JIRO氏の7月31日分「リコーダー(縦笛)というのは、皆が考えているような、幼稚な楽器ではない。」より、『音楽は厳しいものだ』という意見に賛成する。
私はいわゆるクラシック音楽を好かない。それどころか、クラシック音楽を奏でるアマチュア「音楽家」にはまず99%殺意を覚える。
それには理由がある。私の母は、姉と私にピアノを教えさせた。私は途中、というか初めてから3ヶ月ほどであっさりと挫折したが、姉の方はその後もピアノを続け、音楽系の短大に推薦入学した。今でも教員としてその技術で飯を食っている。
しかし、JIRO氏の言うとおり、一つの楽器をきちんと使いこなすというのは生半可なことでないのである。
姉は毎日ピアノを弾いた。私が思うに、ピアノの音色には「呪詛」か「怨念」のいずれかの言葉を用いてしか表現使用のない演奏者の念が籠もる。
基節は冬。ピアノの音が煙突に跳ね返る。「くわあぁぁぁぁぁぁーーーん」と不気味な音が響く。耳を覆っても覆っても防ぐことの出来ない音だ。
幼い私は押入れに入り、布団の中に隠れて音から逃れようとしたが、音というものは実に厄介だ。不味いものなら食わねばいい。汚い画なら目を閉じればいい。臭いものなら息をしなければいい。しかし、怨念の籠もった音というものは、耳を閉じても頭蓋骨や胸膜を通して否応なしに染みこむものなのである。
今でも私は、高名な演奏家の姿を見るにつけ、その見事な演奏の裏にある暴力と脅迫の陰を見る。たとえば、純粋に技術的な面から見れば、放送に出てくる北朝鮮の子供たちの音楽的レベルはかなりのものに達している。しかし、その裏にいったいどれだけの脅迫や暴行がこの子たちに加えられただろう、その仕打ちに耐えられずに脱落していった子供たちはいったいどこに行ったのだろう、と考えてしまうのだ。
しかしながら、またそういった暴力と脅迫なしでは真に洗練された音楽は生まれ得ないものだと信じている。
いわゆるストリートミュージシャンという輩がいる。いつも思うのだが、車を公道の上で運転するという行為は、法律で決められた教習所の場内教習を経、仮免許を受けてからでないと社会的に許されない。それは、公道を行き来する一般の人々を守るための決まりである。
公道を歩く人々の耳も守られねばなるまい。どうせ奴らは警察から正式の許可も得ずに公道を占拠しているのである。
せめて、公的機関が審査を行い、「公道で楽曲を披露するに値する」レベルに達しているかどうかを判断した後(もちろんこのプロセスには、一般市民の参加が不可欠であろう)改めて「路上音楽演奏免許」を発行すべきである。免許を持たぬ雑音製造器はどんどん警察がブタ箱にぶち込めばいい。
私は、本質的に音楽を奏でる人間が嫌いである。だが、下手な音楽を垂れ流す人間はもっと嫌いである。そういう人間を目にしたときの私の目は、無意識のうちに「アルカトラズからの脱出」の一シーンを再生しながら、近くに手斧がないかどうか探しているのである。
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