Tie 1000 times!
Tomorrow I have a examination to assess clinical skills,so called OSCE.
One of the skills,stureing is so important.
A sergeon of my admire,Dr.Ken Kimura says in his book,
"If you want to be a sergeon,you have to train tie strings 1000 times a day.
Then you'll have a little better sergcal skills, about 3 months later."
I don't want be a sergeon...(for the benefit of BOTH OTHRS AND I!)
But I have traind tying for a week,with a rolle of fish line.
I pray to God and othe goodness that I can success the exam!
Thursday, July 17, 2003
Wednesday, July 16, 2003
OSCE
さて、一月半も続いた試験が終わり、五年生の前期最後の課題はOSCEである。
OSCE(オスキー)と言ってもよさこいソーランに出てくる信販会社の・・・・・
このネタはずいぶん昔に使ったのでやめる。
OSCE="Objective Structured Clinical Examination"(客観的臨床能力試験)
と言うことで、要するに実技試験のことと考えてもらえればよい。
実技試験と言っても、ウチの大学の場合、『初期OSCE』とやらで「聴診器を胸の正しい場所に当てる」(=実際何が聞こえてるかまで関知しない)とか、「縫合は一針のみ」(=ぶすっと一針刺して、糸をひゅっと結んで終わり)だったりかなりユルユルなところが多かったりする。
かと思えば、CPR(心肺蘇生)の実習では倒れてる人を見つけるところから、周りの人に「AED持ってきてくださ~い」と大声でその場を仕切り、実際にスイッチを押してバン!と電流を流すところまでやったりする。胸毛の濃い人は電流流す前にカミソリで剃れ、とかここだけはやけに細かい。
やっている上でいくつか疑問点を感じたことがあるので、忘れないうちにここに書いておく。というのも、後数年でこのOSCEは関門化すなわちほぼ国家試験と同等の意味を持ち得ることになるからだ。
まず一つ目。実際に患者の体に触れる実習(胸部診察など)は、どうしても患者役(SP:Sumilated/Situation Patient)が男性になってしまう。具体的に言えば、胸部診察では胸骨という胸のど真ん中にある骨の位置をまず指で触って確かめ、そこを基準にして聴診器を当てる場所を決めることになる。もちろん実際の診療現場では、医者はいちいちこんなことはしないことが多いと思う。あくまで教育上の都合(、という書き方が正しいのかどうかは疑問であるが)である。
ただ、このような実習スタイルでは胸に触っても問題がない男性のSPのみで実習を積むことになる。ただ一人の女性SPも、胸部診察の実習対象とはならないのである。(もちろんこの後病棟実習に出ればそんなことはない。)何か引っかかるのは、最近主な国立病院には「女性外来」を設置するという傾向が現れ、また一部の女性からは「聴診の際に上半身裸にされるのはおかしい。」という声が上がって来たりする。(そういう女性の話を聞くと、どうやらシャツの下から聴診器を入れて聴診を行う方法が自尊心を傷つけないやり方らしい。)
別に私はタヂマヨーコ先生の肩を持つわけではないが、どうも「患者は男である」という前提の基に実習を行うのはちょっと変なのではないだろうか、と考えたりした。まあ別に、他の医療面接(今まで「問診」とされていたもの)、神経学的診察などの実習では女性がSPになることもあるので、そんなにかまうことでもないのかもしれない。
ただ、前述した「女性外来」設置の流れや、医学部の男女比の動きなどを考えると、ひょっとして20年、30年たったときには、「原則男性の患者は男性医師が、女性の患者は女性医師が診る」ということになっていたりするのかなあ、などということを漠然と思ったりする。
OSCE(オスキー)と言ってもよさこいソーランに出てくる信販会社の・・・・・
このネタはずいぶん昔に使ったのでやめる。
OSCE="Objective Structured Clinical Examination"(客観的臨床能力試験)
と言うことで、要するに実技試験のことと考えてもらえればよい。
実技試験と言っても、ウチの大学の場合、『初期OSCE』とやらで「聴診器を胸の正しい場所に当てる」(=実際何が聞こえてるかまで関知しない)とか、「縫合は一針のみ」(=ぶすっと一針刺して、糸をひゅっと結んで終わり)だったりかなりユルユルなところが多かったりする。
かと思えば、CPR(心肺蘇生)の実習では倒れてる人を見つけるところから、周りの人に「AED持ってきてくださ~い」と大声でその場を仕切り、実際にスイッチを押してバン!と電流を流すところまでやったりする。胸毛の濃い人は電流流す前にカミソリで剃れ、とかここだけはやけに細かい。
やっている上でいくつか疑問点を感じたことがあるので、忘れないうちにここに書いておく。というのも、後数年でこのOSCEは関門化すなわちほぼ国家試験と同等の意味を持ち得ることになるからだ。
まず一つ目。実際に患者の体に触れる実習(胸部診察など)は、どうしても患者役(SP:Sumilated/Situation Patient)が男性になってしまう。具体的に言えば、胸部診察では胸骨という胸のど真ん中にある骨の位置をまず指で触って確かめ、そこを基準にして聴診器を当てる場所を決めることになる。もちろん実際の診療現場では、医者はいちいちこんなことはしないことが多いと思う。あくまで教育上の都合(、という書き方が正しいのかどうかは疑問であるが)である。
ただ、このような実習スタイルでは胸に触っても問題がない男性のSPのみで実習を積むことになる。ただ一人の女性SPも、胸部診察の実習対象とはならないのである。(もちろんこの後病棟実習に出ればそんなことはない。)何か引っかかるのは、最近主な国立病院には「女性外来」を設置するという傾向が現れ、また一部の女性からは「聴診の際に上半身裸にされるのはおかしい。」という声が上がって来たりする。(そういう女性の話を聞くと、どうやらシャツの下から聴診器を入れて聴診を行う方法が自尊心を傷つけないやり方らしい。)
別に私はタヂマヨーコ先生の肩を持つわけではないが、どうも「患者は男である」という前提の基に実習を行うのはちょっと変なのではないだろうか、と考えたりした。まあ別に、他の医療面接(今まで「問診」とされていたもの)、神経学的診察などの実習では女性がSPになることもあるので、そんなにかまうことでもないのかもしれない。
ただ、前述した「女性外来」設置の流れや、医学部の男女比の動きなどを考えると、ひょっとして20年、30年たったときには、「原則男性の患者は男性医師が、女性の患者は女性医師が診る」ということになっていたりするのかなあ、などということを漠然と思ったりする。
クロスプレー
http://www2.asahi.com/koshien2003/nanboku/TKY200307150197.html
こんな記事を見つけた。
野球規則なんてかなり厳密に(レアケースも想定して)作ってあるものだが、結局規則を運用するのも人間である。
こんな記事を見つけた。
野球規則なんてかなり厳密に(レアケースも想定して)作ってあるものだが、結局規則を運用するのも人間である。
Last summer
I am in the 5th grade of the medical school.
