Friday, December 29, 2006

妊娠は病気である

我々が生きるこの時代において、妊娠は病気である。その根拠を以下に示す。

まず第一に、生理学的に様々な変化が起こる。一つ例を挙げると、妊娠すると体液量はむしろ増加するが、赤血球の産生量がそれに追いつかないため、相対的に貧血になる。したがって、めまいや立ちくらみ、嘔気など様々な症状が出現する。また、妊娠子宮という巨大な物体が胸郭を下から押し上げるため、呼吸に用いられる肺の容積が相対的に減少する。妊娠というのは、非常な苦痛を伴う行為である。

第二に、妊娠には少なからず生命の危険を伴う。
参考:人口動態(率)の年次推移
平成元年から13年にかけて、周産期死亡率は一貫して減少し続け、11.1→5.5(出産数1000に対し)とほぼ半減している。しかし、裏を返せば(この時点で)出産200例に対し1人の死者が出ていたことを示す。産科医療が崩壊しつつある現在、この数字はもっと増えるであろう。

第三の理由。晩婚化に伴い、出産年齢も高齢化する傾向にある。昭和40年~50年代と、平成10年代を比較すれば、年齢的により「無理な」出産になっているということが言えるであろう。


現在、周産期医療は各地での篤志家的な医師の手によって支えられていると言ってもいいと思う。

だが、正直に言おう。妊娠は病気である。その病気を治す専門家は、この国からどんどんいなくなっている。もしあなたが自分の~あるいは、自分の大切な人の~命を大切に思うならば、今後数年間は妊娠しない、させないことである。


妊娠とは、そういう行為である。


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産婦人科の先生たちは、それでも「子供が生まれる姿を見たい」というだろう。そういう人たちだから。
だが、私は産婦人科医ではないし、その道を生業として歩むつもりもない。今後4,5年間、日本で子供が一人も生まれなくても、私は別に困らない。だから、正直に言う。

小児科医というリソース

伊関友伸のブログKU。

新臨床研修制度において、小児科・産婦人科が必修化された意義というのは、「小児科医・産婦人科医は貴重な資源であるからして大事に使え」ということを周知徹底することだと思っていたのだが。

伊関先生の仰るとおり、小児科標榜医に対する受診閾値の低下は、結果として小児科医というリソースを食いつぶすことになると考える。

もう一つ学ぶべき大事なことは、「妊娠は病気である。それが病気でないというのは、保険屋と役人の論理である」ということだ。これについては、項目を改めて書くことにする。

兵庫県が小3まで医療費助成[asahi.com]


県は26日、少子化対策で、乳幼児医療費の助成対象を従来の小学校就学前までから小学3年までに引き上げる、と発表した。県は実際に助成している市町に対し、半額分を出す形で制度を支えている。助成の対象年齢は市町によってまちまちで、県は今後、小学3年まで拡大するよう求めていく。小学3年まで助成するのは、都道府県では最も手厚い部類に入るという。

 子どもの医療費は、0~3歳未満は2割、3歳以上は3割の自己負担が生じる。県内では、その自己負担が約1割になるよう、県と市町が半分ずつを助成している。

 県の制度では、自己負担には上限が設けられ、一医療機関当たり、通院は月2回計1400円で、3回目からは無料になる。入院の上限は月2800円だ。0歳児には保護者の所得制限はなく、1歳以上については、子ども2人の4人家族のケースで年収約860万円以下という制限がある。

 県医療保険課によると、06年度の県の当初予算は約41億円。年齢の幅を広げることで、対象が約15万人増え、07年度の当初予算は約18億円増える見込み。

 県内では現在、明石市と朝来市が小学6年まで助成しており、ほかは小学校就学前までが多いという。

 乳幼児医療費の助成は、栃木県が、入通院とも、保護者の所得制限なしに小学3年まで助成している。兵庫はこれに次ぐ水準の手厚さになるという。

Tuesday, December 19, 2006

患者中心のマジシャンズ・セレクト

またそろそろインフルエンザが流行りそうなシーズンである。

この季節になると救急外来を回していく上で楽なことが一つある。それは、患者の考える鑑別診断が「インフルエンザ」という一点に絞られる、ということだ。
(鑑別診断・・・その症状・所見から考えられる病気のリストのこと。)

マスコミが「タミフル」という魔法の四文字を流してくれるお蔭で、また「早めに病院へ」という至極単純なメッセージを流してくれるお蔭で、外来を訪れる患者さんのアタマの中は「インフルエンザだったらどうしよう、タミフルくれるのかしら」とそれだけになってしまう。

