Sunday, December 28, 2003

メルセデス・ベンツと薬剤師

 外を見ると一面雪が深く積もっている。

 雪が積もらない季節、私は週末自転車に乗って20キロばかり郊外の大型書店へ行く。
 書店へ行くのが目的ならば、都心にいくらでも大型書店はあるのだし、そこで目的の本を探す方が効率的ではあるのだけれど、その20キロばかり、目的地へ向かうプロセスがとても好きだからである。

 さて、その書店は地方都市郊外の店にしては珍しく、いくらかの洋書がおいてある。
 その中に、"Mercedes Benz 1992-1996"や"Porsche 1985-1990"といったタイトルの本がある。普通の日本人の感覚でいけば、これは徳大寺某が書いているような「こういう車のここが素晴らしいから、この年式の車を買え」という内容の本ではないか、と思うのが当然だろう。

 ところが、実際その手の本の中身は、非常に硬派である。「このタイヤのバーストには、こう対処しろ」「点火プラグの抜き方はこうしろ」「エンジン回転音がおかしいときは、まずここをあけてみろ」といった、クルマの修理の仕方が事細かに書いてある。

 つまり、アメリカ人はベンツやポルシェといったクルマでさえ、何かあったら自分で直すのだ。もちろん、自分で直してうまくいかないときにはプロの修理工に頼むのだろうが、それはずいぶん高い技術料を取られることになる。裏を返せば、プロというものに対する要求度というものが相当に高いということになる。

 昔「ハンバーガー屋のコーヒーを膝にこぼして巨万の賠償金を得た婆さん」という有名な話があったが、それ以前の話として、アメリカというのは、自己責任というものがシビアに認識されているのだ。


 さて、翻ってみて我が国では、「深夜に薬剤師抜きで薬を販売していいか」「コンビニで常備薬を売るのは許されるか」といった議論が活発になされている。

 「いかなる薬も、全く安全ということはできない」というのは全ての医療人が共通に認識していることだ。しかし、「薬を飲んで何かあったら、それは薬を製造したメーカーや、許可を出した役所の責任だ」という社会の風潮も、規制緩和を難しくしている一因であろう。

 「実際、薬局にいる薬剤師はたいしてアレルギーの病歴も聞かずにOTC(市販薬)を売るではないか」といった批判も聞かれる。ここにも、本質的にプロというものが信用されていない社会であることが伺われる。


 日本には、欧米に比して様々な規制が多くあることは周知の事実である。しかしながら、そもそもその規制を必要としたのは、他ならぬ国民自体の「責任回避」の風潮であり、欧米並みの規制緩和を求めるのならば、まず欧米並みの個人主義・自己責任を普及させるのが先だろう、という気がする。

 極論すれば、「医療ミスを起こすような病院に治療してもらおうと判断したのは、他ならぬあなたではないのですか」というところまで行ってしまいそうだが。

Saturday, December 27, 2003

現在鋭意日記移行中

たまにタイムスタンプがずれたのがありますが、藁って見逃してください。

Tuesday, November 11, 2003

Sunday, September 14, 2003

マシンをフリーウェアでガチガチにする

 「林檎の木」という秀逸なサイトを見つけた。
 いわゆるフリーウェアをたくさん紹介しているサイトである。
 オンラインソフトといえば、Vectorや「窓の杜」も有名であるが、前者はあまりに多くのソフトを収録しすぎたがために、本当に使う価値のあるものを見つけるのに一苦労するし、後者はその逆で、ミラーサーバーは抜群だが(使えない)ソフトを少数乗せているだけである。
 その見地から見て、この「林檎の木」はとてもバランスがよい。
 ここで、かねてから懸案であった愛用のLibretto L1の環境整備を図ることとした。

 もともと、私のモバイルマシンであるLibretto(Transmeta Crusoe 600MHz、256MB)は「字が書ければいい(=エディタが動けばいい)、できるだけ質量の軽いマシンがほしい」との発想から衝動買いした、ヨドバシの現品処分品である。その後WinXPにアップグレードしたものの、流石にCPU負担がきついためXPのウリであるLuna(ウィンドウが丸っこくなるやつ)はあきらめ、classicスタイルで用いている。

 そもそもが処分品であるため、できるだけコストを安く上げようとの発想から、ソフトウェアはフリーのものを活用することにしている。

 Terapad(エディタ)、Winamp2.x(音楽プレーヤー)はもちろんのこと、Meadow(EmacsのWin移植版)、Openoffice.org(統合オフィススイート)、GnuPG(暗号化システム)などマイナーなものも多くある。特にウイルス対策ソフトもAVG-antivirus(Grisoft.com)を用いているため、ノートンを入れてあるメインマシンに比し、セキュリティには一抹の不安があった。

 何と言っても、Librettoにファイアーウォール(PFW)は入れていなかったので、フリーのもので優れたものを探したかった。「林檎の木」では、海外ベンダーが出しているPFWを複数紹介しており、私はその中から「ZoneAlarm free」という製品を選んでインストールしてみた。この2時間の間に、ポートスキャン1回、Ping打ちに関しては3回やってきた。

 ・・・今まで一体どんだけクラックされたんだろ。

 他に、HotmailをPOPメーラーで読み書きできるフィルタ、「Hotmail popper」なんかもいい感じである。今の時代、誰が好んでOutlook(またはOutlook Expresss)を使いたがるというのだろう。(じゃ、Hotmailやめろよ、という話もある)
 (しかも、なぜかメーラーだけは金払ってJustsystem shuriken Pro2を使ってたりする。)

 後、昔使っていた「Moonlight」というコマンドライン型ランチャによく似た、CraftLaunchというソフトがあったのでこれもインストールしてみる。ランチャというのは、しばらく使ってみないと本当の使い勝手というのはなかなか知れないものだが、MoonlightがXP上では不審な挙動を示すようになったため、代替となるものを探していたのだ。この手のちっぽけなパソコンでは、コマンドライン型ランチャはかなり使い勝手を左右する要素となる。

 あとは、軽いスケジューラが何かあればいいのだが、とは思うが、これに関してはYahoo!カレンダーがなかなか使いやすいので、Librettoの遅い起動時間も手伝って、これと思うものに出会えずにいる。昔ビックカメラで売っていた4,800円のHandspring、買っとけばよかったなあ。

Saturday, September 06, 2003

何というか

 最初だからイレ込みすぎているのか、それともこういうのが「たのしみ」になってしまったせいか、ふつうの「あそび」では満足できなくなってきた。

 おそらく数週間経つうちには「疲労」と「飽き」が解決してくれるとは、思うのだが。

Pubmed

忘れないうちに図書館に利用申請しとかなくては。

ポリクリ一週目終了

・・・担当患者殿に会うこと二回。

 最初からこんなことでいいのだろうか・・・・?
 (まあ事情はあるのだが

ムネヲ氏来札

 ムネヲ氏がすぐ近くのホテルで松山千春と会合を開いたらしい。

 去年、氏のご真影を「質問に答える」という、あるプレゼンのスライドに使わせていただいたことは黙っていよう。私のような若輩者は。

Tuesday, September 02, 2003

夏休みに学んだこと。

1.小樽へは列車を(北海道弁で言うところの「汽車」を)使いましょう。
2.松田直樹は単なる暴力DFではない。(それは波戸だ。)
3.エムボマはいい人だ。
4.自転車のタイヤとチューブは、自分で交換可能である。
5.チェーンもその気になれば何とかやれる。
6.水道の蛇口に使われるコマは、我が国では径13mmが主流である。

前期成績表返却さる

106人中100番。
そろそろ神の領域に入ってきました(汗。

 しかし、再試回数は一年生の時から数えて最低の部類に入るのに、順位も最低の部類に入るというのは、案外楽しい事実かも知れません。

迷彩柄

秋になったので秋らしい色にしてみます。

何、読みにくい?CTRL+Aでも押してみれば?