Scince I will have to serch some training hospitals where I can work as a intern next summer,this is the last summer can find some free time.
And, this means this is the last sommer vacation as a student.
I had planned to read some books,such as Robbins Pathologic basis of disease every time before vacation,I have faild to accompanish that.
I am in the 5th grade of the medical school.
Scince I will have to serch some training hospitals where I can work as a intern next summer,this is the last summer can find some free time.
And, this means this is the last sommer vacation as a student.
I had planned to read some books,such as Robbins Pathologic basis of disease every time before vacation,I have faild to accompanish that.
Tuesday, June 17, 2003
Thursday, June 12, 2003
それで結局
RedHat7.2をインストールし直す。
一回目は、GRUBの設定を間違えてWindowsXPが起動しなくなった。
結局ブートイメージの位置を張り間違えていただけだったが、かなり焦った。これは応急的にXPのCD-ROMからrescue起動して、MBRを書き換える事にしたが、sambaの設定やらmozillaのバージョンやら、いろいろなことを考えると随分惜しいことをしたものである。
いい加減K6-2のスピードが遅く感じられるようになってきた。
夏休みは働いて、一ついいのを組み直すか。部品が容易に手に入る環境にいるうちに。
一回目は、GRUBの設定を間違えてWindowsXPが起動しなくなった。
結局ブートイメージの位置を張り間違えていただけだったが、かなり焦った。これは応急的にXPのCD-ROMからrescue起動して、MBRを書き換える事にしたが、sambaの設定やらmozillaのバージョンやら、いろいろなことを考えると随分惜しいことをしたものである。
いい加減K6-2のスピードが遅く感じられるようになってきた。
夏休みは働いて、一ついいのを組み直すか。部品が容易に手に入る環境にいるうちに。
Tuesday, June 10, 2003
投票行動
先日は市長選再選挙の投票日であった。
私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。
はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。
しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)
(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。
(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。
したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。
しかし、これは案外難しい。
そこで、私はこのように考えることにした。
選挙を競馬のように考える。
つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。
だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。
何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?
だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。
私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。
はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。
しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)
(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。
(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。
したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。
しかし、これは案外難しい。
そこで、私はこのように考えることにした。
選挙を競馬のように考える。
つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。
だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。
何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?
だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。
Tuesday, June 03, 2003
間合いを取るということ
先日、「医療には間合いが必要だ」と書いた。そのことについて、もう少し書いておきたい。
まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。
患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。
「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)
私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。
もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。
もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。
最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。
人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。
一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。
少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。
このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。
そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。
『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。
まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。
患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。
「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)
私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。
もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。
もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。
最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。
人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。
一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。
少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。
このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。
そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。
『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。
Saturday, May 24, 2003
金曜ロードショーの裏番組
「ブラックジャックによろしく」という漫画がある。
今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。
今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。
確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。
脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。
さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。
このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。
医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。
今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。
今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。
今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。
確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。
脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。
さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。
このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。
医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。
今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。
Sunday, May 11, 2003
医療における競争原理について
先ほど、医療は一対一のサービスではない、と書いた。この考え方について、もう少し書いておく。
この4月に話題になった事の一つに、「サラリーマンの医療保険三割負担に」ということがある。今までの本人一割負担に比べれば、単純に考えて負担が三倍になったわけで、患者「様」にしてみれば大変なことである。(ちなみに扶養家族などに関しては元から三割負担だったわけで、「働く世代」の負担が増えたと言うことだ)
だが、逆に考えれば、依然として七割は「保険様」が払う、ということである。
その七割は、国民医療保険、あるいは各企業体などで構成している共済保険などの基金が出しているわけで、それも元をたどれば、組合員の掛け金(+税金投入分)が拠出金になっているのである。
そもそも保険というものは、「わずかな」掛け金を出し合って大きなリスクに備えるものである。つまり、その保険を構成する要員全てに大きなリスクが起こった場合、それは当然保険ではまかないきれないくらいの事態、ということになる。(従って、火災保険などには天変地異に対する特記事項というものがある)
何が言いたいか。
つまり、お医者さんというのは実際のところ、病院に来る「患者様」よりも、「少なくとも今は病院に来ていない人」から、たくさんのお金をもらっていることになる。保健医療制度、というのはそういうことなのだ。
従って、「患者様中心の医療」とか言っている割には、現実には「保険様中心の医療」ということである。
だって、ふつうに考えてみなさい。町中の医者(あるいは病院経営者)を全部集めてみようと思ったら、次のうちどちらのポスターがふさわしいか。
A.「医師の自由参加による、市民のための健康相談を実施します。」
B.「来月から変わる保険の算定方法についての講習会を開きます。医師の参加は自由です。」
しかも、医療保険というものが厄介なのは、それが存在することによって医療というものを、市場原理で計算することが一層困難になっているということだ。
「医療はサービス業」論者は、「患者にとって利益となる医療を行う医者(あるいは施設)は、より多くの患者をとることができる。従って、そのような医療機関はより多くの利益を上げることができ、競争に勝ち残る事ができ、逆の医療機関は淘汰される」という。
たしかに、これは正しい。仮に患者自らが全額を病院に支払うシステムになっていれば、の話だが。
実際は、需要側の「患者」と、供給側の「医療」の間に、第三のファクターである「公的保険」が絡むので、あたかも「囚人のジレンマ」のごとく互いの利益は反目しあうのである。
話をわかりやすくするために、まず「医者」と「病院」の需給モデルを考えてみよう。
まず、患者側の利益を考えると、「安価で、しかも質の高い医療」ということになる。
しかし、病院側は、「高価、しかも質の低い医療」を供給することがベストである。
(経済的な立場から「利益」を論じているので、そういう病院はけしからん、というのは無し。)
この二者の妥協点として、「それなりに適正な価格と質の医療」が供給されることになる。もちろん、この前提には「安価で極度に質の高い医療を求める患者」と、「極度に高価で質の低い医療を供給する病院」は、排除されるということがある。
ここで、第三者たる「公的保険」を登場させる。
(なぜ「公的保険」としたかというと、それは患者に対する掛け金を強制的に集め得る立場にあるからである。保険料が高いという理由で、それから脱退することは、今の日本で認められていない。つまり、先に述べた排除の原則が公的保険には無いのだ)
消費者たる患者から資金を得る「公的保険」が追求する利益は、ただ一つ「とにかく安価な医療」ということになる。実質上病院から得るものは何もなく、ただ金を払うだけの立場であるからだ。
そうすると、病院側にとって最優先事項となるのは、消費者たる患者の利益ではなく実際は「公的保険」に対する利益ということになるのである。