本当は発熱なんて鑑別診断のリストが長ーくなる代表的な症状である。別に熱源がノドとは限らないし、時には胆管炎や肺炎だって合併している可能性があるかもしれない。ところが、まず「じゃ、インフルエンザの抗原検査やってみましょう」なんて長い綿棒を取り出して、鼻の奥に突っ込んであげるだけでこの季節の患者満足度は10%ほどアップする。

本当にインフルエンザだった場合は前述の四文字の出番である。まあ最新版のUpToDateにも「タミフル・リレンザは発症後12~36時間以内の投与が症状緩和に有効である」というエビデンスが重ねられているので、強くおすすめする分にさほど良心は、痛まない。

だけれどちょっと待てよ。どんな薬だって副作用というものがある。日本小児科学会などはほぼ心配ない、と言っているものの、精神症状が出現する場合もある、とまたマスコミが言っているじゃないか。


どんな治療にも、インフォームド・コンセントというものが必要である。また、その治療を行わなかった場合についての代替となる治療法(たとえば、解熱剤・鼻水止めだけでがんばるとか)についても説明しなければならないことになっている。


したがって、そういった説明もしなければならないことにはなっているのだが、おい、外来次5人待ちだぜ。おとなしくタミフル飲むって言ってくださいよ、とこちらが言いたくなることもたまにはある。


説明を丁寧にすることは確かに患者中心の医療にとって必要だが、こちらとしては結論が分かり切っているのになあ、というときに意識しすぎて、墓穴を掘ると言うことがよくある。最近はその呼吸もわかってきたのだが、要は「マジシャンズ・セレクト」ということだ。

検索すればいろいろ出てくるが、「マジシャンズ・セレクト」とは手品師が、相手に「あたかも自分の意志でそれを選んだ」と思わせておいて、その実自分が望む手札をとらせる、といったトリックのことである。

医療にはこのマジシャンズ・セレクトという要素があって、「これだけ説明しました、あなたはどの手段も自由に選択することができました、そしてこういう決断をしました」というお膳立てを作ってはあげるのが通例だ。だが、医療者は「自分がどうしたいのか」ということを明確にわかっていなければならない。

マンナミ先生とかが叩かれながら、そうとうヤバイ仕事に手を染めながらも医者を続けてこれたのも、おそらく「自分が何をしたいか」がよくわかっていたからではないか。まともに「患者中心の医療」を追求して、自分を磨り減らした身からは、そう思うのだ。

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医者は一人の例外なく、悪党である。
間違って善人が医者にならないよう、面接試験という仕組みがある。

ノロだろうがコレラだろうが

(SRSV改め)ノロウイルスだろうが何だろうが、「下痢には水分とって休むこと」と言う至極まっとうなことがやっと周知されてきたのか、と言う感がある今日この頃。

 医者になってからというもの、熱が出たからと言ってバファリンを飲むやつの気が知れなくなった。(バイエルとライオンとバッサリンのメーカーの人ごめんなさい。でももうアスピリンは抗血小板薬としては信頼の置けるエースであるにしろ、まともな解熱鎮痛薬には見えなくなってきているので。)

全国中学駅伝参加者からノロウイルス検出 発症95人に[asahi.com]
山口市で16日にあった全国中学校駅伝大会の参加者らが発症した感染性胃腸炎について、山口県は19日、発症した選手5人からノロウイルスが検出されたと発表した。同日午前11時までに受診した人は選手84人、教員11人の計95人。うち選手16人が入院した。

 県によると内訳は、北海道20人▽福岡13人▽青森、長野各11人▽福島10人▽山形9人▽愛知、沖縄各6人▽高知5人▽東京4人。うち長野の8人、福岡の6人、北海道と福島の1人ずつが入院した。発症者らは隣接する2施設に宿泊。同じ夕食を取った後の14日夜から下痢や発熱などの症状を訴えていた。

 ノロウイルスの集団感染が広がる中、厚生労働省は19日、都道府県などに発生防止対策の徹底を求める通知を出した。
 毎回思うことだが、インフルエンザにしてもノロウイルス胃腸炎にしても、こういった病気で普通の子供やバリバリ働いているオジサンたちが命を落とすことというのはまずなくて、むしろ病院で寝たきりのお年寄りたちに「とどめ」を刺すことになる可能性のほうがずっと高い。

