Thursday, September 30, 2004

RSSリーダーを使ってみる

 最近新たに「blog」サービスを始めたところには、必ずRSSだのATOMだのXMLだのといったワケのわからんリンクが張ってある。

 RSSっていったい何なんだ。

 私などがここに書くより、もっとちゃんと解説してあるサイトは数々あるので、詳しいことは書かないが、私の理解としては「ページ更新をわかりやすくするシステム」ということだ。

 たとえば、いつもこのblogにお越しになる方々には、「はてなアンテナ」経由の方が多い。私もユーザーの一人だが、「はてなアンテナ」はサイトに更新されたテキストを取得する仕組みである。

 たいていの場合はそれでもうまくいくのだが、たとえばblogの中には横にカレンダーを表示するようセッティングしてあるものがあったりする。たとえば明日10月1日になると、一斉にそれらのblogでは9月のカレンダーから10月のものに置き換わるわけで、「はてなアンテナ」の方式だとそれを拾ってしまうのである。

 実際、読み手の関心があるのは「記事の内容」であるから、これで「更新」が検出されてしまうのは紛らわしい。


 そこで、RSSリーダーを使う。RSSリーダーが検出するのは、あくまで記事内容(またはタイトル)なので、たとえサイトの体裁だけが変わったとしても、それを更新として検出しない。そのかわり、何か新たな記事が加わったときには間違いなく検出される。

 glogの他にもたとえばasahi.comスラッシュドットジャパンなどがRSSを配信している。

 Headline-Readerを一ヶ月間試用してみて、なかなか使い心地が良かったのでシェアウェア登録した。同様のRSSリーダーとしてはフリーのglucoseがあるが、いまいち不安定で使い心地が良くないのと、何より"glucose"という単語を蛇蝎のように嫌う知り合いがいるので、今は利用していない。

 また、最近gooが無料のRSSリーダーを配布しているが、「gooブログ全体」「教えて!goo」など余計なRSSを拾ってしまうように設定されており、しかも解除できないので、Readerには対価を払ってもまあそれだけの価値がaあったと思っている。

Headline-Readerと同じ作者がHeadline-Deskbarという作品も公開している。こちらはフリーウェアなので、RSS初心者にお勧めである。新しく更新された記事を拾って、デスクトップ上に一行表示してくれる、非常に慎ましやかなソフトである。

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 リファラを探ると、このblogを「医療系blog」に分類して頂いているところが多く、もちろんリンクして頂くことは大変にうれしく思っております。

 しかし、さらに検索ワードを探ると「Mozilla Firefox」から「ガリル自動小銃」「ステアーAUG」「Gripen」でググられて来る方が圧倒的です。果たして、ここは医療系blogなのか、書いている本人も首をかしげております。

Wednesday, September 29, 2004

老いる田舎は、ますます老いる

静内の産婦人科、筋弛緩剤で母死亡 注射直後、胎児も 病院側はミス否定[北海道新聞]

 あまり軽々しくコメントを出すものではないが、この一件は「出産は都市で」という流れを強めるきっかけになるのかも知れない。上の記事を読んだ限りでは、すぐに医療事故として警察に届け出たようで、少なくとも事が起こってからは出来る限りの対応をしたように思われる。

 ただ、難しいのは「出産」というものの扱いである。

 世間一般では、赤ん坊が生まれるのはあたかも自然の成り行きで、「五体満足に生まれるのが当然」という考え方が主流だろう。今回のように帝王切開の最中に起こった事故となると、一般の人が受ける感想としては「医者が無茶な手術を敢行するからこんなことになった」というところが主だと思う。

 しかし、帝王切開を行うからにはそれなりの状況があるわけで、実際国家試験の産婦人科問題でも「帝王切開」が選択枝にある問題は少なくない。すなわち、「こういう危険な状態になったら、すぐに帝王切開をしないと生命に危険が及ぶぞ、おまえらしっかり勉強しておけ、さもないと免許やらんからな」ということなのだ。

 また、出生率の低下が全国的な問題になりつつあるが、新生児死亡率の低さについては、日本は先進国でもトップクラスだ。従って、ますます「生まれて当然」という風潮は強くなり、産婦人科医に求められるものは重くなる。

 従って、昔のように地方の産院で、一人のセンセイががんばって赤ん坊を取り上げる、といった状況は成立しにくくなる。出産は複数の医者がいる都市部の大病院で、という話になるのだ。

 しかし、一旦都会に出た若者は絶対に田舎に帰りたくなくなる、というのが世の常である。(もちろんそれは、田舎出身の医科大学生にもあてはまることだ。)

 となると、ますます田舎で生まれた赤ん坊が、しかるべき年になって都会へ出て、そこで相手を見つけて、都会で家庭を築いてしまう、という流れが完成するわけで、それは長い目で見るとますます過疎化を進めてるだけじゃないのか、という気もする。

 参考記事:
医者がいない/地方の産婦人科ピンチ[asahi.com MY TOWN 北海道]
健診は診療所 出産は病院[YomiuriOnline]
出産は大病院へ集中を 産婦人科医会が見解[Y! 共同通信]

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 大体北海道で「都市部で出産を」といったら、「大学病院のある都市で出産を」という言葉と同義になってしまうと思うのだが。
 そうなると、またどこかの町長サンが赤旗振りかざして激怒するのだろう。

キャラが違う

パラリンピック・アテネ大会が閉幕[asahi.com]

控え目閉会式「がっかりだ」…組織委に選手ら不満も[YomiuriOnline]

