Wednesday, November 27, 2002

サービス業

 医療はサービス業である、という考え方がある。
 そういう立場から言えば、下のような意見が出るのもうなずける。
 http://www.asahi.com/politics/update/1126/003.html

 すなわち、医療はサービス業であるから、競争原理をどんどん投入すればよりよいものになるはずだ、ということだ。
 確かに、ある面においては医療はサービス業といえる。

 しかし、医師の仕事は、100%サービス業といえるものではない。

 医師の職域が、ほかのサービス業、あるいは極論で言えばほかの医療職と違うといえるところは、「医師は目の前の患者一人に自分の全力を尽くしてはいけない」ということであると思う。
 確かに、「目の前の患者さんにベストを尽くす」というのは、テレビや小説を通して医療の理想像として広く信じられていることではある。

 だが、次のような例を考えてほしい。
 症例一;Aさんは36歳の運転手である。24時間前、交通事故で頭部外傷を負い、植物状態にある。回復の見込みはほぼ認められない。彼を一日ICUで生かすのに、1日100万円の医療費が必要である。
 症例二;Bさんは48歳の女性。一週間前、膀胱炎と診断され、抗生剤の処方を受けた。現代医学の常識として、こういう病気で抗生物質を3日服用すれば、その後飲み続けても大して病状の変化がないことがわかっている。しかし、Bさんは「まだ残尿感が残るので、薬をください。もし先生が出してくださらないのであれば、ほかの医者へかかります」と言う。

 いずれの症例も、患者(あるいはその家族)に対して「顧客の満足」を優先させるサービス業の考え方であれば、「わずかな回復の見込みにかけて治療を継続する」「念のため、また患者の満足のために抗生剤を処方する」というのが正解だろう。

 しかし、症例一のジレンマは医療費が枯渇しつつある社会において、より切実な問題となり得るであろう。また症例二に関して言えば、漫然とした抗生剤の処方が、多くの耐性菌(抗生物質に「慣れて」しまって、死ななくなったバイキン)を生み出したことは、現代医療の暗部としてすでに歴史の一部となっている。
 これらの行為は、結果として、ほかの多くの患者の「生きる機会」を奪ってしまうことになる。

 医師の仕事は、目の前の患者に全力投球する事ではない。悲しいことではあるけれども、その点で目の前の患者さんの要求に添えないこともある。

 簡単に「医療はサービス業だ」と言うことはできるが、実際我々の「サービス」というものは個人だけに向けられるのものではなく、「マス」に対してのサービスをも含むことを忘れてはならない。
 最終的にその辺のバランスをとるのは、いくら恨み言を言われようとも、医師と言う仕事以外にない。憎まれるのも、仕事の一つである、ということだろうか。

Sunday, November 17, 2002

say hello to...

 「ブラックジャックによろしく」という漫画がある。
 最近、ある先生が講義の話題に出して以来、我々の学年では結構はやっていたりする。

 漫画の内容は、某医学部を卒業して、初めて研修医となった青年、斉藤英二郎の苦悩の日々を描くものだ。

 先生の反応は、「あそこまでワヤじゃないだろう」
 つまり、質の差ではなくて度合いの差だ、ということだ。
 山崎豊子が「白い巨塔」を書いた時代から、本質的なものは変わっていない、ということか。

 私の読後感は、「そういうことは、ふつう研修医になる前に気づくんだけどな」
 主人公を、研修医という微妙な時期に設定せざるを得なかったからこそ、少々無理なところはある。だが、やはり一読の価値はあるだろう。

 特に、日頃医学部に関わりのない人に、読んで欲しい作品である。

Tuesday, November 12, 2002

一銭の得にもならぬ仕事

最近、金銭的には得にならぬ仕事をしてしまった。
だが、うまくいけば、大きな価値を生む仕事かも知れない。


あ、TOEICって11月24日だっけ。
べんきょーしなきゃーーなー。

Monday, October 07, 2002

サイト改築 (CSS化)

今後の課題

1.基本的に色が変わっただけ
2.しかも、この日記だけ配色が浮いている
3.よく目を凝らすと、トップページは剥がれかけた便所の壁紙みたい
  (大理石の「目」が合ってないのがばれそうだ)
4.リンク集が激重になった
5.しかも、一部のリンク先には許可をもらってない
6.さらに、リンク先と名前の違うところがある(・・・まずいよー)
7.付け加えると、今回の目玉だったはずの「会員専用ページ」は、
  まだ全然作ってない
8.あり得ないファイル名を入れると、心臓が止まりそうなほど
  ビビッドな色の404(403)ファイルが出てくる。
9.しかも、その英語がかなり怪しい。

Sunday, October 06, 2002

GUI世代

 この日記を見に来ている人の多くは(=少なくとも3人は)、Windowsや、UNIXのX window systemというGUI環境であると思う。

GUI(Graphical User Interface)とは、ひどく大雑把にいえば、マウスを使ってコンピュータを扱う仕組み、ということだ。10年くらい前のMS-DOSマシンをあつかったことがある人ならわかるとは思うが、(実際私も中学校の技術家庭でその手の代物に触れたことがある)それまでのコンピュータというものは、まずスイッチを入れ、そして真っ暗な画面になにやら浮かび上がる
+1028KB OK
(何がOKなのか、未だによくわからないが)
とかいう表示の後に出てくる
A:>
という不可思議な文字を見て、まずこれで途方に暮れるのである。

 その後、何かまともなことをしようと思えば、たとえば
A:>basic.exe
とかなんとか入れなくてはならないが、元々中学生なんかキーボードさわったことがないものだから、これですでに5分経過したりする。そこでしばらく待っていて、初めてマウスを使えるお絵かきソフトが使えたりして、ほっとするのだ。

 その点からいえば、Windows95というのは実に画期的な(パクリ)商品で、スイッチを入れてお茶のいっぱいも入れて待っていれば、すぐにマウスでコンピュータを「いじる」ことができるようになる。

