先日、「医療には間合いが必要だ」と書いた。そのことについて、もう少し書いておきたい。
まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。
患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。
「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)
私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。
もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。
もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。
最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。
人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。
一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。
少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。
このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。
そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。
『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。
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