Saturday, January 10, 2004

コントロールする責任

 JIRO氏による「JIROの独断的日記」の、2004年01月09日(金)分を読んだ。

 「自衛官に言論の自由はないのか。」ということだが、これは「ない」といいきるのが正しい。
 
 私は、「自衛隊は明らかに軍隊である」という立場の持ち主であるので、その前提の元に話を進める。
 
 確かにJIRO氏の言うとおり、日本国憲法には表現の自由や、法の下の平等を謳った条項がある。しかし、それを自衛隊=軍隊という武装集団に適用することは、根本的な誤りである。
 
 シビリアン・コントロールの考え方については、先に述べた。「軍隊は、文民政府の命令に服従しなければならない」という近代国家に於ける原則である。
 
 もし、自衛隊の構成員が、結社・言論の自由を根拠として、積極的な政治活動を行ったらどうだろうか。たとえば、「自衛官をイラクに派遣するという小泉政権の方針は、我々個々の自衛官にとって生存権を脅かすものであるから、小泉政権は政策を撤回すべきである」という主張が、現職の自衛官によって堂々と為されたらどうだろう。
 
 自衛隊には、武力という文民政府を容易に転覆しうる手段が与えられている。この点において、武力を持たないその他市民と異なる。
 
 したがって、もしシビリアン・コントロールという原則が守られないとしたら、自衛隊には武力によって政権を奪取する、すなわちクーデターという選択肢が現れる事になってしまう。


 我が国の歴史において、実際にクーデターが起こったことはないのか?
 ある。2・26事件がそれである。青年将校といういわば中間管理職が、下の不平を吸い上げ(つまり、一見「民主的」なプロセスにおいて)、実力行使という形で文民による政権転覆を試みたのである。結果として政権は奪取されなかったが、軍閥の発言力は著しく強くなった。後々、このことが更なる悲劇を招いたことは明らかである。
 
 結論として、自衛隊=軍隊には、文民政府の決定に対し、いかなる抗弁権をも与えてはいけない。つまり、自衛官に言論の自由を根拠とした政権批判を許すことはタブーなのである。
 
 さらに言うならば、自衛隊は全て志願兵による軍隊である。ここは徴兵による軍隊であるからといって譲歩されてならないところなのだが、自衛官として志願した時点で、憲法以前に存在する自然権、「生存権」さえも国家にゆだねた状態、と考えるべきである。つまり、憲法を根拠とした自衛官の権利主張は、要領を得ない。
 
 
 これまで我が国の歴史では、第二次世界大戦以後外国に交戦を予想して軍隊を派遣することは絶えてなかった。したがって、国民も軍隊を「コントロールする」事について、甚だ不慣れである。その結果、自衛隊は「特別な人たちの集団」であり、一般市民とは全く別個の存在として暗黙のうちに認められてきたのである。
 
 しかしながら、もし自衛隊がイラク人を撃つようなことになれば、イラクを含めた諸外国から見て「日本人がイラク人を撃った」という事実に変わりはない。「いや、あれは自衛隊という特別な組織の人がやったことで、一般の日本人とは違うのです」といった言い訳は、もはや通用しない。
 
 
 自衛隊のイラク派遣の是非を論議するのは、我々文民たる市民のの役割であり、それは自衛隊自身にとって論議することの許されない問題である。自衛隊が今、実際にイラクに派遣されるということは、街角でものを売ったり、バスの運転をしたり、コメをつくったりという全く戦争と関わりのない「市民」がそれを許容したということに他ならない。
 
 派遣の結果、彼我に死者が生じたとしても、それは合法的な手段によって現政権を選び取った、われわれ市民の責任に全て帰結するのである。

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