Wednesday, February 23, 2005

国試各論

 本来は総論を書いてから各論を書くのがスジだと思うが、細かいことはどんどん失われていくので、とりあえず先に書くことにする。

 今年は試験監督が「机の上に書き込みがないかどうか確認してください。問題用紙回収の時点で、机や受験票に書き込みを発見した場合は不正行為とみなします」ということをしつこく言っていた。おそらく、精度の高い「再現問題」が出回るのを防ぐため、試験問題を机に転記することをやめさせる狙いがあったものと思われる。

 国家試験問題作成委員会だってアホじゃないだろうから、当然今年出た問題がどの程度「再現」されているのかくらいは調べるだろう。試験回収を行うのも、いわゆる「プール問題」を確保するためだが、良問ほど受験生がよく研究し、勉強するので差がつきにくい。そこで「ネタ」がつきた結果として今年のような間抜けな問題続出、ということになったのではないか、と私は見ている。


 ちなみに必修の「肛門カルテ問題」だが、標準外科学と内科診断学(ともに医学書院)ではみごとに書き方が違っている。標準外科の肛門の項では、円の中に波線で円腔が描かれた図(aに近いが、国試のはやけに対称的な図形だった)が載っており、一方内科診断学には大円の中にオチョボ口のようなマーク(d?)が描かれている。しかしいずれの教科書でも、「痔瘻・裂肛の位置は時計式に記載する」ことを教える趣旨の参考図であり、「標準的なカルテ図示の仕方」という意味合いではない。我が国の代表的な教科書にさえ典拠がない以上、病院ごとで記載の仕方は異なるのが普通で、これは不適切問題になるのではないかと考える。ちなみに私は「痔には奥行きがあるから」と考え、(a)(十字線入りの円を底面とする円錐状の図)を選んだ。(b)の図はなんだかやけに卑猥だった記憶がある。だれがつくったんだこの問題。

 「正しい注射器の捨て方問題」は、微妙な絵のタッチに思わず引き込まれそうになってしまった。一応今のところ、正解であるという説が優勢な(e)(針のついたままの注射器をキャップなしで捨ててある。バケツの外にあふれていない)を私も選んだが、現場ではいわゆる「安針缶」などを使い、リキャップしないまでも針は分離するところが多いのではないだろうか。私は、「どうしてもリキャップするときは台の上に置いたキャップを、片手に持った針ですくうように取り、万が一先端がキャップを突き破ってもいいように、逆の手でキャップの根本を押さえて止める」ように教わった。また、あるところでうっかり針を使用済み注射器と同じバケツに捨てたら、「おまえ、針は外してこっちに捨てなきゃダメだろ」と怒られて、オーベンがそのバケツの中に手を突っ込んで拾っていた記憶がある。従って少なからずあの絵には違和感を覚えたが(針も注射器もメスも一緒に捨ててあった)、「もっとも正解に近いものをマーク」という原則に従えばやっぱりeだろう。

 「朝起きたらぐったりしていたという乳児、来院時心肺停止で30分蘇生したが回復せず死亡確認。全身に打撲の跡を認める」問題では、周囲にかなり「母親から詳しく事情を聞く」を選んだ人がいた。私は「警察に通報する」という選択肢を選んだし、落ち着いて考えればこちらが正しいとわかるはずだ。(異状死体の届け出義務、すでに患児死亡しているため母親からの病歴聴取は意味がない)。しかし、模擬試験、問題集などでは「幼児虐待の疑いがあるときは警察に通報する」選択肢を「児童相談所に通報するのが正しいので誤り」とする問題が多々あったため、惑わされた人が多かったようだ。

 そう言う私もやはり本番の緊張というものはあるもので、後から思い起こしてあっ、と思ったような問題がいくつかあった。3日目の、病歴・心エコーから明らかにIE→MRを選ばせる問題でもなぜかMSを選んでしまったし、2日目の「洞不全症候群でペースメーカー装着している男性。突然意識消失して来院」問題では、全くMRIが禁忌選択肢であることを意識していなかった。(急性の経過を示す脳卒中ではCTが優先だろう、ということで何となくCTを選んでいたので、これは踏まずに済んだ。また踏んだとしても必修ではないのでカウントされないだろう。)帰ってから2ちゃんねるで見たときは、思わず顔が青ざめてしまった。


 いつもの模擬試験と同じく、迷った問題に関しては見直しの段階で「正解にマークしていたのに直して誤答にしてしまう」パターンと、「誤答にマークしていたが考え直して正解に付け替えた」パターンが同程度の頻度で発生したもの、と勝手に考えている。それでも、やはり見直しはするべきだろう。というのも、数年前からX2問題(5つの選択肢のうち、正しいもの2つにマークを付ける)が出てきており、これに対してマークを1つしか付けていない、あるいはその逆、といったアホらしいミスを避けることが出来るからだ。実際私も「徒手筋力テストは2」の記載にある数字だけを見て勝手にX2だと思いこみ、見直しの段階で気付いた問題があった。

 不親切だと思うのは、「適切でないのはどれか」の表現は太字で強調されるのに対し、このX1、X2問題に関しては「~はどれか」と「~はどれか。2つ選べ」の表現がまったく普通の文字で記載されているため、受験生にとってはうっかり取り間違えそうになることである。今回私はやらなかったが、まず試験が始まったときに問題用紙をぱらぱらめくり、最後の一文が「2つ選べ」で終わっているものに関しては大きく「2」と書くなどの対策も有効だろう。(問題用紙への書き込みについてはまた書く。)

 今日はこれまで。

Monday, February 21, 2005

状況終了

とりあえず、寝る。
いろいろ書きたいことはあるが、寝る。
いろいろ気になったこともあるし、いろいろ後輩に伝えたいこともあるが、まずは寝る。

Wednesday, February 16, 2005

イメージトレーニング

 左サイドから鋭く内側に切り込んできたクラウディオ・ロペス、DF一人かわしてゴール右隅へ強烈なシュート、キーパー反応して弾いたところを詰めてきたアイマール(またはサビオラ)、胸でトラップすると同時に大きく息をフッと吐き、下へ落としたボールを基本通りのインサイド・キックで流し込む!

 Goaaaaaaal!


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 振り返ってみると、5つある選択肢のうち、最後の2つにまで絞り込んでから外すとことが今まで多すぎた。ドリブルで持ち込みキーパーと一対一になった瞬間全身の力を込めてけり込んだボールがキーパーの真っ正面に行くようなもので、しかもループを狙うほどの技術はないものだから、当日のイメージはこれで行く。

Friday, February 11, 2005

無題

  今さら勉強したら負けかなと思ってる
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              ,,,,,,,,,,,,,
             /": : : : : : : : \
           /-─-,,,_: : : : : : :\
          /     '''-,,,: : : : :i
          /、      /: : : : : : i 
         r-、 ,,,,,,,,,,/: : : : : :i
         L_, ,   、 \: : : : : :i
         /●) (●>    |: :__,=- /
        l イ  '-     |:/ tbノノ 
        l ,`-=-'\     `l ι';/
        ヽトェ-ェェ-:)     -r'  
         ヾ=-'     / / 
    ____ヽ::::...   / ::::|
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 ニート予備軍  25歳




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 そ、そんなこたーないぞー。

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 やりゃーいいってもんじゃない。
 やらなきゃいいってもんでもない。

Sunday, February 06, 2005

燃料投下の責任をとって

■ [医療]医療従事者としての予防の捉え方
http://d.hatena.ne.jp/chirin2/20050204#p3

 上のリンクでちりん師がいろいろと述べられているが、本を正せば去年の10月8日に私がこんな燃料を落とすから悪いのである。下の記事のコメント欄参照のこと。
http://d.hatena.ne.jp/chirin2/20041008

 ちりん師が書かれた記事を読んで、適当に「予防接種 反対」とかでぐぐってみると、ちょうどまた絵で描いたようにおあつらえ向きな記事を見つけてしまったものだから、つい燃料として投下してしまったのだが、ちりん師が実際ここまでかみついていくとは思わなかったので、正直めちゃくちゃびびりまくっている。

 問題になった記事はジャングルシティというコミュニティサイトの中にある、「かずよの子育てエッセイ・第20回」である。シリーズ通してみると、読み物としてはなかなかおもしろい。

 私を含めて、これから医療で飯を食っていこうという人間からみれば、いろいろとつっこみどころがある文章なのだが、結構痛いところはついているような気もしたのだ。そういう意味で、みんなが議論を深めていく題材としてはちょうどいいんではないか、と思ったのだが、きっかけを作った張本人の私が何も言わないのでは卑怯だと思うので、今日は引用を交えながらコメントしていく。
 
アメリカでは、生まれたばかりのちっちゃい赤ちゃんに、一度に何本も予防接種をします。針を刺すかわいそうさプラス、得体の知れないものがあんなちっちゃい体に入れられるなんて、無気味だと思いませんか?私の予防接種の感想は『乱暴』。むちゃくちゃな気がします。それでも先生は「もう何年も実績があるし大丈夫よ」の一点張り。それでも私はなぜか信用できません。私が信用できないと結論付けた理由をいくつか挙げてみます。
 なかなか感情的な表現で、大変よろしい。もうね、こういう意見を必死に探していたわけです。
それって、私たちの子供を使って人体実験をしているような気がしませんか?十分なデータを取ってから認可しているはずなのに・・・。
 実を言うと、ワクチンのような薬剤は、すべからく「人体実験」の最中である、と言えなくも無いのだ。
 新薬の臨床試験、いわゆる「治験」には第I相試験から第IV相試験まで、4段階に分けられている。ここに詳しい。
  第III相試験を終え、問題ないと判断された段階で、新薬はたとえば保険収載されたりして「大っぴらに使える」扱いになるのだが、ワクチンのような薬剤では「第IV相試験」として、市販された後も、本当に副作用が看過し得るものなのか、有効性は十分なのか、といったことは監視されているのだ。だからこそ、ここに書かれているような「溶連菌の予防接種が取りやめになった」こともあるのである。
 そういう意味で言えば、このお母さんの視点はなかなか鋭い。
少し前ですが、水疱瘡の予防接種を作っている会社のテレビコマーシャルが盛んに流れていました(水疱瘡は多くの州でまだ義務ではなく任意)。子供のおもちゃが泣いていて、「毎年○人(正確には忘れましたがたぶん40人?)の子供が水疱瘡で亡くなります」「親ができることはしてあげましょう」と結んでいました。脅しとしか捉えようのないこの宣伝。ひどいと思います。
 ここに書かれているのは、「医療の名を借りて金儲けすること」に対する素直な嫌悪感であり、私もまた同様に抱いているものである。
 ディスコ経営が破綻した後介護事業に乗り出し、その後やはり経営的に成り立たんと見るや否や地方をバッサリと切り捨てた某社とか、テレビをつけた瞬間流れてくるア○コの保険CMとか、「医療を食い物にしている」としか思えない奴らのことは、私も大嫌いだ。そういう奴らのせいで、こっちが食うパイが減っている本当に医療が必要な人達へはお金が回って来ないことになるのだ。全くもってけしからん。
特に風疹は妊婦がかかると胎児に影響が出るといわれています。だから、もし予防接種をしていないうちの娘が風疹にかかり、知らない間に妊婦にうつしたらだめでしょう、ということなのです。社会責任とでもいうのでしょうか。でも私は全くこの考えには反対です。社会責任のために私は自分の子供に予防接種をうったりしません。自分の子供を守りたいから打つだけ、他人の利益なんて、乱暴ですが、考えません。少しでもリスクのあるものを、社会責任の名のもとに私のかわいい子供に押しつけられてはたまりません(もちろん、我が子を守りたいからこそ予防接種をするのだと先生に言われますが)。
 ここにみんな噛みつくわけだが、本質的に母親ってこういうものなんじゃないかなあ、と私などは思うわけだ。どんなにアホな子供でも、自分の子供まではかわいい。自分の子供までは。むしろそうでなかったら母親として失格じゃないのか。

 思い出しても見なさい。大学受験の時、あなたの親は何て祈っていたんだろうか。おそらく「うちの子が受かりますように」と思わない親はいないだろう。合格枠がある以上「うちの子が受かる」と「うち以外の子供が落ちる」は表裏一体のことなのだが、一方「世の中に受験失敗の悲しみを味わう子供が出ませんように」「うちのアホな子供より本当に優秀な人間がこの大学に受かって世のため人のためにになりますように」と祈る親御さんはほとんどいないだろう。親ってそういうもんだ。


 最後に、今回の「ジャングルシティ」がとった対応について。

 「ジャングルシティ」に抗議文を送ったところで、文章自体の著作権は書いた人に帰属しているだろうし、いくらこちらの意見が医学的にまっとうなものだったとしても「こんなアホな記事は信用しないでください」とサイト運営者が、記事の下に告示するわけにも行かないだろう。あくまでも読む人の良識と判断にお任せする、と言う態度はごく中立的で、私は特段の問題を認めない。

 むしろこういった意見がweb上で読めること自体が大変意義あるわけで、気に入らないから、間違っているからこんな意見はweb上から無くしてしまえ、と言うのでは、山崎宏之「大」先生が、かけそば先生のblogをぶっ潰したことを自慢したり、炎の営業マン福田実氏がAmazonから批判的なカスタマーレビュー全部削除させたりといったことと、あまり変わらないのではないか、と思う。

 時に誤った知見や、穏当とは言えない意見が跋扈するのがwebの特性であるが、あくまでも言論に対しては言論による反撃を試みるのが正道である。自分の子供に予防接種を受けさせるべきか悩んでいる親御さんがたとえば「予防接種 副作用 有効性」と言ったキーワードで検索したときに、「こっちのページに書かれていることより、こちらのサイトの方が理屈にかなったことを言っているな」と思われるような、そういった情報を発信していくことこそが、我々の思う「まっとうな」行動を広める上では有用だと考える。

Friday, February 04, 2005

ひとをみる

via. ちりんのblog 並びに 「歯医者そうさん」先生の「最新日記」2005年2月3日(木)付け記事

 医歯学部4年に患者応対テスト 新年度から108大学で[asahi.com]

 医師の無神経な言動で傷つけられる患者は少なくない。未熟な医師による医療ミスも相次ぐ。医療不信を招くこうした問題の一因に、5年生からの臨床実習が、主に指導医の診療の見学に終わるなど、十分に機能していないことがあると指摘されてきた。
    (中略)

 試験では、医学知識を問う問題に加え、模擬患者を問診してもらう。そのやりとりから、患者が信頼して症状や悩みを相談できる態度がとれるかどうか、患者の訴えに耳を傾けられるか、意思疎通が図れるか……などを判定する。

 さらに脈拍・血圧測定、頭から胸、腹部などの診察や、救命救急の処置などもチェック。歯学系では、抜歯や歯科治療などの技能も問う。


「ドクハラ」という言葉が一人歩きしていくのには少なからず抵抗を覚えるものの一人である。だが、この言葉の仕掛け人であるところの土屋先生が自ら語られる分に関しては、耳が痛いけど、まあそこは業界全体として正していく必要があるのかな、と思う。だが、マスコミがこの言葉を使う際には、少なからず彼らの悪意を感じてしまう、というのも正直な気持ちだ。

 ひとしきり「ドクハラ」に対する「毒」を吐いたところで、本題にはいる。
 
 今年から4年生には全国的にOSCEとCBTが導入され、上の学年に進級する上での関門試験とする大学も多いようだ。つまり、これらの試験に通らないと臨床実習に出さないぞ、ということである。

 面白いのは、「こちら側」にいると、このOSCEというのはむしろ「態度や言葉遣い」を試験すると言うよりも、「診察や処置の技術」を重点的に試すものであるように思われ、「あちら側」(マスコミや、それを通じて形成される堅気衆の世論)はその逆を期待している、ということだ。

 私が去年の夏に受けた後期OSCEでは、試験全体として8つほどのパートに分けられ、「X線写真の基本的な見方」や「心電図計の装着」「腹部・胸部の診察法」といった知識・技術に関する項目が7つ、そして「医療面接」の項目が1つという構成であった。

 7つの「診察法」に関しては頭に詰め込むことがいろいろあるが、「医療面接」に関しては何をどう勉強したらいいのかわからない。そこで当然、「医療面接」に関してはほとんどぶっつけ本番、と言う仲間も多かった。結局のところ、頭に詰め込む項目が7つで、配点の比重としてはめちゃくちゃ重いわけだから、「医療面接」で少々のことがあったとしてもどうと言うことはない。幸いにして、医療面接で落第になった仲間はいなかったが。

 私たちのところでは、過去私たちの病院に患者として来ていた方々にお願いして、模擬患者(SP)を演じて頂き、またSPさんがつける配点もあったのだが、今年から制式にスタートするOSCEでは、このところは一体どうなるのだろうか。


 数年前から、医学部入試には面接を導入するところが増えてきて、国公私立を問わず入学者全員に対してそれが課されそうな勢いである。けれども、こうしたことが本当に世間一般が求めている「医師として適切な」人格を入学させるのに役立っているか、というと、必ずしもそうであるとは思わない。理由はいくつかある。


 第一に、面接官である医学部教官が、必ずしも「人を評価する」能力に長けていないのではないか、ということである。企業の入社試験などであれば、人事課の担当者という「短時間で人を容赦なく評価する」ことに長けた経験者をそろえたセクションがあるだろうが、残念なことに「面接」で人を評価する訓練を受けた医学部教官は、かなり少ないものと思われる。
 どこの大学でも誰が面接官になるのか、というのは入試の機密事項だと考えられるが、一般論としてはもっとも「人を見る」ことが得意である(と、考えられている)精神科や、総合診療畑の先生たちが中心になることが多いのではないだろうか。それにしても面接時間の10分やそこらで、すべての受験生に公平かつ厳正な点数をつけると言う作業は、普段の業務内容からはかけ離れている。
 各科から持ち回りで選ばれて、いきなり面接官に任命された教官としても、どのポイントで人を評価していいものかわからず、また自分の採点で受験生の人生を左右してしまうことに対する感情的なハザードもあったりして、「全員に同じような点数をつけてしまう」傾向がある、と言われている。

 第二に、医者の側から見た「ほしい人材」と、医療のエンドユーザーである患者側から見た「なってほしい人材」とは必ずしも一致しないことがある。
 医者の側から見てほしい人材とは、「少々人格に問題があっても、ずば抜けた記憶力と、情報処理能力のの速さを持った人間」である。患者側から見るとこれは逆なのだろう。 はっきり言ってしまえば、人のいい奴はゴマンといる。全員入れてしまえば医学部はパンクする。それに引き替え、頭がよくて、しかもこの時代に医者になろうなどと考える奴は貴重だ。

 私が面接官なら、こう思うこともあるだろう。「こいつは人間としての品格には少々問題があると取られることもあるだろうが、記憶力と自己顕示欲の強さがひしひしと伝わってくる。実に魅力的な人材だ。将来伸びる可能性がある。何より、私の上司のX教授がこういうタイプじゃないか。ここで落として別の大学に行かれてしまったりしたら困る」と。

 どの世界、どの組織にも「人格的にやばい」人はいるだろう。アメリカの医療ドラマ、ERでもロバート(ロケット)・ロマノ先生という「人格破綻者」な先生が出てくる。ロマノ先生は診療部長なのでERのスタッフたちよりは数段上の存在で、いつもERを振り回してくれる。「ロマノ先生を見てホッとした」とは、いつか書いたことがある。


 いま冷静に考えてみると、「とかげ先生」の書いたことは正直まずいと思う。堅気の人が見たら、「なんてひどい奴だ」とか「人格障害だろう」とか言われるのは、それは当たり前のことだ。

 入学試験の面接突破して、OSCE通って、おそらくは国家試験の「面接態度に関する問題」を正解して、それでもやっぱり「他人に対する共感を欠く」とか「他者に対するいたわりが欠ける」という仲間も、何人かは思いつくことが出来る。「こっち側」にいる私の方から見てもそうなのだ。だが、そういった人材を排除する仕組みは、この業界の「内側」には存在しない。

 たとえば入学試験の段階から、患者団体の代表を面接官に加えるだとか、そういった「外圧」に頼らないと、この構造は変わらないものと考える。おそらく、「こちら側」の多くは、変える必要もないし、変わることもないと考えているだろうが。

Wednesday, February 02, 2005

芽が出てきた

 去年の夏書いた「無性生殖」「枯れた」の続きだが、今朝ふと残していたパキラの「切り株」を見てみると、なんと脇芽がのびている!

 一時はもう枯れてしまって、燃えないゴミの日に出さなきゃいけないかな、と思っていたのだが、持ち前の無精さからなかなか片づける気にもならず、ほったらかしにしていた。しかし、何を思ったか真冬の、一番気候の厳しい時期に脇芽をニョキニョキと延ばしていたわけで、なんだかうれしくなってしまう。

 と同時に、こういう植物性のしぶとさとか、生命力の強さといったものは、完全に切除し得たと思っていた癌が、新たな転移巣でニョキニョキと増殖を始める様もイメージさせるわけで、自分の中でこの喜びが、畏敬というか、どこか恐怖に似た感情につながっているのを感じる。


 つくづく因果なものだ。

いつから「医学生」になったか

 なんだか最近大学生活を総括するblogになってきている。

 私は医科大学の医学部医学科に在籍する学生であり、もうすぐ国家試験を受験する身である。故に「医学生」という呼称を名乗っても、まあヘンではないだろう。しかし、この「医学生」という言葉が個人的にあまり好きでは無いし、表であまり乱発すると無用な反感を買っても、味方を作ることにあまり役立たないように思うので、意識して避けるようにしている。

 そもそも、いつの時点で私は「医学生」というやつになったのか。世間的には、医学部医学科に入学したとたん「医学生」になるという認識があると思うのだが、果たしてそれは正しいのか。


 自分のことを思い出してみる。

 大学1年。センター試験と英語、数学、化学、生物からなる二次試験をパスし、これらの「受験科目」についての知識はそれなりにあっただろう。しかし、このころのカリキュラムは哲学、統計学、基礎生物学やドイツ語など一般教養があっただけで、直接「医学」に関係する科目は無かった。当然、知識もゼロである。この当時から「医学生」と名乗ったら、少々おこがましいだろう。

 大学2年。解剖学とそれに伴い解剖学実習が始まる。一応ここは「医学生」ということにしておかないと、何となくご遺体に申し訳ない気がした。うむ、このころは確かに「医学生」だったかも知れない。だが、「死体解剖保存法」には「教授または助教授」が解剖をするのはいい、とは書いてあるが、「医学生が解剖していい」とはどこにも書いていないのだ。となると、この「医学生」なる呼称も大した意味はないだろう。うちの場合マクロ実習は3ヶ月弱と異様に短いこともあり、また科目的にも生理学、生化学と記憶を強いられる科目ばっかりで、この時期は毎日が本当にしんどかった。

 大学3年。うってかわって、自由時間が増える。病理学や免疫学など、自由時間でじっくり基礎医学の教科書を読む時間は増えたが、教科書を読むのは医学部に限らずどの学部の学生でもやることだろう。取り立てて「医」学生と名乗ることもない。それに、聴診器の当て方、血圧の取り方も満足に出来ないのに「医学生」と名乗るのは、やはりおこがましい気がしていた。やっぱり「学生」で十分だ。

 大学4年。3年生と似たようなもの。しかし、後期から臨床講義が始まり、内科学、外科学といった「医者らしい」科目が出てきた。でも基本的に所見取ったり、心電図の解釈するとか技術レベルは、お話にならないものだ。やはり「学生」でいいだろう。

 大学5-6年。臨床実習で実際の患者さんと出会う機会も多くなった。だけど先生方には「学生さん」と呼ばれているし、やっぱり「学生」でいいんじゃないかなあ。何の学生なのかは先方もよくおわかりだろうし、とりたてて「医」をつけて呼ぶ必要性もそれほど感じない。

 現在。時折学校に行ってみたりもするが、もっぱら6年間買い貯めた教科書と問題集とともに部屋にこもっている。「学生」かどうかも怪しいもんだ。


 結論:「医学生」だったのはほぼ1年。ヘタするとこれからNEET。

 現在では、各大学のカリキュラムも変わってきて、臨床科目・基礎科目をシンクロさせながら教えるところが増えてきた。となると、後輩たちには私の頃よりずっと「医学生」の名に値する資格があるのかも知れない。

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 本当に学校の外で「医学生」と名乗ったことなんか、一度もないんじゃないかなあ。医者になってからも飛行機に乗るときなんか、職業欄に「団体職員」「技術職」とか書いてたりして。
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 1年生の頃えっちなビデオを借りようとして、某ビデオ屋の会員登録をしようとしたら、学生証見られて「え、医学生なんですね」と顔を覚えられてしまい、結局その店での目的は果たせなかった思い出がある。思い起こせば、そのころからその呼称がイヤになってしまったのかもしれない。

Tuesday, February 01, 2005

走りながら休むんだ!

