どうも、ご無沙汰しておりました。
harrityです。
学生時代コツコツ(コソコソ?)と書きためていたここの「日誌」ですが、卒業していざ仕事に出てみると、我々の仕事というのは当然ながら客商売なものですから、おいそれとは日常の出来事、仕事の中身を公開するという訳にはいきません。
仕事の多忙さ、そして我が肉体の脆弱さもあり、更新するに至る時間もありませんでした。
ただ、改めて昔の自分が書いた記事を見ると、まずは恥ずかしさがわいてきますが、その一方で「立場がない」時代に書けたものというのはそれなりに値があったのではないかと、そんな気もしてきます。
「過去の自分との対話」をテーマに、暇を見つけては更新していけたらと思っています。
弐式沿岸警備日誌改
北海道本土防衛のために。
Friday, February 22, 2013
Thursday, October 25, 2007
引っ越しに備えて
いくつか無料のblogを借り、blogger + haloscanにトラックバックを発砲してみたが一向に反映されず。やはり近日中に引っ越す方針かなあ。
今まで書きためてきたbloggerにはbloggerなりの良さがあったし、mixiで弐もそれなりの良さがあるのだが、やはり顔を知られずにものを書ける場所が一つはほしいものだ。
今まで書きためてきたbloggerにはbloggerなりの良さがあったし、mixiで弐もそれなりの良さがあるのだが、やはり顔を知られずにものを書ける場所が一つはほしいものだ。
Wednesday, October 24, 2007
Thursday, October 11, 2007
気力の障害
気分障害というのは、精神科で最もよく扱われる病気の一つである。いわゆる「うつ病」などがこの病気に含まれる。
では、気分というのは何か。私もこの気分障害を患っているし、何よりもメシの種であるから、せめて他人にこれはどういうものです、とちゃんと説明できるようになっておきたいのだ。
ということで、辞書で「気分」を引いてみることにした。
参考:Yahoo辞書
「カプラン精神医学」など、きちんとした精神医学の教科書をひもといてみても、上の[5]のような説明と似たり寄ったりである。つまり、「長く続く感情=気分」というわけだ。
では、「感情」とは何か。それについてわかれば、きっと「気分」についてもわかるにちがいない。再び辞書に聞いてみる。
つまり、辞書の解説を信じるとすればこういうことだ。「物事に対する主観的な価値付け(=感情)」が、持続的に障害された状態が「気分障害」である。
(ちなみに、「感情」にまで言及している精神医学のテキストはほとんど無い。ただし私がまだきちんとした古典を読み込んでいないせいかもしれないので、もしお気づきの点があればご教示いただければ幸いです)
少なくとも自分の経験からは、これは納得のいく説明では無いのである。
確かにうつ病の極期には、「何も考えられず、それでいてただ涙があふれてきた」ということを訴えることがある。しかし、その経験が必ずしも「悲しみ」という感情と結びついているのか、というと違う気がする。
うつ病の本態は、精神的疲労にあるのではないか、と個人的に考えている。専門的には「易疲労感(イヒロウカン)」と呼んだりするが、うつ病では、例えば書類仕事を1時間していないのに、8時間ぶっ続けで働いたのと同じような疲労感が感じられる。肉体労働に対する疲労は筋肉内の乳酸蓄積だとか、まだ定量化する方法があるのだろうが、中枢神経の疲労を定量化する方法、もっといえば写真に写す方法に至っては、われわれはほとんど持ち合わせていないのである。従って、有名なDSM-IV-TRの診断項目のような、面接上の質問によってそれを推し量るしかない。
最近病の状態が回復してきたので、物理学の教科書をじっくり読み込んだりしていた。
ファインマン先生がいうには、物理学において時間というものは定義するのが非常に難しいのだそうである。しかし、とにかく砂時計にしろ、それを計る方法だけがある、と。
精神医学における「気分」も案外似たようなものかも知れない。
専門用語で「気分障害 mood disorder」というとき、この「気分」という言葉はわれわれが日常に用いるところの「気力」に近いのではないだろうか。気分障害は、気力障害と読み替えた方が一般の人にとっても理解しやすくなると思うのである。
もっとも、昔のエントリーで書いたように、「気力」だの「精神力」だのと言う言葉についても、私たちはほんの少ししか理解していないのだけれども。
--
それにしても、昔のドラマによく出てくる、往診鞄を提げた医者が、「過労ですな・・・」と診断をつけるのシーンには、味がある。
では、気分というのは何か。私もこの気分障害を患っているし、何よりもメシの種であるから、せめて他人にこれはどういうものです、とちゃんと説明できるようになっておきたいのだ。
ということで、辞書で「気分」を引いてみることにした。
参考:Yahoo辞書
きぶん1 【気分】
「きぶん」を大辞泉でも検索する
[1] その時々の漠然とした心・気持ちの状態。
・―をこわされる
・遊びに行く―になれない
[2] からだの生理的な状態に応じて起こる、快・不快などの心の状態。気持ち。
・乗り物酔いで―が悪くなる
[3] その物事に対してだれもがもつ、特有の心の状態。
・お祭り―
・新婚―
[4] 〔補説〕 孔子家語(執轡)
気質。気性。
