今後の課題
1.基本的に色が変わっただけ
2.しかも、この日記だけ配色が浮いている
3.よく目を凝らすと、トップページは剥がれかけた便所の壁紙みたい
(大理石の「目」が合ってないのがばれそうだ)
4.リンク集が激重になった
5.しかも、一部のリンク先には許可をもらってない
6.さらに、リンク先と名前の違うところがある(・・・まずいよー)
7.付け加えると、今回の目玉だったはずの「会員専用ページ」は、
まだ全然作ってない
8.あり得ないファイル名を入れると、心臓が止まりそうなほど
ビビッドな色の404(403)ファイルが出てくる。
9.しかも、その英語がかなり怪しい。
Monday, October 07, 2002
Sunday, October 06, 2002
GUI世代
この日記を見に来ている人の多くは(=少なくとも3人は)、Windowsや、UNIXのX window systemというGUI環境であると思う。
GUI(Graphical User Interface)とは、ひどく大雑把にいえば、マウスを使ってコンピュータを扱う仕組み、ということだ。10年くらい前のMS-DOSマシンをあつかったことがある人ならわかるとは思うが、(実際私も中学校の技術家庭でその手の代物に触れたことがある)それまでのコンピュータというものは、まずスイッチを入れ、そして真っ暗な画面になにやら浮かび上がる
+1028KB OK
(何がOKなのか、未だによくわからないが)
とかいう表示の後に出てくる
A:>
という不可思議な文字を見て、まずこれで途方に暮れるのである。
その後、何かまともなことをしようと思えば、たとえば
A:>basic.exe
とかなんとか入れなくてはならないが、元々中学生なんかキーボードさわったことがないものだから、これですでに5分経過したりする。そこでしばらく待っていて、初めてマウスを使えるお絵かきソフトが使えたりして、ほっとするのだ。
その点からいえば、Windows95というのは実に画期的な(パクリ)商品で、スイッチを入れてお茶のいっぱいも入れて待っていれば、すぐにマウスでコンピュータを「いじる」ことができるようになる。
思うに、50歳以上のオジサン世代(特に教員!)というものは、激動の昭和を生き抜いてきただけあって(だって、計算機が歯車でできてた時代を知っているのだ)キャノンやカシオのワードプロセッサの扱いには、長けている。
ところが、なぜかWindowsを始めとするGUIの扱いは、さっぱりである。「右上のちっちゃな×にポインタをあわせる」という、人ならば本能的にできるはずのことが、できないのである。
思うに、我々がGUI世代と、ワープロ世代(CUI世代?)との差は、インベーダーゲームやファミリーコンピュータといったゲーム機をさわった経験の多寡が影響しているのではないか。
基本的にファミコンというのは、「一つのレバー(十字キー)と、二つのボタン」ですべてをこなしてしまうシステムである。ドラクエをやってみればわかるが、これで文字入力まで可能にしているのである。
と、なるとやはりこのGUI世代に対して、まだまだCUI(Command User Interface)全盛であるUNIXに慣れさせていくのは、ちょっとした苦労であるだろう。
と、いうわけで、今Windows上で動くテキストエディタについての説明文を書いている。まず、「テキスト」という概念から理解してもらうことが、UNIXへの理解への第一歩となるのではないか、と考えるからである。
たいしてまとまらん。
GUI(Graphical User Interface)とは、ひどく大雑把にいえば、マウスを使ってコンピュータを扱う仕組み、ということだ。10年くらい前のMS-DOSマシンをあつかったことがある人ならわかるとは思うが、(実際私も中学校の技術家庭でその手の代物に触れたことがある)それまでのコンピュータというものは、まずスイッチを入れ、そして真っ暗な画面になにやら浮かび上がる
+1028KB OK
(何がOKなのか、未だによくわからないが)
とかいう表示の後に出てくる
A:>
という不可思議な文字を見て、まずこれで途方に暮れるのである。
その後、何かまともなことをしようと思えば、たとえば
A:>basic.exe
とかなんとか入れなくてはならないが、元々中学生なんかキーボードさわったことがないものだから、これですでに5分経過したりする。そこでしばらく待っていて、初めてマウスを使えるお絵かきソフトが使えたりして、ほっとするのだ。
その点からいえば、Windows95というのは実に画期的な(パクリ)商品で、スイッチを入れてお茶のいっぱいも入れて待っていれば、すぐにマウスでコンピュータを「いじる」ことができるようになる。
思うに、50歳以上のオジサン世代(特に教員!)というものは、激動の昭和を生き抜いてきただけあって(だって、計算機が歯車でできてた時代を知っているのだ)キャノンやカシオのワードプロセッサの扱いには、長けている。