 昔中学校の体育の時間、長距離走で息を切らし歩いている生徒を見つけると、体育の先生はこう怒鳴ったものだった。

 その当時は訳のわからんことを言う人だと思ったが、今は違う。

 今私がやっていることが、まさしくそれなのだ。

Monday, January 31, 2005

本を読むということ

 最近忙しくてまともな本を読む暇がない。暇がないというのは詭弁であって、本当はあるのかも知れないが、試験に関係あるもの以外の本を読むのに、強い抵抗を感じるのだ。

 古い話で強縮だが、大学に入って、まず痛感させられたことは、「自分にはものを読む力がない」と言うことだ。これはゆゆしき自体だと思った。

 まさか大学生にもなって、少なくとも日本語が読めないはずはない。そうおっしゃる向きもおられようが、実は大学生になる上で、文章を「読む」力などほとんど必要がないのだ。試験問題に出てくる文章のパターンなどほとんど決まり切っていて、センターなんか結局は5つの選択肢のうちから1つの異質なものを選べばよいのだから、せいぜい「当てはまるものを選べ」と「当てはまらないものを選べ」という2パターンの日本語さえわかればいい。(ちょっと極端か)

 私たちのような理科系の大学受験生にとっては、二次試験で「現代文」の試験が出ることなどほとんど考えなくてよかった。医科大学によっては、面接・小論文という形でその受験生の日本語力を試すところもあるが、まあ試験問題のパターンとしては決まり切っているので、対策の方も知れようというものだ。

 実際、予備校でも「小論文」の講義は用意されていた。だが、それが夜遅い時間帯に開講されていたせいと、北海道の医学部受験における「黄金パターン」を採ることに早々にして決めてしまったおかげで、他の科目に対する予習・復習の時間を勘案した上で「小論文は訓練しない」ことにした。

 何事にも反動というものはある。ここに何のかんのと書いているのも、そのときの「反動」のせいであろう。


 閑話休題。

 大学に入って、「読む力がない」と感じたのは、やはり大学指定の教科書を見たときだった。いくら読んでみても、中身が全く頭に入った気がしない。と言うのは少し極端だが、教科書に書かれている文章のうち、どこが「理解」すべき場所で、どこが「記憶」すべき場所なのか、ということがさっぱりわからないのだ。

 はてはこのオレも、LD児(学習障害児)の一人なのではないか、と思ったことさえあった。


 しかしながら考えてみれば当然すぎるほどの当然な話で、私はそれまで大学に入るまでの学習で、まともに「教科書」なるものを読んで理解したことがなかったのだ。

 もちろん、小説のたぐいは人並みに読んでいた。だが、基本的に教科書というのは、数学にしても理科にしても「これ以上の範囲から問題を出すことはないから、ここまで勉強していればよろしい」という一種のルールブックのようなものだ、とどこかで考えていたのだ。

 今どき、「教科書さえきちんと理解して読んでいれば、それなりの大学に入学できる」などとは誰も信じていないだろう。(もっとも、数年後には大学全入時代が到来するので、文部科学省のお役人が言いそうな「理想」が実現するのかも知れない。)

 従って高校時代、化学の教科書は実質「チャート式新化学IB・II」だと思っていたし、(実際高校の検定教科書も数研出版だったので、ほとんど似たような構成だった)社会科で受験科目に選択した政治・経済では、検定教科書よりも「資料集」の方に慣れ親しんだ方が得点力につながるのを熟知していた。生物も、教科書よりも様々な図が載った「資料集」の方にたくさんの線を引いて覚えていた。大学入試の生物は、「実験の結果から何を考察するか」という思考力を試すよりも、「過去行われた有名な実験の方法・結果・導き出された結論を、それぞれきちんと覚えておく」ことが点に結びつくものの方が多い。

 だが、こうした「資料集」や受験参考書には、きちんとした論理関係を持った文章が並んでいるというよりも、図や表を駆使して「ビジュアルに訴えかける」路線のものが主流であった。これを理解するのには、ほとんど文章の読解力や構成力といったものを必要としないが、それが受験成功への近道であった。


 「書く力」に関しては、大学受験の時点ですでに弱さを自覚していた。前述の通り二次試験では国語の試験こそ無いものの、生物では記述の問題が多く出る、そういう大学だったのだ。予備校でも、直前期に「生物記述対策講座」なるものを用意していて、これは私も受講したのだが、知っているはずのことをうまく自分の言葉で書けない、そういったもどかしさを感じる場面が多々あった。公平性を期する試験であるから、記述問題で満点解答を出すためには、いくつかのキーワードを逃さずに文章の中に盛り込めばいい。それだけのことだが、やけに難しいと感じたものだ。


 その当時 ---センター試験が終わって二次試験が始まるまでの間--- 浪人仲間
でも「本が読みたい」という渇望に駆られるものは少なくなかった。それほど、「まともな」本を読む機会から遠ざかっていたのだ。


 数年前、当時の有馬文部科学相が、中高生と直接の公開討論をする。そんな企画がNHK教育テレビであって、それなりに興味深く見ていた。番組の中で、ある生徒が「受験勉強で忙しくて、本を読む時間がありません。もっと本を読むことが報われるような仕組みにしてください」と言っていたのを覚えている。

 対する有馬大臣は、「なんで本を読む時間がないなんて言うの?僕の時代も、大学に入るためには、それは大変な試験があったのです。それでも受験勉強とは別に、本を読むことは十分に出来たのです。本を読む、読まないは、その個人の意欲の問題じゃないのかなあ。」というお返事であったと記憶している。

 私はそのとき、「ああ、この先生(大臣)は、実に優れた学生に囲まれて教職を送ってきたのだな」とも思ったし、「こういった考え方の人が大臣では、この先子供たちは大変になるな」とも思った。


 現在、日本で出版される新刊本は、1日180タイトルに近い(*1)と言われている。純文学からエロ本まで、こんなに図書が氾濫する時代にあって、果たして本を読むことはいいことだ、ドストエフスキーを読みなさい、文章を読んで理解することは大切な能力なんだと、次の世代に自信を持って言うことが出来るのだろうか。

 「てにをは」の使い方より、スタイルシートの書き方のほうが、生きていく上では大事なことだよ。いつかそんな時代がやってきても、私はあまり驚かないだろう。

*1 こちらの記事にある「日本では年間56~57万タイトルの書籍が流通し、毎年6万5000タイトルの新刊が出版されている。実店舗ではとても並べられないがオンライン書店ならそれが可能だ。また、実店舗では実際にその本を手に取ってみることができるという、オンライン書店にはない強みがある」という記述を参考にしました。


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 だから結局STEPとイヤーノートさえ読んでりゃいーんだよ、俺らは。「できった血液」は、いわゆるひとつの、ふきゅーのめーちょ、ってやつよ。

Sunday, January 30, 2005

紀伊國屋書店札幌大通本店閉店

 昭和47年より33年間にわたって札幌市の中心部に店を構えてきた紀伊国屋書店大通本店が、本年1月31日をもって閉店する。
 (閉店するのはテレビ塔前の地上1,2階部分であり、大通地下街オーロラタウン店は営業を続ける。)

 テレビ塔前の紀伊国屋の大看板は、「札幌大通」のシンボルの一つとも言えるものであった。中学生時代から、札幌へ上ると必ず訪れる店の一つであり、大学に入ってからもよく買い物をした。

 まあ、最近の紀伊国屋大通店は、旭屋書店コーチャンフォーなどの売り場面積の大きな他店にも押されていた感がある。また、Amazonに代表される無店舗書店の進出も大きな影響を与えただろう。

 正直な話、医学書に関して言えば、札幌の中心的な位置を占める書店としては、品揃えが今ひとつであった。ただ、医学書「専門」の書店は北海道には皆無といっていい状況で、一番品揃えがいいのは北大生協、とまで言われたこともあった。

 しかしながら、そのページを一度も開いたことがない本を、ネットでいきなり購入するのはかなり勇気の要る行為である、と私は思う。書店の店先で数ページを繰ってみたのものの、その場で購入する気にはならず、それでも後日やはりあれは買っておけば良かったのに、という本がかなりあるものだ。地方に暮らしていたときは、次に札幌に出るまでそういう本を手に入れる機会は無かったわけで、だからある程度の金額を懐に、少々「余分」と思われるものまで「買い付け」に出てしまうのが恒例だった。そのクセが今でも後を引いているような気がする。

 そういう意味でネット書店の存在は大きいのだが、実際の本を手に取る機会が減る、というのは、いろいろな意味で勿体ない気がする。米国のAmazonなどでは、一冊の本のうちあらかじめ用意された数ページを画像ファイルとして読むことが出来るが、主に索引や目次などのページであり、あれで買う、買わないを決定するには少々無理がある。


 大通店が閉店する代わりに、4月上旬札幌駅周辺に紀伊国屋が大型書店をオープンさせるそうである。現在売り場面積では北海道最大と言われている、小樽の喜久屋書店、コーチャンフォー・ミュンヘン大橋店をしのぐ規模の店舗にする予定で、まあオプションが増えるという意味では大変結構なことである。・・・となると札幌ロフトの紀伊国屋はどうなるんだろう?

 しかし、電器屋にしてもそうなのだが、最近同じような系統の店が札幌駅周辺に出来過ぎである。ヨドバシカメラとビッグカメラとベスト電器が札幌駅を取り囲むように出店しているのだが、明らかに駅前に電器屋が3つは多過ぎだ。実際3店のうちの、少なくとも1店は、明らかに出店の見通しを誤った、と言ってもいい状態なのである。

 あそこに3店舗も集中するぐらいなら、そのうち1店舗は大通に来てくれれば冬でも何とか歩いて行けたのに、と恨めしく思ったことが何度もある。マツヤデンキ、長崎屋が倒産した現在、大通にまともな電器屋は無くなってしまったからである。


 大通店が撤退した後も、前述の通り地下街の紀伊国屋は営業し続けるし、まだ三越の隣に丸善があるわけで、当面大通の書店事情は維持されるだろう。

 しかしながら、様々な地域で、それなりの規模で営業していた店舗が札幌駅から半径500mの圏内にどんどん集中していく動きは、かえって札幌という都市の魅力を奪ってしまうような気がしている。「北の大地」という表現は、私のもっとも嫌う言葉の一つだが、いくら何でも北海道の文化が集中しすぎである。

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 本日は北海道民、あるいは札幌市民でない方には全然興味のない話だったと思います。読んで頂いたそれ以外の方々、どうもすみません。

 参考:札幌大通テレビ塔周辺[Yahoo!地図情報]
    札幌駅周辺[Yahoo!地図情報]

Saturday, January 29, 2005

いわゆるひとつのrobots.txt

 robots.txtというファイルがある。これはあるディレクトリ内に置くと、そのディレクトリ以下に置いてあるファイルが、Googleなどの検索エンジンに引っかからなくなる、と言う魔法のおまじないである。正確には、検索エンジンに「ここの内容はあなたの検索範囲に含めないようお願い申し上げます」という意図を伝えるものだ。

 おまじないである、というのは、検索エンジンによってはrobots.txtの設定を全く無視してやってくる、はた迷惑なものが存在するからだ。たとえば、メールアドレスらしきものを片っ端から集めているspam業者の検索エンジンなどである。


 知っている人はとっくに知っているようなことをここにわざわざ書くのは、あるサイトで「このサイトではrobots.txtをこんな風に書いていますよ。よっぽど見られたくなかったんでしょうねえ」というような記述を目にしたからである。ふと気になったことがあったのだ。

 知っている人は知っている、と言う一方で、今ここでそんなものの存在を初めて知った、と言う方も多いだろう。普通はrobots.txtに向けてわざわざリンクを張るようなことをしないし、「私のサイトではこんなrobots.txtを使っています。どうぞごらんになってください。」という風に積極的にアピールしているところも珍しい。

 つまり、robots.txtは「絶対に見えないようには出来ないけど、出来ることなら他人に見られたくない」というファイルの一つである。

 あるサイト内容を一部の人間以外に見られたくない場合は、ユーザー名とパスワードを用いるBASIC認証を使う方法が有名である。だがrobots.txt自体に認証をかけてしまったら、検索エンジンはパスワードを知らないわけだから、検索エンジンがrobots.txtを読むことが出来ない。無意味である。

 従って、あるサイト(ここでたとえばhttp://www.example.com/とする)にrobots.txtが存在するかどうかは、手打ちでディレクトリを示す"/"以下に"robots.txt"を追加して、http://www.example.com/robots.txtとすることによって簡単に確認できる。


 行きつけのサイトで試す前に、以下のニュースを見てほしい。

 ACCS不正アクセス裁判、検察側は元研究者に懲役8カ月を求刑

 今回の事件では、元研究員はCGIフォーム送信用のHTMLソースを改変し、CGIの引数にファイル名を渡すことにより、CGI本体のファイルと個人情報が含まれるログファイルを取得したとされている。この行為そのものについては弁護側・検察側とも事実であるとして同意しており、公判では行為が「不正アクセス行為」に当たるかということが論点となってきた。
参考:slashdot.jp:ACCSがoffice氏に約744万円の賠償を請求

 CGIや引数といった、頭が痛くなるような言葉が出てくるが、問題となっているのは被告(通称office氏)が、サーバー設置者にとって見てほしくないファイルを、あるURLを打ち込むことによって簡単に見ることが出来た、というものである。

 office氏はこの結果、ACCSのサーバーにあった個人情報の一部を学会で報告し、「ACCSのサーバー管理はこんなにずさんなんですよ」と公表してしまった。これ自体は非難されて然るべき行為である。

 しかし、裁判の争点となっているのは、「URLを打ち込むことによって、簡単に見えるようなものを見てしまったからと言って、それは不正アクセス禁止法に触れるのか?」という点である。
 参考:不正アクセス行為の禁止等に関する法律

 もしこれでoffice氏が有罪になるようなことがあれば、たとえば「http://www.example.com/secret/以下のディレクトリは絶対にのぞかないでください」という、鶴の恩返しみたいな告知一つで、そこのURLを興味本位でアドレスバーに入力した人間を訴追することが出来るようになるわけだ。

 当然、あるサイトのrobot.txtを覗くことも、サイト管理者が積極的に許可していない以上違法となるだろう。

 やっぱり、どちらかが間違っているようにしか思えないのである。

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 昔、大学に入り立ての頃、師匠から「大事なファイルはそもそもネットワーク上に置くな」と言われた。今でも至言であると思っている。

Thursday, January 27, 2005

学習能力

 blogを更新する場合、まずブラウザを立ち上げ、ホスティングサービスの管理画面にログインした後、その日の記事をフォーム内に入力して、「投稿」ボタンなりを押す。これが一般的な手順である。

 ところが、blogサーバによっては、あらかじめ決められたメールアドレスに送信することによって、記事の投稿が可能であるところもある。goo blogなどでは、この方法が便利だったりする。

 bloggerにもずいぶん前からこの機能がついていた、ということを昨日知り、、早速試してみたのだが、メールのSubjectに当たる部分(記事のタイトルに相当する)がひどく文字化けすることに気づいた。しかも、メールから投稿した場合には記事内容が反映されるまでかなりのタイムラグがあったりする。

 そして気づいた。

 上のニュースが出た当時(2004年5月10日)、私は早速この機能を試してみたのだった。そして今と同じく「こら使い物にならん」とあきらめていたのだった。

 この分では春にやった分のアプローチとか大脳皮質から消え失せているんでは、と不安になってみたりして、と書きながら他人に無用のプレッシャーを与えてみるテスト。

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 でも「やらないよりは、やった方がまし」。ある意味投げやりにも聞こえるが、浪人時代、予備校の先生の口癖だったこの言葉は、ここ一番、と言うときに自分を支えてくれた言葉でもある。

Sunday, January 23, 2005

善人たちの庭

 以下に述べることは、しばらく前に受けた臨床講義の中で、ある先生が「小咄」の一つとして述べられたことであり、いわゆる「医学界の都市伝説」の一つぐらいに考えていただきたい。

 それはちょうど糖尿病の講義だった。
 えー、以上のように、糖尿病の合併症には、腎症、神経症、網膜症という重篤なものがあるわけです。

 少し前ですが、○○市の一角に、「糖尿病専門」の看板を掲げて、ある医院が建ちました。開業と同時に患者さんは満員。連日、糖尿病の患者さんでいっぱいになっておりました。

 その理由は何であったか。

 先ほど私が黒板に書いたとおり、糖尿病の治療法は、運動療法、食餌療法、薬物療法の三本柱であります。ところがこの医院では、「私の薬だけ、安心して飲んでなさい。」という大変優しい先生がやっておられて、他の内科医が言うような、「運動しろ」だとか、「食事の量減らせ」だとか、そういう厳しいこと全然言わないわけです。だから患者の間で大変評判が良く、人気があった。

 その医院が開業してから、数年たった頃。

 同じ町にある、眼科の医院が大変繁盛し出しました。そうです。件の「糖尿病専門」医院にかかっていた患者さんたちが皆、糖尿病性網膜症を来たし、眼科に受診する羽目になっていたのです。

 別の病院にいた我々は、このことについてあれこれと医局で茶飲み話しておりましたが、結局「あの医院の先生は糖尿病の治療が運動療法、食餌療法、薬物療法をそれぞれ使わなきゃいかん、ということを知らないんだろう。知らないんじゃしょうがない。」ということで落ち着きました。

 さて、ある日のこと。

 市内の医者を集めて、「現代の糖尿病を考える」というセミナーが開かれました。件の医院の先生も、市内で一番糖尿病患者を診ておられるということで、演者の一人としてお呼ばれになったのでした。

 その糖尿病医院の先生の講演内容は何であったか。

 「糖尿病の治療方針は、運動療法、食餌療法、薬物療法の三者がそれぞれ欠かすことのできないものであります」

 なんと、ちゃんと正しい糖尿病の治療方針を得々として語るわけであります。この日を境に、我々の間で彼の評価は変わりました。

 「あいつは犯罪者だ」と。

 こんな私にも、今日は少し「いい人」をやりすぎたのではないか、と自分で思う日がある。そんな時にいつも頭をよぎるのは、この話である。

Saturday, January 22, 2005

こっち側の論理、向こう側の論理

 茨城の病院(ATOKは「いばらぎ」でちゃんと変換してくれた)に勤めていた先生のblogに関する一件に関しては、いろいろ書くべきことがあるようにも思うのだが、とりあえず今は「面倒なことは先に延ばす」という方針なので、手抜きする。

 ざっと書いてみると、医者、特にジュニアレジデント(初期臨床研修医)なんて事実上病院が生活の場である以上、blogに書かれる内容が医療ネタに偏ることは当然であろう。それ以外のネタを書こうとすると、かなり無理がある。無理してまでblogは書く必要がないだろう。所詮ウンコなのだから。

 だが、どんなblogにも「サイトバレ」の問題はつきまとう。基本的にはいつ顔見知りの人間に、こんなことを書いていることがばれても、それほど人間関係に悪影響が出ないように注意して書いてきたつもりだ。だが、初めてweb上に日記を書き始めた頃 ---あまりblogなどという言葉は盛んでなく、トラックバックを通じて日記がリンクし合うことがなかった時代--- は、ある特定の人に読まれると相当まずいことになる内容も、「肝試し」の感覚で書いていた記憶がある。

 少し検索して、茨城の先生が書いていたとされるHPの痕跡を探ってみた。「ああ、あの人か」と、私も以前数回ほど見た覚えのあるところだった。

 医療者側、つまり「こっち側」の論理から書かれたblogについては、ちりん師がまとめてくださっている。私は、「向こう側」つまり、医療者でない側の方の視点に興味があったので、少しまとめてみた。あえてリンクを張らず、下記のURL元にはトラックバックも送っていない。やや不親切だが、リファラを探られると前述の「面倒なこと」になりそうなので、ここはアドレスバーにコピペでお楽しみください。

(以下のURLは随時増える可能性があります。)

まず、ここが一番厳しいコメントを出している。何をやっていて有名な人なのかは、あまりよくわからないが「有名そうな雰囲気」はよく出ている。。
http://www.dryamasaki.com/Article/2005/2005-01.html#050115
〔追記〕
医療関係者等のblog[1,2,3,4,5等とそのリンク先]によると、単にウェブに書くことだけをしなければよかった等の軽い見方が大半で、この医師の人間性を問うものはありません。厳重注意だけでよいという意見も見られます。刑事罰さえも予想される深刻さが分かっていないようです。

 なんだかいつも私がお世話になっているblogが数件ここで晒されていますが・・・。あんまり書くと「堂々と戸籍上の氏名並びに住民票上の住所を明記して、書面にてこちら(私の顧問弁護士)宛」に書かなきゃならなくなるので、こんくらいにしときます。

 あ、でも断じてこれは「不服」じゃありませんから、残念!