(著者からの補遺:この日、オリジナルの日記の背景を茶・緑・黄土を基調とした迷彩パターンに変更していました。)

Thursday, July 17, 2003

Tie 1000 times!
Tomorrow I have a examination to assess clinical skills,so called OSCE.

One of the skills,stureing is so important.

A sergeon of my admire,Dr.Ken Kimura says in his book,
"If you want to be a sergeon,you have to train tie strings 1000 times a day.
Then you'll have a little better sergcal skills, about 3 months later."

I don't want be a sergeon...(for the benefit of BOTH OTHRS AND I!)
But I have traind tying for a week,with a rolle of fish line.

I pray to God and othe goodness that I can success the exam!

Wednesday, July 16, 2003

OSCE

さて、一月半も続いた試験が終わり、五年生の前期最後の課題はOSCEである。
OSCE(オスキー)と言ってもよさこいソーランに出てくる信販会社の・・・・・

このネタはずいぶん昔に使ったのでやめる。

OSCE="Objective Structured Clinical Examination"(客観的臨床能力試験)
と言うことで、要するに実技試験のことと考えてもらえればよい。

 実技試験と言っても、ウチの大学の場合、『初期OSCE』とやらで「聴診器を胸の正しい場所に当てる」(=実際何が聞こえてるかまで関知しない)とか、「縫合は一針のみ」(=ぶすっと一針刺して、糸をひゅっと結んで終わり)だったりかなりユルユルなところが多かったりする。

 かと思えば、CPR(心肺蘇生)の実習では倒れてる人を見つけるところから、周りの人に「AED持ってきてくださ~い」と大声でその場を仕切り、実際にスイッチを押してバン!と電流を流すところまでやったりする。胸毛の濃い人は電流流す前にカミソリで剃れ、とかここだけはやけに細かい。

 やっている上でいくつか疑問点を感じたことがあるので、忘れないうちにここに書いておく。というのも、後数年でこのOSCEは関門化すなわちほぼ国家試験と同等の意味を持ち得ることになるからだ。


 まず一つ目。実際に患者の体に触れる実習(胸部診察など)は、どうしても患者役(SP:Sumilated/Situation Patient)が男性になってしまう。具体的に言えば、胸部診察では胸骨という胸のど真ん中にある骨の位置をまず指で触って確かめ、そこを基準にして聴診器を当てる場所を決めることになる。もちろん実際の診療現場では、医者はいちいちこんなことはしないことが多いと思う。あくまで教育上の都合(、という書き方が正しいのかどうかは疑問であるが)である。

 ただ、このような実習スタイルでは胸に触っても問題がない男性のSPのみで実習を積むことになる。ただ一人の女性SPも、胸部診察の実習対象とはならないのである。(もちろんこの後病棟実習に出ればそんなことはない。)何か引っかかるのは、最近主な国立病院には「女性外来」を設置するという傾向が現れ、また一部の女性からは「聴診の際に上半身裸にされるのはおかしい。」という声が上がって来たりする。(そういう女性の話を聞くと、どうやらシャツの下から聴診器を入れて聴診を行う方法が自尊心を傷つけないやり方らしい。)


 別に私はタヂマヨーコ先生の肩を持つわけではないが、どうも「患者は男である」という前提の基に実習を行うのはちょっと変なのではないだろうか、と考えたりした。まあ別に、他の医療面接(今まで「問診」とされていたもの)、神経学的診察などの実習では女性がSPになることもあるので、そんなにかまうことでもないのかもしれない。

 ただ、前述した「女性外来」設置の流れや、医学部の男女比の動きなどを考えると、ひょっとして20年、30年たったときには、「原則男性の患者は男性医師が、女性の患者は女性医師が診る」ということになっていたりするのかなあ、などということを漠然と思ったりする。

クロスプレー

http://www2.asahi.com/koshien2003/nanboku/TKY200307150197.html
こんな記事を見つけた。

野球規則なんてかなり厳密に(レアケースも想定して)作ってあるものだが、結局規則を運用するのも人間である。
Last summer
I am in the 5th grade of the medical school.
Scince I will have to serch some training hospitals where I can work as a intern next summer,this is the last summer can find some free time.
And, this means this is the last sommer vacation as a student.

I had planned to read some books,such as Robbins Pathologic basis of disease every time before vacation,I have faild to accompanish that.

Tuesday, June 17, 2003

お疲れの気配

前に述べたとおり、明日は試験なので今日ここへ長々書くのはやめます。

と言うより、10日分表示されるこのCGIでは1頁に表示されるバイト数が大きすぎなのです。

Thursday, June 12, 2003

それで結局

RedHat7.2をインストールし直す。
一回目は、GRUBの設定を間違えてWindowsXPが起動しなくなった。
結局ブートイメージの位置を張り間違えていただけだったが、かなり焦った。これは応急的にXPのCD-ROMからrescue起動して、MBRを書き換える事にしたが、sambaの設定やらmozillaのバージョンやら、いろいろなことを考えると随分惜しいことをしたものである。

 いい加減K6-2のスピードが遅く感じられるようになってきた。

 夏休みは働いて、一ついいのを組み直すか。部品が容易に手に入る環境にいるうちに。

Tuesday, June 10, 2003

投票行動

 先日は市長選再選挙の投票日であった。

 私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。

 はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。

 しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
 事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)

(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。

(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。

 したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。

 しかし、これは案外難しい。
 そこで、私はこのように考えることにした。

 選挙を競馬のように考える。

 つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。

 だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。

 何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?

 だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。

Tuesday, June 03, 2003

間合いを取るということ

 先日、「医療には間合いが必要だ」と書いた。そのことについて、もう少し書いておきたい。

 まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
 具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。

 患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。


 「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)

 私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。

 もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。

 もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
 実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。


 最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。

 人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。

 一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
 いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。

 少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。


 このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。

 そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。


 『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。

Saturday, May 24, 2003

金曜ロードショーの裏番組

 「ブラックジャックによろしく」という漫画がある。
 今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
 どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。

 今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。

 確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。

 脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。


 さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。

 このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。

 医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。

 今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。

Sunday, May 11, 2003

医療における競争原理について

 先ほど、医療は一対一のサービスではない、と書いた。この考え方について、もう少し書いておく。


 この4月に話題になった事の一つに、「サラリーマンの医療保険三割負担に」ということがある。今までの本人一割負担に比べれば、単純に考えて負担が三倍になったわけで、患者「様」にしてみれば大変なことである。(ちなみに扶養家族などに関しては元から三割負担だったわけで、「働く世代」の負担が増えたと言うことだ)

 だが、逆に考えれば、依然として七割は「保険様」が払う、ということである。

 その七割は、国民医療保険、あるいは各企業体などで構成している共済保険などの基金が出しているわけで、それも元をたどれば、組合員の掛け金(+税金投入分)が拠出金になっているのである。
 そもそも保険というものは、「わずかな」掛け金を出し合って大きなリスクに備えるものである。つまり、その保険を構成する要員全てに大きなリスクが起こった場合、それは当然保険ではまかないきれないくらいの事態、ということになる。(従って、火災保険などには天変地異に対する特記事項というものがある)