 何だか二つの新聞社が伝える記事の内容に、ずいぶん温度差があるぞ。

 前者の伝え方だと、
 夏季大会では初めて、パラリンピックと五輪の組織委員会が一つとなった。約80万人分の切符が売れた。観戦に向かう途中の交通事故で亡くなった高校生を悼み、閉会式の一部が中止された。

とあり、しかも日本選手団が大写しになっている写真と、華やかなダンサーの写真がセットになっている。これを見た人は、「ああ、ちょっとしたセレモニーが中止にはなったものの、閉会式は8割方予定通り行われたんだな」と思うことだろう。

 後者は、
 パラリンピック閉会式は28日、花火などの祭典部分を一切なくし、選手入場や聖火を消す作業などの必要最小限の儀礼部分のみで切り上げられた。27日に起きた、パラリンピック見学に来る途中の高校生7人の交通事故死を追悼するため、組織委員会(ATHOC)が突然発表した前代未聞の変更は、国際パラリンピック委員会(IPC)との不協和音を奏で、参加選手からの疑問を呼ぶ、後味の悪い結果となった。


 当初予定されていたセレモニーがほとんど行われなかったことを伝えている。

 もちろん予定の99%が実施されない場合でも、「一部」には違いないから、朝日の記事が誤報ということにはならない。

 ただ、普段の印象から行くと、最もパラリンピックを華々しく捕らえそうな新聞社と、大して取り上げなさそうな新聞社がそれぞれ対照的な記事の作り方をしているというところが非常に興味深いところである。

Saturday, September 25, 2004

水谷修先生、高校退職

水谷先生、高校教師を辞職へ[毎日interactive]

圏外からの一言」および「北沢かえるの働けば自由になる日記」経由。

 何でも9月8日の記事だそうで、気付くまでにはしばらく時間を要した。


 私はこの先生をテレビや書籍といったメディアを通してしか知らないけれども、一日3時間の睡眠で、繁華街の夜回りをし、さらに定時制高校の教員という定職を続けていらっしゃると言うことで、正直いろいろな意味で「この人、大丈夫なのかなあ」と思っていた。

 毎日新聞の記事で自ら語られているところを読むと、あまりのハードワークで体を壊されていると言うこと。メディアで活動が広まるにつれ、全国津々浦々から四六時中電話がかかってくるわけで、年齢的にもいつまで持ちこたえられるのだろうか、と思っていた。

 また、もう一つ述べられているように、水谷先生のような存在というのは、とかく教職員側の目から見ると邪魔に見えるはずだ。教育委員会からも圧力がかかったらしいが、おそらく同僚からもあまり受けは良くなかったんじゃ無かろうか。これは完全に私の推測であるが。

 先日にも少し触れたが、ある奇特な善意を持った人の行動が、ともすると組織全体の維持を中心に据えた視点から見ると、必ずしも善意に見えないことがある。積もり積もったものが、ある時点において、その個人を組織から抜けさせることを余儀なくさせる。

 こういった構図は、どこにでもあるものだろう。

 少し「小賢しい」ヤツならば、とっとと「NPO法人・夜回りを進める教職員の会」でも設立して、そこの会長に納まるところだろう。「水谷には同僚に対するコミュニケーション能力と協調性が欠けていた」とか言って。

 最後まで誰と連むわけでもなく、たった一人で戦い続けたその姿には、果たして自分につべこべ言わずに彼と同じ事が出来るだろうか、と考えさせるものがあった。

 だが、是非この機会にゆっくり休養して、仲間を集め、体勢を立て直して復活して欲しい。私は切にそう思う。


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「ペスタロッチは優れた教育者であった」を真としても、「教育によってペスタロッチをつくることが出来る」は必ずしも真ではない。それが教育というものの限界である。

Tuesday, September 21, 2004

ババアの文句みたいなもの

 おととい、自転車のヘッドライトをぶつけてしまった。幸い、本体に破損はなかったものの、ライトの電球がどっかへ飛んでいってしまい、その場で見つけることは不可能だった。

 その場所がガソリンスタンドの真ん前であったこともあって、そこでモタモタしていると車に轢かれそうだ、という思いと、豆電球の一個ぐらいどうにかなるさ、という実に安易な思いからその場を後にしたのだ。


 だが、今思えば這いつくばっても探すべきだった。


 家に帰ってから、改めてその電球一個を探しに町へ出た。

 まず、適当な豆電球(2個100円ぐらいの)を買ってはめてみる。合わない。微妙に口金の径が合わず、ネジがかみ合わない。あえなく撃沈。

 仕方がないから、近くのジャスコへ行って自転車売り場を覗いてみる。あった、あったよ、同じライト本体が。喜び勇んで売り場のお姉さんに聞いてみる。
 「すいませーん、このライトの替え玉ってどこに置いてありますか」
 「・・・・・申し訳ございません、替え玉は扱ってないんですよ」

 しょうがないので、元々自転車を買った(そこでライトも一緒に買っていた)市内の某大型量販店へ行く。微妙に型番が合いそうなのがいろいろあるが、よくよく見ると、定格電圧・電流、電球基部径がそれぞれ異なる。しかも一つ700円とかするのである。これはちょっと、当てずっぽうでチャレンジする気にはならない。しかも、同じライトを丸ごと一つ買うとなると、2000円である。

 イヤになってしまって、家に帰って、メーカーサイトでライト本体の型番・適合電球を調べてみた。

 おんなじようなライトの電球でも、これだけの種類があるのだった。しかも、「楽天市場」で買おうとすると、これである。北海道へ520円の電球一つ送ってもらうのに、送料1050円も取られるのだ。

