Monday, July 12, 2004

三叉神経痛の思い出

 我が人生にして最悪の風邪の終末症状は、どうやら顔面に来たようで、眉毛と眉毛の間、いわゆる前頭洞のあたりがひどく痛んでいた。そのせいで土日はほぼ何もする気が起きなかったのである。

 最初は感染が副鼻腔に及んで、いわゆる「蓄膿症」を起こしたのかと思ったが、どうもこれとよく似た痛みを19歳の時に味わったことを思い出した。


 当時私は、札幌に出てきたばかりの予備校生で、毎日毎日周囲に遅れまいと必死だった。やがて七月がやってくると、予備校は「夏期講習」という明目でさらに家計を絞りにかかる。自分の体力は無限だ、努力すれば叶わぬものはないと信じていたあの頃。

 私は、朝から晩まで予備校の夏期講座を詰め込んでいた。明らかにオーバーワークだったのである。

 しかし、肉体の限界はある日突然、体調の変容という形になって現れる。

 ある時、クーラーの効いた予備校の教室の中で、私は右目の上に奇妙な鈍痛を感じた。何というか、鉄のハンマーでグリグリと押し込まれるような、そんな痛みなのである。はじめは我慢していたが、そのうちに痛みは無視できないものになり、ややもすれば幻暈や吐き気まで感じてくるようになった。

 今では、その部位に眼窩上切痕というたいした名前が付いており、そこは三叉神経の第一枝が顔面に表れる場所だということを知っている。しかし、当時の私は単なる予備校生であった。全く社会の役にも立たず、自分はゴミのような存在だと言うことをわきまえていた。

 慣れない札幌で、私は必死に眼科を探した。札幌に出てきたとき伯母さんからもらった電話帳を必死にたぐるが、目がかすむ。やっと見つけたビルの上の眼科は、コンタクト屋の前だった。こんなとこ信用できるか、と思った。再び駅前の電話ボックスで、電話帳の「病院・医院」のページをたぐる。

 そのときだった。

 私の鼻から、潜血が鮮やかにほとばしり、ガラス戸の内側を汚した。

 イヤになってしまった私は、すごすごと北13条の自室へ戻り、横になってしばらく休むことにした。そして、ややあってから再び地図と電話帳を見ると、地下鉄で一駅隣に、大きな眼科の専門病院があることに気づいたのである。

 やや髪に白いものが混じった医師に診察して頂いた私は、「これは眼科の病気ではなくて、三叉神経痛ですね」と言われ、心底安堵した。しかし、その原因がいわゆる「肩こり」であるとも言われ、どうしたものかと思った。結局先生はヴィタミンB入りの点眼薬を処方して下さったのだが、そこで私は己の限界に気づいたのであった。


 人は痛みに関する記憶を、なかなか失うことが出来ないものだ。今回の痛みも、あの時と大変似たような感じである。また、両眼窩上切痕を探ってみると、確かにその点で圧痛を感じる。頭位変換で疼痛が増強するのは正直なぜだかわからなかったが、自ら肩を積極的にほぐすよう自分でマッサージ・体操することにより、二日取れなかった痛みがだんだん改善してきた。

 体調が悪いにもかかわらず、この一週間はそれでも負担をかけすぎていたのであろう。それはもはや「若さの終わり」を意味するのかも知れない。


 それにしても、あの後駅前の電話ボックスで電話帳を開いた人は、さぞ腰を抜かしただろう、と思う。「病院・医院」のページに血痕がべったり付いていたのだから。

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 明日あたり本気で「自遊空間」でも行ってこよう。健康保険では治せない体調不良というものは、明らかに存在する。

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