 他、bulkfeedからざっと検索してみた。まあ今の国内情勢から考えるとそれほど大きく扱われるニュースでもないので、「こっち側」の方々に比べるとやや内容は薄目である。
http://hasemana.cocolog-nifty.com/main/2005/01/post_83.html
http://blog.goo.ne.jp/meowcat/e/0af8ef9e88cad1683b18e609be27c281
http://markzu.exblog.jp/1569900
http://markzu.exblog.jp/1547319
http://power-power.blog.ocn.ne.jp/power/2005/01/post_13.html
http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/PrinceOfLuna/eid/86576
http://otkortho.exblog.jp/1787086
http://blog.goo.ne.jp/goocamry/e/31e69ad443de77b115ba722d74df66fb
http://blog2.fc2.com/luckyclover/?no=46
http://blog.goo.ne.jp/krkrkn/e/9f568ab8a4eea2935047d4ae12edbea1
http://yaplog.jp/chocomama23/archive/86
http://blog.goo.ne.jp/shiratori-chikao/e/67f923822c1e4b833de7cc8b2c0d81ff


ちょっと毛色が違う
http://yakkotai.at.webry.info/200501/article_6.html

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 ここ? 大丈夫ですよ、ここは。
 だって「医療系ブログ」じゃなくて「軍事系ブログ」なんだから。

Friday, January 21, 2005

ニュースを食らう

 昔々、雪印食品という会社があった。(親会社の雪印乳業はまだ存続している)。私は、毎日給食に配達されてくる雪印牛乳を飲んで育ったし、信じられないような味がする給食の中で、唯一雪印の牛乳はいつも心休まる味を提供してくれていた。

 だからある日、大阪で雪印の牛乳を飲んだお年寄りが下痢を起こして亡くなったと聞いたとき、はじめに思ったのは正直こういうことだった。「え、雪印の牛乳飲んで下痢したんなら、下痢した方に問題があるんじゃないの?」だがその後、問題の牛乳は追跡調査され、ついには北海道酪農界のシンボルとも呼べた、雪印大樹工場でブドウ球菌毒素が検出されるに至り、我々田舎道民の持っていた「そんなことがあるはずがない」という絶対の自信は根底から否定されることになってしまった。


 なかなかこういうことを道外の方に言っても理解されがたいと思う。だが、北海道なんて札幌をちょっと離れてみれば、牛にはよく遭遇するし、牛乳を満載したタンクローリーを運ぶためにあるような国道はいっぱいある。

 もう一段たとえを使う。あなたは山間の小さな町で生まれ育った人間である。小さい頃、そこのきれいな沢で遊んだこともあるし、野山を駆け回った思い出もある。ずっとそこの水を飲んで育ってきたし、やがて成長して都会に出た後も、ふるさとの水が一番うまい水だと思っていた。だがある日、保健所が検査したところ、その飲み水には相当量のヒ素が混じっていたことが判明したのだ。

 おそらくこのときあなたが感じるものは、怒りや失望といったものより、「信じられない」「ただただ驚きあきれるばかり」と言ったことではないだろうか。大学1年当時、、私の周りにいた仲間たちの間でも、事件に対する感想は似たようなものであった。特に、過疎地域出身者にその傾向が強かった。


 さて、以前「○○して食う、という表現。 」ということについて書いた。このとき私は、「そもそも土に触らずして食べている人間が、食い物に文句をつける権利があるのだろうか」と記している。また最近、「自ら経験しないものを信じることについて」ということを考えた。それらを振り返りながら、もう少し考えを進めたい。


 最近時間が無くて加工食品漬けの毎日を送っている。大袈裟に言えば私は、食品を、自分で作物を育てたり、家畜を飼ったりせずに、工場だの市場だのスーパーだの、流通機構を介して手に入れているわけだ。こうした行為によって「食」を得ている以上、その食品がどんな場所で作られたか、どんな人間によって作られたか、どんな加工が為されたのか、どんな場所で保管されたのか、私はいちいち知ろうとしない。それでも私がそれを食べるのは、「とりあえず食っても死なない品質のものをつくっているだろう」という、生産・流通機構に対する一応の信頼があるからである。

 ジャスコなどは「トレーサビリティー」をウリにしているが、店頭にある「この牛肉は甲県乙村の某さんが有機飼料で育てました」という書き文句を信じるかどうかは、すなわちジャスコという会社を信頼するか、という問題と同義である。

 店頭に並んでいる食品の中から、より新鮮で、栄養価の高そうなものを選んで購入する、というのは消費者の知恵であり、権利でもある。また、実際に食べてみた食品が腐っているかどうか、判断ができる舌を持つというのも、人間として大切なことだろう。

 だが基本的には、スーパーは売る商品一つ一つの品質に対し、責任を負うべきである。午後4時半に店に現れる目の肥えたおばさんにも、8時頃すっかり品数の薄くなった売り場をとぼとぼとぼ漁るしがない学生にも、最低限「腹をこわさないもの」が届くようにしなくてはならない。たとえ99個の新鮮でおいしいリンゴを売ったとしても、1個の腐ったリンゴを売ってしまったら、スーパーの信用はがた落ちになる。


 最近、「メディアリテラシー」という言葉が語られてきている。もっとも、メディア自体は積極的にその言葉について広めるようなことをしないのであるが。ここでは、「情報」というリンゴを扱うスーパーとして、メディア(新聞、雑誌、テレビなど)を考えてみる。

 もちろん多くのニュースを見聞きし、その多くの情報を自らの頭で分析し、どのニュースが真実で、どれがそうでないかということを考える能力を身につけるのは、大切なことである。スーパーのたとえでいえば、リンゴを買うのにさんざんこね回し、指でぐいぐい押してから選ぶおばさんみたいな態度である。

 だが残念ながら、すべての「客」がそれだけのヒマと労力のある人間ばかりではないのだ。多くの客は、明らかに汚れていそうなリンゴを避ければ、とりあえず大きくておいしそうなにおいをするのを一つ選んで、次の売り場へ向かうだろう。戦後の復興期みたいに栄養失調の時代じゃないから、まあそれでも特に問題は起きないで、毎日過ごすことが出来ている。

 同じことがニュースについても言える。日々流されている多くのニュースについて、忙しく働くマジョリティーには、「自らの頭で考え、分析する」余裕などほとんど無いだろう。従って、多くの人々が、「XX新聞という信頼できるメディアが報じているのだから、おそらく本当のことなのだろう」といった判断に頼らざるを得ない。ちょうど、「これだけでかい店出してるジャスコが、某さんちの牛だと言っているから、そうなんだろう」と同じレベルである。

 食品会社とは、そもそも少々免疫力の弱い老人や子供が食べても大丈夫だと言いきれるほどの品質基準で、食品を製造するべきであった。それが資本主義社会における企業責務というものであり、雪印乳業はこの基本的な責務を怠ったがために厳しく糾弾されたのである。

 果たしてメディアは、少なくとも事件以後の雪印乳業と同じだけ、自らの製品に対する品質保証をなし得るのだろうか。私にはとてもそうは思えない。「さあ売りました、安全に食べられるかどうかはあなたの舌にお任せします」では、まともな企業の態度では無いだろう。自らの看板に過度の自信を持ちすぎて、情報の品質管理を怠ってしまったメディアは、一度雪印のようにガラガラポンした方が良い。

 「メディアリテラシー」という言葉が、可能な限り正確な情報を提供するというメディアの責務に対する免罪符になってしまっては、本末転倒である。

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 それでもやはり、「土に触らずして食う人間」は、添加物、合成甘味料だらけの、どこから来たかも本当にはわからない食物を食うリスクを背負わねばなるまい。

Thursday, January 20, 2005

Lunascape2登場

 いつの間にかWindows用タブブラウザ、Lunascapeもversion 2系列が登場していたので紹介しておく。

http://www.lunascape2.com/

 version 1 からの大きな変更点は、IEとGecko系の双方のHTML解析エンジンを使い分けられるようになったことである。これは相当すごい。

 そんなものどっちがどっちだろうと大して変わらんだろ、と言う方もあろうかと思う。とりあえずIEと、Gecko系ブラウザ(前述したMozilla Firefoxなど)の違いを簡単に示す。
 私はブラウザを立ち上げたとき一番はじめに表示されるホームページに、ローカルのHTMLファイルを置いている。このHTMLの見え方からしてすでに、それぞれのブラウザで違って見えるのである。










(背景はQueen's Handmade Cookiesより)
 左がIEエンジン、右がGeckoエンジンを用いたときのHTMLファイルである。外枠が二重か一重かの違いだが、こうした微妙な見え方の違いは、サイト構築の際に結構気になるものだ。
 参考までにこのHTMLのスタイルシート指定を示す。
BODY { background-image: url("sub/wp-bub007.gif");
font-size:12pt;
font-weight:900;}
a:link {color:#000000;}
a:visited {color:#000000;}
H1.title {background-color:#40C040;
text-align:center;}
TABLE.palam1 {width:100%;
table-layout:fixed;
border-color:#40C040;
border-spacing:0px;
border-style:solid;
}
TD.palam2 {top:2px;
border-color:#40C040 #40C040 #40C040 #40C040;
border-color:#40C040;
border-style:solid;
}

 まあ枠線がどうのこうの言うのも細かい話だが、先日ある友人のblogに対し、まあ実際面識がある相手なので「あまりに字が小さいので読めんではないか」と文句をつけたことがある。渋々ながらも快く改変に応じてくれたのだが、今度は「こんなに大きな文字ではサイトのバランスが崩れるではないか」とメッセンジャー上で不毛な論争になった。

 視線をちょっと右に移していただければわかるとおり、普段私はFirefoxを愛用しているののだが、後日その友人のblogをIE系のブラウザで訪れてみると、なるほど確かに文字がでかい。どうやらIEとGeckoでは、フォントのサイズ指定要素small,midiumなどの解釈順位が異なるらしいのだ。

 こんなこともあるから、ご用心。


 とりあえず私の感想として、両者を比較した上でLunascape上を使うメリットは、Firefoxのように様々なExtensionを導入しなくても「とりあえずインストールしてすぐ使える」仕様にあることだろうと思う。Firefoxだと本体の他に、Tabbrowser Extensionの導入や、検索バーのカスタマイズなどをしておかないと、なかなか使いにくいかも知れない。

 逆にFirefoxの優位性は、様々なプラットフォーム(OS)上で運用できることだろう。世の中Windousユーザばかりではない。現に私は、このblogは少なくとも一人のlinuxユーザが訪れることを知っているので、基本的にGecko系ブラウザでの見え方を標準としてスタイルシートを作るように心がけた。また、version2になってからLunascapeの起動が若干重くなったようだ。

 所詮ブラウザの選択なんか「信仰」と言ってしまえばそれまでだが。

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 IEでもGeckoでも両方同じように見えるように、と考えたあげく、HTMLの内容を結局全部AA混ざりのテキストで書いてしまったことがある。

Friday, January 14, 2005

高脂血症考。

via ちりんのblog

 高脂血症治療薬云々で思い出す一冊の本がある。これである。私は書店の店先で立ち読みしただけであるが、様々な意味で「怖い」本である。正直、この本を買うと印税が著者に入り、訴訟費用に使われてしまうのか、と思うと財布を開く気になれなかった。

 確かに、スタチン類と呼ばれる一群の抗高脂血症薬には、「横紋筋融解症」という重篤な副作用が生じ得ることが知られている。そもそもスタチン類はコレステロールの体内合成を抑制する作用のある薬剤である。だが、コレステロールは人間の細胞膜を構成する上で必須の成分でもある。従って横紋筋融解症とは、スタチン類を過剰投与すると、ときに細胞膜成分が崩壊し、主に筋肉細胞が融解してしまう、という病態である。このとき、細胞の中にあったクレアチンキナーゼ(CK)という酵素が血液中に出てくるので、この値の上昇を見逃さないのが早期診断における重要点であるとされる。

 しかし、この本を読むと、初発症状が出た段階でCKの上昇が見られなかったという。そのときの医者の言い方が「何だ、このくらいのCKの値で、心配するな!」というような言い方だったそうで、それが著者のカンにさわったらしい。他にも様々なところで著者の「怒り」は炸裂している。

 いろいろWeb上を調べてみると、この著者の病態は横紋筋融解と言うよりも、むしろスタチンの服用中に、薬剤とは無関係に発症したALS(筋萎縮性側索硬化症)ではないのか、という意見をお持ちの先生方も多いようだ。だが、著者はAmazonのカスタマーレビューを始め、そうした意見を公表しているところに対し名誉毀損での訴訟をちらつかせるなど、徹底的に攻撃を加え、潰しにかかっているようで、またそのことを自分のHP上で堂々と公表している。(本当に怖いからHPにリンクは張れません。検索すれば簡単に見つかる。)

 語弊があるかも知れないが、こうした「医療クレーマー」とも呼べる人々が確かに存在するということを知っておく上で、この本は読んでおく価値があるのかも知れない。


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 高脂血症薬の処方法に関して、「じぶん更新日記」の方が述べられていることには一理あるだろう。日本の保険医療制度では、一回の診察につき処方できる薬剤は原則2週間分だけ、例外として4週間までである。しかし、高脂血症に関して言えば、薬の治療効果を見る上で本当に必要なのは3ヶ月から6ヶ月に1回の診察でいい、という意見も少なくないようだ。

 しかも、実際は診察せずに薬を処方することは違法、というタテマエがあるので、「お薬だけ」という時でも、書類上は診察料を請求せざるを得ないのである。これでは、患者側からしてみれば「なんかインチキしてるなあ」という気持ちになってしまうだろう。

 重篤な副作用を防ぐという視点にしてみたって、大事なのは「1ヶ月に1回くらい形ばかりの診察をする」ことじゃなくて、「手足のしびれ・けいれん」だとか、何かヘンだなと思ったときすぐに診察に来られるような体制を作ることじゃないのだろうか。そう考えると、必要以上に頻繁な経過観察の目的で、外来をふさいでしまうような現行の保険システムこそ、医療資源の配分上ずっとまずいことをやっているのではないか、と思う。

ウイルス性腸炎考。

 なんだか最近ロタウイルスだのサポウイルスだのSRSVだのと、「ウイルス性腸炎」に関する話題が盛んである。

 今回は老健施設で死者が出たと言うことで、マスゴミ各社も大いに取り上げているのだが、たとえ食中毒にしろ、健康な成人がウイルス性腸炎で死に至ると言うことはなかなか稀な出来事である。

 また、同じ飲食店で食事を取った人々が同じ症状を呈している、というような食中毒を示唆するような情報がない限り、実際にウイルス感染を証明する努力(糞便培養など)を、腸炎に対して行うことは少ないのである。ウイルス性腸炎に特徴的な所見は少ないし、画像や血液検査などで特異的なものがあるわけでもない。(だから老健施設の理事長先生も診断に時間を要してしまったのだろう、と僭越ながらお察し申し上げる。)

 そこで、「ウイルス性腸炎」は事実上、「よくわからないハライタ」に対してつけられてきた診断名であることも否めない。

 たとえば19歳の少年で、急に腹痛と下痢を起こしたと言って来院しているが、見たところは健康そうで、腹部所見もグル音低下ぐらいで、発熱もなく、血液も特に所見を認めないといった症例を考える。鑑別診断としてはそれこそ炎症性腸疾患(クローン病や潰瘍性大腸炎など)から「過敏性腸症候群」まで、いろいろとある。だがこの年齢の患者に対して大腸ファイバーまでやる意味は、あまりない。もちろん症状が反復したり、便に血が混じっていたりする場合は話が別だが。

 一言で言えば、そういった「おなかを壊す」はcommon diseaseの一つであり、「かぜ」と同様、病院に来ても来なくても大して予後は変わらないものの一つである。しかし、現に患者が心配して病院に来てしまっている以上、何とか病名をつけてしまわなければならない。でないと点滴一本、整腸剤一包にも保険が出ない。

 こういったときによく使われるのが「ウイルス性腸炎」だったりするのである。

 逆に言えば、こういった「あわてる必要のない腹痛」と、腹膜炎や急性膵炎、イレウスといった「本当に処置が必要な腹痛」をきちんと見分けられるかどうか、ということが医者の力量ということになる。


 それを踏まえた上で、例年この時期、センター試験の季節になるとフッと頭をよぎることがある。

 今年は57万人近くの受験生が出願しているそうだが、これだけの数がいればそのうち何人かは、試験当日緊張のあまり寝過ごす奴がいるに違いない。真っ青になった受験生のがまず考えることは、1週間後に行われる「センター試験再試験」を何とか受験できないか、ということだろう。当日急いで受験会場へ赴いたとして、一科目でも受験してしまえば、当日分の全科目について再試験を受ける権利を失うことになっている。

 従って、何とかして医者の診断書を取り、東京での再試験を受験するのが得策なのだが・・・。こういった患者が来たとき、「ウイルス性腸炎」は実につけやすい診断名だろうが、どうやら今年に限って言えばそうでもなさそうだ。「また集団食中毒か」とニュースになってしまう。

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 もちろん、診断が疑わしいものを診断書に記載するのは医師としての責任に反すると言えるし、その対価として金品を受け取れば収賄罪や業務上背任に問われることになるだろう。

 しかし、自分も浪人時代を経験し、一年間を受験対策に費やすということの重さを知っている。医者になって、思い詰めた少年の顔を前にしたとき、当日の日付の入った診断書を書く罪と、将来ある若者の、何十分の一かの人生の時間を奪ってしまうことの意味、果たして自分はどっちをとるんだろうなあ、と考えてしまう。人生この先頼むからそういう患者に出会いませんように。

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 私も国家試験の当日寝過ごしたりしませんように。1日目はいいとして、2日目、3日目の朝とか疲労がたまってて危ないと思うなあ。他の大学とか4年生が起こしてくれたりするんだろうなあ。いいよなあ。

Tuesday, January 11, 2005

医者の「医」の字には酒がある

 お久しぶりに、JIRO氏の日記へリンクさせていただく。

 まず酒は体に悪い、という科学的論拠について。国立がんセンターが大衆向けに発表している「がんを防ぐための12ヵ条」では、「お酒はほどほどに」となっている。ここも以前は「飲酒は少なければ少ないほど癌にかかる可能性が低い」という表現になっていたはずだが、少量のアルコールが虚血性心疾患、つまり狭心症や心筋梗塞を有意に減らすというデータが出てから、循環器学会との関係上穏やかな表現になっているようだ。

 癌だけに注目したとき、現在までの知見から論ずれば、アルコールの摂取量が0に近づくほど発癌可能性は低くなることに変わりはない。ちなみに、「アルコール摂取によって虚血性心疾患のイベントが少なくなる」と主張する循環器内科・外科医が、滅多に癌を専門とすることはない。だからといっては何だが、この分野には大酒家が多く、また「飲める」ことを自慢にする方が多いような気がする。


 さて、感情的な表現が出てきたので、ここからは情緒的に書くことにする。

 私は喫煙という行為も、飲酒という行為も本質的には嫌いである。だが、人間には「嫌いなことを好む」という特性が確かに存在する。その特性のために、子供はニンジンを食えるようになるし、どうしようもないデブが水泳でも始めてみようか、という気になるのである。この特性については、「パイプのけむり」の第何巻だったかは忘れたが、團伊玖磨先生も「アイス・クリーム」という題で随筆を書かれている。

 そういうわけで、私は機会的に喫煙も行うし(3ヶ月から半年に1度)、機会的に飲酒も行う。しかし、本質的にその行為は嫌いである。


 私の親類には、公務員が多く、父親もその一人であった。その関係上飲酒・喫煙には厳格であった。高校生であった時分、電車の中で隣の実業高校生に紫煙を吹きかけられながら、未成年がタバコや酒などとんでもない、ましてや医者を養成する大学ではその点実に厳しい規律があるのだろう、と考えていた。


 医科大学に入ったその日に、私は飲酒の習慣を学んだ。入学式終了後、ある部に勧誘された。その部の先輩に連れられて行った、寿司屋で飲んだビールが生涯初めての酒である。ジョッキを傾けながら、医学部という世界には、この世界なりの独特のルールがあることを感じた。その後ルールブックにはずいぶんな厚みがあることに気づいたし、中には白い文字で書かれていて読んだ気もないのに頭の中に入っているものが多々あるが、この日学んだのが、その第一ページ目だった。その数日後、教授を交えた席で未成年の1年生が大部分の中、当たり前のようにビール瓶が次から次へと運ばれてくるのを目にしたとき、その思いは強まった。

 そのときのある教授の弁が面白い。「喫煙は、若年から吸い始めるほど体に悪いという証拠があるが、酒には1年やそこら先に飲み始めたからといって大差あるという証拠はない。」このエビデンス、今に至るまで私は確認していない。

 その後酒を飲む機会は多々あった。だが、どの席においても、医者というのは酒に甘い。医者の「医」の字はその昔「醫」であって、酒の字を含むが故に医学と酒は切り離せないのだ、といえば聞こえがいいが、必ず酒を飲むよう強制したり、酒がたくさん飲めることがあたかも美徳であるがように振る舞う場面は数え切れないほど見てきた。


 医学生ならば、誰しも生化学の講義でアルコールはALDH(アルコール脱水素酵素)によって代謝されること、酒が飲める飲めないはその個人個人が生まれつきに持つALDHの活性によるところが大きく、「訓練すれば飲める」ものではないことは耳が痛くなるほど聞かされているはずであるし、試験の答案用紙にも書いたことがあるはずだ。

 それでも、今述べたような習慣や価値観を覆すことはできないでいる。もし酒席で今のような「タテマエ」を持ち出せば、たとえ医者、医学生同士の間柄でも「あいつは日本文化を理解せん奴だ」などと言われ、何かと人間関係がやりにくくなってしまう。「僕はカラオケやりませんから」などと同じレベルで、「本当の自分を見せたがらない奴」という評価になってしまうのだ。面白いことにこれがタバコだと、比較的素直に聞き入れられることが多い。(まあそれでも、不愉快そうな顔をされることぐらいは覚悟しておかなければならない)


 医科大学で6年間やってきて、未だに否定できない疑念がいくつかあるが、その中の一つに「実はマリファナは体にいいのではないか」というものがある。私が知っているのは、「マリファナは違法である」という知識である。実は文献的、実験的にきちんと調べていくと「マリファナには実に有用な成分があって、多くの人を苦痛から救い得いる可能性がある」という結論に達するのかも知れない。

 だが、公衆衛生の実習などでテーマを立てるとすれば、「マリファナやコカインのについて」とするのが「賢い医学生」のやるべきことである。なぜなら、たとえ「マリファナは実はいいものだ」という結論に達したとしても、一般に通用している社会的・倫理的通念上教授は「その結論は間違っている。あなたの選んだ文献・資料には偏りがあったに違いない」というコメントしかつけようがなく、成績得点は低いものにならざるを得ない。


 従って、試験問題の選択肢に「患者に禁煙を勧める」というものがあれば間違いなく○をつけるし、「麻薬中毒患者を診断したときは通報する」というものがあればこれも間違いなく○をつける。そのおかげで、「正しいものを2つ選べ」式の問題がずいぶん楽になる場面も確かにあるが、決して自分の信念と一致しているわけでは、ない。(いや、でもマリファナはやっていませんから安心してください)


 酒税法だとか、JTと酒造メーカーの経済的影響力とか、また禁酒法時代のアルカポネだとか、そこらへんのことを考えると、タダでさえ不景気な世の中、「酒はいかん」という方向へ世論が動くことは無いのだろう、と考えている。

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 歴史あるところの玄関には、立派な大理石に必ず旧字体で「醫學部」と刻んである。うちのところはカマボコ板に魚屋のオヤジが墨汁で書き付けたような看板に「医学部」と書いてあるだけである。
 高校時代こっそり見学に来て、この看板を見たとき、正直「ここには通いたくないな」と思った。そういうところには、受かるのである。少なくとも私の人生は、そういう風にできている。