 それが商売というものなのかも知れないが、マイナーチェンジごとに全く互換性のきかない部品をつくって売るやり方には、何だか非常に納得できないものを感じた。しかも、何で北海道だけ送料特別なんだ。深紅の大優勝旗が津軽海峡を渡るこのご時世に。
 私が道知事だったなら、まずこの瞬間に北海道の核武装を宣言しているところだ。

 何だかとにかく、面白くないのである。今度ライトを買うときは、「電球がちゃんと手に入るか」に最大限の注意を払いたいと思う。

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 結局、今はベスト電器で買ってきた294円のペンライトを、ヒモでハンドルにくくりつけて使っている。案外、具合がよろしい。

Monday, September 20, 2004

死刑囚を治療するか

 宅間守が、ついに死刑になった。

 丹波哲郎(昔は初めて「007と競演した日本人俳優」、現在は「温泉の精タンバ」として知られる)の「大霊界」という本を子供の頃読んだことがある。中に今考えると、興味深い一節があった。

 それは、「霊にも進化論が適用できるか」という問題である。

 つまり、有史以来、人間の人口というのは着実に増加しつつあるわけである。輪廻転生を支持する立場からいうと、人間の霊魂の数には限りがあるわけだから、人口というのはほぼ一定数でないといけない。そこで人間が増え続けることを合理的に説明するためには、いわゆる「畜生」の霊が「人間」に進化してこないといけないのではないか、というのである。

 もちろん、正統な仏教界の見解ではやや違った考え方があって、たとえば「あの世には、たくさんの人間の霊魂がプールされている」という説明があったりする。そのプールの人口がどれくらいかなんて、それこそエンマ帳を見ないとわからないから、結構な「逃げ」にはなっている。

 話を宅間に戻すと、この男には全く「同情」という感情が欠けているわけで、温泉の精タンバ様のいうとおり、「畜生」から進化してきたばかりの魂が宿った存在だったのかも知れない。

 さて、「死刑囚の病気を治療するか」という問題がこちらで書かれていた。
(元々はhttp://homepage3.nifty.com/
henachoko_student/index.html
の9/19)

 さんざん述べてきた「医者は善悪を判断しない」という立場から考えれば、「治療する」ということである。善悪を判断するのは司法の仕事であるから、司法がある時刻にある特定の仕事を実行しなければならないなら、それはそのようにする、ということである。
 最近でも、「エホバの証人」に対する輸血事件の最高裁判決が下っている。出血性ショックという、たとえ差し迫った死の危険がある場合に於いても、患者の自己決定権が医師の裁量権に優先するという主旨の判決で、最終的に約55万円の支払いが命じられている。

 私個人の善悪観念を用いて言えば、宗教とは人がいかにして生きるかという問題を扱うもので、人を死に向かわせるようなものを果たして宗教と呼んで良いのか、という気がする。たとえば、同意を得ない輸血の結果、患者は助かり、その後患者側から告訴を受け、3000万の賠償を命じる判決を喰らったとしても、「それは3000万円で人一人の命を買うことが出来た」と記述して良いのではないか、とさえ思うことがある。裁判所に、死んだ人間を生き返らせる力がないことは皆よく知っている。

 しかし、こういう記述を一旦許してしまうと、問題は私一人の話ではなくなってしまうわけだ。他の大勢の医師たちが、その後「あなたは多額の賠償金を払う可能性に恐れをなして、救命努力を怠っているではないか」と糾弾されてしまう可能性をもはらむ。従って何となく釈然としない思いを抱えつつも「患者の自己決定権は尊重しなければいけません」と言わなくてはいけないのである。

 裁判所といえども、宅間という一人の男の頭を無理矢理押さえつけて「どうもすみませんでした」と言わせることは出来なかった。J.S.ミルなんかを持ち出すまでもなく、そのことは、人間の内心の自由というものが、いかなる他者の意図とも独立して存在するということを、厳に示している。

加筆修正

 最近ろくに肉体を使わずにデスクワークばかりを行っていたばかりに、よく回らない頭で不確かなことを書いたところがいくつかある。また、筆が足りていないところままある。
 今日はまず、その誤謬を自ら正していこうと思う。

>Saturday, September 18あ~んあぁ・・・

 このコミッショナーは「野球は論理の世界じゃなくて、感情の世界だった」と述べている。一番言いたかったのは、「じゃあ、その感情の世界に対してあなたは、あなたなりに出来るだけのことをやったのか?」ということだ。
 「論理の世界じゃなかった」という言葉の裏をすごく深読みすると、「だから結局野球選手ってのは●●なんだ」という、軽蔑にも似たニュアンスがあるわけで、結局自分に「感情」を計算する能力がなかったことを露呈する発言である。他人の感情を計算するのは社会生活上、結構大事な能力だと思うのだが、検事総長出身だかのコッミショナーどのが、トップに上り詰めるためには全く必要としなかった能力なのだろう。
 ずいぶん記事のベタ面積を使ってはいるが、その中身は「あ~んあぁ やんなっちゃった あ~ん あ ああおどろいた」以上でも、以下でもない会見である。

>Sunday, September 5宣伝のようなもの

 まだ本日に至るまで一通の申し込みもありません。はてなダイアリーやgooブログ、ココログといった国内ブログが充実しつつある現在において、わざわざblogspotまでやってきて見て下さるブログ上級者の皆さんは、すでにお持ちなのでしょう。
 ちなみに、今を時めく(うわぁ)livedoorのメールは、一応容量1GB提供だそうです。
 まだまだ私のところでは2MBのままですが、MSN Hotmailもそのうち250MBにするそうで、そうなるとHotmailのアカウント4つ取ればGmailとタイです。たぶんそのうち、一日500MBくらいはspamに占拠されると思いますが。


