一方、小泉首相の靖国神社参拝に関して「中国では罪を犯した者は、その死後も罪を追及する。中国の国民感情を考えない参拝は問題」と批判した。
我が子を殺害 メディアが多用する「無理心中」の欺瞞[BNN]
各マスメディアは、この事件を無理心中と報じた。確かに主婦が我が子を手に掛け、自らも命を絶ったことは無理心中にほかならない。
しかし、家庭の金銭問題、あるいは子どもの障害など深刻な事情があったにしても、これは殺人事件と呼ぶべきではないか。
日本人には、「魂を罰する」という概念が存在しない。この2件のニュースは端的にそれを物語っている。
確かに、刑法には禁固・懲役といった刑罰が規定されている。殺人や外患誘致など、重大犯罪に対しては死刑の規定もあり、実際に施行している。一見、日本は犯罪に対して、実に厳しい刑罰を持った国であるように見える。
しかし、同時に日本国憲法第36条には、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」と書いてある。ここには、本質的な人間の尊厳というものを至上に尊重する態度が表れている。つまり、「違法行為に対しては罰するが、生きている人間の魂を罰しない」ということである。
キリスト教的世界では、「死後裁きに逢う」という言葉がある。この言葉の真意は、「この世に生きる人間には限りなく真実に近づくことが出来るが、決してそれを手に入れることは出来ない。真実は神のみが知るものだ」というところにある。
米国で、事実上一審制の陪審員制度が普及しているのも、結局はこの世界観が元になっている。真実かどうかをとことんまで追求するように見えながら、その実は、陪審員という、一般社会のメンバーを巻き込んで、起こりえるマチガイに対する責任を分担する仕組みなのである。
死刑廃止の議論においても、必ず「人間がやる裁判には必ず冤罪を起こす余地がある。そんなことで人の生死が決定されることがあってはならない」という意見が出てくる。
養老孟司先生が「逆さメガネ」で書いていることだが、日本人には死人がよみがえって何か悪さをするという概念は、本質的に無いのだという。ところが、中国人は今だに毛沢東先生の肖像画を崇拝する人がいるように、死んでもなお権勢を保ち続ける人物というのがいる、と考える。
靖国参拝に反応する中国。死刑を恐れない宅間守のような犯罪者。テロ抑止のためなら容疑者に対する拷問もやむなしとする米国世論。
これらの事象を見るとき、果たして我々に魂を罰する事が許されるのか、というのが根本的な問題であるように思う。そして我々は無意識のうちにそれに否と答えているのである。
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だがもし、子供に次のように聞かれたらどう答えればいいのか。
「ねえ、死刑になる覚悟があったら人を何人殺しても良いんでしょ?」
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