先日、とある人にあることを頼まれた。私が持っているあるソフトウェアをコピーして、渡してほしいというのである。いろいろと考えたことはあったが、結局は断った。
違法である、というのは大前提として、最近ACCS(日本ソフトウェア著作権協会)の活動も活発になってきているし、そのソフトウェアの中にいわゆるスパイウェア(利用者の個人情報を、勝手に収集してインターネットに送ってしまうソフト)が仕込まれている可能性も否定できないからである。
それにしても、「只(タダ=ロハ)より高いものはない」とはよく言ったものであるが、どうも私の周りにはなんでも只でほしがる人が多い、ような気がする。
そもそも、何かが無料で手に入る、というような状況にはどのようなものがあるか。考えてみよう。
1.広告媒体として用いられる
武富士のティッシュが代表的。
2.有償の商品の付加価値を高めるために提供される
グリコのおまけ。あるいは、「コーラのシールを集めて抽選」式のものもこれに含まれるだろう。
3.ダンピングによる、競争相手の排除
今このページを見ているInternet Explorerが代表的。この試みは大成功して、結局Netscape社はツブレてしまいました。
4.GPL許諾によるもの
General Public Licenceと呼ばれる一連の許諾条件の下に、無償で利用が可能となっている。
5.その組織の一員たることを保証する。
ややわかりにくいが、前項のGPLとも関連する概念である。日本では主に、「先輩、後輩」の概念でとらえられることも多かった概念である。具体例を挙げると、終身雇用制の根強かった日本では、営業・経営のノウハウといったものはそれを熟知した経験者、すなわち「先輩」から未経験者へ、(一見して)無償で与えられるものであった。ただし、この例でいけば「企業体の維持・継続」という大きな目的のために、個々の間に無償の授受が成り立つのであって、「後輩」はその企業体にその後の人生を尽くし、また後から来る、更なる未経験者を指導し育てるという義務を無意識下に背負わされているのである。これは企業・法人のみならず、ギルドや徒弟制度という形で、職能集団には太古の昔から引き継がれていた暗黙のルールであった。
(そういえば医者の世界では「ヒポクラテスの誓い」の中で、この「兄弟にはこれを喜んで教え、決して対価を求めません」というかたちで示されていたっけ)
現在、Linux文化の根底に流れているGPLという考え方も、つきつめればこういうことが裏にあって、「ソフトウェアを勝手に改造しても、第三者に配ってもいいですが、決してそれをあなたの手柄にしてはいけませんよ」という取り決めの中で、そのソフトがよりよい形に改良され、進化していくことが期待されているわけである。換言すれば、新しいユーザーがそのソフトについて(つまりは、それをつくるプログラミング言語や、OSのあり方について)どんどん熟達していくことが前提となっているわけで、「ボクはプログラミングなんか興味ありません、UNIX詳しくなる気もありません、ただこのソフトだけ使いたいんです」というやつが現れてくると、これは困っちゃうなあ、ということになるのである。
ただ、昔と違って今は終身雇用制も崩れているし、あらゆる価値観も分散・多様化している社会にあっては、「先輩のノウハウだけもらって条件のいい会社に転職する」とか、そういう「都合のいいこと」を考えるやつが出てきてもおかしくはないとも思うのだが。
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