外を見ると一面雪が深く積もっている。
雪が積もらない季節、私は週末自転車に乗って20キロばかり郊外の大型書店へ行く。
書店へ行くのが目的ならば、都心にいくらでも大型書店はあるのだし、そこで目的の本を探す方が効率的ではあるのだけれど、その20キロばかり、目的地へ向かうプロセスがとても好きだからである。
さて、その書店は地方都市郊外の店にしては珍しく、いくらかの洋書がおいてある。
その中に、"Mercedes Benz 1992-1996"や"Porsche 1985-1990"といったタイトルの本がある。普通の日本人の感覚でいけば、これは徳大寺某が書いているような「こういう車のここが素晴らしいから、この年式の車を買え」という内容の本ではないか、と思うのが当然だろう。
ところが、実際その手の本の中身は、非常に硬派である。「このタイヤのバーストには、こう対処しろ」「点火プラグの抜き方はこうしろ」「エンジン回転音がおかしいときは、まずここをあけてみろ」といった、クルマの修理の仕方が事細かに書いてある。
つまり、アメリカ人はベンツやポルシェといったクルマでさえ、何かあったら自分で直すのだ。もちろん、自分で直してうまくいかないときにはプロの修理工に頼むのだろうが、それはずいぶん高い技術料を取られることになる。裏を返せば、プロというものに対する要求度というものが相当に高いということになる。
昔「ハンバーガー屋のコーヒーを膝にこぼして巨万の賠償金を得た婆さん」という有名な話があったが、それ以前の話として、アメリカというのは、自己責任というものがシビアに認識されているのだ。
さて、翻ってみて我が国では、「深夜に薬剤師抜きで薬を販売していいか」「コンビニで常備薬を売るのは許されるか」といった議論が活発になされている。
「いかなる薬も、全く安全ということはできない」というのは全ての医療人が共通に認識していることだ。しかし、「薬を飲んで何かあったら、それは薬を製造したメーカーや、許可を出した役所の責任だ」という社会の風潮も、規制緩和を難しくしている一因であろう。
「実際、薬局にいる薬剤師はたいしてアレルギーの病歴も聞かずにOTC(市販薬)を売るではないか」といった批判も聞かれる。ここにも、本質的にプロというものが信用されていない社会であることが伺われる。
日本には、欧米に比して様々な規制が多くあることは周知の事実である。しかしながら、そもそもその規制を必要としたのは、他ならぬ国民自体の「責任回避」の風潮であり、欧米並みの規制緩和を求めるのならば、まず欧米並みの個人主義・自己責任を普及させるのが先だろう、という気がする。
極論すれば、「医療ミスを起こすような病院に治療してもらおうと判断したのは、他ならぬあなたではないのですか」というところまで行ってしまいそうだが。
Sunday, December 28, 2003
Saturday, December 27, 2003
Tuesday, November 11, 2003
Sunday, September 14, 2003
マシンをフリーウェアでガチガチにする
「林檎の木」という秀逸なサイトを見つけた。
いわゆるフリーウェアをたくさん紹介しているサイトである。
オンラインソフトといえば、Vectorや「窓の杜」も有名であるが、前者はあまりに多くのソフトを収録しすぎたがために、本当に使う価値のあるものを見つけるのに一苦労するし、後者はその逆で、ミラーサーバーは抜群だが(使えない)ソフトを少数乗せているだけである。
その見地から見て、この「林檎の木」はとてもバランスがよい。
ここで、かねてから懸案であった愛用のLibretto L1の環境整備を図ることとした。
もともと、私のモバイルマシンであるLibretto(Transmeta Crusoe 600MHz、256MB)は「字が書ければいい(=エディタが動けばいい)、できるだけ質量の軽いマシンがほしい」との発想から衝動買いした、ヨドバシの現品処分品である。その後WinXPにアップグレードしたものの、流石にCPU負担がきついためXPのウリであるLuna(ウィンドウが丸っこくなるやつ)はあきらめ、classicスタイルで用いている。
そもそもが処分品であるため、できるだけコストを安く上げようとの発想から、ソフトウェアはフリーのものを活用することにしている。
Terapad(エディタ)、Winamp2.x(音楽プレーヤー)はもちろんのこと、Meadow(EmacsのWin移植版)、Openoffice.org(統合オフィススイート)、GnuPG(暗号化システム)などマイナーなものも多くある。特にウイルス対策ソフトもAVG-antivirus(Grisoft.com)を用いているため、ノートンを入れてあるメインマシンに比し、セキュリティには一抹の不安があった。
