Sunday, March 23, 2003

オルタナティブ・メディスン

 「代替医療」という言葉がある。原語では、alternative medicine である。

 これは、従来、近代西洋医学の立場からは、事実上「邪道」といわれていた医療のことである。もう少し詳しく書けば、ハーブ、鍼治療、といったものから、広義にはアロマテラピー、太極拳といった「健康法」の類までをも含むかなり大きな概念である。

 なぜこんなことを書くかというと、ある新聞での記事に、「病院へ受診する代わりに、代替医療を選択する人は、予想されていたよりも大幅に多いことがわかった」というようなことが書かれていたからである。これは、下手すると我々も、おまんまの食い上げということになるではないか。これについては、少し深く掘り下げてみなければなるまい、ということだ。

 人はなぜ代替医療を選ぶのか。

 一つの理由に、医療費の問題がある。
 最近中華人民共和国へ旅行に行くことがあり、その際ガイドから聞いたことなのだが、最近まで社会主義国家、中国(上海)では、正規の病院へかかった際の医療費というものが、8割公的負担でまかなわれていた。ところが、近年市場経済原理の導入に伴い、これが逆に、8割患者負担となった。そこで、一般の大衆にとって病院の敷居は高くなり、代わって昔ながらの漢方を処方する薬店の数が大幅に増えたそうである。
 日本でも、月3回目の受診からは医療費算定が大幅に削られるなど、以前よりも病院・医院が「行きづらく」なっているのは、確かである。

 二つ目は、西洋医学を行う病院への不信がある。
 「柔道整復師などが、法で医師以外には認められていない医業、すなわち診断・治療を行っている」という記事が、読売か毎日に載ったことがある。
 これに対して、2ちゃんねるの「病院・医者」板では結構な議論が巻きおこった。
 私自身は議論に参加しなかったが、スレッドを眺めていてショックだったのは、「整形外科医らが、自分の領分を侵されないがために無理難題をつけて整復師らを糾弾している」という論調が、少なからずあったことだ。「我々の手はレントゲンより正確」とは、よく言ったものだと(医学生の立場として)思うが、要するに医師という職業が、世間一般に対する信用をいかに失いつつあるか、ということを考えさせられた。

 たかが「2ちゃんねる」だという向きもあろう。
 しかし、以下に述べるエピソードは、背筋に何か冷たいものを感じさせるに十分である。(一般教養の教員から、数年前に聞いた話である)
 95年、地下鉄サリン事件でその名をとどろかせたオウム真理教。その広告塔として、名門国立大学法学部出身のA弁護士がいた。A弁護士は、大学での成績は常にトップ、司法試験には在学中に合格、というまさに「エリート」の資質を満たした存在であった。その彼が、よりによってなぜオウム等という非論理的集団に身を投じたのか。それは、「腰痛が治らなかった」からだという。
 A弁護士は、大学在学中から、原因のよくわからない腰痛に悩まされ続けていた。複数の整形外科を転々としたが、一向に改善の兆しがみられなかった。(こう書くと、なんだか私が整形に個人的な恨みでもあるように思われるかもしれないが、そんなことはない。整形はメジャーな学問です、と。)
 ある時、A弁護士は、「ヨガ教室」の看板を目にする。最初は疑心暗鬼であったろうが、やってみると実に腰痛が楽になった。

 そのヨガ教室こそ、後のオウム真理教であった。

 これ以来、A弁護士はオウムに傾倒していくことになる・・・。

 なんだか出来過ぎのような話にも聞こえるが、逆にあり得ない話でもない。「現代医学で答えを出せなかった」問題には、医者は無力である。いや、医者は「無力である」の一語で済ませられるかも知れないが、患者の立場からすれば「答えが出ない以上、西洋医学以外の道を探す」というオプションを選ぶのも、当然といえば当然である。

 そこで、三つ目にあげられるのが、患者には、たとえそれが不利な選択であるとわかっていても、それを行う権利があるという比較的新しい概念の浸透である。たとえば、タバコを吸うという行為自体は健康に悪い、とわかっていても、タバコを吸ったからと言って警察に捕まるわけではない。(マリファナなら、捕まる。)それは、良識ある大人には「愚行権」というものが認められているから、ということである。