 思うに、50歳以上のオジサン世代(特に教員!)というものは、激動の昭和を生き抜いてきただけあって(だって、計算機が歯車でできてた時代を知っているのだ)キャノンやカシオのワードプロセッサの扱いには、長けている。

 ところが、なぜかWindowsを始めとするGUIの扱いは、さっぱりである。「右上のちっちゃな×にポインタをあわせる」という、人ならば本能的にできるはずのことが、できないのである。

 思うに、我々がGUI世代と、ワープロ世代(CUI世代?)との差は、インベーダーゲームやファミリーコンピュータといったゲーム機をさわった経験の多寡が影響しているのではないか。

 基本的にファミコンというのは、「一つのレバー(十字キー)と、二つのボタン」ですべてをこなしてしまうシステムである。ドラクエをやってみればわかるが、これで文字入力まで可能にしているのである。

 と、なるとやはりこのGUI世代に対して、まだまだCUI(Command User Interface)全盛であるUNIXに慣れさせていくのは、ちょっとした苦労であるだろう。

 と、いうわけで、今Windows上で動くテキストエディタについての説明文を書いている。まず、「テキスト」という概念から理解してもらうことが、UNIXへの理解への第一歩となるのではないか、と考えるからである。

 たいしてまとまらん。

Friday, October 04, 2002

試験

 久しぶりに駄論文。

 試験というものには、公平の原則がある。
 すなわち、「その試験で計ろうとする以外の要素は、結果に影響してはならない」という原則である。もちろんこれは、出自、過去の成績、受験地などが影響しない、ということを含んでいる。

 この公平性は、次に水平的平等(空間的平等)と、垂直的平等(時間的平等)に分けられる。

 水平的平等というのは、その試験を同時に受験する集団に対する公平性のことで、これを満たすために実際の試験では以下のようなことが行われる。
 まず、第一に、すべての受験者が同じ問題を与えられる。
 そして、その試験は可能な限り同時刻に行われる。
 また、試験者側からは、受験者の匿名性が保たれるよう、名前の代わりに受験番号を使用する。

 垂直的公平性とは、たとえば2001年に受験して合格となった集団と、2002年に合格した集団での差が出ない、ということである。これは、特に資格試験で重視されるべきことである。
 垂直的公平性を満たすためには、毎回均質な問題(すなわち、平均点、標準偏差などが一致する)を出すことが求められる。

 以上のことによって、建前としての公平性を維持するわけであるが、ここに本質的な試験というものの矛盾がある。

 まず、水平的公平性に関してだが、一回に出題できる問題の量には限りがあるので、いわゆる山が当たる、はずれるといった個人個人の学習の偏りによるバイアスを排除できない。

 センター試験や国家試験といった大規模試験では、垂直的公平性を確保するために膨大な量の問題を蓄積し(これをプール問題という)、この中から一部を抽出し、毎回の試験に供するという方法が採られる。
 しかし、大学の講座レベルでは「毎年同じ問題を出す」という実に省エネな(出題者にとっても回答者にとっても)方法が採られることが多い。まあ、それは試験期間中に集中的な暗期量を求める医学部特有な現象ともいえるのだが。
 いずれにしても、結局受験者が求められるのは、出題範囲として出ている事項の中のさらに限られた範囲の中の、ワンパターンな問題に答える能力、という事になってしまいがちである。また、事前にその試験に関する過去の「情報」を得ているものが、それを知らないものより有利になってしまう。これは、試験としての設計意図からはずれたことのはずである。

 ときに、日本でもCBT(comuter based test)が医育機関での中間的な評価として用いられることになり、これに我々もトライアルとして参加することが、医学部長命令として出た。

 このCBTというやつは、上記の公平性という観点から見るといろいろ斬新なところがある。

 今日は疲れたからここまで。

大原則

 新聞局の掲示板にも書いておいたが、どうやら私は大変な思考ミスを犯していたようだ。

 誰かが全く理解できない行動なり、発言なりを行った場合、疑うべきはそいつの頭の中身ではなく、そいつが立っている足下のほうである。

 その大原則を忘れていた。

Tuesday, October 01, 2002

恥曝し

並ぶだけで日給3万円のバイトなら、私もやりたかった、と思う。

 西友の一件は、北海道の恥曝しである。
 ○ンサドーレ、A○R DO、とこの手のネタはつきないのだが、今年はまあよく膿の出る一年である。

 だいたい、今回は豚肉を買った証明となるレシートも求めないで返金に応じるという、ずいぶんな性善説に基づいた対応を持ったがために起こったことであった。
 そもそも、店が「客の善意」を信じるという前提には、「店の善意」を信じる客の存在があるのであって、その相互関係が壊されてしまった時には、意味をなさないものだ。

 それにしても、なぜ大企業・西友ともあろう会社が、こんなマヌケな方法を見せたのであろうか。考えられることは二つある。

 一つは、どうせ軽微な偽装事件であるからと、気前よく返金を行うことによって「太っ腹な会社」であるところを見せつけ(つまりある程度の赤字が出るのは予想の上で)、結果として客の信頼を金で買い戻そうと考えていたのだ、という仮説である。もしそうならば、ずいぶん高い金を払って恥の上塗りをしたものだ。

 二つ目は、本気で会社幹部が性善説を信じていた、つまり本物のバカだったということ。これはまずないだろうが、あったとすれば「普通の人間」の発想を理解できない、とんでもない坊ちゃん育ちの経営者、ということになる。そう考えると、ますます「イタい」ものを感じてしまい、かえってあそこで買う気はしなくなる。

 余談になるが、雪印の一件以来、北海道といえば不良品の巣窟のようなイメージが染みついてしまっていた。本州にも、探せばまだまだバカはいるものである、と思い、久しぶりに爽快な気分になった出来事であった。

Monday, September 16, 2002

「立てこもり」事件

 福岡の籠城事件は最悪の結末を迎えたようだ。
 全く関係のない児童の命を突然奪った犯人の行動に怒りを覚えるとともに、これが日本における「立てこもり」事案に対する、警察の対処が変わる一契機になるのでは、という感想を持った。