何と言っても、Librettoにファイアーウォール(PFW)は入れていなかったので、フリーのもので優れたものを探したかった。「林檎の木」では、海外ベンダーが出しているPFWを複数紹介しており、私はその中から「ZoneAlarm free」という製品を選んでインストールしてみた。この2時間の間に、ポートスキャン1回、Ping打ちに関しては3回やってきた。
・・・今まで一体どんだけクラックされたんだろ。
他に、HotmailをPOPメーラーで読み書きできるフィルタ、「Hotmail popper」なんかもいい感じである。今の時代、誰が好んでOutlook(またはOutlook Expresss)を使いたがるというのだろう。(じゃ、Hotmailやめろよ、という話もある)
(しかも、なぜかメーラーだけは金払ってJustsystem shuriken Pro2を使ってたりする。)
後、昔使っていた「Moonlight」というコマンドライン型ランチャによく似た、CraftLaunchというソフトがあったのでこれもインストールしてみる。ランチャというのは、しばらく使ってみないと本当の使い勝手というのはなかなか知れないものだが、MoonlightがXP上では不審な挙動を示すようになったため、代替となるものを探していたのだ。この手のちっぽけなパソコンでは、コマンドライン型ランチャはかなり使い勝手を左右する要素となる。
あとは、軽いスケジューラが何かあればいいのだが、とは思うが、これに関してはYahoo!カレンダーがなかなか使いやすいので、Librettoの遅い起動時間も手伝って、これと思うものに出会えずにいる。昔ビックカメラで売っていた4,800円のHandspring、買っとけばよかったなあ。
いわゆるフリーウェアをたくさん紹介しているサイトである。
オンラインソフトといえば、Vectorや「窓の杜」も有名であるが、前者はあまりに多くのソフトを収録しすぎたがために、本当に使う価値のあるものを見つけるのに一苦労するし、後者はその逆で、ミラーサーバーは抜群だが(使えない)ソフトを少数乗せているだけである。
その見地から見て、この「林檎の木」はとてもバランスがよい。
ここで、かねてから懸案であった愛用のLibretto L1の環境整備を図ることとした。
もともと、私のモバイルマシンであるLibretto(Transmeta Crusoe 600MHz、256MB)は「字が書ければいい(=エディタが動けばいい)、できるだけ質量の軽いマシンがほしい」との発想から衝動買いした、ヨドバシの現品処分品である。その後WinXPにアップグレードしたものの、流石にCPU負担がきついためXPのウリであるLuna(ウィンドウが丸っこくなるやつ)はあきらめ、classicスタイルで用いている。
そもそもが処分品であるため、できるだけコストを安く上げようとの発想から、ソフトウェアはフリーのものを活用することにしている。
Terapad(エディタ)、Winamp2.x(音楽プレーヤー)はもちろんのこと、Meadow(EmacsのWin移植版)、Openoffice.org(統合オフィススイート)、GnuPG(暗号化システム)などマイナーなものも多くある。特にウイルス対策ソフトもAVG-antivirus(Grisoft.com)を用いているため、ノートンを入れてあるメインマシンに比し、セキュリティには一抹の不安があった。
何と言っても、Librettoにファイアーウォール(PFW)は入れていなかったので、フリーのもので優れたものを探したかった。「林檎の木」では、海外ベンダーが出しているPFWを複数紹介しており、私はその中から「ZoneAlarm free」という製品を選んでインストールしてみた。この2時間の間に、ポートスキャン1回、Ping打ちに関しては3回やってきた。
・・・今まで一体どんだけクラックされたんだろ。
他に、HotmailをPOPメーラーで読み書きできるフィルタ、「Hotmail popper」なんかもいい感じである。今の時代、誰が好んでOutlook(またはOutlook Expresss)を使いたがるというのだろう。(じゃ、Hotmailやめろよ、という話もある)
(しかも、なぜかメーラーだけは金払ってJustsystem shuriken Pro2を使ってたりする。)
後、昔使っていた「Moonlight」というコマンドライン型ランチャによく似た、CraftLaunchというソフトがあったのでこれもインストールしてみる。ランチャというのは、しばらく使ってみないと本当の使い勝手というのはなかなか知れないものだが、MoonlightがXP上では不審な挙動を示すようになったため、代替となるものを探していたのだ。この手のちっぽけなパソコンでは、コマンドライン型ランチャはかなり使い勝手を左右する要素となる。