ここに、大きなゆがみの生じる余地がある。
まず第一に、保険側に大きな利権が集中することによって、たとえば病院が保険機関の構成員に対して何らかの利便を図り、自分たちに回るパイを大きくしようと試みるおそれがある。
第二に、保険機構の利益と、患者の利益は一致しない。一致しないにもかかわらず、「医療費の削減」という言葉は、消費者たる患者の払う金額を減少させられるかのような錯覚を生じさせる。
一年ほど前、「ジョン・Q」という映画を見た。息子の心臓移植を求めて、父親が拳銃を手に病院を占拠するという、オスカー俳優デンゼル・ワシントンが熱演した割には、先の容易に読めるストーリー展開ではあったものの、その実みているうちに様々なことを考えさせられる作品であった。
その中で、研修医が、父親デンゼルと心臓外科の権威に対してこういう言葉を吐く場面がある。「なんで健康診断が息子さんの病気を見逃したかって?HMO(米国の公的医療保険)は、たくさん検診を行っても『異常』の診断を出さない医者にはボーナスを出す。その方が安上がりだからな。」心臓外科医が答えて曰く、『あり得ん話ではないな。」
前に書いた「たばこは医療費削減によい」というところでも述べたが、実際難しい病気を早期に発見し、長い間治療することよりも、さんざん病態が進んだところで発見し、二ヶ月たったところで「手を尽くしましたが・・・残念です」というほうが都合がいい連中がいる、ということなのだ。
自己弁護にはなるが、打算的にみても医者はそういう考えでは利益を得られない。早く見つけて、長く治療した方が多く儲かる立場である。
もちろん、私は医療保険制度の全てを悪いと言うのではない。
しかしながら、公的な医療保険制度そのものが抱える矛盾というものはそれができた当初から存在する。
しかも、現在は「入ってくる金よりも出る金の方が絶対的に多い」という医療保険の問題が不況下で浮き彫りになっている時代である。
ここで単に「企業原理により病院間の競争を進める」事が、本当に消費者(依頼人)の利益にかなうことなのか、医療者の側としても考えることがある、ということだ。
その意味で、「患者様」という言い方の裏には、何やらテーブルの上では作り笑いを浮かべながら、足の指では、もう半分も無くなったパイを必死で奪い合うことしか考えていない医者たちの顔が見え隠れして、薄っぺらな商業主義の香りがして、何とも吐き気がするのだ。
この4月に話題になった事の一つに、「サラリーマンの医療保険三割負担に」ということがある。今までの本人一割負担に比べれば、単純に考えて負担が三倍になったわけで、患者「様」にしてみれば大変なことである。(ちなみに扶養家族などに関しては元から三割負担だったわけで、「働く世代」の負担が増えたと言うことだ)
だが、逆に考えれば、依然として七割は「保険様」が払う、ということである。
その七割は、国民医療保険、あるいは各企業体などで構成している共済保険などの基金が出しているわけで、それも元をたどれば、組合員の掛け金(+税金投入分)が拠出金になっているのである。
そもそも保険というものは、「わずかな」掛け金を出し合って大きなリスクに備えるものである。つまり、その保険を構成する要員全てに大きなリスクが起こった場合、それは当然保険ではまかないきれないくらいの事態、ということになる。(従って、火災保険などには天変地異に対する特記事項というものがある)
何が言いたいか。
つまり、お医者さんというのは実際のところ、病院に来る「患者様」よりも、「少なくとも今は病院に来ていない人」から、たくさんのお金をもらっていることになる。保健医療制度、というのはそういうことなのだ。
従って、「患者様中心の医療」とか言っている割には、現実には「保険様中心の医療」ということである。
だって、ふつうに考えてみなさい。町中の医者(あるいは病院経営者)を全部集めてみようと思ったら、次のうちどちらのポスターがふさわしいか。
A.「医師の自由参加による、市民のための健康相談を実施します。」
B.「来月から変わる保険の算定方法についての講習会を開きます。医師の参加は自由です。」
しかも、医療保険というものが厄介なのは、それが存在することによって医療というものを、市場原理で計算することが一層困難になっているということだ。
「医療はサービス業」論者は、「患者にとって利益となる医療を行う医者(あるいは施設)は、より多くの患者をとることができる。従って、そのような医療機関はより多くの利益を上げることができ、競争に勝ち残る事ができ、逆の医療機関は淘汰される」という。
たしかに、これは正しい。仮に患者自らが全額を病院に支払うシステムになっていれば、の話だが。
実際は、需要側の「患者」と、供給側の「医療」の間に、第三のファクターである「公的保険」が絡むので、あたかも「囚人のジレンマ」のごとく互いの利益は反目しあうのである。
話をわかりやすくするために、まず「医者」と「病院」の需給モデルを考えてみよう。
まず、患者側の利益を考えると、「安価で、しかも質の高い医療」ということになる。
しかし、病院側は、「高価、しかも質の低い医療」を供給することがベストである。
(経済的な立場から「利益」を論じているので、そういう病院はけしからん、というのは無し。)
この二者の妥協点として、「それなりに適正な価格と質の医療」が供給されることになる。もちろん、この前提には「安価で極度に質の高い医療を求める患者」と、「極度に高価で質の低い医療を供給する病院」は、排除されるということがある。
ここで、第三者たる「公的保険」を登場させる。
(なぜ「公的保険」としたかというと、それは患者に対する掛け金を強制的に集め得る立場にあるからである。保険料が高いという理由で、それから脱退することは、今の日本で認められていない。つまり、先に述べた排除の原則が公的保険には無いのだ)
消費者たる患者から資金を得る「公的保険」が追求する利益は、ただ一つ「とにかく安価な医療」ということになる。実質上病院から得るものは何もなく、ただ金を払うだけの立場であるからだ。
そうすると、病院側にとって最優先事項となるのは、消費者たる患者の利益ではなく実際は「公的保険」に対する利益ということになるのである。
ここに、大きなゆがみの生じる余地がある。
まず第一に、保険側に大きな利権が集中することによって、たとえば病院が保険機関の構成員に対して何らかの利便を図り、自分たちに回るパイを大きくしようと試みるおそれがある。
第二に、保険機構の利益と、患者の利益は一致しない。一致しないにもかかわらず、「医療費の削減」という言葉は、消費者たる患者の払う金額を減少させられるかのような錯覚を生じさせる。
一年ほど前、「ジョン・Q」という映画を見た。息子の心臓移植を求めて、父親が拳銃を手に病院を占拠するという、オスカー俳優デンゼル・ワシントンが熱演した割には、先の容易に読めるストーリー展開ではあったものの、その実みているうちに様々なことを考えさせられる作品であった。
その中で、研修医が、父親デンゼルと心臓外科の権威に対してこういう言葉を吐く場面がある。「なんで健康診断が息子さんの病気を見逃したかって?HMO(米国の公的医療保険)は、たくさん検診を行っても『異常』の診断を出さない医者にはボーナスを出す。その方が安上がりだからな。」心臓外科医が答えて曰く、『あり得ん話ではないな。」
前に書いた「たばこは医療費削減によい」というところでも述べたが、実際難しい病気を早期に発見し、長い間治療することよりも、さんざん病態が進んだところで発見し、二ヶ月たったところで「手を尽くしましたが・・・残念です」というほうが都合がいい連中がいる、ということなのだ。
自己弁護にはなるが、打算的にみても医者はそういう考えでは利益を得られない。早く見つけて、長く治療した方が多く儲かる立場である。
もちろん、私は医療保険制度の全てを悪いと言うのではない。