>純粋に軍事的側面から見た学校占拠

 どうも「犯人の方から仕掛けた」という説と、「治安部隊の方から仕掛けた」という説があって、それはマスコミという、エーテル(※)以上にゆがみやすい媒質を通してしか事件を知ることの出来ない私にはどちらが正しい、と言いきることの出来ない問題である。

自己ツッコミ:
 これからの対テロ戦術の原則は、「防御側に準備の余裕を与えるな」が原則となり、事件発生後出来る限り迅速に、攻撃側が、その選択するタイミングで攻撃を行うようになるのではないか、ということである。つまり、ペルー公邸人質事件のような長期化する人質事件は、今後成立しなくなるのではないだろうか。少数の犠牲を払っても、出来るだけ短時間に解決するべきである、という考え方が主流になる。


 よく考えれば、ロシアは元々そういう国だった。一昔前まで、デモ隊が道間違えないようにお巡りさんが先導してくれるなんて日本だけの光景であって、おおむね東側諸国でお巡りさんの仕事と言えば、、デグチャレフ軽機関銃でデモ隊に面制圧射撃を加えることだったはずだ。
 つまり、「治安部隊」の仕事は「治安を守る」ことであって、「市民の保護」ではない。「治安」とは「政治体制の安定」に他ならない。つまり、事件が長引いて指導部の影響力が低下するよりは、市民に少々の犠牲が出ても一気にやってしまったほうがいい、ということも考えられるわけだ。

Saturday, September 18, 2004

あ~んあぁ・・・

根来コミッショナーが辞意[Yomiuri Online]

 まあ、タイミングを見計らってお辞めになるんだろうな、とは思っていたが、実際に第一報を聞いたとき、浮かんだのはこの方の顔だった。

 「ディスコグラフィー」から、いくつかCDが試聴できるようなので、RealPlayerをお持ちの方はどうぞ。一番下の、「レゲエ」がしっくり来ると思う。

スト決行

 よく言われることに、「こういうことになるのを回避するチャンスが何回もあったにもかかわらず、こうなったことは遺憾の極みである」というコメントがある。

 だがよく思い出してみよう。

 少なくとも、そうなる前に26回のチャンスが与えられていたにもかかわらず、9回裏ツーアウトの場面、ゴロを打った打者は、必ず一塁ベースに向かってヘッドスライディングする。(※)高校野球ではおなじみの光景である。

 つまり、野球とは本質的にそう動くものなのである。本当は、野球ファンも、選手のそういう姿を見たいのである。

※本当は、一塁キャンバスを走り抜けた方が到達時間が短いといわれている。

Friday, September 17, 2004

全てのドクターはフィルターである

 「全てのプログラムはフィルターである」とは、「UNIXという考え方」に出てくる一節である。

 「フィルターである」とはどういうことか。

 どんなプログラムにも、「入力」と「出力」がある。「入力」とは、あなたがキーボードを使って何らかの文字列を打ち込んだり、マウスでボタンをクリックしたりして命令を与える、ということである。「出力」とは、それに応じて、コンピュータが画面に図形を出したり、プリンタから文書を吐いたり、また新しいファイルを書き出したりする、ということだ。
 つまり、「入力」に対して、何らかの操作を与え、ある決まった「出力」を出す。それが「入力」をフィルターしているということである。

 逆に言うと、コンピュータに「フィルターでない」動きをさせるのは非常に難しい。たとえば、「でたらめな数字を考えろ」という命令を実行させるために、多くの言語ではrand関数というものがある。いわゆる「乱数の発生」という奴だが、厳密にはコンピュータは「でたらめ」を考えているわけではない。

 たとえば、x=1のときF(1)=1579846、x=2のときF(2)=-235.157、x=3のときF(3)=9.32564、といった、とんでもなく複雑な関数F(x)をつくることは可能だ。この関数F(x)をあらかじめコンピュータにプログラムしておき、xをユーザが操作する「時刻」として与えてやれば、操作するその都度「でたらめな数」が返ってくるようには見える。しかし、関数F(x)は、一旦プログラムとして組んでしまえば、人間が書き換えない限り変わらないのである。

 つまり、機械は意志を持たない、ということなのである。(当たり前のことをいうのにずいぶんかかってしまった)。


 さて、あるサイトで「ヤクザの書いた本は、医者にとって読む価値があるのか?」という熱い議論が交わされていたのを目にしたので、しばらく考えていた。いや、ひょっとすると重要な論点はそこではなかったのかも知れないが、私が気になったのはそこであった。

 私は移り気な性格なので、医学に関係のない様々な本をつい読んでしまうたちである。そういうわけで、実はこういう「ヤクザの書いた本」にもいくつか目を通していたのだが、なぜ医者がヤクザ本を読んで嫌悪感を覚えるのか、という点に関しては、以下の点に集約されると思う。

 つまり、ヤクザの論理は「いまオマエが何をしたいか明確にしろ」というところが原点でになっている。「あの土地地上げしてワレのもんにしたい」「隣の組ぶっつぶしてシマを広げたい」から、「関東一の極道になったる!」に至るまで、全て自分にとって「まず何がしたいか」というところからのスタートで、それに基づいて全ての行動が組み立てられている。

 これに対し、医者、正確には現代の医者は「まず患者さんの言うことをよく聞きなさい」という点からスタートせよ、といわれている。しかも、いわゆるEBM(証拠に基づく医療)ということで、医者が「自分一人の考えで」何かを決断できる、という場面は狭まる一方なのである。