Sunday, January 09, 2005

雲考。

今年のかぜはハラに来るという。

ヒロシマだかキタキューシューだかではお年寄りが亡くなったらしいが、私たちからしてみればヒロシマもキタキューシューもコートジボアールやパプアニューギニアみたいなもんなので、そこがどんなところだか、よくはわからないのだ。

だが、これだけはいえる。

今年のかぜはハラに来る。

私は体験した。

ギョーカイ人だけにわかる符丁で言えば、

「イチゴゼリー」

であった。

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 コキューキナイカやカンセンショーカの先生方に言わせれば、「ハラに来るかぜなど無い!」とおっしゃるかも知れないが、ここは一つ大目に見てほしい。

Wednesday, January 05, 2005

日記再考

 1月である。

 そろそろ、どこの6年生のblogを見ても、それぞれのやり方で「余裕を無くしている」さまが観察できて、やはりオレだけではないのかと気づき、それはそれで大いに楽しいのだが、1日からネタで始めてしまった以上少しまじめに書いてバランスをとることにする。


 多くの人々が1月から日記を書き始める。公衆の目に触れるblogというものと、純粋に私的なことを備忘録として書きつづる「日記」というものは本質的に区物されるべきもので、後者は「読み手」の緩やかな強制力が働かない分、続けるのが非常に難しい。

 私は毎年一冊、見開き4日間の日記帳を購入する。別に自筆でその日あったことを書き込もうというのではない。そういう試みは、まず成功しない。

 都市に住み、他人の作ったものを食らうと言うことはとりもなおさず、金を使うと言うことだ。金を使えば、多くの場合レシートをもらえる。つまり、レシートを日記帳の日付欄に貼り付けているのだ。

 この日記帳を整理して、交遊費にいくら使っただの、食費にいくら、軍事費がいくらだのと細々とした「家計簿」にすれば小金が貯まって良いのだろう。だが、元々「使うときには使う」性格なので、そのようにはしていない。

 しかし、札幌で一人暮らしを始めてから都合7冊、このレシート帳が存在するわけで、そのページを繰ってみると、自分がその日、どこにいて、どんなことを考えて経済活動を行っていたのがが、おぼろげながらも思い出されてくる。そのくらいの効用はあるものだ。

 引っ越しに備えて、そろそろ自分の身の回り品を処分しなければならないときが来ている。だが、この多分にかさばるレシート帳を捨てるべきなのかどうか、今ひとつ踏ん切りがつきかねている。

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 カードの利用明細なども、とりあえず張りまくっているので、捨てるときはよほど注意して「焼く」かどうかしないと、個人情報から体重まで丸裸にされそうで怖い、ということも理由の一つである。

Saturday, January 01, 2005

Sunday, December 26, 2004

日本版「民間防衛」配布へ

弾道ミサイル対策、政府が「サバイバル指南書」作成へ[Yomiuri Online]
 政府は25日、弾道ミサイル攻撃や生物・化学(BC)兵器テロを受けた際の効果的な避難方法を説明するパンフレットを、2007年度に国内の全世帯に配布する方針を固めた。
(中略)
 パンフレットは2部構成とし、国が作る第1部には海外で実際に効果があった避難ノウハウなどのほか、地震や津波など自然災害への対応策を盛り込む。第2部は自治体が作成し、地域事情を踏まえた具体的な緊急避難先などを示す方針だ。

 以前紹介した「民間防衛」だが、同様の物を我が国でも配布するようだ。

 この種のパンフレットを作成する上で、一番困難と思われるのが政治的「中立性」をいかに確保するか、ということだ。一つそこを間違えると、作成の段階で様々な方面から圧力がかかり、結局出版までこぎ着けることができずに終わるだろう。

 一つ例を挙げる。スイス政府編「民間防衛」では、「避難に際して準備すべき物」として、ろうそくや食料、ラジオといった生活用品の他に、堂々と「聖書」を挙げている。これはいかなる事態が起こってもスイスの国教はキリスト教であり、来るべき避難生活において究極的な精神的支柱とすべきである、という思想に基づいている。

 しかし、今年は米国でも「"Merry Xmas"ではなく"Happy Holidays"を用いるべきだ」という議論が持ち上がっているくらいである。およそ宗教に限らずとも、政治的中立性 -political correct- というのは世界がグローバル化し、一つの国家の中に複数の民族が同居するのが当然となった現代において、避けては通れないテーマである。

 しかし、「他国からの攻撃」を想定する以上、パンフレットの方もそこを避けて通るわけにはいかない。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することが前提の憲法の下で、果たして「悪意を持った他者」の存在を政府がどのように表現するのか、その点だけでも今から興味は尽きないのである。

Tuesday, December 21, 2004

病院は善意の客を前提にしている

総合病院で入院患者ら3人死傷[asahi.com - gooニュース]
 浅見容疑者は肝臓がんなどで10月14日に入院、内科治療を受けていた。包丁は以前から病室に持ち込んでいて、調べに対し「助からない病気なのでやけになっていた。普段からベッドをのぞかれていた」などと供述しているという。亡くなった2人は、脳梗塞(こうそく)で今月に入って入院したという。現場は東病棟の3階の8人部屋。通報で駆けつけた同署員が浅見容疑者を取り押さえた。

凶器の包丁、見舞客に依頼し入手か 病院入院患者殺傷[asahi.com - gooニュース]
 この男性は「果物を食べるのに使うので買ってきて欲しいと頼まれた」と話しているという。同庁は、浅見容疑者が事前に犯行を計画した可能性もあるとみて調べている。

 臨床実習に入る前受けた前期OSCEの時のことだが、「医療面接」の講義で、教材となるビデオを供覧した。ビデオのナレーションは言う。「医療面接の現場では、患者のプライバシーが十分守られるよう、配慮しなければなりません」。

 なるほど画面に映っているのは、実に立派な壁で区切られた診察室である。厚い扉がついていて、会話が外に漏れる心配もなさそうだ。

 うちの大学病院を含めて、多くの病院の外来ではせいぜい樹脂板と鉄パイプでできた衝立があるだけで、隣の診察室の会話内容が聞こえてしまうような構造になっているところが、まだまだ多い。

 ビデオ画面の「お手本」は、まるで会社の応接室のように立派な個室だった。そこで医者(役の俳優?)と患者(役の俳優?)が一対一の医療面接をしてみせるのだが、私はそれを見て「ああ、ここでもし患者がオレを殺そうと思ったら、絶対に助からないな」と思ってしまった。


 医療を語る上では、病院に来る客、普通「患者」と呼ばれる人たちは善意の客である、という絶対の仮定がある。つまり、「病気で悩んでいて、その病気を治すという目的を持って病院へやってくる」のが当たり前だ、と考えられている。

 しかし、実際相当数の客が「善意の客」ではない。どうしても労災認定を受けるために診断書を取らなければならない、家族持ちの中年男性。マスコミの目から逃れるために、「過労」の診断で入院し続ける政治家。北朝鮮から帰ってきたものの、先進国の生活にアジャストするまで時間を必要とする老軍曹。勤め先の看板芸人を訴えるため・・・(以下自己規制)。

 「そういった人々を保護する役目も、実は病院にはあるのだ。病気を治すだけが病院の使命ではない」。学部生として受けた最後の講義で、教授はそう言った。


 病院の売店へ行けば、果物ナイフの一本や二本、いくらでも手に入るのが普通だろう。むしろ入院患者が果物や菓子などを取り分けるのに、小さな刃物が要りような時はある。管理責任を問う、ということになれば、病院のチェック体制が甘い、といった批判の仕方があるだろう。だが、普通どんな病院でも、精神病棟でない限りは患者の荷物や見舞い品など、いちいちチェックしない。患者は「善意の客」であるという前提に立つからだ。


 この事件の「反省」がヘンな方へ進んでしまうと、この大いなる前提が崩れてしまうのかも知れない。病院の待合室には「患者様の権利」とともに「患者様の義務」が大きく張り出され、外来では医者の隣にテープレコーダーを構えた弁護士と、ゴツい警備員が立つ。もちろん診察室の中は随時ビデオモニターで集中監理されている。

 そんな時代は、皆にとって不幸だと思うのだが。

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 そろそろ気力を無くしたので筆を置くが、この事件には「凶器が殺人を犯すのではなく、人が犯すのだ」という問題、「死期の差し迫った人間にとって、法による規範は意味を為し得るか?」という根本的な命題が隠れているように思う。

 「少年による残虐な事件が増えているので、少年法を改正すべきだ」と同様、「老人による残虐な事件が増えているので、老人法を創設すべきだ」という持論は、ここら辺にあったりする。

Monday, December 20, 2004

本当にこわい家庭の医学

 たけし師匠のやっている方じゃなくて、Yahoo!の「家庭の医学」がすざまじい。

 試しに「子供の病気」から「麻疹(はしか)」を引いてみよう。なになに、「一般的な治療法」だ?

以下一部引用:
1)発熱
 発熱時のために解熱剤(アセトアミノフェン)が処方されます。
 (体重10kgの場合)
 ・アンヒバ坐薬(100mg) 1個/回
 38.5℃以上の時使用。次の使用まで8時間以上あける

 おいおい、コレさえあれば半分医者できるじゃねえか。

 確かに、別に医者でなくても金さえ出せば「今日の治療指針」を買うことはできる。そう言う意味では、今の時代、薬の処方量なんて秘密でも何でもない。

 先輩諸兄のお話を拝聴すると、おそらく「だったらアンタの方で勝手に処方書いて○ンキ・ホーテで薬買ってこい」と言いたくなる患者様には、この先多く出会うことになるのだろう。下手すると「Yahoo!にはアンヒバって書いてあるのに、何でうちの子供には出してくれないんですか先生!」という患者様がこの先現れないとも限らない。この際ついでにYahoo!の方で「処方箋の偽造法」ってカテゴリ設けてくれれば完璧だ。

 実はそれこそ小児医療を立て直す鍵だったりして。
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 コプリック斑とか永山斑とかチンギス斑とか天津斑とか、もうそろそろ・・・。

Thursday, December 09, 2004

再現問題

 数年前から医師国家試験は完全問題非公開制になった。つまり、試験終了後問題用紙は一枚残らず回収され、決して表に出ることがないのだ。(※1)

 とは言っても、相当記憶力に優れた集団のこと。3つの出版社が懸賞金を出して、試験を終えた受験生からアンケートを採り、再現問題集を作っている。その再現精度はなかなか高いが、レントゲンやCT、心電図といった画像ものは、受験生によって「見る」場所が違うため、3社それなりに再現がバラバラだったりする。それは仕方がないことだ。

 面白いは、かなりいい精度で再現されている(つまり、3社から出版されている再現問題集による文章の相違が少ない)にも関わらず、解答が3社バラバラな問題が相当数存在することだ。これは問題内容と同時に公式解答も発表されなくなったためである。

 出版社はそれなりの人物(当然医師免許を持っている人物)に依頼をして解答を作成するわけで、その解答が割れるというのは、絶対に満点が取りようがない試験であるということを示唆する。つまり、全国成績トップの3人を呼んできても、その3人の選んだ選択肢は全部違うおそれがある。(※2)

 今まで公開されていた分の試験問題にも、「えっ、何でコレが正解なの?」という問題は多数存在した。それは、こじつけとしか思えないような苦し紛れの解説(出版社が後で付け加えるもの)が添付されている問題集に見ることができる。しかし、厚生省(当時)が「コレが正解だ!」と言っている以上、ヘンな問題でも1点は1点で、それで泣き笑いが出たりするものだから、その「ヘン」な考え方に受験生は合わせなければならなかった。

 そういう意味で考えると、マークシートであるところは大学入試センター試験に酷似しているのだが、数学や生物といった試験科目よりも、むしろ現代文に似た感触を持った試験であるように思う。

※1 しかし、出題内容が不適切だったとされる問題については、採点除外されるため公開される。
※2 成績上位層の多くがが選んだ選択肢と、実際出題者が想定した正解肢が乖離する場合も、採点除外の対象になるという説がある。

Monday, December 06, 2004

近くの医者のようなもの

 「近医」と言う言葉がある。それは「バールのようなもの」と同じくらい正体不明な「国試用語」なのだが、それで小説を一つ書いてしまうほどの才能は私にない。そこで、おおかたは「初めて患者を診たものの、無効な医療をしてしまうヘボい医者」という意味で使われているのだろう、と下種の勘ぐりをしてみる。

 例を示してみよう。

96D-57(再現)
29歳の女性。一週前から発熱および咳嗽を認めたため近医を受診し、胸部X線検査によって肺炎と診断された。セフェム系抗菌薬を4日間投与されたが解熱せず、胸部X線写真で悪化が認められたため紹介されて来院した。紹介状によると、喀痰培養では正常細菌叢であった。体温39.4℃。呼吸数20/分。脈拍94/整。血圧106/64mmHg。血液所見:赤血球420万、白血球8000。血清生化学所見:総蛋白7.0g/dl。CRP 7.0mg/dl(基準0.3以下)。
 可能性の高い起炎菌はどれか。
(略)
[医学評論社 Approach5 '04より]

 まあ国家試験の問題をお作りになるような大先生方にしてみれば、紹介状を書いて病院に回してくるようなそこらへんの医者はみんな「近医」になってしまうのかも知れない。

 たとえばUSMLE STEP2あたりで、近医をformer physicianと表現するかというと、そういうことはあまり無くて、「セフェム系抗菌薬を4日間投与したが改善しない。次に処方すべきはどれか」というように、解答者の責任において無効治療を行っていたことを想定させる問題の書き方が多い。

 本国には医者の「仮免許」制度があり、一般大学を卒業してのちmedical schoolの2年次を終了した時点で、学生はある程度の診療行為を任されることになっている。一応日本にも同様の制度があることにはなっているが、様々な理由により実際に「やらせてくれる」ことはずっと少ない。ここにそうした違いがあることを見ることができる。

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 抗ガン剤や免疫抑制剤など、次世代の医薬品を天然物に求めることがある。そうした場合、たとえば富士山麓に生えているコケを片っ端から集めて有効そうな成分を抽出する、といった研究を行っている薬学者がいる。数名、多いときは数十名の学者が集まってフィールドワークを行い、何千種類というコケを集めてきたりするわけだが、その中で本当に薬として製品にできるのは一つあるかどうか、という世界である。

 ここで問題になるのは、仮に有効成分が見つかったとき、その成果を論文にまとめるときのことである。一つの方法は、その一つの有効成分を見つけてきた学者の名前を筆頭にして、仲良しグループだけが論文に名を連ねるというやり方。もう一つは、論文の見栄えは悪くなるももの山探しをした全員の名前を書くという方法である。

 前者には、「最初に見つけたものに優先権がある」という考え方、また後者には、「有効でないコケを(何千-1)種見つけてつぶしたからこそ、有効成分を含むコケを見つけることができたのだ」という考え方が隠れている。

 私などは後者の考え方に納得がいくほうで、「近医が無効治療をやってくれたからアンタが正しい診断にたどり着けるんだろっ」と思ってしまうのだが、これは「近医」への第一歩に違いない。。

Friday, December 03, 2004

「人を撃つと思わずに、動く標的をモノにするくらいの軽い気持ちで引鉄を落とす」

米陸軍、マシンガンを装備したロボット「Talon」を2005年導入へ[ITmedia]

 タイトルを見たときはネタかと思ったが、そのうち本当にロボットと人間が戦う時代がやってくるようだ。

 いわゆる「ハイテク戦争」の最大の問題は、兵士が「殺人を犯している」という自覚を持ちにくいことであるという。

 たとえば肉眼で見える標的を小銃で撃つのと、夜間暗視装置やサーモグラフィー越しに見える相手を撃ち倒すのとでは、後者のほうが圧倒的に精神的負担は少ない。

 軍隊が「いかに人間を効率的に殺すか」を追求する組織である以上、兵士の精神的負担を軽減することはその目的にかなうのである。

 戦争における「人殺し」の心理学では、南北戦争において、装填されていていつでも発砲できる状態にありながら、数多くの小銃がそのまま放棄されていた(すなわち、多くの兵士が発砲しなかった)という事例から、たとえ訓練された兵士であっても眼前の人間を殺すという行為が、精神的に非常な障壁を伴うことであることを導いている。

 America's ArmyをはじめとするPC上のビデオゲームを用いた訓練、スクリーン上の標的を実銃に近い感覚で射撃できるシミュレータ、そして赤外線による命中判定を利用した実戦訓練と言ったものを通して、「人を殺す」感覚に慣れさせると行ったことは現代の軍隊では普通に行われている。

 記事によると最終的な射撃の判断はまだ人間が行うことになっているようだが、果たして自分の生命を危険にさらさずして相手を撃てるとなった場合、その平気を操る人間がどのような心理状態に陥るのか。

 超えてはならない一線を越えてしまうような気がしている。

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 記事によるとロボットが装備するのはFN-MINIMIのようだが、どうしてもWestinghouseのM25 Plasma Pulse Gunを思い出してしまう。「ターミネータ」でシュワルツェネッガー演じる殺人マシーンが、銃砲店の親父に頼むが「お客さん、それは来週入荷だ、ニイさん銃に詳しいねぇ」とむべなく拒否されてしまうライフルである。シュワちゃんは仕方なく12ゲージのSPAS12か何かで我慢するのであった。

Friday, November 26, 2004

自ら経験しないものを信じることについて

 しばらく前のことになるが、外である堅気の女性と話していたときのこと。私は何の気なしに、大学内のうわさ話を漏らしていたのだが、こんなつっこみに、はっとさせられた経験がある。

 「ねえ、自分で実際に見たことでもないのに、何でそんなに簡単に信じるわけ?」

 元々私は話し言葉がうまくないせいもあるが、そのときは言葉に詰まってしまった。


 それからしばらくの間、そのことについて考えていたが、ふとあることに思い至った。そもそも、私が医者になる上で、「常識」として受け入れなければならない知識の中で、実際に経験できることというのはどれくらいあるのだろう?

 たとえばブドウ糖やタンパク質、脂肪が体の中でどうエネルギーに変わるか、といったことを扱う「代謝」という学問がある。その経路図はたとえばこんな風になっていて、覚えていなければならないことなのだが、ここに書かれている「酵素」のうち、自分で結晶を見たことがあるもの、またケミカルに定量した経験があるものはゼロに等しい。

 また、代謝分野で各段階の一つ一つについて検証した論文について当たろうとすると、おそらく広辞苑を遙かに超える分量のものを読まなければならないだろう。生化学の教科書一つでも広辞苑一冊くらいはあるのに、そこまで検証している暇な学生はいない。どんな疑い深い学生でも、教科書に書かれていることをそのまま「事実」として受け入れざるを得ないところなのである。さもないと目前の試験という、もっとリアルな現実を乗り越えられない。

 従って代謝の知識はいわば「常識」と考えられているし、代謝経路のどの酵素が失われるとどんな病気が起こるか、という事柄については他人に説明できなくてはならないことになっている。代謝酵素欠損病にはTay-Sachs病だとか、Hurler症候群だとかいろいろ人の名前が付いた病気があって、本当に苦労させられるのだが、実際私はその患者に一人も出会ったことが無い。試験には必ず出る。

 我々は一年生の頃からずっと、こういった「自ら経験し得ないこと」をあたかも自分で見聞きしたかのように受け入れ、そして人に話すといったことを繰り返してきたのである。これは構造的に「宗教」と変わらない。


 「聖書には全能の神が人間を作ったと書いてある。それはA社から出版された聖書にもそう書いてあるし、B社のも同じだ。また、私の尊敬するH神父も、神が人間を作ったことについて実に筋が通った解説本を書いている。うちの父さんも、母さんもそう言っているし、教会で出会う人の中でこのことを疑っている人はいない。多くの人が一様に信じることだから、『神が人間を作った』というのは否定しがたい事実だ」

 結構似たようなことをやってきた。


 もちろん、宗教でも医学でも、このような構造が成り立つ上には、その個人が属するコミュニティーに対して絶対の信頼を置いている、ということが前提となる。

 医学界の有名な「お経」として、「ヒポクラテスの誓い」というものがある。医科大学によっては卒業式で「ご唱和」させられることもあるくらい有名なものだが、ふつうこの「誓い」は、『害をなすな』など、医の基本的な倫理を規定するものとして語られることが多い。しかし、ここではあえて注目されることの少ない、以下の文言に注目したい。

私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。


 ここに書かれているのは「医学」という、一つのコミュニティーに対する絶対的な帰依である。いわば兄弟の契りによって、同じ医師であるもの同士は基本的に信頼しあうべきである、ということが書かれているのだ。


 もちろん、盛んに言われている「EBM」に対しても、これと同じようなことが言える。

 例を挙げる。ある白血病に対する治療法に対して、薬●×▲の組み合わせがいいのか、それとも■△○の組み合わせがいいのか、といった問題がある。白血病に対しては、現在非常に細かい分類がなされているので、本来的にはこれらの分類ごとに最適な治療方針が存在するはずだ。だが、まだまだ「これが完璧だ」という治療法を確立するのは難しく、数年ごとに治療法はアップデートされるのが普通である。

 従って、●×▲と■△○の組み合わせのどちらがいいか、という問題は、相当数の患者数を対象に検定しなければならないのだが、前述のように細かい分類がなされているので、一つの施設内において同じ分類の症例が多数そろう、ということは考えにくい。従って多くの病院の間で行われた治療方針の選択とその結果を、厚労省の研究班なりといったところにデータとして送り、集約化して初めて「こちらの方が優れている」という結論になる。

 つまり、大規模臨床試験において「全部私が見た」という人は存在しない。だが、個々のデータに対する信頼と、学会などの正統性に基づく権威の元に、次世代の治療方針(ガイドライン)が決定されていく。実際に現場で治療に携わる医療者は、そのガイドラインが正しいプロセスに基づいて検証されていることを前提として、眼前の患者に対する方針を決定する。

 学会などが、本当に正しいプロセスを経てガイドラインを決定しているのか、臨床家が疑問を抱くことも時々ある。そういう場合は、根拠となった臨床試験の結果、論文などを自ら集めて検証することも可能なのだが、多忙な日常の中でそこまでやる臨床医はごく少数である。多くはそういった権威への「信頼」を根拠にして、目の前の患者に責任を負うのである。


 ちまたではよく「医者は互いにかばい合う」などといわれている。また、EBMにおいて「権威者のアドバイス」はエビデンス(治療方針を決定するための根拠)として最も低いものの一つに分類されている。

 しかしながら、医学という学問が成立する上では、「コミュニティーに対する信頼」というものが不可欠な要素であることも、また事実なのである。なんだかんだと言って、100名近くの若者を6年間も一つの集団におく、という教育プロセスについては、この信頼感の醸成、と言う要素があるのではないか、などと邪推してみる。

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 昔ある医者の書いた文章の中で、「医者というものは、論文や教科書で見聞きした患者のことを、実際に自分が診たかのように記憶してしまうことがあるものだ」という記述を目にしたことがある。そのときは「んなこたーあるわけねーじゃねーか、何言ってんだこのオッサンは」と思った。

 だが、今は十分に起こりえることだと考えている。むしろ文章の中の記述を、まるで実際に目の前で起こっていることのように考えられる想像力がある人こそ、優れた医者なのではないかと思っている。

