いずれもCNN.co.jpより。
「CSI」降板の俳優、寝過ごしの撮影未参加が原因と
寝過ごしていろいろと災難にあったことはあるが、さすがにドラマを首になったことはない。
考えてみれば「CSI」は週一のいわゆる「連ドラ」である。となると撮影に使える時間は一本につき7日間しかないわけで、その中で3時間の穴を開けるというのはかなりの重罪になるのかも知れない。
米軍が兵士、家族に新サービス――無料の整形手術
『陸軍の報道担当は同誌に対し、「(整形手術の経験を積むには)、誰かが練習台にならないとね」と話している。』
結構アメリカ人はこういう考え方を受け入れる。「安いものには、それなりのリスクが伴う」ということについて社会的コンセンサスが得られているのだ。
Thursday, July 22, 2004
Tuesday, July 20, 2004
「秀丸」を使いこなす
今更ここで言うまでもなく「秀丸」はWindowsエディタの代表格である。
(レジストするとしないとに関わらず)テキストファイルをダブルクリックするとこれが開く、という設定で使っているユーザーも多いだろう。
しかし、正直に言うが、これの正しい使い方がわかるようになってきたのはここ数ヶ月のことである。それまでは、主にたとえば文字コードを変更したり、IEからソースを表示させたりといった用途に使っていた。
逆説的な言い方になるが、初心者でもある程度の機能をきちんと使いこなすことが出来る、という造りのソフトウェアは実にできがいいといえる。
なおかつ、そのソフトウェアに熟達して来るに従って、より短時間、より少ない入力量(タイプ数、マウスポインタ移動距離)で作業が完了できるようになる、というのはさらに優れたソフトウェアの証である。
さて、「秀丸」にはマクロという機能がある。
これは、ある簡単なプログラムを「秀丸」上で実行可能である、ということで、たとえば1,2,3,4,・・・・・・・・・,100000といった数列を実際に書かせると言ったような事が簡単に出来る。(そんなプログラムは対して役に立たないが)
つまり、繰り返し、条件分岐といった一応のプログラミング言語が備えている事を、「秀丸」のマクロ言語は備えているのである。
(ただし、普通の秀丸では浮動小数点演算が出来ないため,1/3*3=0のようなことが起こりえる。)
また、最近発表されたHidemarnet Explorer(仮称)は大変気に入ったソフトの一つである。これは、「秀丸」にFTP機能を付加するためのツールである。
今までサーバー上のファイルを書き換えるときは、
1.FTPでそのファイルをローカルにダウンロードする
2.ローカルマシン上で「秀丸」などのファイルを開く。
3.編集したファイルをローカルに上書き保存する。
4.書き換えたファイルを再びFTPでリモートホストにアップロードする。
といった手順を踏む必要があった。当然、FTPソフトウェアが別途必要となり、またウィンドウの切り替えの手間、そしてファイルを「上げ下げ」する手間が結構うっとうしい。
Hidemarnet Explorerではこうなる。
1.「ファイル」→「Web」→「FTPで開く」を選び、リモートホストに接続。
2.リモートホスト上のファイルを開く。(バックグラウンドでダウンロードされる)
3.そのまま「上書き保存」すれば、リモートホスト上のファイルに反映される。
となり、大幅に手間が簡略化される。
今のところ、安定版の4.07にインストールすることは出来ないが(開発版秀丸エディタ Ver4.10β14 以上が必要)、ベータ版に手を出してもインストールする価値があるといえよう。
--
何でこんな事を書く気になったかといえば、巷にあふれる「電子カルテ」のインターフェースがもっぱらGUI、つまりはほとんどマウスのみを使って入力する方式になっている。
この方式は一見初心者にも取っつきやすいように見えるが、スタッフがいい加減電子カルテに慣れて来た頃になっても、作業効率が上昇しないという罠がある。
まさか電子カルテ・処方オーダーにコマンドラインを導入して、
harrity@ekarte# chart -S "abdominal pain" -O "abdomen soft,afeblire" -A "DD=gastritis,gastric ucler,and so on" -P "endoscopy on JULY 20"
harrity@ekarte# prescribe cimetidine --dose=800mg --div=2 --days=7
[カルテに 「S)腹痛、O)腹部柔、発熱なし、A)鑑別診断は胃炎か胃潰瘍など、P)7月20日に内視鏡実施予定」と記入]
[処方:シメチジン800mg、分2、7日分]
注意:こんないい加減なカルテを書く人はいません
で済ませられるようにせよ、とは言わないが、せめて熟達度が作業効率に比例するようなシステム作りはお願いしたいものである。
それとも、あの人をいらいらさせるような煩雑さは、いわゆる医療事故のフェイルセーフになり得ているのだろうか?
(レジストするとしないとに関わらず)テキストファイルをダブルクリックするとこれが開く、という設定で使っているユーザーも多いだろう。
しかし、正直に言うが、これの正しい使い方がわかるようになってきたのはここ数ヶ月のことである。それまでは、主にたとえば文字コードを変更したり、IEからソースを表示させたりといった用途に使っていた。
逆説的な言い方になるが、初心者でもある程度の機能をきちんと使いこなすことが出来る、という造りのソフトウェアは実にできがいいといえる。
なおかつ、そのソフトウェアに熟達して来るに従って、より短時間、より少ない入力量(タイプ数、マウスポインタ移動距離)で作業が完了できるようになる、というのはさらに優れたソフトウェアの証である。
さて、「秀丸」にはマクロという機能がある。
これは、ある簡単なプログラムを「秀丸」上で実行可能である、ということで、たとえば1,2,3,4,・・・・・・・・・,100000といった数列を実際に書かせると言ったような事が簡単に出来る。(そんなプログラムは対して役に立たないが)
つまり、繰り返し、条件分岐といった一応のプログラミング言語が備えている事を、「秀丸」のマクロ言語は備えているのである。
(ただし、普通の秀丸では浮動小数点演算が出来ないため,1/3*3=0のようなことが起こりえる。)
また、最近発表されたHidemarnet Explorer(仮称)は大変気に入ったソフトの一つである。これは、「秀丸」にFTP機能を付加するためのツールである。
今までサーバー上のファイルを書き換えるときは、
1.FTPでそのファイルをローカルにダウンロードする
2.ローカルマシン上で「秀丸」などのファイルを開く。
3.編集したファイルをローカルに上書き保存する。
4.書き換えたファイルを再びFTPでリモートホストにアップロードする。
といった手順を踏む必要があった。当然、FTPソフトウェアが別途必要となり、またウィンドウの切り替えの手間、そしてファイルを「上げ下げ」する手間が結構うっとうしい。
Hidemarnet Explorerではこうなる。
1.「ファイル」→「Web」→「FTPで開く」を選び、リモートホストに接続。
2.リモートホスト上のファイルを開く。(バックグラウンドでダウンロードされる)
3.そのまま「上書き保存」すれば、リモートホスト上のファイルに反映される。
となり、大幅に手間が簡略化される。
今のところ、安定版の4.07にインストールすることは出来ないが(開発版秀丸エディタ Ver4.10β14 以上が必要)、ベータ版に手を出してもインストールする価値があるといえよう。
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何でこんな事を書く気になったかといえば、巷にあふれる「電子カルテ」のインターフェースがもっぱらGUI、つまりはほとんどマウスのみを使って入力する方式になっている。
この方式は一見初心者にも取っつきやすいように見えるが、スタッフがいい加減電子カルテに慣れて来た頃になっても、作業効率が上昇しないという罠がある。
まさか電子カルテ・処方オーダーにコマンドラインを導入して、
harrity@ekarte# chart -S "abdominal pain" -O "abdomen soft,afeblire" -A "DD=gastritis,gastric ucler,and so on" -P "endoscopy on JULY 20"
harrity@ekarte# prescribe cimetidine --dose=800mg --div=2 --days=7
[カルテに 「S)腹痛、O)腹部柔、発熱なし、A)鑑別診断は胃炎か胃潰瘍など、P)7月20日に内視鏡実施予定」と記入]
[処方:シメチジン800mg、分2、7日分]
注意:こんないい加減なカルテを書く人はいません
で済ませられるようにせよ、とは言わないが、せめて熟達度が作業効率に比例するようなシステム作りはお願いしたいものである。
それとも、あの人をいらいらさせるような煩雑さは、いわゆる医療事故のフェイルセーフになり得ているのだろうか?
業務連絡に類すること。
一つ目。
なんだかbloggerのpostエディタが変わっていて、非常に使いづらい。
Blogger's new posting editor is awful to use!
二つ目。
Amazonアソシエイトプログラムに加入した。
ここで金儲けをしようなどという気は毛頭ないが(そんなにたくさん人が来てるわけでもない。)
Amazonが持つ書籍の表紙画像を利用できるようになると、表現の幅が広がる。
しかし気になるのはbloggerの利用規程であって、ここで書物を商品として紹介することは「商用利用」となり反則行為にならないか?ということである。
もともと自前で鯖を持っているのだから、というわけで試しに2種類のblogツールをtakikou.orgにおいてみた。以前から掲示している運営方針にも、広告をおく可能性には触れているので、こちらなら問題はないだろう。
しかしながら、たくさん書きためたものを今更全部動かす気はしない。
もしその必要があれば、こちらからtakikou.org鯖内へリンクを張るのが近道かも知れない。
なんだかbloggerのpostエディタが変わっていて、非常に使いづらい。
Blogger's new posting editor is awful to use!
二つ目。
Amazonアソシエイトプログラムに加入した。
ここで金儲けをしようなどという気は毛頭ないが(そんなにたくさん人が来てるわけでもない。)
Amazonが持つ書籍の表紙画像を利用できるようになると、表現の幅が広がる。
しかし気になるのはbloggerの利用規程であって、ここで書物を商品として紹介することは「商用利用」となり反則行為にならないか?ということである。
もともと自前で鯖を持っているのだから、というわけで試しに2種類のblogツールをtakikou.orgにおいてみた。以前から掲示している運営方針にも、広告をおく可能性には触れているので、こちらなら問題はないだろう。
しかしながら、たくさん書きためたものを今更全部動かす気はしない。
もしその必要があれば、こちらからtakikou.org鯖内へリンクを張るのが近道かも知れない。
Monday, July 19, 2004
Thursday, July 15, 2004
Gripen - The Wings of Your Nation
久方ぶりに心の琴線に触れるものを見た。
スウェーデンが誇る最新鋭戦闘機、JAS39 グリペンの公式サイトである。
私は前々から(つまり、先代のJ35 ドラケンやJ37 ビゲンの時代から)この戦闘機には注目していたのだが、ここを見て以来、せめて航空自衛隊は千歳基地だけでもグリペンでを採用した方が良いのではないか、と考えてしまった。
何と言ってもサイトの至れり尽くせりなこと。そもそも兵器の公式サイトというのは、それを購入する主体である国民が見て楽しいもので無ければ、と改めて感じさせられた。
サイトにアクセスしたら、左のメニューから"Gripen Images"を選択してみよう。
現れたプルダウン・メニューから"Hungary" "South africa" "Checz Republic"などを選ぶと、その国の戦闘機購入責任者の顔写真が拝見できる。何て顧客を大事にする企業なんだ、ボルボ社。もし小金が出来たなら、買う車は絶対ベンツなんかじゃなくてSAABかボルボにしよう、とこれだけで思ってしまう。
また、様々な状況でのグリペンの写真がおいてあるが、よく見るとポップアップウィンドウに"Add to cart"なんてボタンが付いている。さては、お金を払うと、はるばるスウェーデンからカール・グスタフ国王のサイン入りポストカードかなんか届く企画なのか、と考えてみた。
だが、実際にやってみるとわかるが、カートに加えて後でダウンロードすると、ただでさえ容量の大きい高画質写真を、サーバー側で一括して圧縮したZIPファイルとして送ってくれるのだ。
なんてすばらしい発想の国家なんだ、スウェーデン。こういう国なら消費税40%でも文句言わん。
さて、右側に目を移して”Video Collection”をクリックしてみよう。Mpeg 37MBとかいろいろあるが、各々の回線状況と好みに応じて落とせばいいだろう。再生してみる。
なんだこれは、エース●ンバットのプロモーションビデオか。
厳寒の基地から離陸したグリペンが、上空で敵(らしき)航空機を撃墜し、(おそらく敵の)戦車を破壊し、(逃げようとしているように見える)艦船を粉々にする。
まさに墜としてよし、燃やしてよし、沈めてよしと、MRF(Multi Role Fighter)として三拍子そろったグリペンの魅力を存分に表現している。
いいじゃないか。グリペンさえあればRPG-7ごときで武装した北朝鮮の不審船なんぞ100隻来ても全部ドボンだ。
エンディングには、「グリペン、それはあなたの国のつばさ。」思わず涙が出てきてしまった。もう買うしか無いでしょう。セットでいくらなんですか、たかた社長。
そんな気分にさせられてしまうが、さすがABBAを生んだスウェーデン。ビデオ中にずっと流れるサウンドトラック(2MB)がついでにMP3形式で落とせてしまうので、こちらも忘れずにゲットしておこう。
そうそう、グリペン・スクリーンセーバーも忘れずに。
最後に、グリペンという戦闘機はスウェーデンの永世中立国としての「専守防衛」思想が生んだ最高傑作機である。フル武装で700m滑走距離があれば離陸できる、対地・対艦・空対空の全ての目的で運用可能である、全幅が小振りでそこら辺のトンネルに余裕で隠せてしまう、元々雪国で開発されたので悪天候に強い、という条件をそろえた、まさに北海道向きの戦闘機なのである。まあ、そもそも北海道にはすぐに滑走路として使える日本最長の直線道路があるのだが。
もしも本当に石破防衛庁長官がマニアであるならば、アメリカに押しつけられたF2支援戦闘機なんか速攻でキャンセルして、空自の新規調達は全機グリペンにするはずなのである。これだけでも奴が、えせオタクだと言うことは見え見えだ。
しかも、F2の前には「ミツビシ」がつく。元々F2は米国ジェネラル・ダイナミクス(1993よりロッキード・マーチン)が開発したF-16がベースの機体なのだが、日本ではあの三菱が生産している。トラックやミニバンなら突然炎上しても放って逃げ出せばいいが、戦闘機が空中で炎上したらどうなる。そんなもん信頼できるか。
--
しかし、一連のコトが起こる前には、「戦闘機を作っている会社だから信頼できる」と言って三菱車を愛用していたユーザーが相当数いたのである。
ちりん師もその一人であったことは、ここだけの秘密である。これを機会に、是非SAABに乗り換えた姿が見たいものである。
スウェーデンが誇る最新鋭戦闘機、JAS39 グリペンの公式サイトである。
私は前々から(つまり、先代のJ35 ドラケンやJ37 ビゲンの時代から)この戦闘機には注目していたのだが、ここを見て以来、せめて航空自衛隊は千歳基地だけでもグリペンでを採用した方が良いのではないか、と考えてしまった。
何と言ってもサイトの至れり尽くせりなこと。そもそも兵器の公式サイトというのは、それを購入する主体である国民が見て楽しいもので無ければ、と改めて感じさせられた。
サイトにアクセスしたら、左のメニューから"Gripen Images"を選択してみよう。
現れたプルダウン・メニューから"Hungary" "South africa" "Checz Republic"などを選ぶと、その国の戦闘機購入責任者の顔写真が拝見できる。何て顧客を大事にする企業なんだ、ボルボ社。もし小金が出来たなら、買う車は絶対ベンツなんかじゃなくてSAABかボルボにしよう、とこれだけで思ってしまう。
また、様々な状況でのグリペンの写真がおいてあるが、よく見るとポップアップウィンドウに"Add to cart"なんてボタンが付いている。さては、お金を払うと、はるばるスウェーデンからカール・グスタフ国王のサイン入りポストカードかなんか届く企画なのか、と考えてみた。
だが、実際にやってみるとわかるが、カートに加えて後でダウンロードすると、ただでさえ容量の大きい高画質写真を、サーバー側で一括して圧縮したZIPファイルとして送ってくれるのだ。
なんてすばらしい発想の国家なんだ、スウェーデン。こういう国なら消費税40%でも文句言わん。
さて、右側に目を移して”Video Collection”をクリックしてみよう。Mpeg 37MBとかいろいろあるが、各々の回線状況と好みに応じて落とせばいいだろう。再生してみる。
なんだこれは、エース●ンバットのプロモーションビデオか。
厳寒の基地から離陸したグリペンが、上空で敵(らしき)航空機を撃墜し、(おそらく敵の)戦車を破壊し、(逃げようとしているように見える)艦船を粉々にする。
まさに墜としてよし、燃やしてよし、沈めてよしと、MRF(Multi Role Fighter)として三拍子そろったグリペンの魅力を存分に表現している。
いいじゃないか。グリペンさえあればRPG-7ごときで武装した北朝鮮の不審船なんぞ100隻来ても全部ドボンだ。
エンディングには、「グリペン、それはあなたの国のつばさ。」思わず涙が出てきてしまった。もう買うしか無いでしょう。セットでいくらなんですか、たかた社長。
そんな気分にさせられてしまうが、さすがABBAを生んだスウェーデン。ビデオ中にずっと流れるサウンドトラック(2MB)がついでにMP3形式で落とせてしまうので、こちらも忘れずにゲットしておこう。
そうそう、グリペン・スクリーンセーバーも忘れずに。
最後に、グリペンという戦闘機はスウェーデンの永世中立国としての「専守防衛」思想が生んだ最高傑作機である。フル武装で700m滑走距離があれば離陸できる、対地・対艦・空対空の全ての目的で運用可能である、全幅が小振りでそこら辺のトンネルに余裕で隠せてしまう、元々雪国で開発されたので悪天候に強い、という条件をそろえた、まさに北海道向きの戦闘機なのである。まあ、そもそも北海道にはすぐに滑走路として使える日本最長の直線道路があるのだが。
もしも本当に石破防衛庁長官がマニアであるならば、アメリカに押しつけられたF2支援戦闘機なんか速攻でキャンセルして、空自の新規調達は全機グリペンにするはずなのである。これだけでも奴が、えせオタクだと言うことは見え見えだ。
しかも、F2の前には「ミツビシ」がつく。元々F2は米国ジェネラル・ダイナミクス(1993よりロッキード・マーチン)が開発したF-16がベースの機体なのだが、日本ではあの三菱が生産している。トラックやミニバンなら突然炎上しても放って逃げ出せばいいが、戦闘機が空中で炎上したらどうなる。そんなもん信頼できるか。
--
しかし、一連のコトが起こる前には、「戦闘機を作っている会社だから信頼できる」と言って三菱車を愛用していたユーザーが相当数いたのである。
ちりん師もその一人であったことは、ここだけの秘密である。これを機会に、是非SAABに乗り換えた姿が見たいものである。
Wednesday, July 14, 2004
老人法を制定しろ
同居の祖母を逮捕、兄弟2人の殺人未遂容疑 茨城・関城
またも老人による痛ましい事件が起こってしまった。
私が思うに、今の老人たちには「命に対する思いやり」といったものが欠けていると思う。
自分たちは老人だから、たとえ犯罪を犯してもたいした罪にはならない。
どうせ先が短いのだから、やれることはやってしまった方が良い。
老人を大切にしない今の社会が悪い。
私たちの社会が、老人たちに知らず知らずのうちにこのようなメッセージを送っていないだろうか。
私たちは、どうすれば老人たちが健全に過ごし、どうすれば非行老人が変わっていくのか、まじめに考えるべき時に来ている。
一刻も早く老人法を制定し、「全ての行為には責任が伴う」ことを気づかせるべきなのである。
---
うーむ、「少年による犯罪増加には少年法改正で対処すべき」と同じレトリックで、「老人による犯罪増加には老人法制定で対処すべき」が成立しないか考えてみたが、いまいちだなあ。
長い人生過ごしてきて人の命のなんたるかを知り尽くした老人が起こした凶悪犯罪は、無知で未教育な青少年が犯した凶悪犯罪より、むしろ重く扱われるべきなのではないか、と考える。
またも老人による痛ましい事件が起こってしまった。
私が思うに、今の老人たちには「命に対する思いやり」といったものが欠けていると思う。
自分たちは老人だから、たとえ犯罪を犯してもたいした罪にはならない。
どうせ先が短いのだから、やれることはやってしまった方が良い。
老人を大切にしない今の社会が悪い。
私たちの社会が、老人たちに知らず知らずのうちにこのようなメッセージを送っていないだろうか。
私たちは、どうすれば老人たちが健全に過ごし、どうすれば非行老人が変わっていくのか、まじめに考えるべき時に来ている。
一刻も早く老人法を制定し、「全ての行為には責任が伴う」ことを気づかせるべきなのである。
---
うーむ、「少年による犯罪増加には少年法改正で対処すべき」と同じレトリックで、「老人による犯罪増加には老人法制定で対処すべき」が成立しないか考えてみたが、いまいちだなあ。
長い人生過ごしてきて人の命のなんたるかを知り尽くした老人が起こした凶悪犯罪は、無知で未教育な青少年が犯した凶悪犯罪より、むしろ重く扱われるべきなのではないか、と考える。
Monday, July 12, 2004
三叉神経痛の思い出
我が人生にして最悪の風邪の終末症状は、どうやら顔面に来たようで、眉毛と眉毛の間、いわゆる前頭洞のあたりがひどく痛んでいた。そのせいで土日はほぼ何もする気が起きなかったのである。
最初は感染が副鼻腔に及んで、いわゆる「蓄膿症」を起こしたのかと思ったが、どうもこれとよく似た痛みを19歳の時に味わったことを思い出した。
