blogとは「日記」の一形態であるといわれる。日記とは、本来個人的なものであるから、そこに書かれている内容と、それを書いた個人の性格とはとても関連があるように見える。ましてや、その人の顔かたちが判断できないWeb上では、その傾向が一層誇張されて伝わる。
しかしながら、本来「書き物」と、その人の性格とに関連性を見いださなければならないものだろうか。つまり、その人の書く文章が嫌いだからと言って、その人の人格までもを嫌う必要があるだろうか。
私は、そういう考え方は非常に損だと思う。
ちょっと本筋からは離れるが、たとえば音楽や絵画など、他のジャンルの芸術を考えてみよう。
モーツァルトなんて、相当イヤな奴で、一説によるとそのせいで宮廷音楽長のサリエリに殺られてしまったらしいが、彼の書いた音楽は今もなお多くの人の心を魅了する。つまり、「モーツァルトはいかなる人物であったか?」ということと、「モーツァルトの音楽とはいかなるものか?」ということは別個のことである。
ゴッホやレンブラントといった画家は、相当貧乏人であったわけだが、だからといって彼らの絵が貧弱であるということにはならない。
別にそんな古い時代のことを持ち出さなくてもいい。
長渕剛、槇原敬之といった歌手は、過去に覚醒剤で捕まった経歴がある。そのたびに、全国のCD店では彼らの作品を店頭から撤去する、ということが起こってきたわけだが、その必要が果たしてあるのだろうか。その歌手の音楽と、その歌手がシャブをやっていたと言うことは、全然別の話じゃないか。なぜ音楽を音楽として、純粋に評価できないのだろう。
教科書や論文などといった、比較的無機質な文章についても考えてみる。その教科書を執筆した先生が、ラボの中ではどんなに独裁者的であり、イヤな性格であったにせよ、教科書の中身はそれと別個に評価されるのが普通である。
さらに言えば、書いた人の性格などといった余計なことを知ることなしに、知識のみを得ることが出来るというのが、書物の良さである。
我々は、ついその人の「作品」と「人格」を結びつけて考えがちであるが、それは本当に作品をたのしむ姿勢とは言えないのではないだろうか。すばらしい恋愛小説を書く作家が、その実どんなに不細工であろうと、実行力と魅力を備えた政治家に愛人が何人いようと、それは本筋とは関係ないことなのである。
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