 何が言いたいか。

 つまり、お医者さんというのは実際のところ、病院に来る「患者様」よりも、「少なくとも今は病院に来ていない人」から、たくさんのお金をもらっていることになる。保健医療制度、というのはそういうことなのだ。

 従って、「患者様中心の医療」とか言っている割には、現実には「保険様中心の医療」ということである。

 だって、ふつうに考えてみなさい。町中の医者(あるいは病院経営者)を全部集めてみようと思ったら、次のうちどちらのポスターがふさわしいか。

A.「医師の自由参加による、市民のための健康相談を実施します。」
B.「来月から変わる保険の算定方法についての講習会を開きます。医師の参加は自由です。」


 しかも、医療保険というものが厄介なのは、それが存在することによって医療というものを、市場原理で計算することが一層困難になっているということだ。

 「医療はサービス業」論者は、「患者にとって利益となる医療を行う医者(あるいは施設)は、より多くの患者をとることができる。従って、そのような医療機関はより多くの利益を上げることができ、競争に勝ち残る事ができ、逆の医療機関は淘汰される」という。

 たしかに、これは正しい。仮に患者自らが全額を病院に支払うシステムになっていれば、の話だが。

 実際は、需要側の「患者」と、供給側の「医療」の間に、第三のファクターである「公的保険」が絡むので、あたかも「囚人のジレンマ」のごとく互いの利益は反目しあうのである。


 話をわかりやすくするために、まず「医者」と「病院」の需給モデルを考えてみよう。

まず、患者側の利益を考えると、「安価で、しかも質の高い医療」ということになる。
しかし、病院側は、「高価、しかも質の低い医療」を供給することがベストである。
(経済的な立場から「利益」を論じているので、そういう病院はけしからん、というのは無し。)
この二者の妥協点として、「それなりに適正な価格と質の医療」が供給されることになる。もちろん、この前提には「安価で極度に質の高い医療を求める患者」と、「極度に高価で質の低い医療を供給する病院」は、排除されるということがある。

ここで、第三者たる「公的保険」を登場させる。
(なぜ「公的保険」としたかというと、それは患者に対する掛け金を強制的に集め得る立場にあるからである。保険料が高いという理由で、それから脱退することは、今の日本で認められていない。つまり、先に述べた排除の原則が公的保険には無いのだ)

 消費者たる患者から資金を得る「公的保険」が追求する利益は、ただ一つ「とにかく安価な医療」ということになる。実質上病院から得るものは何もなく、ただ金を払うだけの立場であるからだ。

 そうすると、病院側にとって最優先事項となるのは、消費者たる患者の利益ではなく実際は「公的保険」に対する利益ということになるのである。


 ここに、大きなゆがみの生じる余地がある。
 まず第一に、保険側に大きな利権が集中することによって、たとえば病院が保険機関の構成員に対して何らかの利便を図り、自分たちに回るパイを大きくしようと試みるおそれがある。
 第二に、保険機構の利益と、患者の利益は一致しない。一致しないにもかかわらず、「医療費の削減」という言葉は、消費者たる患者の払う金額を減少させられるかのような錯覚を生じさせる。

 一年ほど前、「ジョン・Q」という映画を見た。息子の心臓移植を求めて、父親が拳銃を手に病院を占拠するという、オスカー俳優デンゼル・ワシントンが熱演した割には、先の容易に読めるストーリー展開ではあったものの、その実みているうちに様々なことを考えさせられる作品であった。

 その中で、研修医が、父親デンゼルと心臓外科の権威に対してこういう言葉を吐く場面がある。「なんで健康診断が息子さんの病気を見逃したかって?HMO(米国の公的医療保険)は、たくさん検診を行っても『異常』の診断を出さない医者にはボーナスを出す。その方が安上がりだからな。」心臓外科医が答えて曰く、『あり得ん話ではないな。」

 前に書いた「たばこは医療費削減によい」というところでも述べたが、実際難しい病気を早期に発見し、長い間治療することよりも、さんざん病態が進んだところで発見し、二ヶ月たったところで「手を尽くしましたが・・・残念です」というほうが都合がいい連中がいる、ということなのだ。

 自己弁護にはなるが、打算的にみても医者はそういう考えでは利益を得られない。早く見つけて、長く治療した方が多く儲かる立場である。


 もちろん、私は医療保険制度の全てを悪いと言うのではない。
 しかしながら、公的な医療保険制度そのものが抱える矛盾というものはそれができた当初から存在する。
 しかも、現在は「入ってくる金よりも出る金の方が絶対的に多い」という医療保険の問題が不況下で浮き彫りになっている時代である。

 ここで単に「企業原理により病院間の競争を進める」事が、本当に消費者(依頼人)の利益にかなうことなのか、医療者の側としても考えることがある、ということだ。

 その意味で、「患者様」という言い方の裏には、何やらテーブルの上では作り笑いを浮かべながら、足の指では、もう半分も無くなったパイを必死で奪い合うことしか考えていない医者たちの顔が見え隠れして、薄っぺらな商業主義の香りがして、何とも吐き気がするのだ。

Thursday, April 24, 2003

それは、まずいだろう。

 K協同病院での一件である。

 4月19日のasahi.comによると、
「川崎市川崎区の川崎協同病院(堀内静夫院長)で98年、気管支ぜんそくから意識不明になった患者に、当時主治医だった医師が患者の気道を確保するための気管内チューブを取り外して筋弛緩(しかん)剤を投与し、「安楽死」させていたことが19日、わかった。病院側が記者会見して事実を公表した。患者本人の意思が明らかになっていなかったことなどから、堀内院長は「主治医の行為は安楽死ではない」との判断を示した。神奈川県警は、殺人容疑などを視野に捜査を始めた。」
 とのことである。

 国内では、安楽死は立法こそされていないものの、同記事にもあるとおり、「95年、執行猶予つきの有罪判決を下した横浜地裁は「積極的な安楽死が許される要件」として(1)患者に耐え難い肉体的苦痛がある(2)患者の死が避けられず死期が迫っている(3)苦痛を除くための方法を尽くし代替手段がない(4)患者本人が安楽死を望む意思表示をしている--の4要件を示した」という判例によって一つの指針が示されていたわけであり、今回はこれらの要件が明らかに満たされていたわけではない。とくに、(2)(3)のあたりは、第三者から見ても大いに疑問の残るところでは無かろうか。


 その昔、「振り返れば奴がいる」というドラマがあった。その中で、病院一の名医である司馬光太郎(織田祐二)が、末期ガンの患者ササオカ氏に、「先生、オレもう長くないんだろ、そのときが来たらさ、一思いにやっちゃってくれないか」と懇願されるのである。
 そこで司馬は「リビング・ウィル」の書類をササオカさんに作るよう勧めるが、その前にササオカさんは危篤状態に陥り、書面による意思表示のないまま司馬は塩化カリウムの注射筒を手にするのであった。
 この一件を、対立する外科医の石川(石黒賢)によってマスコミへ暴露された司馬は、病院を去るのだが・・・。

 医学部に入って、この脚本を書いた三谷幸喜もやはり重大な誤りを犯していることに気付いた。「リビング・ウィル」というのは、日本国内では任意団体の扱いで行われている運動であり、この書類にサインしたからと言って安楽死を行った医師が免責される、と言う保証はない。「単なる紙切れのせいで人生棒に振らないように」というようなことを教わった。

 すなわち、どこの医学部でも基本的に「安楽死は御法度」と教えられているはずなのである。しかも、たとえ遺族側から不満の声が上がらずに、一件「皆が満足した」ように見えても(まずそんなことはあり得ないが)、いったん事が明らかになれば、このような医師を純粋に法・倫理の観点から告発しようとする組織は存在する。

