Sunday, March 23, 2003

オルタナティブ・メディスン

 「代替医療」という言葉がある。原語では、alternative medicine である。

 これは、従来、近代西洋医学の立場からは、事実上「邪道」といわれていた医療のことである。もう少し詳しく書けば、ハーブ、鍼治療、といったものから、広義にはアロマテラピー、太極拳といった「健康法」の類までをも含むかなり大きな概念である。

 なぜこんなことを書くかというと、ある新聞での記事に、「病院へ受診する代わりに、代替医療を選択する人は、予想されていたよりも大幅に多いことがわかった」というようなことが書かれていたからである。これは、下手すると我々も、おまんまの食い上げということになるではないか。これについては、少し深く掘り下げてみなければなるまい、ということだ。

 人はなぜ代替医療を選ぶのか。

 一つの理由に、医療費の問題がある。
 最近中華人民共和国へ旅行に行くことがあり、その際ガイドから聞いたことなのだが、最近まで社会主義国家、中国(上海)では、正規の病院へかかった際の医療費というものが、8割公的負担でまかなわれていた。ところが、近年市場経済原理の導入に伴い、これが逆に、8割患者負担となった。そこで、一般の大衆にとって病院の敷居は高くなり、代わって昔ながらの漢方を処方する薬店の数が大幅に増えたそうである。
 日本でも、月3回目の受診からは医療費算定が大幅に削られるなど、以前よりも病院・医院が「行きづらく」なっているのは、確かである。

 二つ目は、西洋医学を行う病院への不信がある。
 「柔道整復師などが、法で医師以外には認められていない医業、すなわち診断・治療を行っている」という記事が、読売か毎日に載ったことがある。
 これに対して、2ちゃんねるの「病院・医者」板では結構な議論が巻きおこった。
 私自身は議論に参加しなかったが、スレッドを眺めていてショックだったのは、「整形外科医らが、自分の領分を侵されないがために無理難題をつけて整復師らを糾弾している」という論調が、少なからずあったことだ。「我々の手はレントゲンより正確」とは、よく言ったものだと(医学生の立場として)思うが、要するに医師という職業が、世間一般に対する信用をいかに失いつつあるか、ということを考えさせられた。

 たかが「2ちゃんねる」だという向きもあろう。
 しかし、以下に述べるエピソードは、背筋に何か冷たいものを感じさせるに十分である。(一般教養の教員から、数年前に聞いた話である)
 95年、地下鉄サリン事件でその名をとどろかせたオウム真理教。その広告塔として、名門国立大学法学部出身のA弁護士がいた。A弁護士は、大学での成績は常にトップ、司法試験には在学中に合格、というまさに「エリート」の資質を満たした存在であった。その彼が、よりによってなぜオウム等という非論理的集団に身を投じたのか。それは、「腰痛が治らなかった」からだという。
 A弁護士は、大学在学中から、原因のよくわからない腰痛に悩まされ続けていた。複数の整形外科を転々としたが、一向に改善の兆しがみられなかった。(こう書くと、なんだか私が整形に個人的な恨みでもあるように思われるかもしれないが、そんなことはない。整形はメジャーな学問です、と。)
 ある時、A弁護士は、「ヨガ教室」の看板を目にする。最初は疑心暗鬼であったろうが、やってみると実に腰痛が楽になった。

 そのヨガ教室こそ、後のオウム真理教であった。

 これ以来、A弁護士はオウムに傾倒していくことになる・・・。

 なんだか出来過ぎのような話にも聞こえるが、逆にあり得ない話でもない。「現代医学で答えを出せなかった」問題には、医者は無力である。いや、医者は「無力である」の一語で済ませられるかも知れないが、患者の立場からすれば「答えが出ない以上、西洋医学以外の道を探す」というオプションを選ぶのも、当然といえば当然である。

 そこで、三つ目にあげられるのが、患者には、たとえそれが不利な選択であるとわかっていても、それを行う権利があるという比較的新しい概念の浸透である。たとえば、タバコを吸うという行為自体は健康に悪い、とわかっていても、タバコを吸ったからと言って警察に捕まるわけではない。(マリファナなら、捕まる。)それは、良識ある大人には「愚行権」というものが認められているから、ということである。

 話はそれるが、私は「2ちゃんねる」の存在意義も、近いところにあると考えている。確かに情報の質は粗悪、便所の落書き、と揶揄されることも多い。しかしながら、電波法の免許を受けた放送局、また歴史ある新聞社といえども、その流す情報に絶対誤謬を差し挟まない、という保証はない。しばしば、大きな力によって報道はねじ曲げられる。どうせそれならば、はじめからあまり信用がならないものでも、触れてみる価値はある。

 閑話休題。
 つまり、「効く」という確かな証拠がないことぐらい、患者の側でも承知なのだ。それでも、まだ知られていない「何か」があるのではないか、という希望を持ちたい、というのも患者心理である。


 さて、代替医療が、西洋医学と正面からぶつかり合う、という場面がある。

 第一に、代替医療が、明らかに有効とわかっている西洋医学の効果を妨害することだ。
 一例を挙げると、不眠改善・精神安定の目的で、ヨーロッパでは「セント・ジョーンズ・ワート(セイヨウオトギリソウ)」という薬草が民間薬として用いられている。しかしながら、この薬草は、強心薬、抗凝血薬等と一緒に服用した場合、これら薬剤の血中濃度を下げてしまうということが知られている。人によっては、「心臓がどきどきするので、民間薬で落ち着きたい」という場合があるかも知れないが、これが命取りになる場合も考えられる、ということだ。