 そう考えてみると、「私はキリストの復活を見た!」などと言う人を笑ってもおられないのかも知れない。

Thursday, November 25, 2004

除隊検定

 紆余曲折があったが、今日で卒業試験が終了した。卒業試験に通ればあと2ヶ月後に国家試験を受験し、その後(受かっているかどうかの不安を胸に)沿岸警備隊本隊に配属となる。卒業試験に通り、国家試験に落ちるとめでたくNEETの仲間入り。

 どこの大学でもそうなのだろうが、卒業試験に通るための勉強と、国家試験に合格するための努力はかなり異なる。

 たとえば、卒業試験では同じような病態に対しても外科と放射線科では全く違った結論の問題を作る傾向にある。外科はとにかく「切った方がいい」というような問題を作りたがるし、放射線科は「IVR(切らない治療)の方が体に負担をかけないし、幅広い患者に適用できる」といった結論を作りたがる。内科が問題を作ると多分この中間ぐらいの結論で、「何cmまでの~に関してはIVRでいい」ということを問題にしたがる。

 前もって「過去問」を見ているせいで対処できるのだが、そういうところで頭の「スイッチ」を切り替えるのは実に疲れるものだ。国家試験はある程度問題の選別が行われているため、こういったところは気にしなくていい。

 もう一つ気になったのは「~という報告が多い」という選択枝である。厳密に考えると、その問題の真偽を判定するためには、最近の学会誌やなんやらにすべて目を通さなければならないわけで、学生のレベルを遙かに超えることを要求している。百歩譲ってそうしたとしても「多い」かどうかはその人の主観によるのである。

 そもそも科学的な情報のレベルには

 学会報告・原著論文<レビュー論文<紀要・展望<専門書<教科書

 といったヒエラルキーがあるとされている。

 左に行くほどフレッシュな情報で量的にも膨大(*1)だが、10年たってみると全くの間違いであった、ということになっているかも知れない、信頼度の低い情報でもある。一方、右へ行けば行くほど出版物の数は少なくなる。しかしいわゆるその道の「権威」と呼ばれる人々が編者となって、下位の情報源からまず間違いないだろう、というレベルの情報を選不プロセスがあるので、比較的長い時間を経て検証され得た情報が載っていることになる。

 試験に出していいのはせいぜい「専門書」レベルのことである。たとえば「癌にはアガリクスが効く!」などということは絶対に国家試験に出ない。新しい情報だが、確かな検証に耐えていないからだ。

 しかし、各講座の中でそれぞれの研究テーマを有している以上、「学生にはやはり最新の情報に触れてもらおう」ということで、ずいぶんマイナーなことを試験に出してしまうところがある。また、血液腫瘍などの分野では、かなり標準治療の世代交代が早く、最新の情報を知っていないと話にならない、ということもある。

 学生としては、なるべく「教科書」レベルの知識で済んでほしい、と思うところだが、なかなかそうもいかないのである。ただし、隣の大学の人の「常識」と全く違うことを、ウチでは喜々として教えているのではないか、という一抹の不安を感じてしまう。


 それはとりもなおさず、私が田舎者である所以なのだろう。

 (だが4年生を対象に実施した試行試験では、今までウチのCBT(*2)の成績はガタガタだったらしい。それはつまり、あまりにマイナーなことばっかり教えてる、という証明じゃないのかな、なんてね)

(*1)一年間に出版される原著論文を積み重ねたとすると、医学分野だけでも優に富士山を越えてしまう高さになると言われている。どんなに優秀な医者が一年中患者を診ずに論文だけ読み続けたとしても、このすべてに目を通すのは事実上不可能である。

(*2)来年度から医学部4年生を対象に義務づけられる臨床実習前の試験。全国統一基準で実施され、しかもコンピューターで一人一人ランダムに選ばれた問題が出題されるといった特徴がある。アメリカ本国で行っているUSMLE STEP1を植民地でもマネたといわれている。

Monday, November 22, 2004

この48時間

 3時間しか寝ていないし、変なお注射も打っていないのに眠くない。

 明日あたり相当に「クル」のではないかと思っている。

Sunday, November 21, 2004

グローバル・ポジショニング・システム

GPSで居場所が通知される携帯電話?(高木浩光@自宅の日記)

 実際私もGPSケータイを持ってはいるが、いちいち作動させるたびに莫大なパケット料が発生するし、電力をかなり消費するので「ここ一番」でしか使っていない。

 確かに5メートルの誤差で、第三者が携帯電話の持ち主を特定できるとしたら、それはそれで恐ろしい監視社会の実現だろう。「エネミーオブアメリカ」の実現だ。困るのは、「いらない機能つけないでくれ」というユーザーの意図が携帯メーカー側には通じにくいことだ。新しい機種で、GPSもカメラ機能もついていない製品を探すのはとても難しい。

 そもそもケータイについているGPSというものが、本当に衛星からの電波を拾っているのか、私にはその仕組みがよくわからん。衛星からの電波を拾うとすれば、何で屋内でもちゃんと地図が表示されるのだろうか。衛星放送のアンテナだってわざわざ屋外におかなきゃいかんのに。ある人は「いや、衛星じゃなくて地上の基地局から三角測量してるだけですよ」と、ウソとも本当ともつかないことを言って私を混乱に陥れてくれた。

 いっぺん山奥の「圏外」エリアでGPSを作動させてみよう、本当に衛星の電波を拾っているならば、基地局からの電波が届かなくても位置がわかるはずだ・・・ってこりゃだめか。位置がわかっても地図がダウンロードできない以上、どっちにしてもエラーになるのだ。

 高木氏はセキュリティーの専門家であるがゆえに、この人の日記には「イッパン人」のわれわれからすると考えすぎなんじゃないか、と思う部分も散見されるのだが、の最後「あるいはもしや、犯人はこれを見たために、殺害の意思を……??」とある部分だけでも読む価値はある。

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 「昔ジーコはカシマサッカースタジアムの看板の位置で、フィールド内の位置を把握していた」という。私も基本的に、初めて行く土地には地図と磁石を携えるようにしている。

Thursday, November 18, 2004

枝葉はゆれても・・・

あえてリンクも張らなきゃコメントもしないが、爆笑しますた。

GET Firefoxと、言ってみるテスト。

 私の愛用のブラウザはMozilla Firefoxである。今まではいわゆる「お試し版」であったが、このたび正式版1.0がリリースされたので広告してみる。

 いわゆるオープンソースソフトフェアの一つであり、平たく言うとタダである。兄貴分のMozilla(メーラー、ブラウザ、HTMLエディタ、IRCクライアントが一緒になっている)に比べると、大変軽くて起動しやすい。また、拡張機能Extensionによって、様々な機能を後から「つけたし」できるのが大きな特徴である。

 おすすめの拡張機能は、Tabbrowser ExtensionWeatherFoxである。

 Firefoxはタブブラウザーだが、素にインストールしただけでは今ひとつタブブラウジングの利点が生かし切れない。そこでTabbrowser Extensionの出番だ。WindowsユーザならLunascapeを愛用する人も多いだろうが、この組み合わせでほぼLunascapeと変わらない使用感を提供できる。

 WeatherFoxは、ある特定の地点の「今の天気」を表示する。・・・・って、自分で窓の外みればいいだけの話だが、外気温も表示されるので室外温度計の代わりに(?)なる。

 前にも述べたが、このページは実はFirefoxでみると微妙に変なところがあるのだが、それは見る人の楽しみを奪うため書かない。

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 Sleipnir作者を襲った悲劇:一刻も早くこの泥棒がとっつかまることをお祈り申し上げる。

Sunday, November 14, 2004

BODY COUNT

「制圧作戦ほぼ完了」 ファルージャで1000人殺害[共同通信]

イラク暫定政府のダウード国務相は同日、記者会見し「制圧作戦が一部の武装勢力の拠点は残っているが、作戦はほぼ完了した」とし、これまでに武装勢力約1000人を殺害、約200人を拘束したことを明らかにした。

 ふつう戦闘行為において「何人殺したか」という記録は不正確になりがちであるし、味方の残虐性を強調するきらいがあるということで、積極的に発表されることは珍しい。しかしながら、今回米軍はこの数字を前面に出している。


 正規軍同士が正面を切ってぶつかる会戦では、敵味方のにらみ合う戦線(前線)が形成される。従って、戦争を進めていく上で、自分たちの軍隊が挙げた「成果」はどれだけ戦線が的の本拠地に近づいたか、ということになる。終結したことになっている「イラク戦争」の時は、「連合軍はバグダッドまであと何kmまで迫りました」であって、「連合軍は何人殺しました」という報道ではなかったはずだ。

 また、戦線で生じた死傷者は、それぞれが後送するため、敵側に生じた正確な死傷者数というものはわかりにくい。従って、会戦が一段落してのち、それぞれが主張する数字がメディアに載ることになる。

 ところが、今回のような明確に占領すべき拠点が決まっていないで(米軍は一応ファルージャ市役所前に新イラク国旗を立てて見せたが、そこが敵の本拠ではないだろう。ザルカウィも捕まらなかった)、また小部隊が独立した行動をとって襲ってくるゲリラ戦では、敵味方が入り乱れるため、前線の移動を持って具体的な「成果」とすることができない。


 従って、こういう場合には、確かに殺して死体袋に詰めた敵兵の数(ボディーカウント)を披露することでしか「我が軍はこんなにがんばりました」とアピールできないのである。

 しかし、そもそも相手はゲリラ兵(つまり、市民から明確に区別しうる統一された軍服を着用していない)なのだから、はっきり言って死体袋の中身が全部兵隊なのかどうかもわからない。極端な話を言えば、適当にそこら辺の市民を撃ち、「手榴弾を投げてきたゲリラ兵だ」と主張することもできる。まさに「殺せば殺すほどほめられる」状況なのだから、成績アップのため、そういうがんばり方をする兵隊がいないとも限らない。

 戦争の成果がボディーカウントによって記述されるようになった状況は、40年前のインドシナ半島に酷似している。なんだかいやな予兆である。

Saturday, November 13, 2004

医療過誤報道を読む

医療過誤:心臓手術で死亡、執刀医を聴取 埼玉の病院[毎日MSN]

 新聞記事には、「偏らない視点」が求められると、一般的にはそう思われている。従って、このような医療事故(*)の記事で、「病院 vs. 患者遺族」の構図が成り立つときには、記者は双方の言い分を記事にしなくてはならず、苦労することだろう。


 以下は完全に個人の邪推であることをご了承いただきたい。

 第2段落目の「関係者らによると~」から第3段落の全部、そしておそらく第4段落の「午後4時ごろ~」の一文までは病院側の説明による。ビデオカメラで手術を中継してくれるような、よほどオープンな病院でない限り、手術室は事実上の「密室」である。従ってこの部分の記述に何しては、そのとき「中にいた人間」の証言に頼るしかない。

 「午後9時ごろ~」から、第5段落の終わりまでは家族から記者が聞いたことだろう。「午後9時ごろ~家族は『~』という」と、第5段落の最後「~という」の2文は、記者が明示的に伝聞形で書いている。

 問題になるのは、「しかし、医師は経緯について『心臓の動きが鈍くなったため、人工心肺を装着したら血管がはく離した』と説明したが、心臓の傷には触れなかった。」という一文である。やや恣意的な解釈だが、病院側はきわめて婉曲的な表現で(もちろんそれ自体避けるべき行為だが)傷を付けたことを説明したが、家族は動転して覚えていなかった、という可能性がある。しかしこの一文は伝聞形で書かれていない。

 修辞上記者が連続する表現を避けたのだろうが、読み方によってはここがテープレコーダーや、署名されたInformed Concentの記録といった証拠に基づく「事実」であるようにも受け取れる。訴訟上も、ここは「真実の隠蔽」なら慰謝料等の算定に大きく影響するポイントだ。


 全体的にみると、どこからどこまでが病院の言い分で、どこまでが患者遺族側の言葉なのか、それとなくは知れる、なかなかフェアな記事だと思うのだが、記事というものの持つ本質的な問題を考えるため、あえてここに記してみた。

(*)あえて今の段階で「過誤」という言葉を使うことを私は避ける。何でだ、と言われれば「そう訓練されているから」と答えることにする。

布石の国

ちりんのblogKU。

日本軍事情報センターのWhat's New 11月12日分。

 もし東シナ海に原潜が沈没し、爆発すれば、海流に乗って放射能を帯びた海水が日本に向かって流れてくる。爆発しなくとも、海底に沈んだ原潜を回収することは至難の業である。いやそれ以上に、艦内に乗り込んでいる乗員の命が奪われることになる。ロシアのクルスク原潜沈没事故を忘れたのか。

 (中略)

 どうして政府やマスコミは今回の異常事態に気がつかないのか。すでに中国は潜水艦救難艦や潜水艦曳航船を出動させた。ここで日本政府が中国政府に関係なく、救助のために海自の潜水艦救難艦を派遣しても文句は言われない。

 このままでは日本はサムライの心を知らない冷血漢になってしまう。急げ、無駄であってもいいから急げ。

 確かに中国海軍の原潜がなんらかの事故を起こしている可能性は、100%否定できるものではないだろう。だが、「領海内で放射能漏れが起きる事態を避けるために、日本の海自が救難艦を出せ」というのはいかがなものだろう。

 その論理でいけば、「放射能漏れを恐れるが故に海上自衛隊は、領海内に侵入してくる原子力潜水艦を絶対に撃沈できない」ということになってしまう。まさに「張り子の虎」だ。

 それでは、何のために自衛隊はディーゼル潜水艦やアスロックといった装備を所有し、訓練しているのか。どこか日本列島から離れた、外国の海で潜水艦を沈めるためなのか。それこそ「専守防衛」に反するだろう。

 緊急事態が起こったのであれば、どこの国の潜水艦であろうと浮上して、堂々と国旗を掲げて航行すればよいだけの話である。このような潜水艦の航行の仕方は、国際法上許容されている。浮上した潜水艦を友軍の救難艦が助けにくる、というのであればそれこそお茶の一杯も出してやればいいだろう。緊急浮上が技術上不可能で、しかも何百キロも航行できる状態、というのは考えにくいのである。

 むしろ、速力10ノット、蛇行しながら中国本土へ移動、というのはあとで「事故を起こして思うように操船ができなかった」と言い逃れをするための方便であろう、と私は考える。やはり目的は日本側の反応を探り、海底の地形を測量するためであり、あらかじめ救難艦が付近に展開していた、というのも、国際政治の場で弁解の余地を残すため中国側が打った巧妙な布石であろう、とみる。そういえば「布石」という言葉も囲碁の国、中国から来たのだ。

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 だから「医療系ブログ」じゃないんですってば。

Thursday, November 11, 2004

漠然とした「態度」でクビにできるか

「笑顔ない」理由に解雇は無効[asahi.com]

 女性は98年から、入院患者の身の回り世話する介護員として、1年の雇用契約の更新を続け4年3カ月間働いていた。ところが、02年6月、病院側から「笑顔がない」「不満そうなオーラが出ている」などを理由に、契約の更新を拒否された。


 医師国家試験には禁忌肢というものがあり、3日間の試験日程中で出題されるたくさんの問題の中から、「やってはいけない」選択枝を2つ(問題数ではなく、選択枝数だ)選ぶと、たとえそのほかの問題がすべて正解であったとしても問答無用で不合格になる。

 近年の国家試験では「笑顔がない」とか、「患者に対する態度がデカい」とか、態度を問題にする選択枝に禁忌肢がある、といわれている。去年の問題では、「私は外科の専門医だから安心して手術を受けるように、と強く説得する」が禁忌であった、とささやかれている。(数年前から問題文・解答が非公開になったので、実のところ厳密な基準はわからない。)

 教官たちから「医学生たるもの、態度に留意するように」(・・・教授になればまあ何やってもいいのだろうが)と日頃やかましく言われ、試験までやらされた身からすると、意外な判決ではある。

 それこそOSCEの時には、あらかじめ講義で「にこやかな笑顔を患者に向けるように注意せよ」と言われていたのに、本当の試験で実際そのようにしたら、「患者の前でニヤけながら診察するな!」と減点を食らった仲間もいたようで、こういったものをどう評価するかというのは、裁判長の言うとおり「主観」の問題だろうと思う。

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 もっともここの病院名で検索すると、雇用関係を巡って過去にも何度か訴訟があったらしい。今回もそのシリーズの一つなのだろうか。

Wednesday, November 10, 2004

存在感を示す

陸自、4万人減に猛反発 財務、防衛の攻防本格化[河北新報]
空自戦闘機300から216機に 財務省の削減案に防衛庁が強く反発[Yahoo! 産経新聞]
装備費削減めぐり過熱/攻める財務省、守る防衛庁[東奥日報]

不審潜水艦:沖縄・先島の領海内潜航 海上警備行動を発令[毎日MSN]

 財務省は防衛予算を削りたくて削りたくて仕方がないようだ。だが、忘れてならない点が一つだけある。

 軍隊は、その存在価値を示すためなら、いつだって戦争を「作れる」のだ。それは歴史が証明している。

 あくまでもこれは仮定の話だが、航空自衛隊が発足して以来、スクランブル(緊急発進)の回数は19,000回を超えている。もしこのうちの一回でも、「電気系統のトラブルにより」自衛隊機がミサイルを発射していたらどうなったか?

 これまでも中国の潜水艦ぐらいはちょくちょく領海を侵犯していたが、あえて政治的判断で行動を起こさなかっただけなのではないか。そういう「ネタ」は自衛隊としていくつか把握しているものがあって、出すべき時に出してきているだけなのではないか。

 そう考えることもできる、というだけの話だが。

 防衛予算は、文民的思考しか持たない人から見ると無駄の固まりであり、いくら削ってもいいところに見えるのだろう。だが、軍隊というのは国家を転覆しうるほどの「実力」を持った集団であり、それをいかに文民政府が使いこなすか、という問題は現代国家における最大のテーマである。

 「文民統制」を厳格に法で定めているアメリカ合衆国にしても、実際は軍産複合体が合法的なやり方で政治に強く干渉しているのは、皆のよく知るところである。

○○対▲▲の壮絶なる戦い

NHKの労組が海老沢会長への辞任要求を正式決定[asahi.com]

 NHKの職員でつくる日本放送労働組合(日放労、約8500人)は9日、中央委員会を開き、相次ぐ不祥事への対応の仕方に問題があったとして、経営側に対し、海老沢勝二会長の辞任を求めることを正式に決めた。要求書は10日に提出する予定。日放労が経営トップの辞任を求めるのは、1948年の組合結成以来、初めてという。
 岡本直美書記長によると、チーフプロデューサーによる番組制作費の着服が7月に発覚して以来、「NHKはきちんと説明責任を果たしていない」として受信料の支払いを拒否する視聴者が相次いでおり、「このままでは業績が好転するとは思えない」と判断したという。

 NHKなんか受信料払ってもらえなくても、いざとなれば国庫という「打ち出の小槌」があるんだろうな、と思っていたのだが、下の資料を読むと予算のほとんどは、やはり受信料に依存していることがわかる。

平成16年度 収支予算と事業計画(要約)(PDF)[NHK発表資料]

 つまり、NHKにとって「受信料支払いを拒否される」というのは、民間放送にとっての「スポンサーが離れる」のと同じくらいの意味を持つ、それこそ死活問題であるわけだ。

 ただ一つ引っかかるのは、罰則規定こそ無いもののNHKの受信料を払うことは放送法上の義務である。そもそもの起源からして、民間放送とNHKは対立関係にあるわけだが、民放側が「NHKの不祥事のせいでこんなに受信料拒否が増えていますよ」ということを報道番組で盛んに言うのは、ある意味不法行為をそそのかしていることになりはしないのだろうか。

 もちろん、事実をありのままに言うのは「報道の自由」そのものである。しかし、「NHKの受信料を払わないのは一応法律違反に当たります」ということを言わないでいるところには、「報道の中立」を軽視する姿勢が見え隠れしている。

 しばしばゆがんだ形で現れるものの、「中立」に何より気を遣ってきたのがNHKであることも確かだ。

 どっちにしろ、今回の海老沢会長辞めろコールは、何かによって扇動を受けているような気がする。「民間防衛」の読み過ぎだろうか。

新聞協会は、またNHKの「商業化」を批判しているという。NHKの肥大化を批判するなら、なぜ郵貯のように「民営化しろ」という話が出てこないのか。それは、現在の民放の番組がひどすぎるからだ。いしいひさいちの漫画でいえば、レベルの低い「地底人」NHKが、それよりも低い「最底人」民放と闘っているという図である。
池田信夫 blogより。

 考えてみれば、読売新聞=日本テレビのように、テレビ局と新聞社がそれぞれ系列関係にある、というのは日本のマスコミ界特有の構図である。これに対してNHKは、新聞のようなほかのメディアを所有していない。(NHK出版は日刊紙を出してるわけではない)。したがって日本テレビのニュースで報道されたことは必ず同じ論調で読売新聞に載ったりするのだが、ことに今回のNHK不祥事の件に関してはテレビも新聞も各社足並みをそろえて「叩く」わけで、逆説的に翼賛体制と言えなくもない。

 受信料もペイパービュー制にしろ、というのは昔からよく言われていることだが、そうなるとますます商業ベースのスカパー!なんかと変わらなくなってしまうのではないか、という気がする。

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 しかし、上でリンクした放送法32条は「NHKの放送を受信することができるテレビをお持ちの場合」といっているわけで、「うちのテレビはどうがんばってもNHKが受信できない北朝鮮仕様だ!」って言う人がいたらどうするのだろう。払わなくていいのかな。

 チューナー付きケータイは受信料払わなくていいとか、いまいちそこらへんのルールがよくわからない。

Monday, November 08, 2004

リアルを教えるということ

 短機関銃版にも書いたが、中学校で生徒自身から採血させて血球を観察させた先生が問題にされているらしい。

生徒の血液使い理科授業 和歌山・橋本の男性教諭[共同通信]

 いろいろ感ずるところがあるので本編でも書いておくことにする。

 現在の教育課程がどうなっているのか詳しくは知らないが、私が中学生だった頃、心臓の仕組みを理解させるのに「左心室」「左心房」「右心室」「右心房」といった用語が出てきた。

 当時の理科の先生はなかなか都会的で、「試験で点が取れるような教え方」というものを心得ていた人であった。従って、心臓はこのように描けるようにしろ、と教えてもらった。

 すなわち、数学の「単位円」を書くように、小さな円と、それを仕切る十字型の直線を描く。これが心臓になる。次に、「体循環」「肺循環」を円の外に描く。その後、消しゴムを使って動脈、静脈の入り口を作り、左心系と右心系の対応を間違えないように大血管と弁を書き加え、一応の完成をみる。

 ほとんど中学校の理科(高校入試の問題を解くための理科)は、この図で間に合ってしまうのだった。本当にあのころはなんていい先生だろうと思っていた。


 さて、大学に入ってから解剖学の時間最初に習ったことの一つに「左心室は決して『左』に無いし、『右』にあるからといって必ずしも右心室とは限らない」ということがある。

 たとえば、ブラックジャックにも出てきた「内臓全転位症」という病気があるが、「左にあるのが左心室」と定義してしまうと、ずいぶん変な話になってしまう。いくつかの心臓の病気を考える上では、「どちらが左心系か?」ということを決めるのはとても大事なことだが、専門家は主にこれを「弁の位置」を基準にして考えている。