 現代に求められる医師像とは「プログラムそのもの」なのである。また、「医者は善悪を判断しない」とも書ける。

 この論理に基づけば、「患者の要求と、検査に基づく客観的データ」という「入力」に対して、ある程度決まった「出力」を出せるのが優秀な医者だということになる。究極的にいえば、紙に書かれた問題を出して、マークシートで解答を出させる国家試験というものは、プログラム、すなわちフィルターとしての医者の能力を試している、ということになる。

 現在を生きる医者にとって、「~シタイ」という欲求を、外の世界に出すことは許されない。せめて、「~デアリタイ」「~ニナリタイ」と記述するのみである。

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 もちろん、以上に述べたことは「タテマエ」の話であって、実際には「~したい」という欲望は全ての医者に存在する。もちろん、人それぞれに「善悪」の判断基準がある。(もちろんヤクザにだって「善悪」の基準はある)。
 「ER」の登場人物に、ロケット・ロマノという外科医が登場する。実に野心的な人物で、周囲の犠牲など気にもとめず自分の欲望を満たす、という姿が描かれているのだが、正直彼の姿を見るたびに「やっぱりアメリカにもこういう人物がいるんだ」と、どこかで安心している自分がいる。(我々の教育では、アメリカの医者は全くミスを犯さず、日々患者のために研鑽を欠かさず、問題のある人物はその養成段階で全て選別され、ふるい落とされることになっている。)

 昔、立花隆氏の著作で、「テレビ・シリーズ『コンバット』を見て育った私たちは、日本の陸海軍に比べ米軍は何と民主的なシステムになっているのか、と驚いたものだが、映画『フルメタル・ジャケット』を見て、ああ、やっぱり軍隊の本質というものは洋の東西を問わず変わらないものだと安堵した』」というような記述を目にしたことがある。おそらく、それに近い感情だと思う。

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<追記>
 原文に出てくる「全てのプログラムはフィルターである」とは、他のプログラムが、あなたの書くプログラムを利用して動くことだって考えられるのだから、「汎用性の低いプログラムを書いてはいけない」という文脈にある言葉である。

概日リズム

 動物には生まれもったリズムというものがある。それは概日リズム(サーカディアンリズム)とも呼ばれ、睡眠やホルモン分泌、血圧コントロールなどにも周期性を齎している。

 人間の場合この概日リズムは約25時間周期で構成されているといわれている。地球の自転周期である24時間と、1時間のずれが生じているため、人間には広い範囲の移動が可能なのだ、という説がある。

 前置が長くなったが、私の場合ストレスがかかるとこの概日リズムが大きく狂う。大事なイベントのある日の前夜から朝まで、まず眠ることが出来ない。それでも、朝からもう12時間くらいは何とかレベルを落とさず活動が出来る。だが、次の12時間は睡眠に当てなければならない。ほとんど思考停止に陥る。
 つまり、36時間活動+12時間睡眠という48時間の概日リズムが形成されているわけで、これはこれで個人的に「きつさ」を覚えない生活スタイルである。

 大事なのは、「こういうプレッシャーのかかる日の晩にはよく眠ることが出来ないが、それでも何とかベスト状態の8割の力を発揮することが出来る」という自分の特質を知ることである。それはつまり、「眠れなかったからといって大失敗が起こるわけではない」という、本番の落ち着きを得る意味と、「2割の力が出せないとしても、目的を達成できるように力をつける」ことを普段から心がける意味がある。

 昔、ある大事な日の前に、非常な雑音が入り、その日は全く眠ることが出来なかったことがある。まだ経験の少なかった時分でもあり、結局その日のイベントは思ったような成績を残すことが出来なかったのであるが、今では結局それも、「その日」に至るまでのプロセスに不備があったのあろう、と受け止めている。

 だからといってはなんだが、あまりに恵まれすぎた、静かな環境で訓練を積むことには、恐怖にも似た違和感を禁じ得ないのだ。

Thursday, September 16, 2004

OSCEの週

 今週は後期OSCEということで、神経所見とれるか、人の話ちゃんと聞けるか、X線写真の見所を知っているか、心電図の電極きちんと張れるか、痛いハラを探れるか、という近代5種の実技試験である。

 あと2年もすれば関門試験ということで、こういったことなしに医学部を卒業することは出来なくなるのだが、どうもこういったことに熱心だった大先生が退いてというもの、ずいぶん形骸化した感がある。

 何というか、この微妙な空気を野球のプロテストにたとえて表現してみたい。

<本格的OSCE(アメリカ本国で行われているもの)>
 バッティングピッチャーが20球ぐらい投げる。そのうち、何本ヒット打ったかで合格不合格が決まる。

<和式OSCE(第51州「日本」で行われているもの)>
 人件費の都合で、ピッチャーは、すごく打ちやすいボールを一球だけ投げる。
 ヒットになるかどうかは問題ではないが、とりあえず「ゴロを打ったら一塁にまっすぐ走る」「外野に飛んだらややふくらみがちに走り、ベースの内側を踏んで二塁へ向かう」かどうかを、スカウトがものすごく真剣に見ている。
 さらに実は監督の評価ポイントが、「たとえアウトになっても観客に、にこやかな笑顔を送ることが出来る」で、これで合否が決まっていたりする。