 また、西洋医学の立場にあるものからよく言われることに、「適切な治療の機会を奪われる」という問題がある。
 現代医学の主眼は、「治療して、完全に元に戻すこと」から、「病的な状態を、いかに進まないようコントロールするか」といったところに移りつつある。糖尿病や、心臓病といった病気は、初期にサインを見逃さず(これが医学生にとって「勉強」の八割方を占めることである)治療を開始すれば、悲惨な状態に陥る前に進行を止めることが可能である。ところが、初期のサインを単なる「体調不良」として代替医療で軽減しようとし続ければ、その裏で病態が進行するおそれがある。

 第三に、悪質な医療者を排除できるか、ということがある。
 たとえば、リフレクソロジー、という代替医療がある。これは、足裏のツボを刺激することにより、全身的な健康を培う、という考え方に基づくものである。それに効果があるのか、といった事柄については、ここでは述べない。
 しかしながら、過去「法の華」という宗教(?)団体が、それによく似た行為を「宗教行為」という隠れ蓑を使って行い、代価として多額の布施を集めていた、という事件が起きたのは、西洋医学の発達した最近のことである。

 実際、私自身も予備校生の時に、この団体が駅前でビラを配っていたのを目撃しているし、ビラを受け取ったサラリーマンが真剣な目つきでそれを読んでいたのもありありと記憶している。もっと言うならば、つい2年ほど前に、テレビ塔前の喫茶店へいくと、怪しげな浄水器を随分高い値段で売買している光景が必ずみられたものだ。買う方も真剣で、「これで娘のアトピーが治りますよね」とか、話していたりする。私は開いている標準生理学の中味より、そっちの方が気になって仕方が無かった。

 うさんくさくないわけでもないが、現代医学を司る医者の養成には「大学教育」と、「国家試験」という一応の歯止めがある。しかし、代替医学に関しては、事実上医師法・薬事法などに「触れない限り」好きにやっていい、ということになっている。


 医学用語では「予後がよい」「悪い」といった言い方をすることがある。診断がついてから、あるいはある治療を行ってから、たとえば5年で区切ったときにどれくらいの人が生き残っているか、ということだ。だが、5年間生存率50%といったところで、患者の側にしてみれば「どういう努力をすれば生きている方の50%に入れるのか」といったことは、西洋医学でわからないのである。(わかっていれば、当然その治療法が一般的に選択されるはずだから、「50%」という数字が変わってしまう。)
 従って、そこにはアガリクスだのメシマコブだの、といった怪しげなものが入り込む隙が、うじゃうじゃしているのだ。

 大学に籍を置いて医学を学ぶ者として、この種の代替療法に傾倒するのは、危険であることは自覚している。それをわきまえた上で、西洋医学で答えを出せない事柄に対して、「それはまだ大規模な調査結果が出ていないので、わかりません」という言葉でいいのか。それは、本当に依頼人の利益にかなうことなのか。新たな深い問題である。

電子メールのセキュリティ

 本日、前もって注文しておいたメーラーが郵便できた。
 Justsystemの、shuriken Pro 3。

 結構楽しみにしていた新機能に、メールの「暗号化」がある。

 そもそも、電子メールは他人が簡単に読むことができる、葉書のようなものだ。従って、第三者に読まれたくない内容のものは、電子メールで送るべきではない。

 しかしながら、PGP(あるいは、GNUバージョンのGPG)というものを知って以来、この「暗号」というものに興味を持つようになった。(いろいろなものに興味を持つようになるおかげで、成績はさっぱり、である。この種の人間が、私を含めて、周りには随分多くいることだ。)

 PGPとは、Phillip Zimmermanという男の開発した「公開鍵暗号プログラム」である。現在、無償でダウンロードし、使うことができるようになっている。

 公開鍵暗号、という仕組みについて、私の理解した範囲で書いておく。本格的にこの理論を学ばれたい、という賢明な方々は、数学の整数論のテキストとともに、成書を当たられたい。

 公開鍵暗号、というのは、つまりこういうことだ。ここに、私宛の手紙を書こうとする人がいる。もちろん、その人自体と私は知り合いでなくてもよい。この手紙の差出人は、私専用に作られた「封筒」に手紙を入れることにする。ここでいう「封筒」というのが公開鍵である。封筒自体は、誰でも簡単に手に入れられる場所にあり、また実際は数十行の文字列(電子データ)であるので、品切れになる心配もない。
 さて、私宛に来たこの封筒を、私は私専用のハサミで開封する。この「ハサミ」というのが、秘密鍵というものである。私専用に作られた封筒は、私のハサミでしか開けることができないのだ。

 このPGPであるが、Zimmermanが開発してから、合衆国政府に輸出規制を食らったり、(なんとこれに対しては紙に書いたプログラムソースを国境を越えてからOCRで復元する、という方法で輸出を強行したそうだ)ニカラグア内戦の際に反政府軍の間で用いられたり、という結構オソロシく、また本格的なものである。

 ただ、この暗号方式に興味を持っているネットユーザーは、まだ少ない。つまり、「封筒」の作成を行っていない人がほとんどなのだ。相手が封筒を作っていなければ、いくら私ががんばっても、仕方ない。明治や大正の時代に、村で一人だけ電話を持ってしまった名主みたいなものだ。

 今のところ、PGPの鍵を公開している私の知り合いは、たった一人である。

 しかしながら、先日ある新聞社のサイト(最近は禁無断転載、とうるさいので詳しく書けない)において、捜査機関が容易に犯罪を追跡できるように、プロバイダに一定期間のメールを保存するよう義務づける、という話が載っていた。

 つまり、たとえるなら郵便局があなた宛の手紙を、全部コピーしてとっておく、というような話である。私はそう後ろめたいこともしていない(ハズだ)が、これはちょっと不安だ。

 と、いうことで、あなたも始めてみませんか。PGP。
 「パソコン」にそう詳しくないひとでも、結構簡単でしょう。
http://www.cla-ri.net/pgp/
 (PGP UUser's Manual for Windows)

Wednesday, March 19, 2003

黒い疑念

 最近、電子メールの機構そのものについて、ある疑念を抱いている。
 その方法を用いれば、見かけ上全く自分の手を汚さずに、ある人物に大量の嫌がらせメールを送りつけられることになる。
 ただ、この方法は合法なのだろうか。