 ちなみに、権威ある解剖学書の一つであり、オンラインで公開されているGray's Anatomyでは心臓はこう描かれている。少なくとも円と十字で書ききれるような、単純な位置関係でないことはおわかりになると思う。(たぶん今回の件に文句をつけるような親御さんは、きわめて写実的な上のような絵を見せても「グロいもの子供に教えるな」と激怒されるのだろう。)


 しかし、現行の教育課程ではたとえ高等学校に進んだとしても「生物を採らない」で卒業することは可能になっているし、医療系・生理系の学部に進まなかった大学生はことによると「円と十字」の心臓を心に描いたまま大人になっているのかもしれない。

 もちろんそれでも立派な大人になれることを否定はしないが、「せめて血球ぐらい見せてやれよ」と思うのも事実である。


 私は大学の系統解剖の時、教官が皮神経を剖出して見せてくれたとき、「これが神経だ」といわれて現物を見せられても「いや、こんなあからさまなものが神経のわけないだろう」と本気で思っていた。

 それまで座学で習った「神経」といえば、なにやら黒板の上に、一本だけ足を長く伸ばしたクラゲのような図で描かれたものであったし、二本の平行線の間にプラス記号とマイナス記号がたくさん書かれたものでもあった。それだけ「神経」に対して、ある種神秘的なイメージを抱いていたのだった。

 実際目の前にある黄色い繊維質の一件を見せられたとき、それが今まで教科書で習ってきた「神経」であることを、知識として受け入れはした。だが、神経が目に見えるものであり、場合によっては縫合することもできるものだ、ということを心の底から納得するには、相当長い期間を要したのである。実を言うと系統解剖終わってからだったような気がする。


 「実物を見る」という機会は大切にしなくてはいけない。今だからこそ、そう言える。



 また、いくつかのblogで、「先生は感染に対する配慮が足りなかった」という意見がみられたが、これに対しても少し述べておきたい。

 まず、「消毒」と「滅菌」の違いについて確認しておきたい。「消毒」とは、病原性のある微生物を取り除く操作のことであり、「滅菌」とは病原性のあるなしを問わずすべての微生物を殺す操作のことを指す。皮膚などは「消毒」できるが、「滅菌」するのは不可能だ。

 医療従事者が採血するときには、必ずガスなりガンマ線なりで「滅菌」された注射器・注射針を用いるのが常識である。それは、感染を起こさないことはもちろんだが、採取した検体内に余計な微生物が混入していれば検査結果を狂わせることになるからでもある。

 記事では「熱消毒した針と消毒液」を用いた、と書いてある。器具をガスバーナーの炎の中にくぐらせる、というやり方は、「火炎滅菌」と呼ばれ、注意深く行えばこれはかなり信頼性の高い「滅菌」法の一つである。従って、記事にある「熱消毒」は我々がふつう目にする用語ではないが、この先生が大学で培養法や無菌操作を学んでいた方であれば、針からの感染はほぼ心配しないでいいレベルであったことが推測される。

 しかし、針でつついた程度の傷から重大な感染症が起こる、ということはほとんど心配しないでいいようにも思える。もちろん、生まれつきASDやVSDといった心疾患を抱えている子供については配慮する必要があるだろう。しかし、ふつう針で刺した後は絆創膏くらい巻くだろうから、たとえば破傷風だとか、あるいは菌血症になって死ぬだとかいうことは考えなくていいレベルの話だ。そんなのあればたぶんLancetぐらい載るぞ。

 この場合問題となるとすれば、むしろ採血手技を行った後の針の行方である。原則的に「血は汚いものと仮定せよ」というのは、さっきまで述べたこととは逆説的だが、医療の常識である。(これについて詳しく説明するとさらに長くなるので割愛する)。従って、針はすべて「感染性廃棄物」として処分すべきなのだが、中学校や高校の理科教育でその予算があるのだろうか。

 また、「他の人が使った針は絶対にさわらない」ことも生徒に徹底させる必要があるだろう。気にするとすればそんなところだ。

Wednesday, November 03, 2004

この船に何人乗せるのか

 あまりに長いので、項を分けたが『移民政策』からの続きである。

 「トリビアの泉」では「2003年のデータで計算すると 西暦3000年に27人になる」と言っていた。まさか27人まで減ることは有り得ないとしても、我々の日本国は、たとえば2100年までにはどれくらいの人口であるべきなのだろうか。

 その国家戦略というものが見えてこないのである。果たして、人口減少を受け入れるのか否か、それさえも見えてこない。Jリーグでさえ百年先を見ているのに。

 人口減少を受け入れるか否かで、たとえば具体的に次のような目標が立てられるだろう。(数値は適当だが)

[その1]日本国は,2100年までに人口8,000万人を目指す。
[その2]日本国は、2100年も人口12,000万人を維持する。

さらに、[その2]に対して、次のようなオプションが考えられる。
  [その2A]日本人8,000万人と、移民4,000万人の多民族国家を目指す。
  [その2B]純粋に日本人だけで12,000万人の単民族国家を維持する。

[その1]を選択した場合、人口減による国力の低下は否定しようがない。日本はもはや世界のリーダー、いやアジアのリーダーたる立場を目指さない。それは韓国か中国か、ともかく最近とみに伸長しつつある新興国家へ譲り渡し、ひたすら「老人の、老人による、老人のための福祉国家」を目指して邁進する。「ノーベル賞受賞者を100人出す」などといった幻想は諦めて、たとえば高度先進医療に投入していた資源はすべて地域医療に回すことにする。

 だが、おそらくこういう政策は、大多数の国民自体が望まない。某政党が公約に掲げているような政策であり、そこがたいした得票を得ていない事実が、如実に示していることである。


[その2A]を選択した場合。海外からの労働力輸入を積極的に推進する。フランスやアメリカのような多民族国家を理想におくのである。将来的には、青い目で金髪の人物が日本国総理大臣の座に着くことも考えられる。

 だがもし、日本が多民族国家へと変遷を遂げた場合、ある日本民族の一家系にすぎない「天皇家」が、果たして日本国の象徴たることが許されるであろうか?すなわち、多民族国家への移行の過程で、必ず憲法改正と共和制への移行を議論しなければなるまい。現在はまだ「事実上の単一民族国家」と自称することが可能であり、天皇を「最大のタブー」とすることが可能な時代であるが。


[その2B]の選択は、多くの国民が無意識に「そうであればいい」と望んでいることではあるが、実現が非常に困難な選択枝である。現況の出生率は1.39程度であり、長期的な人口減少は避けられないと言われている。

「日本の出生率低下の要因分析:実証研究のサーベイと政策的含意の検討」 伊達雄高 清水谷諭[内閣府経済社会総合研究所]
 次に、出生率低下の諸要因の中で、女性の就業と賃金上昇による機会費用の増大については、数多くの実証分析が蓄積されており、ほとんどの分析で、子供をもつ機会費用の増大が出生率を押し下げる方向に作用することが明らかになっている。こうした就業と育児・出産の二者択一が出生率を押し下げていること、さらに、女性の高学歴化などを踏まえ、就業と育児・出産のトレードオフが人的資本蓄積にマイナスの効果を与えることを踏まえれば、女性の就業と育児・出産の両立を可能にする政策が不可欠である。



 私は、出生率を上昇に転じさせるためには、今まで考えられてきた「家庭は子育ての基盤である」という考え方を捨てねばならないのではないか、と考えている。つまり、「産む人」と「育てる人」の分離を考えるべき時にきているのではないか、と思うのだ。

 子供は6歳に達した時点で原則全員、全寮制の公立小学校へ入学させる。両親に会うことができるのは、夏休みや冬休みといった長期休暇の時だけである。従って、子供の生育・教育に関しては、教諭が大きな権限と責任を担うことになる。その代わり、産んだ親の方はほぼ1年に10ヶ月の間、自らの業務に専念できることになる。

 希望する両親に対しては、ゼロ歳児から公的育児サービスを受けられることにする。少々きつい言い方をすれば「産み捨て」を可能にするわけだ。


 とんでもないことを言う、とお思いだろう。私も、とんでもないことを書いていると思う。

 しかし、現実としてこういう方向へ進むのではないか、という根拠がいくつかある。

 まず第一に、高齢社会の実現とともに、「年寄りは家庭で面倒をみる」という概念は崩壊した。デイサービスや訪問介護というシステムができて、「それはあくまでもお年寄りが家庭で暮らせるよう支援するシステムなのです」と言われる人がいるかもしれない。しかし、「老人介護の問題は、個人や家族でカバーしきれる問題じゃないんだ」というコンセンサスが得られるようになってきたこと、これが大きい。

 つまり、「子供の養育」も、個人・家庭の単位から「社会として担うべきシステム」にシフトしても、そうおかしくはないだろう、ということである。

 もう一つの問題は、家庭そのものが子供の育成に対する力を失いつつある、と言うことである。きょうだいの数も少なく、核家族化が進んだ現在、子育ての経験は蓄積されず、「子供とどう接していいかわからない」という親が増えている。また、虐待によって失われる命も多いのである。いっそのこと、子育てはすべて「その道のプロ」に任せることにした方がいいのではないだろうか?

 最新作は見事にコケたようだが、「ハリー・ポッター」シリーズがベストセラーになったのも、実はこの要素があるのではないか、と考えている。ハリーの親は彼が幼い頃に亡くなり、以後叔父の家に引き取られて育てられるが、虐待同然の仕打ちにあう日々。そんなある日、魔法学校からの入学許可証が届く。魔法学校でハリーは親密な友情と、厳しくも暖かい教師たちに囲まれて、一人前の魔法使いへと成長していく・・・というストーリーには、「失敗した家庭」と「(集団)教育への期待」というテーマが隠れている。



 いずれにせよ、私などのあずかり知らぬところでどうやら[その2A]へ向けて、動き出しているようである。

移民政策

フィリピンからの看護師、介護士受け入れへ FTA交渉[asahi.com]
 看護師や介護士の受け入れに関する日本側の案は(1)日本語の習得と日本の国家資格の取得を条件とする(2)特定活動ビザで3~4年、日本に滞在できる(3)国家資格取得後は就労目的ビザで長期在留できる、というもの。日本政府関係者によると、フィリピン側は、日本案を了解した、という。また、受け入れ人数とともに、現地での日本語の学習期間や費用負担などは今後の検討課題となる。

2004年10月29日付の記事である。

 フィリピンは看護師や介護士の「輸出」にかけては実績のある国であり、スウェーデンなど北欧の国々が高い福祉政策を維持できているのも、実は安価なこれらの労働力を利用できているからだ、という説がある。

 そういった意味で、私はフィリピン人看護師の「質」に関しては、想像よりも高いのではないか、と考えている。だが、看護職という一種の聖域ながらも、日本政府が「労働力」を目的とした移民政策を決定したことの意味は大きい。

 相当数の看護師が国内に長期在留することを認めれば、その多くは日本で家庭を築き、永住を望むようになるのは明らかなであり、実質的な移民受け入れと考えられるからである。

本来、こういったことは100年単位での国家ビジョンがなければやるべきでない、と思うのであり、彼/彼女らの職務内容よりも、むしろそのことについての疑念が残るのである。

Sunday, October 31, 2004

五十歩百歩

情報乱れ政府迷走、「米軍頼み」に限界 イラク人質事件[asahi.com]

混乱の原因は「最初に現場にいた米軍の関係者の情報が不正確だったため」(町村外相)というが、イラクの治安が悪化する中で、事件への対応を米軍に依存せざるをえない日本政府の限界があらわになった。

 この記事を書いた記者は、「米軍」を「日本政府」に、「日本政府」を「朝日新聞」にそれぞれ置換しても、全く同じ構図が成り立つということに気がついているのだろうか。

 大本営発表をそのまま紙面に載せてしまう、というのは戦前さんざん犯してきた誤りであって、その歴史を繰り返すな、というのが戦後報道の原点だったはずだが、どうも最近一回転して元に戻ってきている気がする。

 本来国民の目となって働いてくれるべき大手マスコミの取材能力は、こんなとき全く役に立っていない。

Saturday, October 30, 2004

修理完了

 頭にきたのでシステムボードごと交換して、メインマシン復活。神様、私のAthronを焼かないでいてくれたことに感謝いたします。

 ビデオカードは1,750円の一件のままだが、ここはKISS(*)の格言に従ってそのままにしておく。別にこの期に及んでAmerica's Armyとか3Dゲームをガンガンやるわけじゃないのだ。

 ついでにいままで「ケースファン」というものをつけていなかったことに気づいたので、1,100円程度の一件を購入してネジ込む。

 なぜかGIGABYTEのマザーボードを買うと、おまけでNorton Internet Securityがついてくるのだが、今までの経験上インストールするとものすごい悪運に見舞われることになる気がするので、無視してAVGを用心棒に雇う。

 何はともあれ、これでメインマシンは完全に復調した。これでリンクとぶ度に5秒かかる生活から脱出できる。

 (*)Keep it simple,stupid!

いま、「民間防衛」を読む

 地震やテロといった大災害が起こると、必ず売れる本にスイス政府編「民間防衛」がある。スイスでは一家庭につき一冊ずつ無償配布されている本だが、日本で同じことをやったらおそらく大騒ぎになるだろう。というのは、邦訳版の表題に「あらゆる危険から身を守る」とあるものの、その中身をよく読むと、実は「あらゆる危険からを守る」であって、スイスほどの軍事国家(国民皆兵制度は有名で、すぐに動員できるよう成人男子の家には必ず自動小銃と実弾が備えてある)でも、危急の場合には国が必ずしも個人を守りきれないこともあるのだ、ということがよく分かるからである。

 「民間防衛」はもともと、永世中立というスイスの理想を実現するため、他国による侵略戦争から生き延びることを念頭に置いている。私が凄いと思うのは、「戦争に入る前のことも当然ながら、戦争に●●●場合のことも書いてある」ということだ。「●●●」には何が入るかは、あとで書く。しばし考えてみてほしい。


 さて、「民間防衛」は非常事態に対し、日頃からどういった蓄えをしておくべきか、という点については実に優れた教科書である。家族一人あたりに対し、水は何リットル、小麦粉はこれだけ、米はこれだけ、食用脂肪はこれだけのものを、こういった場所に蓄えておきなさい、ということについて、実に懇切丁寧に書いてある。その意味では、大地震のような状況に備える日本人にも、大いに参考になるだろう。


 だが、この本には特に目を引く項目が2つある。

 一つ目は「スイスが侵略を受ける場合」について書かれたページである。「民間防衛」では、これについて次の二つを想定している。

 すなわち、「敵は我が領内を(進撃路として)通過しようとしている」か「敵は我が領土を併合しようとしている」かのいずれかであり、前者に対しては「敵はその道が時間を要すると知れば、他のルートを考えるだろう」後者に対しては、「敵はその試みが非常に高くつくと知れば、あきらめざるを得ないだろう」と説いている。現代戦において、あまりに長期化する戦争は国内世論、国際世論の双方から支持されないことを計算に入れているのだ。

 日本が戦争に巻き込まれることはないだろう、と考えている方々は、果たして日本が「通過」「併合」のいずれを採っても価値のない土地だと考えておられるのだろうか。「不沈空母」として、ある意味、すでに「併合」されているというのは過言だろうか。


 もう一つは、「怒りを抑えて時を待とう」というページである。これは、敵国の占領下において、相手国の兵士に対する組織化されない攻撃は、犯罪として厳しく(敵国の司直によって)処罰されうる、ということについて述べている。

 そうである。「民間防衛」は、「戦争に負けた」場合についても書いてあるのだ。もちろん、単に敗北主義に走るのではない。

 不幸にしてスイスの首都が陥落しても、脱出に成功した一部の指導者たちが友好国で「亡命政府」を組織すること、国民は表面上相手国の占領政策に同調し、受け入れるがごとく振る舞うべきこと、国外からの援助のもと、密かにスイス政府を復興すべくゲリラ戦が展開されること、そしてその過程で多くの国民に犠牲が生じうることについてまで、言及されているのである。


 私はこの章を読んだとき、心底スイスという国が恐ろしくなった。そして、スイスに戦争を仕掛けようなどと考える指導者は、とんでもない愚か者だ、という感想を持った。おそらく本書を読んだ読者も似たような感想を持つことだろう。ということは、政府による「民間防衛」の出版という事業は、抑止力として立派に国防の一翼を担っているのである。


 翻ってイラクに目を向けてみよう。米軍がバグダッドを占領し、外交権・警察権を掌握し、一見戦争は終わっているかのように見える。しかし、本当はそこからが新たな戦争の「始まり」だったかも知れないのだ。我々のいうテロリストたちは「民間防衛」の手順を忠実に実行しているのかも知れない。それを知る意味でも「民間防衛」は一度読んでおく価値のある本である。

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 果たして、我々の国家においても「主権回復」は水面下で進められているのだろうか。

Friday, October 29, 2004

続・地震のショックで死亡

 25日に書いた件だが、実際治療に当たられた先生がテレビに出演していた。

 車中泊により、いわゆる「エコノミークラス症候群」を発症される方が多く見られるとのこと。また、「地震によって驚いたことによるショック死」というよりも、むしろ避難生活による疲労の結果、基礎疾患を抱えているお年寄りの中に脳血管系、循環器系の急性症状でお亡くなりになる方が出た、ということらしい。

 とくに、現在も相当数の方々が車中泊をされているわけで、ヒーターを焚きながら(空気が乾燥して水分を奪われる)、座って睡眠を取るという生活は非常に「エコノミークラス症候群」を誘発しやすいらしい。

 私は「災害医療」に対して、発生直後24時間、48時間をいかに乗り切るかが勝負なんだろう、と勝手に想像していたが、どうも勘違いをしていたようだ。地震のように大きな災害は、ある意味緩慢なやり方で人を死に追いやることがあることを学んだ。だが、それは医療の力だけで防ぎきることの出来る問題ではないだろう、とも感じる。

修理状況

 未だメインマシンが直らない。

 とりあえず電源がイカれているのは分かったので、玄人志向の400W電源を買い。これで何とか電源投入は可能になった。だが、今度は起動の途中、ログイン画面表示のところで画面表示が乱れてしまい、使用不能になってしまう。

 何回かBIOSの設定をいじりいじり試してみたが、やはり途中で固まる。しかも、デスクトップのアイコンが滅茶苦茶だ。なぜかワードのアイコンがゴミ箱マークになっていたりする。そのアイコンを削除すると、今度は別のアイコンがゴミ箱になっている、という具合だ。こりゃいかん。

 Windows XPを再インスト-ルしてみるが、やはり起動の過程でビデオカードの認識がうまくいかず、画面が乱れて止まってしまう。

 以前にも似たような症状があり、その時は思い切ってビデオカードを交換してうまくいった経験がある。とりあえず、格安のビデオカードを探して見る価値はあるはずだ。

 そこで今日は近くの「じゃんぱら」へ行き、nVIDIA(だと思う)のAGPビデオメモリ16MBの中古カードを\1,800足らずで購入。ちょっと風邪を引いて診療所にかかってもこの程度はかかるご時世。診断料と考えれば、まあ看過し得る出費ではある。部屋に帰って、今まで刺さっていた玄人志向のRadeon7000と交換してみる。

 すると、今度はログインののちデスクトップの表示まではスムーズに行った。だが、IEを起動させ、Yahoo!を表示させていたたところ、いきなりHDDのアクセスランプがつきっぱなしになり、フリーズしてしまった。仕方なく電源を落としたが、今度はBIOSメニュー表示後HDDが認識されなくなってしまった。

 いい加減e-Machinesから一つ買った方が安いんじゃないか、という気がし始めたが、せっかく私が命を吹き込んだマシンなので、むざむざと捨ててしまうには気が引ける。

 せめてAthronが熱で焼けてないと良いのだが・・・。これからの時間は一層貴重になるだけに、明日はSocket A対応のマザーボードを探しに行くべきかどうか考えている。

【鑑別診断】
マザーボード(特にAGPスロット周り)の破損/CPU(Athron XP)の焼損/物理メモリの寿命/電源を急に落としたことによるHDDの破損/実はケースのスイッチ周りがおかしい/呪われている

Monday, October 25, 2004

地震のショックで死亡

 今回の新潟県中越地震において、複数のお年寄りが「地震のショックで死亡した」と伝えられている。医学用語の「ショック」(血圧低下)と、堅気の衆が使う「ショック」(精神的衝撃)では意味が異なるのはよく知られていることだ。

 おそらく、「地震のショック」とは後者、つまり精神的衝撃のことを言っているのだろうが、私が不勉強なせいであろうか、「人が精神的ショックで死ぬ」ことをうまく説明できない。似たような医学用語に「神経原性ショック」というのがあるが、これとはちょっと違うだろう。昔はプロレスラー(かみつきブラッシー)の流血シーンでテレビの前のお年寄りが数人亡くなったと言うが、それは「ユリ・ゲラーの超能力で壊れた時計が動いた」というのと、似たような仕掛けがあるのではないかと思っている。

 完全な推察であるが、地震前後に起こった「不詳の死」の多くが、「地震によるショック死」として処理されているのではあるまいか。

 つまり、平時でも、こたつに当たってお茶飲んでテレビ見てるおばあちゃんが突然胸を押さえてうずくまってしまい、そのまま救急車で運ばれる、ということはある程度の確率で起こり得ることだ。いつもならば、そのまま病院なり救急センターに運ばれて、徹底した検査を実施して、ICUに収容して、大動脈解離なり心筋梗塞なり、何らかの病名をつけられることになる。不幸にして亡くなった場合も、遺族から了解が得られれば病理解剖に付して、病理診断までつけることが出来る。

 しかし、地震というのは、一時に多数の負傷者が発生するという特殊状況下である。このせいで救急医療機関が飽和されたがために、あるいは平常時であれば治療を受けられた可能性のある方々が、不幸にも満足な治療を受けられずに亡くなってしまった、ということである。

 もちろん、「満足な治療」を受けられればそれらの方々を救命し得たのかどうかは分からない。どんなに救急システムを改良したところで、絶対的にマンパワーの不足する大規模災害においては、こういった死が生じることはやむを得ないのかも知れない。

 自動車同士が衝突して、重傷者が4人いる、と言う場合のトリアージと、地震が起きて外来に300人の外傷患者が押しかけている、と言うときのトリアージは違ってくる、ということも聞いたことがある。前者の場合は、設備が整った施設という前提で「4人全員の救命」を目標とすべきだが、後者の場合は全員救命することが不可能だ。

 私はその現場にいるわけではない。いま被災地で活動しておられる先生方のご苦労を推測することしかできない。地震によって住み慣れた場所を離れなければならないストレスや、急激な気温の変化など外部環境の変化も、死の遠因にはなっているといえるだろう。

 遺族を含めて、みんなが納得するためには、「おばあちゃんは地震のショックで亡くなったんだよ」という言い方がこの場合最も良いのかも知れないが、医科の学生としてはちょっとした割り切れなさを感じるのも事実である。

チャカ傷の話

駐在所の巡査長の拳銃暴発、子どもけが 愛媛[asahi.com]