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 しょうがねえだろ、アメリカに戦争に負けたんだから。

Sunday, September 12, 2004

ちょっとしたこと。

 本来小ネタは別館に書くのがポリシーだが、いろいろなところで見かけるあるモノに対して、ちょっと多めの人に見てもらいたいことがあるので、こちらに書くことにする。

 サイト上である特定の書籍を紹介するとき、Amazon.co.jp(Amazon.com)へのリンクという形で表現されることが多い。「はてな」なんかにも実装されているし、いわゆるデファクトスタンダード(事実上の標準)と呼んでも良い感さえある。
 実際、この日記もAmazonアソシエイトに加入して、本の表紙を画像として使わせて頂いている。
 この方法の良いところは、書籍タイトルに固有のIDであるISBNコード(AmazonではASINコードと呼んでいるらしい)を付加して表現できることである。すなわち、同じタイトルの書籍でもハードカバー版、文庫版、新書版といった版が存在することがあるが、そのうちどの版を指しているのかを示す手間、そして紛らわしいタイトルの本が複数存在する場合でも、わざわざ出版社名・著者名を指定する手間を省くことが出来る。

 ここで、今最もよく売れていると思われる「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」にリンクを張る場合について考える。

 よく見かける長いリンクの仕方は、以下のようなURLを張る方法である。
 (bloggerの仕様上、ずいぶん下にいってしまっているが、スクロールしてください)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4915512517/ref=amb_center-1_117092_1/249-7736927-1834752

 しかし、以下の方法も試して欲しい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4915512517/

 おそらく全く同じ書籍が表示されることと思う。

 つまり、[~/ASIN/(ISBNコード)]で、特定の書籍を表現するには十分なのである。

 アソシエイトに加入している場合のリンクの仕方は、以下の通り。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4915512517/takikouorg-22

 クリックして頂くとわかるが、今度は若干表示されるページが違っている。


 完全な推測だが、AmazonはURLやCookieによって、顧客情報を収集しているのかも知れない。これにより最近チェックした商品を表示するなど、便利なサービスを提供するという意味もある。しかし、長いURLには、そのリンクを張ったあなたの情報が知らず知らずのうちに含まれてしまっているのかも知れない、ということである。

 だからどうだとも言わないが、より短いURLでも、ある一意の書籍を表現できることを示しておく。

Monday, September 06, 2004

XとYは独立である

 blogとは「日記」の一形態であるといわれる。日記とは、本来個人的なものであるから、そこに書かれている内容と、それを書いた個人の性格とはとても関連があるように見える。ましてや、その人の顔かたちが判断できないWeb上では、その傾向が一層誇張されて伝わる。

 しかしながら、本来「書き物」と、その人の性格とに関連性を見いださなければならないものだろうか。つまり、その人の書く文章が嫌いだからと言って、その人の人格までもを嫌う必要があるだろうか。

 私は、そういう考え方は非常に損だと思う。


 ちょっと本筋からは離れるが、たとえば音楽や絵画など、他のジャンルの芸術を考えてみよう。

 モーツァルトなんて、相当イヤな奴で、一説によるとそのせいで宮廷音楽長のサリエリに殺られてしまったらしいが、彼の書いた音楽は今もなお多くの人の心を魅了する。つまり、「モーツァルトはいかなる人物であったか?」ということと、「モーツァルトの音楽とはいかなるものか?」ということは別個のことである。
 ゴッホやレンブラントといった画家は、相当貧乏人であったわけだが、だからといって彼らの絵が貧弱であるということにはならない。

 別にそんな古い時代のことを持ち出さなくてもいい。

 長渕剛、槇原敬之といった歌手は、過去に覚醒剤で捕まった経歴がある。そのたびに、全国のCD店では彼らの作品を店頭から撤去する、ということが起こってきたわけだが、その必要が果たしてあるのだろうか。その歌手の音楽と、その歌手がシャブをやっていたと言うことは、全然別の話じゃないか。なぜ音楽を音楽として、純粋に評価できないのだろう。
 教科書や論文などといった、比較的無機質な文章についても考えてみる。その教科書を執筆した先生が、ラボの中ではどんなに独裁者的であり、イヤな性格であったにせよ、教科書の中身はそれと別個に評価されるのが普通である。
 さらに言えば、書いた人の性格などといった余計なことを知ることなしに、知識のみを得ることが出来るというのが、書物の良さである。


 我々は、ついその人の「作品」と「人格」を結びつけて考えがちであるが、それは本当に作品をたのしむ姿勢とは言えないのではないだろうか。すばらしい恋愛小説を書く作家が、その実どんなに不細工であろうと、実行力と魅力を備えた政治家に愛人が何人いようと、それは本筋とは関係ないことなのである。


人生に悔いず

 亀になってしまったが、先週の金曜に高校生クイズをちょっと見た。何を隠そうこの私も高校生時代はクイズ研究会にいたのだが、あの時代から比べるとまさに現代はクイズ会にとって冬の時代である、といえよう。

 いまから10年以上前、まだ「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「史上最大のクイズ王決定戦」といった、正統派クイズ番組が群雄割拠していた時代は、まさに「早押しこそクイズの王道である」といった空気に充ち満ちていた。

 しかし、立命館大学クイズ研究会(RUQS)出身者が圧倒的な強さを見せ、各番組での優勝者を独占していくような状況、またいわゆる複数の番組で同じ「クイズ王」の顔ぶれがそろうような状況は、必ずしもテレビ番組としてのクイズの価値を高めるものではなかった。

 「ウルトラクイズ」も、「クイズ王決定戦」も私が高校生の時期には既に風前の灯火といった状況であった。しかし、「高校生クイズ」だけは最後の砦として残っていた。
 今考えるとぞっとしないが、私もナベツネから深紅の大優勝旗を手渡される日を夢に見ていたものだ。

 私が大学に入る頃、高校生クイズも明らかに規模を縮小した。各地域ブロックごとに予選は行うものの、「金曜ロードショー」の枠で放送される本戦は、全て東京のスタジオ一カ所で収録されることになってしまった。決勝戦が豪華クルーザー「ヴァンデアン号」上で実施される、という伝統さえも無くなってしまい、全てが暗い、閉塞感のあるスペースでの実施となっている。