当時私は、札幌に出てきたばかりの予備校生で、毎日毎日周囲に遅れまいと必死だった。やがて七月がやってくると、予備校は「夏期講習」という明目でさらに家計を絞りにかかる。自分の体力は無限だ、努力すれば叶わぬものはないと信じていたあの頃。
私は、朝から晩まで予備校の夏期講座を詰め込んでいた。明らかにオーバーワークだったのである。
しかし、肉体の限界はある日突然、体調の変容という形になって現れる。
ある時、クーラーの効いた予備校の教室の中で、私は右目の上に奇妙な鈍痛を感じた。何というか、鉄のハンマーでグリグリと押し込まれるような、そんな痛みなのである。はじめは我慢していたが、そのうちに痛みは無視できないものになり、ややもすれば幻暈や吐き気まで感じてくるようになった。
今では、その部位に眼窩上切痕というたいした名前が付いており、そこは三叉神経の第一枝が顔面に表れる場所だということを知っている。しかし、当時の私は単なる予備校生であった。全く社会の役にも立たず、自分はゴミのような存在だと言うことをわきまえていた。
慣れない札幌で、私は必死に眼科を探した。札幌に出てきたとき伯母さんからもらった電話帳を必死にたぐるが、目がかすむ。やっと見つけたビルの上の眼科は、コンタクト屋の前だった。こんなとこ信用できるか、と思った。再び駅前の電話ボックスで、電話帳の「病院・医院」のページをたぐる。
そのときだった。
私の鼻から、潜血が鮮やかにほとばしり、ガラス戸の内側を汚した。
イヤになってしまった私は、すごすごと北13条の自室へ戻り、横になってしばらく休むことにした。そして、ややあってから再び地図と電話帳を見ると、地下鉄で一駅隣に、大きな眼科の専門病院があることに気づいたのである。
やや髪に白いものが混じった医師に診察して頂いた私は、「これは眼科の病気ではなくて、三叉神経痛ですね」と言われ、心底安堵した。しかし、その原因がいわゆる「肩こり」であるとも言われ、どうしたものかと思った。結局先生はヴィタミンB入りの点眼薬を処方して下さったのだが、そこで私は己の限界に気づいたのであった。
人は痛みに関する記憶を、なかなか失うことが出来ないものだ。今回の痛みも、あの時と大変似たような感じである。また、両眼窩上切痕を探ってみると、確かにその点で圧痛を感じる。頭位変換で疼痛が増強するのは正直なぜだかわからなかったが、自ら肩を積極的にほぐすよう自分でマッサージ・体操することにより、二日取れなかった痛みがだんだん改善してきた。
体調が悪いにもかかわらず、この一週間はそれでも負担をかけすぎていたのであろう。それはもはや「若さの終わり」を意味するのかも知れない。
それにしても、あの後駅前の電話ボックスで電話帳を開いた人は、さぞ腰を抜かしただろう、と思う。「病院・医院」のページに血痕がべったり付いていたのだから。
--
明日あたり本気で「自遊空間」でも行ってこよう。健康保険では治せない体調不良というものは、明らかに存在する。
最初は感染が副鼻腔に及んで、いわゆる「蓄膿症」を起こしたのかと思ったが、どうもこれとよく似た痛みを19歳の時に味わったことを思い出した。
当時私は、札幌に出てきたばかりの予備校生で、毎日毎日周囲に遅れまいと必死だった。やがて七月がやってくると、予備校は「夏期講習」という明目でさらに家計を絞りにかかる。自分の体力は無限だ、努力すれば叶わぬものはないと信じていたあの頃。
私は、朝から晩まで予備校の夏期講座を詰め込んでいた。明らかにオーバーワークだったのである。
しかし、肉体の限界はある日突然、体調の変容という形になって現れる。
ある時、クーラーの効いた予備校の教室の中で、私は右目の上に奇妙な鈍痛を感じた。何というか、鉄のハンマーでグリグリと押し込まれるような、そんな痛みなのである。はじめは我慢していたが、そのうちに痛みは無視できないものになり、ややもすれば幻暈や吐き気まで感じてくるようになった。
今では、その部位に眼窩上切痕というたいした名前が付いており、そこは三叉神経の第一枝が顔面に表れる場所だということを知っている。しかし、当時の私は単なる予備校生であった。全く社会の役にも立たず、自分はゴミのような存在だと言うことをわきまえていた。
慣れない札幌で、私は必死に眼科を探した。札幌に出てきたとき伯母さんからもらった電話帳を必死にたぐるが、目がかすむ。やっと見つけたビルの上の眼科は、コンタクト屋の前だった。こんなとこ信用できるか、と思った。再び駅前の電話ボックスで、電話帳の「病院・医院」のページをたぐる。
そのときだった。
私の鼻から、潜血が鮮やかにほとばしり、ガラス戸の内側を汚した。
イヤになってしまった私は、すごすごと北13条の自室へ戻り、横になってしばらく休むことにした。そして、ややあってから再び地図と電話帳を見ると、地下鉄で一駅隣に、大きな眼科の専門病院があることに気づいたのである。
やや髪に白いものが混じった医師に診察して頂いた私は、「これは眼科の病気ではなくて、三叉神経痛ですね」と言われ、心底安堵した。しかし、その原因がいわゆる「肩こり」であるとも言われ、どうしたものかと思った。結局先生はヴィタミンB入りの点眼薬を処方して下さったのだが、そこで私は己の限界に気づいたのであった。
人は痛みに関する記憶を、なかなか失うことが出来ないものだ。今回の痛みも、あの時と大変似たような感じである。また、両眼窩上切痕を探ってみると、確かにその点で圧痛を感じる。頭位変換で疼痛が増強するのは正直なぜだかわからなかったが、自ら肩を積極的にほぐすよう自分でマッサージ・体操することにより、二日取れなかった痛みがだんだん改善してきた。
体調が悪いにもかかわらず、この一週間はそれでも負担をかけすぎていたのであろう。それはもはや「若さの終わり」を意味するのかも知れない。
それにしても、あの後駅前の電話ボックスで電話帳を開いた人は、さぞ腰を抜かしただろう、と思う。「病院・医院」のページに血痕がべったり付いていたのだから。
--
明日あたり本気で「自遊空間」でも行ってこよう。健康保険では治せない体調不良というものは、明らかに存在する。
Sunday, July 11, 2004
体制、大勢揺るがず
外電に振ってみよう。
Japan's Ruling Coalition Stays in Power[ABCNews]
Japan ruling party holds majority[CNN.com]
--
それにしても丸川珠代アナがニューヨークから帰ってきて、たいそう老けてしまったことに大いなるショックを受けた。
Japan's Ruling Coalition Stays in Power[ABCNews]
Japan ruling party holds majority[CNN.com]
--
それにしても丸川珠代アナがニューヨークから帰ってきて、たいそう老けてしまったことに大いなるショックを受けた。
Saturday, July 10, 2004
万病のもと
いわゆる外病院でカゼをもらって以来、ほぼ一週間伏せっていたが、何とか今日から更新が出来そうである。
経過から考えて明らかにウイルス性のカゼであるから、病院に行ったところで下熱剤や補液、去痰剤と言った対症療法しか出来まい、と思っていた。
ところが、田舎からオフクロが駆けつけて、「バカなこと言ってないで病院行ってこい」というので仕方なく近くの個人医院へ行った。老先生はすぐにアリナミン注射とFMOX 300mg 分3を処方してくださった。ついでに山のようなコデインをくださった。
--
教訓:
ガタガタ言うな。抗生物質はカゼに効く。
経過から考えて明らかにウイルス性のカゼであるから、病院に行ったところで下熱剤や補液、去痰剤と言った対症療法しか出来まい、と思っていた。
ところが、田舎からオフクロが駆けつけて、「バカなこと言ってないで病院行ってこい」というので仕方なく近くの個人医院へ行った。老先生はすぐにアリナミン注射とFMOX 300mg 分3を処方してくださった。ついでに山のようなコデインをくださった。
--
教訓:
ガタガタ言うな。抗生物質はカゼに効く。
Tuesday, July 06, 2004
Monday, July 05, 2004
不覚
外来で三種混合ワクチン受けに来たり、カゼを診せに来たりする子供たちとたくさん接していたら、見事に食らってしまいました。
おそらくライノ、RS、アデノの三種混合ウイルスでは無いかと・・・。
しばらく安静。
おそらくライノ、RS、アデノの三種混合ウイルスでは無いかと・・・。
しばらく安静。
Saturday, July 03, 2004
あのですね
我々医学生というのは国家試験に受かるために日々汲々としておるわけです。
国家試験というものは、文字通りお国に私どもの地位を認めて頂くための試験でありまして。
国家資格というものは恐ろしい。一度通ってしまえば、お国が商売敵を皆片づけてくださるわけで。
そういうわけで、医学生というものはデフォルトで「右」になっておるのです。
正直、国家資格を取ろうとしながら、国家に対する批判を吐くのは矛盾なのであります。
国家試験というものは、文字通りお国に私どもの地位を認めて頂くための試験でありまして。
国家資格というものは恐ろしい。一度通ってしまえば、お国が商売敵を皆片づけてくださるわけで。
そういうわけで、医学生というものはデフォルトで「右」になっておるのです。
正直、国家資格を取ろうとしながら、国家に対する批判を吐くのは矛盾なのであります。
日本一入るのが難しい大学
正直、私は落ちました。
さすが現代医学をものともせず生き延びておられる赤塚先生。ただ者ではありません。
バカ田大学入試会場
--
耳鼻咽喉科や口腔外科の先生方は正直「早く死んでくれ」と思っているのではないでしょうか。「そんなもので病気が治ってたまるか」ともね。
え、うち?うちはそんなことありませんよ。
だって病院の売店でアガリクスとカバノアナタケ売ってるもの。
さすが現代医学をものともせず生き延びておられる赤塚先生。ただ者ではありません。
バカ田大学入試会場
--
耳鼻咽喉科や口腔外科の先生方は正直「早く死んでくれ」と思っているのではないでしょうか。「そんなもので病気が治ってたまるか」ともね。
え、うち?うちはそんなことありませんよ。
だって病院の売店でアガリクスとカバノアナタケ売ってるもの。
共産党はバファローズを買え
来週の日曜日は参議院選挙の投票日である。各政党、様々な選挙公約を抱え、パフォーマンスに必死なのは毎回のことであるが、選挙に費やす費用と実際に獲得する議席のコストパフォーマンスが一番悪いのは、日本共産党ではないか、という気がする。
まあ、もちろんどこの政党だって選挙に正直いくらつぎ込んだかなんて、正確な数字を出したがらないのが常なので、確信は持てないが。
これだけはいえる。もし私が国会議員になろうと考えたならば、日本共産党ではなく、自由民主党から立候補することであろう。選挙に勝つためのノウハウを一番知り尽くしているのが、少なくとも現時点では自由民主党であると考えるからだ。
それは。たとえば弁護士や裁判官になろうと思ったら、とりあえずは東大法学部に入るのが近道だ、、と言う論理と似ている。
そこでだ。日本共産党は今回の参議院選挙などと言う非常にマイナーな選挙に金を使うぐらいならば、いっそのその金でバファローズを買ってしまえば良いのではないか。その方が、ずっと有効な金の使い方であると考える。
史上初の政党所有プロ球団、その名も「あかはたエンゲルス」。メジャーの球団にも名前負けしない。
同志カストロ議長にお願いして、キューバから年俸200万円級の名選手が続々集まってくる。球団経営の問題なんか一挙に解決してしまうのである。
監督に星野仙一氏が就任し、地方の駅前で全員バット素振りのパフォーマンスをやっていたら、いきなり公安警察に「凶器準備集合罪」で挙げられたりする。「権力と戦い続ける球団、あかはたエンゲルス」。惹句も決まっている。
すごい怪文書もどこからか見つけ出してしまう共産党の情報力を持ってすれば、バッテリーのサインなんか赤子の手をひねるくらい簡単に解読されてしまう。
もちろん全試合テレビ朝日が中継するわけで、バックネットには「わたしたちはイラク派兵に反対します」とデカい文字が躍る。党としても実に効果的な宣伝になる。
もしリーグ優勝なんかした日には「読売ジャイアンツ対あかはたエンゲルス」のカードが実現するのである。毎回視聴率20%を超える「熱い熱い東西冷戦対決」として、野球界に貢献すること大である。
古舘伊知郎アナなんか、「ご覧ください、一塁側、革マル・中核・赤軍派、各セクトごとに一糸乱れぬ応援レインボーが展開されております」なんて大はしゃぎだ。
ライブドアなんて訳のわからない”怪”社が買うより、日本共産党がバファローズを買収した方が、ずっと球界・政界とも面白くなるのである。
まあ、もちろんどこの政党だって選挙に正直いくらつぎ込んだかなんて、正確な数字を出したがらないのが常なので、確信は持てないが。
これだけはいえる。もし私が国会議員になろうと考えたならば、日本共産党ではなく、自由民主党から立候補することであろう。選挙に勝つためのノウハウを一番知り尽くしているのが、少なくとも現時点では自由民主党であると考えるからだ。
それは。たとえば弁護士や裁判官になろうと思ったら、とりあえずは東大法学部に入るのが近道だ、、と言う論理と似ている。
そこでだ。日本共産党は今回の参議院選挙などと言う非常にマイナーな選挙に金を使うぐらいならば、いっそのその金でバファローズを買ってしまえば良いのではないか。その方が、ずっと有効な金の使い方であると考える。
史上初の政党所有プロ球団、その名も「あかはたエンゲルス」。メジャーの球団にも名前負けしない。
同志カストロ議長にお願いして、キューバから年俸200万円級の名選手が続々集まってくる。球団経営の問題なんか一挙に解決してしまうのである。
監督に星野仙一氏が就任し、地方の駅前で全員バット素振りのパフォーマンスをやっていたら、いきなり公安警察に「凶器準備集合罪」で挙げられたりする。「権力と戦い続ける球団、あかはたエンゲルス」。惹句も決まっている。
すごい怪文書もどこからか見つけ出してしまう共産党の情報力を持ってすれば、バッテリーのサインなんか赤子の手をひねるくらい簡単に解読されてしまう。
もちろん全試合テレビ朝日が中継するわけで、バックネットには「わたしたちはイラク派兵に反対します」とデカい文字が躍る。党としても実に効果的な宣伝になる。
もしリーグ優勝なんかした日には「読売ジャイアンツ対あかはたエンゲルス」のカードが実現するのである。毎回視聴率20%を超える「熱い熱い東西冷戦対決」として、野球界に貢献すること大である。
古舘伊知郎アナなんか、「ご覧ください、一塁側、革マル・中核・赤軍派、各セクトごとに一糸乱れぬ応援レインボーが展開されております」なんて大はしゃぎだ。
ライブドアなんて訳のわからない”怪”社が買うより、日本共産党がバファローズを買収した方が、ずっと球界・政界とも面白くなるのである。
Wednesday, June 30, 2004
見えない失敗
もし私が車のセールスマンであったとする。約5年のスパンで自家用車を買い換えてくれる顧客を、500人抱えていたとする。平均して、私は一年に車を100台ずつ売ることが出来る。
ここで、私が不用意な言動で、1人の顧客を怒らせてしまったとしよう。たいてい起こった顧客は周囲の人々にその体験を、誇張して話すことになる。その影響で、20人の顧客が減ることになる・。
当然、こういうことは普通の会社では、私の責任になるわけで、こういったことが続けば、セールスマンとしての立場自体が危うくなる。
ひるがえって、医者の場合について考えてみよう。
もし、私が不用意な言動で、1人の患者を怒らせてしまったとしよう。たいてい怒った患者は周囲の人々にその体験を、誇張して話すことになる。その影響で、20人の患者が減ることになる。
では、こういうことは病院では、私の責任になるのだろうか。また、こういったことが続けば、医者としての立場が危うくなるだろうか。
勤めているのがどういう病院であるかによる、と考える。
民間病院であれば、当然こういった医者への不満は、病院としての収入減少につながる。従って、当然患者に冷たい態度をとり続ける医者の居場所は無くなっていく。
ところが、大学病院や、研究を主題に抱える公的病院などでは話が変わってくる。患者の方がその病院を「選ばなければならない」事情(既に小規模施設では対応しきれない疾患など)があるので、民間病院のような患者側の選別が進みにくい。
このような事情があるので、患者が病院に対し正直な気持ちをぶつけてくることは少ない。訴訟にまで発展することはむしろ少なく、大概の場合、憤慨した患者は黙ってその病院から「いなくなる」のである。患者の側でも、医者同士の間に強い結びつきがあるのは、もうイヤと言うほどわかっていることである。あえて事を荒立て、選択枝を少なくすることはない。多くの場合は、いなくなって、他の病院へ行くことになる。ひどい場合は根拠の全く不確かな代替治療や、「拝み屋さん」のもとへ足を運ぶことになる。
静かに「いなくなる」患者の存在は、必ずしも医者としてのキャリアに減点となるわけではない。元々大規模施設では回転数が多く、医師・患者関係が希薄になりがちなせいでもある。
だが、世間一般としての概念から言えば、顧客が自分のもとに来なくなるのは、紛れもなく営業として失敗なのである。それは絶対にカルテに記載されることもなく、誰かの履歴書の賞罰欄に書かれることもない、見えない失敗となるのである。
ここで、私が不用意な言動で、1人の顧客を怒らせてしまったとしよう。たいてい起こった顧客は周囲の人々にその体験を、誇張して話すことになる。その影響で、20人の顧客が減ることになる・。
当然、こういうことは普通の会社では、私の責任になるわけで、こういったことが続けば、セールスマンとしての立場自体が危うくなる。
ひるがえって、医者の場合について考えてみよう。
もし、私が不用意な言動で、1人の患者を怒らせてしまったとしよう。たいてい怒った患者は周囲の人々にその体験を、誇張して話すことになる。その影響で、20人の患者が減ることになる。
では、こういうことは病院では、私の責任になるのだろうか。また、こういったことが続けば、医者としての立場が危うくなるだろうか。
勤めているのがどういう病院であるかによる、と考える。
民間病院であれば、当然こういった医者への不満は、病院としての収入減少につながる。従って、当然患者に冷たい態度をとり続ける医者の居場所は無くなっていく。
ところが、大学病院や、研究を主題に抱える公的病院などでは話が変わってくる。患者の方がその病院を「選ばなければならない」事情(既に小規模施設では対応しきれない疾患など)があるので、民間病院のような患者側の選別が進みにくい。
このような事情があるので、患者が病院に対し正直な気持ちをぶつけてくることは少ない。訴訟にまで発展することはむしろ少なく、大概の場合、憤慨した患者は黙ってその病院から「いなくなる」のである。患者の側でも、医者同士の間に強い結びつきがあるのは、もうイヤと言うほどわかっていることである。あえて事を荒立て、選択枝を少なくすることはない。多くの場合は、いなくなって、他の病院へ行くことになる。ひどい場合は根拠の全く不確かな代替治療や、「拝み屋さん」のもとへ足を運ぶことになる。
静かに「いなくなる」患者の存在は、必ずしも医者としてのキャリアに減点となるわけではない。元々大規模施設では回転数が多く、医師・患者関係が希薄になりがちなせいでもある。
だが、世間一般としての概念から言えば、顧客が自分のもとに来なくなるのは、紛れもなく営業として失敗なのである。それは絶対にカルテに記載されることもなく、誰かの履歴書の賞罰欄に書かれることもない、見えない失敗となるのである。
トレーニング・デイ
数年前デンゼル・ワシントンというアフリカ系アメリカ人の俳優がアカデミー賞を受賞した作品である。
今は無き東宝日劇という、まともな映画館で初めて見た映画が彼の出演作「クリムゾン・タイド」であった。ハンター少佐役を演じた彼を、いい役者だと思った。それから、彼が出演した映画はほとんど見た。
さて、トレーニング・デイではデンゼルが珍しく悪役(アロンゾ・ハリス捜査官)を演じている。
イーサン・ホーク扮するジェイク刑事は、交通課から麻薬捜査課に配属されてきたばかりだ。いわばテスト期間中の第1日目を、麻薬課では伝説的な存在であるハリス捜査官と共に過ごすことになる。
だが、ハリスはとんでもない「怪物」であった・・・。
というのがストーリ-であるが、この映画では、我々の中に住む正義と悪、遵法と脱法と言った観念がいかに曖昧なものであるかを否応なく突きつけるのである。
アロンゾは確かに清濁併せのむ刑事であり、ジェイクにいきなりPCP(エンジェル・ダスト)なんて言うすごい麻薬を吸わせたりする。だが、実際彼のおかげで町の麻薬はコントロールされてきたのだ。映画の終わりは、もっぱらジェイクの持つ「正義感」に沿ったものとなっているが、必ずしもどちらが善でどちらが悪、と決めつけられない内容だ。
今日、この映画を思い出すような出来事があった。医業を目指す以上、これからも似たようなことが、いやというほどあるだろう。私には具体的に書く勇気がないが、このまま抱え込むこともないので、ここに記すことにする。
それは患者さんの利益になることだったのか、と言えば結局はうまくいったのだからそうなったことになる。だが、それをやろうと思ったのは間違いなく自分のエゴからであり、本来は規則上すべきでないことであった。「今まで来てもらった人にはみんなやってもらっている」ということを言われれば、こちらから「それは規則上出来ないことになっています」、と言うわけにも行かず、むしろここは積極性をアピールしなければ排除される、と考えたのだ。
今日はうまくいって良かった、という感想だけでは、これからも似たような状況で、似たような決断を下すようになるだろう。
しばらく前、青戸病院の泌尿器科の先生が刑事で立件された事件があった。私も将来、彼らと同じような思考法を行う可能性があると感じた。当時ずいぶんマスコミに「人体実験」と叩かれたが、実際どんな企業体の中にも、功名心にはやる個人は存在するわけで、それを持たない人間はむしろ排除される。
--
結論:バレなきゃ何やっても良い。
今は無き東宝日劇という、まともな映画館で初めて見た映画が彼の出演作「クリムゾン・タイド」であった。ハンター少佐役を演じた彼を、いい役者だと思った。それから、彼が出演した映画はほとんど見た。
さて、トレーニング・デイではデンゼルが珍しく悪役(アロンゾ・ハリス捜査官)を演じている。
イーサン・ホーク扮するジェイク刑事は、交通課から麻薬捜査課に配属されてきたばかりだ。いわばテスト期間中の第1日目を、麻薬課では伝説的な存在であるハリス捜査官と共に過ごすことになる。
だが、ハリスはとんでもない「怪物」であった・・・。
というのがストーリ-であるが、この映画では、我々の中に住む正義と悪、遵法と脱法と言った観念がいかに曖昧なものであるかを否応なく突きつけるのである。
