Sunday, February 15, 2004

なぜ「はく」のか

 北海道では、手袋を「はく」。

 北海道では、と言ってはみたが、北海道人にとって手袋はごくナチュラルに「はく」ものである。
 では、なぜ北海道では手袋をはく、と言うのか。東北弁の影響とか、そういった語源・地理的なものを無視して考えてみる。

 そもそも、北海道人が手袋をはくのはなぜか。

 これは、第一義的には寒冷から手を保護するためである。しかし、北海道で子供時代を過ごした者なら分かるとおり、寒冷に対しては手袋は万全の防備と呼びがたい。
 子供は雪玉を作って遊ぶ。雪玉を作ると、当然手袋は雪にまみれる。時間が経つと、濡れる。毛糸の手袋ならまずこれで脱がざるを得なくなる。濡れた手袋はますます冷たさを呼ぶ。革や合皮の手袋にしても、今度は中から汗で濡れてくる。

 従って、北海道人が手袋をはくのは、寒冷のためだけではなさそうである。

 北国で手袋が果たす役割には、もう一つある。それは、衝撃と接着からの保護である。

 北国では、冬になると常に路面は不安定である。足下は滑りやすい。
 つるっと滑る。あわてて手をつく。あるいは、近くの何かにしがみつく。
 このとき、手袋をしていなければ、凍った刃のような路面が手を切る。近くの標識支柱にしがみつけば、手が張り付く。これを無理にはがそうとすれば、手の皮一枚を持って行かれる。はがさなければ、そこで凍え死ぬ。
 毛糸にしても、革にしても、手袋はこの恐ろしい事態に対する保険になり得る。

 従って、北海道で手袋の果たす役割は、靴や靴下が果たす役割に、より近い。だから手袋は「はく」のだ。

* 一部誇張を交えました。雪祭りにいらっしゃる北海道以外の方で、手袋をしていなかったばかりに凍死した方はおられません。どうぞ来年も安心してご来場ください。(北海道政府を勝手に代表してのPR)
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 この冬、知っている方が二人凍結路面で転倒し、下肢を骨折されました。
 だから私は、「冬道で自転車に乗っているやつには跳び蹴りをかまして半殺しにしてもかまわないぞ条例」を早期に制定すべきだと思うのです。
 骨折すれば、本人だけの問題では済まないのですから。

Saturday, February 14, 2004

ドンブリ愛好家、各地で暴れる

「豚めし」売り切れに激高、店員に暴行した疑いで男逮捕[asahi.com]
「吉野家に何で牛丼ない」=店で騒ぎ、客暴行の男逮捕-茨城[YAhoo!Japan-時事通信]

だから、ちゃんとした食事が280円やそこらでとれるというところがそもそも変です。
人間、「食う」ということはもっと大変なことのはずであります。


何、「牛丼」「豚丼」はちゃんとした食事じゃないって?
あなた、幸せに育ったのね・・・・。(少女サスペンス漫画風)

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北海道人からすると、あの豚しゃぶをドンブリに乗っけたような代物を「豚丼」と呼ぶのは、非常にむかつきます。
道民が「豚丼」と呼んでいいのは、北海道帯広市周辺で食べられるアレでなければなりません。

Friday, February 13, 2004

自分の文章の駄目を出す

駄目である。

最近の自分の文章は読んでいてわかりにくい。面白くない。
書いている自分がそう思うのだから、読み手にとっては相当見苦しいものであろう。

なぜ私の文章は駄目なのか。いくつか整理してみよう。

一文が冗長である。
 今日のblogは、意識して一文を短く書いている。だが、2/10/2004の「似て異なるもの」という文章では、1パラグラフがそのまま1文である箇所が二つもある。
 こういう文章は、人が書いているのを見るととても疲れるものである。

婉曲的表現を使いすぎる。
 私は物事を断定的に書くのが元来好きではない。
しかし、自分の意見を発露する場において、「~のようにも思えるが~とも考えられる」という表現を多用している。これは日和見的態度と見られてもおかしくあるまい。
 読み手を傷つけまいとする意識が、自分の立場を不明確にしている。
 こういう書き方は文章を不美人に見せる。

結論が不明確である
 最近はニュースを引用してから、それに対する考察を書くというスタイルを多用している。ところが、ニュースに対する感想をだらだら書いているうちに、本来自分が言いたかった結論を見失いがちである。
 正確には、書き進めているうちに、本来自分が達しようとしていた結論は、絶対のものでないということに気付いてしまうのだ。
 読み手に何かを与えようとする文章を書こうと思えば、これはいけない。独断的と言われようが、きちんとした結論に達すべきである。
 この傾向を避けるためには、「結論を冒頭に書く」という手法が有効である。

「一見~である。しかし~」構文の濫用
 この書き方は、実に使いやすい構文の一つである。
 しかし、使いどころを間違えると「(無知な大衆である)あなたはこう考えるだろうが、(あなた方より賢い)私はこういうことに気付いているのだ」という、鼻につく表現になりがちである。
 気をつけねばならない。
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 この節は回帰的表現になっている。