 すなわち、やる方にも相当な覚悟がいるはずなのである。

 以前、京都の私立病院においても、院長が友人の苦しむ姿を見るに忍びず、筋弛緩剤を注射して死に至らしめるという事件が起こっているが、結局このときも刑事罰が下されることはなかった。

 いつも思う事であるが、筋弛緩剤を大量に投与した場合の死因は呼吸筋麻痺による窒息であり、しかも中枢作用はほとんどない(つまり、意識清明なまま息が詰まってゆく)ため、患者には相当な恐怖と苦痛が伴うはずである。それを熟知しているはずのベテラン医師たちがなぜ、このような行動をとったのか。

 「東海大安楽死事件」では、家族からのプレッシャーや想像を絶する多忙によりチームから孤立し、研修医がたった一人で重大な決断を迫られた事による「チームとしての医療の破綻」が問題であった、と結論付けられた。

 そういえば昔、某大学の面接でも「君がもし患者の家族から、どうしても、と言われて安楽死を施すようせがまれたら、どうするかね」とうようなことを聞かれた覚えがある。そのときの私は、今から思えば大変に未熟であって、緊張も重なり、「いいえ、自分一人では決してやりません。たとえその家族が頼んだとしても、『患者の家族』というのには自分の目の前にいない人たちもいるわけで、その人たちからの文句が後日付く可能性もあるからです」というようないわばトンデモな答えをしてしまった。東海大安楽死とか、たいそうなことはちゃんと知識としてアタマの中にあったにもかかわらず、である。

 少なくとも、法整備が進んでいない現在、私のように凡庸な医学生がとるべき道は、「とにかく安楽死はいけないんだ、そんなコトしたら自分の首が飛ぶし、病院にも先輩にもたくさん迷惑がかかるんだ」と自分を納得させて、10本でも20本でもチューブを差してでも決して「文句のでない」ような医療を目指すことなのだろう。(たぶん、入院31日目からは事務長から「文句」が出ることになるだろうが。)

 「結局、自分の頭で考えてはいけない。」これが、医学部の中、そして今後の医療界で、賢く生き残る秘訣であるのだから。

Monday, April 21, 2003

写真について

 先日、一眼レフカメラを購入した。購入した動機というのが、なかなか漠然としているのだが、やはり「写真に興味を持ったから」というのがまっとうな答えだろう。
 とは言っても、人間がコトを起こす動機というのは、かなり複雑なものであって、それを一語でいうのはやはり難があると思う。物事の動機を一語で言えるのは、余程悪質な小説の読み過ぎであろう。

 まず第一に、3月の試験が終わると誰だって少しは開放感に浸るものであろう。私の場合、かなり最後まで危ない状況が続いたのでそれは、かなりじわじわしたものであったが、少しく無意味な消費をしてみたくなった。今日日若者が興味を抱くものは、車か女か電化製品と相場が決まっていて、前二者は思い立ったからといってそう簡単に手に入らないものなので、電化製品に思いが移る。

 またそれと平行して、以前から、いくらあがいても人間の生命にはきちんと終点があるものだということがだんだんわかってきていたので、何か「形を残す」ものに関する興味が漠然とあった、ということがある。

 それから、こんな事も一因であろうか。病理学などで絵を描く(スケッチする)実習の時に、人から「随分細かい絵だね」といわれることが多々あった。何のことはない、根が単純であるから左のものを右に描くことしかできないのであって、ちゃんと見るべきものを見て、アタマの中でそれをきちんと処理して描いているやつの絵を見ると、いかに自分の絵が単細胞的であるか恥じ入るばかりであった。どうせ左のもの右に描くしかできねえなら、最初から写真にとっちまえばいいのに、という思いもアタマにあった。

 兎にも角にもこういうマルチタスク型思考の結果、昨今流行のデジカメを買おうか、という気に一時傾いたが、ここでもう一踏ん張りしてひねくれた考えを起こした結果、次のような結論に達した。

 いくら最近のデジカメ市場が円熟期に入っている(画素数・価格の面での競争は緩やかになっている)からといって、所詮電子機器というものは、しばらく経つと激しく「型落ち」するもので、後になってちょっといいのを他人が持っているのを見ると、猛烈にうらやましくなるに違いない。いくら妬みは人の性、資本主義の原動力とは言っても、こちとら貧乏性なので、そうなるのは面白くない。その点、デジタルでない「カメラ」は10年経っても「カメラ」である。デジカメを一台買った気になれば、結構それなりの銀塩カメラが手に入るのでは無かろうか。


 こう結論付けた私は、翌日「初めての一眼レフ」という本を大通りの本屋で購入し、早速勉強を始めた。また、あの「2ちゃんねる」のカメラ板に、善意に立った有用な情報がたくさん載っていたのには驚いた。やはり板によって荒れているところとそうでないところはあるものだ。

 そして、一週間後、行きつけ(本当は、そこのマクドナルドと、アミュージアムに行き付け)のY店に足を運び、その日一番安い値段が付いていた、P社の一眼レフカメラボディとズームレンズ二本のセットを購入した。Y店の兄ちゃんと小一時間相談して決めたのだが、かなり親切に相談に乗ってくれ、こちらがズブの初心者とわかると、それとなく一番安い方を勧めてくれたような気がする。今になって、それは正しい選択だったとわかるが、やはりこういう気遣いのできる店員は、店の財産だと思う。


 さて、カメラを買ってからだが、結構いいことがあった。

 まず第一に、朝早く起きるようになった。写真を始めてから、「光」というものに気を払うようになり、朝の光と午後の光の性質が大いに異なることに気付いてからというもの、午前の時間をより大切にするようになった。

 それから、ものの「見方」ということを普段からよく考えるようになった。結局写真というのは、その人の見ている視界を枠の中にいかに切り取るか、ということなのだが、見る角度、それからどこに注目するかによって、その時間・空間的位置における「視界」を共有し得ない第三者に提示される形としての写真は大きく変わってくる。また、今自分が見ている風景を、そのまま記録するという単純な作業に関しても、それは思った以上に大変な思考・労力を要する行為であることもわかってきた。

 第三に、よくカラダを使うようになった。うちの大学の大先生に、「自然との対話が楽しみなので、オープンカーにしか乗らない」という方がおられるが、私はそのクルマさえ持っていないので基本的に自転車や徒歩で被写体を探すことになる。やはり、自分のカラダを使って、生の空気に触れて探した方が、いいものが見つかる、ような気がする。結局、このために余分な体脂肪が消費されることになり、いいカラダ造りにつながっている。つまり、「写真を始めると、なぜか健康になる」のである。

 今のところ、できるだけ人のいない風景をとって歩いている。絵画の世界で言うところの「静物画」であるが、やはり人様を撮らせて頂くには、それなりの腕にならなくては失礼であろうし、何より人混みの中でシャッターを切るのはどうしても私自身「◯代(マ◯シー)」を連想してしまうのである。

Friday, April 18, 2003

学校から更新

学校の学生実習用機のOSがMac OS Xにアップグレードした。(要するにServerがとれたということ)そのため、以前の環境より飛躍的にユーザーインターフェースが向上している。
もともとサーバーというものは、「他のコンピューターから入ってくる情報を処理して出す」ということに主軸がおかれているため、そのサーバー自体を人間が操作するためのインターフェースGUIはかなり簡素なものであった。
 そもそもC言語の実習ができないと困る、という理由だけでシェルの使えるMac OS X Serverを導入された我々学生としては正直いい迷惑だったが、これでなんとかひと通り「使える」ようになったという声が多い。だいたいOmniwebの代わりにInternet Explorerが使えるだけでもめっけもの、である。