 とすると、「国民の生命と健康を守る」ことよりも「国家予算を守る」ことに汲々としている厚生労働省は内心もっと流行りますように、と祈っているのではないかと思うのだ。
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 ついでに手前らなんざ総務省と合併して「厚労総省(ころそうしょう)」になってしまえ、とか祈っている医者がいるとか、いないとか。いや、や、あくまで伝聞ですよ、伝聞。

Monday, December 18, 2006

カーナビというもの

 カーナビがあれば便利だな、という地域に来ている。

 赴任した夜、一番近くのコンビニに行くのさえ、迷った。こういうときは、自分が職業軍人の道を選ばなかったことを幸せに思う。ナビゲーション能力(帰巣本能)というのは、軍人として最も基本的な能力の一つであるからだ。(ピンとこない人は、「バンド・オブ・ブラザーズ」第一話をレンタルして、ソベル中尉に注目して見ること。)

 さて、カーナビそのものはネット上で探せば、比較的安価(5,6万円台)で手に入る時代になった。むろん3D表示だとか、DVD再生機能だとか贅沢を言わなければ、という条件が付く。

 問題は取り付けである。

 およそ現在売られているカーナビというものは、どうやらサイドブレーキに結線しなければ動かない仕組みになっているらしい。この工賃は、いわゆる大手カー用品店に依頼すると2万円前後、かかる。

 かといって、シガーソケットにプラグを差し込むだけと言うならまだしも、自分でサイドブレーキの配線をいじるのはためらわれる。私の業界にたとえれば、ガラスで手を切ったぐらいなら自分で縫合してもいいと思うが、冠動脈のバイパス術は血管外科医に任せた方がいい、と思う。

 そもそも、仕様としてサイドブレーキを引かないと操作できないようにする必要があるのだろうか。助手席にいるものが走行中に操作することは許されないのか。調べると、結線の仕方によっては、サイドブレーキを引かない状態でも操作できるように改造できるのである。

 また、カー用品店の店先で売られているカーナビは、ネットと比べると3~4万円は高いのである。


 つまり、店頭のカーナビ値段というもの、これは取り付け工賃を含んだ価格なのである。メーカーも、販売経路を全国のカー用品店に大きく依存している。サイドブレーキ云々も、一見安全性に対する規制のように見せながら、その本質は一般人がそう簡単には取り付けられないようにしてカー用品店に工賃を稼がせるという、一種のリベートなのではないか。


 そう考えると、少し嫌な心持ちになった。こういうことを行政や天下り法人がやる例は多いが、企業がやるのはちょっとなあ、と考えるのは変だろうか。

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 以前助手席のカセットレコーダを操作しようとして脇見運転をし、園児の列に突っ込むという悲惨な事故があった。私が持っている、GPSケータイでも使いようによっては同様の事故は起こりえるだろう。そういえば、マーフィーの法則にこんなのがなかっただろうか。
 「フェイルセーフなど作れない。バカは常にとんでもないことを考える。」
 悪かったな、バカで。

Friday, December 15, 2006

「避けるべき自殺報道」の好例

 以前「死んだら負け」というエントリーで紹介した自殺報道の「避けるべきこと」である。

 今日たまたまwebを巡回していたら、代表的な記事を見つけたので、ここに示しておく。

 少なくとも「遺書や写真を公表しない」「使用された自殺手段の詳細を公表しない」などの項目には明確に抵触していると思われる。

 医療事故・裁判がらみというファクターはあるものの、これだけ典型的なタブーを医療ジャーナリズムが犯していいものだろうか。こういった手段を用いなければ(報道機関として)本当に伝わらないものがあると考えたのだろうか。日経BP社には再考を求めたい。

病院前で患者が抗議の焼身自殺 -6年におよぶ医療訴訟の果ての決断-

Thursday, December 14, 2006

宣伝:Firefox

新聞が報道する医療情報

 確かに速報性には優れているが、たとえば専門家として元ソースにあたろうとした場合、それを探し出すのに非常に苦労することが多い。従って、こういったニュースにコメントするのは非常に手間である。なんとかならないものだろうか。