「」を用いた独自表現の多用
 「」は、社会通念上用いられる言葉とは違った意味合いを持たせる比喩表現に使われることがある。
 たとえば、以下のような表現である。

 例:インターネットは、人と人を結ぶ「架け橋」として用いられつつある。

 こういう表現を私は多用しがちである。
 しかしながら、本来他人とコミュニケーションする手段である言葉を使う場面において、独自に言葉を定義することはなるべく避けるべきである。
 その文脈にあった適切な言葉を探す努力をしなければならない。

Thursday, February 12, 2004

業務連絡~業務連絡~

どうやらBlogspotがrobots.txtを設置したようです。
http://harrity.blogspot.com/robots.txt

User-agent: msnbot
Disallow: /
User-agent: googlebot
Disallow: /

 この処置は私の意図によるものではありません。が、私の意図を超えてここの認知度が広まることには正直怖さを覚えていたので、内心ホッとしている部分もあります。

 はてなアンテナ経由でお越しの方、更新によってこの「弐式沿岸警備日誌改」はagaりますが、更新内容は拾わなくなっておりますのでご注意ください。

Wednesday, February 11, 2004

神様のリスト

小児臓器提供、容認を…自民調査会が法改正2案を提示[Yomiuri-On-Line]

腎臓移植希望者選択についての経過報告[日本臓器移植ネットワーク]

 私はいろいろと考えたことを「ためる」たちなので、すっかりはてなアンテナからは見放されている。

 日本で「小児移植を認める」ということは、「小児の脳死を認める」ということと実は表裏一体なのだが、そういうことをきちんと説明している報道機関は少ない。
 そもそも、日本における「脳死」という概念は、移植医療を行うがために持ち込まれたきわめて奇異なものなのである。こういうことを医者だけで決めてはいかん。もっとそこのあんたも議論してくれ。

 そんなわけで、数週間前のニュースについて考えたことをここに書いてみる。

 先月、臓器移植ネットワークが移植登録者選定のプログラムミスから、移植リストのトップにいた患者から腎移植の機会を奪ってしまった。
 だいたい、マスコミが伝えた論調はそんなところだ。

 本来ならば移植リストのトップにいた患者さんには大変気の毒な事件である。しかし、移植医療が抱える本質的な問題が、この一件から見えてくる。

 まず第一に、そもそも移植リストとは何か。

 今回明らかになったのは、HLA(Human Leukocyte Antigen)という組織適合性を表す指標を扱うプログラムに問題があったということだ。これは移植を行った際、その腎臓が移植を受ける患者(レシピエント)の体に生着する可能性がどれだけあるか、ということを知る手がかりになるのである。

 では、移植リストの順位はこのHLA適合性のみによって決まっているのか。そういうわけではない。

 今、ここに一つの腎臓Xがある。この腎臓Xに対して、移植を受ければ腎臓が90%の確率で生着する患者Aと、移植を受けても60%の確率でしか生着が期待できない患者Bがいたとする。ところが、患者Aはあと5年間は移植を受けずとも持たせられる状態であり、患者Bは移植を受けなければ後3ヶ月も生きられそうにない、とする。
 果たして腎臓Xを、今移植すべきなのはどちらか。

 HLAというのは、こうしてみるとずいぶん「医者の都合」からみたファクターだ、といえないこともない。
 だが、適合性、余命(実際には透析の発達によって、腎臓の場合は必ずしも「余命」といえない場合があることを書いておく)のほかにも、移植リストの順位を決定する変数は、様々あるのだ。その中には、腎臓の大きさとレシピエントの体格など、どちらかといえば科学的な要素のほかに、「どれだけ臓器を大事にするか」や「移植後に免疫抑制剤を欠かさず飲み続けられる精神的・経済的状況にあるか」といったことも入ってくると言われている。

 言われている、というのは、これらの要素それぞれが、移植リストの順位ににどの程度の影響を及ぼすのかは一般に公開されていないからだ。

 今回の事件において、HLAの適合度算出ミスというのは、どれだけの意味があったのか。私は非常に大事なことだと思うが、現在の報道からでは知ることのできないことである。「陳謝」の映像よりも、こういうことをもっと公にしなければならないのではないか。


 第二に、移植には少なからず「運」の要素が関わると言うことである。

 もし、あなたが心臓移植を必要とする患者で、移植リストに登録されていたとしよう。仮に今日あなたがリストの2番目にいたとして、明日あなたが1番目に上がる場合には、二つの可能性が考えられる。

 一つは、今日1番目の患者に適合するドナーが見つかり、移植手術が行われること。
 二つ目は、1番目の患者が今日死ぬことである。

 前述のように、腎移植の場合は、現在では必ずしも「死の回避」という概念と結びつかない面もある。
 だが、未だに心臓、肝臓などの病気では「移植か死か」という患者がたくさんいる。こういう患者さんにとっては、「移植リストのトップにいたのに移植が受けられなかった」という事態はとうてい受け入れがたいものとなるだろう。