Thursday, April 17, 2003

続「黒い疑念」(3月19日の日記)

世の中には似たようなことを考える人がいるもので、しかも私よりずっとうまい手段を考えている。

やはり、鍵は「嫌がらせにかかるコストの低さ」と言うことだろうか。

Friday, April 11, 2003

朝は弱いか

最近の時間割では、選択科目の関係で朝一講目が空くことが多い。
朝が弱い私にとっては都合がよい。

薬理学の関係から、私はPC12cellという一種の腫瘍細胞におけるSir遺伝子の発現を研究させてもらうことになった。言っている私にも何のことかあまりはっきりとはわからんのだが、これはテロメアーゼ活性の調節によって寿命を延ばす働きがあるかもしれない、ということである。つまり、現代版「不老長寿の薬」といったところか。そんなもん作ってどうするのか、という気がしないでもないが、世の中には「早老症」と呼ばれるいくつかのタイプの遺伝子疾患の人がいて、今のところその病態もよくわかっていない。その治療のためには、やはりこういうものが必要なのである

Wednesday, April 09, 2003

しかしここも

KS氏とMT氏しか来ていないことが、よくわかる。やはりHT氏は最近忙しいのだろう。

ついでに

 日本の警察機関が装備すべき小銃候補として有力なのはいったい何であろうか。
 まず第一に、自衛隊の制式小銃である89式小銃(Howa Tytpe89)が考えられる。しかしながら、89式は未だ実戦における信頼性が確立されておらず、その評価が定まらないところがある。特に半自動・全自動・三発バーストの選択が可能となっている撃発機構は、あまりに繊細な機構のため前線における野戦分解の範囲では修理できず、問題が生じた場合はユニットごと取り外して交換・後送し、整備を行う必要があるといわれている。(ちなみに、「安全」「単発」「連発」「3点」の頭文字がカタカナで書かれているため、順に読むと「ア・タ・レ」となっている。世界初、洒落の分かる自動小銃!)
 また、実戦での信頼性や火力の点では優れているものの、ドイツのG3、ベルギーのFN-FAL等7.62mm×51口径の小銃は除外されるべきだろう。89式の前任、64式小銃はこの規格であったものの、NATO規格の7.62mm×51弾薬を使用すると日本人には反動が強すぎ、わざわざ国内で火薬の量を減らした弾薬を製造していたぐらいである。
 と、なるとやはりSS109(5.56mm×45)規格の小銃が有力となる。このカテゴリーには、米軍のM-16A2(あのゴルゴ13も愛用)や、オーストリアのステアーAUGが含まれる。M-16はあのイスラエルが自国生産した優秀なガリル自動小銃を押しのけ、イスラエル陸軍制式の座を勝ち取った(そういえば最近パレスチナのニュース映像でもM-16しか見かけないもの)信頼性が売りである。対するステアーはプルパップ方式(ピストルグリップより弾倉を後方に配置する設計)により、日本人の体格に合ったコンパクトさが魅力である。(と、いっても所詮ゲルマン人に合わせてあるのだが)

 なんだ、こんなことならなんぼでも書けるなあ。
 読んでくれるかどうかは、はなはだ疑問だが。

今日から新学期

 日付から見るとどう見ても「昨日から新学期」なのだが、そこら辺は勘弁してほしい。

本日のニュースから:「機関拳銃:全国の警察本部に1400丁配備 武装テロ対策」
 だからいい加減サブマシンガンを「機関拳銃」と訳すのはやめてくれと。戦前のごとく「短機関銃(短機)」と呼んだ方がまだ言葉にしまりがある。
 そもそもニュース映像で見る限り今回警察庁が導入したのは誰がどうどこから見てもH&K MP5 A5であるということがわかるだろうと思われるが、これで果たして火力が十分なのかどうか。
 サブマシンガンの定義は、「拳銃弾を全自動発射できる火器」といったところになろう。すなわち、いわゆるアサルトライフルに比べて
1.最大有効射程がせいぜい100m程度と短い
2.ケブラー製防弾チョッキに対する貫通力が不十分
といった弱点があり、たとえば7.62mmのAK47を使用してくるようなテロリストには簡単に制圧されてしまうおそれがある。
 しかし、MP5に限っていえばその信頼性とともにクローズド・ボルト・ファイアー方式による初弾命中率の高さに定評があり、カウンターテロ部隊の基本装備と言える。問題は、この装備による火力増強を過信せず、さらなる装備の充実を期待したいところだが、このような「警察予備隊的部隊」に対しては、国民の視線はやはり厳しいものになるだろう。だからこそ、「機関拳銃」などというヘンテコな言葉がはやるのである。

Tuesday, April 08, 2003

アクセスカウンター設置

今まで他の鯖にアクセス解析を依頼していたのでありますが、本日からはCGIスクリプトを借りてきて自前でなんとかするようにしました。
main.shtmlの見やすさも直って、よし。
<本文>
今日からは新学期であるが、新学期の第一日目というのは、目が冴えてなかなか眠れないということが経験上わかっている。従って、今日は「寝ない」ことにしてみた。・・・・・。

天気はウソ

強風・おそらく雨。

Sunday, March 23, 2003

オルタナティブ・メディスン

 「代替医療」という言葉がある。原語では、alternative medicine である。

 これは、従来、近代西洋医学の立場からは、事実上「邪道」といわれていた医療のことである。もう少し詳しく書けば、ハーブ、鍼治療、といったものから、広義にはアロマテラピー、太極拳といった「健康法」の類までをも含むかなり大きな概念である。

 なぜこんなことを書くかというと、ある新聞での記事に、「病院へ受診する代わりに、代替医療を選択する人は、予想されていたよりも大幅に多いことがわかった」というようなことが書かれていたからである。これは、下手すると我々も、おまんまの食い上げということになるではないか。これについては、少し深く掘り下げてみなければなるまい、ということだ。

 人はなぜ代替医療を選ぶのか。

 一つの理由に、医療費の問題がある。
 最近中華人民共和国へ旅行に行くことがあり、その際ガイドから聞いたことなのだが、最近まで社会主義国家、中国(上海)では、正規の病院へかかった際の医療費というものが、8割公的負担でまかなわれていた。ところが、近年市場経済原理の導入に伴い、これが逆に、8割患者負担となった。そこで、一般の大衆にとって病院の敷居は高くなり、代わって昔ながらの漢方を処方する薬店の数が大幅に増えたそうである。
 日本でも、月3回目の受診からは医療費算定が大幅に削られるなど、以前よりも病院・医院が「行きづらく」なっているのは、確かである。

 二つ目は、西洋医学を行う病院への不信がある。
 「柔道整復師などが、法で医師以外には認められていない医業、すなわち診断・治療を行っている」という記事が、読売か毎日に載ったことがある。
 これに対して、2ちゃんねるの「病院・医者」板では結構な議論が巻きおこった。
 私自身は議論に参加しなかったが、スレッドを眺めていてショックだったのは、「整形外科医らが、自分の領分を侵されないがために無理難題をつけて整復師らを糾弾している」という論調が、少なからずあったことだ。「我々の手はレントゲンより正確」とは、よく言ったものだと(医学生の立場として)思うが、要するに医師という職業が、世間一般に対する信用をいかに失いつつあるか、ということを考えさせられた。

