近くの吉野家は、相も変わらず大盛況である。
もうすぐ牛丼がなくなるという恐怖感(?)からか、せっかくの「カレー丼」を注文している客は少ない。
さて、このごろ聞かなくなった表現に、生計を立てる、という意味の「食べていく」という言葉がある。「大学の教員は所詮論文を書いて食べているわけです」(ドラえもんのアンキパンではない)などという言い方があるが、現代の労働は、文字通りの「食べる(食事する)」ために行うものではないらしい。
失業者はこの通り沢山出てはいるが、実際食べることができずに餓死している者は少ない。ただ、「飽食の時代」という言い方も最近は聞かなくなった。
そこへきて、現在巷を賑わしているトピックは「食の安全」である。本日(2004年1月28日現在)google検索によって、約8万件ほどのHITが得られる。
「トレーサビリティ」という言葉も、最近のキーワードの一つである。どうやら何県何村の畑でとれた野菜かということが、都会のスーパーにいながらにしてわかる、といったことらしい。
我が国の食料は多くを輸入に頼っている。つまり、もはや日本国民の多くは、加工食品を別にすれば「食べものをつくる」職業には関わっていない。「食べる(食事する)」ための仕事を、自ら手を下して行っていない訳である。
あんまりこういうことを突き詰めて考えると、農業左翼風の書き方になってしまうが、そもそも土に触らずして食べている人間が、食い物に文句をつける権利があるのだろうか、と考えることがよくある。
人間、「食う(食事する)」ためにしなければならない仕事は、農業か漁業のはずである。その職業を選ばなかった時点で、多少質の悪いものが食卓に並んでいても、文句を言わずに食わねばならないのではないか。
都市に住む人間は、農業を捨てた時点で、本当にうまくて体にいいものを食う資格を失う。そのかわり、もし農業を選んでいたとしたら、成し遂げられなかっただけの仕事をすることができる。
そう考えた方が、私はすっきりすると思う。
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食卓に安心して食べられる食材を、というのはよく聞く表現だが、「安心」を得るのなら食材を探すより、自分を白痴にする努力をするべきである。
白痴は恐れることを知らない。恐れることを知らない人間は、常に安心していられる。
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