昨年末、ニコン社製のデジタルカメラなる一件を購入して以来、ほぼそれを大学へ持ち込んでいる。
別に怪しい目的に使おうというものではない。
講義のスライドを撮影するのである。
大学の講義では、ここ数年の間にマイクロソフト社製のPowerPointが好んで使われるようになってきた。これは、一般に「プレゼンテーションソフト」と言われるもので、文字・画像・動画を含むスライドをコンピュータ上で簡単に作成することが出来るものである。これと液晶プロジェクターを使うことにより、教員はノートパソコンを持ち込んで次々とスライドを提示し、より「スマートな」講義を行うことが出来るようになった。もはや、黒板とチョークを用いた「授業」は駆逐されつつある。
問題は、スライドの内容であって、医学部はX線写真や、病理標本写真などを供覧する必要上、元々スライドに偏った講義の文化があったのだが、PowerPointの出現によって相当な字数の文章を含むスライドを、気軽に作成してくる教員が多い。
たとえば、所謂「診断基準」などといったものは、
http://www.dermatol.or.jp/QandA/kogen/ichiran.html
といった例を見てもらえばわかると思うが、かなりの文字数を含むものである。
もちろん、中には「全部覚える必要もない」と言われる情報もあるのだが、学生としてはどこから試験が出るか知れない、という不安から、とりあえず出されたスライドの内容はすべて書き取ろうとするものである。そうすると、いかに教員が熱弁を振るおうとも、話し言葉に意識は集中しない。そういうことならば、最初から文字情報のいっぱい詰まった「教科書」を一人で読んで勉強すればよいだけのことで、大学に来て講義を受ける必要はないのである。
そこで、だいたいこのようなスライドの洪水となる4年後期には知恵者が現れ、講義スライドをデジカメでパシャリ、パシャリとやることになる。もはや、滑りの良い筆記具を真剣に選んだり、画数の多い文字を速記して後で解釈に苦しんだりと言ったことからは解放される。教員の「話」を聴くゆとりも、生まれることになる。(もっとも、音声情報をもMDで録音するのが専門の学生も現れている。)
いやあ、便利な道具を手に入れたものだ。
と、単純に喜んでいるわけにはいくまい。
ここには、学生と教員のコミュニケーションにおける深刻な断絶が現れているからだ。
スライドの内容が判らねば、その場で手を挙げて質問する。どうしても書ききれぬ内容があれば、あとで教員の元まで出向き、スライド(あるいは、ファイル)を借りてこればよい。教育を目的とした「学校」であるならば、ごく自然なことであろう。
そもそも日本の医学部では、「教育、診療、研究」の三本柱のうち、教育は評価されにくい部分だと言われていた。すなわち、学生の成績向上に寄与したからといって、それが教員の業績として評価されるシステムがない、ということだ。勢い、割かれる時間も少なくなる。
また、学生の気質にも問題はある。医学生という者は概して内向的、また「恥」を嫌う傾向があり、目立って自分の馬鹿をさらすよりは、だまって疑問を胸にしまっておいた方がマイナスの点を喰わぬだけましだ、と考えるものである。
結果として、教員-学生間の基本的なコミュニケーションさえも、失われつつあるということである。
教員がパソコンという道具を用いて情報を垂れ流しにし、学生はそれを下流ですくうだけ、といった教育の在り方は、たとえみてくれはいいにしろ、決してほめられたものではないと考える。
Friday, January 24, 2003
Monday, January 20, 2003
随筆を書く
ここに書かれるべき内容は、本来「日記」である。
つまり、今日はこんなことがあっただの、誰それがどんなことを言っただの、ということを述べる場であるはずである。
しかしながら、他の多くの「日記作者」と同様、私はここにある種の随筆を書いている。つまり、多分に思想的な文章を書いているということだ。
下の段に登場する團先生は、音楽家である。しかしながら、先生は「パイプのけむり」の中で、週刊誌である「アサヒグラフ」に載せる8ページの原稿のために、一週間のうち3日を費やした、と書かれている。公衆の面前に触れる文章を書く、ということはそれだけの労力と時間を費やす行為なのだと。
それに鑑みて、私がここになにがしかの内容を書きつづるのに費やす時間は、高々十数分である。本来ならば、人様に見せられるような内容を備えてはいないし、何より生まれ持った文才というものがないのであるから、私がやっているのはストリーキング並の恥ずかしい行為なのである。
久しぶりに書いては見たものの、やはり人に見せる文を書くと言うことは、難しいものだ。
つまり、今日はこんなことがあっただの、誰それがどんなことを言っただの、ということを述べる場であるはずである。
しかしながら、他の多くの「日記作者」と同様、私はここにある種の随筆を書いている。つまり、多分に思想的な文章を書いているということだ。
下の段に登場する團先生は、音楽家である。しかしながら、先生は「パイプのけむり」の中で、週刊誌である「アサヒグラフ」に載せる8ページの原稿のために、一週間のうち3日を費やした、と書かれている。公衆の面前に触れる文章を書く、ということはそれだけの労力と時間を費やす行為なのだと。