 本来、「人質を取って立てこもる」というのは、きわめて成算の低い犯罪である。
 立てこもる方は、事件発生から目的の成就まで、一時の油断も許されないのに対し、対処に当たる治安部隊側は、監視要員を交代し、相手側の出方に対し常にある程度の余裕を持つことができる。

 ただ一つの例外は、犯人側がタイムリミットを設定し、「何日何時までに要求をのまなければ人質を殺す」と言う場合であるが、この場合タイムリミットの到来とともに犯人の逮捕、あるいは死という結果になることが目に見えているということが問題となる。

 数学的な「ゲーム理論」では、こういう場合「人質解放、犯人逃走」というのが双方にとって最良の解(犯人側のメリットと、警察側のメリットが最大)になることが知られている。が、犯人側が犯罪企図に費やした労力を勘案すれば、実際これでは犯人の負けという結果になる。故に、現実の犯罪では簡単に犯人が妥協せず、解決が難しい。

 現実の例をとれば、たとえば「ペルー公邸人質事件」は、解決までに数ヶ月の時間を要したが、逆に、治安部隊側にそれだけ準備の時間を与え(トンネル、実物大の建物を使った訓練など)、突入に有利な状況を形成し得たということである。
 昨年9月11日、テロリストが「航空機を用いた自爆テロ」というショッキングな手段を用いたことも、ペルー公邸事件の影響があるのではないか。「立てこもり」では、事件発生によるショックが時間の経過とともに緩和されるという難点がある。

 今回、そして西鉄バスジャック事件では、刃物による死者が出ている。実はナイフ、包丁などの刃物による人質事件は、銃器によるものよりも「不測の事態」が起きやすい、ということを前に読んだことがある。
 刃物を持った犯人を、治安機関が銃器で狙撃する、ということは一見過剰防衛のようにも見える。しかし、至近距離での刃物は銃器よりもむしろ致命的な結果をもたらす事が多く、また操作が容易であるということを考えれば、十分その選択肢はあってもいいのではないか、と考える。

Saturday, August 17, 2002

原因と結果

 ここ二ヶ月ほど、ある理由により、更新をさぼっていたことを率直にお詫びする。

 一年生の頃受けた、医事法学の講義を思い出すことがあった。
 その先生曰く、「医療事故には、医療ミスによるものと、それ以外のものがある」と。すなわち、医療者の過失により起こるものが『医療ミス』であるが、たとえ医療者がベストを尽くしても医療事故は起こるものである、というのである。

 しかしながら、これには以下のような反論も考えられる。またこれは、マスコミやそれによって形成される世論の一般的な意見でもある。

 「交通事故死(自動車事故、航空機事故など)を例に取れば、被害者のいるところには常に加害者が存在する。すなわち、過失の結果として事故が起こるのであり、事故が起こればその原因を追及し、もって繰り返さぬよう努力するのは、社会の当然の規範である。医療事故の場合も同様ではないか。」

 前半部分、交通事故に関する論点に関しては私も異存はない。しかし、医療事故の場合において、これと同様の論拠が通用するか、といえば私は首を傾げざるを得ない。

 交通事故とは、換言すれば「工業製品による事故」である。工業製品たる自動車の設計から、それを実際に道路上で操作する人間の意志まで、すべてが結びついた結果起こるのが交通事故である。
 従って、極端な話、すべての自動車を時速20km以上出せないよう設計し、また運転を完全コンピュータ制御にして、公道を全部壁で覆う(歩行者と自動車を完全に分離する)事ができれば、交通事故死はなくすことができるが、経済の兼ね合いから、なかなかそうはできない、というだけの話である。

 では、医療にもこのような管理が持ち込めるかというと、それは根本から無理である。

 まず、人間という存在自体が、人為に依るものではない。やるからできるのだ、というレベルではなくて、そもそも「ヒト」というものには設計図が存在しないのである。
 ヒトゲノム計画というのもあるにはあるが、今盛んにやっているあれは人の設計図を読むのではない。たとえるならば地底人語で書かれた地図を発見した人が、その上のドドミ色のシミを見て、意味のある記号なのか、それともモグラの糞なのか、訳も分からずにとりあえず鉛筆でスケッチしているようなものである。

 要するに、人の構造さえもわかっていないのに何かを行うという性質上、医療は元々「半サービス」である。

 また、病院で行う検査にも、「感度・特異度」というのがある。
 わかりやすくするために検査を警察にたとえることにする。
 「感度」というのは犯罪を犯した人間を、検挙できる確率(有病者が異常とされる確率)である。「特異度」というのは無実の人間を逮捕しない確率(正常者が正常とされる確率)となる。
 実際の警察にも、犯人を取り逃がしたり、無実の人にえん罪をかぶせたりすることがあるように、病院の検査にも絶対を求めることはできない。中には「ゴールデン・スタンダード」といって、絶対に間違いを犯さない刑事コロンボのような検査もあるが、それらは概して腹を切ったり、太いカテーテルをつっこんだりするきつい検査であることが多い。

 また、次のような考え方もできる。
 自動車を作るための工学とは、本を質せば物理学の応用である。すなわち、ある限られた法則の発展型としての形である。

 これに対し医学、生命科学とは、未だ枝葉末節の部分から物事を構築しようとしている若い学問である。従って、この業界の人が使う「最新の・・・」という言葉には常に未知数の危険が伴う、という響きもある。
 
 例)最新の抗ガン剤・・・即死する可能性も否定できない
   最新の運動理論・・・10年たったら実は間違いの可能性あり

 従って、「最新」は必ずしも「最良」ではない。

 ただし、我々の住む日本国は、物質文明の進んだ工業国である。従って、ここでは工業製品、すなわち「最新」=「最良」の構図が成り立つ製品を集め、財とすることに喜びを見いだしてきた。新車を買うとうれしい。iモードを買い換えるとちょっとうれしい。1G超のパソコンを買ったので、ちょっと自慢したくなる。