 たかが「2ちゃんねる」だという向きもあろう。
 しかし、以下に述べるエピソードは、背筋に何か冷たいものを感じさせるに十分である。(一般教養の教員から、数年前に聞いた話である)
 95年、地下鉄サリン事件でその名をとどろかせたオウム真理教。その広告塔として、名門国立大学法学部出身のA弁護士がいた。A弁護士は、大学での成績は常にトップ、司法試験には在学中に合格、というまさに「エリート」の資質を満たした存在であった。その彼が、よりによってなぜオウム等という非論理的集団に身を投じたのか。それは、「腰痛が治らなかった」からだという。
 A弁護士は、大学在学中から、原因のよくわからない腰痛に悩まされ続けていた。複数の整形外科を転々としたが、一向に改善の兆しがみられなかった。(こう書くと、なんだか私が整形に個人的な恨みでもあるように思われるかもしれないが、そんなことはない。整形はメジャーな学問です、と。)
 ある時、A弁護士は、「ヨガ教室」の看板を目にする。最初は疑心暗鬼であったろうが、やってみると実に腰痛が楽になった。

 そのヨガ教室こそ、後のオウム真理教であった。

 これ以来、A弁護士はオウムに傾倒していくことになる・・・。

 なんだか出来過ぎのような話にも聞こえるが、逆にあり得ない話でもない。「現代医学で答えを出せなかった」問題には、医者は無力である。いや、医者は「無力である」の一語で済ませられるかも知れないが、患者の立場からすれば「答えが出ない以上、西洋医学以外の道を探す」というオプションを選ぶのも、当然といえば当然である。

 そこで、三つ目にあげられるのが、患者には、たとえそれが不利な選択であるとわかっていても、それを行う権利があるという比較的新しい概念の浸透である。たとえば、タバコを吸うという行為自体は健康に悪い、とわかっていても、タバコを吸ったからと言って警察に捕まるわけではない。(マリファナなら、捕まる。)それは、良識ある大人には「愚行権」というものが認められているから、ということである。

 話はそれるが、私は「2ちゃんねる」の存在意義も、近いところにあると考えている。確かに情報の質は粗悪、便所の落書き、と揶揄されることも多い。しかしながら、電波法の免許を受けた放送局、また歴史ある新聞社といえども、その流す情報に絶対誤謬を差し挟まない、という保証はない。しばしば、大きな力によって報道はねじ曲げられる。どうせそれならば、はじめからあまり信用がならないものでも、触れてみる価値はある。

 閑話休題。
 つまり、「効く」という確かな証拠がないことぐらい、患者の側でも承知なのだ。それでも、まだ知られていない「何か」があるのではないか、という希望を持ちたい、というのも患者心理である。


 さて、代替医療が、西洋医学と正面からぶつかり合う、という場面がある。

 第一に、代替医療が、明らかに有効とわかっている西洋医学の効果を妨害することだ。
 一例を挙げると、不眠改善・精神安定の目的で、ヨーロッパでは「セント・ジョーンズ・ワート(セイヨウオトギリソウ)」という薬草が民間薬として用いられている。しかしながら、この薬草は、強心薬、抗凝血薬等と一緒に服用した場合、これら薬剤の血中濃度を下げてしまうということが知られている。人によっては、「心臓がどきどきするので、民間薬で落ち着きたい」という場合があるかも知れないが、これが命取りになる場合も考えられる、ということだ。

 また、西洋医学の立場にあるものからよく言われることに、「適切な治療の機会を奪われる」という問題がある。
 現代医学の主眼は、「治療して、完全に元に戻すこと」から、「病的な状態を、いかに進まないようコントロールするか」といったところに移りつつある。糖尿病や、心臓病といった病気は、初期にサインを見逃さず(これが医学生にとって「勉強」の八割方を占めることである)治療を開始すれば、悲惨な状態に陥る前に進行を止めることが可能である。ところが、初期のサインを単なる「体調不良」として代替医療で軽減しようとし続ければ、その裏で病態が進行するおそれがある。

 第三に、悪質な医療者を排除できるか、ということがある。
 たとえば、リフレクソロジー、という代替医療がある。これは、足裏のツボを刺激することにより、全身的な健康を培う、という考え方に基づくものである。それに効果があるのか、といった事柄については、ここでは述べない。
 しかしながら、過去「法の華」という宗教(?)団体が、それによく似た行為を「宗教行為」という隠れ蓑を使って行い、代価として多額の布施を集めていた、という事件が起きたのは、西洋医学の発達した最近のことである。

 実際、私自身も予備校生の時に、この団体が駅前でビラを配っていたのを目撃しているし、ビラを受け取ったサラリーマンが真剣な目つきでそれを読んでいたのもありありと記憶している。もっと言うならば、つい2年ほど前に、テレビ塔前の喫茶店へいくと、怪しげな浄水器を随分高い値段で売買している光景が必ずみられたものだ。買う方も真剣で、「これで娘のアトピーが治りますよね」とか、話していたりする。私は開いている標準生理学の中味より、そっちの方が気になって仕方が無かった。

 うさんくさくないわけでもないが、現代医学を司る医者の養成には「大学教育」と、「国家試験」という一応の歯止めがある。しかし、代替医学に関しては、事実上医師法・薬事法などに「触れない限り」好きにやっていい、ということになっている。


 医学用語では「予後がよい」「悪い」といった言い方をすることがある。診断がついてから、あるいはある治療を行ってから、たとえば5年で区切ったときにどれくらいの人が生き残っているか、ということだ。だが、5年間生存率50%といったところで、患者の側にしてみれば「どういう努力をすれば生きている方の50%に入れるのか」といったことは、西洋医学でわからないのである。(わかっていれば、当然その治療法が一般的に選択されるはずだから、「50%」という数字が変わってしまう。)
 従って、そこにはアガリクスだのメシマコブだの、といった怪しげなものが入り込む隙が、うじゃうじゃしているのだ。

 大学に籍を置いて医学を学ぶ者として、この種の代替療法に傾倒するのは、危険であることは自覚している。それをわきまえた上で、西洋医学で答えを出せない事柄に対して、「それはまだ大規模な調査結果が出ていないので、わかりません」という言葉でいいのか。それは、本当に依頼人の利益にかなうことなのか。新たな深い問題である。

電子メールのセキュリティ

 本日、前もって注文しておいたメーラーが郵便できた。
 Justsystemの、shuriken Pro 3。

 結構楽しみにしていた新機能に、メールの「暗号化」がある。

 そもそも、電子メールは他人が簡単に読むことができる、葉書のようなものだ。従って、第三者に読まれたくない内容のものは、電子メールで送るべきではない。

 しかしながら、PGP(あるいは、GNUバージョンのGPG)というものを知って以来、この「暗号」というものに興味を持つようになった。(いろいろなものに興味を持つようになるおかげで、成績はさっぱり、である。この種の人間が、私を含めて、周りには随分多くいることだ。)

 PGPとは、Phillip Zimmermanという男の開発した「公開鍵暗号プログラム」である。現在、無償でダウンロードし、使うことができるようになっている。

 公開鍵暗号、という仕組みについて、私の理解した範囲で書いておく。本格的にこの理論を学ばれたい、という賢明な方々は、数学の整数論のテキストとともに、成書を当たられたい。