 きっかけは、私が数年前に取得したhotmailアドレスにある。hotmailは、送りつけられるspam(いわゆる「迷惑メール」)の多さでも、有名である。ご多分に漏れず、私のアドレスも時間がたつにつれ「汚れて」きた。

 しばらくの間は、ただ削除するだけだった。それでも処理しきれなくなってきたので、「受信拒否」機能を使い、特定のアドレスからのメールを二度と受信しないように設定し始めた。ところが、相手はランダムなメールアドレスを騙って送信してくるらしく、実に多様なアドレスから届くようになった。

 一般的には、こうなれば自分の無料アドレスを「捨てる」事にするのが普通だ。だが、私はどんどん長くなる「受信拒否」リストに興味を引かれた。もし、このアドレス全てに返事を出せば、いったいどうなるだろう?

 通常、spamに返事を出すことはタブーとされている。返事を出すという事自体、そのアドレスが「生きて」いる、すなわち読む人間が存在することを相手に教えることになるからだ。却って、多くのspamが届くことになりかねない。よく迷惑メールの最後にある「購読中止はコチラ」といったものも、同様である。

 だが、どうせ捨てるメアドだ。私は、100個ほどのアドレスに、全て「spamを送るな!」という内容の返事を出すことにした。まあ、ちょっとした手間と技術はいったが、ここまでは全く合法的なコミュニケーションである。

 すると、ほとんどのspamの差出アドレスは、存在しないことがわかった。よく、相手のアドレスを間違えたときに送られてくるmailer-daemonのメッセージが、たくさん返ってきたのである。結局、とりあえず相手が実在する、「生きた」アドレスは4個ほどにすぎなかった。

 これは別段、驚くことに当たらない。電子メールは、郵便物にたとえれば自宅の郵便受けに当たる「popサーバ」と、街角の郵便ポストに当たる「smtpサーバ」の中継によって成り立っている。自宅の郵便受けは、鍵がなければ開かないが、郵便ポストには誰でも自由に郵便物を投函する事ができる。しかも、インターネットの世界では、誰でも勝手に郵便ポストを作ってよい仕組みになっているのだ。こうして、悪徳業者がたてたポストからの、差出人不明なダイレクトメールが巷に氾濫することになる。

 そこで、だ。

 もし、確実に大量のspamを送りつけてくるという相手に、第三者のメールアドレスを騙って送信したら、どうなる?

 この場合、以下のようなポイントがある。

 ・そもそも、電子メールの差出人(From)は容易になりす
  ましが可能である。
 ・他人のパスワードやアカウント情報を盗んでいるわけ
  では、ない。
  (郵便受けの鍵をなくしても、ポストへの投函は自由
  である)
  従って、不正アクセス防止法違反には、ならない。
 ・たとえば、携帯電話に大容量のspamメールを、一時期
  に集中して送られると、ある人々にとっては生活がマ
  ヒするほどの影響があるかもしれない。
 ・しかし、それは私が行う行為ではなく、spam業者に
  よってなされることである。自ら手を汚さない。
 ・一般社会であっても、葉書の差出人欄に他人の名前を
  書いて投函することは可能だ。しかし、電子メールは
  非常に低コスト、しかも大量にそれを行うことができ
  る。
 ・相手が「まともな」プロバイダであれば、メールの
  経路から差出人を騙る人  間を追求することもある
  だろうが、そもそも相手は迷惑を承知で送りつける輩
  である。

 別にUNIXを知らなくとも、Windows上で動くsmtpサーバーは多く知られている。すなわち、Vectorをちょっとあされば、あなたにも、今日からこの方法は可能、ということになる。

 読者の意見を待ちたい。

Tuesday, February 11, 2003

なんで死ぬか

 実は、喫煙者は医療費抑制に一役買っている、という説がある。

 たとえば、日本全体といったような、ある規模の人口集団を考える。
 この集団の中で、たとえば2000年度といった、一年間で切った医療費の総額についてみてみると、この統計では喫煙者は、非喫煙者に比べて一人あたりの医療費を多く使っている、ということになる。すなわち、一見して煙草吸いは、嫌煙家に比べて医療費を無駄遣いしている、ように見える。

 しかしながら、人間一人が一生涯に使う医療費、という面からすると、これは逆転するのだそうだ。

 なぜなら、喫煙者は非喫煙者に比べ、早く死ぬからである。

 病院に、こまめにかかると健康管理が出来て、長生きできる。「一病息災」などという言葉がある。しかし、本当にそうだろうか。

 医者というものは、ある一定の年齢以上になると、必ずなにがしかの学会に属する。学会から、「認定医」や、「専門医」というお墨付きをもらわない限り、医者の世界でのステイタスが認められないからである。従って、よほど若い医者でない限りは、何らかの「専門」を持っていると考えた方がよい。

 この「専門」というのがくせ者であって、たとえば心臓を専門とする医者と、胃癌を専門とする医者では、語る長寿の秘訣が違ってきたりする。
 アルコールの扱いひとつにしても、「癌を防ぐ12カ条」(国立がんセンター編)では「少なければ少ない程良い」ということになっているが、循環器専門医の立場から言えば、毎日ある程度のアルコールを摂取することは、冠動脈疾患で死ぬリスクを有意に下げる、というエビデンス(大規模臨床試験に基づく結果)があるのである。

 要するに、どんな医者でも「自分のところで患者が死ぬ」のは嫌うわけで、それぞれの専門の病気で死なない方法にしては、事細かにアドバイスできる。できる割には、結局自分の専門の病気で死んだりする。

 先日、ある先生が「転移性XX腫瘍については、手術すれば少なくともその部位で死ぬ可能性をX(注:一桁)%落とせるのだから、積極的に専門医に紹介するように」と仰せになったとき、そんなことをふと考えた。