 他局に目を移すと、フジテレビ系では「クイズミリオネア」が輸入番組という形で開始され、それなりの視聴率を得ていた。しかし、いかにも視聴者の羨望、欲望といったものに迎合するあの番組の造りは、私は嫌いである。それに、高額の賞金を目指して一般視聴者が解答する、といった形式の番組は、過去様々なスキャンダルを生んでいる。それは、たとえば「クイズ・ショウ」といった映画に描かれているがごときである。長い目で見れば、むしろクイズ文化の衰退に寄与しているといった感想さえ受ける。


 話を高校生クイズに戻そう。今回の放送で気付かされたのは、もはや「早押し」といったクイズの文化が失われている、といったことである。

 決勝戦でさえ、アナウンサーが全て問題を読み終わった後に、ボタンが押される。残念ながら、クイズを愛してクイズを研究し尽くした高校生が決勝戦に残った、という感じではなかった。

 そもそも早押しクイズとは、読み上げられる問題文から、解答にたどり着くに足りる情報が得られた時点で、素早くボタンを押して解答権を得る、といった形式のクイズである。実は、こういった「早押し」が成立していたのは、「大事なことは出来るだけ後回しに言う」といった日本語の特性に負うところが大きい。

 実は早押しの芸術が成立しなくなったのも、そもそも「大事なことは最初に言え」という日本語自体の変化の現れではないだろうか。漠然とした寂しさと共に、そんなことを考えた。

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 昔のRUQSは本当に強かった。ともすると上の文章には、RUQSの存在を批判するように読める部分があるかと思うが、それは私の本意ではない。むしろRUQSはクイズ文化に対し、「早押し」の理論構築、クイズの基本的なルールを考案する(たとえば、自分が答えられないような問題を人に出すべきではない、正解には必ず根拠がなければならないなど)といった多大なる貢献ををしているのだ。

 就職情報誌などに目を通していても、「時代はスペシャリストを求めている」という人と、「いや、現代はゼネラリストが求められる時代だ」という人がいて、それぞれの論理に納得できるところがある。実は病院・医者業界でもそうなのだが、「とりあえず新卒の研修医はみんなゼネラリストの方向でいきなさい」というのが厚労省のお考えらしい。

 もし、ゼネラリストの時代である、というのが正解ならば、もっとクイズ番組が栄えてもいいはずなのになあ。高校を卒業してしばらく後、私はクイズ研究会が活動を休止しているのを知った。

Sunday, September 05, 2004

宣伝のようなもの

なんだか2chのネットサービス板にスレが立つくらい、またY!オークションで取引されるくらい貴重なものらしいのだが、私としては全くそう思えないし、そのうち"beta"がとれるだろう、という希望的観測の元に、期間限定でおふれを出してみる。

Gmailのアカウント、あと5人の方にinvite出来ます。欲しい方は右のほうから連絡を。

純粋に軍事的側面から見た学校占拠

 別に私はテロリストの味方ではない。子供を戦闘に巻き込む奴らは誰だろうと最低のクズ野郎ないしクズ女郎だと考えている。今回のことを計画した奴らに、出来る限り長く苦しみを経た死が訪れることを切に祈っている。

 断り書きを入れた上で、今回のロシア学校占拠に対し、純粋に軍事的観点からの考察を加えたいと思う。


 「多数の人質を取って立てこもる」。これは、およそ21世紀のテロの形としては実に時代遅れである。以前同じ国であった劇場占拠、そして我が国が標的にされたペルー公邸人質事件など、過去の例に学べば、そもそも「人質」作戦には無理があるのである。

 理由はいくつかある。まず第一に、立てこもる側(これを便宜的に「防御側」と呼ぶ)は少ない人員と、乏しい物資という条件が付くのに対し、包囲する治安部隊(これを「攻撃側」と呼ぶ)は、その制約からは解放される。時間が経つに連れ、防御側と攻撃側の有利・不利は際だってくる。

 また時間の経過に伴い、防御側と人質に対し、一種の人間的感情が形成されてくる。いわゆる「ストックホルム症候群」として知られているものであるが、これにより人質の価値は相対的に下がることになる。つまり、いざというときに人質に対し手を下すことが出来なくなる。攻撃側は、それを見越して作戦を立てる事が出来るようになる。

 従って、防御側が決死の決意をもって作戦行動を開始した場合、作戦終了までの時間は可能な限り短時間であることが望ましい。出来ることなら、およそたった一人の警察官が駆けつける暇も与えないのがよい。

 つまり、最も効率がよいのは「不意をついた自爆テロ」ということになる。その効果は、ベトナムからマンハッタンに至るまで、歴史が証明している。terror、すなわち恐怖そのもの、ということだ。

 今回の事件で特記すべきなのは、「遺体の引き取り時に爆発音が聞こえ、戦闘に突入した」という点である。すなわち、本来攻撃側に有利なはずの持久戦の様相を呈し始めた、と多くの人が考え始めた、そのタイミングを計らって防御側から仕掛けた、ということである。これはむしろ攻撃側の計画に齟齬が生じた、というより、防御側の計画が実に奏功した、ととらえた方が良いと考える。

 元々1000人以上の人質を、30人程度のテロリストで長期間見張るつもりなど無かったに違いない。「学校占拠」という事件を、国内外のメディアに周知させ、浸透するに充分な時間を経たのち一気に破滅点へと導く。ミュンヘン・オリンピックで「黒い九月」が起こした事件と同様、政府の顔に泥を塗るには充分すぎる結果であった。(もっとも、ミュンヘン事件の場合当時西ドイツにおけるテロ対抗部隊の整備が遅れていたことが原因とする見方が多い。)