 ちなみに、FDAのサイトへ行ってみたが"FDA News"に12月12日付のこの提案を見つけることが出来なかった。誰か見つけた人はコメント欄にお願いします。


抗うつ剤:自殺リスク「24歳以下」に拡大--米医薬品局が提案



 【ワシントン和田浩明】米食品医薬品局(FDA)は12日、日本でも販売されている「パキシル」(塩酸パロキセチン水和物)などの抗うつ剤すべてで、服用すると自殺のリスクが高まるとの添付警告の対象を、現行の「小児と思春期の患者」から24歳以下に拡大するよう精神薬の諮問委員会に提案した。同委は対象の拡大を妥当と判断した。

 FDAがパキシルやプロザック、ゾロフトなど11種の抗うつ剤に関する372件の治験データ(計約10万人分)を調べたところ、18~24歳の患者で偽薬を服用した場合に比べ、自殺や自殺未遂、自殺願望を持った事例が有意に多かったという。

 米メディアによると、警告の強化は自殺した患者の家族らが求めているが、臨床医などからは「有効な薬の使用に歯止めをかける場合もある」と慎重な対応を求める意見も出ている。パキシル製造元の英グラクソ・スミスクライン社の発表では、「世界100カ国以上で1億人以上の使用実績がある」という。

 ◇添付文書で注意--厚労省

 グラクソ・スミスクライン日本法人によると、パキシルの売上高は昨年国内で約500億円に上り、抗うつ剤の中で国内シェアは最大。厚生労働省は今年6月、パキシルの添付文書で「若年成人に投与中に自殺行動のリスクが高くなる可能性が報告されているため、注意深く観察する」との注意喚起を行った。【江口一】

毎日新聞 2006年12月14日 東京夕刊

Wednesday, November 29, 2006

Saturday, November 25, 2006

スタイルシートをいじる

久しぶりにCSSの改変に取りかかり、我らがFirefoxで
「記事がサイドバーを回り込み、直近の記事を読むの
にえらくスクロールさせなければならない」問題を解
決できた、と思ったらIE7では全然改善されてない・・・。

この際Firefoxを含む「Geckoエンジン専用サイト」と
公言してしまいたい欲求に駆られたり。

LunascapeだってGecko選べる時代なんだから・・・ねえ。

これ以上やると自分の執着正確が病勢に影響しそうなので、
皆さんこのページはMozilla系ブラウザでごらんになること
を強くお勧めします。

オープンソースに光あれ!

死んだら負け

 私がまだガキだった頃「とんねるずの生でダラダラいかせて!」という番組で、レギュラーメンバーがラフティングで対決するという企画があった。

 いくつかルールがあったが、その中でもひときわ目を引いたのが最後の「死んだら負け」という一行であった。

 もう打ち切りになって久しい番組だが、あらゆるスポーツの中で「死んだら負け」というルールは厳然として存在しているように思う。いわば真っ白い文字で読めないようにルールブックの最後に記されている言葉である。

・いくらがんばってエベレスト登頂に成功しても、降りる途中で死んだら負け。
・マラソンで一番にテープを切っても、表彰台に上るまでに心臓発作で死んだら負け。
・いくらドライバーズポイントで他者を引き離していても、最後のグランプリレースで事故って死んだら負け。


 このところ、中高生の自殺のニュースが世間をにぎわしている。

 気になるのは、こういう事件を起こしたときにマスコミが、死んだ子供が周囲に訴えたかった(で、あろう)内容を微に入り細に入り報じることである。

 以下は最近ようやくマスコミ自身により報じられるようになってきた「自殺を予防する自殺事例報道のあり方について」のWHO勧告(2000年)[NPO法人 自殺対策支援センター]である。
1)やるべきこと
・自殺の代わり(alternative)を強調する。
・ヘルプラインや地域の支援機関を紹介する。
・自殺が未遂に終わった場合の身体的ダメージ(脳障害、麻痺等)について記述する。

2)避けるべきこと
・写真や遺書を公表しない。
・使用された自殺手段の詳細を報道しない。
・自殺の理由を単純化して報道しない。
・自殺の美化やセンセーショナルな報道を避ける。
・宗教的、文化的固定観念を用いて報道しない。


 より詳細に知りたい方はこちら[WHOによる自殺予防の手引き 国立精神・神経センター精神保健研究所 PDF]を一読されると良い。
 上記の項目、原文を当たりたい方はここ[PREVENTING SUICIDE
A RESOURCE FOR MEDIA PROFESSIONALS, www.who.int, PDF 8ページ目]へ。)