・―のよい男
[5] 〔専門〕 心 からだの生理的な状態と密接な関係をもつ、比較的弱く長時間持続する感情の状態。
→情動
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
「カプラン精神医学」など、きちんとした精神医学の教科書をひもといてみても、上の[5]のような説明と似たり寄ったりである。つまり、「長く続く感情=気分」というわけだ。
では、「感情」とは何か。それについてわかれば、きっと「気分」についてもわかるにちがいない。再び辞書に聞いてみる。
[1] 喜んだり悲しんだりする、心の動き。気持ち。気分。
・―に訴える
・―を顔に出す
・―を害する
・―を込めて歌う
[2] 〔専門〕 心 ある状態や対象に対する主観的な価値づけ。「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと、「快い」「不満だ」など主体自身に関するものがある。また、一時的なものを情動、持続的なものを気分と呼び分ける場合もある。
→かんせい(感情)
→(句)感情(かんじょう)を害(がい)・する
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
つまり、辞書の解説を信じるとすればこういうことだ。「物事に対する主観的な価値付け(=感情)」が、持続的に障害された状態が「気分障害」である。
(ちなみに、「感情」にまで言及している精神医学のテキストはほとんど無い。ただし私がまだきちんとした古典を読み込んでいないせいかもしれないので、もしお気づきの点があればご教示いただければ幸いです)
少なくとも自分の経験からは、これは納得のいく説明では無いのである。
確かにうつ病の極期には、「何も考えられず、それでいてただ涙があふれてきた」ということを訴えることがある。しかし、その経験が必ずしも「悲しみ」という感情と結びついているのか、というと違う気がする。
うつ病の本態は、精神的疲労にあるのではないか、と個人的に考えている。専門的には「易疲労感(イヒロウカン)」と呼んだりするが、うつ病では、例えば書類仕事を1時間していないのに、8時間ぶっ続けで働いたのと同じような疲労感が感じられる。肉体労働に対する疲労は筋肉内の乳酸蓄積だとか、まだ定量化する方法があるのだろうが、中枢神経の疲労を定量化する方法、もっといえば写真に写す方法に至っては、われわれはほとんど持ち合わせていないのである。従って、有名なDSM-IV-TRの診断項目のような、面接上の質問によってそれを推し量るしかない。
最近病の状態が回復してきたので、物理学の教科書をじっくり読み込んだりしていた。
ファインマン先生がいうには、物理学において時間というものは定義するのが非常に難しいのだそうである。しかし、とにかく砂時計にしろ、それを計る方法だけがある、と。
精神医学における「気分」も案外似たようなものかも知れない。
専門用語で「気分障害 mood disorder」というとき、この「気分」という言葉はわれわれが日常に用いるところの「気力」に近いのではないだろうか。気分障害は、気力障害と読み替えた方が一般の人にとっても理解しやすくなると思うのである。
もっとも、昔のエントリーで書いたように、「気力」だの「精神力」だのと言う言葉についても、私たちはほんの少ししか理解していないのだけれども。
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それにしても、昔のドラマによく出てくる、往診鞄を提げた医者が、「過労ですな・・・」と診断をつけるのシーンには、味がある。
大したことは書いていなかった
このblogを学生時代に書き始めてからずいぶん時間が経った。
働き始めてから、見たり聞いたりしたことを書くのは守秘義務とのかねあいもあるし、それ以前に様々な諸先生方が医師として立派な記事を発信されているのを読ませていただくと、自分の書こうとしている文章なんて気恥ずかしくてとても他人に読ませる価値がないと思えることばかりだった。
今日、しばらくぶりに書きためた記事を読んでみて気付いた。
なんだ、もとから大したことは書いてなかったんだ。
少し、ほっとした。
ただ、振り返ればよかったんだ。
bloggerの仕様か、日本語のトラックバックやコメントが高確率で文字化けするということが少々気になるので、、メインのブログはどこかに引っ越しするかも知れない。ただし、これからも暇を見つけては何か書き込んでいこうと思う。
働き始めてから、見たり聞いたりしたことを書くのは守秘義務とのかねあいもあるし、それ以前に様々な諸先生方が医師として立派な記事を発信されているのを読ませていただくと、自分の書こうとしている文章なんて気恥ずかしくてとても他人に読ませる価値がないと思えることばかりだった。
今日、しばらくぶりに書きためた記事を読んでみて気付いた。
なんだ、もとから大したことは書いてなかったんだ。
少し、ほっとした。
ただ、振り返ればよかったんだ。
bloggerの仕様か、日本語のトラックバックやコメントが高確率で文字化けするということが少々気になるので、、メインのブログはどこかに引っ越しするかも知れない。ただし、これからも暇を見つけては何か書き込んでいこうと思う。
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