Monday, January 31, 2005

本を読むということ

 最近忙しくてまともな本を読む暇がない。暇がないというのは詭弁であって、本当はあるのかも知れないが、試験に関係あるもの以外の本を読むのに、強い抵抗を感じるのだ。

 古い話で強縮だが、大学に入って、まず痛感させられたことは、「自分にはものを読む力がない」と言うことだ。これはゆゆしき自体だと思った。

 まさか大学生にもなって、少なくとも日本語が読めないはずはない。そうおっしゃる向きもおられようが、実は大学生になる上で、文章を「読む」力などほとんど必要がないのだ。試験問題に出てくる文章のパターンなどほとんど決まり切っていて、センターなんか結局は5つの選択肢のうちから1つの異質なものを選べばよいのだから、せいぜい「当てはまるものを選べ」と「当てはまらないものを選べ」という2パターンの日本語さえわかればいい。(ちょっと極端か)

 私たちのような理科系の大学受験生にとっては、二次試験で「現代文」の試験が出ることなどほとんど考えなくてよかった。医科大学によっては、面接・小論文という形でその受験生の日本語力を試すところもあるが、まあ試験問題のパターンとしては決まり切っているので、対策の方も知れようというものだ。

 実際、予備校でも「小論文」の講義は用意されていた。だが、それが夜遅い時間帯に開講されていたせいと、北海道の医学部受験における「黄金パターン」を採ることに早々にして決めてしまったおかげで、他の科目に対する予習・復習の時間を勘案した上で「小論文は訓練しない」ことにした。

 何事にも反動というものはある。ここに何のかんのと書いているのも、そのときの「反動」のせいであろう。


 閑話休題。

 大学に入って、「読む力がない」と感じたのは、やはり大学指定の教科書を見たときだった。いくら読んでみても、中身が全く頭に入った気がしない。と言うのは少し極端だが、教科書に書かれている文章のうち、どこが「理解」すべき場所で、どこが「記憶」すべき場所なのか、ということがさっぱりわからないのだ。

 はてはこのオレも、LD児(学習障害児)の一人なのではないか、と思ったことさえあった。


 しかしながら考えてみれば当然すぎるほどの当然な話で、私はそれまで大学に入るまでの学習で、まともに「教科書」なるものを読んで理解したことがなかったのだ。

 もちろん、小説のたぐいは人並みに読んでいた。だが、基本的に教科書というのは、数学にしても理科にしても「これ以上の範囲から問題を出すことはないから、ここまで勉強していればよろしい」という一種のルールブックのようなものだ、とどこかで考えていたのだ。

 今どき、「教科書さえきちんと理解して読んでいれば、それなりの大学に入学できる」などとは誰も信じていないだろう。(もっとも、数年後には大学全入時代が到来するので、文部科学省のお役人が言いそうな「理想」が実現するのかも知れない。)

 従って高校時代、化学の教科書は実質「チャート式新化学IB・II」だと思っていたし、(実際高校の検定教科書も数研出版だったので、ほとんど似たような構成だった)社会科で受験科目に選択した政治・経済では、検定教科書よりも「資料集」の方に慣れ親しんだ方が得点力につながるのを熟知していた。生物も、教科書よりも様々な図が載った「資料集」の方にたくさんの線を引いて覚えていた。大学入試の生物は、「実験の結果から何を考察するか」という思考力を試すよりも、「過去行われた有名な実験の方法・結果・導き出された結論を、それぞれきちんと覚えておく」ことが点に結びつくものの方が多い。

 だが、こうした「資料集」や受験参考書には、きちんとした論理関係を持った文章が並んでいるというよりも、図や表を駆使して「ビジュアルに訴えかける」路線のものが主流であった。これを理解するのには、ほとんど文章の読解力や構成力といったものを必要としないが、それが受験成功への近道であった。


 「書く力」に関しては、大学受験の時点ですでに弱さを自覚していた。前述の通り二次試験では国語の試験こそ無いものの、生物では記述の問題が多く出る、そういう大学だったのだ。予備校でも、直前期に「生物記述対策講座」なるものを用意していて、これは私も受講したのだが、知っているはずのことをうまく自分の言葉で書けない、そういったもどかしさを感じる場面が多々あった。公平性を期する試験であるから、記述問題で満点解答を出すためには、いくつかのキーワードを逃さずに文章の中に盛り込めばいい。それだけのことだが、やけに難しいと感じたものだ。


 その当時 ---センター試験が終わって二次試験が始まるまでの間--- 浪人仲間
でも「本が読みたい」という渇望に駆られるものは少なくなかった。それほど、「まともな」本を読む機会から遠ざかっていたのだ。


 数年前、当時の有馬文部科学相が、中高生と直接の公開討論をする。そんな企画がNHK教育テレビであって、それなりに興味深く見ていた。番組の中で、ある生徒が「受験勉強で忙しくて、本を読む時間がありません。もっと本を読むことが報われるような仕組みにしてください」と言っていたのを覚えている。

 対する有馬大臣は、「なんで本を読む時間がないなんて言うの?僕の時代も、大学に入るためには、それは大変な試験があったのです。それでも受験勉強とは別に、本を読むことは十分に出来たのです。本を読む、読まないは、その個人の意欲の問題じゃないのかなあ。」というお返事であったと記憶している。

 私はそのとき、「ああ、この先生(大臣)は、実に優れた学生に囲まれて教職を送ってきたのだな」とも思ったし、「こういった考え方の人が大臣では、この先子供たちは大変になるな」とも思った。


 現在、日本で出版される新刊本は、1日180タイトルに近い(*1)と言われている。純文学からエロ本まで、こんなに図書が氾濫する時代にあって、果たして本を読むことはいいことだ、ドストエフスキーを読みなさい、文章を読んで理解することは大切な能力なんだと、次の世代に自信を持って言うことが出来るのだろうか。