ところが、なぜかWindowsを始めとするGUIの扱いは、さっぱりである。「右上のちっちゃな×にポインタをあわせる」という、人ならば本能的にできるはずのことが、できないのである。
思うに、我々がGUI世代と、ワープロ世代(CUI世代?)との差は、インベーダーゲームやファミリーコンピュータといったゲーム機をさわった経験の多寡が影響しているのではないか。
基本的にファミコンというのは、「一つのレバー(十字キー)と、二つのボタン」ですべてをこなしてしまうシステムである。ドラクエをやってみればわかるが、これで文字入力まで可能にしているのである。
と、なるとやはりこのGUI世代に対して、まだまだCUI(Command User Interface)全盛であるUNIXに慣れさせていくのは、ちょっとした苦労であるだろう。
と、いうわけで、今Windows上で動くテキストエディタについての説明文を書いている。まず、「テキスト」という概念から理解してもらうことが、UNIXへの理解への第一歩となるのではないか、と考えるからである。
たいしてまとまらん。
Friday, October 04, 2002
試験
久しぶりに駄論文。
試験というものには、公平の原則がある。
すなわち、「その試験で計ろうとする以外の要素は、結果に影響してはならない」という原則である。もちろんこれは、出自、過去の成績、受験地などが影響しない、ということを含んでいる。
この公平性は、次に水平的平等(空間的平等)と、垂直的平等(時間的平等)に分けられる。
水平的平等というのは、その試験を同時に受験する集団に対する公平性のことで、これを満たすために実際の試験では以下のようなことが行われる。
まず、第一に、すべての受験者が同じ問題を与えられる。
そして、その試験は可能な限り同時刻に行われる。
また、試験者側からは、受験者の匿名性が保たれるよう、名前の代わりに受験番号を使用する。
垂直的公平性とは、たとえば2001年に受験して合格となった集団と、2002年に合格した集団での差が出ない、ということである。これは、特に資格試験で重視されるべきことである。
垂直的公平性を満たすためには、毎回均質な問題(すなわち、平均点、標準偏差などが一致する)を出すことが求められる。
以上のことによって、建前としての公平性を維持するわけであるが、ここに本質的な試験というものの矛盾がある。
まず、水平的公平性に関してだが、一回に出題できる問題の量には限りがあるので、いわゆる山が当たる、はずれるといった個人個人の学習の偏りによるバイアスを排除できない。
センター試験や国家試験といった大規模試験では、垂直的公平性を確保するために膨大な量の問題を蓄積し(これをプール問題という)、この中から一部を抽出し、毎回の試験に供するという方法が採られる。
しかし、大学の講座レベルでは「毎年同じ問題を出す」という実に省エネな(出題者にとっても回答者にとっても)方法が採られることが多い。まあ、それは試験期間中に集中的な暗期量を求める医学部特有な現象ともいえるのだが。
いずれにしても、結局受験者が求められるのは、出題範囲として出ている事項の中のさらに限られた範囲の中の、ワンパターンな問題に答える能力、という事になってしまいがちである。また、事前にその試験に関する過去の「情報」を得ているものが、それを知らないものより有利になってしまう。これは、試験としての設計意図からはずれたことのはずである。
ときに、日本でもCBT(comuter based test)が医育機関での中間的な評価として用いられることになり、これに我々もトライアルとして参加することが、医学部長命令として出た。
このCBTというやつは、上記の公平性という観点から見るといろいろ斬新なところがある。
今日は疲れたからここまで。
試験というものには、公平の原則がある。
すなわち、「その試験で計ろうとする以外の要素は、結果に影響してはならない」という原則である。もちろんこれは、出自、過去の成績、受験地などが影響しない、ということを含んでいる。
この公平性は、次に水平的平等(空間的平等)と、垂直的平等(時間的平等)に分けられる。
水平的平等というのは、その試験を同時に受験する集団に対する公平性のことで、これを満たすために実際の試験では以下のようなことが行われる。
まず、第一に、すべての受験者が同じ問題を与えられる。
そして、その試験は可能な限り同時刻に行われる。
また、試験者側からは、受験者の匿名性が保たれるよう、名前の代わりに受験番号を使用する。
垂直的公平性とは、たとえば2001年に受験して合格となった集団と、2002年に合格した集団での差が出ない、ということである。これは、特に資格試験で重視されるべきことである。
垂直的公平性を満たすためには、毎回均質な問題(すなわち、平均点、標準偏差などが一致する)を出すことが求められる。
以上のことによって、建前としての公平性を維持するわけであるが、ここに本質的な試験というものの矛盾がある。
まず、水平的公平性に関してだが、一回に出題できる問題の量には限りがあるので、いわゆる山が当たる、はずれるといった個人個人の学習の偏りによるバイアスを排除できない。