 これに対し、「食う米が3俵ある」というのは現代日本では、もう大した自慢にならない。

 「食」も、大きく工業化されつつある生活の一面である。「衣」と「住」はすでに完全に家庭内工業から駆逐されたと言ってもいい時代である。

 命の源である食料を工場に頼り、いったん何か不祥事があれば無条件に企業をたたく社会。病院へ来れば、病気が「治って当然」だと思う市民。(もっとも、それは実際病気になって病院へやってくるまで、の話であるが。)

 昔、日本が農業国であった時代。「今年の不作は、お天道様のせいだから、弁護士さ呼んで、訴えるべ。」という論理にはならなかったはずであるが・・・。それから数十年。「すべての事象には、原因がなければならない」という考えが、社会に広く横行している。

 「メスをふるうのは外科医の仕事であり、傷口をふさぎ、いやすの神のなせるわざ」という言葉がある。果たして、知恵の力で「傷口をふさぎ、いやす」事ができるほど、人間は賢くなれるのであろうか。

Sunday, June 30, 2002

狂乱の一ヶ月を総括する

 ついに今夜でW杯が終わってしまう。
 全64試合のうち、予選48試合、決勝トーナメント16試合。
 なんだか決勝より予選リーグの方が楽しめたと思うのは、私だけだろうか。

 思えば今月の3日から6日頃までは、「チケットの再販売がある」という話に踊らされ、徹夜でF5を連打していたりした。
(その後フジのスーパーニュースで、ベルギー戦の間にとてもリロードが追いつかないと思われるスピードでF5を連打しているババア、もとい中年のご婦人を見かけたときは「クソババいてまうでゴラ」いや、「おばちゃんゆびがいたくならないのかなあ、かわいそうだなあ」とおもいました。思ったことにする。

 しかし一つ思うことには、日本人サポーターの大多数が決勝リーグ一位通過を決めた時点で「もうこれでいいよ、こんなもんだろう」という雰囲気にあったのではないかなあ、ということだ。
 それに対しお隣の韓国では、「いけるとこまでいったろう」という、よく言えばハングリーな、悪く言えば限度を知らない根性が大いに見えた。2-3-5フォーメーションなんか、「セガ・ワールドワイドサッカー」以外でわしゃ見たことがない。

 そういう意味で、所詮このW杯も多くの日本人にとって「単なるサッカーの大会」に過ぎなかったことがわかるし、ぐんぐん加速し続けるアジアにおいて日本の「お腹いっぱい。」度が知れようと言うものである。

 ちなみにお隣の韓国では、医学部の講義は韓国語で行われるものの、試験・レポートはすべて英語で書かされるのが普通だという。オレだったら泣くね。

 我が国も後20年、いや15年くらいのものであろう。
 こういうのを真の意味での「憂国」というのだ。きっと。

Friday, June 21, 2002

消耗品?

先日、私のプリンタCanon BJ F-600が壊れた。
紙送りに問題が出て、手差しにしても全く用紙を送らなくなってしまったのである。まあ、かれこれざっと1万枚はプリントしたはずなので、寿命といえば寿命である。
(某社のレーザープリンタにも、保証期限は6ヶ月か1万2千枚プリントのどちらか早いほう、ということが書かれている。)

しかし、このプリンタの性能を最大限度に引き出すこと無く、使いつぶしたという点が悔しい。1200×1200dpiなので、それなりに光沢紙でも使えばデジカメのプリント機としても十分使えたはずである。しかし、主に自分の環境ではPDF書類や、レポートの印刷などに使うことが主であるので、これほどの高解像度は必要としないわけである。

と、いうわけで一番安い奴を買うことにした。
HPのdeskjet 845c (\10,800) という一件を買った。

USB接続ながら、
http://www.linuxprinting.org
で"perfectly"のお墨付。librettoのポートと気軽に差し替えて使うことができる、というのもUSBの強みである。


やはり、安いものほど役に立つ。
安いものを柔らかく使える若さのある人間であり続けたい、と思った一日でした。

おしまい。

Thursday, June 20, 2002

今日来たspam

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Wednesday, June 12, 2002

書きたいことを、書く。

 学祭でいろいろともめていることはいろいろな板に書いているので、細かい説明は省く。結局7600円取られた。

 チケットを転売することによって各員の損失を補填せよと言うが、それではまるでア◯ウェイではないか。くだらない、そんなこと学祭のためにやるくらいなら最初からアム◯ェイに入っている。

 だいたいが、態度の問題である。「これこれの理由で、僕らの思う限る工夫して倹約したけれども、今年の学祭を実行する上でこれだけの赤字が出ました。申し訳ありませんが、XXXX円寄付してください」というのならまだしも、
 人を講堂に呼びつけた上で愚にも付かない議論を繰り返し、「こういうことで、チケット代としてXXXX円払ってもらいます。そのお金は、各人チケットの転売でまかなう(彼らは、これを個人の『努力』とのたまう)ことにしてください」というのでは、誰も納得しない。

 そもそも、学祭の執行委員という立場は選挙によって選ばれたのでもなければ、4年生の総意に基づくものでもない。そこら辺があいまいであるにもかかわらず、我々が彼らの指揮下に入り、金銭的要求をものまなければならないのは、明らかにおかしい。
 それから、寄付金に対する領収書ももらっていない。外部広報など、各班のチーフが代表して集金することになって入るものの、これは会計の責任に置いてなされるべき事である。

 そもそも、何のために学祭をやるのか、というおおもとの議論が欠けている。人間は誰でも、自分のやっていることに対しては何らかの意味を見いだそうとするものである。だから、実行委員がその義務感によって仕事していることもわかる。けれども、我々は何も学祭をやるのが本分ではないし、我々が負う義務があるとすれば、それは560万道民に対しての「少なくともまともな医者になる」という義務のみである。

 話をゼニに戻す。世の中でゼニが動く、しかも寄付でないということになればそれは「契約」である。事と次第によっては、私も「総会屋」にならざるを得ない場合がある、ということである。