 「てにをは」の使い方より、スタイルシートの書き方のほうが、生きていく上では大事なことだよ。いつかそんな時代がやってきても、私はあまり驚かないだろう。

*1 こちらの記事にある「日本では年間56~57万タイトルの書籍が流通し、毎年6万5000タイトルの新刊が出版されている。実店舗ではとても並べられないがオンライン書店ならそれが可能だ。また、実店舗では実際にその本を手に取ってみることができるという、オンライン書店にはない強みがある」という記述を参考にしました。


--
 だから結局STEPとイヤーノートさえ読んでりゃいーんだよ、俺らは。「できった血液」は、いわゆるひとつの、ふきゅーのめーちょ、ってやつよ。

Sunday, January 30, 2005

紀伊國屋書店札幌大通本店閉店

 昭和47年より33年間にわたって札幌市の中心部に店を構えてきた紀伊国屋書店大通本店が、本年1月31日をもって閉店する。
 (閉店するのはテレビ塔前の地上1,2階部分であり、大通地下街オーロラタウン店は営業を続ける。)

 テレビ塔前の紀伊国屋の大看板は、「札幌大通」のシンボルの一つとも言えるものであった。中学生時代から、札幌へ上ると必ず訪れる店の一つであり、大学に入ってからもよく買い物をした。

 まあ、最近の紀伊国屋大通店は、旭屋書店コーチャンフォーなどの売り場面積の大きな他店にも押されていた感がある。また、Amazonに代表される無店舗書店の進出も大きな影響を与えただろう。

 正直な話、医学書に関して言えば、札幌の中心的な位置を占める書店としては、品揃えが今ひとつであった。ただ、医学書「専門」の書店は北海道には皆無といっていい状況で、一番品揃えがいいのは北大生協、とまで言われたこともあった。

 しかしながら、そのページを一度も開いたことがない本を、ネットでいきなり購入するのはかなり勇気の要る行為である、と私は思う。書店の店先で数ページを繰ってみたのものの、その場で購入する気にはならず、それでも後日やはりあれは買っておけば良かったのに、という本がかなりあるものだ。地方に暮らしていたときは、次に札幌に出るまでそういう本を手に入れる機会は無かったわけで、だからある程度の金額を懐に、少々「余分」と思われるものまで「買い付け」に出てしまうのが恒例だった。そのクセが今でも後を引いているような気がする。

 そういう意味でネット書店の存在は大きいのだが、実際の本を手に取る機会が減る、というのは、いろいろな意味で勿体ない気がする。米国のAmazonなどでは、一冊の本のうちあらかじめ用意された数ページを画像ファイルとして読むことが出来るが、主に索引や目次などのページであり、あれで買う、買わないを決定するには少々無理がある。


 大通店が閉店する代わりに、4月上旬札幌駅周辺に紀伊国屋が大型書店をオープンさせるそうである。現在売り場面積では北海道最大と言われている、小樽の喜久屋書店、コーチャンフォー・ミュンヘン大橋店をしのぐ規模の店舗にする予定で、まあオプションが増えるという意味では大変結構なことである。・・・となると札幌ロフトの紀伊国屋はどうなるんだろう?

 しかし、電器屋にしてもそうなのだが、最近同じような系統の店が札幌駅周辺に出来過ぎである。ヨドバシカメラとビッグカメラとベスト電器が札幌駅を取り囲むように出店しているのだが、明らかに駅前に電器屋が3つは多過ぎだ。実際3店のうちの、少なくとも1店は、明らかに出店の見通しを誤った、と言ってもいい状態なのである。

 あそこに3店舗も集中するぐらいなら、そのうち1店舗は大通に来てくれれば冬でも何とか歩いて行けたのに、と恨めしく思ったことが何度もある。マツヤデンキ、長崎屋が倒産した現在、大通にまともな電器屋は無くなってしまったからである。


 大通店が撤退した後も、前述の通り地下街の紀伊国屋は営業し続けるし、まだ三越の隣に丸善があるわけで、当面大通の書店事情は維持されるだろう。

 しかしながら、様々な地域で、それなりの規模で営業していた店舗が札幌駅から半径500mの圏内にどんどん集中していく動きは、かえって札幌という都市の魅力を奪ってしまうような気がしている。「北の大地」という表現は、私のもっとも嫌う言葉の一つだが、いくら何でも北海道の文化が集中しすぎである。

--
 本日は北海道民、あるいは札幌市民でない方には全然興味のない話だったと思います。読んで頂いたそれ以外の方々、どうもすみません。

 参考:札幌大通テレビ塔周辺[Yahoo!地図情報]
    札幌駅周辺[Yahoo!地図情報]

Saturday, January 29, 2005

いわゆるひとつのrobots.txt

 robots.txtというファイルがある。これはあるディレクトリ内に置くと、そのディレクトリ以下に置いてあるファイルが、Googleなどの検索エンジンに引っかからなくなる、と言う魔法のおまじないである。正確には、検索エンジンに「ここの内容はあなたの検索範囲に含めないようお願い申し上げます」という意図を伝えるものだ。

 おまじないである、というのは、検索エンジンによってはrobots.txtの設定を全く無視してやってくる、はた迷惑なものが存在するからだ。たとえば、メールアドレスらしきものを片っ端から集めているspam業者の検索エンジンなどである。


 知っている人はとっくに知っているようなことをここにわざわざ書くのは、あるサイトで「このサイトではrobots.txtをこんな風に書いていますよ。よっぽど見られたくなかったんでしょうねえ」というような記述を目にしたからである。ふと気になったことがあったのだ。

 知っている人は知っている、と言う一方で、今ここでそんなものの存在を初めて知った、と言う方も多いだろう。普通はrobots.txtに向けてわざわざリンクを張るようなことをしないし、「私のサイトではこんなrobots.txtを使っています。どうぞごらんになってください。」という風に積極的にアピールしているところも珍しい。

 つまり、robots.txtは「絶対に見えないようには出来ないけど、出来ることなら他人に見られたくない」というファイルの一つである。

 あるサイト内容を一部の人間以外に見られたくない場合は、ユーザー名とパスワードを用いるBASIC認証を使う方法が有名である。だがrobots.txt自体に認証をかけてしまったら、検索エンジンはパスワードを知らないわけだから、検索エンジンがrobots.txtを読むことが出来ない。無意味である。