アロンゾは確かに清濁併せのむ刑事であり、ジェイクにいきなりPCP(エンジェル・ダスト)なんて言うすごい麻薬を吸わせたりする。だが、実際彼のおかげで町の麻薬はコントロールされてきたのだ。映画の終わりは、もっぱらジェイクの持つ「正義感」に沿ったものとなっているが、必ずしもどちらが善でどちらが悪、と決めつけられない内容だ。
今日、この映画を思い出すような出来事があった。医業を目指す以上、これからも似たようなことが、いやというほどあるだろう。私には具体的に書く勇気がないが、このまま抱え込むこともないので、ここに記すことにする。
それは患者さんの利益になることだったのか、と言えば結局はうまくいったのだからそうなったことになる。だが、それをやろうと思ったのは間違いなく自分のエゴからであり、本来は規則上すべきでないことであった。「今まで来てもらった人にはみんなやってもらっている」ということを言われれば、こちらから「それは規則上出来ないことになっています」、と言うわけにも行かず、むしろここは積極性をアピールしなければ排除される、と考えたのだ。
今日はうまくいって良かった、という感想だけでは、これからも似たような状況で、似たような決断を下すようになるだろう。
しばらく前、青戸病院の泌尿器科の先生が刑事で立件された事件があった。私も将来、彼らと同じような思考法を行う可能性があると感じた。当時ずいぶんマスコミに「人体実験」と叩かれたが、実際どんな企業体の中にも、功名心にはやる個人は存在するわけで、それを持たない人間はむしろ排除される。
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結論:バレなきゃ何やっても良い。
Tuesday, June 29, 2004
植物つながり
昔々、中学校でカメさんが出てくる「LOGO」という言語を教わった人なら、必ずやその心をくすぐりそうなプログラミング言語がある。
それは「ひまわり」という。
少しいじってみるとわかるが、メール送信(SMTP中継)や圧縮・解凍(要統合アーカイバDLL)といったかなり日常的に使える機能をたくさん実装している。
大学の授業で習ったC言語は、苦痛以上の何者でもなく、Cを使って何かを成した覚えは無いのだが、これなら何とか使えそうである。ちなみにPerlは独学中。
「ひまわり」の開発環境に同梱されているサンプルプログラム「机上右置縦書和時計」は、かなり気に入った。今年、西暦2004年が平成何年だったか、うっかりしているとすぐに忘れてしまうのである。
--
先生のことは大嫌いでもかまいません。
先生が教える科目が大嫌いでなければ、先生はそれで合格です。
それは「ひまわり」という。
少しいじってみるとわかるが、メール送信(SMTP中継)や圧縮・解凍(要統合アーカイバDLL)といったかなり日常的に使える機能をたくさん実装している。
大学の授業で習ったC言語は、苦痛以上の何者でもなく、Cを使って何かを成した覚えは無いのだが、これなら何とか使えそうである。ちなみにPerlは独学中。
「ひまわり」の開発環境に同梱されているサンプルプログラム「机上右置縦書和時計」は、かなり気に入った。今年、西暦2004年が平成何年だったか、うっかりしているとすぐに忘れてしまうのである。
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先生のことは大嫌いでもかまいません。
先生が教える科目が大嫌いでなければ、先生はそれで合格です。
無性生殖
4週間前にパキラの取り木を試みた。
観葉植物としてよく知られているパキラは、非常に「切り戻し」に強い。
我が家のパキラは、私の予備校生時代から飼い始めているので、かれこれ7年目になる。その間植え替えを一度実施したが、基本的に伸ばし放題にしていた。
パキラは、伸ばし放題にすると、まるで椰子の木のようにひょろ長くなった茎の上に葉っぱがふさふさとした風体になる。それでも別に枯れはしないのだが、やはり見栄えがよいものではない。また、何だが根本からぽっきりと折れそうになって何だか不安である。
そこで、幹の中程から「取り木」を試みた。冒頭に書いたとおり、パキラは切り戻しに強い。上手くすると、梢側・根本側の2本に増やせるかも知れない。
ところが、4週間前に皮をはぎ、水苔の上からサランラップで覆った茎からはいっこうに発根が得られない。皮のむき方が浅かったのかと思い、さらに削ってみたが特にそのようなことはなさそうだ。
こんなこともあろうかとホーマックで買っておいた植物ホルモン「ルートン」を少量の水で練り、改めて剥皮したところに塗りつけてみた。これで発根しなければ、ただ単に木を傷めただけのことになる。
G-CSFやEspoに比べれば安いものだが、果たしてこれは効いてくれるだろうか。やや心配である。
観葉植物としてよく知られているパキラは、非常に「切り戻し」に強い。
我が家のパキラは、私の予備校生時代から飼い始めているので、かれこれ7年目になる。その間植え替えを一度実施したが、基本的に伸ばし放題にしていた。
パキラは、伸ばし放題にすると、まるで椰子の木のようにひょろ長くなった茎の上に葉っぱがふさふさとした風体になる。それでも別に枯れはしないのだが、やはり見栄えがよいものではない。また、何だが根本からぽっきりと折れそうになって何だか不安である。
そこで、幹の中程から「取り木」を試みた。冒頭に書いたとおり、パキラは切り戻しに強い。上手くすると、梢側・根本側の2本に増やせるかも知れない。
ところが、4週間前に皮をはぎ、水苔の上からサランラップで覆った茎からはいっこうに発根が得られない。皮のむき方が浅かったのかと思い、さらに削ってみたが特にそのようなことはなさそうだ。
こんなこともあろうかとホーマックで買っておいた植物ホルモン「ルートン」を少量の水で練り、改めて剥皮したところに塗りつけてみた。これで発根しなければ、ただ単に木を傷めただけのことになる。
G-CSFやEspoに比べれば安いものだが、果たしてこれは効いてくれるだろうか。やや心配である。
Sunday, June 27, 2004
興業見学
札幌市内で開催中の「人体の不思議展」を見てきた。
なんだか普通のおばさんやら、女子高生やらでいっぱいの中を、堅気のM浦先生と一緒に散歩してきた。
私としては、久しぶりに解剖体に触ることが出来て、忘れかけていた(「最初っから詰めてないだろオマエは」というツッコミが聞こえるがクロルブロマジンで対処)知識を確認できた体験であった。だが、M浦先生の言うとおり、やはり学術的な目的というよりは、「死体を見たい」という大衆の好奇心を満たして利益を得るのが目的であるような気がして仕方がなかった。
死体を見るというのは、ある程度の年の人ならばそれほど珍奇な体験では無いはずである。それは、少なからず親族の死を経験してきているはずだし、そこで死体を見るということがあったはずである。
にもかかわらず、「本物」というキーワードであれだけの人を集めることが出来るのはなぜなのだろうか。
一つの理由として、「死」というものが、既にマスコミにおける重要な商品になっているのではないか、という仮説を立てた。最近読んだ中島らも氏の「ガダラの豚」の影響が多分に入っている。
彼らにとっては、「死」も「健康」と同じ次元において金のなる木なのだ。
二つ目の理由は、人体構造が持つ「美」を堪能しに来ているということ。
確かに、上肢・下肢の血管のみをプラスティネーションで抽出した標本は見事だった。ただし、各地で興業を行っているせいか、移送の衝撃で細かな血管が破損してきている。本来ならば博物館などで静的に保存されるべき資料だと思われるが、残念である。
展示されている標本は確かに美しい。見やすく、よく加工されている。だが、本来血管や神経といったものがごちゃごちゃに入り交じって配置されているのが実際の人体の姿であり、結合組織を取り除き、見やすくしていくのが医科・歯科大学で学生の行う解剖という作業である。
人体の構造を理解するためだけならば、必ずしも解剖実習を行わなくても良いのだ、という説がある。現代の技術を持ってすれば、本物の御遺体に非常に良く似せた精巧な模型をつくることは不可能ではないだろう。学生レベルの実習に耐えられる、という留保がつけばなおさらである。
そのような模型を用いて実習としても良いのだろうが、実際問題としてその模型はずいぶん高価なものになるだろう。心臓一個の模型だって,ちゃんとしたのは20~30万円もするのである。
ましてや、工業的につくられた模型は一つ一つに差異が生じない。様々なモデルを用意しようとすれば、さらにコストがかさむ。
詰まるところ、なぜ医科歯科の実習で御遺体を解剖するのか、といえばそれは、「実際の患者さんにとてもよく似た模型であるから」ということになる。解剖実習を通じて倫理が身に付くのか、といえば、そういうやつもいるだろうし、そうでないやつもいるだろう、と答えるしかない。
だいたい、御遺体を前にして哲学的に何か考えることで倫理が身に付くなら、アイヒマンやポルポトといった方々は、ずいぶんな人格者であったことだろう。
結論:
死体に触る経験の多さと、その人の倫理観の深さは比例しない。
なんだか普通のおばさんやら、女子高生やらでいっぱいの中を、堅気のM浦先生と一緒に散歩してきた。
私としては、久しぶりに解剖体に触ることが出来て、忘れかけていた(「最初っから詰めてないだろオマエは」というツッコミが聞こえるがクロルブロマジンで対処)知識を確認できた体験であった。だが、M浦先生の言うとおり、やはり学術的な目的というよりは、「死体を見たい」という大衆の好奇心を満たして利益を得るのが目的であるような気がして仕方がなかった。
死体を見るというのは、ある程度の年の人ならばそれほど珍奇な体験では無いはずである。それは、少なからず親族の死を経験してきているはずだし、そこで死体を見るということがあったはずである。
にもかかわらず、「本物」というキーワードであれだけの人を集めることが出来るのはなぜなのだろうか。
一つの理由として、「死」というものが、既にマスコミにおける重要な商品になっているのではないか、という仮説を立てた。最近読んだ中島らも氏の「ガダラの豚」の影響が多分に入っている。
彼らにとっては、「死」も「健康」と同じ次元において金のなる木なのだ。
二つ目の理由は、人体構造が持つ「美」を堪能しに来ているということ。
確かに、上肢・下肢の血管のみをプラスティネーションで抽出した標本は見事だった。ただし、各地で興業を行っているせいか、移送の衝撃で細かな血管が破損してきている。本来ならば博物館などで静的に保存されるべき資料だと思われるが、残念である。
展示されている標本は確かに美しい。見やすく、よく加工されている。だが、本来血管や神経といったものがごちゃごちゃに入り交じって配置されているのが実際の人体の姿であり、結合組織を取り除き、見やすくしていくのが医科・歯科大学で学生の行う解剖という作業である。
人体の構造を理解するためだけならば、必ずしも解剖実習を行わなくても良いのだ、という説がある。現代の技術を持ってすれば、本物の御遺体に非常に良く似せた精巧な模型をつくることは不可能ではないだろう。学生レベルの実習に耐えられる、という留保がつけばなおさらである。
そのような模型を用いて実習としても良いのだろうが、実際問題としてその模型はずいぶん高価なものになるだろう。心臓一個の模型だって,ちゃんとしたのは20~30万円もするのである。
ましてや、工業的につくられた模型は一つ一つに差異が生じない。様々なモデルを用意しようとすれば、さらにコストがかさむ。
詰まるところ、なぜ医科歯科の実習で御遺体を解剖するのか、といえばそれは、「実際の患者さんにとてもよく似た模型であるから」ということになる。解剖実習を通じて倫理が身に付くのか、といえば、そういうやつもいるだろうし、そうでないやつもいるだろう、と答えるしかない。
だいたい、御遺体を前にして哲学的に何か考えることで倫理が身に付くなら、アイヒマンやポルポトといった方々は、ずいぶんな人格者であったことだろう。
結論:
死体に触る経験の多さと、その人の倫理観の深さは比例しない。
翻訳エンジンの楽しみ
babelfish translationを介してこのページを見てみた。(Japanese->English)
タイトルが"Two type coast patrol logbook reforming"で、
「一級体罰士」は"1 class corporal punishment loyal retainer"
になる。
あってそうで微妙に違うのだが、この誤訳を手動添削することによって読める日記に・・・・ならないか。
タイトルが"Two type coast patrol logbook reforming"で、
「一級体罰士」は"1 class corporal punishment loyal retainer"
になる。
あってそうで微妙に違うのだが、この誤訳を手動添削することによって読める日記に・・・・ならないか。
Wednesday, June 23, 2004
たまには反応してみる
一点の「濁り」もない生活より。
>一方近頃の親はどうだろう。
>バイト先にいるといろんな親子の客も来る。
>見ていると、全部が全部そうだというわけではないが、
>なんとなくだが子供を甘やかしすぎな印象を受ける。
--- (中略) ---
>また、仮に怒っていたのだとしても、ただヒステリックに
>怒鳴りつけるのが怒るということではない。
実際、町中で「このガキオレが殴ってやろうか」というガキお子様を見かけることは少なくないのである。ある友人の前でそのことをこっそり口にしたら「小児科医になろうという人間が、そういうことを言うのはまずいんではないか」といわれた。
だが、どうも最近のお子様を見ていると、どうもフィジカルな教育がきちんとされていないのではないか、という感が否めない。
ロバート・R・ハインラインというSF作家がいる。彼がヒューゴー賞に輝いた作品に「宇宙の戦士」がある。後にポール・バーホーベンが「スターシップ・トゥルーパーズ」という名前で映画化したので、興味のある方はこの映画の方からごらんになると良いだろう。
映画では省かれているが、原作「宇宙の戦士」のほうに、教師デュボアと学生リコとの対話が出てくる。
・・・・・
「君は、飼っている子犬がお漏らしをしたとき、優しく話して聞かせるかね?」
「いいえ、とんでもありません。
お漏らししたところに鼻をこすりつけ、尻をひっぱたいてやります。」
・・・・・・
「宇宙の戦士」はハインラインが軍事国家の姿を描いた、かなり右寄りの作品であるとされている。しかし、その中に出てくる上記のような体罰論議は、我が国でもごく最近になって、養老孟司先生が「バカの壁」で示された、「肉体教育を見直せ」というテーゼにも引っかかってくるのである。
以前、大人になればなるほど善と悪の区別はつきにくい、と書いた。
増してや、現代は価値観がことごとく多様化している。本来子供に善悪を教える親という存在自体が、何を良いこと、悪いこととして教えていいかわからないのだと思う。
私は、体罰それ自体は悪いことではないと考えている。問題なのは、骨を折ったり、脳外傷を負わせたりといった行き過ぎた体罰が行われることである。
「体罰を禁ずる」という規律は、実際の親によるこのような行き過ぎた体罰(虐待)には無力である。そもそも、「こういうことをされたらどれだけ痛いのか」という、体罰を行う側の経験の欠如が虐待に結びついているのではないだろうか。(もちろん、幼児虐待を行う親の多くに、過去自身も虐待を受けた既往がある、ということは統計的に知られている。)
昔、冗談半分に「体罰を行う教師に免許制を設けてはどうか」と言った事がある。
10級体罰士・・・教科書の角で居眠りした生徒を小突ける。
9級体罰士・・・平手打ちが可能。
8級体罰士・・・拳固が可能。
(略)
2級体罰士・・・大外刈りが可能。
1級体罰士・・・教室内でジャイアントスイングが可能。
特級体罰士・・・拳銃が使える。
もちろん、各級ごとに厳正なる資格試験を実施する。つまり、空手・柔道の有段者のように、その打撃・技が肉体に及ぼす影響を熟知していないと、必要な級をとれないようにするのである。また、自分の免許以上の体罰を実施した教師は、厳罰に処される。
しかし、こんな体罰を国家が認めるような社会というのは、紛れもなくヤバいのである。
子供を育てる主体が家庭ではなく、国家にある社会というのは、昔はヒットラー・ユーゲントのナチスドイツ、現代では日本海の向こうの国家しか思いつかない。
>一方近頃の親はどうだろう。
>バイト先にいるといろんな親子の客も来る。
>見ていると、全部が全部そうだというわけではないが、
>なんとなくだが子供を甘やかしすぎな印象を受ける。
--- (中略) ---
>また、仮に怒っていたのだとしても、ただヒステリックに
>怒鳴りつけるのが怒るということではない。
実際、町中で「このガキオレが殴ってやろうか」という
だが、どうも最近のお子様を見ていると、どうもフィジカルな教育がきちんとされていないのではないか、という感が否めない。
ロバート・R・ハインラインというSF作家がいる。彼がヒューゴー賞に輝いた作品に「宇宙の戦士」がある。後にポール・バーホーベンが「スターシップ・トゥルーパーズ」という名前で映画化したので、興味のある方はこの映画の方からごらんになると良いだろう。
映画では省かれているが、原作「宇宙の戦士」のほうに、教師デュボアと学生リコとの対話が出てくる。
・・・・・
「君は、飼っている子犬がお漏らしをしたとき、優しく話して聞かせるかね?」
「いいえ、とんでもありません。
お漏らししたところに鼻をこすりつけ、尻をひっぱたいてやります。」
・・・・・・
「宇宙の戦士」はハインラインが軍事国家の姿を描いた、かなり右寄りの作品であるとされている。しかし、その中に出てくる上記のような体罰論議は、我が国でもごく最近になって、養老孟司先生が「バカの壁」で示された、「肉体教育を見直せ」というテーゼにも引っかかってくるのである。
以前、大人になればなるほど善と悪の区別はつきにくい、と書いた。
増してや、現代は価値観がことごとく多様化している。本来子供に善悪を教える親という存在自体が、何を良いこと、悪いこととして教えていいかわからないのだと思う。
私は、体罰それ自体は悪いことではないと考えている。問題なのは、骨を折ったり、脳外傷を負わせたりといった行き過ぎた体罰が行われることである。
「体罰を禁ずる」という規律は、実際の親によるこのような行き過ぎた体罰(虐待)には無力である。そもそも、「こういうことをされたらどれだけ痛いのか」という、体罰を行う側の経験の欠如が虐待に結びついているのではないだろうか。(もちろん、幼児虐待を行う親の多くに、過去自身も虐待を受けた既往がある、ということは統計的に知られている。)
昔、冗談半分に「体罰を行う教師に免許制を設けてはどうか」と言った事がある。
10級体罰士・・・教科書の角で居眠りした生徒を小突ける。
9級体罰士・・・平手打ちが可能。
8級体罰士・・・拳固が可能。
(略)
2級体罰士・・・大外刈りが可能。
1級体罰士・・・教室内でジャイアントスイングが可能。
特級体罰士・・・拳銃が使える。
もちろん、各級ごとに厳正なる資格試験を実施する。つまり、空手・柔道の有段者のように、その打撃・技が肉体に及ぼす影響を熟知していないと、必要な級をとれないようにするのである。また、自分の免許以上の体罰を実施した教師は、厳罰に処される。
しかし、こんな体罰を国家が認めるような社会というのは、紛れもなくヤバいのである。
子供を育てる主体が家庭ではなく、国家にある社会というのは、昔はヒットラー・ユーゲントのナチスドイツ、現代では日本海の向こうの国家しか思いつかない。
奢り
今日も外来患者さんの予診をとった。
3週間の選択実習も終わりに近づいているせいか、これしきの経験であってはならないはずの「慣れ」がでてしまった。
予断を持って患者さんの話を聞いてしまった。
あまりに長々ととりとめのない話に思えたために、話の腰を折ってしまった。
患者さんが口にしていないことを、勝手に思いこんでしまった。
自分にないはずの「要領」を使おうとすると、得てしてこんな事態になってしまう。
つくづく、自分のスタイルは重戦車、爆撃機なのだ、と自覚した。
--
「映画になるのは戦闘機乗りだが、歴史を作るのは爆撃機乗りだ。」
- 出典:『戦闘航空団解剖』 T・クランシー -
3週間の選択実習も終わりに近づいているせいか、これしきの経験であってはならないはずの「慣れ」がでてしまった。
予断を持って患者さんの話を聞いてしまった。
あまりに長々ととりとめのない話に思えたために、話の腰を折ってしまった。
患者さんが口にしていないことを、勝手に思いこんでしまった。
自分にないはずの「要領」を使おうとすると、得てしてこんな事態になってしまう。
つくづく、自分のスタイルは重戦車、爆撃機なのだ、と自覚した。
--
「映画になるのは戦闘機乗りだが、歴史を作るのは爆撃機乗りだ。」
- 出典:『戦闘航空団解剖』 T・クランシー -
バカであり続ける権利
二日前の欲求を満たすべく、「めしのはんだや」へ行く。だが、肝心のチキンカツはなく、「チーズとささみのフライ」なる何とも怪しげな一品にメニューが変わっていた。
はんだやなんか、それこそ「Uの字テーブルで、いつ殴り合いが始まってもおかしくない」ところなのだが、とりあえずそのフライと、揚げ餃子(韓国製でないことを切に祈る)と玉子サラダ、串カツ一本、それにめしのミニと豚汁を頼んでかっ食らう。
明らかに脂ぎった、栄養学的に見て賢いとはいえないメニューなのだが、はんだやへ行くと言うことはそれを欲していると言うことである。
バカであり続ける権利は、誰にも侵害し得ない。あまりにもバカらしすぎて、憲法にも書いてないが、ちゃんとした国民の固有の権利である。
(本当に「書いてない」が、ちゃんと有効な法律があるらしいとさ。コレ。[asahi.com])
私もバカの一人だ。バカの一人として、せめて他のバカの役に立てるよう、今日も研鑽を積もうと思う。
はんだやなんか、それこそ「Uの字テーブルで、いつ殴り合いが始まってもおかしくない」ところなのだが、とりあえずそのフライと、揚げ餃子(韓国製でないことを切に祈る)と玉子サラダ、串カツ一本、それにめしのミニと豚汁を頼んでかっ食らう。
明らかに脂ぎった、栄養学的に見て賢いとはいえないメニューなのだが、はんだやへ行くと言うことはそれを欲していると言うことである。
バカであり続ける権利は、誰にも侵害し得ない。あまりにもバカらしすぎて、憲法にも書いてないが、ちゃんとした国民の固有の権利である。
(本当に「書いてない」が、ちゃんと有効な法律があるらしいとさ。コレ。[asahi.com])
私もバカの一人だ。バカの一人として、せめて他のバカの役に立てるよう、今日も研鑽を積もうと思う。
Tuesday, June 22, 2004
みなさん、何をお探しで?