やってしまった

今時厨房でも やらないようなことをやってしまい、おおいに反省している。

Linuxの操作中、うっかりルートフォルダの直下にjpegファイルをおいてしまい、これを正すために以下のコマンドを実行。
# cd /
# mv * ~
あぼーん。

Saturday, June 01, 2002

ツベルクリン反応

 水曜日の午後、学生健康診断があった。
 4年生からは、ツベルクリン反応(ツ反)と血液検査が項目に加わり、より面倒になる。

 およそ小学生の時以来、あの痛い皮下注射を打たれた。

 その日の夕刊には、「ツベルクリン反応、学童期の一斉検査廃止へ」という大きな記事がでた。全く、打つ前に言ってくれよ、そういうことは。

 それはともかくとして、翌日、大学祭の広報(外回り)で、札幌市を縦横に駆けめぐっていると、なんだかツ反の部位がやけに痛く腫れてくるではないか。これはやばい。おそらく疲労のせいだろうが、万が一栗粒結核だとすると、・・・・。

 本日、判定にいってみると、53mmの強陽性(+++)。
 私はある意味、覚悟を決めたが、保健婦殿からは「よく冷やしといてください、それから、あなたの標準値として53mmという値を記憶しておくように」ということを言われた。

 そもそも私は、I型のアレルギーにめちゃめちゃ反応性がある体質で、手の甲を一カ所でも蚊に刺されようものなら、二日後にはまずグローブのように腫れ上がり、まず利き手で鉛筆やお箸をにぎるといったことは不可能になる。

 つまり、「そういう人だった」ということで終わったが、何というか一抹の不安が残る一日であった。

Monday, May 27, 2002

果たして連休というものがあったのかどうか、について

 ちまたではゴールデンウィークなどといっているが、ちっともそれが有り難いものであったような気がしない。

 まず第一に、今年は3日オフ+3日学校+4日オフで、しかも中3日に実験があったため対して休んだ気がしない。しかも仕事のあった最後の1日は、ほぼ24時間勤務に近いものとなってしまったので、4日オフの最初の一日はまるまる回復休業に費やすことになった。
 しかも、連休明けの一日目にいきなりNatureの論文抄読があるため、その準備にほぼ1日半はとられることになる。PBLのレポートも、3回分をまとめて書かなければならないので、かなり時間をとられる。
 4年次に上がると、夏休みもまるまる2週間程度短くなる。

 まあ、本来ならば同じ歳の奴らは皆足を棒にして就職する会社探したり、実際に仕事してたりで休みなんか無いはずなので、それを考えたら文句は言うまい。

 大事なのは、死なないことではなくて、いつどこで死ぬかである。

 今年はゴールデンウィークなどというものはなかった。それで、いいのだ。

Sunday, May 19, 2002

落とし前を、つける

今日は、以前から気になっていたことを修正した。
あまり大したこととはいえないが、それなりに時間を食った。

sapmedにおいていた日記の完全消去と、それに伴う
http://www.sapmed.ac.jp/~????
のindex.htmlを改変することである。
これだけなら、ちょっとサーバをいじったことのある方なら、「ああ、なんだそんなことか」と言われることであろう。

 しかしながら、去年秋のクラッカー騒動以降、大学の中央サーバには以下のような制限が加わった。
1.ftp全くだめ
2.学外からのtelnetおよびSSH弾く

これはどういうことを意味するか。
まず、ftpがきかないことであるが、とりあえず「ffftpなどによるファイル削除・追加が行えなくなった」といったらわかりやすいだろうか。もう少し本質的なことを言えば、手元のコンピューターで作ったファイルを、中央サーバに置くことができなくなった。
 また、2は自宅から直接大学のサーバをいじることができなくなった、ということを意味する。

 つまり、大学の学生用端末Mac OS X(telnetが実装されているのは、他に図書館の荒れ放題なWin98マシンぐらいである)からtelnetのCUI(カチャカチャ手動で"cd" "dir"などのコマンドを打ち込むやり方)経由で、中央サーバ上において"index.html"を作成しなければならなくなった。


 従って、エディタは「vi」を使用せざるを得なかったが、これでまともなファイル一つ作るのが、現代のGUI世代にとってどんなに神経を使うことか。たとえるならば、「PS2対そろばんゲーム」である。

 そもそも多くの人にとってviなんか、その存在自体知らないであろうが、
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=utf8&oe=utf8&q=vi+%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BF
でも見てその雰囲気を味わってほしい。

 とにかく、「スンマソン、このページ閉じました。何か文句あるなら打電せよ」というだけの内容の英文HTMLを書くのに、約70分を要した。

 全く、これというのも、、もとを質せば、シンガポールだかインドネシアだかの串まで通してやってきた糞クラッカーのせいである。

Saturday, May 18, 2002

代表選手23人決まる

 本日、日本代表選手23人が決定した。
 中山選手が入っただの、中村選手が漏れただのということをいちいちあげつらうつもりはない。
 ただ一つ思ったのは、元々代表選手というものは、監督の一存で決まるものであって、そこにある意味において、悲しみも優しさもあるものだなあ、ということである。
 すなわち、ギリギリで代表に漏れたからと言って、その選手が「日本で24番目にサッカーのうまい選手」であると言うことにはならない。ただ単に、「監督の構想に合わなかった」だけともいえる。

 オリンピック競技、特にスピードスケートや陸上競技などでは、こうはいくまい。国内での予選で、参加選手のすべてに順位が与えられ、トップの成績を収めた順に3人、5人といった枠で出場権が与えられるのがふつうである。

 大学入試にしたって同様で、「今年は学生の質が悪いから、定員100人のところ今年は合格者73人です」という話には、なかなかならないものである。

 人間に順位をつける、ということ。それは我々の社会ではごく日常的に行われる行為であるが、その裏には、「その構成員が、欠けることがある」という前提が隠されている。
 もっともよい例が軍隊の階級であって、あれは元々戦闘で構成員が死ぬことが大前提になっているがゆえに、かなり順位付けには厳密なものがある。二等兵、一等兵、・・・、少尉、中尉・・・といった成文化された階級の他に、同じ階級にある構成員同士でも、入隊の日付、あるいは士官学校の成績などで必ず上下ができるようなシステムになっている。