 従って、あるサイト(ここでたとえばhttp://www.example.com/とする)にrobots.txtが存在するかどうかは、手打ちでディレクトリを示す"/"以下に"robots.txt"を追加して、http://www.example.com/robots.txtとすることによって簡単に確認できる。


 行きつけのサイトで試す前に、以下のニュースを見てほしい。

 ACCS不正アクセス裁判、検察側は元研究者に懲役8カ月を求刑

 今回の事件では、元研究員はCGIフォーム送信用のHTMLソースを改変し、CGIの引数にファイル名を渡すことにより、CGI本体のファイルと個人情報が含まれるログファイルを取得したとされている。この行為そのものについては弁護側・検察側とも事実であるとして同意しており、公判では行為が「不正アクセス行為」に当たるかということが論点となってきた。
参考:slashdot.jp:ACCSがoffice氏に約744万円の賠償を請求

 CGIや引数といった、頭が痛くなるような言葉が出てくるが、問題となっているのは被告(通称office氏)が、サーバー設置者にとって見てほしくないファイルを、あるURLを打ち込むことによって簡単に見ることが出来た、というものである。

 office氏はこの結果、ACCSのサーバーにあった個人情報の一部を学会で報告し、「ACCSのサーバー管理はこんなにずさんなんですよ」と公表してしまった。これ自体は非難されて然るべき行為である。

 しかし、裁判の争点となっているのは、「URLを打ち込むことによって、簡単に見えるようなものを見てしまったからと言って、それは不正アクセス禁止法に触れるのか?」という点である。
 参考:不正アクセス行為の禁止等に関する法律

 もしこれでoffice氏が有罪になるようなことがあれば、たとえば「http://www.example.com/secret/以下のディレクトリは絶対にのぞかないでください」という、鶴の恩返しみたいな告知一つで、そこのURLを興味本位でアドレスバーに入力した人間を訴追することが出来るようになるわけだ。

 当然、あるサイトのrobot.txtを覗くことも、サイト管理者が積極的に許可していない以上違法となるだろう。

 やっぱり、どちらかが間違っているようにしか思えないのである。

--
 昔、大学に入り立ての頃、師匠から「大事なファイルはそもそもネットワーク上に置くな」と言われた。今でも至言であると思っている。

Thursday, January 27, 2005

学習能力

 blogを更新する場合、まずブラウザを立ち上げ、ホスティングサービスの管理画面にログインした後、その日の記事をフォーム内に入力して、「投稿」ボタンなりを押す。これが一般的な手順である。

 ところが、blogサーバによっては、あらかじめ決められたメールアドレスに送信することによって、記事の投稿が可能であるところもある。goo blogなどでは、この方法が便利だったりする。

 bloggerにもずいぶん前からこの機能がついていた、ということを昨日知り、、早速試してみたのだが、メールのSubjectに当たる部分(記事のタイトルに相当する)がひどく文字化けすることに気づいた。しかも、メールから投稿した場合には記事内容が反映されるまでかなりのタイムラグがあったりする。

 そして気づいた。

 上のニュースが出た当時(2004年5月10日)、私は早速この機能を試してみたのだった。そして今と同じく「こら使い物にならん」とあきらめていたのだった。

 この分では春にやった分のアプローチとか大脳皮質から消え失せているんでは、と不安になってみたりして、と書きながら他人に無用のプレッシャーを与えてみるテスト。

--
 でも「やらないよりは、やった方がまし」。ある意味投げやりにも聞こえるが、浪人時代、予備校の先生の口癖だったこの言葉は、ここ一番、と言うときに自分を支えてくれた言葉でもある。

Sunday, January 23, 2005

善人たちの庭

 以下に述べることは、しばらく前に受けた臨床講義の中で、ある先生が「小咄」の一つとして述べられたことであり、いわゆる「医学界の都市伝説」の一つぐらいに考えていただきたい。

 それはちょうど糖尿病の講義だった。
 えー、以上のように、糖尿病の合併症には、腎症、神経症、網膜症という重篤なものがあるわけです。

 少し前ですが、○○市の一角に、「糖尿病専門」の看板を掲げて、ある医院が建ちました。開業と同時に患者さんは満員。連日、糖尿病の患者さんでいっぱいになっておりました。

 その理由は何であったか。

 先ほど私が黒板に書いたとおり、糖尿病の治療法は、運動療法、食餌療法、薬物療法の三本柱であります。ところがこの医院では、「私の薬だけ、安心して飲んでなさい。」という大変優しい先生がやっておられて、他の内科医が言うような、「運動しろ」だとか、「食事の量減らせ」だとか、そういう厳しいこと全然言わないわけです。だから患者の間で大変評判が良く、人気があった。

 その医院が開業してから、数年たった頃。

 同じ町にある、眼科の医院が大変繁盛し出しました。そうです。件の「糖尿病専門」医院にかかっていた患者さんたちが皆、糖尿病性網膜症を来たし、眼科に受診する羽目になっていたのです。

 別の病院にいた我々は、このことについてあれこれと医局で茶飲み話しておりましたが、結局「あの医院の先生は糖尿病の治療が運動療法、食餌療法、薬物療法をそれぞれ使わなきゃいかん、ということを知らないんだろう。知らないんじゃしょうがない。」ということで落ち着きました。

 さて、ある日のこと。

 市内の医者を集めて、「現代の糖尿病を考える」というセミナーが開かれました。件の医院の先生も、市内で一番糖尿病患者を診ておられるということで、演者の一人としてお呼ばれになったのでした。

