駄目である。
最近の自分の文章は読んでいてわかりにくい。面白くない。
書いている自分がそう思うのだから、読み手にとっては相当見苦しいものであろう。
なぜ私の文章は駄目なのか。いくつか整理してみよう。
一文が冗長である。
今日のblogは、意識して一文を短く書いている。だが、2/10/2004の「似て異なるもの」という文章では、1パラグラフがそのまま1文である箇所が二つもある。
こういう文章は、人が書いているのを見るととても疲れるものである。
婉曲的表現を使いすぎる。
私は物事を断定的に書くのが元来好きではない。
しかし、自分の意見を発露する場において、「~のようにも思えるが~とも考えられる」という表現を多用している。これは日和見的態度と見られてもおかしくあるまい。
読み手を傷つけまいとする意識が、自分の立場を不明確にしている。
こういう書き方は文章を不美人に見せる。
結論が不明確である
最近はニュースを引用してから、それに対する考察を書くというスタイルを多用している。ところが、ニュースに対する感想をだらだら書いているうちに、本来自分が言いたかった結論を見失いがちである。
正確には、書き進めているうちに、本来自分が達しようとしていた結論は、絶対のものでないということに気付いてしまうのだ。
読み手に何かを与えようとする文章を書こうと思えば、これはいけない。独断的と言われようが、きちんとした結論に達すべきである。
この傾向を避けるためには、「結論を冒頭に書く」という手法が有効である。
「一見~である。しかし~」構文の濫用
この書き方は、実に使いやすい構文の一つである。
しかし、使いどころを間違えると「(無知な大衆である)あなたはこう考えるだろうが、(あなた方より賢い)私はこういうことに気付いているのだ」という、鼻につく表現になりがちである。
気をつけねばならない。
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この節は回帰的表現になっている。
「」を用いた独自表現の多用
「」は、社会通念上用いられる言葉とは違った意味合いを持たせる比喩表現に使われることがある。
たとえば、以下のような表現である。
例:インターネットは、人と人を結ぶ「架け橋」として用いられつつある。
こういう表現を私は多用しがちである。
しかしながら、本来他人とコミュニケーションする手段である言葉を使う場面において、独自に言葉を定義することはなるべく避けるべきである。
その文脈にあった適切な言葉を探す努力をしなければならない。
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