 公開鍵暗号、というのは、つまりこういうことだ。ここに、私宛の手紙を書こうとする人がいる。もちろん、その人自体と私は知り合いでなくてもよい。この手紙の差出人は、私専用に作られた「封筒」に手紙を入れることにする。ここでいう「封筒」というのが公開鍵である。封筒自体は、誰でも簡単に手に入れられる場所にあり、また実際は数十行の文字列(電子データ)であるので、品切れになる心配もない。
 さて、私宛に来たこの封筒を、私は私専用のハサミで開封する。この「ハサミ」というのが、秘密鍵というものである。私専用に作られた封筒は、私のハサミでしか開けることができないのだ。

 このPGPであるが、Zimmermanが開発してから、合衆国政府に輸出規制を食らったり、(なんとこれに対しては紙に書いたプログラムソースを国境を越えてからOCRで復元する、という方法で輸出を強行したそうだ)ニカラグア内戦の際に反政府軍の間で用いられたり、という結構オソロシく、また本格的なものである。

 ただ、この暗号方式に興味を持っているネットユーザーは、まだ少ない。つまり、「封筒」の作成を行っていない人がほとんどなのだ。相手が封筒を作っていなければ、いくら私ががんばっても、仕方ない。明治や大正の時代に、村で一人だけ電話を持ってしまった名主みたいなものだ。

 今のところ、PGPの鍵を公開している私の知り合いは、たった一人である。

 しかしながら、先日ある新聞社のサイト(最近は禁無断転載、とうるさいので詳しく書けない)において、捜査機関が容易に犯罪を追跡できるように、プロバイダに一定期間のメールを保存するよう義務づける、という話が載っていた。

 つまり、たとえるなら郵便局があなた宛の手紙を、全部コピーしてとっておく、というような話である。私はそう後ろめたいこともしていない(ハズだ)が、これはちょっと不安だ。

 と、いうことで、あなたも始めてみませんか。PGP。
 「パソコン」にそう詳しくないひとでも、結構簡単でしょう。
http://www.cla-ri.net/pgp/
 (PGP UUser's Manual for Windows)

Wednesday, March 19, 2003

黒い疑念

 最近、電子メールの機構そのものについて、ある疑念を抱いている。
 その方法を用いれば、見かけ上全く自分の手を汚さずに、ある人物に大量の嫌がらせメールを送りつけられることになる。
 ただ、この方法は合法なのだろうか。

 きっかけは、私が数年前に取得したhotmailアドレスにある。hotmailは、送りつけられるspam(いわゆる「迷惑メール」)の多さでも、有名である。ご多分に漏れず、私のアドレスも時間がたつにつれ「汚れて」きた。

 しばらくの間は、ただ削除するだけだった。それでも処理しきれなくなってきたので、「受信拒否」機能を使い、特定のアドレスからのメールを二度と受信しないように設定し始めた。ところが、相手はランダムなメールアドレスを騙って送信してくるらしく、実に多様なアドレスから届くようになった。

 一般的には、こうなれば自分の無料アドレスを「捨てる」事にするのが普通だ。だが、私はどんどん長くなる「受信拒否」リストに興味を引かれた。もし、このアドレス全てに返事を出せば、いったいどうなるだろう?

 通常、spamに返事を出すことはタブーとされている。返事を出すという事自体、そのアドレスが「生きて」いる、すなわち読む人間が存在することを相手に教えることになるからだ。却って、多くのspamが届くことになりかねない。よく迷惑メールの最後にある「購読中止はコチラ」といったものも、同様である。

 だが、どうせ捨てるメアドだ。私は、100個ほどのアドレスに、全て「spamを送るな!」という内容の返事を出すことにした。まあ、ちょっとした手間と技術はいったが、ここまでは全く合法的なコミュニケーションである。

 すると、ほとんどのspamの差出アドレスは、存在しないことがわかった。よく、相手のアドレスを間違えたときに送られてくるmailer-daemonのメッセージが、たくさん返ってきたのである。結局、とりあえず相手が実在する、「生きた」アドレスは4個ほどにすぎなかった。

 これは別段、驚くことに当たらない。電子メールは、郵便物にたとえれば自宅の郵便受けに当たる「popサーバ」と、街角の郵便ポストに当たる「smtpサーバ」の中継によって成り立っている。自宅の郵便受けは、鍵がなければ開かないが、郵便ポストには誰でも自由に郵便物を投函する事ができる。しかも、インターネットの世界では、誰でも勝手に郵便ポストを作ってよい仕組みになっているのだ。こうして、悪徳業者がたてたポストからの、差出人不明なダイレクトメールが巷に氾濫することになる。

 そこで、だ。

 もし、確実に大量のspamを送りつけてくるという相手に、第三者のメールアドレスを騙って送信したら、どうなる?

 この場合、以下のようなポイントがある。

 ・そもそも、電子メールの差出人(From)は容易になりす
  ましが可能である。
 ・他人のパスワードやアカウント情報を盗んでいるわけ
  では、ない。
  (郵便受けの鍵をなくしても、ポストへの投函は自由
  である)
  従って、不正アクセス防止法違反には、ならない。
 ・たとえば、携帯電話に大容量のspamメールを、一時期
  に集中して送られると、ある人々にとっては生活がマ
  ヒするほどの影響があるかもしれない。
 ・しかし、それは私が行う行為ではなく、spam業者に
  よってなされることである。自ら手を汚さない。
 ・一般社会であっても、葉書の差出人欄に他人の名前を
  書いて投函することは可能だ。しかし、電子メールは
  非常に低コスト、しかも大量にそれを行うことができ
  る。
 ・相手が「まともな」プロバイダであれば、メールの
  経路から差出人を騙る人  間を追求することもある
  だろうが、そもそも相手は迷惑を承知で送りつける輩
  である。

 別にUNIXを知らなくとも、Windows上で動くsmtpサーバーは多く知られている。すなわち、Vectorをちょっとあされば、あなたにも、今日からこの方法は可能、ということになる。

 読者の意見を待ちたい。

Tuesday, February 11, 2003

なんで死ぬか

 実は、喫煙者は医療費抑制に一役買っている、という説がある。

 たとえば、日本全体といったような、ある規模の人口集団を考える。
 この集団の中で、たとえば2000年度といった、一年間で切った医療費の総額についてみてみると、この統計では喫煙者は、非喫煙者に比べて一人あたりの医療費を多く使っている、ということになる。すなわち、一見して煙草吸いは、嫌煙家に比べて医療費を無駄遣いしている、ように見える。

 しかしながら、人間一人が一生涯に使う医療費、という面からすると、これは逆転するのだそうだ。

 なぜなら、喫煙者は非喫煙者に比べ、早く死ぬからである。

 病院に、こまめにかかると健康管理が出来て、長生きできる。「一病息災」などという言葉がある。しかし、本当にそうだろうか。

 医者というものは、ある一定の年齢以上になると、必ずなにがしかの学会に属する。学会から、「認定医」や、「専門医」というお墨付きをもらわない限り、医者の世界でのステイタスが認められないからである。従って、よほど若い医者でない限りは、何らかの「専門」を持っていると考えた方がよい。

 この「専門」というのがくせ者であって、たとえば心臓を専門とする医者と、胃癌を専門とする医者では、語る長寿の秘訣が違ってきたりする。
 アルコールの扱いひとつにしても、「癌を防ぐ12カ条」(国立がんセンター編)では「少なければ少ない程良い」ということになっているが、循環器専門医の立場から言えば、毎日ある程度のアルコールを摂取することは、冠動脈疾患で死ぬリスクを有意に下げる、というエビデンス(大規模臨床試験に基づく結果)があるのである。

 要するに、どんな医者でも「自分のところで患者が死ぬ」のは嫌うわけで、それぞれの専門の病気で死なない方法にしては、事細かにアドバイスできる。できる割には、結局自分の専門の病気で死んだりする。