しかしながら、公的な医療保険制度そのものが抱える矛盾というものはそれができた当初から存在する。
しかも、現在は「入ってくる金よりも出る金の方が絶対的に多い」という医療保険の問題が不況下で浮き彫りになっている時代である。
ここで単に「企業原理により病院間の競争を進める」事が、本当に消費者(依頼人)の利益にかなうことなのか、医療者の側としても考えることがある、ということだ。
その意味で、「患者様」という言い方の裏には、何やらテーブルの上では作り笑いを浮かべながら、足の指では、もう半分も無くなったパイを必死で奪い合うことしか考えていない医者たちの顔が見え隠れして、薄っぺらな商業主義の香りがして、何とも吐き気がするのだ。
Thursday, April 24, 2003
それは、まずいだろう。
K協同病院での一件である。
4月19日のasahi.comによると、
「川崎市川崎区の川崎協同病院(堀内静夫院長)で98年、気管支ぜんそくから意識不明になった患者に、当時主治医だった医師が患者の気道を確保するための気管内チューブを取り外して筋弛緩(しかん)剤を投与し、「安楽死」させていたことが19日、わかった。病院側が記者会見して事実を公表した。患者本人の意思が明らかになっていなかったことなどから、堀内院長は「主治医の行為は安楽死ではない」との判断を示した。神奈川県警は、殺人容疑などを視野に捜査を始めた。」
とのことである。
国内では、安楽死は立法こそされていないものの、同記事にもあるとおり、「95年、執行猶予つきの有罪判決を下した横浜地裁は「積極的な安楽死が許される要件」として(1)患者に耐え難い肉体的苦痛がある(2)患者の死が避けられず死期が迫っている(3)苦痛を除くための方法を尽くし代替手段がない(4)患者本人が安楽死を望む意思表示をしている--の4要件を示した」という判例によって一つの指針が示されていたわけであり、今回はこれらの要件が明らかに満たされていたわけではない。とくに、(2)(3)のあたりは、第三者から見ても大いに疑問の残るところでは無かろうか。
その昔、「振り返れば奴がいる」というドラマがあった。その中で、病院一の名医である司馬光太郎(織田祐二)が、末期ガンの患者ササオカ氏に、「先生、オレもう長くないんだろ、そのときが来たらさ、一思いにやっちゃってくれないか」と懇願されるのである。
そこで司馬は「リビング・ウィル」の書類をササオカさんに作るよう勧めるが、その前にササオカさんは危篤状態に陥り、書面による意思表示のないまま司馬は塩化カリウムの注射筒を手にするのであった。
この一件を、対立する外科医の石川(石黒賢)によってマスコミへ暴露された司馬は、病院を去るのだが・・・。
医学部に入って、この脚本を書いた三谷幸喜もやはり重大な誤りを犯していることに気付いた。「リビング・ウィル」というのは、日本国内では任意団体の扱いで行われている運動であり、この書類にサインしたからと言って安楽死を行った医師が免責される、と言う保証はない。「単なる紙切れのせいで人生棒に振らないように」というようなことを教わった。
すなわち、どこの医学部でも基本的に「安楽死は御法度」と教えられているはずなのである。しかも、たとえ遺族側から不満の声が上がらずに、一件「皆が満足した」ように見えても(まずそんなことはあり得ないが)、いったん事が明らかになれば、このような医師を純粋に法・倫理の観点から告発しようとする組織は存在する。
すなわち、やる方にも相当な覚悟がいるはずなのである。
以前、京都の私立病院においても、院長が友人の苦しむ姿を見るに忍びず、筋弛緩剤を注射して死に至らしめるという事件が起こっているが、結局このときも刑事罰が下されることはなかった。
いつも思う事であるが、筋弛緩剤を大量に投与した場合の死因は呼吸筋麻痺による窒息であり、しかも中枢作用はほとんどない(つまり、意識清明なまま息が詰まってゆく)ため、患者には相当な恐怖と苦痛が伴うはずである。それを熟知しているはずのベテラン医師たちがなぜ、このような行動をとったのか。
「東海大安楽死事件」では、家族からのプレッシャーや想像を絶する多忙によりチームから孤立し、研修医がたった一人で重大な決断を迫られた事による「チームとしての医療の破綻」が問題であった、と結論付けられた。
そういえば昔、某大学の面接でも「君がもし患者の家族から、どうしても、と言われて安楽死を施すようせがまれたら、どうするかね」とうようなことを聞かれた覚えがある。そのときの私は、今から思えば大変に未熟であって、緊張も重なり、「いいえ、自分一人では決してやりません。たとえその家族が頼んだとしても、『患者の家族』というのには自分の目の前にいない人たちもいるわけで、その人たちからの文句が後日付く可能性もあるからです」というようないわばトンデモな答えをしてしまった。東海大安楽死とか、たいそうなことはちゃんと知識としてアタマの中にあったにもかかわらず、である。
少なくとも、法整備が進んでいない現在、私のように凡庸な医学生がとるべき道は、「とにかく安楽死はいけないんだ、そんなコトしたら自分の首が飛ぶし、病院にも先輩にもたくさん迷惑がかかるんだ」と自分を納得させて、10本でも20本でもチューブを差してでも決して「文句のでない」ような医療を目指すことなのだろう。(たぶん、入院31日目からは事務長から「文句」が出ることになるだろうが。)
「結局、自分の頭で考えてはいけない。」これが、医学部の中、そして今後の医療界で、賢く生き残る秘訣であるのだから。
4月19日のasahi.comによると、
「川崎市川崎区の川崎協同病院(堀内静夫院長)で98年、気管支ぜんそくから意識不明になった患者に、当時主治医だった医師が患者の気道を確保するための気管内チューブを取り外して筋弛緩(しかん)剤を投与し、「安楽死」させていたことが19日、わかった。病院側が記者会見して事実を公表した。患者本人の意思が明らかになっていなかったことなどから、堀内院長は「主治医の行為は安楽死ではない」との判断を示した。神奈川県警は、殺人容疑などを視野に捜査を始めた。」
とのことである。
国内では、安楽死は立法こそされていないものの、同記事にもあるとおり、「95年、執行猶予つきの有罪判決を下した横浜地裁は「積極的な安楽死が許される要件」として(1)患者に耐え難い肉体的苦痛がある(2)患者の死が避けられず死期が迫っている(3)苦痛を除くための方法を尽くし代替手段がない(4)患者本人が安楽死を望む意思表示をしている--の4要件を示した」という判例によって一つの指針が示されていたわけであり、今回はこれらの要件が明らかに満たされていたわけではない。とくに、(2)(3)のあたりは、第三者から見ても大いに疑問の残るところでは無かろうか。
その昔、「振り返れば奴がいる」というドラマがあった。その中で、病院一の名医である司馬光太郎(織田祐二)が、末期ガンの患者ササオカ氏に、「先生、オレもう長くないんだろ、そのときが来たらさ、一思いにやっちゃってくれないか」と懇願されるのである。
そこで司馬は「リビング・ウィル」の書類をササオカさんに作るよう勧めるが、その前にササオカさんは危篤状態に陥り、書面による意思表示のないまま司馬は塩化カリウムの注射筒を手にするのであった。
この一件を、対立する外科医の石川(石黒賢)によってマスコミへ暴露された司馬は、病院を去るのだが・・・。
医学部に入って、この脚本を書いた三谷幸喜もやはり重大な誤りを犯していることに気付いた。「リビング・ウィル」というのは、日本国内では任意団体の扱いで行われている運動であり、この書類にサインしたからと言って安楽死を行った医師が免責される、と言う保証はない。「単なる紙切れのせいで人生棒に振らないように」というようなことを教わった。
すなわち、どこの医学部でも基本的に「安楽死は御法度」と教えられているはずなのである。しかも、たとえ遺族側から不満の声が上がらずに、一件「皆が満足した」ように見えても(まずそんなことはあり得ないが)、いったん事が明らかになれば、このような医師を純粋に法・倫理の観点から告発しようとする組織は存在する。
