6年間も一つの集団におく、という教育プロセスについては、この信頼感の醸成、と言う要素があるのではないか、などと邪推してみる。

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 昔ある医者の書いた文章の中で、「医者というものは、論文や教科書で見聞きした患者のことを、実際に自分が診たかのように記憶してしまうことがあるものだ」という記述を目にしたことがある。そのときは「んなこたーあるわけねーじゃねーか、何言ってんだこのオッサンは」と思った。

 だが、今は十分に起こりえることだと考えている。むしろ文章の中の記述を、まるで実際に目の前で起こっていることのように考えられる想像力がある人こそ、優れた医者なのではないかと思っている。

 そう考えてみると、「私はキリストの復活を見た!」などと言う人を笑ってもおられないのかも知れない。

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