わたしのようなオッサンは、鈴木健二氏というとすぐ「クイズ面白ゼミナール」を思い出すのだが、それはさておき。
選手の言葉にも「言葉が一律で薄っぺらい」と指摘し、自ら客席で朗読を指導した。往年の“テレビの顔”が「(本は)言葉を確実に身に着けられる」と、読書の効用を語った。
確かに、現在最も豊かな日本語の表現力を持つと思われるアナウンサーが、その能力を生かし切れない番組にいることは残念の極みである。少なくとも彼のスポーツ中継は、表現力という観点から見れば完璧であった。
「言葉が薄っぺらい」、という問題の他にも、本来国民に正しい日本語を提供するべき職業であるはずのアナウンサーが、あまりにも日本語をないがしろにしている。それに気付くことは、もう珍しくなくなってしまった。
あるスポーツ番組で、「ロウソクのマグワイヤ、中村紀洋選手」とアナウンサーが言ったことがあって、一瞬考えてしまった。脳内IMEから「再変換」を実施し、それが「浪速のマグワイヤ」であることに気付くには数秒を要した。
また数年前から、「すごい楽しみです」といった表現を聞くことが多くなった。この分自体が軽薄で実にいやな日本語なのだが、気付くと自分でも使ってしまっていることがある。しかし、もちろん「すごい」の連用形は「すごく」である。しかし、公共の電波に乗るアナウンサーの日本語がこの表現を受け入れるのに、それほど時間はかからなかった。
韓国籍の歌手、BoAも来日してからしばらくの間、NHKのアナウンサーについて徹底的に日本語のトレーニングを受けたという。ここ最近はかなり怪しい日本語に「戻って」来ているが、デビュー直後は驚くほど正しい文法を用いていたように思う。まあ、怪しい日本語を用いる我々日本人自身にも咎がある。
いざというとき、アナウンサーの日本語には人命がかかることだってある。果たして現代のアナウンサーは、それに耐えうるだけの職業意識を持ち合わせているのだろうか、と思うことがままある。
いわゆる「お天気お姉さん」が「気象予報士」という資格によって権威付けされたように(まあI原家の坊っちゃんはともかく)、そろそろ文部科学省国語審議会かどこかが中心となって、正しい日本語を話すアナウンサーに何らかの資格試験を実施すべきである、と考える。それを、たとえば「日本語朗読師」と名付ける。
もちろん、今までのように容姿中心でアナウンサーを選定することがあっても良いのだが、それは「局アナ」ならぬ「局タレ」として、国家資格に基づく正式な日本語朗読師とは区別するのである。
もちろん言葉は生き物であり、社会のあり方によって変容することは許容される。従って、各々の時代の日本語に対応するため3、4年おきに資格試験の更新試験を設けねばなるまい。
また、放送内容を監視する第三者機関を新たに設け、(米国などでは、こうした「アーカイブ」が存在するが、日本には無い。これがいわゆる「報道被害」を立証する上で、一つの壁になっていることはあまり知られていない。)アナウンサーがしゃべる日本語を毎日チェックするのである。あまりに減点が多いアナウンサーは、資格を返上しなくてはならない。
別に国家資格がなければ報道番組に登板させてならない、という法律まで作ることはない。それは明かな国による言論統制となるが、気象予報士の例に見るように、いわゆる「名称独占」でもそれなりの圧力をかけることは可能であろう。
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