 少尉から中尉になる。会社で課長から部長になる。我々の世界でいうと、医員から医長になる。あるいは、看護主任から婦長になる・・・。

 我々は、システム(組織)からより高い地位を与えられたり、あるいはその機会を逃したりすることによって一喜一憂するものである。しかしながら、自らの肩章に増えたその星一つが、実は自己の存在を曖昧にするものでさえあることを忘れてはなるまい。

 そういう意味で、サッカーという競技が一段と面白く思えた一日であった。

Thursday, May 16, 2002

更新

あまり偉そうな文体で書くと、読売読者だと思われる。
少しまともな事を書くと、朝日読者だと思われる。
つまらなければ、毎日読者だと思われる。
ですます調で書けば、赤旗読者だと思われる。

とかく人に見せるものは書きづらい。

Monday, May 06, 2002

一つの時代

今日、三立製菓の缶入りカンパンの賞味期限が2002年3月で切れているのを発見した。
 元々、「1999年7の月」と、「2000年問題」に備えて購入したものだが、私の期待に反して何も起こらず、カンパンの缶を開けることになったのは感慨深い。
 そもそも、「世紀末思想」というのは、「原罪思想」とも通じる人間の破滅的欲求の現れではなかったろうか。そうだ、我々はあれを確かに期待していたのだ。
 今、カンパンのおまけ(唾液の分泌を促すため)についている氷砂糖をなめながら、そんなことを考えた。

 今度蓄える非常食は、やはり米軍採用のMRE(Meal Ready-to-Eat)がいいだろうか。

Thursday, April 25, 2002

救急救命士の気管内挿管について

 三月ほど前であろうか、秋田県内の救急救命士が医師に無断の気管内挿管を実施していたことが明らかになり、これをきっかけに、マスコミや世論は「救命士にも気管内挿管や、除細動器の仕様など幅広い医療行為を認めるべきだ」という方向に流れてきている。これに対し、日本医師会や厚労省などは、以前慎重な姿勢をとっており、これがいっそう市民の反感を買っている。(言い過ぎか)

 もう私も医師として食っていくしか仕方がないところまで来ているので、これに対して医師サイド、あるいは医療行政のサイドから、少し弁護を加えたい。

 まず、医師という仕事を取り巻く最近の環境から少し言わせてもらいたい。昨今、医療社会も分業化が進み、かつての医師を頂点とするピラミッド型の構造から、患者を中心として医師、看護師、薬剤師、検査技師や理学・作業療法士などが各役割を分担するドーナツ型の構造へと、大きく変わってきている事は周知の通りである。しかし、この結果、医師の行う仕事の領域は狭くなったとはいわれるものの、実際その業務内容、責任などはいささかも「楽」にはなっていない。
 もう少し別の面から見ると、実際患者(特に病棟の入院患者)と接する時間が一番長いのは看護師であるし、薬に関しては薬剤師の法が正確な知識を持ち合わせているし、栄養学に至ってはおおかたの医師はほとんど知らないことばかり(もちろん、栄養素の欠乏による病気は熟知しているが)、実際のリハビリは理学・作業療法士がやることになっているし、しまいにゃ患者に対する態度の取り方まで医師国家試験に出るしということで、臨床の場での医師の立場は昔に比べてかなり矮小化されているのではないか、というのが偽らざる実感である。

 と、なれば、「医師」という職種が病院内の他の業種に対して持っている、最後のプライオリティとはなんであろうか。つまり、医師にできて他の職種にできないことは何か。

 私が思うに、それは「診断」(判断)と「手技」である。たとえ臨床現場で実際に注射器もって薬液注入するのが看護師であろうとも、それは医師の「診断」が根底にあってのことである。勝手に看護師が投薬のオーダーを書き換えることは、いかなる理由でも許されてはならない。薬剤師も同様である。
 また、注射の下手な医師はゴマンといるが、内視鏡や腹腔内鏡、あるいは実際の外科的処置などといった診療行為、あるいは外科的治療などは、そのバックグラウンドに正確な解剖学的知識が必要となり、またその手技の最中に生じる可能性のある突発事態にも対処できなければならないため、やはりそのための訓練を積んだ医師にのみ認められる行為である。

 話を気管内挿管に戻す。

 気管内挿管自体は、少々のトレーニングを積めば誰にでもできる手技である、という。(かく言う私は、未だにご遺体に対してしかそれを行ったことがないが。)ところが問題となるのは、それが「判断」を伴う行為か否か、ということになる。

 たとえば、研修1年目の医師が腹痛で運ばれてきた患者を診察し、急性の腹膜炎を併発した虫垂炎と診断したとする。ここは緊急に開腹手術をしなければ生命に関わる結果になることが明らかであるが、いかんせんその経験がないため、自分一人では手術開始が無理である、と判断する。そこでこの研修医は、指導医の携帯電話を呼び出すなり、外科のある病院への転送を試みるなりするであろう。
 この場合、研修医は手術開始が「無理」であるという明確な判断を下したことになる。なぜそういう判断を下したのか、と言われても、「自分にはその経験がなかったから」というように、説明責任を果たす能力があるのは明らかである。

 あるいは、ベテラン外科医が胃ガンの手術をしようと快復したところ、腹腔内転移を認め、手術を中止せざるを得なかった、というような場合にも、手術という「手技」に伴う明確な「判断」が働いている。こういう場合、なぜ中止したのか、と言う問に対しては、「手術適応にならない」という、医療独特の決まり文句が用意されている。

 すなわち、基本的に医師の行う手技には「なぜそれをやるのか」「なぜやらないのか」と言う明確な判断が求められる、ということである。医療現場において、「やる気が起きなかったから、やらなかった」とか、「なんとなく自信がなかった」という言い方は許されない。