 というわけで、自分のカラダを守るのは、消費者たる患者サマのみなさまです。その点、お忘れなきように。

 (多分、これに関しては多くの医者も賛成してくれると思う。)

あーあ、こんなこと書くからいつまで経っても・・・なのね。

Friday, January 24, 2003

デジカメ考

 昨年末、ニコン社製のデジタルカメラなる一件を購入して以来、ほぼそれを大学へ持ち込んでいる。
 別に怪しい目的に使おうというものではない。
 講義のスライドを撮影するのである。

 大学の講義では、ここ数年の間にマイクロソフト社製のPowerPointが好んで使われるようになってきた。これは、一般に「プレゼンテーションソフト」と言われるもので、文字・画像・動画を含むスライドをコンピュータ上で簡単に作成することが出来るものである。これと液晶プロジェクターを使うことにより、教員はノートパソコンを持ち込んで次々とスライドを提示し、より「スマートな」講義を行うことが出来るようになった。もはや、黒板とチョークを用いた「授業」は駆逐されつつある。

 問題は、スライドの内容であって、医学部はX線写真や、病理標本写真などを供覧する必要上、元々スライドに偏った講義の文化があったのだが、PowerPointの出現によって相当な字数の文章を含むスライドを、気軽に作成してくる教員が多い。

 たとえば、所謂「診断基準」などといったものは、
http://www.dermatol.or.jp/QandA/kogen/ichiran.html
といった例を見てもらえばわかると思うが、かなりの文字数を含むものである。
 もちろん、中には「全部覚える必要もない」と言われる情報もあるのだが、学生としてはどこから試験が出るか知れない、という不安から、とりあえず出されたスライドの内容はすべて書き取ろうとするものである。そうすると、いかに教員が熱弁を振るおうとも、話し言葉に意識は集中しない。そういうことならば、最初から文字情報のいっぱい詰まった「教科書」を一人で読んで勉強すればよいだけのことで、大学に来て講義を受ける必要はないのである。

 そこで、だいたいこのようなスライドの洪水となる4年後期には知恵者が現れ、講義スライドをデジカメでパシャリ、パシャリとやることになる。もはや、滑りの良い筆記具を真剣に選んだり、画数の多い文字を速記して後で解釈に苦しんだりと言ったことからは解放される。教員の「話」を聴くゆとりも、生まれることになる。(もっとも、音声情報をもMDで録音するのが専門の学生も現れている。)

 いやあ、便利な道具を手に入れたものだ。

 と、単純に喜んでいるわけにはいくまい。
 ここには、学生と教員のコミュニケーションにおける深刻な断絶が現れているからだ。

 スライドの内容が判らねば、その場で手を挙げて質問する。どうしても書ききれぬ内容があれば、あとで教員の元まで出向き、スライド(あるいは、ファイル)を借りてこればよい。教育を目的とした「学校」であるならば、ごく自然なことであろう。

 そもそも日本の医学部では、「教育、診療、研究」の三本柱のうち、教育は評価されにくい部分だと言われていた。すなわち、学生の成績向上に寄与したからといって、それが教員の業績として評価されるシステムがない、ということだ。勢い、割かれる時間も少なくなる。

 また、学生の気質にも問題はある。医学生という者は概して内向的、また「恥」を嫌う傾向があり、目立って自分の馬鹿をさらすよりは、だまって疑問を胸にしまっておいた方がマイナスの点を喰わぬだけましだ、と考えるものである。

 結果として、教員-学生間の基本的なコミュニケーションさえも、失われつつあるということである。

 教員がパソコンという道具を用いて情報を垂れ流しにし、学生はそれを下流ですくうだけ、といった教育の在り方は、たとえみてくれはいいにしろ、決してほめられたものではないと考える。

Monday, January 20, 2003

随筆を書く

 ここに書かれるべき内容は、本来「日記」である。
 つまり、今日はこんなことがあっただの、誰それがどんなことを言っただの、ということを述べる場であるはずである。

 しかしながら、他の多くの「日記作者」と同様、私はここにある種の随筆を書いている。つまり、多分に思想的な文章を書いているということだ。

 下の段に登場する團先生は、音楽家である。しかしながら、先生は「パイプのけむり」の中で、週刊誌である「アサヒグラフ」に載せる8ページの原稿のために、一週間のうち3日を費やした、と書かれている。公衆の面前に触れる文章を書く、ということはそれだけの労力と時間を費やす行為なのだと。

 それに鑑みて、私がここになにがしかの内容を書きつづるのに費やす時間は、高々十数分である。本来ならば、人様に見せられるような内容を備えてはいないし、何より生まれ持った文才というものがないのであるから、私がやっているのはストリーキング並の恥ずかしい行為なのである。

 久しぶりに書いては見たものの、やはり人に見せる文を書くと言うことは、難しいものだ。

團先生のこと

 團伊玖磨先生、という音楽家が居た。

 先々週のこと、慌ただしかった今年の冬休みに一度は訪れようと思っていた郊外の巨大書店に、地下鉄と中央バスを乗り継いで行ってみた。
 学問に必要な専門書であれば、大学の書店で買えばよい。あるいは、書名さえわかっていればamazon.co.jpで注文するという手もある。
 従って、本業に必要な本を買うつもりはなかった。言うなれば、あえて無駄遣いをしに行ったようなものである。幾ばくかの金と時間を、自らページを繰り、そこで気に入った本を買う、という行為は、私にとって何者にも代え難い贅沢なものである。

 バスから降りて、根からの卑しさが災いして寄ったモスバーガーにて、チーズバーガーを喰らい、次に本来の目的である書店の門をくぐったときには、すでに日が暮れかかっていた。
 そこで何冊か、写真術の本だの、メディア論の本だのと、飯の種にもならぬような本を買った。