 その糖尿病医院の先生の講演内容は何であったか。

 「糖尿病の治療方針は、運動療法、食餌療法、薬物療法の三者がそれぞれ欠かすことのできないものであります」

 なんと、ちゃんと正しい糖尿病の治療方針を得々として語るわけであります。この日を境に、我々の間で彼の評価は変わりました。

 「あいつは犯罪者だ」と。

 こんな私にも、今日は少し「いい人」をやりすぎたのではないか、と自分で思う日がある。そんな時にいつも頭をよぎるのは、この話である。

Saturday, January 22, 2005

こっち側の論理、向こう側の論理

 茨城の病院(ATOKは「いばらぎ」でちゃんと変換してくれた)に勤めていた先生のblogに関する一件に関しては、いろいろ書くべきことがあるようにも思うのだが、とりあえず今は「面倒なことは先に延ばす」という方針なので、手抜きする。

 ざっと書いてみると、医者、特にジュニアレジデント(初期臨床研修医)なんて事実上病院が生活の場である以上、blogに書かれる内容が医療ネタに偏ることは当然であろう。それ以外のネタを書こうとすると、かなり無理がある。無理してまでblogは書く必要がないだろう。所詮ウンコなのだから。

 だが、どんなblogにも「サイトバレ」の問題はつきまとう。基本的にはいつ顔見知りの人間に、こんなことを書いていることがばれても、それほど人間関係に悪影響が出ないように注意して書いてきたつもりだ。だが、初めてweb上に日記を書き始めた頃 ---あまりblogなどという言葉は盛んでなく、トラックバックを通じて日記がリンクし合うことがなかった時代--- は、ある特定の人に読まれると相当まずいことになる内容も、「肝試し」の感覚で書いていた記憶がある。

 少し検索して、茨城の先生が書いていたとされるHPの痕跡を探ってみた。「ああ、あの人か」と、私も以前数回ほど見た覚えのあるところだった。

 医療者側、つまり「こっち側」の論理から書かれたblogについては、ちりん師がまとめてくださっている。私は、「向こう側」つまり、医療者でない側の方の視点に興味があったので、少しまとめてみた。あえてリンクを張らず、下記のURL元にはトラックバックも送っていない。やや不親切だが、リファラを探られると前述の「面倒なこと」になりそうなので、ここはアドレスバーにコピペでお楽しみください。

(以下のURLは随時増える可能性があります。)

まず、ここが一番厳しいコメントを出している。何をやっていて有名な人なのかは、あまりよくわからないが「有名そうな雰囲気」はよく出ている。。
http://www.dryamasaki.com/Article/2005/2005-01.html#050115
〔追記〕
医療関係者等のblog[1,2,3,4,5等とそのリンク先]によると、単にウェブに書くことだけをしなければよかった等の軽い見方が大半で、この医師の人間性を問うものはありません。厳重注意だけでよいという意見も見られます。刑事罰さえも予想される深刻さが分かっていないようです。

 なんだかいつも私がお世話になっているblogが数件ここで晒されていますが・・・。あんまり書くと「堂々と戸籍上の氏名並びに住民票上の住所を明記して、書面にてこちら(私の顧問弁護士)宛」に書かなきゃならなくなるので、こんくらいにしときます。

 あ、でも断じてこれは「不服」じゃありませんから、残念!

 他、bulkfeedからざっと検索してみた。まあ今の国内情勢から考えるとそれほど大きく扱われるニュースでもないので、「こっち側」の方々に比べるとやや内容は薄目である。
http://hasemana.cocolog-nifty.com/main/2005/01/post_83.html
http://blog.goo.ne.jp/meowcat/e/0af8ef9e88cad1683b18e609be27c281
http://markzu.exblog.jp/1569900
http://markzu.exblog.jp/1547319
http://power-power.blog.ocn.ne.jp/power/2005/01/post_13.html
http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/PrinceOfLuna/eid/86576
http://otkortho.exblog.jp/1787086
http://blog.goo.ne.jp/goocamry/e/31e69ad443de77b115ba722d74df66fb
http://blog2.fc2.com/luckyclover/?no=46
http://blog.goo.ne.jp/krkrkn/e/9f568ab8a4eea2935047d4ae12edbea1
http://yaplog.jp/chocomama23/archive/86
http://blog.goo.ne.jp/shiratori-chikao/e/67f923822c1e4b833de7cc8b2c0d81ff


ちょっと毛色が違う
http://yakkotai.at.webry.info/200501/article_6.html

--
 ここ? 大丈夫ですよ、ここは。
 だって「医療系ブログ」じゃなくて「軍事系ブログ」なんだから。

Friday, January 21, 2005

ニュースを食らう

 昔々、雪印食品という会社があった。(親会社の雪印乳業はまだ存続している)。私は、毎日給食に配達されてくる雪印牛乳を飲んで育ったし、信じられないような味がする給食の中で、唯一雪印の牛乳はいつも心休まる味を提供してくれていた。

 だからある日、大阪で雪印の牛乳を飲んだお年寄りが下痢を起こして亡くなったと聞いたとき、はじめに思ったのは正直こういうことだった。「え、雪印の牛乳飲んで下痢したんなら、下痢した方に問題があるんじゃないの?」だがその後、問題の牛乳は追跡調査され、ついには北海道酪農界のシンボルとも呼べた、雪印大樹工場でブドウ球菌毒素が検出されるに至り、我々田舎道民の持っていた「そんなことがあるはずがない」という絶対の自信は根底から否定されることになってしまった。


 なかなかこういうことを道外の方に言っても理解されがたいと思う。だが、北海道なんて札幌をちょっと離れてみれば、牛にはよく遭遇するし、牛乳を満載したタンクローリーを運ぶためにあるような国道はいっぱいある。

 もう一段たとえを使う。あなたは山間の小さな町で生まれ育った人間である。小さい頃、そこのきれいな沢で遊んだこともあるし、野山を駆け回った思い出もある。ずっとそこの水を飲んで育ってきたし、やがて成長して都会に出た後も、ふるさとの水が一番うまい水だと思っていた。だがある日、保健所が検査したところ、その飲み水には相当量のヒ素が混じっていたことが判明したのだ。

 おそらくこのときあなたが感じるものは、怒りや失望といったものより、「信じられない」「ただただ驚きあきれるばかり」と言ったことではないだろうか。大学1年当時、、私の周りにいた仲間たちの間でも、事件に対する感想は似たようなものであった。特に、過疎地域出身者にその傾向が強かった。