 ところが、救急救命士に対し、明文規定で「気管内挿管、除細動を行うことができる」というように権限を与えてしまうとすれば、これは「やる必要があれば、必ずやらなければいけない」ということになる。すなわち、「あのとき挿管していれば助かったはずであるのに、救急救命士が躊躇してその義務を怠ったために、こういう結果になった」というケースが生まれる可能性がある。となると、救命士は100%公務員であるから、行政裁判に負ければその賠償金は、すべて自治体が負わなければならないことになる。

 ただでさえ、国と地方の医療財政は危機に瀕している。「らい予防法」のように、「国が必要な立法を怠ったために損害が生じたことを認める」という判決が出た例もあるが、行政側の腹としては、「救命士が挿管できないことによって失われる命もあるかも知れないが、そのシステムには『法規』という後ろ盾があるのである。この法規に対して裁判所が異議を唱えることはほぼあり得ないであろうから、挿管を認めることによって多大な負債が生じるリスクは、犯すわけにいかない」というのが本音では無かろうか。

 それでいいとは、誰も思っていない・・・とは思うが。

Saturday, April 20, 2002

ロハ考

 先日、とある人にあることを頼まれた。私が持っているあるソフトウェアをコピーして、渡してほしいというのである。いろいろと考えたことはあったが、結局は断った。
 違法である、というのは大前提として、最近ACCS(日本ソフトウェア著作権協会)の活動も活発になってきているし、そのソフトウェアの中にいわゆるスパイウェア(利用者の個人情報を、勝手に収集してインターネットに送ってしまうソフト)が仕込まれている可能性も否定できないからである。
 それにしても、「只(タダ=ロハ)より高いものはない」とはよく言ったものであるが、どうも私の周りにはなんでも只でほしがる人が多い、ような気がする。


 そもそも、何かが無料で手に入る、というような状況にはどのようなものがあるか。考えてみよう。

1.広告媒体として用いられる
 武富士のティッシュが代表的。

2.有償の商品の付加価値を高めるために提供される
 グリコのおまけ。あるいは、「コーラのシールを集めて抽選」式のものもこれに含まれるだろう。

3.ダンピングによる、競争相手の排除
 今このページを見ているInternet Explorerが代表的。この試みは大成功して、結局Netscape社はツブレてしまいました。

4.GPL許諾によるもの
 General Public Licenceと呼ばれる一連の許諾条件の下に、無償で利用が可能となっている。

5.その組織の一員たることを保証する。
 ややわかりにくいが、前項のGPLとも関連する概念である。日本では主に、「先輩、後輩」の概念でとらえられることも多かった概念である。具体例を挙げると、終身雇用制の根強かった日本では、営業・経営のノウハウといったものはそれを熟知した経験者、すなわち「先輩」から未経験者へ、(一見して)無償で与えられるものであった。ただし、この例でいけば「企業体の維持・継続」という大きな目的のために、個々の間に無償の授受が成り立つのであって、「後輩」はその企業体にその後の人生を尽くし、また後から来る、更なる未経験者を指導し育てるという義務を無意識下に背負わされているのである。これは企業・法人のみならず、ギルドや徒弟制度という形で、職能集団には太古の昔から引き継がれていた暗黙のルールであった。
(そういえば医者の世界では「ヒポクラテスの誓い」の中で、この「兄弟にはこれを喜んで教え、決して対価を求めません」というかたちで示されていたっけ)


 現在、Linux文化の根底に流れているGPLという考え方も、つきつめればこういうことが裏にあって、「ソフトウェアを勝手に改造しても、第三者に配ってもいいですが、決してそれをあなたの手柄にしてはいけませんよ」という取り決めの中で、そのソフトがよりよい形に改良され、進化していくことが期待されているわけである。換言すれば、新しいユーザーがそのソフトについて(つまりは、それをつくるプログラミング言語や、OSのあり方について)どんどん熟達していくことが前提となっているわけで、「ボクはプログラミングなんか興味ありません、UNIX詳しくなる気もありません、ただこのソフトだけ使いたいんです」というやつが現れてくると、これは困っちゃうなあ、ということになるのである。

 ただ、昔と違って今は終身雇用制も崩れているし、あらゆる価値観も分散・多様化している社会にあっては、「先輩のノウハウだけもらって条件のいい会社に転職する」とか、そういう「都合のいいこと」を考えるやつが出てきてもおかしくはないとも思うのだが。

Thursday, April 18, 2002

いわゆるひとつのチュートリアル

PBL、という科目ができた。
 Problem Based Lerningの略のようだが、要するにこれは岐阜大学からはじまった「チュートリアル」教育の一つであろう。
 具体的に何をするのか。
 きわめておおざっぱに言えば、グループ(臨床の教官一名を含む)で、一枚の紙片に書いてある仮想患者について議論するのである。我々の例でいくと、こうなる(といっても、一学年全部内容は同じようだが)
 「患者さんは51歳の男性で小泉俊一郎さんといいます。背中の重苦しさが続いていると言うことで本日外来を受診されました。IT関連の会社にお勤めの方で、会社では人事担当として、リストラの問題を抱え、最近は特にとてもストレスの多い状態で、朝方までよく眠られない日も時々あるということです。・・・(以下続く)」
 岐阜大学では成功しているらしいが、どうも我々のチームではうまく議論が噛み合わない。何を調べれば良いのか、と言った基本的なことはともかくとして、どうも発言することを良しとしないクラシカルな雰囲気がただよっているのが大きな問題だと思われる。
 ブレインストーミング、と言う方法がある。情報処理技術者の国家試験にも出たりする議論の進め方の一方法だが、とにかくどんなバカな意見でもいいから、思い付いたことはどんどん口に出していくのである。それに対して、他者が批判することは禁止される。この方法では、たくさんのアイデアを生む反面、その質には疑問が生じる。
 従って、「ディベート」という「相手を打ち負かすこと」に主眼をおいた議論法がしばしば併用される。自らの個人的意見や感情とは関係無しに、与えられた立場にたっての弁護を徹底的に展開する。
 欧米では、既に中学・高校の段階でこのような議論方法は教授され、大学教育の段階においてはより発展的な「交渉術」が教えられているという。
 案外、日本の外交が弱いのもここらへんに原因があるのかもしれない。