 話はそれるが、私は「2ちゃんねる」の存在意義も、近いところにあると考えている。確かに情報の質は粗悪、便所の落書き、と揶揄されることも多い。しかしながら、電波法の免許を受けた放送局、また歴史ある新聞社といえども、その流す情報に絶対誤謬を差し挟まない、という保証はない。しばしば、大きな力によって報道はねじ曲げられる。どうせそれならば、はじめからあまり信用がならないものでも、触れてみる価値はある。

 閑話休題。
 つまり、「効く」という確かな証拠がないことぐらい、患者の側でも承知なのだ。それでも、まだ知られていない「何か」があるのではないか、という希望を持ちたい、というのも患者心理である。


 さて、代替医療が、西洋医学と正面からぶつかり合う、という場面がある。

 第一に、代替医療が、明らかに有効とわかっている西洋医学の効果を妨害することだ。
 一例を挙げると、不眠改善・精神安定の目的で、ヨーロッパでは「セント・ジョーンズ・ワート(セイヨウオトギリソウ)」という薬草が民間薬として用いられている。しかしながら、この薬草は、強心薬、抗凝血薬等と一緒に服用した場合、これら薬剤の血中濃度を下げてしまうということが知られている。人によっては、「心臓がどきどきするので、民間薬で落ち着きたい」という場合があるかも知れないが、これが命取りになる場合も考えられる、ということだ。

 また、西洋医学の立場にあるものからよく言われることに、「適切な治療の機会を奪われる」という問題がある。
 現代医学の主眼は、「治療して、完全に元に戻すこと」から、「病的な状態を、いかに進まないようコントロールするか」といったところに移りつつある。糖尿病や、心臓病といった病気は、初期にサインを見逃さず(これが医学生にとって「勉強」の八割方を占めることである)治療を開始すれば、悲惨な状態に陥る前に進行を止めることが可能である。ところが、初期のサインを単なる「体調不良」として代替医療で軽減しようとし続ければ、その裏で病態が進行するおそれがある。

 第三に、悪質な医療者を排除できるか、ということがある。
 たとえば、リフレクソロジー、という代替医療がある。これは、足裏のツボを刺激することにより、全身的な健康を培う、という考え方に基づくものである。それに効果があるのか、といった事柄については、ここでは述べない。
 しかしながら、過去「法の華」という宗教(?)団体が、それによく似た行為を「宗教行為」という隠れ蓑を使って行い、代価として多額の布施を集めていた、という事件が起きたのは、西洋医学の発達した最近のことである。

 実際、私自身も予備校生の時に、この団体が駅前でビラを配っていたのを目撃しているし、ビラを受け取ったサラリーマンが真剣な目つきでそれを読んでいたのもありありと記憶している。もっと言うならば、つい2年ほど前に、テレビ塔前の喫茶店へいくと、怪しげな浄水器を随分高い値段で売買している光景が必ずみられたものだ。買う方も真剣で、「これで娘のアトピーが治りますよね」とか、話していたりする。私は開いている標準生理学の中味より、そっちの方が気になって仕方が無かった。

 うさんくさくないわけでもないが、現代医学を司る医者の養成には「大学教育」と、「国家試験」という一応の歯止めがある。しかし、代替医学に関しては、事実上医師法・薬事法などに「触れない限り」好きにやっていい、ということになっている。


 医学用語では「予後がよい」「悪い」といった言い方をすることがある。診断がついてから、あるいはある治療を行ってから、たとえば5年で区切ったときにどれくらいの人が生き残っているか、ということだ。だが、5年間生存率50%といったところで、患者の側にしてみれば「どういう努力をすれば生きている方の50%に入れるのか」といったことは、西洋医学でわからないのである。(わかっていれば、当然その治療法が一般的に選択されるはずだから、「50%」という数字が変わってしまう。)
 従って、そこにはアガリクスだのメシマコブだの、といった怪しげなものが入り込む隙が、うじゃうじゃしているのだ。

 大学に籍を置いて医学を学ぶ者として、この種の代替療法に傾倒するのは、危険であることは自覚している。それをわきまえた上で、西洋医学で答えを出せない事柄に対して、「それはまだ大規模な調査結果が出ていないので、わかりません」という言葉でいいのか。それは、本当に依頼人の利益にかなうことなのか。新たな深い問題である。

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