 さて、今後、同様の事件が生じた場合、攻撃側(確認しておくが、、治安部隊側)の戦略にある変化が生じるのではないか、という感想を受けた。
 今までそれは、たとえ形式的にしろ、「平和的解決」を至上のものとし、「最大数の人命の保護」あるいは「最大数の人質の保護」を目的としてきた。今回、小児科医が「交渉人」として選ばれたのも、その目的のためである。最も、私の意見としては、防御側には最初からその意図がなかったように思える。
 これからの対テロ戦術の原則は、「防御側に準備の余裕を与えるな」が原則となり、事件発生後出来る限り迅速に、攻撃側が、その選択するタイミングで攻撃を行うようになるのではないか、ということである。つまり、ペルー公邸人質事件のような長期化する人質事件は、今後成立しなくなるのではないだろうか。少数の犠牲を払っても、出来るだけ短時間に解決するべきである、という考え方が主流になる。

 それから考えると、遙か遠くの国で人質になった三人の若者に、幾重もの仲介者を立て、ビルが一軒建つぐらいの費用を払ってまで世話を焼いてくれる我が国は、何とすばらしいことか、と思ってしまう。

Friday, September 03, 2004

Thursday, September 02, 2004

小泉総理、北方領土視察

朝日毎日読売産経童心

 6年前からこの問題に対する私の見解は一致している。

 「ガタガタ言ってないで早く攻め取れ」。

 現代を生きる北海道民としての意見を言う。元々、北方領土という「土地」に価値など無い。沖ノ鳥島と同じ、漁業権を確保するだけの意義しかない島である。必ず北方領土問題を口にすると必ず「元島民」のノスタルジーが語られるが、それを言い出したら「元満州人」のノスタルジーも同様に語られねばなるまい。


 ここでは逆に、もし「北方領土返還」が実現してしまったときのことを考えよう。

 現在も、根室やオホーツク地方の開発は進んでいるとは言い難い。日本の中央政府にとっても、道東というのは価値を認めがたい場所なのであろう。鈴木宗男氏のような国会議員が活躍できたのも、そういう事情があるからである。

 新しくできた北方領土に、多額の開発費用を投入する意味も必要もない。そんなところに住んでみよう、と言う人も奇特だろう。だが、国土である以上は管理をせねばならない。すなわち、警察署や自衛隊の駐屯地と言ったものを設営する必要が生じる。そして、北方領土の存在意義はただそこにある、と言った状況が生じるだろう。

 つまり、最もロシアに近い軍事基地が出来る。

 あるいは、日本に返還された刹那、たとえば普天間飛行場の代替地として「歯舞飛行場」を米軍に提供する、と言った事も考えられる。紛れもない「日本の国土」であるからロシアには口出しされない。また、付近に元々日本の住民もいないのだから騒音問題などハナから存在しない。元々利用価値のない土地なのだから、これは実に魅力的な選択枝である。


 単純な背理法だが、だから絶対にロシアが島四つを返すわけが無いのである。そんなことは歴代日本政府も、旧ソ連政府も、ロシア政府も分かり切っているのである。分かり切っていることにもかかわらず、これがあたかも実現し得るような話としてまともに取り上げるマスコミも理解できない。何かから国民の目をそらせようとしているのがあからさまなのである。


 本当に「北方領土が日本固有の領土である」と自信を持って言い切れるのであれば、今この瞬間にでも自衛隊の実力を持って、それを確保すればよい。それは自衛隊の設立目的に何ら反するところはないのである。

 「ガタガタ言ってないで早く攻め取れ」の後段。「国民が命を賭して守る覚悟のない土地を、もはや領土と呼ぶべきではない」。私の真意はそこなのである。

INTERNET KILLED THE VIDEO STAR

SueMe SuBlog経由。


http://www.shockwave.com/content/regurge01/regurge01.swf


 元ネタ"Video killed the radio star"が1979年リリースと言うことは、私と同い年である。Amazonで検索してみたらいずれも廃盤と言うことだ。
 早く来い来いiTunes日本版。
 音楽がCDという、形あるものを媒体にして流通し続ける限り、このように古い音楽が事実上朽ちてしまうこともあるわけで、その意味からも早く音楽の電子販売というものが普及して欲しいものである。

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 CCCDは死んでも買わない。家族が買おうとしているのを見たら、必死で止める。

味覚二題

給食レストラン[毎日MSN]
清水義範氏の短編「時代食堂の特別料理」を思い出した。

究極ラーメン[北海道新聞]
Yahooの発表

 基本的に、ラーメンのチェーン店は信用しないことにしている。
 別に「チェーン店のラーメンは不味い」と言っているわけではなく、ある特定の店の味を、別個の店舗で再現することは原理的に不可能だろう、と考えるからである。
 ハンバーガーやステーキなどの系列店では、肉そのものから、ソースやスープなどは全部中央工場である程度加工したものを各店舗に配送しているわけだから、味のばらつきは少ないわけだ。
 ところが、ラーメンとなると話は違う。ラーメンの味を決めるスープの仕込み、麺のゆで方などは「人」に依存するところが大きい。その「人」の個性を完全に打ち消すことなど出来ない、ということだ。
 うちの隣の、すすけたラーメン屋のラーメンが一番美味しい。(、と、仮定している。)そういうラーメンの味に関する軸が出来ると、他の店ですするラーメンも麺の堅さ、スープの脂っこさなど、比較して考えられるようになる。