Wednesday, November 03, 2004

この船に何人乗せるのか

 あまりに長いので、項を分けたが『移民政策』からの続きである。

 「トリビアの泉」では「2003年のデータで計算すると 西暦3000年に27人になる」と言っていた。まさか27人まで減ることは有り得ないとしても、我々の日本国は、たとえば2100年までにはどれくらいの人口であるべきなのだろうか。

 その国家戦略というものが見えてこないのである。果たして、人口減少を受け入れるのか否か、それさえも見えてこない。Jリーグでさえ百年先を見ているのに。

 人口減少を受け入れるか否かで、たとえば具体的に次のような目標が立てられるだろう。(数値は適当だが)

[その1]日本国は,2100年までに人口8,000万人を目指す。
[その2]日本国は、2100年も人口12,000万人を維持する。

さらに、[その2]に対して、次のようなオプションが考えられる。
  [その2A]日本人8,000万人と、移民4,000万人の多民族国家を目指す。
  [その2B]純粋に日本人だけで12,000万人の単民族国家を維持する。

[その1]を選択した場合、人口減による国力の低下は否定しようがない。日本はもはや世界のリーダー、いやアジアのリーダーたる立場を目指さない。それは韓国か中国か、ともかく最近とみに伸長しつつある新興国家へ譲り渡し、ひたすら「老人の、老人による、老人のための福祉国家」を目指して邁進する。「ノーベル賞受賞者を100人出す」などといった幻想は諦めて、たとえば高度先進医療に投入していた資源はすべて地域医療に回すことにする。

 だが、おそらくこういう政策は、大多数の国民自体が望まない。某政党が公約に掲げているような政策であり、そこがたいした得票を得ていない事実が、如実に示していることである。


[その2A]を選択した場合。海外からの労働力輸入を積極的に推進する。フランスやアメリカのような多民族国家を理想におくのである。将来的には、青い目で金髪の人物が日本国総理大臣の座に着くことも考えられる。

 だがもし、日本が多民族国家へと変遷を遂げた場合、ある日本民族の一家系にすぎない「天皇家」が、果たして日本国の象徴たることが許されるであろうか?すなわち、多民族国家への移行の過程で、必ず憲法改正と共和制への移行を議論しなければなるまい。現在はまだ「事実上の単一民族国家」と自称することが可能であり、天皇を「最大のタブー」とすることが可能な時代であるが。


[その2B]の選択は、多くの国民が無意識に「そうであればいい」と望んでいることではあるが、実現が非常に困難な選択枝である。現況の出生率は1.39程度であり、長期的な人口減少は避けられないと言われている。

「日本の出生率低下の要因分析:実証研究のサーベイと政策的含意の検討」 伊達雄高 清水谷諭[内閣府経済社会総合研究所]
 次に、出生率低下の諸要因の中で、女性の就業と賃金上昇による機会費用の増大については、数多くの実証分析が蓄積されており、ほとんどの分析で、子供をもつ機会費用の増大が出生率を押し下げる方向に作用することが明らかになっている。こうした就業と育児・出産の二者択一が出生率を押し下げていること、さらに、女性の高学歴化などを踏まえ、就業と育児・出産のトレードオフが人的資本蓄積にマイナスの効果を与えることを踏まえれば、女性の就業と育児・出産の両立を可能にする政策が不可欠である。



 私は、出生率を上昇に転じさせるためには、今まで考えられてきた「家庭は子育ての基盤である」という考え方を捨てねばならないのではないか、と考えている。つまり、「産む人」と「育てる人」の分離を考えるべき時にきているのではないか、と思うのだ。

 子供は6歳に達した時点で原則全員、全寮制の公立小学校へ入学させる。両親に会うことができるのは、夏休みや冬休みといった長期休暇の時だけである。従って、子供の生育・教育に関しては、教諭が大きな権限と責任を担うことになる。その代わり、産んだ親の方はほぼ1年に10ヶ月の間、自らの業務に専念できることになる。

 希望する両親に対しては、ゼロ歳児から公的育児サービスを受けられることにする。少々きつい言い方をすれば「産み捨て」を可能にするわけだ。


 とんでもないことを言う、とお思いだろう。私も、とんでもないことを書いていると思う。

 しかし、現実としてこういう方向へ進むのではないか、という根拠がいくつかある。

 まず第一に、高齢社会の実現とともに、「年寄りは家庭で面倒をみる」という概念は崩壊した。デイサービスや訪問介護というシステムができて、「それはあくまでもお年寄りが家庭で暮らせるよう支援するシステムなのです」と言われる人がいるかもしれない。しかし、「老人介護の問題は、個人や家族でカバーしきれる問題じゃないんだ」というコンセンサスが得られるようになってきたこと、これが大きい。

 つまり、「子供の養育」も、個人・家庭の単位から「社会として担うべきシステム」にシフトしても、そうおかしくはないだろう、ということである。

 もう一つの問題は、家庭そのものが子供の育成に対する力を失いつつある、と言うことである。きょうだいの数も少なく、核家族化が進んだ現在、子育ての経験は蓄積されず、「子供とどう接していいかわからない」という親が増えている。また、虐待によって失われる命も多いのである。いっそのこと、子育てはすべて「その道のプロ」に任せることにした方がいいのではないだろうか?

 最新作は見事にコケたようだが、「ハリー・ポッター」シリーズがベストセラーになったのも、実はこの要素があるのではないか、と考えている。ハリーの親は彼が幼い頃に亡くなり、以後叔父の家に引き取られて育てられるが、虐待同然の仕打ちにあう日々。そんなある日、魔法学校からの入学許可証が届く。魔法学校でハリーは親密な友情と、厳しくも暖かい教師たちに囲まれて、一人前の魔法使いへと成長していく・・・というストーリーには、「失敗した家庭」と「(集団)教育への期待」というテーマが隠れている。



 いずれにせよ、私などのあずかり知らぬところでどうやら[その2A]へ向けて、動き出しているようである。

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