 財布をしまいがてら、懐中時計を出すと、まだ帰りのバスの時間には小一時間ある。やれ、困ったと思いながらも、またしても書店に併設されているミスドにてドーナツとコーヒーを喰らいつつ、書物に目を走らせた。

 ここでふと、ある書物のタイトルが思い出された。
「パイプのけむり」

 オペラ「夕鶴」から、童謡「ぞうさん」まで、多くの名作を生みだしてこられた作曲家、團伊玖磨先生の随筆集である。
 まだ私が子供だった頃、祖父からもらったこの「パイプのけむり」から教わったことは数知れない。「瓦斯」「檸檬」などの所謂難読語の類は、書けぬにしても読めるようにはなったし、その昔中国のことを「支那」と読んだ時代のあったことを知った。また、芸術家、これすなわち偏屈な思考の持ち主ということをも、行間に読みとったものだった。

 「パイプのけむり」は、27巻「さよならパイプのけむり」をもって完となっている。先生がずっと随筆を載せ続けてきた媒体である写真誌、「アサヒグラフ」が休刊になったことが理由であった。「アサヒグラフ」の休刊から間もなく、先生自身も2001年5月17日、中国蘇州市にて客死された。

 バスの時間が20分後に迫っては居たものの、私はあわてて検索端末を手繰り、棚の間を駆け回って、その書物を買い求めた。

 芸術家の生き様としての作品は、その死を以て完結する。
 だからこそ、人は永遠に生き続けることが出来る、とも言えるのだ。

Wednesday, November 27, 2002

サービス業

 医療はサービス業である、という考え方がある。
 そういう立場から言えば、下のような意見が出るのもうなずける。
 http://www.asahi.com/politics/update/1126/003.html

 すなわち、医療はサービス業であるから、競争原理をどんどん投入すればよりよいものになるはずだ、ということだ。
 確かに、ある面においては医療はサービス業といえる。

 しかし、医師の仕事は、100%サービス業といえるものではない。

 医師の職域が、ほかのサービス業、あるいは極論で言えばほかの医療職と違うといえるところは、「医師は目の前の患者一人に自分の全力を尽くしてはいけない」ということであると思う。
 確かに、「目の前の患者さんにベストを尽くす」というのは、テレビや小説を通して医療の理想像として広く信じられていることではある。

 だが、次のような例を考えてほしい。
 症例一;Aさんは36歳の運転手である。24時間前、交通事故で頭部外傷を負い、植物状態にある。回復の見込みはほぼ認められない。彼を一日ICUで生かすのに、1日100万円の医療費が必要である。
 症例二;Bさんは48歳の女性。一週間前、膀胱炎と診断され、抗生剤の処方を受けた。現代医学の常識として、こういう病気で抗生物質を3日服用すれば、その後飲み続けても大して病状の変化がないことがわかっている。しかし、Bさんは「まだ残尿感が残るので、薬をください。もし先生が出してくださらないのであれば、ほかの医者へかかります」と言う。

 いずれの症例も、患者(あるいはその家族)に対して「顧客の満足」を優先させるサービス業の考え方であれば、「わずかな回復の見込みにかけて治療を継続する」「念のため、また患者の満足のために抗生剤を処方する」というのが正解だろう。

 しかし、症例一のジレンマは医療費が枯渇しつつある社会において、より切実な問題となり得るであろう。また症例二に関して言えば、漫然とした抗生剤の処方が、多くの耐性菌(抗生物質に「慣れて」しまって、死ななくなったバイキン)を生み出したことは、現代医療の暗部としてすでに歴史の一部となっている。
 これらの行為は、結果として、ほかの多くの患者の「生きる機会」を奪ってしまうことになる。

 医師の仕事は、目の前の患者に全力投球する事ではない。悲しいことではあるけれども、その点で目の前の患者さんの要求に添えないこともある。

 簡単に「医療はサービス業だ」と言うことはできるが、実際我々の「サービス」というものは個人だけに向けられるのものではなく、「マス」に対してのサービスをも含むことを忘れてはならない。
 最終的にその辺のバランスをとるのは、いくら恨み言を言われようとも、医師と言う仕事以外にない。憎まれるのも、仕事の一つである、ということだろうか。

Sunday, November 17, 2002

say hello to...

 「ブラックジャックによろしく」という漫画がある。
 最近、ある先生が講義の話題に出して以来、我々の学年では結構はやっていたりする。

 漫画の内容は、某医学部を卒業して、初めて研修医となった青年、斉藤英二郎の苦悩の日々を描くものだ。

 先生の反応は、「あそこまでワヤじゃないだろう」
 つまり、質の差ではなくて度合いの差だ、ということだ。
 山崎豊子が「白い巨塔」を書いた時代から、本質的なものは変わっていない、ということか。

 私の読後感は、「そういうことは、ふつう研修医になる前に気づくんだけどな」
 主人公を、研修医という微妙な時期に設定せざるを得なかったからこそ、少々無理なところはある。だが、やはり一読の価値はあるだろう。

 特に、日頃医学部に関わりのない人に、読んで欲しい作品である。

Tuesday, November 12, 2002

一銭の得にもならぬ仕事

最近、金銭的には得にならぬ仕事をしてしまった。
だが、うまくいけば、大きな価値を生む仕事かも知れない。


あ、TOEICって11月24日だっけ。
べんきょーしなきゃーーなー。

Monday, October 07, 2002

サイト改築 (CSS化)

今後の課題

1.基本的に色が変わっただけ
2.しかも、この日記だけ配色が浮いている
3.よく目を凝らすと、トップページは剥がれかけた便所の壁紙みたい
  (大理石の「目」が合ってないのがばれそうだ)
4.リンク集が激重になった
5.しかも、一部のリンク先には許可をもらってない
6.さらに、リンク先と名前の違うところがある(・・・まずいよー)
7.付け加えると、今回の目玉だったはずの「会員専用ページ」は、
  まだ全然作ってない
8.あり得ないファイル名を入れると、心臓が止まりそうなほど
  ビビッドな色の404(403)ファイルが出てくる。
9.しかも、その英語がかなり怪しい。