あとは、軽いスケジューラが何かあればいいのだが、とは思うが、これに関してはYahoo!カレンダーがなかなか使いやすいので、Librettoの遅い起動時間も手伝って、これと思うものに出会えずにいる。昔ビックカメラで売っていた4,800円のHandspring、買っとけばよかったなあ。
Saturday, September 06, 2003
何というか
最初だからイレ込みすぎているのか、それともこういうのが「たのしみ」になってしまったせいか、ふつうの「あそび」では満足できなくなってきた。
おそらく数週間経つうちには「疲労」と「飽き」が解決してくれるとは、思うのだが。
おそらく数週間経つうちには「疲労」と「飽き」が解決してくれるとは、思うのだが。
Tuesday, September 02, 2003
夏休みに学んだこと。
1.小樽へは列車を(北海道弁で言うところの「汽車」を)使いましょう。
2.松田直樹は単なる暴力DFではない。(それは波戸だ。)
3.エムボマはいい人だ。
4.自転車のタイヤとチューブは、自分で交換可能である。
5.チェーンもその気になれば何とかやれる。
6.水道の蛇口に使われるコマは、我が国では径13mmが主流である。
2.松田直樹は単なる暴力DFではない。(それは波戸だ。)
3.エムボマはいい人だ。
4.自転車のタイヤとチューブは、自分で交換可能である。
5.チェーンもその気になれば何とかやれる。
6.水道の蛇口に使われるコマは、我が国では径13mmが主流である。
前期成績表返却さる
106人中100番。
そろそろ神の領域に入ってきました(汗。
しかし、再試回数は一年生の時から数えて最低の部類に入るのに、順位も最低の部類に入るというのは、案外楽しい事実かも知れません。
そろそろ神の領域に入ってきました(汗。
しかし、再試回数は一年生の時から数えて最低の部類に入るのに、順位も最低の部類に入るというのは、案外楽しい事実かも知れません。
迷彩柄
秋になったので秋らしい色にしてみます。
何、読みにくい?CTRL+Aでも押してみれば?
(著者からの補遺:この日、オリジナルの日記の背景を茶・緑・黄土を基調とした迷彩パターンに変更していました。)
何、読みにくい?CTRL+Aでも押してみれば?
(著者からの補遺:この日、オリジナルの日記の背景を茶・緑・黄土を基調とした迷彩パターンに変更していました。)
Thursday, July 17, 2003
Tie 1000 times!
Tomorrow I have a examination to assess clinical skills,so called OSCE.
One of the skills,stureing is so important.
A sergeon of my admire,Dr.Ken Kimura says in his book,
"If you want to be a sergeon,you have to train tie strings 1000 times a day.
Then you'll have a little better sergcal skills, about 3 months later."
I don't want be a sergeon...(for the benefit of BOTH OTHRS AND I!)
But I have traind tying for a week,with a rolle of fish line.
I pray to God and othe goodness that I can success the exam!
Tomorrow I have a examination to assess clinical skills,so called OSCE.
One of the skills,stureing is so important.
A sergeon of my admire,Dr.Ken Kimura says in his book,
"If you want to be a sergeon,you have to train tie strings 1000 times a day.
Then you'll have a little better sergcal skills, about 3 months later."
I don't want be a sergeon...(for the benefit of BOTH OTHRS AND I!)
But I have traind tying for a week,with a rolle of fish line.
I pray to God and othe goodness that I can success the exam!
