Friday, September 17, 2004

全てのドクターはフィルターである

 「全てのプログラムはフィルターである」とは、「UNIXという考え方」に出てくる一節である。

 「フィルターである」とはどういうことか。

 どんなプログラムにも、「入力」と「出力」がある。「入力」とは、あなたがキーボードを使って何らかの文字列を打ち込んだり、マウスでボタンをクリックしたりして命令を与える、ということである。「出力」とは、それに応じて、コンピュータが画面に図形を出したり、プリンタから文書を吐いたり、また新しいファイルを書き出したりする、ということだ。
 つまり、「入力」に対して、何らかの操作を与え、ある決まった「出力」を出す。それが「入力」をフィルターしているということである。

 逆に言うと、コンピュータに「フィルターでない」動きをさせるのは非常に難しい。たとえば、「でたらめな数字を考えろ」という命令を実行させるために、多くの言語ではrand関数というものがある。いわゆる「乱数の発生」という奴だが、厳密にはコンピュータは「でたらめ」を考えているわけではない。

 たとえば、x=1のときF(1)=1579846、x=2のときF(2)=-235.157、x=3のときF(3)=9.32564、といった、とんでもなく複雑な関数F(x)をつくることは可能だ。この関数F(x)をあらかじめコンピュータにプログラムしておき、xをユーザが操作する「時刻」として与えてやれば、操作するその都度「でたらめな数」が返ってくるようには見える。しかし、関数F(x)は、一旦プログラムとして組んでしまえば、人間が書き換えない限り変わらないのである。

 つまり、機械は意志を持たない、ということなのである。(当たり前のことをいうのにずいぶんかかってしまった)。


 さて、あるサイトで「ヤクザの書いた本は、医者にとって読む価値があるのか?」という熱い議論が交わされていたのを目にしたので、しばらく考えていた。いや、ひょっとすると重要な論点はそこではなかったのかも知れないが、私が気になったのはそこであった。

 私は移り気な性格なので、医学に関係のない様々な本をつい読んでしまうたちである。そういうわけで、実はこういう「ヤクザの書いた本」にもいくつか目を通していたのだが、なぜ医者がヤクザ本を読んで嫌悪感を覚えるのか、という点に関しては、以下の点に集約されると思う。

 つまり、ヤクザの論理は「いまオマエが何をしたいか明確にしろ」というところが原点でになっている。「あの土地地上げしてワレのもんにしたい」「隣の組ぶっつぶしてシマを広げたい」から、「関東一の極道になったる!」に至るまで、全て自分にとって「まず何がしたいか」というところからのスタートで、それに基づいて全ての行動が組み立てられている。

 これに対し、医者、正確には現代の医者は「まず患者さんの言うことをよく聞きなさい」という点からスタートせよ、といわれている。しかも、いわゆるEBM(証拠に基づく医療)ということで、医者が「自分一人の考えで」何かを決断できる、という場面は狭まる一方なのである。

 現代に求められる医師像とは「プログラムそのもの」なのである。また、「医者は善悪を判断しない」とも書ける。

 この論理に基づけば、「患者の要求と、検査に基づく客観的データ」という「入力」に対して、ある程度決まった「出力」を出せるのが優秀な医者だということになる。究極的にいえば、紙に書かれた問題を出して、マークシートで解答を出させる国家試験というものは、プログラム、すなわちフィルターとしての医者の能力を試している、ということになる。

 現在を生きる医者にとって、「~シタイ」という欲求を、外の世界に出すことは許されない。せめて、「~デアリタイ」「~ニナリタイ」と記述するのみである。

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 もちろん、以上に述べたことは「タテマエ」の話であって、実際には「~したい」という欲望は全ての医者に存在する。もちろん、人それぞれに「善悪」の判断基準がある。(もちろんヤクザにだって「善悪」の基準はある)。
 「ER」の登場人物に、ロケット・ロマノという外科医が登場する。実に野心的な人物で、周囲の犠牲など気にもとめず自分の欲望を満たす、という姿が描かれているのだが、正直彼の姿を見るたびに「やっぱりアメリカにもこういう人物がいるんだ」と、どこかで安心している自分がいる。(我々の教育では、アメリカの医者は全くミスを犯さず、日々患者のために研鑽を欠かさず、問題のある人物はその養成段階で全て選別され、ふるい落とされることになっている。)

 昔、立花隆氏の著作で、「テレビ・シリーズ『コンバット』を見て育った私たちは、日本の陸海軍に比べ米軍は何と民主的なシステムになっているのか、と驚いたものだが、映画『フルメタル・ジャケット』を見て、ああ、やっぱり軍隊の本質というものは洋の東西を問わず変わらないものだと安堵した』」というような記述を目にしたことがある。おそらく、それに近い感情だと思う。

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<追記>
 原文に出てくる「全てのプログラムはフィルターである」とは、他のプログラムが、あなたの書くプログラムを利用して動くことだって考えられるのだから、「汎用性の低いプログラムを書いてはいけない」という文脈にある言葉である。

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