すなわち、やる方にも相当な覚悟がいるはずなのである。
以前、京都の私立病院においても、院長が友人の苦しむ姿を見るに忍びず、筋弛緩剤を注射して死に至らしめるという事件が起こっているが、結局このときも刑事罰が下されることはなかった。
いつも思う事であるが、筋弛緩剤を大量に投与した場合の死因は呼吸筋麻痺による窒息であり、しかも中枢作用はほとんどない(つまり、意識清明なまま息が詰まってゆく)ため、患者には相当な恐怖と苦痛が伴うはずである。それを熟知しているはずのベテラン医師たちがなぜ、このような行動をとったのか。
「東海大安楽死事件」では、家族からのプレッシャーや想像を絶する多忙によりチームから孤立し、研修医がたった一人で重大な決断を迫られた事による「チームとしての医療の破綻」が問題であった、と結論付けられた。
そういえば昔、某大学の面接でも「君がもし患者の家族から、どうしても、と言われて安楽死を施すようせがまれたら、どうするかね」とうようなことを聞かれた覚えがある。そのときの私は、今から思えば大変に未熟であって、緊張も重なり、「いいえ、自分一人では決してやりません。たとえその家族が頼んだとしても、『患者の家族』というのには自分の目の前にいない人たちもいるわけで、その人たちからの文句が後日付く可能性もあるからです」というようないわばトンデモな答えをしてしまった。東海大安楽死とか、たいそうなことはちゃんと知識としてアタマの中にあったにもかかわらず、である。
少なくとも、法整備が進んでいない現在、私のように凡庸な医学生がとるべき道は、「とにかく安楽死はいけないんだ、そんなコトしたら自分の首が飛ぶし、病院にも先輩にもたくさん迷惑がかかるんだ」と自分を納得させて、10本でも20本でもチューブを差してでも決して「文句のでない」ような医療を目指すことなのだろう。(たぶん、入院31日目からは事務長から「文句」が出ることになるだろうが。)
「結局、自分の頭で考えてはいけない。」これが、医学部の中、そして今後の医療界で、賢く生き残る秘訣であるのだから。
Monday, April 21, 2003
写真について
先日、一眼レフカメラを購入した。購入した動機というのが、なかなか漠然としているのだが、やはり「写真に興味を持ったから」というのがまっとうな答えだろう。
とは言っても、人間がコトを起こす動機というのは、かなり複雑なものであって、それを一語でいうのはやはり難があると思う。物事の動機を一語で言えるのは、余程悪質な小説の読み過ぎであろう。
まず第一に、3月の試験が終わると誰だって少しは開放感に浸るものであろう。私の場合、かなり最後まで危ない状況が続いたのでそれは、かなりじわじわしたものであったが、少しく無意味な消費をしてみたくなった。今日日若者が興味を抱くものは、車か女か電化製品と相場が決まっていて、前二者は思い立ったからといってそう簡単に手に入らないものなので、電化製品に思いが移る。
またそれと平行して、以前から、いくらあがいても人間の生命にはきちんと終点があるものだということがだんだんわかってきていたので、何か「形を残す」ものに関する興味が漠然とあった、ということがある。
それから、こんな事も一因であろうか。病理学などで絵を描く(スケッチする)実習の時に、人から「随分細かい絵だね」といわれることが多々あった。何のことはない、根が単純であるから左のものを右に描くことしかできないのであって、ちゃんと見るべきものを見て、アタマの中でそれをきちんと処理して描いているやつの絵を見ると、いかに自分の絵が単細胞的であるか恥じ入るばかりであった。どうせ左のもの右に描くしかできねえなら、最初から写真にとっちまえばいいのに、という思いもアタマにあった。
兎にも角にもこういうマルチタスク型思考の結果、昨今流行のデジカメを買おうか、という気に一時傾いたが、ここでもう一踏ん張りしてひねくれた考えを起こした結果、次のような結論に達した。
いくら最近のデジカメ市場が円熟期に入っている(画素数・価格の面での競争は緩やかになっている)からといって、所詮電子機器というものは、しばらく経つと激しく「型落ち」するもので、後になってちょっといいのを他人が持っているのを見ると、猛烈にうらやましくなるに違いない。いくら妬みは人の性、資本主義の原動力とは言っても、こちとら貧乏性なので、そうなるのは面白くない。その点、デジタルでない「カメラ」は10年経っても「カメラ」である。デジカメを一台買った気になれば、結構それなりの銀塩カメラが手に入るのでは無かろうか。
こう結論付けた私は、翌日「初めての一眼レフ」という本を大通りの本屋で購入し、早速勉強を始めた。また、あの「2ちゃんねる」のカメラ板に、善意に立った有用な情報がたくさん載っていたのには驚いた。やはり板によって荒れているところとそうでないところはあるものだ。
そして、一週間後、行きつけ(本当は、そこのマクドナルドと、アミュージアムに行き付け)のY店に足を運び、その日一番安い値段が付いていた、P社の一眼レフカメラボディとズームレンズ二本のセットを購入した。Y店の兄ちゃんと小一時間相談して決めたのだが、かなり親切に相談に乗ってくれ、こちらがズブの初心者とわかると、それとなく一番安い方を勧めてくれたような気がする。今になって、それは正しい選択だったとわかるが、やはりこういう気遣いのできる店員は、店の財産だと思う。
さて、カメラを買ってからだが、結構いいことがあった。
まず第一に、朝早く起きるようになった。写真を始めてから、「光」というものに気を払うようになり、朝の光と午後の光の性質が大いに異なることに気付いてからというもの、午前の時間をより大切にするようになった。
それから、ものの「見方」ということを普段からよく考えるようになった。結局写真というのは、その人の見ている視界を枠の中にいかに切り取るか、ということなのだが、見る角度、それからどこに注目するかによって、その時間・空間的位置における「視界」を共有し得ない第三者に提示される形としての写真は大きく変わってくる。また、今自分が見ている風景を、そのまま記録するという単純な作業に関しても、それは思った以上に大変な思考・労力を要する行為であることもわかってきた。
第三に、よくカラダを使うようになった。うちの大学の大先生に、「自然との対話が楽しみなので、オープンカーにしか乗らない」という方がおられるが、私はそのクルマさえ持っていないので基本的に自転車や徒歩で被写体を探すことになる。やはり、自分のカラダを使って、生の空気に触れて探した方が、いいものが見つかる、ような気がする。結局、このために余分な体脂肪が消費されることになり、いいカラダ造りにつながっている。つまり、「写真を始めると、なぜか健康になる」のである。
今のところ、できるだけ人のいない風景をとって歩いている。絵画の世界で言うところの「静物画」であるが、やはり人様を撮らせて頂くには、それなりの腕にならなくては失礼であろうし、何より人混みの中でシャッターを切るのはどうしても私自身「◯代(マ◯シー)」を連想してしまうのである。
とは言っても、人間がコトを起こす動機というのは、かなり複雑なものであって、それを一語でいうのはやはり難があると思う。物事の動機を一語で言えるのは、余程悪質な小説の読み過ぎであろう。
まず第一に、3月の試験が終わると誰だって少しは開放感に浸るものであろう。私の場合、かなり最後まで危ない状況が続いたのでそれは、かなりじわじわしたものであったが、少しく無意味な消費をしてみたくなった。今日日若者が興味を抱くものは、車か女か電化製品と相場が決まっていて、前二者は思い立ったからといってそう簡単に手に入らないものなので、電化製品に思いが移る。