 いじめを受けて自殺する、と言う行動の裏には「自殺することによって、初めて話を聞いてくれる」という期待がある。もちろん中には、抑うつ状態に陥った結果発作的に死を選んだ、と言う事例もあるだろうが、「少年期のうつ病(による自殺)」については、それ自体の存否について専門家でも議論のあるところなのである。

 「いじめた人の名はXXと○○です」などと遺書に記す行為は、自ら去った後マスコミにより当事者が糾弾されることを十分に予期してのものと考えられる。まるでマスコミが「死んだら勝ちだよ、きみの話をみんなが聞いてくれるんだよ」と訴えているかのようだ。


 しかし、自殺を考えている少年よ、世の中そんなに甘くないのだ。

 マスコミ(と、やり玉に挙げられている「教育委員会」)の面々というのは君が思うより、そして君をいじめ抜いた連中よりももっともっとタフで、悪党なのだ。彼らは「ほとぼりが冷める」という言葉の意味を、イヤと言うほど知っている。

 君をいじめた連中は、君が墓に入った後も、君の父さんや母さんが死んだ後も、のうのうと生き続けるのだ。君を苦しめた数々の事件に対して、彼らの都合が良いように言いのけるに決まっているのだ。生きている方には未来がある。君が遺書に書く何倍もの事を、言い続ける事ができるし、書き続けることができる。

 結局のところ、声が大きいやつが「真実」になるのだ。

 君たちが頼りにしているマスコミも、日に日にニュースとしての価値が落ちてくる「いじめ」報道を毎日繰り返している訳にはいかない。それは、野球選手の結婚だとか、くだらないニュースの中に紛れて、次第に人々の記憶から忘れ去られていく。


 ドラえもんの初期に出てきた道具に、「どくさいスイッチ」というのがある。

 ジャイアンにいじめられていたのび太にドラえもんが渡したそのスイッチは、嫌いな人間の名前を口にしながらスイッチを押すと、その人間が消えてしまう。手始めにジャイアンとスネ夫を消したのび太だったが、そのうち恐ろしいことに気づく。

 どうやら「どくさいスイッチ」は、ただ単にその人の存在を消してしまうだけではなくて、人々の記憶からも消してしまう、つまり「最初からいなかったことになる」のだ。

 昼寝をしているうちに怖い夢に襲われたのび太は「もう誰も彼も消えちまえ!」と言いながら無意識のうちにどくさいスイッチを押してしまう・・・。


 人間にとってもっとも恐ろしい刑罰というのは、死刑なんかじゃなくて、むしろ「最初からこの世にいなかったことになる」ことじゃないのか。アサハラショーコーもタクママモルにも、こんな刑罰は裁判官の誰一人与える事ができやしなかった。

 そんな罰を受けなきゃならないのが、何で君なんだ。死んでしまったら、もう誰も君が本当に訴えたかったことなんか、聞くことはできないんだ。

 だから「死んだら負け」なのである。

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 今日も抗うつ薬を飲み下しながら、今までに出た葬式を思い返しつつ、死ぬって事はなんて面倒なんだ、と思いつつ幸いにして希死念慮には襲われていない。明日もそうであるとは限らない、が。

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 「真っ白い文字で読めないように」のフレーズは飛鳥涼氏の"YOU & ME"からパクりました。願わくば氏が松本零士より寛容たらんことを。

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 「くだらないこと」の例として野球選手の結婚をあげたが、松井秀喜選手はきちんといじめ自殺の件に対してコメントを出している。さすが巨人を退団した名選手である。松井選手が結婚するニュースがあれば、それは「くだらなくないこと」であると書いておく。
■本誌(産経新聞)に寄せた全文

 次々と子供たちが自らの手で命を絶つことには、僕も我慢がなりません。いろいろな理由があるにせよ、いじめをしている人、いじめで悩んでいる人には、もう一度じっくり考えてほしい。
 あなたの周りには、あなたを心底愛している人がたくさんいるということを。それは家族であり、親戚(しんせき)であり、友人であり、先輩であり、後輩であり、時にはペットであるかもしれません。
 人間は一人ではない。いや一人では生きてはいけないのです。だから、そういう人たちが悲しむようなことを絶対にしてはいけないと僕は考えます。相手の身になって、もう一度考えてみてください。
 ニューヨーク・ヤンキース 松井秀喜