 さて、以前「○○して食う、という表現。 」ということについて書いた。このとき私は、「そもそも土に触らずして食べている人間が、食い物に文句をつける権利があるのだろうか」と記している。また最近、「自ら経験しないものを信じることについて」ということを考えた。それらを振り返りながら、もう少し考えを進めたい。


 最近時間が無くて加工食品漬けの毎日を送っている。大袈裟に言えば私は、食品を、自分で作物を育てたり、家畜を飼ったりせずに、工場だの市場だのスーパーだの、流通機構を介して手に入れているわけだ。こうした行為によって「食」を得ている以上、その食品がどんな場所で作られたか、どんな人間によって作られたか、どんな加工が為されたのか、どんな場所で保管されたのか、私はいちいち知ろうとしない。それでも私がそれを食べるのは、「とりあえず食っても死なない品質のものをつくっているだろう」という、生産・流通機構に対する一応の信頼があるからである。

 ジャスコなどは「トレーサビリティー」をウリにしているが、店頭にある「この牛肉は甲県乙村の某さんが有機飼料で育てました」という書き文句を信じるかどうかは、すなわちジャスコという会社を信頼するか、という問題と同義である。

 店頭に並んでいる食品の中から、より新鮮で、栄養価の高そうなものを選んで購入する、というのは消費者の知恵であり、権利でもある。また、実際に食べてみた食品が腐っているかどうか、判断ができる舌を持つというのも、人間として大切なことだろう。

 だが基本的には、スーパーは売る商品一つ一つの品質に対し、責任を負うべきである。午後4時半に店に現れる目の肥えたおばさんにも、8時頃すっかり品数の薄くなった売り場をとぼとぼとぼ漁るしがない学生にも、最低限「腹をこわさないもの」が届くようにしなくてはならない。たとえ99個の新鮮でおいしいリンゴを売ったとしても、1個の腐ったリンゴを売ってしまったら、スーパーの信用はがた落ちになる。


 最近、「メディアリテラシー」という言葉が語られてきている。もっとも、メディア自体は積極的にその言葉について広めるようなことをしないのであるが。ここでは、「情報」というリンゴを扱うスーパーとして、メディア(新聞、雑誌、テレビなど)を考えてみる。

 もちろん多くのニュースを見聞きし、その多くの情報を自らの頭で分析し、どのニュースが真実で、どれがそうでないかということを考える能力を身につけるのは、大切なことである。スーパーのたとえでいえば、リンゴを買うのにさんざんこね回し、指でぐいぐい押してから選ぶおばさんみたいな態度である。

 だが残念ながら、すべての「客」がそれだけのヒマと労力のある人間ばかりではないのだ。多くの客は、明らかに汚れていそうなリンゴを避ければ、とりあえず大きくておいしそうなにおいをするのを一つ選んで、次の売り場へ向かうだろう。戦後の復興期みたいに栄養失調の時代じゃないから、まあそれでも特に問題は起きないで、毎日過ごすことが出来ている。

 同じことがニュースについても言える。日々流されている多くのニュースについて、忙しく働くマジョリティーには、「自らの頭で考え、分析する」余裕などほとんど無いだろう。従って、多くの人々が、「XX新聞という信頼できるメディアが報じているのだから、おそらく本当のことなのだろう」といった判断に頼らざるを得ない。ちょうど、「これだけでかい店出してるジャスコが、某さんちの牛だと言っているから、そうなんだろう」と同じレベルである。

 食品会社とは、そもそも少々免疫力の弱い老人や子供が食べても大丈夫だと言いきれるほどの品質基準で、食品を製造するべきであった。それが資本主義社会における企業責務というものであり、雪印乳業はこの基本的な責務を怠ったがために厳しく糾弾されたのである。

 果たしてメディアは、少なくとも事件以後の雪印乳業と同じだけ、自らの製品に対する品質保証をなし得るのだろうか。私にはとてもそうは思えない。「さあ売りました、安全に食べられるかどうかはあなたの舌にお任せします」では、まともな企業の態度では無いだろう。自らの看板に過度の自信を持ちすぎて、情報の品質管理を怠ってしまったメディアは、一度雪印のようにガラガラポンした方が良い。

 「メディアリテラシー」という言葉が、可能な限り正確な情報を提供するというメディアの責務に対する免罪符になってしまっては、本末転倒である。

--
 それでもやはり、「土に触らずして食う人間」は、添加物、合成甘味料だらけの、どこから来たかも本当にはわからない食物を食うリスクを背負わねばなるまい。

Thursday, January 20, 2005

Lunascape2登場

 いつの間にかWindows用タブブラウザ、Lunascapeもversion 2系列が登場していたので紹介しておく。

http://www.lunascape2.com/

 version 1 からの大きな変更点は、IEとGecko系の双方のHTML解析エンジンを使い分けられるようになったことである。これは相当すごい。

 そんなものどっちがどっちだろうと大して変わらんだろ、と言う方もあろうかと思う。とりあえずIEと、Gecko系ブラウザ(前述したMozilla Firefoxなど)の違いを簡単に示す。
 私はブラウザを立ち上げたとき一番はじめに表示されるホームページに、ローカルのHTMLファイルを置いている。このHTMLの見え方からしてすでに、それぞれのブラウザで違って見えるのである。










(背景はQueen's Handmade Cookiesより)
 左がIEエンジン、右がGeckoエンジンを用いたときのHTMLファイルである。外枠が二重か一重かの違いだが、こうした微妙な見え方の違いは、サイト構築の際に結構気になるものだ。
 参考までにこのHTMLのスタイルシート指定を示す。
BODY { background-image: url("sub/wp-bub007.gif");
font-size:12pt;
font-weight:900;}
a:link {color:#000000;}
a:visited {color:#000000;}
H1.title {background-color:#40C040;
text-align:center;}
TABLE.palam1 {width:100%;
table-layout:fixed;
border-color:#40C040;
border-spacing:0px;
border-style:solid;
}
TD.palam2 {top:2px;
border-color:#40C040 #40C040 #40C040 #40C040;
border-color:#40C040;
border-style:solid;
}