またそれと平行して、以前から、いくらあがいても人間の生命にはきちんと終点があるものだということがだんだんわかってきていたので、何か「形を残す」ものに関する興味が漠然とあった、ということがある。
それから、こんな事も一因であろうか。病理学などで絵を描く(スケッチする)実習の時に、人から「随分細かい絵だね」といわれることが多々あった。何のことはない、根が単純であるから左のものを右に描くことしかできないのであって、ちゃんと見るべきものを見て、アタマの中でそれをきちんと処理して描いているやつの絵を見ると、いかに自分の絵が単細胞的であるか恥じ入るばかりであった。どうせ左のもの右に描くしかできねえなら、最初から写真にとっちまえばいいのに、という思いもアタマにあった。
兎にも角にもこういうマルチタスク型思考の結果、昨今流行のデジカメを買おうか、という気に一時傾いたが、ここでもう一踏ん張りしてひねくれた考えを起こした結果、次のような結論に達した。
いくら最近のデジカメ市場が円熟期に入っている(画素数・価格の面での競争は緩やかになっている)からといって、所詮電子機器というものは、しばらく経つと激しく「型落ち」するもので、後になってちょっといいのを他人が持っているのを見ると、猛烈にうらやましくなるに違いない。いくら妬みは人の性、資本主義の原動力とは言っても、こちとら貧乏性なので、そうなるのは面白くない。その点、デジタルでない「カメラ」は10年経っても「カメラ」である。デジカメを一台買った気になれば、結構それなりの銀塩カメラが手に入るのでは無かろうか。
こう結論付けた私は、翌日「初めての一眼レフ」という本を大通りの本屋で購入し、早速勉強を始めた。また、あの「2ちゃんねる」のカメラ板に、善意に立った有用な情報がたくさん載っていたのには驚いた。やはり板によって荒れているところとそうでないところはあるものだ。
そして、一週間後、行きつけ(本当は、そこのマクドナルドと、アミュージアムに行き付け)のY店に足を運び、その日一番安い値段が付いていた、P社の一眼レフカメラボディとズームレンズ二本のセットを購入した。Y店の兄ちゃんと小一時間相談して決めたのだが、かなり親切に相談に乗ってくれ、こちらがズブの初心者とわかると、それとなく一番安い方を勧めてくれたような気がする。今になって、それは正しい選択だったとわかるが、やはりこういう気遣いのできる店員は、店の財産だと思う。
さて、カメラを買ってからだが、結構いいことがあった。
まず第一に、朝早く起きるようになった。写真を始めてから、「光」というものに気を払うようになり、朝の光と午後の光の性質が大いに異なることに気付いてからというもの、午前の時間をより大切にするようになった。
それから、ものの「見方」ということを普段からよく考えるようになった。結局写真というのは、その人の見ている視界を枠の中にいかに切り取るか、ということなのだが、見る角度、それからどこに注目するかによって、その時間・空間的位置における「視界」を共有し得ない第三者に提示される形としての写真は大きく変わってくる。また、今自分が見ている風景を、そのまま記録するという単純な作業に関しても、それは思った以上に大変な思考・労力を要する行為であることもわかってきた。
第三に、よくカラダを使うようになった。うちの大学の大先生に、「自然との対話が楽しみなので、オープンカーにしか乗らない」という方がおられるが、私はそのクルマさえ持っていないので基本的に自転車や徒歩で被写体を探すことになる。やはり、自分のカラダを使って、生の空気に触れて探した方が、いいものが見つかる、ような気がする。結局、このために余分な体脂肪が消費されることになり、いいカラダ造りにつながっている。つまり、「写真を始めると、なぜか健康になる」のである。
今のところ、できるだけ人のいない風景をとって歩いている。絵画の世界で言うところの「静物画」であるが、やはり人様を撮らせて頂くには、それなりの腕にならなくては失礼であろうし、何より人混みの中でシャッターを切るのはどうしても私自身「◯代(マ◯シー)」を連想してしまうのである。
Friday, April 18, 2003
学校から更新
学校の学生実習用機のOSがMac OS Xにアップグレードした。(要するにServerがとれたということ)そのため、以前の環境より飛躍的にユーザーインターフェースが向上している。
もともとサーバーというものは、「他のコンピューターから入ってくる情報を処理して出す」ということに主軸がおかれているため、そのサーバー自体を人間が操作するためのインターフェースGUIはかなり簡素なものであった。
そもそもC言語の実習ができないと困る、という理由だけでシェルの使えるMac OS X Serverを導入された我々学生としては正直いい迷惑だったが、これでなんとかひと通り「使える」ようになったという声が多い。だいたいOmniwebの代わりにInternet Explorerが使えるだけでもめっけもの、である。
もともとサーバーというものは、「他のコンピューターから入ってくる情報を処理して出す」ということに主軸がおかれているため、そのサーバー自体を人間が操作するためのインターフェースGUIはかなり簡素なものであった。
そもそもC言語の実習ができないと困る、という理由だけでシェルの使えるMac OS X Serverを導入された我々学生としては正直いい迷惑だったが、これでなんとかひと通り「使える」ようになったという声が多い。だいたいOmniwebの代わりにInternet Explorerが使えるだけでもめっけもの、である。
Thursday, April 17, 2003
Friday, April 11, 2003
朝は弱いか
最近の時間割では、選択科目の関係で朝一講目が空くことが多い。
朝が弱い私にとっては都合がよい。
薬理学の関係から、私はPC12cellという一種の腫瘍細胞におけるSir遺伝子の発現を研究させてもらうことになった。言っている私にも何のことかあまりはっきりとはわからんのだが、これはテロメアーゼ活性の調節によって寿命を延ばす働きがあるかもしれない、ということである。つまり、現代版「不老長寿の薬」といったところか。そんなもん作ってどうするのか、という気がしないでもないが、世の中には「早老症」と呼ばれるいくつかのタイプの遺伝子疾患の人がいて、今のところその病態もよくわかっていない。その治療のためには、やはりこういうものが必要なのである
朝が弱い私にとっては都合がよい。
薬理学の関係から、私はPC12cellという一種の腫瘍細胞におけるSir遺伝子の発現を研究させてもらうことになった。言っている私にも何のことかあまりはっきりとはわからんのだが、これはテロメアーゼ活性の調節によって寿命を延ばす働きがあるかもしれない、ということである。つまり、現代版「不老長寿の薬」といったところか。そんなもん作ってどうするのか、という気がしないでもないが、世の中には「早老症」と呼ばれるいくつかのタイプの遺伝子疾患の人がいて、今のところその病態もよくわかっていない。その治療のためには、やはりこういうものが必要なのである
Wednesday, April 09, 2003
ついでに
日本の警察機関が装備すべき小銃候補として有力なのはいったい何であろうか。
まず第一に、自衛隊の制式小銃である89式小銃(Howa Tytpe89)が考えられる。しかしながら、89式は未だ実戦における信頼性が確立されておらず、その評価が定まらないところがある。特に半自動・全自動・三発バーストの選択が可能となっている撃発機構は、あまりに繊細な機構のため前線における野戦分解の範囲では修理できず、問題が生じた場合はユニットごと取り外して交換・後送し、整備を行う必要があるといわれている。(ちなみに、「安全」「単発」「連発」「3点」の頭文字がカタカナで書かれているため、順に読むと「ア・タ・レ」となっている。世界初、洒落の分かる自動小銃!)