 医学は確かによく発達した。そのせいで、「死」というものは、あたかも医療の失敗であるかのように語られることが多い。むしろ「死」を運命として記述することは、社会が嫌うようになっている。
 しかし、現代医療の最前線ともいえる世界にも、人の生き死にに「運」が関わることは避けられないのである。それを忘れては、(手塚治虫の)ブラックジャックに出てくる刀鍛冶に怒られるだろう。

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 私が大好きなデンゼル・ワシントンの「ジョンQ 最後の決断」[Amazon.co.jp -DVD-]は、「そのスジ」の人にはオープニングの5分で映画全体のストーリーが見えてしまうという作品である。しかし、わかっていながらも2時間の間、いろいろと考えさせられることがあるという意味で、十分に楽しめた。
 ジョン・Qが持つベレッタM92Fのセイフティの挙動がおかしいとか、そういうことには目をつぶってほしい。

Tuesday, February 10, 2004

浪速大学財前教授に朗報

がん患者3・2%は診断被ばくが原因[Yomiuri On Line]

「私はCTでガンになるリスクを避けるためにCTをオーダーしなかったんだ!」

いまになって「CTはガンの原因になります」なんていわれりゃ、そりゃみんなのけぞるわな。
だってガンを診断するのに一番よく使う画像診断はCTだろう。里見助教授もおすすめだ。

んじゃ、これからはより被爆量の少ないPETがガン診断の主流になるのか?
一回のお値段はCTより一桁違うはずだが・・・。


 しかし、この記事の電波くさいところは、まず「日本はCTが多いから被爆量が多くなり、ガン患者が多く発生している」という非常に統計学的に怪しい論調であることだ。

 また、正確な議論には、CT診断を実施することによって延長する寿命延長の効果と、CTで被爆することによって発生するガンの寿命短縮の効果を比較せねばならないと思うのだが、オックスフォード大学の研究はそこまで踏み込んだ内容にはなっていない。
 ちなみに、厚生労働省の発表する平均寿命の国別比較はこちら。

 これから医者をやっていく立場の人間として怖いと思うのは、こういうことがいったん記事になってしまうと、たとえばガン患者33人が「医者が不必要なX線検査をオーダーしたせいでガンになった」という訴訟を起こしたとすると、そのうち1人は勝訴してしまうということも考えられるわけで、じゃあ我々はガンを見逃す可能性を呑んだ上で「何もしない」のがいいのか、ということになる。

 これから様々な追加調査は行われていくわけだが、果たしてその結果「やっぱり診断のための被爆はガンの発生と有意に関係がある」という結論になったとすると、現在日本で行われている裁判の傾向を鑑みるに、今日これから行われるCTを受けた患者さんが訴訟をお起こしになる可能性がある。なぜなら、「2004年2月10日の時点で、新聞記事として公になっていた」という事実を、裁判所は非常に重視するからである。

 つねづね思うことだが、マスコミの影響というものはとても大きい。だからといって黙っていてくれと言うのはファシズムだが、本当にマスコミ人自体がそのことを自覚しているのか、時々不安になることはある。

似て異なるもの

岡山の温泉旅館、盲ろう団体の宿泊を拒否[Yomiuri On Line]
盲ろう者宿泊拒否で旅館組合などを指導 岡山県[asahi.com]

このニュースと

宿泊拒否のアイスター、学生の抗議文をHPに掲載[asahi.com]

 こちらの会社では、一見似た様なことを言っているようだが、中身にはずいぶんな違いがある様に思える。

 前者、岡山の温泉旅館は「宿泊する客の安全を考えたとき、責任を持ちかねるために宿泊をお断りする」という誠実な態度であり、言ってみれば「確かに世間での評判はいいが、私は整形外科の専門なので、いくらあなたの希望とはいえ心臓の弁を換えてくれと言われても責任を持ちかねる」というのと同じことだ。

 実際バリアフリーといえば聞こえはいいが、ひなびた温泉旅館に手すりをつける工事を実施する費用や、案内の人員を増やす人件費など、お金を岡山県が出してくれるわけではない。今回の様になにか「まずい」ことがあった時にだけ、ただ指導を行うのである。

 旅館側にしてみれば、ろくに準備もできていないのにお客を受け入れることのリスクと、報道されたり、指導が入ったりすることによって名前が傷つくリスクを、はかりにかけた上で今回の行動に至ったものだろう。それにしたって後者のリスクの方が明らかに重そうに見えて、かえって旅館の対応が私には誠実に思える。

Sunday, February 01, 2004

くだらない

今日、取り壊し中の札幌プリンスホテルの前を通ったら、こんなことが衝立に書いてあった。

別館(旧新館)はこちらで営業中

 旧新館とは言い得て妙な表現である。
 旧いのか、新しいのか、どっちなんだ。

・・・・どうも読みにきてくださった方、すみません。
本当にくだらない。

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面白き ことも無き世を 面白く 住みなすものは 心なりけり
高杉晋作