 まあ枠線がどうのこうの言うのも細かい話だが、先日ある友人のblogに対し、まあ実際面識がある相手なので「あまりに字が小さいので読めんではないか」と文句をつけたことがある。渋々ながらも快く改変に応じてくれたのだが、今度は「こんなに大きな文字ではサイトのバランスが崩れるではないか」とメッセンジャー上で不毛な論争になった。

 視線をちょっと右に移していただければわかるとおり、普段私はFirefoxを愛用しているののだが、後日その友人のblogをIE系のブラウザで訪れてみると、なるほど確かに文字がでかい。どうやらIEとGeckoでは、フォントのサイズ指定要素small,midiumなどの解釈順位が異なるらしいのだ。

 こんなこともあるから、ご用心。


 とりあえず私の感想として、両者を比較した上でLunascape上を使うメリットは、Firefoxのように様々なExtensionを導入しなくても「とりあえずインストールしてすぐ使える」仕様にあることだろうと思う。Firefoxだと本体の他に、Tabbrowser Extensionの導入や、検索バーのカスタマイズなどをしておかないと、なかなか使いにくいかも知れない。

 逆にFirefoxの優位性は、様々なプラットフォーム(OS)上で運用できることだろう。世の中Windousユーザばかりではない。現に私は、このblogは少なくとも一人のlinuxユーザが訪れることを知っているので、基本的にGecko系ブラウザでの見え方を標準としてスタイルシートを作るように心がけた。また、version2になってからLunascapeの起動が若干重くなったようだ。

 所詮ブラウザの選択なんか「信仰」と言ってしまえばそれまでだが。

--
 IEでもGeckoでも両方同じように見えるように、と考えたあげく、HTMLの内容を結局全部AA混ざりのテキストで書いてしまったことがある。

Friday, January 14, 2005

高脂血症考。

via ちりんのblog

 高脂血症治療薬云々で思い出す一冊の本がある。これである。私は書店の店先で立ち読みしただけであるが、様々な意味で「怖い」本である。正直、この本を買うと印税が著者に入り、訴訟費用に使われてしまうのか、と思うと財布を開く気になれなかった。

 確かに、スタチン類と呼ばれる一群の抗高脂血症薬には、「横紋筋融解症」という重篤な副作用が生じ得ることが知られている。そもそもスタチン類はコレステロールの体内合成を抑制する作用のある薬剤である。だが、コレステロールは人間の細胞膜を構成する上で必須の成分でもある。従って横紋筋融解症とは、スタチン類を過剰投与すると、ときに細胞膜成分が崩壊し、主に筋肉細胞が融解してしまう、という病態である。このとき、細胞の中にあったクレアチンキナーゼ(CK)という酵素が血液中に出てくるので、この値の上昇を見逃さないのが早期診断における重要点であるとされる。

 しかし、この本を読むと、初発症状が出た段階でCKの上昇が見られなかったという。そのときの医者の言い方が「何だ、このくらいのCKの値で、心配するな!」というような言い方だったそうで、それが著者のカンにさわったらしい。他にも様々なところで著者の「怒り」は炸裂している。

 いろいろWeb上を調べてみると、この著者の病態は横紋筋融解と言うよりも、むしろスタチンの服用中に、薬剤とは無関係に発症したALS(筋萎縮性側索硬化症)ではないのか、という意見をお持ちの先生方も多いようだ。だが、著者はAmazonのカスタマーレビューを始め、そうした意見を公表しているところに対し名誉毀損での訴訟をちらつかせるなど、徹底的に攻撃を加え、潰しにかかっているようで、またそのことを自分のHP上で堂々と公表している。(本当に怖いからHPにリンクは張れません。検索すれば簡単に見つかる。)

 語弊があるかも知れないが、こうした「医療クレーマー」とも呼べる人々が確かに存在するということを知っておく上で、この本は読んでおく価値があるのかも知れない。


--
 高脂血症薬の処方法に関して、「じぶん更新日記」の方が述べられていることには一理あるだろう。日本の保険医療制度では、一回の診察につき処方できる薬剤は原則2週間分だけ、例外として4週間までである。しかし、高脂血症に関して言えば、薬の治療効果を見る上で本当に必要なのは3ヶ月から6ヶ月に1回の診察でいい、という意見も少なくないようだ。

 しかも、実際は診察せずに薬を処方することは違法、というタテマエがあるので、「お薬だけ」という時でも、書類上は診察料を請求せざるを得ないのである。これでは、患者側からしてみれば「なんかインチキしてるなあ」という気持ちになってしまうだろう。

 重篤な副作用を防ぐという視点にしてみたって、大事なのは「1ヶ月に1回くらい形ばかりの診察をする」ことじゃなくて、「手足のしびれ・けいれん」だとか、何かヘンだなと思ったときすぐに診察に来られるような体制を作ることじゃないのだろうか。そう考えると、必要以上に頻繁な経過観察の目的で、外来をふさいでしまうような現行の保険システムこそ、医療資源の配分上ずっとまずいことをやっているのではないか、と思う。

ウイルス性腸炎考。

 なんだか最近ロタウイルスだのサポウイルスだのSRSVだのと、「ウイルス性腸炎」に関する話題が盛んである。

 今回は老健施設で死者が出たと言うことで、マスゴミ各社も大いに取り上げているのだが、たとえ食中毒にしろ、健康な成人がウイルス性腸炎で死に至ると言うことはなかなか稀な出来事である。

 また、同じ飲食店で食事を取った人々が同じ症状を呈している、というような食中毒を示唆するような情報がない限り、実際にウイルス感染を証明する努力(糞便培養など)を、腸炎に対して行うことは少ないのである。ウイルス性腸炎に特徴的な所見は少ないし、画像や血液検査などで特異的なものがあるわけでもない。(だから老健施設の理事長先生も診断に時間を要してしまったのだろう、と僭越ながらお察し申し上げる。)