アクセスログを採っている。
ちょっと試してみればわかるが、この日記の右側に表示されている画像を利用して、いわゆるリモートホストを採っている。
これによって、どんな方がこの日記を見に来ているかがわかる。
より正確に言えば、読者の利用しているプロバイダがわかるのである。もとよりそう読者は多くない。固定客がどこのプロバイダを利用しているのか、私はオフ会(というほどのものでもないが)で把握している。そういうわけで、「特定のプロバイダ=特定の読者」という、かなり曖昧な一対一対応がつけられるのである。
ログを見るとおもしろいことがもう一つわかる。どこのリンクから相手がこのページへやってきたか、それがわかるのである。ただし、「お気に入り」からやってきた場合、あるいはローカルマシンにおいてあるHTMLファイルなどから飛んできた場合、直接アドレスバーにURIを打ち込んだのと同じ扱いになり、直前に見ていたページがどこなのかはわからない。
この種のログ(リファラ)を見ると、相手が検索エンジンで何を探して、私の日記へやってきたのかということもわかる。つまり、こんな感じのページが見える。
さて、気になる検索キーワードだが、一番多かったのは「鶴亀メール」「mozilla thunderbird」であった。次に「バカ田大学校歌」「ガリル自動小銃」の順であった。
つくづくここにはろくな事を書いていないのである。中には「アマリール」なんてまじめな語句で検索してこられたお客様もいらっしゃるようだが、見に来てずいぶんがっかりされたことだろう。
--
火のないところに煙は立たず。
一旦書いてしまった文章を寝かせておいても、味が深まることはない。
ちょっと試してみればわかるが、この日記の右側に表示されている画像を利用して、いわゆるリモートホストを採っている。
これによって、どんな方がこの日記を見に来ているかがわかる。
より正確に言えば、読者の利用しているプロバイダがわかるのである。もとよりそう読者は多くない。固定客がどこのプロバイダを利用しているのか、私はオフ会(というほどのものでもないが)で把握している。そういうわけで、「特定のプロバイダ=特定の読者」という、かなり曖昧な一対一対応がつけられるのである。
ログを見るとおもしろいことがもう一つわかる。どこのリンクから相手がこのページへやってきたか、それがわかるのである。ただし、「お気に入り」からやってきた場合、あるいはローカルマシンにおいてあるHTMLファイルなどから飛んできた場合、直接アドレスバーにURIを打ち込んだのと同じ扱いになり、直前に見ていたページがどこなのかはわからない。
この種のログ(リファラ)を見ると、相手が検索エンジンで何を探して、私の日記へやってきたのかということもわかる。つまり、こんな感じのページが見える。
さて、気になる検索キーワードだが、一番多かったのは「鶴亀メール」「mozilla thunderbird」であった。次に「バカ田大学校歌」「ガリル自動小銃」の順であった。
つくづくここにはろくな事を書いていないのである。中には「アマリール」なんてまじめな語句で検索してこられたお客様もいらっしゃるようだが、見に来てずいぶんがっかりされたことだろう。
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火のないところに煙は立たず。
一旦書いてしまった文章を寝かせておいても、味が深まることはない。
ポイントカード考。
北海道以外の地域にお住まいの方には全く関係ない話で恐縮だが、道内のセブンイレブンでは去年の秋頃からポイントカード制度が導入されている。
この話には前段があって、北海道内ではかなりの勢力をふるうコンビニのフランチャイズである「セイコーマート」が、それ以前からポイントカードを導入していたのである。
しかし、本当にコンビニにポイントカードが必要なのだろうか。
ポイントカードを初めて考案したのはヨドバシカメラであるとされている。
商品の価格の十数パーセントを「ポイント」として店が設定した口座に入れておき、次回の商品購入の際にこれを用いて商品代金の一部、もしくは全部に充てる。定義としてはこんなところだろう。
これによって、店の側からすると顧客の囲い込みが出来るというメリットが生じる。また、顧客の側からすると実際に表示される価格よりも割安に物品が購入できるという錯覚がある。実際、ポイント制があることで厳密な価格の比較を行うことは、顧客(消費者)にとって困難になっている。
競合する他店よりも有利に商売を進める方法としては、これは一見優れた方法である。
だが、小規模な店舗が分散する形態を取るコンビニにとって、この方法が果たして店・客双方の利益につながるのだろうか。
コンビニというのは、どこにあっても気軽に立ち寄る事が出来る場所であるから「コンビニエンス」なのである。いちいちポイントカードの残高を気にして、その系列のコンビニを探していたのではちっとも便利ではない。
また、同じ系列の店舗でも、ポイントを蓄える事が多い店と、ポイントを使われる事が多い店とが出てくるだろう。たとえば、オフィス街のように、多様な人々がそれぞれ少額の買い物をする店舗では、一人あたりのポイント還元額が少なく、客にとってはポイントが「たまりにくい」状況にある。逆に住宅街など、固定客の多い店ではポイントを「使われる」事が多いと考えられる。
素人考えでは、住宅街の店舗の方がオフィス街の店舗より、損をするような気がするのだが、果たしてフランチャイズがどんな計算をしてポイント分の損益を配分しているのかは、わからない。だが元々。後者には地元の商店主がフランチャイズに加入してやっているようなところが多いのだから、彼/彼女らが損するようなシステムになっていたとしたらフェアでない気がする。
電器店・コンビニに限らず、最近は百貨店・スーパーでもやたらにポイントカードを発行するようになっている。そのせいで我々の財布は、本来の紙幣と硬貨を収納するという役割から、プラスチックの、決して薄くはない板を挟み込むためのものへと変貌しかけている。カードに追いまくられて、肝心の通貨が入るスペースがなくなってきているのである。
電子マネー機能を持つケータイが出来たらしい。最近の技術の進歩はめざましいのだが、せめてそれ以前に「一枚のICカードでヨドバシのにも、ビックカメラのにも、東急ハンズのにも、セブンイレブンのにも、カメラのキタムラのでも共通のポイントカードとして使える」ようなシステムを考えてほしいものである。さもないと、、お金はケータイで颯爽と払えるが、なぜか持ち歩くポイントカードの束がケータイより厚い、という事態が出現しかねない。
それが出来ないのなら、せめて最初からポイントの分値引きして欲しいものである。
この話には前段があって、北海道内ではかなりの勢力をふるうコンビニのフランチャイズである「セイコーマート」が、それ以前からポイントカードを導入していたのである。
しかし、本当にコンビニにポイントカードが必要なのだろうか。
ポイントカードを初めて考案したのはヨドバシカメラであるとされている。
商品の価格の十数パーセントを「ポイント」として店が設定した口座に入れておき、次回の商品購入の際にこれを用いて商品代金の一部、もしくは全部に充てる。定義としてはこんなところだろう。
これによって、店の側からすると顧客の囲い込みが出来るというメリットが生じる。また、顧客の側からすると実際に表示される価格よりも割安に物品が購入できるという錯覚がある。実際、ポイント制があることで厳密な価格の比較を行うことは、顧客(消費者)にとって困難になっている。
競合する他店よりも有利に商売を進める方法としては、これは一見優れた方法である。
だが、小規模な店舗が分散する形態を取るコンビニにとって、この方法が果たして店・客双方の利益につながるのだろうか。
コンビニというのは、どこにあっても気軽に立ち寄る事が出来る場所であるから「コンビニエンス」なのである。いちいちポイントカードの残高を気にして、その系列のコンビニを探していたのではちっとも便利ではない。
また、同じ系列の店舗でも、ポイントを蓄える事が多い店と、ポイントを使われる事が多い店とが出てくるだろう。たとえば、オフィス街のように、多様な人々がそれぞれ少額の買い物をする店舗では、一人あたりのポイント還元額が少なく、客にとってはポイントが「たまりにくい」状況にある。逆に住宅街など、固定客の多い店ではポイントを「使われる」事が多いと考えられる。
素人考えでは、住宅街の店舗の方がオフィス街の店舗より、損をするような気がするのだが、果たしてフランチャイズがどんな計算をしてポイント分の損益を配分しているのかは、わからない。だが元々。後者には地元の商店主がフランチャイズに加入してやっているようなところが多いのだから、彼/彼女らが損するようなシステムになっていたとしたらフェアでない気がする。
電器店・コンビニに限らず、最近は百貨店・スーパーでもやたらにポイントカードを発行するようになっている。そのせいで我々の財布は、本来の紙幣と硬貨を収納するという役割から、プラスチックの、決して薄くはない板を挟み込むためのものへと変貌しかけている。カードに追いまくられて、肝心の通貨が入るスペースがなくなってきているのである。
電子マネー機能を持つケータイが出来たらしい。最近の技術の進歩はめざましいのだが、せめてそれ以前に「一枚のICカードでヨドバシのにも、ビックカメラのにも、東急ハンズのにも、セブンイレブンのにも、カメラのキタムラのでも共通のポイントカードとして使える」ようなシステムを考えてほしいものである。さもないと、、お金はケータイで颯爽と払えるが、なぜか持ち歩くポイントカードの束がケータイより厚い、という事態が出現しかねない。
それが出来ないのなら、せめて最初からポイントの分値引きして欲しいものである。
電解質と糖分、脂質への欲求。
今日は発汗量が多いせいか、台風が近づいているというのに、なぜか「めしのはんだや」に行きたくてしょうがなくなった。あの塩辛い「とん汁」と、脂ぎった「チキンカツ」が食いたくなってしまった。
腹が減るだけならいいが、実際に欲望を満たす手段が近くにある、というのも困った状況である。
腹が減るだけならいいが、実際に欲望を満たす手段が近くにある、というのも困った状況である。
Saturday, June 19, 2004
ここら辺でいったんまとめる。
今日はここに書くネタが思いつかない。こういうときにとる方法はいくつかある。
一番簡単なのは「何も書かない」ということであって、まあ、そうしたからといって別段咎められる事でもない。私は文章を書いて食べているわけではない。
しかし、それでは怠惰に流れそうな気がする。
新聞社やポータルのサイトをあさり、おもしろそうなニュースを探すというのもいい。多くのblogはそういうスタイルを取っている。
ところが、生来が無精である。また、今日知ったニュースについて考察が深まりもしないのに、性急に自らの考えを公表するというのも、私の苦手なことであるという理由で、今日はこの方法を採らない。、
そこで、今日はこの日記についての設定事項を読者に知らせるために、この一項を使いたいと思う。
***********
Q1.なぜタイトルが「弐式沿岸警備日誌改」なのか?
A1.「弐式」というのは、前回takikouサーバに置いていた時期を含め、2002年から書き始めたから。
「沿岸警備日誌」というのは、頭と要領が悪いんで、絶対いわゆる『沿岸警備隊』(誤解を恐れずに言えば、地域医療に携わる医者)として勤務することになりそうだな、と何となく思うから。
「改」というのは日記をtakikouサーバに置いていた当初、もっぱらHTMLの直接編集で書いていたのだが、それをCGI利用にしたときにつけたもの。bloggerに移行した後も、これは変える気が起きなかった。
Q2.なぜHarrityと名乗るのか。ネカマか。
A2.将来小児科医をやりたい、と漠然と思っている。「ハリーティ」とは、梵語で「鬼子母神」のことである。鬼子母神は、自分にたくさんの子供があるにもかかわらず、他人の子供をさらっては、むしゃむしゃと食っていた神様である。子供で食っていくのだから、という理由でこれにしている。
鬼子母神は女の神であるが、私は男性である。
文句があったらソース嫁。
Q3.なんか配色がすごく軍オタっぽい。
A3.軍オタですが、何か?
ついでに言うなら、bloggerのテンプレにこの配色がデフォルトで入っていたので、takikou.orgの構成もこの配色にしてしまった。
基本的に色彩センスに優れるタチではないと思っている。多くの人はそうだろう。
そう言うときは、専門家がつくった配色に任せるのも一法である。私は、専門家には常に敬意を払う。
Thursday, June 17, 2004
修羅場
修羅場に遭遇した医者は、おおむね次の3群に別れる。
第一群の医者は、まるでこの修羅場を待ちかまえていたかのように生き生きとし始める。
第二群の医者は、その場からスーッといなくなる。
第三群の医者は、逃げ遅れる。
私は間違いなく第三群の医者になるだろう、と思う。
第一群の医者は、まるでこの修羅場を待ちかまえていたかのように生き生きとし始める。
第二群の医者は、その場からスーッといなくなる。
第三群の医者は、逃げ遅れる。
私は間違いなく第三群の医者になるだろう、と思う。
子供に見せたい番組
ロンドンハーツがトップ 見せたくない番組[Yahoo!-共同通信]
見せたい番組のNo.1が「プロジェクトX」だそうで、またこんな事件[zakzak]もあったりしてつくづく子育てって大変だなと思う。
私が子供に見せたくない番組を一つ挙げろと言われたら、即座に「アンパンマン」と答える。
理由は簡単だ。「世の中、善がそう簡単に悪に勝てるわけない」ということを子供にきちんと教えなければならない。
人生をリタイヤした老人が「水戸黄門」を見て、安心して床につくのはかまわないだろう。
けれども、それと基本的に変わらないストーリーを持つ「アンパンマン」を子供に見せるのは、将来についてとんでもない甘い見通しを持たせる事につながりかねない。
本当は大人になればなるほど、善悪の区別はつきにくくなるものなのだが。
--
参考:アンパンマン日記[scq]
見せたい番組のNo.1が「プロジェクトX」だそうで、またこんな事件[zakzak]もあったりしてつくづく子育てって大変だなと思う。
私が子供に見せたくない番組を一つ挙げろと言われたら、即座に「アンパンマン」と答える。
理由は簡単だ。「世の中、善がそう簡単に悪に勝てるわけない」ということを子供にきちんと教えなければならない。
人生をリタイヤした老人が「水戸黄門」を見て、安心して床につくのはかまわないだろう。
けれども、それと基本的に変わらないストーリーを持つ「アンパンマン」を子供に見せるのは、将来についてとんでもない甘い見通しを持たせる事につながりかねない。
本当は大人になればなるほど、善悪の区別はつきにくくなるものなのだが。
--
参考:アンパンマン日記[scq]
Wednesday, June 16, 2004
It's automatic?
先週から精神科にいる。
必修の実習の他に、自ら志願して3週間の選択実習を申し込んだのだが、やはり精神科はかなり他の科とは異なるところがあると感じている。
いきなり教科書が「精神科はロマンの香りがする」なんてことから始まるのもそうだが、治療契約をしっかり結ぶ、という考えが他科より厳しい気がするのだ。
私がは、医学部に入る前、医者というのはおおむね次のような流れで仕事をするものと考えていた。
【純朴な大学受験生の思い描く医療像(A)】
<<<<<<<
1.0.病気で困った人がいる。
+--1.1.0.病気で困った人は、必ず医者のもとへやってくる。
2.0.0.医者と患者が出会う。
+--2.1.0医者は全力を尽くして治療する。患者も一生懸命病気を治そうとする。
+--2.1.1.治療の甲斐あって病気が治る。→(3.1.0)へ
+--2.1.2.治療にもかかわらず、病気が治らない。→(2.1.0.)or(3.2.0)へ
3.0.0.医者と患者がお別れする。
+--3.1.0.治って良かったね、とお別れする。
+--3.2.0残念な結果になりました、と死に別れる。
>>>>>>>>
まあガキの考えることなんざタカが知れていた、といえばそれまでだが、このチャートには、実際以下のようなケースが抜けている。そういうことがここで6年も暮らす間にわかってきた。
【スレた医学生の思い描く医療像(B)】
<<<<<<<
1.0.0病気の人がいる。
+--1.1.a.病気で困ってはいるが、医者が嫌いなので病院に来ない。
+--1.1.b.病気で困ってはいるが、民間療法で治す。(例:赤塚不二夫氏)
+--1.1.c.病気なのだが、困ってはいない。
+--1.1.d.そもそも病気なのかどうかわからない。
(しかも実は今までずいぶんたくさんの医者にかかっていたりする。)
+--1.x.x.病気でないと本人も確信しているが、どうしても病気の証明が必要だ。
2.0.0.医者と患者が出会う。
+--2.1.a.患者はそもそも病気だと思っていないので、治す気がしない。
+--2.1.b.患者は病気だと主張するが、医者にはどうしても病気だと思えないので、
治す気がしない。
+--2.2.a.「コントロール」が治療の目的であり、お別れを目的としない。
3.0.0.医者と患者がお別れする。
+--3.a.0.死亡診断書を出した覚えもないのに、いつの間にか患者が姿を見せなくなる。
+--3.b.0.なぜか大きな鞄を抱えた背広の人が現れ、いかつい明朝体で刷った
名刺を見せ、「裁判所からあなたに召喚状が届いています」という。
>>>>>>>
まだまだパターンはつきないが、実際精神科の臨床では(B)のような場面がたくさんある。そこで大切になってくる点が少なくとも二つあるように思う。
まず患者さんが「私は病気である」という意識(病識という)を持って頂くこと。また「医療スタッフも、患者さん自身も病気を治すためにここにいる」という意識を持っていただく(もちろんスタッフの側も含めて)ことである。
精神科の入院手続きというのは、内科や外科の入院と違って、何やらおどろおどろしい書類をいろいろと書いて頂かねばならない仕組みになっている。
それは、メチャクチャな医療によって患者さんが被害を被らないための仕組みである、というのが理屈だが、このせいで精神科の敷居がいっそう高くなっていることも事実である。
何でこんなものを書かせるのだろう、と思ったが、それは上に上げた二つを確認する意味があるのかも知れない。
付け加えて言えば、画像診断などの力を借りても、その場にいない第三者が「病気か否か」を判断しにくい領域であるため、一層のこと「治療契約」を書面に残すことが重視されるのだろう。実際、「自殺企図を起こさない」事を前提に治療関係を結んでいたのに、実際そのようなことを起こした場合、治療契約が解除となることもあるそうだ。
そう考えてみると、いわゆる内科外科といった「客観的な」所見が得られる診療科では、「病気の存在→診断・治療→経過」といった流れが、ずいぶん患者の意図と無関係に、オートマチックに進んで行くものではないのか、という見方を得ている。
--
No,I have revolver.
必修の実習の他に、自ら志願して3週間の選択実習を申し込んだのだが、やはり精神科はかなり他の科とは異なるところがあると感じている。
いきなり教科書が「精神科はロマンの香りがする」なんてことから始まるのもそうだが、治療契約をしっかり結ぶ、という考えが他科より厳しい気がするのだ。
私がは、医学部に入る前、医者というのはおおむね次のような流れで仕事をするものと考えていた。
【純朴な大学受験生の思い描く医療像(A)】
<<<<<<<
1.0.病気で困った人がいる。
+--1.1.0.病気で困った人は、必ず医者のもとへやってくる。
2.0.0.医者と患者が出会う。
+--2.1.0医者は全力を尽くして治療する。患者も一生懸命病気を治そうとする。
+--2.1.1.治療の甲斐あって病気が治る。→(3.1.0)へ
+--2.1.2.治療にもかかわらず、病気が治らない。→(2.1.0.)or(3.2.0)へ
3.0.0.医者と患者がお別れする。
+--3.1.0.治って良かったね、とお別れする。
+--3.2.0残念な結果になりました、と死に別れる。
>>>>>>>>
まあガキの考えることなんざタカが知れていた、といえばそれまでだが、このチャートには、実際以下のようなケースが抜けている。そういうことがここで6年も暮らす間にわかってきた。
【スレた医学生の思い描く医療像(B)】
<<<<<<<
1.0.0病気の人がいる。
+--1.1.a.病気で困ってはいるが、医者が嫌いなので病院に来ない。
+--1.1.b.病気で困ってはいるが、民間療法で治す。(例:赤塚不二夫氏)
+--1.1.c.病気なのだが、困ってはいない。
+--1.1.d.そもそも病気なのかどうかわからない。
(しかも実は今までずいぶんたくさんの医者にかかっていたりする。)
+--1.x.x.病気でないと本人も確信しているが、どうしても病気の証明が必要だ。
2.0.0.医者と患者が出会う。
+--2.1.a.患者はそもそも病気だと思っていないので、治す気がしない。
+--2.1.b.患者は病気だと主張するが、医者にはどうしても病気だと思えないので、
治す気がしない。
+--2.2.a.「コントロール」が治療の目的であり、お別れを目的としない。
3.0.0.医者と患者がお別れする。
+--3.a.0.死亡診断書を出した覚えもないのに、いつの間にか患者が姿を見せなくなる。
+--3.b.0.なぜか大きな鞄を抱えた背広の人が現れ、いかつい明朝体で刷った
名刺を見せ、「裁判所からあなたに召喚状が届いています」という。
>>>>>>>
まだまだパターンはつきないが、実際精神科の臨床では(B)のような場面がたくさんある。そこで大切になってくる点が少なくとも二つあるように思う。
まず患者さんが「私は病気である」という意識(病識という)を持って頂くこと。また「医療スタッフも、患者さん自身も病気を治すためにここにいる」という意識を持っていただく(もちろんスタッフの側も含めて)ことである。
精神科の入院手続きというのは、内科や外科の入院と違って、何やらおどろおどろしい書類をいろいろと書いて頂かねばならない仕組みになっている。
それは、メチャクチャな医療によって患者さんが被害を被らないための仕組みである、というのが理屈だが、このせいで精神科の敷居がいっそう高くなっていることも事実である。
何でこんなものを書かせるのだろう、と思ったが、それは上に上げた二つを確認する意味があるのかも知れない。
付け加えて言えば、画像診断などの力を借りても、その場にいない第三者が「病気か否か」を判断しにくい領域であるため、一層のこと「治療契約」を書面に残すことが重視されるのだろう。実際、「自殺企図を起こさない」事を前提に治療関係を結んでいたのに、実際そのようなことを起こした場合、治療契約が解除となることもあるそうだ。
そう考えてみると、いわゆる内科外科といった「客観的な」所見が得られる診療科では、「病気の存在→診断・治療→経過」といった流れが、ずいぶん患者の意図と無関係に、オートマチックに進んで行くものではないのか、という見方を得ている。
--
No,I have revolver.
Tuesday, June 15, 2004
トラックバック設置。
ここで文章を書かせて頂いているblogger.comだが、その名に反してなぜかblogっぽくない。
一番の理由はMovable Typeに備わっているトラックバックやコメントといった機能がないことで、これはなんだか味気ないものだ、と思っていた。
しかし、本日【Bloggerでブロッグ】からHaloscanといったサードパーティー製のアド・オンサービスが受けられることを知り、早速設置してみた。
占有サーバにMovable Typeを設置しようかと思っていただけに、実にコストパフォーマンスの高い解決法であった。Movable Typeのライセンス条件が、いまいちよくわからず、しかもサーバが移転してからSQLの調子が今ひとつ思わしくなかったからである。
Web上に書く文章は、誰に読まれてもおかしくないわけで、ひょっとすると著者の虚像が広まる可能性がある。筆者に感想が届く仕組みをつけるということは、無用の誤解を避けるという点でも有意義だろう。
--
因みに、右のICQ番号ですが、使ってみても筆者と話せることはほぼ皆無に近いでしょう。最近ICQは滅多に使わなくなった、ということと、穀潰しの用心棒のせいで余分な常駐アプリを使う余裕がないのであります。
一番の理由はMovable Typeに備わっているトラックバックやコメントといった機能がないことで、これはなんだか味気ないものだ、と思っていた。
しかし、本日【Bloggerでブロッグ】からHaloscanといったサードパーティー製のアド・オンサービスが受けられることを知り、早速設置してみた。
占有サーバにMovable Typeを設置しようかと思っていただけに、実にコストパフォーマンスの高い解決法であった。Movable Typeのライセンス条件が、いまいちよくわからず、しかもサーバが移転してからSQLの調子が今ひとつ思わしくなかったからである。
Web上に書く文章は、誰に読まれてもおかしくないわけで、ひょっとすると著者の虚像が広まる可能性がある。筆者に感想が届く仕組みをつけるということは、無用の誤解を避けるという点でも有意義だろう。
--
因みに、右のICQ番号ですが、使ってみても筆者と話せることはほぼ皆無に近いでしょう。最近ICQは滅多に使わなくなった、ということと、穀潰しの用心棒のせいで余分な常駐アプリを使う余裕がないのであります。
Sunday, June 13, 2004
ロケットを飛ばしたい方はどうぞ。
なんだか他人のふんどしで相撲を取るみたいで強縮だが、はてなの質問から。
「産医師異国に向こう・・・」というやつで昔30桁まで覚えたけれど、あの語呂合わせはハッピーエンドじゃなかったような・・・。
・PI=3
[http://3.1415926535897932384626433832
79502884197169399375105820974944592.jp/]
!!! ご注意 !!!