センター試験や国家試験といった大規模試験では、垂直的公平性を確保するために膨大な量の問題を蓄積し(これをプール問題という)、この中から一部を抽出し、毎回の試験に供するという方法が採られる。
しかし、大学の講座レベルでは「毎年同じ問題を出す」という実に省エネな(出題者にとっても回答者にとっても)方法が採られることが多い。まあ、それは試験期間中に集中的な暗期量を求める医学部特有な現象ともいえるのだが。
いずれにしても、結局受験者が求められるのは、出題範囲として出ている事項の中のさらに限られた範囲の中の、ワンパターンな問題に答える能力、という事になってしまいがちである。また、事前にその試験に関する過去の「情報」を得ているものが、それを知らないものより有利になってしまう。これは、試験としての設計意図からはずれたことのはずである。
ときに、日本でもCBT(comuter based test)が医育機関での中間的な評価として用いられることになり、これに我々もトライアルとして参加することが、医学部長命令として出た。
このCBTというやつは、上記の公平性という観点から見るといろいろ斬新なところがある。
今日は疲れたからここまで。
大原則
新聞局の掲示板にも書いておいたが、どうやら私は大変な思考ミスを犯していたようだ。
誰かが全く理解できない行動なり、発言なりを行った場合、疑うべきはそいつの頭の中身ではなく、そいつが立っている足下のほうである。
その大原則を忘れていた。
誰かが全く理解できない行動なり、発言なりを行った場合、疑うべきはそいつの頭の中身ではなく、そいつが立っている足下のほうである。
その大原則を忘れていた。
Tuesday, October 01, 2002
恥曝し
並ぶだけで日給3万円のバイトなら、私もやりたかった、と思う。
西友の一件は、北海道の恥曝しである。
○ンサドーレ、A○R DO、とこの手のネタはつきないのだが、今年はまあよく膿の出る一年である。
だいたい、今回は豚肉を買った証明となるレシートも求めないで返金に応じるという、ずいぶんな性善説に基づいた対応を持ったがために起こったことであった。
そもそも、店が「客の善意」を信じるという前提には、「店の善意」を信じる客の存在があるのであって、その相互関係が壊されてしまった時には、意味をなさないものだ。
それにしても、なぜ大企業・西友ともあろう会社が、こんなマヌケな方法を見せたのであろうか。考えられることは二つある。
一つは、どうせ軽微な偽装事件であるからと、気前よく返金を行うことによって「太っ腹な会社」であるところを見せつけ(つまりある程度の赤字が出るのは予想の上で)、結果として客の信頼を金で買い戻そうと考えていたのだ、という仮説である。もしそうならば、ずいぶん高い金を払って恥の上塗りをしたものだ。
二つ目は、本気で会社幹部が性善説を信じていた、つまり本物のバカだったということ。これはまずないだろうが、あったとすれば「普通の人間」の発想を理解できない、とんでもない坊ちゃん育ちの経営者、ということになる。そう考えると、ますます「イタい」ものを感じてしまい、かえってあそこで買う気はしなくなる。
余談になるが、雪印の一件以来、北海道といえば不良品の巣窟のようなイメージが染みついてしまっていた。本州にも、探せばまだまだバカはいるものである、と思い、久しぶりに爽快な気分になった出来事であった。
西友の一件は、北海道の恥曝しである。
○ンサドーレ、A○R DO、とこの手のネタはつきないのだが、今年はまあよく膿の出る一年である。
だいたい、今回は豚肉を買った証明となるレシートも求めないで返金に応じるという、ずいぶんな性善説に基づいた対応を持ったがために起こったことであった。
そもそも、店が「客の善意」を信じるという前提には、「店の善意」を信じる客の存在があるのであって、その相互関係が壊されてしまった時には、意味をなさないものだ。
それにしても、なぜ大企業・西友ともあろう会社が、こんなマヌケな方法を見せたのであろうか。考えられることは二つある。
一つは、どうせ軽微な偽装事件であるからと、気前よく返金を行うことによって「太っ腹な会社」であるところを見せつけ(つまりある程度の赤字が出るのは予想の上で)、結果として客の信頼を金で買い戻そうと考えていたのだ、という仮説である。もしそうならば、ずいぶん高い金を払って恥の上塗りをしたものだ。
二つ目は、本気で会社幹部が性善説を信じていた、つまり本物のバカだったということ。これはまずないだろうが、あったとすれば「普通の人間」の発想を理解できない、とんでもない坊ちゃん育ちの経営者、ということになる。そう考えると、ますます「イタい」ものを感じてしまい、かえってあそこで買う気はしなくなる。
余談になるが、雪印の一件以来、北海道といえば不良品の巣窟のようなイメージが染みついてしまっていた。本州にも、探せばまだまだバカはいるものである、と思い、久しぶりに爽快な気分になった出来事であった。
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