また、実戦での信頼性や火力の点では優れているものの、ドイツのG3、ベルギーのFN-FAL等7.62mm×51口径の小銃は除外されるべきだろう。89式の前任、64式小銃はこの規格であったものの、NATO規格の7.62mm×51弾薬を使用すると日本人には反動が強すぎ、わざわざ国内で火薬の量を減らした弾薬を製造していたぐらいである。
と、なるとやはりSS109(5.56mm×45)規格の小銃が有力となる。このカテゴリーには、米軍のM-16A2(あのゴルゴ13も愛用)や、オーストリアのステアーAUGが含まれる。M-16はあのイスラエルが自国生産した優秀なガリル自動小銃を押しのけ、イスラエル陸軍制式の座を勝ち取った(そういえば最近パレスチナのニュース映像でもM-16しか見かけないもの)信頼性が売りである。対するステアーはプルパップ方式(ピストルグリップより弾倉を後方に配置する設計)により、日本人の体格に合ったコンパクトさが魅力である。(と、いっても所詮ゲルマン人に合わせてあるのだが)
なんだ、こんなことならなんぼでも書けるなあ。
読んでくれるかどうかは、はなはだ疑問だが。
まず第一に、自衛隊の制式小銃である89式小銃(Howa Tytpe89)が考えられる。しかしながら、89式は未だ実戦における信頼性が確立されておらず、その評価が定まらないところがある。特に半自動・全自動・三発バーストの選択が可能となっている撃発機構は、あまりに繊細な機構のため前線における野戦分解の範囲では修理できず、問題が生じた場合はユニットごと取り外して交換・後送し、整備を行う必要があるといわれている。(ちなみに、「安全」「単発」「連発」「3点」の頭文字がカタカナで書かれているため、順に読むと「ア・タ・レ」となっている。世界初、洒落の分かる自動小銃!)
また、実戦での信頼性や火力の点では優れているものの、ドイツのG3、ベルギーのFN-FAL等7.62mm×51口径の小銃は除外されるべきだろう。89式の前任、64式小銃はこの規格であったものの、NATO規格の7.62mm×51弾薬を使用すると日本人には反動が強すぎ、わざわざ国内で火薬の量を減らした弾薬を製造していたぐらいである。
と、なるとやはりSS109(5.56mm×45)規格の小銃が有力となる。このカテゴリーには、米軍のM-16A2(あのゴルゴ13も愛用)や、オーストリアのステアーAUGが含まれる。M-16はあのイスラエルが自国生産した優秀なガリル自動小銃を押しのけ、イスラエル陸軍制式の座を勝ち取った(そういえば最近パレスチナのニュース映像でもM-16しか見かけないもの)信頼性が売りである。対するステアーはプルパップ方式(ピストルグリップより弾倉を後方に配置する設計)により、日本人の体格に合ったコンパクトさが魅力である。(と、いっても所詮ゲルマン人に合わせてあるのだが)
なんだ、こんなことならなんぼでも書けるなあ。
読んでくれるかどうかは、はなはだ疑問だが。
今日から新学期
日付から見るとどう見ても「昨日から新学期」なのだが、そこら辺は勘弁してほしい。
本日のニュースから:「機関拳銃:全国の警察本部に1400丁配備 武装テロ対策」
だからいい加減サブマシンガンを「機関拳銃」と訳すのはやめてくれと。戦前のごとく「短機関銃(短機)」と呼んだ方がまだ言葉にしまりがある。
そもそもニュース映像で見る限り今回警察庁が導入したのは誰がどうどこから見てもH&K MP5 A5であるということがわかるだろうと思われるが、これで果たして火力が十分なのかどうか。
サブマシンガンの定義は、「拳銃弾を全自動発射できる火器」といったところになろう。すなわち、いわゆるアサルトライフルに比べて
1.最大有効射程がせいぜい100m程度と短い
2.ケブラー製防弾チョッキに対する貫通力が不十分
といった弱点があり、たとえば7.62mmのAK47を使用してくるようなテロリストには簡単に制圧されてしまうおそれがある。
しかし、MP5に限っていえばその信頼性とともにクローズド・ボルト・ファイアー方式による初弾命中率の高さに定評があり、カウンターテロ部隊の基本装備と言える。問題は、この装備による火力増強を過信せず、さらなる装備の充実を期待したいところだが、このような「警察予備隊的部隊」に対しては、国民の視線はやはり厳しいものになるだろう。だからこそ、「機関拳銃」などというヘンテコな言葉がはやるのである。
本日のニュースから:「機関拳銃:全国の警察本部に1400丁配備 武装テロ対策」
だからいい加減サブマシンガンを「機関拳銃」と訳すのはやめてくれと。戦前のごとく「短機関銃(短機)」と呼んだ方がまだ言葉にしまりがある。
そもそもニュース映像で見る限り今回警察庁が導入したのは誰がどうどこから見てもH&K MP5 A5であるということがわかるだろうと思われるが、これで果たして火力が十分なのかどうか。
サブマシンガンの定義は、「拳銃弾を全自動発射できる火器」といったところになろう。すなわち、いわゆるアサルトライフルに比べて
1.最大有効射程がせいぜい100m程度と短い
2.ケブラー製防弾チョッキに対する貫通力が不十分
といった弱点があり、たとえば7.62mmのAK47を使用してくるようなテロリストには簡単に制圧されてしまうおそれがある。
しかし、MP5に限っていえばその信頼性とともにクローズド・ボルト・ファイアー方式による初弾命中率の高さに定評があり、カウンターテロ部隊の基本装備と言える。問題は、この装備による火力増強を過信せず、さらなる装備の充実を期待したいところだが、このような「警察予備隊的部隊」に対しては、国民の視線はやはり厳しいものになるだろう。だからこそ、「機関拳銃」などというヘンテコな言葉がはやるのである。
Tuesday, April 08, 2003
アクセスカウンター設置
今まで他の鯖にアクセス解析を依頼していたのでありますが、本日からはCGIスクリプトを借りてきて自前でなんとかするようにしました。
main.shtmlの見やすさも直って、よし。
<本文>
今日からは新学期であるが、新学期の第一日目というのは、目が冴えてなかなか眠れないということが経験上わかっている。従って、今日は「寝ない」ことにしてみた。・・・・・。
main.shtmlの見やすさも直って、よし。
<本文>
今日からは新学期であるが、新学期の第一日目というのは、目が冴えてなかなか眠れないということが経験上わかっている。従って、今日は「寝ない」ことにしてみた。・・・・・。
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