上記のリンクをクリックすると、文字通り果てしないHTMLファイルのダウンロードが始まります。
どんな内容かを知りたい方はとりあえずこちらからGoogleキャッシュでご確認を、またそうでなくとも右クリックから「対象を保存」されることを強くおすすめします。
追伸:
Irvineを使ってindex.htmlをダウンロードしてみましたが、50分経ってもまだ止まりません。本当にシャレにならないです。記憶力と集中力は大切ですが、くれぐれも誤った目的にお使いにならないことを、ご来場の皆様に、老婆心ながら申し上げます。
--
しかし、断じて「3」じゃないわけで。> どこかのお役所
「産医師異国に向こう・・・」というやつで昔30桁まで覚えたけれど、あの語呂合わせはハッピーエンドじゃなかったような・・・。
・PI=3
[http://3.1415926535897932384626433832
79502884197169399375105820974944592.jp/]
!!! ご注意 !!!
上記のリンクをクリックすると、文字通り果てしないHTMLファイルのダウンロードが始まります。
どんな内容かを知りたい方はとりあえずこちらからGoogleキャッシュでご確認を、またそうでなくとも右クリックから「対象を保存」されることを強くおすすめします。
追伸:
Irvineを使ってindex.htmlをダウンロードしてみましたが、50分経ってもまだ止まりません。本当にシャレにならないです。記憶力と集中力は大切ですが、くれぐれも誤った目的にお使いにならないことを、ご来場の皆様に、老婆心ながら申し上げます。
--
しかし、断じて「3」じゃないわけで。> どこかのお役所
Saturday, June 12, 2004
正統なる医療
「保険のきく医療」[Marvyの日記~あるいは、おしまいのはじまり]という定義は、端的にして的を射た表現だと思う。
「はてな」のカテゴリー、”医療・健康・美容”というのに目を通している。MLと掲示板を組み合わせたようなシステムで、投稿があると、登録している回答者たちのもとに投稿が配信される。
なかには「飲酒運転が病院から警察にばれそうなの何とかしてくれ」とか、「輸入禁止になってる漢方薬何とかして手に入れたい」など、「氏ねよおめーら」というツッコミが似合いそうなものから、「東京都内の名医紹介してくれ」など、かなりせっぱ詰まってそうなものまでいろいろなものが来る。
Marvy氏の投稿も、そんな「名医求む」系の一つであった。詳しくは氏のblogを拝見されることをおすすめするが、氏は現在脳腫瘍で闘病中とのことである。
いろいろ氏の日記を見て思うことはある。それは以前から私がそうなんだろうな、と思っていたこともあるし、自分自身に全くなかった視点を得ることもある。
だが、ある日突然この人の日記が更新されなくなったとしたら、見たことも、会ったことも、打電したこともないのに、ずいぶん私がへこむだろうな、と思うサイトの一つであることはここに書いておきたい。
「はてな」のカテゴリー、”医療・健康・美容”というのに目を通している。MLと掲示板を組み合わせたようなシステムで、投稿があると、登録している回答者たちのもとに投稿が配信される。
なかには「飲酒運転が病院から警察にばれそうなの何とかしてくれ」とか、「輸入禁止になってる漢方薬何とかして手に入れたい」など、「氏ねよおめーら」というツッコミが似合いそうなものから、「東京都内の名医紹介してくれ」など、かなりせっぱ詰まってそうなものまでいろいろなものが来る。
Marvy氏の投稿も、そんな「名医求む」系の一つであった。詳しくは氏のblogを拝見されることをおすすめするが、氏は現在脳腫瘍で闘病中とのことである。
いろいろ氏の日記を見て思うことはある。それは以前から私がそうなんだろうな、と思っていたこともあるし、自分自身に全くなかった視点を得ることもある。
だが、ある日突然この人の日記が更新されなくなったとしたら、見たことも、会ったことも、打電したこともないのに、ずいぶん私がへこむだろうな、と思うサイトの一つであることはここに書いておきたい。
Friday, June 11, 2004
オレはシドニー行きたいんじゃーっ!
前回の続きである。
今回の内容には、筆者の主観が多分に反映されていることをご承知の上で、稿を読み進めて頂きたい。
「女性の陣痛には生理的意義がある」(A)と公言する人は比較的よく目にするが、「不妊には生理的意義がある」(B)と公に言う人は少ない、という命題である。
(A)の見方には、たとえばここ[(財)日本教育文化財団]のような学術的なものから、「人間の生理に意味の無いものは無いのだから、陣痛にも意義があるに違いない」といったblogレベルの意見まで、様々なものが見受けられる。医学生、生命科学専攻の大学生など、比較的知的レベルの高い人の中にも、何となくこのような意見を持つ人が多い。
一方、(B)の意見を堂々とblogに掲げる人は皆無に近い。たとえあったとしても、それは生命科学畑とはかけ離れた人々の意見に多い。
(A)、(B)と対立する概念には、それぞれ「無痛分娩を普及すべきである」(A')、「不妊治療を発展させていくべきである」(B')が考えられる。
なぜ、(A)の意見が多く、(B)の意見は少ないのか。私の考えでは、それは(B')を支持する人口が、(A')を支持する人口より多いからである。
”教授”の意見を仰ぐまでもなく、全国的に麻酔科医は不足している。また、麻酔科医全体の中でも、無痛分娩に積極的に関わっていこう、という人はむしろ少数派である。ただでさえうまくいって当たり前、事故が起これば高率で訴訟が起こる、という産科領域に関わる医師の数は少ない。
一方、産科の範疇から見れば、不妊治療、とくにARTと呼ばれる生殖補助技術は、まさに花形といえる。先に述べたように産科に進もうと考える医学生は少ないが、産科医になろうとなろうと考えている学生の、相当数は先端の生殖補助技術を学びたい、と考えているはずだ。それは、内科医になろうとする学生が漠然と、消化管内視鏡や、血管内カテーテルの技術をどこかで身につけたい、と考えるのと同様である。
さらに、出生率が絶対的に低下している現在、これらの分野を開発していくことは「国策にかなう」し、流行の言葉で言えば「国益につながる」のである。
--
閑話休題。
その競技としての魅力以上に、あまりにも商業的演出をしすぎるバレーボールに対して、なかなか興味はわかないのだが、女子が五輪行きを決めたらしいことは知っている。
いささか強引な流れだが、前監督の葛和氏の口癖は、「オレはシドニー行きたいんじゃーっ!」であった。
ある意味、専門医の頂点を目指そうとか、それでなくとも上昇志向をもつ医師にとって、多かれ少なかれこの「オレはXXしたいんじゃーっ!」という気持ちを持つことは必須であると私は考える。
例)
「オレはどうしても脳死体から肝移植したいんじゃーっ!」という留学中のX医師。
「オレは絶対に大学の連中よりたくさんIVHの経験積んで帰るんじゃーっ!」っという市中病院で研修中の卒後1年目、Y医師。
「オレは同期に下剤飲ましてでも心臓バイパス手術の症例数積みたいんじゃーっ!」という○○病院のZ医師。
こういう強烈なエゴを持たない人が、いい医者にはなるわけはない。ただ、むかし「オレは絶対日本で最初に脳死体から心臓移植決めたいんじゃーっ!」という気持ちが強かったが故に、その後現在に至るまで批判の矢面に立たされている大先生も、心当たりがある。
もう一つ確認しておきたいのは、こういう自分自身のエゴを、自分の表在意識できちんと認識しているエゴイストな医師というのは、むしろ尊敬に値する。「病気を治すためと言ってはおきながら、実はこの手技を行うのは自分がそれをやりたいからだ」という意識である。
多くの医者は、「XXを求めている患者さんがいるから、(自分は仕方なく)やっている」といった、実に歯切れの悪い責任転嫁をする。
本当に患者さんの利益の観点から言えば、研修医なんか全く医療行為をさせないのが(少なくとも短期の)利益のはずだし、てめえら大根でも注射針刺して練習してやがれ、という話になる。「将来立派なお医者さんになるから」なんて、じゃ私が一人前になる前に死んでそうな(たとえば高齢の)患者さんにとってどんな利益になるというのだ。
もちろん私も来年運良く研修医になれたら、人より多くのものを学びたいと思う。その過程で、今まで述べてきたようなジレンマにはたくさん遭遇すると思うのだ。しかし、私はあくまでエゴイストであろうと思う。
人間、「死にたくない」という以上のエゴはない。デカルトでさえ、「我思う、故に我あり」と言っている。現代語訳すれば、「結局なんだかんだ言ってもさ、考え事するこのオレって存在を認めなきゃ、考えたって何も始まらないじゃん」ということである。
人間にとってエゴというものが必然的に捨てられないものである以上、自分のエゴを自覚することなしに、相手のエゴに敏感であることはあり得ない、と考えるのだ。
---
追伸:
「だから葛和さん、勝てないのよ」と○田久美女史がおっしゃったどうかについては、私は定かではない。
今回の内容には、筆者の主観が多分に反映されていることをご承知の上で、稿を読み進めて頂きたい。
「女性の陣痛には生理的意義がある」(A)と公言する人は比較的よく目にするが、「不妊には生理的意義がある」(B)と公に言う人は少ない、という命題である。
(A)の見方には、たとえばここ[(財)日本教育文化財団]のような学術的なものから、「人間の生理に意味の無いものは無いのだから、陣痛にも意義があるに違いない」といったblogレベルの意見まで、様々なものが見受けられる。医学生、生命科学専攻の大学生など、比較的知的レベルの高い人の中にも、何となくこのような意見を持つ人が多い。
一方、(B)の意見を堂々とblogに掲げる人は皆無に近い。たとえあったとしても、それは生命科学畑とはかけ離れた人々の意見に多い。
(A)、(B)と対立する概念には、それぞれ「無痛分娩を普及すべきである」(A')、「不妊治療を発展させていくべきである」(B')が考えられる。
なぜ、(A)の意見が多く、(B)の意見は少ないのか。私の考えでは、それは(B')を支持する人口が、(A')を支持する人口より多いからである。
”教授”の意見を仰ぐまでもなく、全国的に麻酔科医は不足している。また、麻酔科医全体の中でも、無痛分娩に積極的に関わっていこう、という人はむしろ少数派である。ただでさえうまくいって当たり前、事故が起これば高率で訴訟が起こる、という産科領域に関わる医師の数は少ない。
一方、産科の範疇から見れば、不妊治療、とくにARTと呼ばれる生殖補助技術は、まさに花形といえる。先に述べたように産科に進もうと考える医学生は少ないが、産科医になろうとなろうと考えている学生の、相当数は先端の生殖補助技術を学びたい、と考えているはずだ。それは、内科医になろうとする学生が漠然と、消化管内視鏡や、血管内カテーテルの技術をどこかで身につけたい、と考えるのと同様である。
さらに、出生率が絶対的に低下している現在、これらの分野を開発していくことは「国策にかなう」し、流行の言葉で言えば「国益につながる」のである。
--
閑話休題。
その競技としての魅力以上に、あまりにも商業的演出をしすぎるバレーボールに対して、なかなか興味はわかないのだが、女子が五輪行きを決めたらしいことは知っている。
いささか強引な流れだが、前監督の葛和氏の口癖は、「オレはシドニー行きたいんじゃーっ!」であった。
ある意味、専門医の頂点を目指そうとか、それでなくとも上昇志向をもつ医師にとって、多かれ少なかれこの「オレはXXしたいんじゃーっ!」という気持ちを持つことは必須であると私は考える。
例)
「オレはどうしても脳死体から肝移植したいんじゃーっ!」という留学中のX医師。
「オレは絶対に大学の連中よりたくさんIVHの経験積んで帰るんじゃーっ!」っという市中病院で研修中の卒後1年目、Y医師。
「オレは同期に下剤飲ましてでも心臓バイパス手術の症例数積みたいんじゃーっ!」という○○病院のZ医師。
こういう強烈なエゴを持たない人が、いい医者にはなるわけはない。ただ、むかし「オレは絶対日本で最初に脳死体から心臓移植決めたいんじゃーっ!」という気持ちが強かったが故に、その後現在に至るまで批判の矢面に立たされている大先生も、心当たりがある。
もう一つ確認しておきたいのは、こういう自分自身のエゴを、自分の表在意識できちんと認識しているエゴイストな医師というのは、むしろ尊敬に値する。「病気を治すためと言ってはおきながら、実はこの手技を行うのは自分がそれをやりたいからだ」という意識である。
多くの医者は、「XXを求めている患者さんがいるから、(自分は仕方なく)やっている」といった、実に歯切れの悪い責任転嫁をする。
本当に患者さんの利益の観点から言えば、研修医なんか全く医療行為をさせないのが(少なくとも短期の)利益のはずだし、てめえら大根でも注射針刺して練習してやがれ、という話になる。「将来立派なお医者さんになるから」なんて、じゃ私が一人前になる前に死んでそうな(たとえば高齢の)患者さんにとってどんな利益になるというのだ。
もちろん私も来年運良く研修医になれたら、人より多くのものを学びたいと思う。その過程で、今まで述べてきたようなジレンマにはたくさん遭遇すると思うのだ。しかし、私はあくまでエゴイストであろうと思う。
人間、「死にたくない」という以上のエゴはない。デカルトでさえ、「我思う、故に我あり」と言っている。現代語訳すれば、「結局なんだかんだ言ってもさ、考え事するこのオレって存在を認めなきゃ、考えたって何も始まらないじゃん」ということである。
人間にとってエゴというものが必然的に捨てられないものである以上、自分のエゴを自覚することなしに、相手のエゴに敏感であることはあり得ない、と考えるのだ。
---
追伸:
「だから葛和さん、勝てないのよ」と○田久美女史がおっしゃったどうかについては、私は定かではない。
Tuesday, June 08, 2004
ノートン先生
「安全はタダではない」ことを考慮して、決して安くはない金額を払って購入。
一日平均5,6回の侵入をブロック。(Norton Internet Security)
完全スキャンしてNetsky.Qを二つ検知。(Outlook使って無くて良かったと思う瞬間)
しかし、ノートン先生導入ご、WinXPの体感動作速度がCeleron 800MHz並みに遅くなった。(実装はAMD Athron1800+)
使用ページファイルは常時236MBとか。(実装メインメモリは256MB)
このためにメモリ積むのはそれこそ金の無駄という気がする。
元々それほど速いコンピュータを、日常生活で必要とするわけではないが、たとえて言うならば、三船敏郎並みに出演料の高い用心棒を雇った感がある。
一日平均5,6回の侵入をブロック。(Norton Internet Security)
完全スキャンしてNetsky.Qを二つ検知。(Outlook使って無くて良かったと思う瞬間)
しかし、ノートン先生導入ご、WinXPの体感動作速度がCeleron 800MHz並みに遅くなった。(実装はAMD Athron1800+)
使用ページファイルは常時236MBとか。(実装メインメモリは256MB)
このためにメモリ積むのはそれこそ金の無駄という気がする。
元々それほど速いコンピュータを、日常生活で必要とするわけではないが、たとえて言うならば、三船敏郎並みに出演料の高い用心棒を雇った感がある。
Monday, June 07, 2004
論理命題として
「女性の陣痛には生理的意義があるのだ」、と書く人は多い。
同様の論理が成り立つと思うのだが、「不妊には生理的意義があるのだ」ということを堂々と書く人は少ない。
あんまりここら辺を突き詰めて書くと長くなるが、今日は疲れたからこの辺で。
同様の論理が成り立つと思うのだが、「不妊には生理的意義があるのだ」ということを堂々と書く人は少ない。
あんまりここら辺を突き詰めて書くと長くなるが、今日は疲れたからこの辺で。
被爆考
過剰な検査 疑問の声[YomiuriOnLine 医療ルネサンス]
診療被爆の問題については、2月10日の日記でもふれた。
一回り診療科を回ってみて感じることだが、画像診断(CTだのMRIだの)というのは内科→外科へ、の一種のコミュニケーションツールと化しているところがある。
内科の医者が、もしかしたらこれは手術が必要な病気かも知れない、と思った患者さんを見つけたとする。ところが、そのまま何もせずに外科へ送ったのでは、いい恥をかくことになる。
手術すべきかどうか判断するのは、最終的には外科の医者と言うことになるが、その判断にはどうしたって画像が要るわけで、その画像を外科に紹介する前に用意していないのは「段取りが悪い」、という話になるわけだ。
しかし、もともと外科医の判断材料を、外科でない医者が用意するわけだから、慎重な態度を取る内科医ほど、どうしても余分目に画像診断をオーダーする傾向にある。
でも、これは医者の都合であって、患者の立場にしてみれば利益ではない。
私見だが、被爆量が少ない国々では、おそらく放射線科医の技術と地位が相当高いのだろう。私の聞く話では、たとえば米国では、放射線科医がいったん「この画像所見は癌ではない、よって手術の必要を認めない」とコメントしたならば、いかに実力のある外科医であろうとその患者に対して手術をすることは許されなくなるそうだ。
つまり、無駄な被爆量を本気で減らそうとするならば、
1)外科が必要とする画像のオーダーは外科自身が出すことにする
2)放射線科が画像診断に対するイニシアチブを握る
といったことになろうが、一般的な外科・内科の仕事量の多さからみて1)はなかなか受け入れられないだろうし、2)を実現するためには、かなり長い期間がかかるだろう、と思う。
診療被爆の問題については、2月10日の日記でもふれた。
一回り診療科を回ってみて感じることだが、画像診断(CTだのMRIだの)というのは内科→外科へ、の一種のコミュニケーションツールと化しているところがある。
内科の医者が、もしかしたらこれは手術が必要な病気かも知れない、と思った患者さんを見つけたとする。ところが、そのまま何もせずに外科へ送ったのでは、いい恥をかくことになる。
手術すべきかどうか判断するのは、最終的には外科の医者と言うことになるが、その判断にはどうしたって画像が要るわけで、その画像を外科に紹介する前に用意していないのは「段取りが悪い」、という話になるわけだ。
しかし、もともと外科医の判断材料を、外科でない医者が用意するわけだから、慎重な態度を取る内科医ほど、どうしても余分目に画像診断をオーダーする傾向にある。
でも、これは医者の都合であって、患者の立場にしてみれば利益ではない。
私見だが、被爆量が少ない国々では、おそらく放射線科医の技術と地位が相当高いのだろう。私の聞く話では、たとえば米国では、放射線科医がいったん「この画像所見は癌ではない、よって手術の必要を認めない」とコメントしたならば、いかに実力のある外科医であろうとその患者に対して手術をすることは許されなくなるそうだ。
つまり、無駄な被爆量を本気で減らそうとするならば、
1)外科が必要とする画像のオーダーは外科自身が出すことにする
2)放射線科が画像診断に対するイニシアチブを握る
といったことになろうが、一般的な外科・内科の仕事量の多さからみて1)はなかなか受け入れられないだろうし、2)を実現するためには、かなり長い期間がかかるだろう、と思う。
Sunday, June 06, 2004
痛くないものを治す
Wednesday, March 17, 2004の内容に、「後日改めて書く」と記した箇所があった。ずいぶん前の話になるが、責任上今日その顛末を改めて書くことにする。
医学部の臨床実習の中に、「口腔外科」という科目がある。これはかなり異色な科目である。というのも、普通臨床実習で回る科目の教官は全て医師であるが、この口腔外科の教官だけはほとんど全て歯科医師だからである。
その関係で、医学部を卒業後口腔外科に進む、という学生はまずいないのが実情である。
それはともかくとして、その実習の中で自分の歯のレントゲン写真(パントモグラフィー)を撮影する機会があり、そこで虫歯が見つかってしまったのだった。
虫歯は、ある程度進むと、むしろ痛くなくなる。これが「虫歯が自然に治った」かのように誤解される原因になる。しかし、放っておくと虫歯は顎骨まで達し、下手をするとそこまで骨を削らなくてはならない羽目になる。
従って、痛くなくなった虫歯はできるだけ早く治療しなければならないのである。
結局私は開業の歯科医のところで処置をしてもらった。第三大臼歯(いわゆる親知らず)と第二大臼歯の間が不潔になり、そこから第二大臼歯の虫歯がかなり深いところまで達しているらしい。そこで、まず第三大臼歯を抜歯し、その上で第二大臼歯の歯根管治療を開始することになった。
治療にはかなり難儀した。まず、抜歯後一晩出血が止まらず、結局日曜にもかかわらず歯科医の先生を起こして止めてもらった。(止血に約8時間かかった。)
また、歯根管治療にも、唾液分泌量が人より多いため、かなり切削・充填に難儀されたようだ。唾液が出るのには理由があって、中学生の時に右唾石症を手術している。口腔内からアプローチしたため、拡張した唾液管が残っているのだ。
---
治療の経過を通じて思いを強くしたことに、「痛くないものを治すためには、患者の意志力が必要だ」ということがある。実際、レントゲンを撮るまで虫歯の存在を意識していなかったのだし、咀嚼には全く不自由を感じていなかった。従って、治療を開始した動機は、「放置すると確実に痛くなる」という学問的知識の他に、「医学生として、痛くないものを治すときの痛みを知っておきたい」ということがあった。
病院というのは、来た客に対して、良いニュースよりも悪いニュースを聞かせることの方が多い場所である。それだけでも十分「病院嫌い」の原因になる。増してや、どこか痛いところがあって、その痛いところを治すのでさえ充分な恐怖を伴うことなのに、どこも痛くもないのに定期的に病院へ来い、と言われるのは相当大変なことである。
しかし、内科医になれば高血圧・糖尿病・高尿酸血症・高脂血症など、「とりあえず痛くはないものの放置すると明らかにマズい」ものの治療をしなければならない。むしろ外来診療の多くはこういった「痛くない病気」を診断・治療することである。
たとえば、明かな自覚症状を呈さない癌はたくさんある。それを見つけることに、がん健診というものの意義がある。