 先日、ある先生が「転移性XX腫瘍については、手術すれば少なくともその部位で死ぬ可能性をX(注:一桁)%落とせるのだから、積極的に専門医に紹介するように」と仰せになったとき、そんなことをふと考えた。

 というわけで、自分のカラダを守るのは、消費者たる患者サマのみなさまです。その点、お忘れなきように。

 (多分、これに関しては多くの医者も賛成してくれると思う。)

あーあ、こんなこと書くからいつまで経っても・・・なのね。

Friday, January 24, 2003

デジカメ考

 昨年末、ニコン社製のデジタルカメラなる一件を購入して以来、ほぼそれを大学へ持ち込んでいる。
 別に怪しい目的に使おうというものではない。
 講義のスライドを撮影するのである。

 大学の講義では、ここ数年の間にマイクロソフト社製のPowerPointが好んで使われるようになってきた。これは、一般に「プレゼンテーションソフト」と言われるもので、文字・画像・動画を含むスライドをコンピュータ上で簡単に作成することが出来るものである。これと液晶プロジェクターを使うことにより、教員はノートパソコンを持ち込んで次々とスライドを提示し、より「スマートな」講義を行うことが出来るようになった。もはや、黒板とチョークを用いた「授業」は駆逐されつつある。

 問題は、スライドの内容であって、医学部はX線写真や、病理標本写真などを供覧する必要上、元々スライドに偏った講義の文化があったのだが、PowerPointの出現によって相当な字数の文章を含むスライドを、気軽に作成してくる教員が多い。

 たとえば、所謂「診断基準」などといったものは、
http://www.dermatol.or.jp/QandA/kogen/ichiran.html
といった例を見てもらえばわかると思うが、かなりの文字数を含むものである。
 もちろん、中には「全部覚える必要もない」と言われる情報もあるのだが、学生としてはどこから試験が出るか知れない、という不安から、とりあえず出されたスライドの内容はすべて書き取ろうとするものである。そうすると、いかに教員が熱弁を振るおうとも、話し言葉に意識は集中しない。そういうことならば、最初から文字情報のいっぱい詰まった「教科書」を一人で読んで勉強すればよいだけのことで、大学に来て講義を受ける必要はないのである。

 そこで、だいたいこのようなスライドの洪水となる4年後期には知恵者が現れ、講義スライドをデジカメでパシャリ、パシャリとやることになる。もはや、滑りの良い筆記具を真剣に選んだり、画数の多い文字を速記して後で解釈に苦しんだりと言ったことからは解放される。教員の「話」を聴くゆとりも、生まれることになる。(もっとも、音声情報をもMDで録音するのが専門の学生も現れている。)

 いやあ、便利な道具を手に入れたものだ。

 と、単純に喜んでいるわけにはいくまい。
 ここには、学生と教員のコミュニケーションにおける深刻な断絶が現れているからだ。

 スライドの内容が判らねば、その場で手を挙げて質問する。どうしても書ききれぬ内容があれば、あとで教員の元まで出向き、スライド(あるいは、ファイル)を借りてこればよい。教育を目的とした「学校」であるならば、ごく自然なことであろう。

 そもそも日本の医学部では、「教育、診療、研究」の三本柱のうち、教育は評価されにくい部分だと言われていた。すなわち、学生の成績向上に寄与したからといって、それが教員の業績として評価されるシステムがない、ということだ。勢い、割かれる時間も少なくなる。

 また、学生の気質にも問題はある。医学生という者は概して内向的、また「恥」を嫌う傾向があり、目立って自分の馬鹿をさらすよりは、だまって疑問を胸にしまっておいた方がマイナスの点を喰わぬだけましだ、と考えるものである。

 結果として、教員-学生間の基本的なコミュニケーションさえも、失われつつあるということである。

 教員がパソコンという道具を用いて情報を垂れ流しにし、学生はそれを下流ですくうだけ、といった教育の在り方は、たとえみてくれはいいにしろ、決してほめられたものではないと考える。

Monday, January 20, 2003

随筆を書く

 ここに書かれるべき内容は、本来「日記」である。
 つまり、今日はこんなことがあっただの、誰それがどんなことを言っただの、ということを述べる場であるはずである。

 しかしながら、他の多くの「日記作者」と同様、私はここにある種の随筆を書いている。つまり、多分に思想的な文章を書いているということだ。

 下の段に登場する團先生は、音楽家である。しかしながら、先生は「パイプのけむり」の中で、週刊誌である「アサヒグラフ」に載せる8ページの原稿のために、一週間のうち3日を費やした、と書かれている。公衆の面前に触れる文章を書く、ということはそれだけの労力と時間を費やす行為なのだと。

 それに鑑みて、私がここになにがしかの内容を書きつづるのに費やす時間は、高々十数分である。本来ならば、人様に見せられるような内容を備えてはいないし、何より生まれ持った文才というものがないのであるから、私がやっているのはストリーキング並の恥ずかしい行為なのである。

 久しぶりに書いては見たものの、やはり人に見せる文を書くと言うことは、難しいものだ。

團先生のこと

 團伊玖磨先生、という音楽家が居た。

 先々週のこと、慌ただしかった今年の冬休みに一度は訪れようと思っていた郊外の巨大書店に、地下鉄と中央バスを乗り継いで行ってみた。
 学問に必要な専門書であれば、大学の書店で買えばよい。あるいは、書名さえわかっていればamazon.co.jpで注文するという手もある。
 従って、本業に必要な本を買うつもりはなかった。言うなれば、あえて無駄遣いをしに行ったようなものである。幾ばくかの金と時間を、自らページを繰り、そこで気に入った本を買う、という行為は、私にとって何者にも代え難い贅沢なものである。

 バスから降りて、根からの卑しさが災いして寄ったモスバーガーにて、チーズバーガーを喰らい、次に本来の目的である書店の門をくぐったときには、すでに日が暮れかかっていた。
 そこで何冊か、写真術の本だの、メディア論の本だのと、飯の種にもならぬような本を買った。

 財布をしまいがてら、懐中時計を出すと、まだ帰りのバスの時間には小一時間ある。やれ、困ったと思いながらも、またしても書店に併設されているミスドにてドーナツとコーヒーを喰らいつつ、書物に目を走らせた。

 ここでふと、ある書物のタイトルが思い出された。
「パイプのけむり」

 オペラ「夕鶴」から、童謡「ぞうさん」まで、多くの名作を生みだしてこられた作曲家、團伊玖磨先生の随筆集である。
 まだ私が子供だった頃、祖父からもらったこの「パイプのけむり」から教わったことは数知れない。「瓦斯」「檸檬」などの所謂難読語の類は、書けぬにしても読めるようにはなったし、その昔中国のことを「支那」と読んだ時代のあったことを知った。また、芸術家、これすなわち偏屈な思考の持ち主ということをも、行間に読みとったものだった。

 「パイプのけむり」は、27巻「さよならパイプのけむり」をもって完となっている。先生がずっと随筆を載せ続けてきた媒体である写真誌、「アサヒグラフ」が休刊になったことが理由であった。「アサヒグラフ」の休刊から間もなく、先生自身も2001年5月17日、中国蘇州市にて客死された。

 バスの時間が20分後に迫っては居たものの、私はあわてて検索端末を手繰り、棚の間を駆け回って、その書物を買い求めた。

 芸術家の生き様としての作品は、その死を以て完結する。
 だからこそ、人は永遠に生き続けることが出来る、とも言えるのだ。