Sunday, October 06, 2002

GUI世代

 この日記を見に来ている人の多くは(=少なくとも3人は)、Windowsや、UNIXのX window systemというGUI環境であると思う。

GUI(Graphical User Interface)とは、ひどく大雑把にいえば、マウスを使ってコンピュータを扱う仕組み、ということだ。10年くらい前のMS-DOSマシンをあつかったことがある人ならわかるとは思うが、(実際私も中学校の技術家庭でその手の代物に触れたことがある)それまでのコンピュータというものは、まずスイッチを入れ、そして真っ暗な画面になにやら浮かび上がる
+1028KB OK
(何がOKなのか、未だによくわからないが)
とかいう表示の後に出てくる
A:>
という不可思議な文字を見て、まずこれで途方に暮れるのである。

 その後、何かまともなことをしようと思えば、たとえば
A:>basic.exe
とかなんとか入れなくてはならないが、元々中学生なんかキーボードさわったことがないものだから、これですでに5分経過したりする。そこでしばらく待っていて、初めてマウスを使えるお絵かきソフトが使えたりして、ほっとするのだ。

 その点からいえば、Windows95というのは実に画期的な(パクリ)商品で、スイッチを入れてお茶のいっぱいも入れて待っていれば、すぐにマウスでコンピュータを「いじる」ことができるようになる。

 思うに、50歳以上のオジサン世代(特に教員!)というものは、激動の昭和を生き抜いてきただけあって(だって、計算機が歯車でできてた時代を知っているのだ)キャノンやカシオのワードプロセッサの扱いには、長けている。

 ところが、なぜかWindowsを始めとするGUIの扱いは、さっぱりである。「右上のちっちゃな×にポインタをあわせる」という、人ならば本能的にできるはずのことが、できないのである。

 思うに、我々がGUI世代と、ワープロ世代(CUI世代?)との差は、インベーダーゲームやファミリーコンピュータといったゲーム機をさわった経験の多寡が影響しているのではないか。

 基本的にファミコンというのは、「一つのレバー(十字キー)と、二つのボタン」ですべてをこなしてしまうシステムである。ドラクエをやってみればわかるが、これで文字入力まで可能にしているのである。

 と、なるとやはりこのGUI世代に対して、まだまだCUI(Command User Interface)全盛であるUNIXに慣れさせていくのは、ちょっとした苦労であるだろう。

 と、いうわけで、今Windows上で動くテキストエディタについての説明文を書いている。まず、「テキスト」という概念から理解してもらうことが、UNIXへの理解への第一歩となるのではないか、と考えるからである。

 たいしてまとまらん。

Friday, October 04, 2002

試験

 久しぶりに駄論文。

 試験というものには、公平の原則がある。
 すなわち、「その試験で計ろうとする以外の要素は、結果に影響してはならない」という原則である。もちろんこれは、出自、過去の成績、受験地などが影響しない、ということを含んでいる。

 この公平性は、次に水平的平等(空間的平等)と、垂直的平等(時間的平等)に分けられる。

 水平的平等というのは、その試験を同時に受験する集団に対する公平性のことで、これを満たすために実際の試験では以下のようなことが行われる。
 まず、第一に、すべての受験者が同じ問題を与えられる。
 そして、その試験は可能な限り同時刻に行われる。
 また、試験者側からは、受験者の匿名性が保たれるよう、名前の代わりに受験番号を使用する。

 垂直的公平性とは、たとえば2001年に受験して合格となった集団と、2002年に合格した集団での差が出ない、ということである。これは、特に資格試験で重視されるべきことである。
 垂直的公平性を満たすためには、毎回均質な問題(すなわち、平均点、標準偏差などが一致する)を出すことが求められる。

 以上のことによって、建前としての公平性を維持するわけであるが、ここに本質的な試験というものの矛盾がある。

 まず、水平的公平性に関してだが、一回に出題できる問題の量には限りがあるので、いわゆる山が当たる、はずれるといった個人個人の学習の偏りによるバイアスを排除できない。

 センター試験や国家試験といった大規模試験では、垂直的公平性を確保するために膨大な量の問題を蓄積し(これをプール問題という)、この中から一部を抽出し、毎回の試験に供するという方法が採られる。
 しかし、大学の講座レベルでは「毎年同じ問題を出す」という実に省エネな(出題者にとっても回答者にとっても)方法が採られることが多い。まあ、それは試験期間中に集中的な暗期量を求める医学部特有な現象ともいえるのだが。
 いずれにしても、結局受験者が求められるのは、出題範囲として出ている事項の中のさらに限られた範囲の中の、ワンパターンな問題に答える能力、という事になってしまいがちである。また、事前にその試験に関する過去の「情報」を得ているものが、それを知らないものより有利になってしまう。これは、試験としての設計意図からはずれたことのはずである。

 ときに、日本でもCBT(comuter based test)が医育機関での中間的な評価として用いられることになり、これに我々もトライアルとして参加することが、医学部長命令として出た。

 このCBTというやつは、上記の公平性という観点から見るといろいろ斬新なところがある。

 今日は疲れたからここまで。

大原則

 新聞局の掲示板にも書いておいたが、どうやら私は大変な思考ミスを犯していたようだ。

 誰かが全く理解できない行動なり、発言なりを行った場合、疑うべきはそいつの頭の中身ではなく、そいつが立っている足下のほうである。

 その大原則を忘れていた。

Tuesday, October 01, 2002

恥曝し

並ぶだけで日給3万円のバイトなら、私もやりたかった、と思う。

 西友の一件は、北海道の恥曝しである。
 ○ンサドーレ、A○R DO、とこの手のネタはつきないのだが、今年はまあよく膿の出る一年である。

 だいたい、今回は豚肉を買った証明となるレシートも求めないで返金に応じるという、ずいぶんな性善説に基づいた対応を持ったがために起こったことであった。
 そもそも、店が「客の善意」を信じるという前提には、「店の善意」を信じる客の存在があるのであって、その相互関係が壊されてしまった時には、意味をなさないものだ。

