Monday, September 06, 2004

人生に悔いず

 亀になってしまったが、先週の金曜に高校生クイズをちょっと見た。何を隠そうこの私も高校生時代はクイズ研究会にいたのだが、あの時代から比べるとまさに現代はクイズ会にとって冬の時代である、といえよう。

 いまから10年以上前、まだ「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「史上最大のクイズ王決定戦」といった、正統派クイズ番組が群雄割拠していた時代は、まさに「早押しこそクイズの王道である」といった空気に充ち満ちていた。

 しかし、立命館大学クイズ研究会(RUQS)出身者が圧倒的な強さを見せ、各番組での優勝者を独占していくような状況、またいわゆる複数の番組で同じ「クイズ王」の顔ぶれがそろうような状況は、必ずしもテレビ番組としてのクイズの価値を高めるものではなかった。

 「ウルトラクイズ」も、「クイズ王決定戦」も私が高校生の時期には既に風前の灯火といった状況であった。しかし、「高校生クイズ」だけは最後の砦として残っていた。
 今考えるとぞっとしないが、私もナベツネから深紅の大優勝旗を手渡される日を夢に見ていたものだ。

 私が大学に入る頃、高校生クイズも明らかに規模を縮小した。各地域ブロックごとに予選は行うものの、「金曜ロードショー」の枠で放送される本戦は、全て東京のスタジオ一カ所で収録されることになってしまった。決勝戦が豪華クルーザー「ヴァンデアン号」上で実施される、という伝統さえも無くなってしまい、全てが暗い、閉塞感のあるスペースでの実施となっている。

 他局に目を移すと、フジテレビ系では「クイズミリオネア」が輸入番組という形で開始され、それなりの視聴率を得ていた。しかし、いかにも視聴者の羨望、欲望といったものに迎合するあの番組の造りは、私は嫌いである。それに、高額の賞金を目指して一般視聴者が解答する、といった形式の番組は、過去様々なスキャンダルを生んでいる。それは、たとえば「クイズ・ショウ」といった映画に描かれているがごときである。長い目で見れば、むしろクイズ文化の衰退に寄与しているといった感想さえ受ける。


 話を高校生クイズに戻そう。今回の放送で気付かされたのは、もはや「早押し」といったクイズの文化が失われている、といったことである。

 決勝戦でさえ、アナウンサーが全て問題を読み終わった後に、ボタンが押される。残念ながら、クイズを愛してクイズを研究し尽くした高校生が決勝戦に残った、という感じではなかった。

 そもそも早押しクイズとは、読み上げられる問題文から、解答にたどり着くに足りる情報が得られた時点で、素早くボタンを押して解答権を得る、といった形式のクイズである。実は、こういった「早押し」が成立していたのは、「大事なことは出来るだけ後回しに言う」といった日本語の特性に負うところが大きい。

 実は早押しの芸術が成立しなくなったのも、そもそも「大事なことは最初に言え」という日本語自体の変化の現れではないだろうか。漠然とした寂しさと共に、そんなことを考えた。

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 昔のRUQSは本当に強かった。ともすると上の文章には、RUQSの存在を批判するように読める部分があるかと思うが、それは私の本意ではない。むしろRUQSはクイズ文化に対し、「早押し」の理論構築、クイズの基本的なルールを考案する(たとえば、自分が答えられないような問題を人に出すべきではない、正解には必ず根拠がなければならないなど)といった多大なる貢献ををしているのだ。

 就職情報誌などに目を通していても、「時代はスペシャリストを求めている」という人と、「いや、現代はゼネラリストが求められる時代だ」という人がいて、それぞれの論理に納得できるところがある。実は病院・医者業界でもそうなのだが、「とりあえず新卒の研修医はみんなゼネラリストの方向でいきなさい」というのが厚労省のお考えらしい。

 もし、ゼネラリストの時代である、というのが正解ならば、もっとクイズ番組が栄えてもいいはずなのになあ。高校を卒業してしばらく後、私はクイズ研究会が活動を休止しているのを知った。

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