人事不省

 人事不省と言う言葉に関して、今まで自分は「激しい苦痛や昏迷のために自分の身体にのみ意識が集中し、他者・周囲へ関心が及ばないさま」だと思っていた。しかし、辞書で調べると単に「意識不明」という意味らしい。医学用語として用いられる可能性のある言葉に対して無知であった自分を恥じる。
 従って、タイトルに「人事不省」とつけるのはどうかと思ったのだが、
2005/10/10 22:20
土屋繁裕氏(つちや・しげひろ=キャンサーフリートピア代表、外科医)8日午前10時、くも膜下出血のため福島県郡山市の病院で死去、49歳。福島県出身。葬儀・告別式は12日午後2時から福島県郡山市方八町2の5の8、郡山斎場で。喪主は妻広見(ひろみ)さん。


 この人、「去年の」秋に亡くなっってたんだ。

 そういえば、去年の今頃自分はニュースに目を通す暇も無いくらい死にかけてたんだったなあ、ということで表題の記事となった次第。もっとも、一年目の研修医なら皆死にかけてて当然の時期。

 故・土屋先生が言った事、書いたことに関しては賛同できる部分も多かった。むしろ先生の造語である「ドクターハラスメント」「ドクハラ」が一人歩きして、いわれのないクレームまでその範疇に入るかのようにマスゴミが増幅したことが問題なわけで。

 ほぼ一年遅れで、黙祷。

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 だいたいドクハラって何だ。探題か。

Wednesday, November 08, 2006

こちらの世界に来てみると

 早いもので研修医生活もあと残り数ヶ月となった。このblogを最後に更新してから、実に1年以上が経過していた。

 最初の3ヶ月間はそれこそ3年間以上に感じた。

 後輩もできる2年目。有形無形のプレッシャーがかかる中、厚労省の指針に従って産婦人科の研修に入る。

 そこで、発症した。


 そもそもはその前の科にいたときから変だとは感じていた。手技的に学ぶ事が多いわけでもなく、ただ患者さんの話を聞くだけ。死に向かって生きる人々の言葉を、20代後半の自分が淡々と受け止める。

 午後4時頃には限界に達していた。病院の仮眠室で体を横たえる。眠れば眠るほど疲れがたまる。徐々に地球の重力が1Gでなくなっていった。

 
 がんばって、なるたけ「いい加減に」やるよう努力していた、つもりだった。数十年の人生を経てきた人の重さを、この若造が受け止めきれる訳がない。のらり、ひらりとかわしていかなければとても続くポジションでは無かったのだ。だが、私のスキルが未熟だったのだろう。


 次に回った産婦人科で、すでに立ち上がれる状態ではなかった。同期のすすめ、診療部長の力添えで他院の精神科を受診した。予期していたことだし、実際それを望んでもいたのだが、後に師匠となる先生にSSRIの内服を勧められたときは、正直がっくりした。泣きそうになった。

 将来の職場として精神科を考えてはいたのだが、自分がいわゆる「メンヘラー」になってしまったのだと思うと,一気に情けなさが込み上げてきた。学生時代、この病を発症してしまったが故に進級を阻まれた友人たちの顔が浮かんでくる。


 うつ病の難しいところは、それが一般に信じられているところの「正常」と切れ目無く連続しているところにある、と思う。自分が病気であるとは思わない、業界用語でいうところの「病識のなさ」が発見を遅らせる。

 何週間か休め、という診療部長に「いえ、2,3日で戻って見せます」と見栄を切ってみせた。当直のローテーションだってある。決してマンパワー豊富な施設ではないのだ。それでも師匠は「2週間ぐらい休んだら?」と手紙を書いてくれた。


 1週間休んでみた時点で、今復帰するのはムリだと思った。そのときは、何で「ムリ」なのか、よくわからなかったけれども、再び戦線に復帰しても元の仕事はできないだろう、という非言語的な予感があった。



 教科書の知識は、うつ病を「気分障害」だという。じゃ、「気分」てそもそも何だ。「あの教師は気分で成績をつけている」「いまはドライブに出かける気分じゃない」なんて、よく聞く表現だ。

 こちらの世界に来てみて分かった事がある。「明日はテストだ、鬱だ氏のう」って成句があるが、「鬱」というのは断じて「何かをいやだ、やりたくないという気持ち」のことではない、ということだ。それは鬱の結果として生じる感情で、鬱の本態ではない。


 今日はここぐらいにしておく。極量のSSRIと少量のTCAが明日の気分を支えてくれることを祈りながら、折角戻った睡眠リズムがまただめになってしまわないことを祈りながら、床につくことにする。