 同署の調べでは、拳銃は、ベルト付きの拳銃ケースに入れた状態で、駐在所事務室の隣の居間の押し入れに置いてあったという。長男がケースを押し入れから取り出し、拳銃を抜いて触っていたところ暴発し、ふすまで隔てられた廊下にいた次男にあたったらしい。同署は「拳銃には複数の実弾が込められていた」と説明した。


 この記事を読む限りでは、巡査長の拳銃保管の方法がまずかった、としか言いようがない。だが、10歳と言えばちょうど悪戯したい盛りの年頃である。かくいう私も、このころマッチ遊びを母親に見つかって壁まで張り飛ばされたことがある。

 しかし、駐在さん、と言えば家族ぐるみで、その村の治安を守るただ一人の警察官、と言うイメージがある。津山30人殺しのような事態が起こったとき、駐在さんがすぐにアクションをとれないことはとてもまずいわけで、寝るときは鍵をかけて保管庫へ、というのは規則として正しいかも知れないが、少々不安の残ることである。

 おそらくこの駐在さんには厳しい処分が下ることであろうし、場合によっては職を失うことになるかも知れない。その場合、長男は「弟を撃ってしまった」という悔恨を背負って一生を送らなければならないし、そのせいで家族を路頭に迷わせた、と言う責め苦をも負うだろう。この家族に降りかかる運命を考えると、どうしても暗くなってしまわざるを得ない。

 たった一つの明るい要素は、次男が肺を撃たれたにもかかわらず死亡していないことである。ふすまを一枚貫通してから次男に当たった、とのことであるから、ちょっと考えると、ああ、そのせいで弾の勢いが弱まっていたから助かったんだな、と思うところだ。だが、実はこういう弾丸こそ体内で停止してしまう可能性があるため、運動エネルギーが生体組織に全部伝わってしまい、致死的になりやすい。(今回は結局貫通銃創になったようだ。この点に関してはもう一つ書きたいことがあるが、本筋を離れるのでやめておく。)
 
 岩田健太郎先生の「悪魔の味方」によると、近年アメリカでは、殺人事件が減少の傾向にあるそうだ。その背景にあるのは、治安や警察力ではなく、むしろ「救急医療体制の向上」であるという。所詮「医者の書いた本だからそうなんでしょ」と言ってしまえばそれまでなのだが、医者の技量によって、一人の人間のしでかしたことが「傷害」なのか「傷害致死」なのか、変わってしまうということである。

 そう考えてみると、医者が関わるのは単に「目の前の患者」の人生だけでは無い、ということだ。それは、大学病院の医者であろうと村の診療所の医者であろうと、それぞれについて言えることなのである。

 延びすぎたので、今日はここまで。

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 医学部で「君、毎月読んでいる雑誌とかあるの?」と聞かれ、「月刊GUN」ですと答えると、なぜか「Cancer Researchかね、君よく勉強してるね」と感心される。



 んなわけねーだろ。

Friday, October 22, 2004

メインマシン故障

 ここのところほぼ24時間稼働に近い状態で酷使していたのが響いたのか、メインマシンが故障してしまった。

 普通にFirefoxを用いてwebを巡回していたのだが、突然シャットダウンが開始され、電源が自動的に落ちてからは起動できなくなった。電源スイッチを押しても反応がない。

 本日の午前中に再雇用したノートン先生を用いて、完全スキャンを実施していたところだったので、ウイルスによる物とは考えにくい。それに、ウイルスのせいならばBIOSが立ち上がらないのはおかしい。

 となると熱暴走など、ハードウェアトラブルを疑いたいところだが、しばらく待って、CPUを冷やしてみても立ち上がってこない。まったく電源スイッチに無反応である。

 キーボードやモニタケーブルなど、スパゲッティのように絡んだコード類をとっぱらい、とりあえずケースを開けて中身をのぞいては見たものの、別に煙を噴いているところはない。CPUの冷却ファンや放熱フィンまで外してみたが、とりあえず焦げてはいなかった。

 となると次に考えたいのは、マザーボードのBIOSがとんだか、電源の寿命が来たかであるが、とりあえず試験が終わってから修理に入る。マザーボードのマニュアルはすでにメーカーからダウンロードしたが、どうせ各部品の保証期間などとうの昔に切れてしまっている。

 ことによると来年春までこのサブマシン(Libretto L1)で乗り切ることになるかも知れない。また、マッチングの結果によっては、住宅事情から考えて、就職先にこのマシンを持ち込めない可能性がある。更には、部品を求めてかけずり回る労力を考えれば、しばらくお金を貯めてからDELLの直販でも買った方がいいということになるかも知れない。


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 こういうときは、たとえ牛のように遅くとも、少なくともWindows PCであるLibrettoの存在が無性にいとおしく感じる。「どこでも使えるコンピュータこそ、最強のマシン」

カストロ議長も_| ̄|○

 いやあ、何だか世界的に_| ̄|○が流行しているようで、元気が出てきました。個人的には昨日、模試云々よりも相当_| ̄|○な出来事があったのだが、それを吹き飛ばすぐらいのインパクトが。

 ご丁寧にasahi.comは連続写真付きだ。

 この際だから、カストロ議長も野球界再編に協力して欲しいものだ。

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 韓信匍匐【意味:大物になる奴は_| ̄|○が上手い。】

Wednesday, October 20, 2004

_| ̄|○

模試の結果が返ってきた。

<一般問題・臨床問題>
既出問題の学習が一般、臨床とも不十分です。
再度既出問題を徹底的に勉強してください。

成績の推移
第一回 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
第二回 ▲▲▲▲▲▲▲


_| ̄|○。。。

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 「模試を受ける」のも、「病院にかかる」のも、金を払って悪いニュースを聞くという点については共通する部分がある。しかし、だからといっていい大人がそこから目を逸らしてはいかんのだ。
 たぶん。

Tuesday, October 19, 2004

blogとはウンコである

 - 副題 page viewを減らしてみよう -

 私は文章を書いて飯を食っているわけではない。つまり、ここにくだらないことを書いているのは、完全に私の趣味であり、誰かに強制されて「一日一編ずつ書け」といわれているわけでもない。

 当然、書くことがたくさんある日もあれば、何も書かない日もある。書きたいことがないのに、無理矢理ひねり出して書くことはない。しかしながら、しばらく書かないでいると、書きたいことは溜まってきてしまう。頭の中がそれでいっぱいになって、書かないわけにはいかない、ということになってしまうことがある。今、書いているのがまさしくそういうことだ。

 ふと気付いた。

 これはウンコそのものではないかと。

 日によって柔らかい日もあれば、固いときもある。一日に何回も出て、どうにかなってしまうのではないかと思う時があるかと思えば、具合が悪くて何も出ないことがある。朝一番に出るときもあれば、夕方ふとしたときに出したくなることもある。旅先で、バスの中で、路上で、山の中で、トンネルで、本屋の中で、食事時に、どうにもこうにも出したいことがあって、急に紙が欲しくなることがある。

 そうだ。まさしく、blogとは精神のウンコそのものなのだ。

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 何だか最近、眼鏡をかけた白髪のロシア人に、いつも追視されているような気がして、その人の考えが頭に流入してきているような気がする。いかん、こんな事では北海道「本土」の盾になれないぞ。

トラックバック考。

 最近、やっと「トラックバック」とは何者なのか、わかってきた。ここに整理しておく。

 通常、ある人物の著作を引用するときは、いったい誰の文章を引用したのか、明らかにしておく必要がある。「引用」とは、他人の文章の一部分を切り取ったものである以上、私の文章力不足によって引用元が不当な評価を受けることがあってはいけないからである。

 私が書いた文章は、当然第三者が読む事を想定しているから、その読み手が引用元を容易に参照できるようにしておくのがよい。つまり、原文に対してリンクを張ることである。しかし、この「リンクを張る」行為は、直接トラックバックとは関係がない概念である。従って、このリンクは手動で張らなければならない。


 さて、誰かの文章を引用する場合、第一義的にはその引用元に連絡を取る必要はない。それは、インターネットにおける「リンク」の概念による。通常、自分が著作したサイト内容ではないことが明らかにわかる場合、たとえ「リンクフリー」の標記が無くとも、リンクを張ることは、マナー違反ではない。

 しかしながら、引用に際して、引用元に連絡を取りたい場合がある。それは、多分に個人的な文章を公開するblogというものの性質を鑑みるに、個人対個人のコミュニケーションがとても大事になってくるからである。

 引用元への連絡手段は、それこそメールでも、電話でも、硯と墨を用いても良いのだ。しかし、トラックバックというツールを使うことで、相手先へ「引用したことの通知」と「相手も引用を用いて構築した自分の文章(の概要)」を明示することが出来る。しかも、それは相手の文章を読んでいる第三者にも参照可能である、ということが画期的なのだ。


 銘記すべきなのは、「トラックバックを発砲する」行為は、自身がblogを所有していなくても可能だ、ということである。Moveble Typeや、多くのblogサービスでは、ユーザにトラックバックツールを提供しているため、あたかもWWW上にblogを所有していないとトラックバックは発砲出来ないように思っておられる方も多いと思うが、それは誤りである。

 blogを持っていなくとも、「blogぴんぴん」(Win版(要会員登録)/Mac版)や、このようなスクリプトを用いることで、ローカルから一方的なトラックバックの発信が実現できてしまう。これを悪用すれば、いわゆるトラックバックスパムになる。そうでなくとも、相手の文章と自分の文章が全く関連しない場合にトラックバックを発砲するのは、本来の使い方ではないといえる。


 従って、私はトラックバックを発砲する際に以下のようなことを心得ている。

★相手の文章を引用するか、少なくとも相手の記事を読んでいることが前提条件となって自分の文章が成立する場合にのみ、トラックバックする。
★トラックバックを発砲する際には、相手の記事へ手動でリンクを張る。
★トラックバックは「発砲する」ものである。一度撃ったら取り消せない。
★相手がトラックバックに対応していないサイトの場合、メールを送信するなど、他の代替手段によって引用の事実を知らせる。
★出来る限りローカルツールを使用する。(haloscanからトラックバックすると、日本語サイトではほぼ確実に文字化けが起こるため、個人的な理由。)

 もちろん、トラックバックに対する考え方はまだ個人個人によって異なる部分がある。上記の項目を、私も「必ず」実行しているとは限らない。あくまでもメモである。

枯れた

 6月頃書いたパキラの取り木だが、標記のような結果になった。

 「ルートン」を使ってみたが、結局幹周囲の皮をむいた部分からの発根が得られず、思い切って7月頃切り戻しをかねて幹から上の部分を切断、挿し木を試みてみたが、根が着かなかった。

 「切り戻し」とは、背が高くなりすぎた植物の幹を途中で切り、脇芽を伸ばす操作のことを言うが、今に至るも脇芽が出てこない。ひょっとすると、「殺ってしまった」かも知れない。唯一の希望は、未だに幹が緑色を保っていることであるが、北海道の夏ということを考えると、切り戻す時期が少々遅かったのかも知れない。

 本当はこういうときに農学の専門家が近くにいると良いのだが、・・・。長くなるのでここには書かない。

 結局ホーマックに行って、若い苗を二つ買ってきた。取り木を試みたときに使った出費よりも、苗二本の方が安かった。

 植物とはいえ、本来こんな風に命を粗末にするのはあまり褒められた行為ではないのだが、・・・。長くなるのでここには書かない。

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 今日はずいぶん内輪ネタだった。

Saturday, October 16, 2004

汚れた川に鮭は帰らない

地域の医師不足解消へ入試で「地元枠」増 文科省支援へ
 ただ、地元枠を設けても確実に残ってもらえる保証はない。岩手医大は私立だが、地元枠合格者は卒業までの学費のうち、国立大学の入学金と授業料に相当する額を負担すればいいことにし、差額の1人当たり約4000万円は県が負担している。その代わり、卒業後には県内の公立病院での勤務を義務付けている。県外に出れば、負担金を返還してもらう約束だ。


 一般に、入試における地元枠を増やすことは、地域に出向する医師数の確保につながるかのように思われている。が、果たしてそうだろうか。

 「地元枠」の導入は、大学側の積極的な意図と言うよりも、むしろ地方の医師不足に対して、「大学が医師を送ってくれない」という批判をかわすために導入が決まっているようなものではないか、と思う。

 「オレに逆らうなら北海道で医者が出来ないようにしてやる!」という教授の一言が通用したのは遙か昔の話である。そういう強権的な教授がいた頃はまだ「地方に飛ばす」という必殺技が出たのだが、いまはどこの教授も「本人がイヤだといっているものを、無理に地方に行かせるわけにはいかないよねえ」という具合だ。本人の意志にそぐわないのにに勤務に就かせ、問題を起こされる方が、組織にとってはよほどダメージが大きい。

 従って、「医局ではなく、大学全体としての窓口が地方への医師派遣を斡旋する」という話になってきた。「いや、これは大学の窓口が決めたことだから」という形にした方が、大義名分が立ちやすいと言うことだ。


 私自身、地方出身の医学生である。出身地のA市は、今や2万人を切るくらいに人口が減り、市立病院の産科婦人科、小児科外来は既に閉鎖されてしまった。眼科や耳鼻科といった診療科は、週に2回ほど大学から外来の医師が派遣されてくるだけである。慢性的な医師不足に悩まされているA市は、新臨床研修制度に伴い、破格の給与で新卒の医師を募集することにしている。

 本来ならば、私のような学生こそ、地元に戻って医者をすればいい、というのだろう。

 だが、私の初期研修希望病院リストに、地元のA市立病院は入っていない。正直、産科や小児科、精神科といった新制度では「必修」とされている科のローテートが、事実上そこでは研修できないことになる。十数キロ離れた、他の市の病院へ出向して研修を受けなくてはならないのだ。

 また、医師数が少ない、ということは、必然的に新卒の研修医に対する負担がかなりきつくなる、ということだ。おそらく一年目から一般外来を担当することになる。困ったことがあっても、相談できる上級医をすぐに見つけることが出来るだろうか?ちょっと前「マニュアル片手に手術をしていた」といって叩かれた先生方がおられたが、下手すると毎日マニュアル片手に診療する事があるかも知れない。

 私はA市が、今までどんなに無計画な財政を行い、若者に対しどんな仕打ちをしてきたか、よく知っている。その時点で既に大減点なのだが、全く長期ビジョンを考えずに、「カネさえ出せば何とかなるだろう」式の発想がミエミエで、私は戻る気にならないのだ。

 はっきり言って、A市で研修を行った研修医のほとんどは、2年の期間終了後すぐに大学病院なり、他の病院に転勤することになるだろうと思う。そのための「資金作り」と割り切っている方が多いと思うのだ。

 だが、それは地域医療に於いて最も重要な要素の一つである、「継続性」という概念からは、大きくかけ離れている。


 6年生になった今としては、私も「思い切って地方に行ってみようか」という気がしている。だが、数年前までは、(医学部以外の)都会の大学を卒業して、都会の企業に就職する高校時代の同級生たちを見て、「なんで他人より多くの犠牲を払った俺が、必ず田舎へ行かにゃいかんのか」という羨望の気持ちがあった。

 すぐに偏差値云々を持ち出すのはヒンシュクを買うが、「同じだけの学力があれば、他の大学の理学部にも入れたはずだ。こんな足し算かけ算しか使わないようなイカサマ科学じゃなくて、もっとまともなサイエンスを学べたはずなのになあ」という葛藤を経て、今の私があることも事実である。

 一度大海に出た鮭たちは、どんな気持ちで川を上っていくのだろう。

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 数年前、(準)看護師の「お礼奉公」がずいぶんマスコミに叩かれた事がある。主に医師会立の准看護学校で、学校側から半ば強制的に支給された「奨学金」を盾に、卒業生が無理矢理系列病院で働かせる、という話だった。
 医学部「地方枠」の導入にしても、やっていることは同じだろう、と思うのは私の杞憂だろうか。

Friday, October 15, 2004

騙さないわけない

 「ちりんのblog」KU。

 「偏屈おやじの館blog」を読んではっとさせられた。

 いい大人が人を騙さないはずがないのである。

 大人の世界では、「騙す人間であるかどうか」じゃなくて、「騙されるだけの値がある人間かどうか」が大事なのだ。


 我々もこれから先、自分で選んだはずの研修先で「騙された!」なんて言う場面がたくさん出てくるはずで、下手するとそこが精神的ネックになってしまうのだろう。

 しかしながら、考えてみれば医学部に面接が導入されたとき、面接官のネタとしてよく聞かれるものに「あなたは地域医療に興味がおありですか?」というものがある。

 「いや、私は基礎研究の方に興味があるので、地方に飛ばすのは勘弁してください」なんて正直に答えるのは奇特な受験生で、少なくとも北海道内の医学部を受験する場合には「私は人と人とのふれあいが大好きなので、是非地域医療をやってみたいと思います」とか、適当に大ウソを抜かすのが正しい。

 近頃は受験生が全員面接を受ける事になっているので、ほぼ全員がこの大ウソをつかされるのである。面接官を務める教授の方も、学生が卒業後みんな僻地に行ってくれるなどとハナから期待してはいない。
 
 しかし、中にはとんでもなく誠実で、医師として非常に不適格な人物が紛れ込んでいるかも知れないから、そういうのが間違って合格してしまわないようにする目的がある。

 みんな人を騙して医者になっていくのである。少々のことで「騙された」とか言ってはいかんのだろう。

Monday, October 11, 2004

手塚先生済みません

 今日はもっと別のことを書こうかと思ったが、せっかくテレビ版「ブラックジャック」の初回を見たのでこうしてみる。

99B-21
 10歳の男児。小腸憩室手術後、静脈留置針を設置したが、搬送中他患のベッドと接触し、留置針が折れた。
 直ちに施行した上腕部X線撮影写真と、その30秒後の写真を示す。(別冊カラー写真5)
 その後上腕静脈結紮術、続いて緊急開胸術を実施したが、折れた針の先端は見つからなかった。
 1週間後、留置針が折れた部位と近傍の動脈より、折れた先端部が摘出された。
 直ちに行うべき検査はどれか。
 1,胸部HR-CT
 2.胸部単純X線撮影
 3.気管支血管造影
 4.心臓カテーテル検査
 5.Tc-99m肺血流シンチグラフィ

a.(1),(2) b.(2),(3) c.(3),(4) d.(4),(5) e.(1)(5)

この問題はフィクションです。答えがあるかどうかについても責任取りません。

 どう考えても「どこかにシャントが存在した」と考えるのが自然であって、「折れた針が肺まで行って、どこも傷つけずに出てきた」と考えるのは解剖学的に、ものすごく無理がある。手術場の大学の先生も、天下の名医ブラックジャックも一言もこのことに触れないのは・・・_| ̄|○。

 バックグラウンドに心房中隔欠損や動脈管開存や肺動静脈瘻があるかも知れないのに、そこを「生命の不思議」で終わらせてしまってはイカンだろう。

【堅気の方へ解説】
(シャント:普通血管はおおまかに、動脈→毛細血管→静脈とつながっているものだが、まれに動脈→静脈と直接つながっている事があり、これを「シャント」と呼ぶ。心臓や肺の近くの血管にこれが存在すると、「酸素たくさんの動脈血」と「酸素に乏しい静脈血」が混じり合ってしまうため、効果的な血液のガス交換が行われず、病気として扱われる)


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 医者には「科学的に正しいことをやるのなら、結果的に病気が治らないことがあってもやむを得ない」と考える人と、「病気が治るのならば、別に科学的に正しいかどうかは問題ではない」と考える人がいる。医者の間で評価が高いのはどちらかといえば前者であり、私もまあ「いい医者」というのは前者のような人を言うのだろう、と考えつつも後者へ傾いてしまうのを自覚している。

 しかし、ここはツッコまずにいられなかった。高校生の頃、同じエピソードを単行本で読んでいて、そのときは純粋に感動したのだが、年を取るというのは本当にイヤなものである。

Thursday, October 07, 2004

わからないことだらけだ

 昔、金曜ロードショーには3ヶ月に一本の割合で「刑事コロンボ」が登場したものだ。コロンボ警部はたいていこういう風に犯人を追いつめて行く。
 「実はね、現場とホトケさんをちょっと調べてみたんですが、それがわからないことだらけでして。」
 倒叙ものである「刑事コロンボ」では、犯人が殺人を「自然な死」に見せるように小細工したりするのだが、我らがコロンボ警部にはちゃんとそれが「わからないこと」に見えるのである。


 昔、ある基礎医学の教授から言われたことがある。

 「医学なんて、わからないことだらけなんだから、研究する価値があるし、面白いんだ。」


 確かに、わかっていることよりも、わからないことの方が圧倒的に多い。

 わからないことを明らかにしようと言うのも「医学」だが、わからないことはわからないなりに、今生きている人間を何とかしようと言うのも「医学」である。

 たとえば抗生物質であるエリスロマイシンが、細菌感染が本態ではないDPB(びまん性汎細気管支炎)になぜ効くのか、ということは長い間謎だったし、ASO(閉塞性動脈硬化症)は何でタバコを吸っている人に多く起こるのか、ということについても明確な説明は未だ与えられていない。

 しかし、DPBの患者にエリスロマイシンを投与すれば、長期予後は大きく改善するということ、そしてASO患者には禁煙させた方が予後が良い(最新のHarrison'sによると必ずしもそんなことはないらしいが国家試験的には「禁煙指導」だ)ということがわかっている。

 究極的に言えば、人間の体なんかまだまだブラックボックスで、いくら整然とした理論が与えられたところで、「ある治療」に対して本当に「ある反応」が起こるかどうかは、多数の「人柱」を使って確かめなければならない。

 「人柱」といえば人聞きが悪いので、上品な言葉でこれをEBMと呼んでいる。


 ちょっと前、利根川進先生がNHKの番組で「サイエンスに頭の良し悪しなんかあんまり関係ない。大事なのは『どういう問いを立てるか』だ」という事をおっしゃっていた。

 私は今まで、意図して人の考えない問いを立ててきたつもりだった。答えの出ない問題は、「考え続けるところに価値がある」が信条だった。

 今でも十分「わからないこと」だらけだ。

 しかし、最近ある考えにとらわれてもきている。それは、「賢い奴は、答えの出ない問いなんか、最初っから立てないのではないのか?」ということだ。答えが出る問題か、それともでない問題かをかぎ分ける嗅覚のある人間こそ、「賢い」のではないのか?