 そこで、「ウイルス性腸炎」は事実上、「よくわからないハライタ」に対してつけられてきた診断名であることも否めない。

 たとえば19歳の少年で、急に腹痛と下痢を起こしたと言って来院しているが、見たところは健康そうで、腹部所見もグル音低下ぐらいで、発熱もなく、血液も特に所見を認めないといった症例を考える。鑑別診断としてはそれこそ炎症性腸疾患(クローン病や潰瘍性大腸炎など)から「過敏性腸症候群」まで、いろいろとある。だがこの年齢の患者に対して大腸ファイバーまでやる意味は、あまりない。もちろん症状が反復したり、便に血が混じっていたりする場合は話が別だが。

 一言で言えば、そういった「おなかを壊す」はcommon diseaseの一つであり、「かぜ」と同様、病院に来ても来なくても大して予後は変わらないものの一つである。しかし、現に患者が心配して病院に来てしまっている以上、何とか病名をつけてしまわなければならない。でないと点滴一本、整腸剤一包にも保険が出ない。

 こういったときによく使われるのが「ウイルス性腸炎」だったりするのである。

 逆に言えば、こういった「あわてる必要のない腹痛」と、腹膜炎や急性膵炎、イレウスといった「本当に処置が必要な腹痛」をきちんと見分けられるかどうか、ということが医者の力量ということになる。


 それを踏まえた上で、例年この時期、センター試験の季節になるとフッと頭をよぎることがある。

 今年は57万人近くの受験生が出願しているそうだが、これだけの数がいればそのうち何人かは、試験当日緊張のあまり寝過ごす奴がいるに違いない。真っ青になった受験生のがまず考えることは、1週間後に行われる「センター試験再試験」を何とか受験できないか、ということだろう。当日急いで受験会場へ赴いたとして、一科目でも受験してしまえば、当日分の全科目について再試験を受ける権利を失うことになっている。

 従って、何とかして医者の診断書を取り、東京での再試験を受験するのが得策なのだが・・・。こういった患者が来たとき、「ウイルス性腸炎」は実につけやすい診断名だろうが、どうやら今年に限って言えばそうでもなさそうだ。「また集団食中毒か」とニュースになってしまう。

--
 もちろん、診断が疑わしいものを診断書に記載するのは医師としての責任に反すると言えるし、その対価として金品を受け取れば収賄罪や業務上背任に問われることになるだろう。

 しかし、自分も浪人時代を経験し、一年間を受験対策に費やすということの重さを知っている。医者になって、思い詰めた少年の顔を前にしたとき、当日の日付の入った診断書を書く罪と、将来ある若者の、何十分の一かの人生の時間を奪ってしまうことの意味、果たして自分はどっちをとるんだろうなあ、と考えてしまう。人生この先頼むからそういう患者に出会いませんように。

--
 私も国家試験の当日寝過ごしたりしませんように。1日目はいいとして、2日目、3日目の朝とか疲労がたまってて危ないと思うなあ。他の大学とか4年生が起こしてくれたりするんだろうなあ。いいよなあ。

Tuesday, January 11, 2005

医者の「医」の字には酒がある

 お久しぶりに、JIRO氏の日記へリンクさせていただく。

 まず酒は体に悪い、という科学的論拠について。国立がんセンターが大衆向けに発表している「がんを防ぐための12ヵ条」では、「お酒はほどほどに」となっている。ここも以前は「飲酒は少なければ少ないほど癌にかかる可能性が低い」という表現になっていたはずだが、少量のアルコールが虚血性心疾患、つまり狭心症や心筋梗塞を有意に減らすというデータが出てから、循環器学会との関係上穏やかな表現になっているようだ。

 癌だけに注目したとき、現在までの知見から論ずれば、アルコールの摂取量が0に近づくほど発癌可能性は低くなることに変わりはない。ちなみに、「アルコール摂取によって虚血性心疾患のイベントが少なくなる」と主張する循環器内科・外科医が、滅多に癌を専門とすることはない。だからといっては何だが、この分野には大酒家が多く、また「飲める」ことを自慢にする方が多いような気がする。


 さて、感情的な表現が出てきたので、ここからは情緒的に書くことにする。

 私は喫煙という行為も、飲酒という行為も本質的には嫌いである。だが、人間には「嫌いなことを好む」という特性が確かに存在する。その特性のために、子供はニンジンを食えるようになるし、どうしようもないデブが水泳でも始めてみようか、という気になるのである。この特性については、「パイプのけむり」の第何巻だったかは忘れたが、團伊玖磨先生も「アイス・クリーム」という題で随筆を書かれている。

 そういうわけで、私は機会的に喫煙も行うし(3ヶ月から半年に1度)、機会的に飲酒も行う。しかし、本質的にその行為は嫌いである。


 私の親類には、公務員が多く、父親もその一人であった。その関係上飲酒・喫煙には厳格であった。高校生であった時分、電車の中で隣の実業高校生に紫煙を吹きかけられながら、未成年がタバコや酒などとんでもない、ましてや医者を養成する大学ではその点実に厳しい規律があるのだろう、と考えていた。


 医科大学に入ったその日に、私は飲酒の習慣を学んだ。入学式終了後、ある部に勧誘された。その部の先輩に連れられて行った、寿司屋で飲んだビールが生涯初めての酒である。ジョッキを傾けながら、医学部という世界には、この世界なりの独特のルールがあることを感じた。その後ルールブックにはずいぶんな厚みがあることに気づいたし、中には白い文字で書かれていて読んだ気もないのに頭の中に入っているものが多々あるが、この日学んだのが、その第一ページ目だった。その数日後、教授を交えた席で未成年の1年生が大部分の中、当たり前のようにビール瓶が次から次へと運ばれてくるのを目にしたとき、その思いは強まった。

 そのときのある教授の弁が面白い。「喫煙は、若年から吸い始めるほど体に悪いという証拠があるが、酒には1年やそこら先に飲み始めたからといって大差あるという証拠はない。」このエビデンス、今に至るまで私は確認していない。