それに鑑みて、私がここになにがしかの内容を書きつづるのに費やす時間は、高々十数分である。本来ならば、人様に見せられるような内容を備えてはいないし、何より生まれ持った文才というものがないのであるから、私がやっているのはストリーキング並の恥ずかしい行為なのである。
久しぶりに書いては見たものの、やはり人に見せる文を書くと言うことは、難しいものだ。
團先生のこと
團伊玖磨先生、という音楽家が居た。
先々週のこと、慌ただしかった今年の冬休みに一度は訪れようと思っていた郊外の巨大書店に、地下鉄と中央バスを乗り継いで行ってみた。
学問に必要な専門書であれば、大学の書店で買えばよい。あるいは、書名さえわかっていればamazon.co.jpで注文するという手もある。
従って、本業に必要な本を買うつもりはなかった。言うなれば、あえて無駄遣いをしに行ったようなものである。幾ばくかの金と時間を、自らページを繰り、そこで気に入った本を買う、という行為は、私にとって何者にも代え難い贅沢なものである。
バスから降りて、根からの卑しさが災いして寄ったモスバーガーにて、チーズバーガーを喰らい、次に本来の目的である書店の門をくぐったときには、すでに日が暮れかかっていた。
そこで何冊か、写真術の本だの、メディア論の本だのと、飯の種にもならぬような本を買った。
財布をしまいがてら、懐中時計を出すと、まだ帰りのバスの時間には小一時間ある。やれ、困ったと思いながらも、またしても書店に併設されているミスドにてドーナツとコーヒーを喰らいつつ、書物に目を走らせた。
ここでふと、ある書物のタイトルが思い出された。
「パイプのけむり」
オペラ「夕鶴」から、童謡「ぞうさん」まで、多くの名作を生みだしてこられた作曲家、團伊玖磨先生の随筆集である。
まだ私が子供だった頃、祖父からもらったこの「パイプのけむり」から教わったことは数知れない。「瓦斯」「檸檬」などの所謂難読語の類は、書けぬにしても読めるようにはなったし、その昔中国のことを「支那」と読んだ時代のあったことを知った。また、芸術家、これすなわち偏屈な思考の持ち主ということをも、行間に読みとったものだった。
「パイプのけむり」は、27巻「さよならパイプのけむり」をもって完となっている。先生がずっと随筆を載せ続けてきた媒体である写真誌、「アサヒグラフ」が休刊になったことが理由であった。「アサヒグラフ」の休刊から間もなく、先生自身も2001年5月17日、中国蘇州市にて客死された。
バスの時間が20分後に迫っては居たものの、私はあわてて検索端末を手繰り、棚の間を駆け回って、その書物を買い求めた。
芸術家の生き様としての作品は、その死を以て完結する。
だからこそ、人は永遠に生き続けることが出来る、とも言えるのだ。
先々週のこと、慌ただしかった今年の冬休みに一度は訪れようと思っていた郊外の巨大書店に、地下鉄と中央バスを乗り継いで行ってみた。
学問に必要な専門書であれば、大学の書店で買えばよい。あるいは、書名さえわかっていればamazon.co.jpで注文するという手もある。
従って、本業に必要な本を買うつもりはなかった。言うなれば、あえて無駄遣いをしに行ったようなものである。幾ばくかの金と時間を、自らページを繰り、そこで気に入った本を買う、という行為は、私にとって何者にも代え難い贅沢なものである。
バスから降りて、根からの卑しさが災いして寄ったモスバーガーにて、チーズバーガーを喰らい、次に本来の目的である書店の門をくぐったときには、すでに日が暮れかかっていた。
そこで何冊か、写真術の本だの、メディア論の本だのと、飯の種にもならぬような本を買った。
財布をしまいがてら、懐中時計を出すと、まだ帰りのバスの時間には小一時間ある。やれ、困ったと思いながらも、またしても書店に併設されているミスドにてドーナツとコーヒーを喰らいつつ、書物に目を走らせた。
ここでふと、ある書物のタイトルが思い出された。
「パイプのけむり」
オペラ「夕鶴」から、童謡「ぞうさん」まで、多くの名作を生みだしてこられた作曲家、團伊玖磨先生の随筆集である。
まだ私が子供だった頃、祖父からもらったこの「パイプのけむり」から教わったことは数知れない。「瓦斯」「檸檬」などの所謂難読語の類は、書けぬにしても読めるようにはなったし、その昔中国のことを「支那」と読んだ時代のあったことを知った。また、芸術家、これすなわち偏屈な思考の持ち主ということをも、行間に読みとったものだった。
「パイプのけむり」は、27巻「さよならパイプのけむり」をもって完となっている。先生がずっと随筆を載せ続けてきた媒体である写真誌、「アサヒグラフ」が休刊になったことが理由であった。「アサヒグラフ」の休刊から間もなく、先生自身も2001年5月17日、中国蘇州市にて客死された。
バスの時間が20分後に迫っては居たものの、私はあわてて検索端末を手繰り、棚の間を駆け回って、その書物を買い求めた。
芸術家の生き様としての作品は、その死を以て完結する。
だからこそ、人は永遠に生き続けることが出来る、とも言えるのだ。
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