Monday, September 20, 2004

死刑囚を治療するか

 宅間守が、ついに死刑になった。

 丹波哲郎(昔は初めて「007と競演した日本人俳優」、現在は「温泉の精タンバ」として知られる)の「大霊界」という本を子供の頃読んだことがある。中に今考えると、興味深い一節があった。

 それは、「霊にも進化論が適用できるか」という問題である。

 つまり、有史以来、人間の人口というのは着実に増加しつつあるわけである。輪廻転生を支持する立場からいうと、人間の霊魂の数には限りがあるわけだから、人口というのはほぼ一定数でないといけない。そこで人間が増え続けることを合理的に説明するためには、いわゆる「畜生」の霊が「人間」に進化してこないといけないのではないか、というのである。

 もちろん、正統な仏教界の見解ではやや違った考え方があって、たとえば「あの世には、たくさんの人間の霊魂がプールされている」という説明があったりする。そのプールの人口がどれくらいかなんて、それこそエンマ帳を見ないとわからないから、結構な「逃げ」にはなっている。

 話を宅間に戻すと、この男には全く「同情」という感情が欠けているわけで、温泉の精タンバ様のいうとおり、「畜生」から進化してきたばかりの魂が宿った存在だったのかも知れない。

 さて、「死刑囚の病気を治療するか」という問題がこちらで書かれていた。
(元々はhttp://homepage3.nifty.com/
henachoko_student/index.html
の9/19)

 さんざん述べてきた「医者は善悪を判断しない」という立場から考えれば、「治療する」ということである。善悪を判断するのは司法の仕事であるから、司法がある時刻にある特定の仕事を実行しなければならないなら、それはそのようにする、ということである。
 最近でも、「エホバの証人」に対する輸血事件の最高裁判決が下っている。出血性ショックという、たとえ差し迫った死の危険がある場合に於いても、患者の自己決定権が医師の裁量権に優先するという主旨の判決で、最終的に約55万円の支払いが命じられている。

 私個人の善悪観念を用いて言えば、宗教とは人がいかにして生きるかという問題を扱うもので、人を死に向かわせるようなものを果たして宗教と呼んで良いのか、という気がする。たとえば、同意を得ない輸血の結果、患者は助かり、その後患者側から告訴を受け、3000万の賠償を命じる判決を喰らったとしても、「それは3000万円で人一人の命を買うことが出来た」と記述して良いのではないか、とさえ思うことがある。裁判所に、死んだ人間を生き返らせる力がないことは皆よく知っている。

 しかし、こういう記述を一旦許してしまうと、問題は私一人の話ではなくなってしまうわけだ。他の大勢の医師たちが、その後「あなたは多額の賠償金を払う可能性に恐れをなして、救命努力を怠っているではないか」と糾弾されてしまう可能性をもはらむ。従って何となく釈然としない思いを抱えつつも「患者の自己決定権は尊重しなければいけません」と言わなくてはいけないのである。

 裁判所といえども、宅間という一人の男の頭を無理矢理押さえつけて「どうもすみませんでした」と言わせることは出来なかった。J.S.ミルなんかを持ち出すまでもなく、そのことは、人間の内心の自由というものが、いかなる他者の意図とも独立して存在するということを、厳に示している。

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