 その後酒を飲む機会は多々あった。だが、どの席においても、医者というのは酒に甘い。医者の「医」の字はその昔「醫」であって、酒の字を含むが故に医学と酒は切り離せないのだ、といえば聞こえがいいが、必ず酒を飲むよう強制したり、酒がたくさん飲めることがあたかも美徳であるがように振る舞う場面は数え切れないほど見てきた。


 医学生ならば、誰しも生化学の講義でアルコールはALDH(アルコール脱水素酵素)によって代謝されること、酒が飲める飲めないはその個人個人が生まれつきに持つALDHの活性によるところが大きく、「訓練すれば飲める」ものではないことは耳が痛くなるほど聞かされているはずであるし、試験の答案用紙にも書いたことがあるはずだ。

 それでも、今述べたような習慣や価値観を覆すことはできないでいる。もし酒席で今のような「タテマエ」を持ち出せば、たとえ医者、医学生同士の間柄でも「あいつは日本文化を理解せん奴だ」などと言われ、何かと人間関係がやりにくくなってしまう。「僕はカラオケやりませんから」などと同じレベルで、「本当の自分を見せたがらない奴」という評価になってしまうのだ。面白いことにこれがタバコだと、比較的素直に聞き入れられることが多い。(まあそれでも、不愉快そうな顔をされることぐらいは覚悟しておかなければならない)


 医科大学で6年間やってきて、未だに否定できない疑念がいくつかあるが、その中の一つに「実はマリファナは体にいいのではないか」というものがある。私が知っているのは、「マリファナは違法である」という知識である。実は文献的、実験的にきちんと調べていくと「マリファナには実に有用な成分があって、多くの人を苦痛から救い得いる可能性がある」という結論に達するのかも知れない。

 だが、公衆衛生の実習などでテーマを立てるとすれば、「マリファナやコカインのについて」とするのが「賢い医学生」のやるべきことである。なぜなら、たとえ「マリファナは実はいいものだ」という結論に達したとしても、一般に通用している社会的・倫理的通念上教授は「その結論は間違っている。あなたの選んだ文献・資料には偏りがあったに違いない」というコメントしかつけようがなく、成績得点は低いものにならざるを得ない。


 従って、試験問題の選択肢に「患者に禁煙を勧める」というものがあれば間違いなく○をつけるし、「麻薬中毒患者を診断したときは通報する」というものがあればこれも間違いなく○をつける。そのおかげで、「正しいものを2つ選べ」式の問題がずいぶん楽になる場面も確かにあるが、決して自分の信念と一致しているわけでは、ない。(いや、でもマリファナはやっていませんから安心してください)


 酒税法だとか、JTと酒造メーカーの経済的影響力とか、また禁酒法時代のアルカポネだとか、そこらへんのことを考えると、タダでさえ不景気な世の中、「酒はいかん」という方向へ世論が動くことは無いのだろう、と考えている。

--
 歴史あるところの玄関には、立派な大理石に必ず旧字体で「醫學部」と刻んである。うちのところはカマボコ板に魚屋のオヤジが墨汁で書き付けたような看板に「医学部」と書いてあるだけである。
 高校時代こっそり見学に来て、この看板を見たとき、正直「ここには通いたくないな」と思った。そういうところには、受かるのである。少なくとも私の人生は、そういう風にできている。

Sunday, January 09, 2005

雲考。

今年のかぜはハラに来るという。

ヒロシマだかキタキューシューだかではお年寄りが亡くなったらしいが、私たちからしてみればヒロシマもキタキューシューもコートジボアールやパプアニューギニアみたいなもんなので、そこがどんなところだか、よくはわからないのだ。

だが、これだけはいえる。

今年のかぜはハラに来る。

私は体験した。

ギョーカイ人だけにわかる符丁で言えば、

「イチゴゼリー」

であった。

--
 コキューキナイカやカンセンショーカの先生方に言わせれば、「ハラに来るかぜなど無い!」とおっしゃるかも知れないが、ここは一つ大目に見てほしい。

Wednesday, January 05, 2005

日記再考

 1月である。

 そろそろ、どこの6年生のblogを見ても、それぞれのやり方で「余裕を無くしている」さまが観察できて、やはりオレだけではないのかと気づき、それはそれで大いに楽しいのだが、1日からネタで始めてしまった以上少しまじめに書いてバランスをとることにする。


 多くの人々が1月から日記を書き始める。公衆の目に触れるblogというものと、純粋に私的なことを備忘録として書きつづる「日記」というものは本質的に区物されるべきもので、後者は「読み手」の緩やかな強制力が働かない分、続けるのが非常に難しい。

 私は毎年一冊、見開き4日間の日記帳を購入する。別に自筆でその日あったことを書き込もうというのではない。そういう試みは、まず成功しない。

 都市に住み、他人の作ったものを食らうと言うことはとりもなおさず、金を使うと言うことだ。金を使えば、多くの場合レシートをもらえる。つまり、レシートを日記帳の日付欄に貼り付けているのだ。

 この日記帳を整理して、交遊費にいくら使っただの、食費にいくら、軍事費がいくらだのと細々とした「家計簿」にすれば小金が貯まって良いのだろう。だが、元々「使うときには使う」性格なので、そのようにはしていない。

 しかし、札幌で一人暮らしを始めてから都合7冊、このレシート帳が存在するわけで、そのページを繰ってみると、自分がその日、どこにいて、どんなことを考えて経済活動を行っていたのがが、おぼろげながらも思い出されてくる。そのくらいの効用はあるものだ。

 引っ越しに備えて、そろそろ自分の身の回り品を処分しなければならないときが来ている。だが、この多分にかさばるレシート帳を捨てるべきなのかどうか、今ひとつ踏ん切りがつきかねている。

--
 カードの利用明細なども、とりあえず張りまくっているので、捨てるときはよほど注意して「焼く」かどうかしないと、個人情報から体重まで丸裸にされそうで怖い、ということも理由の一つである。

Saturday, January 01, 2005