Wednesday, July 16, 2003
OSCE
さて、一月半も続いた試験が終わり、五年生の前期最後の課題はOSCEである。
OSCE(オスキー)と言ってもよさこいソーランに出てくる信販会社の・・・・・
このネタはずいぶん昔に使ったのでやめる。
OSCE="Objective Structured Clinical Examination"(客観的臨床能力試験)
と言うことで、要するに実技試験のことと考えてもらえればよい。
実技試験と言っても、ウチの大学の場合、『初期OSCE』とやらで「聴診器を胸の正しい場所に当てる」(=実際何が聞こえてるかまで関知しない)とか、「縫合は一針のみ」(=ぶすっと一針刺して、糸をひゅっと結んで終わり)だったりかなりユルユルなところが多かったりする。
かと思えば、CPR(心肺蘇生)の実習では倒れてる人を見つけるところから、周りの人に「AED持ってきてくださ~い」と大声でその場を仕切り、実際にスイッチを押してバン!と電流を流すところまでやったりする。胸毛の濃い人は電流流す前にカミソリで剃れ、とかここだけはやけに細かい。
やっている上でいくつか疑問点を感じたことがあるので、忘れないうちにここに書いておく。というのも、後数年でこのOSCEは関門化すなわちほぼ国家試験と同等の意味を持ち得ることになるからだ。
まず一つ目。実際に患者の体に触れる実習(胸部診察など)は、どうしても患者役(SP:Sumilated/Situation Patient)が男性になってしまう。具体的に言えば、胸部診察では胸骨という胸のど真ん中にある骨の位置をまず指で触って確かめ、そこを基準にして聴診器を当てる場所を決めることになる。もちろん実際の診療現場では、医者はいちいちこんなことはしないことが多いと思う。あくまで教育上の都合(、という書き方が正しいのかどうかは疑問であるが)である。
ただ、このような実習スタイルでは胸に触っても問題がない男性のSPのみで実習を積むことになる。ただ一人の女性SPも、胸部診察の実習対象とはならないのである。(もちろんこの後病棟実習に出ればそんなことはない。)何か引っかかるのは、最近主な国立病院には「女性外来」を設置するという傾向が現れ、また一部の女性からは「聴診の際に上半身裸にされるのはおかしい。」という声が上がって来たりする。(そういう女性の話を聞くと、どうやらシャツの下から聴診器を入れて聴診を行う方法が自尊心を傷つけないやり方らしい。)
別に私はタヂマヨーコ先生の肩を持つわけではないが、どうも「患者は男である」という前提の基に実習を行うのはちょっと変なのではないだろうか、と考えたりした。まあ別に、他の医療面接(今まで「問診」とされていたもの)、神経学的診察などの実習では女性がSPになることもあるので、そんなにかまうことでもないのかもしれない。
ただ、前述した「女性外来」設置の流れや、医学部の男女比の動きなどを考えると、ひょっとして20年、30年たったときには、「原則男性の患者は男性医師が、女性の患者は女性医師が診る」ということになっていたりするのかなあ、などということを漠然と思ったりする。
OSCE(オスキー)と言ってもよさこいソーランに出てくる信販会社の・・・・・
このネタはずいぶん昔に使ったのでやめる。
OSCE="Objective Structured Clinical Examination"(客観的臨床能力試験)
と言うことで、要するに実技試験のことと考えてもらえればよい。
実技試験と言っても、ウチの大学の場合、『初期OSCE』とやらで「聴診器を胸の正しい場所に当てる」(=実際何が聞こえてるかまで関知しない)とか、「縫合は一針のみ」(=ぶすっと一針刺して、糸をひゅっと結んで終わり)だったりかなりユルユルなところが多かったりする。
かと思えば、CPR(心肺蘇生)の実習では倒れてる人を見つけるところから、周りの人に「AED持ってきてくださ~い」と大声でその場を仕切り、実際にスイッチを押してバン!と電流を流すところまでやったりする。胸毛の濃い人は電流流す前にカミソリで剃れ、とかここだけはやけに細かい。
やっている上でいくつか疑問点を感じたことがあるので、忘れないうちにここに書いておく。というのも、後数年でこのOSCEは関門化すなわちほぼ国家試験と同等の意味を持ち得ることになるからだ。
まず一つ目。実際に患者の体に触れる実習(胸部診察など)は、どうしても患者役(SP:Sumilated/Situation Patient)が男性になってしまう。具体的に言えば、胸部診察では胸骨という胸のど真ん中にある骨の位置をまず指で触って確かめ、そこを基準にして聴診器を当てる場所を決めることになる。もちろん実際の診療現場では、医者はいちいちこんなことはしないことが多いと思う。あくまで教育上の都合(、という書き方が正しいのかどうかは疑問であるが)である。
ただ、このような実習スタイルでは胸に触っても問題がない男性のSPのみで実習を積むことになる。ただ一人の女性SPも、胸部診察の実習対象とはならないのである。(もちろんこの後病棟実習に出ればそんなことはない。)何か引っかかるのは、最近主な国立病院には「女性外来」を設置するという傾向が現れ、また一部の女性からは「聴診の際に上半身裸にされるのはおかしい。」という声が上がって来たりする。(そういう女性の話を聞くと、どうやらシャツの下から聴診器を入れて聴診を行う方法が自尊心を傷つけないやり方らしい。)
別に私はタヂマヨーコ先生の肩を持つわけではないが、どうも「患者は男である」という前提の基に実習を行うのはちょっと変なのではないだろうか、と考えたりした。まあ別に、他の医療面接(今まで「問診」とされていたもの)、神経学的診察などの実習では女性がSPになることもあるので、そんなにかまうことでもないのかもしれない。
ただ、前述した「女性外来」設置の流れや、医学部の男女比の動きなどを考えると、ひょっとして20年、30年たったときには、「原則男性の患者は男性医師が、女性の患者は女性医師が診る」ということになっていたりするのかなあ、などということを漠然と思ったりする。
クロスプレー
http://www2.asahi.com/koshien2003/nanboku/TKY200307150197.html
こんな記事を見つけた。
野球規則なんてかなり厳密に(レアケースも想定して)作ってあるものだが、結局規則を運用するのも人間である。
こんな記事を見つけた。
野球規則なんてかなり厳密に(レアケースも想定して)作ってあるものだが、結局規則を運用するのも人間である。
Last summer
I am in the 5th grade of the medical school.
Scince I will have to serch some training hospitals where I can work as a intern next summer,this is the last summer can find some free time.
And, this means this is the last sommer vacation as a student.
I had planned to read some books,such as Robbins Pathologic basis of disease every time before vacation,I have faild to accompanish that.
I am in the 5th grade of the medical school.
Scince I will have to serch some training hospitals where I can work as a intern next summer,this is the last summer can find some free time.
And, this means this is the last sommer vacation as a student.
I had planned to read some books,such as Robbins Pathologic basis of disease every time before vacation,I have faild to accompanish that.
Tuesday, June 17, 2003
Thursday, June 12, 2003
それで結局
RedHat7.2をインストールし直す。
一回目は、GRUBの設定を間違えてWindowsXPが起動しなくなった。
結局ブートイメージの位置を張り間違えていただけだったが、かなり焦った。これは応急的にXPのCD-ROMからrescue起動して、MBRを書き換える事にしたが、sambaの設定やらmozillaのバージョンやら、いろいろなことを考えると随分惜しいことをしたものである。
いい加減K6-2のスピードが遅く感じられるようになってきた。
夏休みは働いて、一ついいのを組み直すか。部品が容易に手に入る環境にいるうちに。
一回目は、GRUBの設定を間違えてWindowsXPが起動しなくなった。
