先日は市長選再選挙の投票日であった。
私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。
はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。
しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)
(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。
(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。
したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。
しかし、これは案外難しい。
そこで、私はこのように考えることにした。
選挙を競馬のように考える。
つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。
だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。
何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?
だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。
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