P.S.この「ことえり」、なかなか変換精度がいい。気に入った。

Thursday, April 11, 2002

内科診断学

 まだ4年も始まってすぐなので、今日の講義は「身体所見のとりかた」というきわめてプリンシパルな題材であった。これは、具体的に視診・打診・触診といったphisicalな方法を用いて診察を行う方法で、まさに「医者のロの字(イロハのロ)」といったところである。本日の講師が、有珠山・洞爺の噴火のもとで診療に当たった先生ということで、レントゲンさえもない状況下の診察の話を聞くことができた。

 私が常々感じることに、「病院在っての医師」ということがある。すなわち、我々医者候補生の教科書というものには心電図、CTやMRIからパルスオキシメーターまで、最新の医療機器の使い方(すなわちデータの読み方)に関しては事細かに書かれている。もちろん、最新の知識をどんどん入れていくというのは必要不可欠なことではあって、それができない医師は淘汰されていくことになる。

 しかしながら、私のアタマの奥底には、もし医者が「病院の外」にいたらどうなるのか、結局でくの坊にはなってはしまわないのかという恐怖心のようなものがある。今日の先生は、「あったのはせいぜい聴診器だけです」といわれたが、それでも経験と基本的な手技によってかなりの診断が下せることがわかった。思うに、20年、30年前の「名医」と同じ環境が与えられたときに、その環境における最善の医療を行うことのできる医師は、現代においてもやはり「名医」の名に価するのでは無かろうか。

 話は変わるが、医師免許には法の定める「欠格事項」というのがある。すなわち、「目の見えない、耳の聞こえない、口のきけない者には医師免許を与えない。すでに医師免許を持つ者が前項に該当した場合には、医師免許を剥奪する」という医師法の一文である。

 これを最近、見直そうという動きがある。しかし、本当にやる気があるのかどうかはかなり疑わしい。悪く言えば、医師過剰の時代に、そのような学生まで医師にして『やる』必要がない、と政府が考えているのではないか、ということである。

 私がそう思い至った理由は、以下のような話を新聞で読んだからである。つまりこの欠格条項撤廃に反対する勢力の人が、「聾唖者は打診ができないからダメだ」というようなことを言った。すると、厚生労働省の担当者答えて曰く、「聾唖者にもオシロスコープ等の機材を用いるなどの配慮をすることによって、打診の修得は可能である。」

 なにをかいわんやの硬直した思考であって、つっこむ必要もないように思われるが、あえてつっこませてもらえば、「オシロスコープなんてたいそうなものが手に入る環境で働くことが前提ならば、そもそも打診ぐらいできなくても医師として診断を下すことは十分に可能なはずである。なぜなら、当然エコーやレントゲンなど他の機材もてに入るはずであり、それらを用いて十分に確定診断に持っていけるだけのデータを得ることができるからである。」
 だいたいオシロスコープなんて物理学実験以来使っていないし、この先病院で使うこともないであろう。「実験器具」ではあるものの「医療器具」でないのである。それに耳で打診音を聞くことに慣れた指導医が、いったいどうやって聾の学生に「波形」の違いを教えるというのだろう。

 「免許」という言葉には、「本来やってはいけないことを、政府がその名において特別に許可する」という意味がある。その意味で、医師免許を得ようとするものに対しては一定の関門があってしかるべきなのだが、ここにはあまりに画一的な日本の教育の限界と、イチャモンをつけてでも結局は絶対的医師数を増やしたくないのだという思惑が見えたような気がするのは、私だけだろうか。

いま、やるべきこと

 何とか4年生には上がれたわけだが、今何をやるべきなのか、その優先順位について悩んでいる。
 まず、あと1年経つとポリクリ(病棟内実習)が始まるわけであるが、それに備えて内科診断学はきちんと勉強しなければならない。具体的には、診断学のテキストを記憶することに時間と集中力を傾ける、ということである。
 第二に、病理学的な基礎をきちんと固めておく、ということがある。実は三年生の段階で、病理一の教授から、今年中に「Robins' Pathological basis of desease」という本を今年中に読んでおこう、という話をされたのだが、まだ第一章を終えたばかりの所であって、1500ページの大著を読み終えるには相当な時間がかかるであろう。
  第三に、4年の終わりから、少なくとも5年生の間にUSMLE Step1を受験する、という目標を立てたのだが、そのために今手始めに生化学を復習している。
 しかしながら、たとえば「地方在住の38歳男性が就職前健康診断のため来院。眼科的検査により瞳孔下縁に混濁、および踵骨腱に結節性病変を認めた。効果的な治療のためには以下に示すもののうちどの遺伝子産物を肝細胞膜に発現させるのを目標にするがよいか」といった問題が出る。答えはコレステロール受容体の一つ、ApoB-100受容体であるのだが、こうした問題に正解するには与えられた症状に対し、まずこの患者がIII型の家族性高コレステロール血症だと「診断」する過程が必要になる。このように、すべての知識がきわめて臨床的な形を取って問われるため、「生化学」の教科書や日本の大学の講義、といったものだけではなかなか対応できないのが実状である。
 さらに、この試験は外国医学部卒業生にとって事実上all-or-nothingとなっている。具体的には、約60%の正解率で「合格」の資格が与えられることにはなっているが、実際は95%以上の正解率を出さないと、現実に米国の病院に応募した場合にことごとく担当者に弾かれてしまう、ということだ。しかもいったん中途半端な正解率で合格してしまうと、試験の受け直しはきかず、また不合格になった回数も記録される。いずれも実際の応募に関しては、応募者側にとって不利なデ-タとなる。
 「雑種第一代」の私にとっては、別にしくじったからといって何も失うものはないのであるが、米国本国に比べて、いかに日本国に暮らす我々がぬるま湯に浸かった状況にいるか、ということがこの試験勉強を通じて、いやと言うほど思い知らされるのである。