 だとしたら、私は相当「愚かな」人間であったことになる。

--
 わからないことは、わからないなりに、「やってはいけないこと」に大きな×をつけ、「まあやってもいいこと」に△をつけ、「普通やっている」事に○をつけるのが国家試験である。

Tuesday, October 05, 2004

あそこは公共の場か、私的空間なのか

ススキノに監視カメラ構想[北海道新聞]

 ススキノは「経由点」としてよく行くのだが、こんなところにカメラが置いてあるとは知らなかった。ススキノよりちょっと手前には、資生館小学校という札幌で一番新しい小学校があるのだが、そのド真ん前に「この地域から暴力団事務所をなくそう」という立て看板があったりする、実にほほえましい場所である。

 ススキノはいわゆる「ロビンソン前」というメインストリートがあり、ここは比較的治安の良い場所として(近くにすすきの交番もある)よく待ち合わせの場所に使われている。しかし、同じストリート上で、昨年暴力団による傷害致死事件が起こっていたりするわけで、まあ一つのデンジャーゾーンであることには変わりない。


 今日ここで問題にするのは、「果たして繁華街の路上にプライバシーは存在するのか」ということである。

 たとえば、私は大通公園にたくさん監視カメラを設置しておこう、という意見があれば、文句なしに賛成する。公園というのは「公共の場」であり、そこで行われる行為についてプライバシーがどうのこうの、というのはナンセンスであるように思える。

 公共の場にカメラを設置することについて、立正大学 小宮信夫助教授「あなたにもできる銃犯罪防止活動」(PDF)から引用する。

(5ページ目)
 防犯カメラの話になりますと、必ずプライバシーの侵害になるのではないかと言う反論があります。しかし、イギリスは世界で最もプライバシーを尊重する国の一つです。プライバシーというのは、個人の私生活がみだりに他人の目にさらされない、と言うことです。そうすると公共の場所に防犯カメラを設置する場合には、そもそもプライバシーとは衝突しないとも考えられます。なぜならば、プライバシーが制限されるからこそ、その場所が公共の場所と呼ばれるからです。ですから、公共の場所におけるプライバシー、という問題の設定自体が矛盾しているわけです。プライバシーが制限されているからこそ、その場所は公共の場所なのです。また、イギリスの場合には、防犯カメラのほとんどは、地方自治体が管理しています。警察ではありません。


 つまり、小宮先生の意見は「公共の場でのプライバシーは制限されるが、私的空間でのプライバシーは厳に守られるべきだ」ということである。

 ここで、ススキノの場合を考える。ススキノは、普通の「お酒を飲むお店」がいっぱいあるところなのだが、その範疇に入らないお店もたくさんあるところである。

 数年前の歌舞伎町ビル火災の際にも明らかになったが、そういうお店に誰それが行っている、ということは相当なプライバシー上の問題になる。また、使いようによってはある人間に対する脅迫材料にさえなりかねない。

 監視カメラを設置することが果たして「公共の場」を守ることになるのか、あるいは「私的空間」を犯す事になるのか、ということについての問題である。また、カメラの管理権を警察に与えて良いのか、という問題でもある。

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 実は警察に監視カメラ設置されて、一番困るのはススキノをこよなく愛する政治家の皆さんじゃないのか、という気がする。

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 追記:同じ講演の中で、「クライム・ストッパーズ(匿名通報システム)を整備すべきだ」とも言っておられる。私もこの点については賛成だ。

 過去に2回ほど110番通報をした経験から言うと、何もやましいことがないはずであるのに、やはり警察を呼ぶという事に関しては一抹の躊躇が生じるものだ。

 そもそも「オレは○○町から来た××だ!」と名乗って入る強盗もいないわけで、犯罪とはもともと匿名でやるものである。被害者(あるいは被害者予備軍)の方だけ匿名性がない(警察にマークされる)、というのは、どこかフェアでない気がする。

Friday, October 01, 2004

チャカは小さい方が怖い

組員の銃で少年殺害か、同じ25口径と判明 大牟田

 県警などによると、ブローニング・ベビーは暴力団関係者らの間で30万~40万円で取引されているという。ただ、暴力団は口径が大きく殺傷能力の高い銃を持つのが一般的で、ブローニング・ベビーはあまり出回っていないとされる。


 一般に、大口径で、とにかく弾丸に威力のある拳銃ほど「怖い」印象がある。ダーティーハリーご愛用のS&W M29 44Mag.などその最たるものだ。しかし、拳銃は小さなものほど本質的には怖いのである。

 拳銃の意義は、その携帯性と隠匿性にある。実際、現在軍用拳銃として主流の9×19mm口径でも、一般的な訓練を積んだ兵士が狙って当てられるのは10m程度の射程、熟練者でもせいぜい30mである。

 もちろん、9mm口径の方が25口径(※)より威力は大きい。しかし、たとえばナイフを構えた相手がこちらに向かって一直線に走り込んでくるのを阻止するためには、9mmでさえ2発以上の命中弾を必要とする、とされる。従って、「護身用」としては小口径の拳銃は実に使いにくい。

 逆に、誰かを襲うという確たる意図を持った人間にとっては、小口径の拳銃は実に使いやすい武器である。威力の小ささは、隠匿性を生かして十分に接近し、急所を狙うという使用方法で十分にカバーできるのである。つまり、映画のように廊下の向こう側からデザートイーグルを何発も撃つより、こっそり相手の後ろに回り込んで、22口径を延髄めがけてポンと弾く、というやり方が一番致命傷を与えやすい。

 しかも、小さなピストルほど密輸しやすく、手に入れやすい。よく言われるのは、自動車のエンジンシリンダーに分解した拳銃を隠す、という手口である。こんなコトされると、素人目にはどうやって見つけたらよいものだか、ちょっと想像がつかない。


 長崎出島の時代ならいざ知らず、今は一日何千トンという貨物が日本に入ってくるのである。本当に税関の皆様には頭が下がるのである。

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 一般にN口径と言うとき、弾丸の直径は(N×2.52÷100)mmである。

Thursday, September 30, 2004

RSSリーダーを使ってみる

 最近新たに「blog」サービスを始めたところには、必ずRSSだのATOMだのXMLだのといったワケのわからんリンクが張ってある。

 RSSっていったい何なんだ。

 私などがここに書くより、もっとちゃんと解説してあるサイトは数々あるので、詳しいことは書かないが、私の理解としては「ページ更新をわかりやすくするシステム」ということだ。

 たとえば、いつもこのblogにお越しになる方々には、「はてなアンテナ」経由の方が多い。私もユーザーの一人だが、「はてなアンテナ」はサイトに更新されたテキストを取得する仕組みである。

 たいていの場合はそれでもうまくいくのだが、たとえばblogの中には横にカレンダーを表示するようセッティングしてあるものがあったりする。たとえば明日10月1日になると、一斉にそれらのblogでは9月のカレンダーから10月のものに置き換わるわけで、「はてなアンテナ」の方式だとそれを拾ってしまうのである。

 実際、読み手の関心があるのは「記事の内容」であるから、これで「更新」が検出されてしまうのは紛らわしい。


 そこで、RSSリーダーを使う。RSSリーダーが検出するのは、あくまで記事内容(またはタイトル)なので、たとえサイトの体裁だけが変わったとしても、それを更新として検出しない。そのかわり、何か新たな記事が加わったときには間違いなく検出される。

 glogの他にもたとえばasahi.comスラッシュドットジャパンなどがRSSを配信している。

 Headline-Readerを一ヶ月間試用してみて、なかなか使い心地が良かったのでシェアウェア登録した。同様のRSSリーダーとしてはフリーのglucoseがあるが、いまいち不安定で使い心地が良くないのと、何より"glucose"という単語を蛇蝎のように嫌う知り合いがいるので、今は利用していない。

 また、最近gooが無料のRSSリーダーを配布しているが、「gooブログ全体」「教えて!goo」など余計なRSSを拾ってしまうように設定されており、しかも解除できないので、Readerには対価を払ってもまあそれだけの価値がaあったと思っている。

Headline-Readerと同じ作者がHeadline-Deskbarという作品も公開している。こちらはフリーウェアなので、RSS初心者にお勧めである。新しく更新された記事を拾って、デスクトップ上に一行表示してくれる、非常に慎ましやかなソフトである。

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 リファラを探ると、このblogを「医療系blog」に分類して頂いているところが多く、もちろんリンクして頂くことは大変にうれしく思っております。

 しかし、さらに検索ワードを探ると「Mozilla Firefox」から「ガリル自動小銃」「ステアーAUG」「Gripen」でググられて来る方が圧倒的です。果たして、ここは医療系blogなのか、書いている本人も首をかしげております。

Wednesday, September 29, 2004

老いる田舎は、ますます老いる

静内の産婦人科、筋弛緩剤で母死亡 注射直後、胎児も 病院側はミス否定[北海道新聞]

 あまり軽々しくコメントを出すものではないが、この一件は「出産は都市で」という流れを強めるきっかけになるのかも知れない。上の記事を読んだ限りでは、すぐに医療事故として警察に届け出たようで、少なくとも事が起こってからは出来る限りの対応をしたように思われる。

 ただ、難しいのは「出産」というものの扱いである。

 世間一般では、赤ん坊が生まれるのはあたかも自然の成り行きで、「五体満足に生まれるのが当然」という考え方が主流だろう。今回のように帝王切開の最中に起こった事故となると、一般の人が受ける感想としては「医者が無茶な手術を敢行するからこんなことになった」というところが主だと思う。

 しかし、帝王切開を行うからにはそれなりの状況があるわけで、実際国家試験の産婦人科問題でも「帝王切開」が選択枝にある問題は少なくない。すなわち、「こういう危険な状態になったら、すぐに帝王切開をしないと生命に危険が及ぶぞ、おまえらしっかり勉強しておけ、さもないと免許やらんからな」ということなのだ。

 また、出生率の低下が全国的な問題になりつつあるが、新生児死亡率の低さについては、日本は先進国でもトップクラスだ。従って、ますます「生まれて当然」という風潮は強くなり、産婦人科医に求められるものは重くなる。

 従って、昔のように地方の産院で、一人のセンセイががんばって赤ん坊を取り上げる、といった状況は成立しにくくなる。出産は複数の医者がいる都市部の大病院で、という話になるのだ。

 しかし、一旦都会に出た若者は絶対に田舎に帰りたくなくなる、というのが世の常である。(もちろんそれは、田舎出身の医科大学生にもあてはまることだ。)

 となると、ますます田舎で生まれた赤ん坊が、しかるべき年になって都会へ出て、そこで相手を見つけて、都会で家庭を築いてしまう、という流れが完成するわけで、それは長い目で見るとますます過疎化を進めてるだけじゃないのか、という気もする。

 参考記事:
医者がいない/地方の産婦人科ピンチ[asahi.com MY TOWN 北海道]
健診は診療所 出産は病院[YomiuriOnline]
出産は大病院へ集中を 産婦人科医会が見解[Y! 共同通信]

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 大体北海道で「都市部で出産を」といったら、「大学病院のある都市で出産を」という言葉と同義になってしまうと思うのだが。
 そうなると、またどこかの町長サンが赤旗振りかざして激怒するのだろう。

キャラが違う

パラリンピック・アテネ大会が閉幕[asahi.com]

控え目閉会式「がっかりだ」…組織委に選手ら不満も[YomiuriOnline]

 何だか二つの新聞社が伝える記事の内容に、ずいぶん温度差があるぞ。

 前者の伝え方だと、
 夏季大会では初めて、パラリンピックと五輪の組織委員会が一つとなった。約80万人分の切符が売れた。観戦に向かう途中の交通事故で亡くなった高校生を悼み、閉会式の一部が中止された。

とあり、しかも日本選手団が大写しになっている写真と、華やかなダンサーの写真がセットになっている。これを見た人は、「ああ、ちょっとしたセレモニーが中止にはなったものの、閉会式は8割方予定通り行われたんだな」と思うことだろう。

 後者は、
 パラリンピック閉会式は28日、花火などの祭典部分を一切なくし、選手入場や聖火を消す作業などの必要最小限の儀礼部分のみで切り上げられた。27日に起きた、パラリンピック見学に来る途中の高校生7人の交通事故死を追悼するため、組織委員会(ATHOC)が突然発表した前代未聞の変更は、国際パラリンピック委員会(IPC)との不協和音を奏で、参加選手からの疑問を呼ぶ、後味の悪い結果となった。


 当初予定されていたセレモニーがほとんど行われなかったことを伝えている。

 もちろん予定の99%が実施されない場合でも、「一部」には違いないから、朝日の記事が誤報ということにはならない。

 ただ、普段の印象から行くと、最もパラリンピックを華々しく捕らえそうな新聞社と、大して取り上げなさそうな新聞社がそれぞれ対照的な記事の作り方をしているというところが非常に興味深いところである。

Saturday, September 25, 2004

水谷修先生、高校退職

水谷先生、高校教師を辞職へ[毎日interactive]

圏外からの一言」および「北沢かえるの働けば自由になる日記」経由。

 何でも9月8日の記事だそうで、気付くまでにはしばらく時間を要した。


 私はこの先生をテレビや書籍といったメディアを通してしか知らないけれども、一日3時間の睡眠で、繁華街の夜回りをし、さらに定時制高校の教員という定職を続けていらっしゃると言うことで、正直いろいろな意味で「この人、大丈夫なのかなあ」と思っていた。

 毎日新聞の記事で自ら語られているところを読むと、あまりのハードワークで体を壊されていると言うこと。メディアで活動が広まるにつれ、全国津々浦々から四六時中電話がかかってくるわけで、年齢的にもいつまで持ちこたえられるのだろうか、と思っていた。

 また、もう一つ述べられているように、水谷先生のような存在というのは、とかく教職員側の目から見ると邪魔に見えるはずだ。教育委員会からも圧力がかかったらしいが、おそらく同僚からもあまり受けは良くなかったんじゃ無かろうか。これは完全に私の推測であるが。

 先日にも少し触れたが、ある奇特な善意を持った人の行動が、ともすると組織全体の維持を中心に据えた視点から見ると、必ずしも善意に見えないことがある。積もり積もったものが、ある時点において、その個人を組織から抜けさせることを余儀なくさせる。

 こういった構図は、どこにでもあるものだろう。

 少し「小賢しい」ヤツならば、とっとと「NPO法人・夜回りを進める教職員の会」でも設立して、そこの会長に納まるところだろう。「水谷には同僚に対するコミュニケーション能力と協調性が欠けていた」とか言って。

 最後まで誰と連むわけでもなく、たった一人で戦い続けたその姿には、果たして自分につべこべ言わずに彼と同じ事が出来るだろうか、と考えさせるものがあった。

 だが、是非この機会にゆっくり休養して、仲間を集め、体勢を立て直して復活して欲しい。私は切にそう思う。


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「ペスタロッチは優れた教育者であった」を真としても、「教育によってペスタロッチをつくることが出来る」は必ずしも真ではない。それが教育というものの限界である。

Tuesday, September 21, 2004

ババアの文句みたいなもの

 おととい、自転車のヘッドライトをぶつけてしまった。幸い、本体に破損はなかったものの、ライトの電球がどっかへ飛んでいってしまい、その場で見つけることは不可能だった。

 その場所がガソリンスタンドの真ん前であったこともあって、そこでモタモタしていると車に轢かれそうだ、という思いと、豆電球の一個ぐらいどうにかなるさ、という実に安易な思いからその場を後にしたのだ。


 だが、今思えば這いつくばっても探すべきだった。


 家に帰ってから、改めてその電球一個を探しに町へ出た。

 まず、適当な豆電球(2個100円ぐらいの)を買ってはめてみる。合わない。微妙に口金の径が合わず、ネジがかみ合わない。あえなく撃沈。

 仕方がないから、近くのジャスコへ行って自転車売り場を覗いてみる。あった、あったよ、同じライト本体が。喜び勇んで売り場のお姉さんに聞いてみる。
 「すいませーん、このライトの替え玉ってどこに置いてありますか」
 「・・・・・申し訳ございません、替え玉は扱ってないんですよ」

 しょうがないので、元々自転車を買った(そこでライトも一緒に買っていた)市内の某大型量販店へ行く。微妙に型番が合いそうなのがいろいろあるが、よくよく見ると、定格電圧・電流、電球基部径がそれぞれ異なる。しかも一つ700円とかするのである。これはちょっと、当てずっぽうでチャレンジする気にはならない。しかも、同じライトを丸ごと一つ買うとなると、2000円である。

 イヤになってしまって、家に帰って、メーカーサイトでライト本体の型番・適合電球を調べてみた。

 おんなじようなライトの電球でも、これだけの種類があるのだった。しかも、「楽天市場」で買おうとすると、これである。北海道へ520円の電球一つ送ってもらうのに、送料1050円も取られるのだ。

 それが商売というものなのかも知れないが、マイナーチェンジごとに全く互換性のきかない部品をつくって売るやり方には、何だか非常に納得できないものを感じた。しかも、何で北海道だけ送料特別なんだ。深紅の大優勝旗が津軽海峡を渡るこのご時世に。
 私が道知事だったなら、まずこの瞬間に北海道の核武装を宣言しているところだ。

 何だかとにかく、面白くないのである。今度ライトを買うときは、「電球がちゃんと手に入るか」に最大限の注意を払いたいと思う。

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 結局、今はベスト電器で買ってきた294円のペンライトを、ヒモでハンドルにくくりつけて使っている。案外、具合がよろしい。

Monday, September 20, 2004

死刑囚を治療するか

 宅間守が、ついに死刑になった。

 丹波哲郎(昔は初めて「007と競演した日本人俳優」、現在は「温泉の精タンバ」として知られる)の「大霊界」という本を子供の頃読んだことがある。中に今考えると、興味深い一節があった。

 それは、「霊にも進化論が適用できるか」という問題である。

 つまり、有史以来、人間の人口というのは着実に増加しつつあるわけである。輪廻転生を支持する立場からいうと、人間の霊魂の数には限りがあるわけだから、人口というのはほぼ一定数でないといけない。そこで人間が増え続けることを合理的に説明するためには、いわゆる「畜生」の霊が「人間」に進化してこないといけないのではないか、というのである。

 もちろん、正統な仏教界の見解ではやや違った考え方があって、たとえば「あの世には、たくさんの人間の霊魂がプールされている」という説明があったりする。そのプールの人口がどれくらいかなんて、それこそエンマ帳を見ないとわからないから、結構な「逃げ」にはなっている。

 話を宅間に戻すと、この男には全く「同情」という感情が欠けているわけで、温泉の精タンバ様のいうとおり、「畜生」から進化してきたばかりの魂が宿った存在だったのかも知れない。

 さて、「死刑囚の病気を治療するか」という問題がこちらで書かれていた。
(元々はhttp://homepage3.nifty.com/
henachoko_student/index.html
の9/19)

 さんざん述べてきた「医者は善悪を判断しない」という立場から考えれば、「治療する」ということである。善悪を判断するのは司法の仕事であるから、司法がある時刻にある特定の仕事を実行しなければならないなら、それはそのようにする、ということである。
 最近でも、「エホバの証人」に対する輸血事件の最高裁判決が下っている。出血性ショックという、たとえ差し迫った死の危険がある場合に於いても、患者の自己決定権が医師の裁量権に優先するという主旨の判決で、最終的に約55万円の支払いが命じられている。

 私個人の善悪観念を用いて言えば、宗教とは人がいかにして生きるかという問題を扱うもので、人を死に向かわせるようなものを果たして宗教と呼んで良いのか、という気がする。たとえば、同意を得ない輸血の結果、患者は助かり、その後患者側から告訴を受け、3000万の賠償を命じる判決を喰らったとしても、「それは3000万円で人一人の命を買うことが出来た」と記述して良いのではないか、とさえ思うことがある。裁判所に、死んだ人間を生き返らせる力がないことは皆よく知っている。

 しかし、こういう記述を一旦許してしまうと、問題は私一人の話ではなくなってしまうわけだ。他の大勢の医師たちが、その後「あなたは多額の賠償金を払う可能性に恐れをなして、救命努力を怠っているではないか」と糾弾されてしまう可能性をもはらむ。従って何となく釈然としない思いを抱えつつも「患者の自己決定権は尊重しなければいけません」と言わなくてはいけないのである。

 裁判所といえども、宅間という一人の男の頭を無理矢理押さえつけて「どうもすみませんでした」と言わせることは出来なかった。J.S.ミルなんかを持ち出すまでもなく、そのことは、人間の内心の自由というものが、いかなる他者の意図とも独立して存在するということを、厳に示している。

加筆修正

 最近ろくに肉体を使わずにデスクワークばかりを行っていたばかりに、よく回らない頭で不確かなことを書いたところがいくつかある。また、筆が足りていないところままある。
 今日はまず、その誤謬を自ら正していこうと思う。

>Saturday, September 18あ~んあぁ・・・

 このコミッショナーは「野球は論理の世界じゃなくて、感情の世界だった」と述べている。一番言いたかったのは、「じゃあ、その感情の世界に対してあなたは、あなたなりに出来るだけのことをやったのか?」ということだ。
 「論理の世界じゃなかった」という言葉の裏をすごく深読みすると、「だから結局野球選手ってのは●●なんだ」という、軽蔑にも似たニュアンスがあるわけで、結局自分に「感情」を計算する能力がなかったことを露呈する発言である。他人の感情を計算するのは社会生活上、結構大事な能力だと思うのだが、検事総長出身だかのコッミショナーどのが、トップに上り詰めるためには全く必要としなかった能力なのだろう。
 ずいぶん記事のベタ面積を使ってはいるが、その中身は「あ~んあぁ やんなっちゃった あ~ん あ ああおどろいた」以上でも、以下でもない会見である。

>Sunday, September 5宣伝のようなもの

 まだ本日に至るまで一通の申し込みもありません。はてなダイアリーやgooブログ、ココログといった国内ブログが充実しつつある現在において、わざわざblogspotまでやってきて見て下さるブログ上級者の皆さんは、すでにお持ちなのでしょう。
 ちなみに、今を時めく(うわぁ)livedoorのメールは、一応容量1GB提供だそうです。
 まだまだ私のところでは2MBのままですが、MSN Hotmailもそのうち250MBにするそうで、そうなるとHotmailのアカウント4つ取ればGmailとタイです。たぶんそのうち、一日500MBくらいはspamに占拠されると思いますが。


>純粋に軍事的側面から見た学校占拠

 どうも「犯人の方から仕掛けた」という説と、「治安部隊の方から仕掛けた」という説があって、それはマスコミという、エーテル(※)以上にゆがみやすい媒質を通してしか事件を知ることの出来ない私にはどちらが正しい、と言いきることの出来ない問題である。

自己ツッコミ:
 これからの対テロ戦術の原則は、「防御側に準備の余裕を与えるな」が原則となり、事件発生後出来る限り迅速に、攻撃側が、その選択するタイミングで攻撃を行うようになるのではないか、ということである。つまり、ペルー公邸人質事件のような長期化する人質事件は、今後成立しなくなるのではないだろうか。少数の犠牲を払っても、出来るだけ短時間に解決するべきである、という考え方が主流になる。


 よく考えれば、ロシアは元々そういう国だった。一昔前まで、デモ隊が道間違えないようにお巡りさんが先導してくれるなんて日本だけの光景であって、おおむね東側諸国でお巡りさんの仕事と言えば、、デグチャレフ軽機関銃でデモ隊に面制圧射撃を加えることだったはずだ。
 つまり、「治安部隊」の仕事は「治安を守る」ことであって、「市民の保護」ではない。「治安」とは「政治体制の安定」に他ならない。つまり、事件が長引いて指導部の影響力が低下するよりは、市民に少々の犠牲が出ても一気にやってしまったほうがいい、ということも考えられるわけだ。

Saturday, September 18, 2004

あ~んあぁ・・・

根来コミッショナーが辞意[Yomiuri Online]

 まあ、タイミングを見計らってお辞めになるんだろうな、とは思っていたが、実際に第一報を聞いたとき、浮かんだのはこの方の顔だった。

 「ディスコグラフィー」から、いくつかCDが試聴できるようなので、RealPlayerをお持ちの方はどうぞ。一番下の、「レゲエ」がしっくり来ると思う。