「病気になったら、病院へ来なければならない」という法律は無いのだから(もちろん指定感染症や、医療保護入院といったものを除いて)、いかに「病院へ来たらトクをするか知らしめる」というのも、医者の仕事なのかも知れない。ただ、その種の活動が「医療の商業化」として批判されることもある。
つねづね思うことだが、どんな病気にしろ、1ヶ月後に見つかるよりは1週間後に見つかる方がよく、1週間後に見つかるよりは今日見つかった方がいいはずである。もしそうでないとしたら、見つけた医者が何かまずいことをやっている、ということだ。(病気を見つけても、むしろ「何もしない」のが最良の決断であることもある。)一方で、多くの市民が、病院へ行くのは出来るだけ先延ばしにしよう、と考えるのも事実である。
たぶん、私も不良医学生になる道を進んでいなかったら、虫歯が再び痛み出すまで何の疑いもなく放置していただろう、と漠然たる反実仮想で思うのだ。
医学部の臨床実習の中に、「口腔外科」という科目がある。これはかなり異色な科目である。というのも、普通臨床実習で回る科目の教官は全て医師であるが、この口腔外科の教官だけはほとんど全て歯科医師だからである。
その関係で、医学部を卒業後口腔外科に進む、という学生はまずいないのが実情である。
それはともかくとして、その実習の中で自分の歯のレントゲン写真(パントモグラフィー)を撮影する機会があり、そこで虫歯が見つかってしまったのだった。
虫歯は、ある程度進むと、むしろ痛くなくなる。これが「虫歯が自然に治った」かのように誤解される原因になる。しかし、放っておくと虫歯は顎骨まで達し、下手をするとそこまで骨を削らなくてはならない羽目になる。
従って、痛くなくなった虫歯はできるだけ早く治療しなければならないのである。
結局私は開業の歯科医のところで処置をしてもらった。第三大臼歯(いわゆる親知らず)と第二大臼歯の間が不潔になり、そこから第二大臼歯の虫歯がかなり深いところまで達しているらしい。そこで、まず第三大臼歯を抜歯し、その上で第二大臼歯の歯根管治療を開始することになった。
治療にはかなり難儀した。まず、抜歯後一晩出血が止まらず、結局日曜にもかかわらず歯科医の先生を起こして止めてもらった。(止血に約8時間かかった。)
また、歯根管治療にも、唾液分泌量が人より多いため、かなり切削・充填に難儀されたようだ。唾液が出るのには理由があって、中学生の時に右唾石症を手術している。口腔内からアプローチしたため、拡張した唾液管が残っているのだ。
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治療の経過を通じて思いを強くしたことに、「痛くないものを治すためには、患者の意志力が必要だ」ということがある。実際、レントゲンを撮るまで虫歯の存在を意識していなかったのだし、咀嚼には全く不自由を感じていなかった。従って、治療を開始した動機は、「放置すると確実に痛くなる」という学問的知識の他に、「医学生として、痛くないものを治すときの痛みを知っておきたい」ということがあった。
病院というのは、来た客に対して、良いニュースよりも悪いニュースを聞かせることの方が多い場所である。それだけでも十分「病院嫌い」の原因になる。増してや、どこか痛いところがあって、その痛いところを治すのでさえ充分な恐怖を伴うことなのに、どこも痛くもないのに定期的に病院へ来い、と言われるのは相当大変なことである。
しかし、内科医になれば高血圧・糖尿病・高尿酸血症・高脂血症など、「とりあえず痛くはないものの放置すると明らかにマズい」ものの治療をしなければならない。むしろ外来診療の多くはこういった「痛くない病気」を診断・治療することである。
たとえば、明かな自覚症状を呈さない癌はたくさんある。それを見つけることに、がん健診というものの意義がある。
「病気になったら、病院へ来なければならない」という法律は無いのだから(もちろん指定感染症や、医療保護入院といったものを除いて)、いかに「病院へ来たらトクをするか知らしめる」というのも、医者の仕事なのかも知れない。ただ、その種の活動が「医療の商業化」として批判されることもある。
つねづね思うことだが、どんな病気にしろ、1ヶ月後に見つかるよりは1週間後に見つかる方がよく、1週間後に見つかるよりは今日見つかった方がいいはずである。もしそうでないとしたら、見つけた医者が何かまずいことをやっている、ということだ。(病気を見つけても、むしろ「何もしない」のが最良の決断であることもある。)一方で、多くの市民が、病院へ行くのは出来るだけ先延ばしにしよう、と考えるのも事実である。
たぶん、私も不良医学生になる道を進んでいなかったら、虫歯が再び痛み出すまで何の疑いもなく放置していただろう、と漠然たる反実仮想で思うのだ。
Saturday, June 05, 2004
教育に対する一愚見
学校というものを、「社会に出て歩くべきでない人々を一時的にせよ、恒久的にせよ、隔離する場所」と定義した方が都合のよい場合がある。
その観点からすると、学生を刑事で裁くというのは、ある隔離所から、別の隔離所へその身柄を移動させる、といった記述が成り立つのかも知れない。
その観点からすると、学生を刑事で裁くというのは、ある隔離所から、別の隔離所へその身柄を移動させる、といった記述が成り立つのかも知れない。
Thursday, May 13, 2004
時計考
2月ほど前、持っている時計がどうも遅れるようになった。電池交換の時期かと思い、時計店でみてもらったが、電池の電圧は十分あるという。
「どうでもいいから、とりあえず替えてくれ」と言おうかとも思ったが、とりあえず様子を見ることにした。
時計選びは難しい。
外では時計代わりに携帯電話を使うことが多い。基地局の電波を基準にするため、携帯電話の時計が示す時刻はかなり正確である。
だが、病院内で携帯電話を持ち歩くのはタブーである。(PHSならば機器に対する影響は非常に少ないが、うちの大学病院では携帯電話に見えるものは原則禁止だ。)
そこで、携帯とは別に時計を持つ必要がある。
だが、私は腕時計というものが好きになれない。理由はいくつかある。
私の皮膚は非常にかぶれやすい。夏に腕時計をはめていると、バンドの下に「あせも」できる。これが非常に治りにくい。結局、あせもが完治したのは腕時計を着ける習慣を廃してから一年あまり経ってからだった。
バンドの材質をゴム、金属などにしてみたこともあった。また、毎朝私はまず自分の顔を洗い、次に眼鏡を洗い、しかるのち時計を洗う習慣を持っていた。
それでも、手首の掌側にできたあせもはよくなる気配を見せなかった。
これが第一の理由である。
次に、医療者としてやっていく上で、手の周りに不潔になる要素をつけたくない、ということがある。たとえば、常に腕時計をはめていたのでは、こまめに手を洗っても時計周囲が汚くなる。また、不意に手を汚染することだってある。
また、時計というのはその個人の経済状況を如実に反映する小物の一つである。従って、あまり安価なものをつけていても見苦しいし、人格が伴わないのに高価なものをつけるのも滑稽である。
ゆえに、腕時計というものは難しいのである。
結局私はどうしたかというと、懐中時計に携帯電話用のクリップを結んで、白衣のポケットに入れておいた。文字盤が視認しやすいものを選んだので、脈拍を計る時にも大変スムーズであった。その時計が、壊れてきているのである。
振り返ってみると、これまでの生活の中で、約束した時刻を守れず人に迷惑をかけたことは何度もあった。抗議に遅刻したことなんか数知れずだし、予備校時代は朝が弱くて火~木の朝一講目は自主休講にしていたくらいだ。
そう考えてみると、この時計は主人の悪い癖を吸ってしまったのかも知れない。
だが、来年の今頃はひょっとすると医師として働いている可能性がある。そうなると、種々の書類に時刻を記入する必要があるわけで、そういうときに間違った時刻を指した時計を持っていたくない、という妙なこだわりがあったりする。
それは、ちょうど部屋が滅茶苦茶なのに、机の上に自分が乗せた覚えのないものがあるのは許せない、という気持ちに似ている。
「どうでもいいから、とりあえず替えてくれ」と言おうかとも思ったが、とりあえず様子を見ることにした。
時計選びは難しい。
外では時計代わりに携帯電話を使うことが多い。基地局の電波を基準にするため、携帯電話の時計が示す時刻はかなり正確である。
だが、病院内で携帯電話を持ち歩くのはタブーである。(PHSならば機器に対する影響は非常に少ないが、うちの大学病院では携帯電話に見えるものは原則禁止だ。)
そこで、携帯とは別に時計を持つ必要がある。
だが、私は腕時計というものが好きになれない。理由はいくつかある。
私の皮膚は非常にかぶれやすい。夏に腕時計をはめていると、バンドの下に「あせも」できる。これが非常に治りにくい。結局、あせもが完治したのは腕時計を着ける習慣を廃してから一年あまり経ってからだった。
バンドの材質をゴム、金属などにしてみたこともあった。また、毎朝私はまず自分の顔を洗い、次に眼鏡を洗い、しかるのち時計を洗う習慣を持っていた。
それでも、手首の掌側にできたあせもはよくなる気配を見せなかった。
これが第一の理由である。
次に、医療者としてやっていく上で、手の周りに不潔になる要素をつけたくない、ということがある。たとえば、常に腕時計をはめていたのでは、こまめに手を洗っても時計周囲が汚くなる。また、不意に手を汚染することだってある。
また、時計というのはその個人の経済状況を如実に反映する小物の一つである。従って、あまり安価なものをつけていても見苦しいし、人格が伴わないのに高価なものをつけるのも滑稽である。
ゆえに、腕時計というものは難しいのである。
結局私はどうしたかというと、懐中時計に携帯電話用のクリップを結んで、白衣のポケットに入れておいた。文字盤が視認しやすいものを選んだので、脈拍を計る時にも大変スムーズであった。その時計が、壊れてきているのである。
振り返ってみると、これまでの生活の中で、約束した時刻を守れず人に迷惑をかけたことは何度もあった。抗議に遅刻したことなんか数知れずだし、予備校時代は朝が弱くて火~木の朝一講目は自主休講にしていたくらいだ。
そう考えてみると、この時計は主人の悪い癖を吸ってしまったのかも知れない。
だが、来年の今頃はひょっとすると医師として働いている可能性がある。そうなると、種々の書類に時刻を記入する必要があるわけで、そういうときに間違った時刻を指した時計を持っていたくない、という妙なこだわりがあったりする。
それは、ちょうど部屋が滅茶苦茶なのに、机の上に自分が乗せた覚えのないものがあるのは許せない、という気持ちに似ている。
Wednesday, May 12, 2004
市場調査
テレビ塔前のドトールで飲むコーヒーには、180円以上の価値がある。
今日も、こんなことを携帯で話している小父さんに出会った。
「・・・・・
あ、今、大丈夫か。電話いいのかって。
XXくんはどうなった。
ん、ただのカゼだって。
え、なに、何やってんだ、バカじゃないんだから。
○○ちゃんの時もそうだったんだ、最初カゼだってほっといたら
あれ、とんでもないことなったろ。
早いところ大きな病院つれてけって。そんな個人病院じゃなくて。
その個人病院て、どんなのよ。先生若いのか年寄りなのか。
ダメだって。
年取った医者なんか自分の判断で全部やるもの。
今の医者は若いやつの方がいいんだ。
知識も手術も新しいから。
え、なに、、電車通りのXX?
誰が言ったんだそこがいいって。
あれ、石山通りのXX病院?あれ、おっきなのあるべや。
XX大の先生が来てるって言うから。あの、教授だったちゅう人。
明日でもいいから連れてけって。確か小児科あったから。
早いうちに。
・・・」
学んだこと
・こういう伯父さんを持った甥っ子は幸せである。
・たぶん明日も大病院の小児科は混雑する。
・内科医の小児科診療は信用されない。
・堅気の下す診断は、最近親族が罹患した疾患に左右される。
・医者になったからといって、徒に齢を重ねてはいけない。
・病院の大きさには、プラセボ効果がある。
・地域医療も、背後に大規模施設の存在が不可欠である。
・病院選びに最も大きな影響を及ぼすのは口コミである。
・うるさいおじさんほど、味方につけると強いものはない。
・マナーも一緒に携帯しましょう。
追記:
おじさんの言っていた石山通のXX病院について検索してみたが、確かに大きい病院ではある。
だが、小児科は無かった。
混乱したおじさんが甥っ子を元教授がいる動物病院(院長ハムテル)に連れて行かないことを切に祈る。
今日も、こんなことを携帯で話している小父さんに出会った。
「・・・・・
あ、今、大丈夫か。電話いいのかって。
XXくんはどうなった。
ん、ただのカゼだって。
え、なに、何やってんだ、バカじゃないんだから。
○○ちゃんの時もそうだったんだ、最初カゼだってほっといたら
あれ、とんでもないことなったろ。
早いところ大きな病院つれてけって。そんな個人病院じゃなくて。
その個人病院て、どんなのよ。先生若いのか年寄りなのか。
ダメだって。
年取った医者なんか自分の判断で全部やるもの。
今の医者は若いやつの方がいいんだ。
知識も手術も新しいから。
え、なに、、電車通りのXX?
誰が言ったんだそこがいいって。
あれ、石山通りのXX病院?あれ、おっきなのあるべや。
XX大の先生が来てるって言うから。あの、教授だったちゅう人。
明日でもいいから連れてけって。確か小児科あったから。
早いうちに。
・・・」
学んだこと
・こういう伯父さんを持った甥っ子は幸せである。
・たぶん明日も大病院の小児科は混雑する。
・内科医の小児科診療は信用されない。
・堅気の下す診断は、最近親族が罹患した疾患に左右される。
・医者になったからといって、徒に齢を重ねてはいけない。
・病院の大きさには、プラセボ効果がある。
・地域医療も、背後に大規模施設の存在が不可欠である。
・病院選びに最も大きな影響を及ぼすのは口コミである。
・うるさいおじさんほど、味方につけると強いものはない。
・マナーも一緒に携帯しましょう。
追記:
おじさんの言っていた石山通のXX病院について検索してみたが、確かに大きい病院ではある。
だが、小児科は無かった。
混乱したおじさんが甥っ子を元教授がいる動物病院(院長ハムテル)に連れて行かないことを切に祈る。
Tuesday, April 20, 2004
ジャータカ物語
昔、親父に音読の練習というのをさせられた。その素材が、玉川大学出版部の「例話大全集」だった。
キリスト教、仏教からイスラム教に至るまで、様々な「いい話」を集めた本である。
実際のところ、多くの小中高等学校で行われる、朝礼の「校長先生のお話」というのもこの手のネタ本がもとになっていたりする。まあ、とにかく読んで毒になるもんでもない。
その本の中に、「ジャータカ物語」というインドの訓話集があった。イソップ童話や、聖書などの内容に比べて、やや皮肉ががってはいるものの、かなり現実世界の真理を言い当てたものであった印象がある。
今日は、その中から一編紹介しよう。
「有る若い坊主の話」
昔、とある寺院に若い坊主がいた。
昔の寺院というのは、今で言う寄宿舎のようなもので、老若たくさんの僧侶が集まって共同生活をし、研鑽を積む場であったのだ。
従って、この坊主も多くの兄弟子に囲まれて暮らしていたのだが、いかんせんおっちょこちょいで、いつも周りに迷惑をかけてばかりいた。だが、兄弟子たちはいつもそんな彼を責めたりせず、むしろ暖かい目で見守り続けるのだった。
ある日のこと。兄弟子たちより朝早く目が覚めた彼は、あることを考えついた。
「そうだ、いつもよくしてくれる兄さんたちのために、朝ご飯をつくっておこうじゃないか。」
彼は普段行き慣れない炊事場へ向かうと、包丁を握り、米を炊き、スープを煮て兄弟子たちが起きてくるのを待った。
「おやおや、このおいしそうなにおいは何だ?」兄弟子たちはいぶかしがりながらも、眠い目をこすって食堂へ向かった。そして、いつもはドジばかり踏んでいる弟弟子が心づくしの料理をつくってくれたことがわかると、そのことを心から喜んだ。
そして、料理を口に運んだのだが・・・。
「うわっ、なんだこれは、ぺっ、ぺっ。」
「塩辛すぎて、とても食べられたものじゃないよ。」
弟弟子の志は正しかった。また、自らの手を使ったこともほめられてしかるべきである。惜しむらくは、彼にはその志を実現する技術がなかったのである。
---
いくら崇高な理想を持っていても、それを表現するための技術が伴わなくては、かえって逆の効果を生むことがある。彼我を見るにつけ、そのことを肝に銘じておかなくてはなるまい。
キリスト教、仏教からイスラム教に至るまで、様々な「いい話」を集めた本である。
実際のところ、多くの小中高等学校で行われる、朝礼の「校長先生のお話」というのもこの手のネタ本がもとになっていたりする。まあ、とにかく読んで毒になるもんでもない。
その本の中に、「ジャータカ物語」というインドの訓話集があった。イソップ童話や、聖書などの内容に比べて、やや皮肉ががってはいるものの、かなり現実世界の真理を言い当てたものであった印象がある。
今日は、その中から一編紹介しよう。
「有る若い坊主の話」
昔、とある寺院に若い坊主がいた。
昔の寺院というのは、今で言う寄宿舎のようなもので、老若たくさんの僧侶が集まって共同生活をし、研鑽を積む場であったのだ。
従って、この坊主も多くの兄弟子に囲まれて暮らしていたのだが、いかんせんおっちょこちょいで、いつも周りに迷惑をかけてばかりいた。だが、兄弟子たちはいつもそんな彼を責めたりせず、むしろ暖かい目で見守り続けるのだった。
ある日のこと。兄弟子たちより朝早く目が覚めた彼は、あることを考えついた。
「そうだ、いつもよくしてくれる兄さんたちのために、朝ご飯をつくっておこうじゃないか。」
彼は普段行き慣れない炊事場へ向かうと、包丁を握り、米を炊き、スープを煮て兄弟子たちが起きてくるのを待った。
「おやおや、このおいしそうなにおいは何だ?」兄弟子たちはいぶかしがりながらも、眠い目をこすって食堂へ向かった。そして、いつもはドジばかり踏んでいる弟弟子が心づくしの料理をつくってくれたことがわかると、そのことを心から喜んだ。
そして、料理を口に運んだのだが・・・。
「うわっ、なんだこれは、ぺっ、ぺっ。」
「塩辛すぎて、とても食べられたものじゃないよ。」
弟弟子の志は正しかった。また、自らの手を使ったこともほめられてしかるべきである。惜しむらくは、彼にはその志を実現する技術がなかったのである。
---
いくら崇高な理想を持っていても、それを表現するための技術が伴わなくては、かえって逆の効果を生むことがある。彼我を見るにつけ、そのことを肝に銘じておかなくてはなるまい。
Monday, March 29, 2004
責任はどこにある
タイヤ直撃事故で運転手側、和解金7千万円の返還請求へ[asahi.com]
「安全対策が不十分」専門家ら指摘 回転ドア事故[asahi.com]
今日、楽天ブックスから注文した本が届いていた。領収書を見ると、「六本木ヒルズ森タワー」となっている。ずいぶん「旬」なところである。
さて、私はそもそも回転ドアというものが嫌いであった。性根が田舎者であるせいもある。身近な(とは言っても約20キロ西だが)建物として、これを採用していたのはイオン西岡SCであったが、2月下旬に問題が起きてすでに使用停止していたようである。
今回森ビルで起こった惨劇に対して、こうなることは本当に予見できなかったのかという感想を禁じ得ない。だが、現時点で繰り広げられている、森ビルと三和シヤッターの責任転嫁は見苦しい。
法律での因果関係とは、「その要素がなければ結果が成立し得なかった」ものを全て原因としてカウントする考え方が有力らしい。
その論理において、今回原因として考えられる者を以下に列挙する。
1.回転ドアに走り込んだ子供
2.子供を放置した親
3.回転ドアの施工主である三和シヤッター
4.ビルの管理者である森ビル
5.森ビルに地所を売った不動産業者
6.
10000.人間の頭蓋骨が回転ドアごときで割れるよう造りたもうた創造主
・・・・・.
しかし、我々の感覚で[原因]とみなして違和感が感じられないのは、せいぜい4までのところであろう。
そこで、冒頭の三菱トラックの話に戻るのだが、そもそも運転手には自分の乗る自動車について、日常点検を行う義務がある。もし、運転手が適切に点検を行っていれば、この事故は防止できたのではないか?そこは一つの焦点だ。
もちろん、三菱側の設計ミスで、日常点検ないし車検では発見できないほどの異常が、ある日突然致命的な破壊につながるようになっていた可能性もある。今マスコミが問題にしているのは、もっぱらその点である。
医療の世界では、もっぱらその結果に近いところにいた者が、最大の責任を負わされる傾向にある。たとえば医者が「アルマール」と「アマリール」を間違えて処方箋を発行し、薬剤師がその処方箋に基づいて薬を患者に渡した、というような事故が起こった場合、責任を負わされるのは紛らわしい薬剤名をつけた製薬会社ではなく、医師・薬剤師といった当事者である。
それから見ると、ずいぶんケツのもって行き方が汚ねえなぁ、という感想を抱いた。
--
一時世間をにぎわした「割り○し事件」だって、よくよく考えて見りゃ、子供が割○ばしくわえて走ってるの見過ごした親が、まず一義的に悪いんじゃないか?ここのママは「病院が悪い!」って告発本まで書いてしまったが。
「安全対策が不十分」専門家ら指摘 回転ドア事故[asahi.com]
今日、楽天ブックスから注文した本が届いていた。領収書を見ると、「六本木ヒルズ森タワー」となっている。ずいぶん「旬」なところである。
さて、私はそもそも回転ドアというものが嫌いであった。性根が田舎者であるせいもある。身近な(とは言っても約20キロ西だが)建物として、これを採用していたのはイオン西岡SCであったが、2月下旬に問題が起きてすでに使用停止していたようである。
今回森ビルで起こった惨劇に対して、こうなることは本当に予見できなかったのかという感想を禁じ得ない。だが、現時点で繰り広げられている、森ビルと三和シヤッターの責任転嫁は見苦しい。
法律での因果関係とは、「その要素がなければ結果が成立し得なかった」ものを全て原因としてカウントする考え方が有力らしい。
その論理において、今回原因として考えられる者を以下に列挙する。
1.回転ドアに走り込んだ子供
2.子供を放置した親
3.回転ドアの施工主である三和シヤッター
4.ビルの管理者である森ビル
5.森ビルに地所を売った不動産業者
6.
