Monday, November 08, 2004

リアルを教えるということ

 短機関銃版にも書いたが、中学校で生徒自身から採血させて血球を観察させた先生が問題にされているらしい。

生徒の血液使い理科授業 和歌山・橋本の男性教諭[共同通信]

 いろいろ感ずるところがあるので本編でも書いておくことにする。

 現在の教育課程がどうなっているのか詳しくは知らないが、私が中学生だった頃、心臓の仕組みを理解させるのに「左心室」「左心房」「右心室」「右心房」といった用語が出てきた。

 当時の理科の先生はなかなか都会的で、「試験で点が取れるような教え方」というものを心得ていた人であった。従って、心臓はこのように描けるようにしろ、と教えてもらった。

 すなわち、数学の「単位円」を書くように、小さな円と、それを仕切る十字型の直線を描く。これが心臓になる。次に、「体循環」「肺循環」を円の外に描く。その後、消しゴムを使って動脈、静脈の入り口を作り、左心系と右心系の対応を間違えないように大血管と弁を書き加え、一応の完成をみる。

 ほとんど中学校の理科(高校入試の問題を解くための理科)は、この図で間に合ってしまうのだった。本当にあのころはなんていい先生だろうと思っていた。


 さて、大学に入ってから解剖学の時間最初に習ったことの一つに「左心室は決して『左』に無いし、『右』にあるからといって必ずしも右心室とは限らない」ということがある。

 たとえば、ブラックジャックにも出てきた「内臓全転位症」という病気があるが、「左にあるのが左心室」と定義してしまうと、ずいぶん変な話になってしまう。いくつかの心臓の病気を考える上では、「どちらが左心系か?」ということを決めるのはとても大事なことだが、専門家は主にこれを「弁の位置」を基準にして考えている。

 ちなみに、権威ある解剖学書の一つであり、オンラインで公開されているGray's Anatomyでは心臓はこう描かれている。少なくとも円と十字で書ききれるような、単純な位置関係でないことはおわかりになると思う。(たぶん今回の件に文句をつけるような親御さんは、きわめて写実的な上のような絵を見せても「グロいもの子供に教えるな」と激怒されるのだろう。)


 しかし、現行の教育課程ではたとえ高等学校に進んだとしても「生物を採らない」で卒業することは可能になっているし、医療系・生理系の学部に進まなかった大学生はことによると「円と十字」の心臓を心に描いたまま大人になっているのかもしれない。

 もちろんそれでも立派な大人になれることを否定はしないが、「せめて血球ぐらい見せてやれよ」と思うのも事実である。


 私は大学の系統解剖の時、教官が皮神経を剖出して見せてくれたとき、「これが神経だ」といわれて現物を見せられても「いや、こんなあからさまなものが神経のわけないだろう」と本気で思っていた。

 それまで座学で習った「神経」といえば、なにやら黒板の上に、一本だけ足を長く伸ばしたクラゲのような図で描かれたものであったし、二本の平行線の間にプラス記号とマイナス記号がたくさん書かれたものでもあった。それだけ「神経」に対して、ある種神秘的なイメージを抱いていたのだった。

 実際目の前にある黄色い繊維質の一件を見せられたとき、それが今まで教科書で習ってきた「神経」であることを、知識として受け入れはした。だが、神経が目に見えるものであり、場合によっては縫合することもできるものだ、ということを心の底から納得するには、相当長い期間を要したのである。実を言うと系統解剖終わってからだったような気がする。


 「実物を見る」という機会は大切にしなくてはいけない。今だからこそ、そう言える。



 また、いくつかのblogで、「先生は感染に対する配慮が足りなかった」という意見がみられたが、これに対しても少し述べておきたい。

 まず、「消毒」と「滅菌」の違いについて確認しておきたい。「消毒」とは、病原性のある微生物を取り除く操作のことであり、「滅菌」とは病原性のあるなしを問わずすべての微生物を殺す操作のことを指す。皮膚などは「消毒」できるが、「滅菌」するのは不可能だ。

 医療従事者が採血するときには、必ずガスなりガンマ線なりで「滅菌」された注射器・注射針を用いるのが常識である。それは、感染を起こさないことはもちろんだが、採取した検体内に余計な微生物が混入していれば検査結果を狂わせることになるからでもある。

 記事では「熱消毒した針と消毒液」を用いた、と書いてある。器具をガスバーナーの炎の中にくぐらせる、というやり方は、「火炎滅菌」と呼ばれ、注意深く行えばこれはかなり信頼性の高い「滅菌」法の一つである。従って、記事にある「熱消毒」は我々がふつう目にする用語ではないが、この先生が大学で培養法や無菌操作を学んでいた方であれば、針からの感染はほぼ心配しないでいいレベルであったことが推測される。

 しかし、針でつついた程度の傷から重大な感染症が起こる、ということはほとんど心配しないでいいようにも思える。もちろん、生まれつきASDやVSDといった心疾患を抱えている子供については配慮する必要があるだろう。しかし、ふつう針で刺した後は絆創膏くらい巻くだろうから、たとえば破傷風だとか、あるいは菌血症になって死ぬだとかいうことは考えなくていいレベルの話だ。そんなのあればたぶんLancetぐらい載るぞ。

 この場合問題となるとすれば、むしろ採血手技を行った後の針の行方である。原則的に「血は汚いものと仮定せよ」というのは、さっきまで述べたこととは逆説的だが、医療の常識である。(これについて詳しく説明するとさらに長くなるので割愛する)。従って、針はすべて「感染性廃棄物」として処分すべきなのだが、中学校や高校の理科教育でその予算があるのだろうか。

 また、「他の人が使った針は絶対にさわらない」ことも生徒に徹底させる必要があるだろう。気にするとすればそんなところだ。

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