 それにしても、なぜ大企業・西友ともあろう会社が、こんなマヌケな方法を見せたのであろうか。考えられることは二つある。

 一つは、どうせ軽微な偽装事件であるからと、気前よく返金を行うことによって「太っ腹な会社」であるところを見せつけ(つまりある程度の赤字が出るのは予想の上で)、結果として客の信頼を金で買い戻そうと考えていたのだ、という仮説である。もしそうならば、ずいぶん高い金を払って恥の上塗りをしたものだ。

 二つ目は、本気で会社幹部が性善説を信じていた、つまり本物のバカだったということ。これはまずないだろうが、あったとすれば「普通の人間」の発想を理解できない、とんでもない坊ちゃん育ちの経営者、ということになる。そう考えると、ますます「イタい」ものを感じてしまい、かえってあそこで買う気はしなくなる。

 余談になるが、雪印の一件以来、北海道といえば不良品の巣窟のようなイメージが染みついてしまっていた。本州にも、探せばまだまだバカはいるものである、と思い、久しぶりに爽快な気分になった出来事であった。

Monday, September 16, 2002

「立てこもり」事件

 福岡の籠城事件は最悪の結末を迎えたようだ。
 全く関係のない児童の命を突然奪った犯人の行動に怒りを覚えるとともに、これが日本における「立てこもり」事案に対する、警察の対処が変わる一契機になるのでは、という感想を持った。

 本来、「人質を取って立てこもる」というのは、きわめて成算の低い犯罪である。
 立てこもる方は、事件発生から目的の成就まで、一時の油断も許されないのに対し、対処に当たる治安部隊側は、監視要員を交代し、相手側の出方に対し常にある程度の余裕を持つことができる。

 ただ一つの例外は、犯人側がタイムリミットを設定し、「何日何時までに要求をのまなければ人質を殺す」と言う場合であるが、この場合タイムリミットの到来とともに犯人の逮捕、あるいは死という結果になることが目に見えているということが問題となる。

 数学的な「ゲーム理論」では、こういう場合「人質解放、犯人逃走」というのが双方にとって最良の解(犯人側のメリットと、警察側のメリットが最大)になることが知られている。が、犯人側が犯罪企図に費やした労力を勘案すれば、実際これでは犯人の負けという結果になる。故に、現実の犯罪では簡単に犯人が妥協せず、解決が難しい。

 現実の例をとれば、たとえば「ペルー公邸人質事件」は、解決までに数ヶ月の時間を要したが、逆に、治安部隊側にそれだけ準備の時間を与え(トンネル、実物大の建物を使った訓練など)、突入に有利な状況を形成し得たということである。
 昨年9月11日、テロリストが「航空機を用いた自爆テロ」というショッキングな手段を用いたことも、ペルー公邸事件の影響があるのではないか。「立てこもり」では、事件発生によるショックが時間の経過とともに緩和されるという難点がある。

 今回、そして西鉄バスジャック事件では、刃物による死者が出ている。実はナイフ、包丁などの刃物による人質事件は、銃器によるものよりも「不測の事態」が起きやすい、ということを前に読んだことがある。
 刃物を持った犯人を、治安機関が銃器で狙撃する、ということは一見過剰防衛のようにも見える。しかし、至近距離での刃物は銃器よりもむしろ致命的な結果をもたらす事が多く、また操作が容易であるということを考えれば、十分その選択肢はあってもいいのではないか、と考える。

Saturday, August 17, 2002

原因と結果

 ここ二ヶ月ほど、ある理由により、更新をさぼっていたことを率直にお詫びする。

 一年生の頃受けた、医事法学の講義を思い出すことがあった。
 その先生曰く、「医療事故には、医療ミスによるものと、それ以外のものがある」と。すなわち、医療者の過失により起こるものが『医療ミス』であるが、たとえ医療者がベストを尽くしても医療事故は起こるものである、というのである。

 しかしながら、これには以下のような反論も考えられる。またこれは、マスコミやそれによって形成される世論の一般的な意見でもある。

 「交通事故死(自動車事故、航空機事故など)を例に取れば、被害者のいるところには常に加害者が存在する。すなわち、過失の結果として事故が起こるのであり、事故が起こればその原因を追及し、もって繰り返さぬよう努力するのは、社会の当然の規範である。医療事故の場合も同様ではないか。」

 前半部分、交通事故に関する論点に関しては私も異存はない。しかし、医療事故の場合において、これと同様の論拠が通用するか、といえば私は首を傾げざるを得ない。

 交通事故とは、換言すれば「工業製品による事故」である。工業製品たる自動車の設計から、それを実際に道路上で操作する人間の意志まで、すべてが結びついた結果起こるのが交通事故である。
 従って、極端な話、すべての自動車を時速20km以上出せないよう設計し、また運転を完全コンピュータ制御にして、公道を全部壁で覆う(歩行者と自動車を完全に分離する)事ができれば、交通事故死はなくすことができるが、経済の兼ね合いから、なかなかそうはできない、というだけの話である。

 では、医療にもこのような管理が持ち込めるかというと、それは根本から無理である。

 まず、人間という存在自体が、人為に依るものではない。やるからできるのだ、というレベルではなくて、そもそも「ヒト」というものには設計図が存在しないのである。
 ヒトゲノム計画というのもあるにはあるが、今盛んにやっているあれは人の設計図を読むのではない。たとえるならば地底人語で書かれた地図を発見した人が、その上のドドミ色のシミを見て、意味のある記号なのか、それともモグラの糞なのか、訳も分からずにとりあえず鉛筆でスケッチしているようなものである。