10000.人間の頭蓋骨が回転ドアごときで割れるよう造りたもうた創造主
・・・・・.
しかし、我々の感覚で[原因]とみなして違和感が感じられないのは、せいぜい4までのところであろう。
そこで、冒頭の三菱トラックの話に戻るのだが、そもそも運転手には自分の乗る自動車について、日常点検を行う義務がある。もし、運転手が適切に点検を行っていれば、この事故は防止できたのではないか?そこは一つの焦点だ。
もちろん、三菱側の設計ミスで、日常点検ないし車検では発見できないほどの異常が、ある日突然致命的な破壊につながるようになっていた可能性もある。今マスコミが問題にしているのは、もっぱらその点である。
医療の世界では、もっぱらその結果に近いところにいた者が、最大の責任を負わされる傾向にある。たとえば医者が「アルマール」と「アマリール」を間違えて処方箋を発行し、薬剤師がその処方箋に基づいて薬を患者に渡した、というような事故が起こった場合、責任を負わされるのは紛らわしい薬剤名をつけた製薬会社ではなく、医師・薬剤師といった当事者である。
それから見ると、ずいぶんケツのもって行き方が汚ねえなぁ、という感想を抱いた。
--
一時世間をにぎわした「割り○し事件」だって、よくよく考えて見りゃ、子供が割○ばしくわえて走ってるの見過ごした親が、まず一義的に悪いんじゃないか?ここのママは「病院が悪い!」って告発本まで書いてしまったが。
Wednesday, March 17, 2004
鍵穴考
ここ数日間、日曜の出来事はやはり頭から離れない。さしあたり、盗んですぐに換金できそうなものはない。もっとも金をつぎ込んであるのは、まっさしくこの日記を書くのに使っているPCだが、これは私自身が命を吹き込んだマシンである。自作マシンを売るのではすぐにアシがつくし、バラせば単なるジャンクの集合体である。
医学書を盗もうとしても、第一に重い。しかも私は金を出して買った書籍は徹底的に破壊しつつ自分のものとして咀嚼する主義なので、古本屋に売ったところで値が付かない。
だが、あのときやはり部屋の中にいくらかの金があった。泥棒にとってはこの上なく魅力的な獲物である。もしあの朝気持ちよく目覚めたまま、どこかへ出かけてしまっていたら、それがごっそり持ち去られた可能性は高い。
こういうことを書くと甚だしく非科学的で、厚労省のお役人の耳にでも入れば「貴様のような不埒なやつには医師免許などやらん!」と怒られそうだ。だが、あのとき歯が痛くなったのはひょっとして死んだ婆ちゃんが助けてくれたのではないのか、と私はそういう風に考えたりもするのだ。
で、結局その歯だが、昨日歯科へいって、結局こういうことになった。このことについては、いずれ日を改めて書こうと思う。
話をやや元に戻す。
元に戻すと書いておきながらやや脱線するが、以前私は「暗号化」ということに興味を抱き、電子メールを暗号化するということについてどう思うか、と知人に打電しまくったことがある。今考えると、相当迷惑なこをとしたものであるが、最北の賢者から、次のような回答を頂いたことを覚えている。
「私はメールを暗号化しようとは思わない。そもそも暗号化する価値をある情報をやりとりしないし、解読できない暗号はないと考えている。」
そうだ。そのとおりである。
今回自宅の錠前を破られ、ピッキングしにくい鍵へ交換してもらったわけだが、この錠前だって貫壁というわけではあるまい。その道のプロにかかれば、合う鍵がなくても解錠することは可能だろう。破られない錠前はない。
しかるに、私の部屋が狙われるに値したと思われる要素が一つある。それは、同じ階にある、他の部屋のドアのうちいくつかは、その居住者が変わる際に管理会社が錠前を二つに増やす工事を施工している。私の部屋は、大学入学以来ずっと住んでいるため鍵が一つである。
単位時間あたり発見されるリスクが同じだけあるならば、より短時間で侵入できるドアに挑戦するのは泥棒といえども当然の理屈だろう。つまり、よい錠前とは、「隣のドアよりも侵入に時間がかかる状態にする」ものであればよいのだ。
暗号の話をすると、確かに破られない暗号というものはない。理論上、平文の暗号化が保証するのは「解読するのに膨大な時間を必要とすること」である。片っ端から適当な鍵を当てはめていけば、やがて暗号は破られるが、その鍵の組み合わせが莫大な数に上るというだけのことである。
情報の多くは、ある時刻を過ぎると急激に価値が減少する。たとえば、「(日本時間、以下同様)1941年12月8日に、日本海軍は真珠湾を攻撃する」という情報は、1941年12月7日に米国がつかんでいれば非常に価値ある情報だが、12月9日にわかったとしても意味がない。(もちろん、議論上ハル・ノートの存在とかは無視して)
さて、「法務省がプロバイダのメール保存義務を検討」という話がある。ここで問題なのは、保存したメールを扱うプロバイダが果たして信用できるのか、ということだ。某大手プロバイダから、もっとも流出に気をつけるはずの加入者情報が流出したのは記憶に新しい。
私の部屋には、現在作成中の、担当患者についてのレポート資料もあった。個人情報に類するものに関しては、レポート完成後手回しのシュレッダーを用いて裁断することにしているが、今回物色されていれば、それが他人の目に触れる可能性もあった。
そもそもあのシリンダー錠には自分として不安を抱いていただけに、「いや、鍵をかけていたのに盗まれるとは思いませんでした」という言い訳をする羽目にはなりたくない。自分のレポートを収めたワープロのファイルは、念のため全てGPGを用いて暗号化することにした。とはいっても、パスフレーズを抜かれれば秘密鍵も同じコンピュータ上にあるため、たいした防止策ではないが。
医学書を盗もうとしても、第一に重い。しかも私は金を出して買った書籍は徹底的に破壊しつつ自分のものとして咀嚼する主義なので、古本屋に売ったところで値が付かない。
だが、あのときやはり部屋の中にいくらかの金があった。泥棒にとってはこの上なく魅力的な獲物である。もしあの朝気持ちよく目覚めたまま、どこかへ出かけてしまっていたら、それがごっそり持ち去られた可能性は高い。
こういうことを書くと甚だしく非科学的で、厚労省のお役人の耳にでも入れば「貴様のような不埒なやつには医師免許などやらん!」と怒られそうだ。だが、あのとき歯が痛くなったのはひょっとして死んだ婆ちゃんが助けてくれたのではないのか、と私はそういう風に考えたりもするのだ。
で、結局その歯だが、昨日歯科へいって、結局こういうことになった。このことについては、いずれ日を改めて書こうと思う。
話をやや元に戻す。
元に戻すと書いておきながらやや脱線するが、以前私は「暗号化」ということに興味を抱き、電子メールを暗号化するということについてどう思うか、と知人に打電しまくったことがある。今考えると、相当迷惑なこをとしたものであるが、最北の賢者から、次のような回答を頂いたことを覚えている。
「私はメールを暗号化しようとは思わない。そもそも暗号化する価値をある情報をやりとりしないし、解読できない暗号はないと考えている。」
そうだ。そのとおりである。
今回自宅の錠前を破られ、ピッキングしにくい鍵へ交換してもらったわけだが、この錠前だって貫壁というわけではあるまい。その道のプロにかかれば、合う鍵がなくても解錠することは可能だろう。破られない錠前はない。
しかるに、私の部屋が狙われるに値したと思われる要素が一つある。それは、同じ階にある、他の部屋のドアのうちいくつかは、その居住者が変わる際に管理会社が錠前を二つに増やす工事を施工している。私の部屋は、大学入学以来ずっと住んでいるため鍵が一つである。
単位時間あたり発見されるリスクが同じだけあるならば、より短時間で侵入できるドアに挑戦するのは泥棒といえども当然の理屈だろう。つまり、よい錠前とは、「隣のドアよりも侵入に時間がかかる状態にする」ものであればよいのだ。
暗号の話をすると、確かに破られない暗号というものはない。理論上、平文の暗号化が保証するのは「解読するのに膨大な時間を必要とすること」である。片っ端から適当な鍵を当てはめていけば、やがて暗号は破られるが、その鍵の組み合わせが莫大な数に上るというだけのことである。
情報の多くは、ある時刻を過ぎると急激に価値が減少する。たとえば、「(日本時間、以下同様)1941年12月8日に、日本海軍は真珠湾を攻撃する」という情報は、1941年12月7日に米国がつかんでいれば非常に価値ある情報だが、12月9日にわかったとしても意味がない。(もちろん、議論上ハル・ノートの存在とかは無視して)
さて、「法務省がプロバイダのメール保存義務を検討」という話がある。ここで問題なのは、保存したメールを扱うプロバイダが果たして信用できるのか、ということだ。某大手プロバイダから、もっとも流出に気をつけるはずの加入者情報が流出したのは記憶に新しい。
私の部屋には、現在作成中の、担当患者についてのレポート資料もあった。個人情報に類するものに関しては、レポート完成後手回しのシュレッダーを用いて裁断することにしているが、今回物色されていれば、それが他人の目に触れる可能性もあった。
そもそもあのシリンダー錠には自分として不安を抱いていただけに、「いや、鍵をかけていたのに盗まれるとは思いませんでした」という言い訳をする羽目にはなりたくない。自分のレポートを収めたワープロのファイルは、念のため全てGPGを用いて暗号化することにした。とはいっても、パスフレーズを抜かれれば秘密鍵も同じコンピュータ上にあるため、たいした防止策ではないが。
日曜の昼
まず、この間の日曜日に体験したことをそのまま書く。
その日、私は朝6時に目が覚めた。しかし、なんだか右の下顎が鈍く痛む。3ヶ月ほど前に、ある理由から治療を中断していた虫歯が痛むようになってきたのだ。歯医者に行く必要があるだろうが、今日はどこも休診だろう。
私は、再び眠りによって痛みを紛らわすことにした。
誰かがチャイムを鳴らす音がする。時計を見ると11時50分頃だ。こんな時間に誰かが尋ねてくるとは聞いていない。おそらく物売りか、新聞販売員か、あるいは国営放送の吏員だろう。居留守を使った方がいい。私は来ると聞いていない客の応対には出ない主義だ。チャイムは4回ほど連続して鳴った。
そのうち、鍵を回す音がする。さて、これは親戚の誰かが合い鍵を持って尋ねて来たのかもしれない。オヤジやオフクロが来るとは聞いていないから、これは出ないと無礼にあたる人物が来たのだろう。私は寝間着のまま勝手口へ向かった。
ドアの前まで来ると、その人物が先にドアを開けた。
私の全く見知らぬ人物であった。
年齢は約40歳、あるいはそれ以上か。髪の毛は七三分けだが、やや薄い。顔つきは縁なしの眼鏡をかけ、ともすればサラリーマンか、商店主といった風貌である。背格好はやせ形、青色の毛糸のベスト(よく高校生の制服や、ラクロスのユニフォームに使われているVネック型のもの)、長袖のシャツにベージュのズボン。
私がパジャマ姿だったせいか、相手も驚いたような様子である。
「こちらは、タケダさんのお宅でしょうか。」相手は、やっとそう言った。
「いえ、違いますよ。」私がそう答えると、男は「ああ、鍵が開いていました」と言って踵を返し、エレベータの方向へ向かっていった。
ドアを閉め、改めて鍵をかけたが、何か腑に落ちない気がする。そもそも、私は帰ると無意識のうちに鍵を閉めている習慣が付いている。鍵をかけないまま寝るということが、あり得るだろうか。
私は、改めてドアチェーンをかけ、少しだけドアを開けて隙間を伺った。相手は、エレベータに乗ったようだ。
やや考えた末、まず市内の伯父の家に電話をかけた。オヤジは今日、電話のない地域へ行っている。オフクロも市内の病院に入院中だ。(以前の日記で「雪道で足を骨折した知人」といっているうちの一人が、実はオフクロなのだ。)
伯父さんの意見は、まずマンションの管理会社へ電話するべきだ、というものだった。
私も、まず警察官の手を煩わせる前にそうした方がスマートでよかろうと考えた。だが、日曜と言うことで管理会社は出払っている。留守電応対のみだ。
オフクロが入院中ということで、急に入り用になったときに備え、幾ばくかの現金は私の部屋にあった。そこで、この現金をまず安全に処置することを第一に考えた。そして、とりあえずオフクロと善後策を相談するため、入院先の、近くにある病院へ向かった。
やはりオフクロと相談しても、そいつは怪しいだろうということになった。手持ちの現金をオフクロに預けると(あまり現金を入院患者に持たせるのはよい考えではないが)、最寄りの交番へことの顛末を話しに行った。
交番にいた若い警官はなかなか親切に私の話を聞いてくれた。時刻はすでに午後2時にさしかかっていたが、そばにいた数名の警官はすぐに席を立って周辺の見回りへいってくれた。
「鍵を開けて入ってくるのは悪いやつに決まってますから」
冷静に考えれば、お巡りさんの言うとおりである。だが、果たして本当に自分で鍵を閉め忘れたのでないのか、他人を迷惑に巻き込むことになってはいけないという心理が働いた。それに、3年前に私は一度、ここから夜中に110番通報をして警官を呼んだことがある。そのときの状況を考えれば、今でも間違った判断だとは思えないが、「やたらピーポーを呼びたがる質の人」だと思われてもどうだろう。そんな心理が、直ちに110番を押すのをためらわせた。
今日、鍵屋さんが来てドアの鍵を替えていった。今度はピッキングしにくいものだそうだ。
だが、あのとき鍵が開くのに要した時間は、たかだか10秒程度のものだった。合い鍵は時に錠前と引っかかりを起こすことがある。そう考えれば、誰か合い鍵を持った知り合いが訪ねてきたと考えても筋は合ったろう。だが、あのとき起きあがるのが数秒遅れていれば、私は室内で彼と対峙したに違いない。ややぞっとしない話ではある。
その日、私は朝6時に目が覚めた。しかし、なんだか右の下顎が鈍く痛む。3ヶ月ほど前に、ある理由から治療を中断していた虫歯が痛むようになってきたのだ。歯医者に行く必要があるだろうが、今日はどこも休診だろう。
私は、再び眠りによって痛みを紛らわすことにした。
誰かがチャイムを鳴らす音がする。時計を見ると11時50分頃だ。こんな時間に誰かが尋ねてくるとは聞いていない。おそらく物売りか、新聞販売員か、あるいは国営放送の吏員だろう。居留守を使った方がいい。私は来ると聞いていない客の応対には出ない主義だ。チャイムは4回ほど連続して鳴った。
そのうち、鍵を回す音がする。さて、これは親戚の誰かが合い鍵を持って尋ねて来たのかもしれない。オヤジやオフクロが来るとは聞いていないから、これは出ないと無礼にあたる人物が来たのだろう。私は寝間着のまま勝手口へ向かった。
ドアの前まで来ると、その人物が先にドアを開けた。
私の全く見知らぬ人物であった。
年齢は約40歳、あるいはそれ以上か。髪の毛は七三分けだが、やや薄い。顔つきは縁なしの眼鏡をかけ、ともすればサラリーマンか、商店主といった風貌である。背格好はやせ形、青色の毛糸のベスト(よく高校生の制服や、ラクロスのユニフォームに使われているVネック型のもの)、長袖のシャツにベージュのズボン。
私がパジャマ姿だったせいか、相手も驚いたような様子である。
「こちらは、タケダさんのお宅でしょうか。」相手は、やっとそう言った。
「いえ、違いますよ。」私がそう答えると、男は「ああ、鍵が開いていました」と言って踵を返し、エレベータの方向へ向かっていった。
ドアを閉め、改めて鍵をかけたが、何か腑に落ちない気がする。そもそも、私は帰ると無意識のうちに鍵を閉めている習慣が付いている。鍵をかけないまま寝るということが、あり得るだろうか。
私は、改めてドアチェーンをかけ、少しだけドアを開けて隙間を伺った。相手は、エレベータに乗ったようだ。
やや考えた末、まず市内の伯父の家に電話をかけた。オヤジは今日、電話のない地域へ行っている。オフクロも市内の病院に入院中だ。(以前の日記で「雪道で足を骨折した知人」といっているうちの一人が、実はオフクロなのだ。)
伯父さんの意見は、まずマンションの管理会社へ電話するべきだ、というものだった。
私も、まず警察官の手を煩わせる前にそうした方がスマートでよかろうと考えた。だが、日曜と言うことで管理会社は出払っている。留守電応対のみだ。
オフクロが入院中ということで、急に入り用になったときに備え、幾ばくかの現金は私の部屋にあった。そこで、この現金をまず安全に処置することを第一に考えた。そして、とりあえずオフクロと善後策を相談するため、入院先の、近くにある病院へ向かった。
やはりオフクロと相談しても、そいつは怪しいだろうということになった。手持ちの現金をオフクロに預けると(あまり現金を入院患者に持たせるのはよい考えではないが)、最寄りの交番へことの顛末を話しに行った。
交番にいた若い警官はなかなか親切に私の話を聞いてくれた。時刻はすでに午後2時にさしかかっていたが、そばにいた数名の警官はすぐに席を立って周辺の見回りへいってくれた。
「鍵を開けて入ってくるのは悪いやつに決まってますから」
冷静に考えれば、お巡りさんの言うとおりである。だが、果たして本当に自分で鍵を閉め忘れたのでないのか、他人を迷惑に巻き込むことになってはいけないという心理が働いた。それに、3年前に私は一度、ここから夜中に110番通報をして警官を呼んだことがある。そのときの状況を考えれば、今でも間違った判断だとは思えないが、「やたらピーポーを呼びたがる質の人」だと思われてもどうだろう。そんな心理が、直ちに110番を押すのをためらわせた。
今日、鍵屋さんが来てドアの鍵を替えていった。今度はピッキングしにくいものだそうだ。
だが、あのとき鍵が開くのに要した時間は、たかだか10秒程度のものだった。合い鍵は時に錠前と引っかかりを起こすことがある。そう考えれば、誰か合い鍵を持った知り合いが訪ねてきたと考えても筋は合ったろう。だが、あのとき起きあがるのが数秒遅れていれば、私は室内で彼と対峙したに違いない。ややぞっとしない話ではある。
Thursday, March 04, 2004
メーラー選び
複数のメーラーを使い分ける人は約4割[Yahoo!- 株式会社インフォプラント]
ちりん氏には先につっこまれてしまったが、この私も、現在乗り換えるべきメーラーを模索中である。
私が考えるメーラーの条件は、以下のようなものである。
▼マルチアカウント対応であること。
私は公私あわせて約10個のメールアカウントを保持しているので、これは譲れない。
▼できることならフリーであること。
いや、有料でも、そこそこにいいものはあるのだが、値段に見合うだけの価値があるものがなかなか見つからない。
▼マイナーであること。
ウイルス作者がねらうのは、可能な限り市場に出回っているメーラーであろう。
▼格好悪くないこと。
ある意味トイレットペーパーよりよく使うものだけに、ここはこだわりたい。
▼メール保存の仕方がまっとうであること。
1メール1ファイルなんかで保管された日には、いくらディスク領域があっても足りるもんじゃありません。また、OSを再インストールするとき真っ先にやるのはメールの保存である。それが簡単にできないようでは困る。
▼GPGが使えること。
ただでさえ公安からマークされそうなのに、大事なメールを平文で送ることなど考えられない。
この条件から最後に残ったのは、Mozilla thunderbirdと、なんと鶴亀メールである。
何、鶴亀メールはフリーじゃないだろうって?
何を隠そう、この私は日本に生息する、数少ない、シェアウェア料金4000円を払って秀丸エディタを利用しているユーザーの一人である。
何、鶴亀メールはアイコンが変だ?
そういう人のためにちゃんとアイコンモジュールライブラリというものがある。とりあえずXP風アイコン(大)を適用してみたが、そう見栄えは悪くなくなった。
しかし、こんな苦労をするものも長年愛用してきたShuriken Pro 3のCDがどっかいったからである。
--
こんなくだらないことをBlogに書くのも、実は本当に書きたいことが様々な制約のために書けないためだったりする。
王様の耳はロバの耳。
ちりん氏には先につっこまれてしまったが、この私も、現在乗り換えるべきメーラーを模索中である。
私が考えるメーラーの条件は、以下のようなものである。
▼マルチアカウント対応であること。
私は公私あわせて約10個のメールアカウントを保持しているので、これは譲れない。
▼できることならフリーであること。
いや、有料でも、そこそこにいいものはあるのだが、値段に見合うだけの価値があるものがなかなか見つからない。
▼マイナーであること。
ウイルス作者がねらうのは、可能な限り市場に出回っているメーラーであろう。
▼格好悪くないこと。
ある意味トイレットペーパーよりよく使うものだけに、ここはこだわりたい。
▼メール保存の仕方がまっとうであること。
1メール1ファイルなんかで保管された日には、いくらディスク領域があっても足りるもんじゃありません。また、OSを再インストールするとき真っ先にやるのはメールの保存である。それが簡単にできないようでは困る。
▼GPGが使えること。
ただでさえ公安からマークされそうなのに、大事なメールを平文で送ることなど考えられない。
この条件から最後に残ったのは、Mozilla thunderbirdと、なんと鶴亀メールである。
何、鶴亀メールはフリーじゃないだろうって?
何を隠そう、この私は日本に生息する、数少ない、シェアウェア料金4000円を払って秀丸エディタを利用しているユーザーの一人である。
何、鶴亀メールはアイコンが変だ?