結局ブートイメージの位置を張り間違えていただけだったが、かなり焦った。これは応急的にXPのCD-ROMからrescue起動して、MBRを書き換える事にしたが、sambaの設定やらmozillaのバージョンやら、いろいろなことを考えると随分惜しいことをしたものである。
いい加減K6-2のスピードが遅く感じられるようになってきた。
夏休みは働いて、一ついいのを組み直すか。部品が容易に手に入る環境にいるうちに。
Tuesday, June 10, 2003
投票行動
先日は市長選再選挙の投票日であった。
私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。
はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。
しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)
(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。
(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。
したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。
しかし、これは案外難しい。
そこで、私はこのように考えることにした。
選挙を競馬のように考える。
つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。
だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。
何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?
だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。
私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。
はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。
しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)
(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。
(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。
したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。
しかし、これは案外難しい。
そこで、私はこのように考えることにした。
選挙を競馬のように考える。
つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。
だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。
何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?
だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。
Tuesday, June 03, 2003
間合いを取るということ
先日、「医療には間合いが必要だ」と書いた。そのことについて、もう少し書いておきたい。
まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。
患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。
「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)
私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。
もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。
もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。
最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。
人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。
一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。
少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。
このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。
そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。
『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。
まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。
患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。
「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)
私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。
もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。
もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。
最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。
人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。
一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。
少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。
このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。
そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。
『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。
Saturday, May 24, 2003
金曜ロードショーの裏番組
「ブラックジャックによろしく」という漫画がある。
今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。
今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。
確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。
脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。
さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。
このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。
医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。
今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。
今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。
今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。
確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。
脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。
さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。
このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。
医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。
今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。
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