 要するに、人の構造さえもわかっていないのに何かを行うという性質上、医療は元々「半サービス」である。

 また、病院で行う検査にも、「感度・特異度」というのがある。
 わかりやすくするために検査を警察にたとえることにする。
 「感度」というのは犯罪を犯した人間を、検挙できる確率(有病者が異常とされる確率)である。「特異度」というのは無実の人間を逮捕しない確率(正常者が正常とされる確率)となる。
 実際の警察にも、犯人を取り逃がしたり、無実の人にえん罪をかぶせたりすることがあるように、病院の検査にも絶対を求めることはできない。中には「ゴールデン・スタンダード」といって、絶対に間違いを犯さない刑事コロンボのような検査もあるが、それらは概して腹を切ったり、太いカテーテルをつっこんだりするきつい検査であることが多い。

 また、次のような考え方もできる。
 自動車を作るための工学とは、本を質せば物理学の応用である。すなわち、ある限られた法則の発展型としての形である。

 これに対し医学、生命科学とは、未だ枝葉末節の部分から物事を構築しようとしている若い学問である。従って、この業界の人が使う「最新の・・・」という言葉には常に未知数の危険が伴う、という響きもある。
 
 例)最新の抗ガン剤・・・即死する可能性も否定できない
   最新の運動理論・・・10年たったら実は間違いの可能性あり

 従って、「最新」は必ずしも「最良」ではない。

 ただし、我々の住む日本国は、物質文明の進んだ工業国である。従って、ここでは工業製品、すなわち「最新」=「最良」の構図が成り立つ製品を集め、財とすることに喜びを見いだしてきた。新車を買うとうれしい。iモードを買い換えるとちょっとうれしい。1G超のパソコンを買ったので、ちょっと自慢したくなる。

 これに対し、「食う米が3俵ある」というのは現代日本では、もう大した自慢にならない。

 「食」も、大きく工業化されつつある生活の一面である。「衣」と「住」はすでに完全に家庭内工業から駆逐されたと言ってもいい時代である。

 命の源である食料を工場に頼り、いったん何か不祥事があれば無条件に企業をたたく社会。病院へ来れば、病気が「治って当然」だと思う市民。(もっとも、それは実際病気になって病院へやってくるまで、の話であるが。)

 昔、日本が農業国であった時代。「今年の不作は、お天道様のせいだから、弁護士さ呼んで、訴えるべ。」という論理にはならなかったはずであるが・・・。それから数十年。「すべての事象には、原因がなければならない」という考えが、社会に広く横行している。

 「メスをふるうのは外科医の仕事であり、傷口をふさぎ、いやすの神のなせるわざ」という言葉がある。果たして、知恵の力で「傷口をふさぎ、いやす」事ができるほど、人間は賢くなれるのであろうか。

Sunday, June 30, 2002

狂乱の一ヶ月を総括する

 ついに今夜でW杯が終わってしまう。
 全64試合のうち、予選48試合、決勝トーナメント16試合。
 なんだか決勝より予選リーグの方が楽しめたと思うのは、私だけだろうか。

 思えば今月の3日から6日頃までは、「チケットの再販売がある」という話に踊らされ、徹夜でF5を連打していたりした。
(その後フジのスーパーニュースで、ベルギー戦の間にとてもリロードが追いつかないと思われるスピードでF5を連打しているババア、もとい中年のご婦人を見かけたときは「クソババいてまうでゴラ」いや、「おばちゃんゆびがいたくならないのかなあ、かわいそうだなあ」とおもいました。思ったことにする。

 しかし一つ思うことには、日本人サポーターの大多数が決勝リーグ一位通過を決めた時点で「もうこれでいいよ、こんなもんだろう」という雰囲気にあったのではないかなあ、ということだ。
 それに対しお隣の韓国では、「いけるとこまでいったろう」という、よく言えばハングリーな、悪く言えば限度を知らない根性が大いに見えた。2-3-5フォーメーションなんか、「セガ・ワールドワイドサッカー」以外でわしゃ見たことがない。

 そういう意味で、所詮このW杯も多くの日本人にとって「単なるサッカーの大会」に過ぎなかったことがわかるし、ぐんぐん加速し続けるアジアにおいて日本の「お腹いっぱい。」度が知れようと言うものである。

 ちなみにお隣の韓国では、医学部の講義は韓国語で行われるものの、試験・レポートはすべて英語で書かされるのが普通だという。オレだったら泣くね。

 我が国も後20年、いや15年くらいのものであろう。
 こういうのを真の意味での「憂国」というのだ。きっと。

Friday, June 21, 2002

消耗品?

先日、私のプリンタCanon BJ F-600が壊れた。
紙送りに問題が出て、手差しにしても全く用紙を送らなくなってしまったのである。まあ、かれこれざっと1万枚はプリントしたはずなので、寿命といえば寿命である。
(某社のレーザープリンタにも、保証期限は6ヶ月か1万2千枚プリントのどちらか早いほう、ということが書かれている。)

しかし、このプリンタの性能を最大限度に引き出すこと無く、使いつぶしたという点が悔しい。1200×1200dpiなので、それなりに光沢紙でも使えばデジカメのプリント機としても十分使えたはずである。しかし、主に自分の環境ではPDF書類や、レポートの印刷などに使うことが主であるので、これほどの高解像度は必要としないわけである。

と、いうわけで一番安い奴を買うことにした。
HPのdeskjet 845c (\10,800) という一件を買った。

USB接続ながら、
http://www.linuxprinting.org
で"perfectly"のお墨付。librettoのポートと気軽に差し替えて使うことができる、というのもUSBの強みである。


やはり、安いものほど役に立つ。
安いものを柔らかく使える若さのある人間であり続けたい、と思った一日でした。

おしまい。

Thursday, June 20, 2002

今日来たspam

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