久しぶりに駄論文。
試験というものには、公平の原則がある。
すなわち、「その試験で計ろうとする以外の要素は、結果に影響してはならない」という原則である。もちろんこれは、出自、過去の成績、受験地などが影響しない、ということを含んでいる。
この公平性は、次に水平的平等(空間的平等)と、垂直的平等(時間的平等)に分けられる。
水平的平等というのは、その試験を同時に受験する集団に対する公平性のことで、これを満たすために実際の試験では以下のようなことが行われる。
まず、第一に、すべての受験者が同じ問題を与えられる。
そして、その試験は可能な限り同時刻に行われる。
また、試験者側からは、受験者の匿名性が保たれるよう、名前の代わりに受験番号を使用する。
垂直的公平性とは、たとえば2001年に受験して合格となった集団と、2002年に合格した集団での差が出ない、ということである。これは、特に資格試験で重視されるべきことである。
垂直的公平性を満たすためには、毎回均質な問題(すなわち、平均点、標準偏差などが一致する)を出すことが求められる。
以上のことによって、建前としての公平性を維持するわけであるが、ここに本質的な試験というものの矛盾がある。
まず、水平的公平性に関してだが、一回に出題できる問題の量には限りがあるので、いわゆる山が当たる、はずれるといった個人個人の学習の偏りによるバイアスを排除できない。
センター試験や国家試験といった大規模試験では、垂直的公平性を確保するために膨大な量の問題を蓄積し(これをプール問題という)、この中から一部を抽出し、毎回の試験に供するという方法が採られる。
しかし、大学の講座レベルでは「毎年同じ問題を出す」という実に省エネな(出題者にとっても回答者にとっても)方法が採られることが多い。まあ、それは試験期間中に集中的な暗期量を求める医学部特有な現象ともいえるのだが。
いずれにしても、結局受験者が求められるのは、出題範囲として出ている事項の中のさらに限られた範囲の中の、ワンパターンな問題に答える能力、という事になってしまいがちである。また、事前にその試験に関する過去の「情報」を得ているものが、それを知らないものより有利になってしまう。これは、試験としての設計意図からはずれたことのはずである。
ときに、日本でもCBT(comuter based test)が医育機関での中間的な評価として用いられることになり、これに我々もトライアルとして参加することが、医学部長命令として出た。
このCBTというやつは、上記の公平性という観点から見るといろいろ斬新なところがある。
今日は疲れたからここまで。
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