そういう人のためにちゃんとアイコンモジュールライブラリというものがある。とりあえずXP風アイコン(大)を適用してみたが、そう見栄えは悪くなくなった。
しかし、こんな苦労をするものも長年愛用してきたShuriken Pro 3のCDがどっかいったからである。
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こんなくだらないことをBlogに書くのも、実は本当に書きたいことが様々な制約のために書けないためだったりする。
王様の耳はロバの耳。
Sunday, February 15, 2004
なぜ「はく」のか
北海道では、手袋を「はく」。
北海道では、と言ってはみたが、北海道人にとって手袋はごくナチュラルに「はく」ものである。
では、なぜ北海道では手袋をはく、と言うのか。東北弁の影響とか、そういった語源・地理的なものを無視して考えてみる。
そもそも、北海道人が手袋をはくのはなぜか。
これは、第一義的には寒冷から手を保護するためである。しかし、北海道で子供時代を過ごした者なら分かるとおり、寒冷に対しては手袋は万全の防備と呼びがたい。
子供は雪玉を作って遊ぶ。雪玉を作ると、当然手袋は雪にまみれる。時間が経つと、濡れる。毛糸の手袋ならまずこれで脱がざるを得なくなる。濡れた手袋はますます冷たさを呼ぶ。革や合皮の手袋にしても、今度は中から汗で濡れてくる。
従って、北海道人が手袋をはくのは、寒冷のためだけではなさそうである。
北国で手袋が果たす役割には、もう一つある。それは、衝撃と接着からの保護である。
北国では、冬になると常に路面は不安定である。足下は滑りやすい。
つるっと滑る。あわてて手をつく。あるいは、近くの何かにしがみつく。
このとき、手袋をしていなければ、凍った刃のような路面が手を切る。近くの標識支柱にしがみつけば、手が張り付く。これを無理にはがそうとすれば、手の皮一枚を持って行かれる。はがさなければ、そこで凍え死ぬ。
毛糸にしても、革にしても、手袋はこの恐ろしい事態に対する保険になり得る。
従って、北海道で手袋の果たす役割は、靴や靴下が果たす役割に、より近い。だから手袋は「はく」のだ。
* 一部誇張を交えました。雪祭りにいらっしゃる北海道以外の方で、手袋をしていなかったばかりに凍死した方はおられません。どうぞ来年も安心してご来場ください。(北海道政府を勝手に代表してのPR)
--
この冬、知っている方が二人凍結路面で転倒し、下肢を骨折されました。
だから私は、「冬道で自転車に乗っているやつには跳び蹴りをかまして半殺しにしてもかまわないぞ条例」を早期に制定すべきだと思うのです。
骨折すれば、本人だけの問題では済まないのですから。
北海道では、と言ってはみたが、北海道人にとって手袋はごくナチュラルに「はく」ものである。
では、なぜ北海道では手袋をはく、と言うのか。東北弁の影響とか、そういった語源・地理的なものを無視して考えてみる。
そもそも、北海道人が手袋をはくのはなぜか。
これは、第一義的には寒冷から手を保護するためである。しかし、北海道で子供時代を過ごした者なら分かるとおり、寒冷に対しては手袋は万全の防備と呼びがたい。
子供は雪玉を作って遊ぶ。雪玉を作ると、当然手袋は雪にまみれる。時間が経つと、濡れる。毛糸の手袋ならまずこれで脱がざるを得なくなる。濡れた手袋はますます冷たさを呼ぶ。革や合皮の手袋にしても、今度は中から汗で濡れてくる。
従って、北海道人が手袋をはくのは、寒冷のためだけではなさそうである。
北国で手袋が果たす役割には、もう一つある。それは、衝撃と接着からの保護である。
北国では、冬になると常に路面は不安定である。足下は滑りやすい。
つるっと滑る。あわてて手をつく。あるいは、近くの何かにしがみつく。
このとき、手袋をしていなければ、凍った刃のような路面が手を切る。近くの標識支柱にしがみつけば、手が張り付く。これを無理にはがそうとすれば、手の皮一枚を持って行かれる。はがさなければ、そこで凍え死ぬ。
毛糸にしても、革にしても、手袋はこの恐ろしい事態に対する保険になり得る。
従って、北海道で手袋の果たす役割は、靴や靴下が果たす役割に、より近い。だから手袋は「はく」のだ。
* 一部誇張を交えました。雪祭りにいらっしゃる北海道以外の方で、手袋をしていなかったばかりに凍死した方はおられません。どうぞ来年も安心してご来場ください。(北海道政府を勝手に代表してのPR)
--
この冬、知っている方が二人凍結路面で転倒し、下肢を骨折されました。
だから私は、「冬道で自転車に乗っているやつには跳び蹴りをかまして半殺しにしてもかまわないぞ条例」を早期に制定すべきだと思うのです。
骨折すれば、本人だけの問題では済まないのですから。
Saturday, February 14, 2004
ドンブリ愛好家、各地で暴れる
「豚めし」売り切れに激高、店員に暴行した疑いで男逮捕[asahi.com]
「吉野家に何で牛丼ない」=店で騒ぎ、客暴行の男逮捕-茨城[YAhoo!Japan-時事通信]
だから、ちゃんとした食事が280円やそこらでとれるというところがそもそも変です。
人間、「食う」ということはもっと大変なことのはずであります。
何、「牛丼」「豚丼」はちゃんとした食事じゃないって?
あなた、幸せに育ったのね・・・・。(少女サスペンス漫画風)
--
北海道人からすると、あの豚しゃぶをドンブリに乗っけたような代物を「豚丼」と呼ぶのは、非常にむかつきます。
道民が「豚丼」と呼んでいいのは、北海道帯広市周辺で食べられるアレでなければなりません。
「吉野家に何で牛丼ない」=店で騒ぎ、客暴行の男逮捕-茨城[YAhoo!Japan-時事通信]
だから、ちゃんとした食事が280円やそこらでとれるというところがそもそも変です。
人間、「食う」ということはもっと大変なことのはずであります。
何、「牛丼」「豚丼」はちゃんとした食事じゃないって?
あなた、幸せに育ったのね・・・・。(少女サスペンス漫画風)
--
北海道人からすると、あの豚しゃぶをドンブリに乗っけたような代物を「豚丼」と呼ぶのは、非常にむかつきます。
道民が「豚丼」と呼んでいいのは、北海道帯広市周辺で食べられるアレでなければなりません。
Friday, February 13, 2004
自分の文章の駄目を出す
駄目である。
最近の自分の文章は読んでいてわかりにくい。面白くない。
書いている自分がそう思うのだから、読み手にとっては相当見苦しいものであろう。
なぜ私の文章は駄目なのか。いくつか整理してみよう。
一文が冗長である。
今日のblogは、意識して一文を短く書いている。だが、2/10/2004の「似て異なるもの」という文章では、1パラグラフがそのまま1文である箇所が二つもある。
こういう文章は、人が書いているのを見るととても疲れるものである。
婉曲的表現を使いすぎる。
私は物事を断定的に書くのが元来好きではない。
しかし、自分の意見を発露する場において、「~のようにも思えるが~とも考えられる」という表現を多用している。これは日和見的態度と見られてもおかしくあるまい。
読み手を傷つけまいとする意識が、自分の立場を不明確にしている。
こういう書き方は文章を不美人に見せる。
結論が不明確である
最近はニュースを引用してから、それに対する考察を書くというスタイルを多用している。ところが、ニュースに対する感想をだらだら書いているうちに、本来自分が言いたかった結論を見失いがちである。
正確には、書き進めているうちに、本来自分が達しようとしていた結論は、絶対のものでないということに気付いてしまうのだ。
読み手に何かを与えようとする文章を書こうと思えば、これはいけない。独断的と言われようが、きちんとした結論に達すべきである。
この傾向を避けるためには、「結論を冒頭に書く」という手法が有効である。
「一見~である。しかし~」構文の濫用
この書き方は、実に使いやすい構文の一つである。
しかし、使いどころを間違えると「(無知な大衆である)あなたはこう考えるだろうが、(あなた方より賢い)私はこういうことに気付いているのだ」という、鼻につく表現になりがちである。
気をつけねばならない。
--
この節は回帰的表現になっている。
「」を用いた独自表現の多用
「」は、社会通念上用いられる言葉とは違った意味合いを持たせる比喩表現に使われることがある。
たとえば、以下のような表現である。
例:インターネットは、人と人を結ぶ「架け橋」として用いられつつある。
こういう表現を私は多用しがちである。
しかしながら、本来他人とコミュニケーションする手段である言葉を使う場面において、独自に言葉を定義することはなるべく避けるべきである。
その文脈にあった適切な言葉を探す努力をしなければならない。
最近の自分の文章は読んでいてわかりにくい。面白くない。
書いている自分がそう思うのだから、読み手にとっては相当見苦しいものであろう。
なぜ私の文章は駄目なのか。いくつか整理してみよう。
一文が冗長である。
今日のblogは、意識して一文を短く書いている。だが、2/10/2004の「似て異なるもの」という文章では、1パラグラフがそのまま1文である箇所が二つもある。
こういう文章は、人が書いているのを見るととても疲れるものである。
婉曲的表現を使いすぎる。
私は物事を断定的に書くのが元来好きではない。
しかし、自分の意見を発露する場において、「~のようにも思えるが~とも考えられる」という表現を多用している。これは日和見的態度と見られてもおかしくあるまい。
読み手を傷つけまいとする意識が、自分の立場を不明確にしている。
こういう書き方は文章を不美人に見せる。
結論が不明確である
最近はニュースを引用してから、それに対する考察を書くというスタイルを多用している。ところが、ニュースに対する感想をだらだら書いているうちに、本来自分が言いたかった結論を見失いがちである。
正確には、書き進めているうちに、本来自分が達しようとしていた結論は、絶対のものでないということに気付いてしまうのだ。
読み手に何かを与えようとする文章を書こうと思えば、これはいけない。独断的と言われようが、きちんとした結論に達すべきである。
この傾向を避けるためには、「結論を冒頭に書く」という手法が有効である。
「一見~である。しかし~」構文の濫用
この書き方は、実に使いやすい構文の一つである。
しかし、使いどころを間違えると「(無知な大衆である)あなたはこう考えるだろうが、(あなた方より賢い)私はこういうことに気付いているのだ」という、鼻につく表現になりがちである。
気をつけねばならない。
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この節は回帰的表現になっている。
「」を用いた独自表現の多用
「」は、社会通念上用いられる言葉とは違った意味合いを持たせる比喩表現に使われることがある。
たとえば、以下のような表現である。
例:インターネットは、人と人を結ぶ「架け橋」として用いられつつある。
こういう表現を私は多用しがちである。
しかしながら、本来他人とコミュニケーションする手段である言葉を使う場面において、独自に言葉を定義することはなるべく避けるべきである。
その文脈にあった適切な言葉を探す努力をしなければならない。
Thursday, February 12, 2004
業務連絡~業務連絡~
どうやらBlogspotがrobots.txtを設置したようです。
http://harrity.blogspot.com/robots.txt
User-agent: msnbot
Disallow: /
User-agent: googlebot
Disallow: /
この処置は私の意図によるものではありません。が、私の意図を超えてここの認知度が広まることには正直怖さを覚えていたので、内心ホッとしている部分もあります。
はてなアンテナ経由でお越しの方、更新によってこの「弐式沿岸警備日誌改」はagaりますが、更新内容は拾わなくなっておりますのでご注意ください。
http://harrity.blogspot.com/robots.txt
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Disallow: /
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この処置は私の意図によるものではありません。が、私の意図を超えてここの認知度が広まることには正直怖さを覚えていたので、内心ホッとしている部分もあります。
はてなアンテナ経由でお越しの方、更新によってこの「弐式沿岸警備日誌改」はagaりますが、更新内容は拾わなくなっておりますのでご注意ください。
Wednesday, February 11, 2004
神様のリスト
小児臓器提供、容認を…自民調査会が法改正2案を提示[Yomiuri-On-Line]
腎臓移植希望者選択についての経過報告[日本臓器移植ネットワーク]
私はいろいろと考えたことを「ためる」たちなので、すっかりはてなアンテナからは見放されている。
日本で「小児移植を認める」ということは、「小児の脳死を認める」ということと実は表裏一体なのだが、そういうことをきちんと説明している報道機関は少ない。
そもそも、日本における「脳死」という概念は、移植医療を行うがために持ち込まれたきわめて奇異なものなのである。こういうことを医者だけで決めてはいかん。もっとそこのあんたも議論してくれ。
そんなわけで、数週間前のニュースについて考えたことをここに書いてみる。
先月、臓器移植ネットワークが移植登録者選定のプログラムミスから、移植リストのトップにいた患者から腎移植の機会を奪ってしまった。
だいたい、マスコミが伝えた論調はそんなところだ。
本来ならば移植リストのトップにいた患者さんには大変気の毒な事件である。しかし、移植医療が抱える本質的な問題が、この一件から見えてくる。
まず第一に、そもそも移植リストとは何か。
今回明らかになったのは、HLA(Human Leukocyte Antigen)という組織適合性を表す指標を扱うプログラムに問題があったということだ。これは移植を行った際、その腎臓が移植を受ける患者(レシピエント)の体に生着する可能性がどれだけあるか、ということを知る手がかりになるのである。
では、移植リストの順位はこのHLA適合性のみによって決まっているのか。そういうわけではない。
今、ここに一つの腎臓Xがある。この腎臓Xに対して、移植を受ければ腎臓が90%の確率で生着する患者Aと、移植を受けても60%の確率でしか生着が期待できない患者Bがいたとする。ところが、患者Aはあと5年間は移植を受けずとも持たせられる状態であり、患者Bは移植を受けなければ後3ヶ月も生きられそうにない、とする。
果たして腎臓Xを、今移植すべきなのはどちらか。
HLAというのは、こうしてみるとずいぶん「医者の都合」からみたファクターだ、といえないこともない。
だが、適合性、余命(実際には透析の発達によって、腎臓の場合は必ずしも「余命」といえない場合があることを書いておく)のほかにも、移植リストの順位を決定する変数は、様々あるのだ。その中には、腎臓の大きさとレシピエントの体格など、どちらかといえば科学的な要素のほかに、「どれだけ臓器を大事にするか」や「移植後に免疫抑制剤を欠かさず飲み続けられる精神的・経済的状況にあるか」といったことも入ってくると言われている。
言われている、というのは、これらの要素それぞれが、移植リストの順位ににどの程度の影響を及ぼすのかは一般に公開されていないからだ。
今回の事件において、HLAの適合度算出ミスというのは、どれだけの意味があったのか。私は非常に大事なことだと思うが、現在の報道からでは知ることのできないことである。「陳謝」の映像よりも、こういうことをもっと公にしなければならないのではないか。
第二に、移植には少なからず「運」の要素が関わると言うことである。
もし、あなたが心臓移植を必要とする患者で、移植リストに登録されていたとしよう。仮に今日あなたがリストの2番目にいたとして、明日あなたが1番目に上がる場合には、二つの可能性が考えられる。
一つは、今日1番目の患者に適合するドナーが見つかり、移植手術が行われること。
二つ目は、1番目の患者が今日死ぬことである。
前述のように、腎移植の場合は、現在では必ずしも「死の回避」という概念と結びつかない面もある。
だが、未だに心臓、肝臓などの病気では「移植か死か」という患者がたくさんいる。こういう患者さんにとっては、「移植リストのトップにいたのに移植が受けられなかった」という事態はとうてい受け入れがたいものとなるだろう。
医学は確かによく発達した。そのせいで、「死」というものは、あたかも医療の失敗であるかのように語られることが多い。むしろ「死」を運命として記述することは、社会が嫌うようになっている。
しかし、現代医療の最前線ともいえる世界にも、人の生き死にに「運」が関わることは避けられないのである。それを忘れては、(手塚治虫の)ブラックジャックに出てくる刀鍛冶に怒られるだろう。
--
私が大好きなデンゼル・ワシントンの「ジョンQ 最後の決断」[Amazon.co.jp -DVD-]は、「そのスジ」の人にはオープニングの5分で映画全体のストーリーが見えてしまうという作品である。しかし、わかっていながらも2時間の間、いろいろと考えさせられることがあるという意味で、十分に楽しめた。
ジョン・Qが持つベレッタM92Fのセイフティの挙動がおかしいとか、そういうことには目をつぶってほしい。
腎臓移植希望者選択についての経過報告[日本臓器移植ネットワーク]
私はいろいろと考えたことを「ためる」たちなので、すっかりはてなアンテナからは見放されている。
日本で「小児移植を認める」ということは、「小児の脳死を認める」ということと実は表裏一体なのだが、そういうことをきちんと説明している報道機関は少ない。
そもそも、日本における「脳死」という概念は、移植医療を行うがために持ち込まれたきわめて奇異なものなのである。こういうことを医者だけで決めてはいかん。もっとそこのあんたも議論してくれ。
そんなわけで、数週間前のニュースについて考えたことをここに書いてみる。
先月、臓器移植ネットワークが移植登録者選定のプログラムミスから、移植リストのトップにいた患者から腎移植の機会を奪ってしまった。
だいたい、マスコミが伝えた論調はそんなところだ。
本来ならば移植リストのトップにいた患者さんには大変気の毒な事件である。しかし、移植医療が抱える本質的な問題が、この一件から見えてくる。
まず第一に、そもそも移植リストとは何か。
今回明らかになったのは、HLA(Human Leukocyte Antigen)という組織適合性を表す指標を扱うプログラムに問題があったということだ。これは移植を行った際、その腎臓が移植を受ける患者(レシピエント)の体に生着する可能性がどれだけあるか、ということを知る手がかりになるのである。
では、移植リストの順位はこのHLA適合性のみによって決まっているのか。そういうわけではない。
今、ここに一つの腎臓Xがある。この腎臓Xに対して、移植を受ければ腎臓が90%の確率で生着する患者Aと、移植を受けても60%の確率でしか生着が期待できない患者Bがいたとする。ところが、患者Aはあと5年間は移植を受けずとも持たせられる状態であり、患者Bは移植を受けなければ後3ヶ月も生きられそうにない、とする。
果たして腎臓Xを、今移植すべきなのはどちらか。
HLAというのは、こうしてみるとずいぶん「医者の都合」からみたファクターだ、といえないこともない。
だが、適合性、余命(実際には透析の発達によって、腎臓の場合は必ずしも「余命」といえない場合があることを書いておく)のほかにも、移植リストの順位を決定する変数は、様々あるのだ。その中には、腎臓の大きさとレシピエントの体格など、どちらかといえば科学的な要素のほかに、「どれだけ臓器を大事にするか」や「移植後に免疫抑制剤を欠かさず飲み続けられる精神的・経済的状況にあるか」といったことも入ってくると言われている。
言われている、というのは、これらの要素それぞれが、移植リストの順位ににどの程度の影響を及ぼすのかは一般に公開されていないからだ。
今回の事件において、HLAの適合度算出ミスというのは、どれだけの意味があったのか。私は非常に大事なことだと思うが、現在の報道からでは知ることのできないことである。「陳謝」の映像よりも、こういうことをもっと公にしなければならないのではないか。
第二に、移植には少なからず「運」の要素が関わると言うことである。
もし、あなたが心臓移植を必要とする患者で、移植リストに登録されていたとしよう。仮に今日あなたがリストの2番目にいたとして、明日あなたが1番目に上がる場合には、二つの可能性が考えられる。
一つは、今日1番目の患者に適合するドナーが見つかり、移植手術が行われること。
二つ目は、1番目の患者が今日死ぬことである。
前述のように、腎移植の場合は、現在では必ずしも「死の回避」という概念と結びつかない面もある。
だが、未だに心臓、肝臓などの病気では「移植か死か」という患者がたくさんいる。こういう患者さんにとっては、「移植リストのトップにいたのに移植が受けられなかった」という事態はとうてい受け入れがたいものとなるだろう。
医学は確かによく発達した。そのせいで、「死」というものは、あたかも医療の失敗であるかのように語られることが多い。むしろ「死」を運命として記述することは、社会が嫌うようになっている。
しかし、現代医療の最前線ともいえる世界にも、人の生き死にに「運」が関わることは避けられないのである。それを忘れては、(手塚治虫の)ブラックジャックに出てくる刀鍛冶に怒られるだろう。
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私が大好きなデンゼル・ワシントンの「ジョンQ 最後の決断」[Amazon.co.jp -DVD-]は、「そのスジ」の人にはオープニングの5分で映画全体のストーリーが見えてしまうという作品である。しかし、わかっていながらも2時間の間、いろいろと考えさせられることがあるという意味で、十分に楽しめた。
ジョン・Qが持つベレッタM92Fのセイフティの挙動がおかしいとか、そういうことには目をつぶってほしい。
Tuesday, February 10, 2004
浪速大学財前教授に朗報
がん患者3・2%は診断被ばくが原因[Yomiuri On Line]
「私はCTでガンになるリスクを避けるためにCTをオーダーしなかったんだ!」
いまになって「CTはガンの原因になります」なんていわれりゃ、そりゃみんなのけぞるわな。
だってガンを診断するのに一番よく使う画像診断はCTだろう。里見助教授もおすすめだ。
んじゃ、これからはより被爆量の少ないPETがガン診断の主流になるのか?
一回のお値段はCTより一桁違うはずだが・・・。
しかし、この記事の電波くさいところは、まず「日本はCTが多いから被爆量が多くなり、ガン患者が多く発生している」という非常に統計学的に怪しい論調であることだ。
また、正確な議論には、CT診断を実施することによって延長する寿命延長の効果と、CTで被爆することによって発生するガンの寿命短縮の効果を比較せねばならないと思うのだが、オックスフォード大学の研究はそこまで踏み込んだ内容にはなっていない。
ちなみに、厚生労働省の発表する平均寿命の国別比較はこちら。
これから医者をやっていく立場の人間として怖いと思うのは、こういうことがいったん記事になってしまうと、たとえばガン患者33人が「医者が不必要なX線検査をオーダーしたせいでガンになった」という訴訟を起こしたとすると、そのうち1人は勝訴してしまうということも考えられるわけで、じゃあ我々はガンを見逃す可能性を呑んだ上で「何もしない」のがいいのか、ということになる。
これから様々な追加調査は行われていくわけだが、果たしてその結果「やっぱり診断のための被爆はガンの発生と有意に関係がある」という結論になったとすると、現在日本で行われている裁判の傾向を鑑みるに、今日これから行われるCTを受けた患者さんが訴訟をお起こしになる可能性がある。なぜなら、「2004年2月10日の時点で、新聞記事として公になっていた」という事実を、裁判所は非常に重視するからである。
つねづね思うことだが、マスコミの影響というものはとても大きい。だからといって黙っていてくれと言うのはファシズムだが、本当にマスコミ人自体がそのことを自覚しているのか、時々不安になることはある。
「私はCTでガンになるリスクを避けるためにCTをオーダーしなかったんだ!」
いまになって「CTはガンの原因になります」なんていわれりゃ、そりゃみんなのけぞるわな。
だってガンを診断するのに一番よく使う画像診断はCTだろう。里見助教授もおすすめだ。
んじゃ、これからはより被爆量の少ないPETがガン診断の主流になるのか?
一回のお値段はCTより一桁違うはずだが・・・。
しかし、この記事の電波くさいところは、まず「日本はCTが多いから被爆量が多くなり、ガン患者が多く発生している」という非常に統計学的に怪しい論調であることだ。
また、正確な議論には、CT診断を実施することによって延長する寿命延長の効果と、CTで被爆することによって発生するガンの寿命短縮の効果を比較せねばならないと思うのだが、オックスフォード大学の研究はそこまで踏み込んだ内容にはなっていない。
ちなみに、厚生労働省の発表する平均寿命の国別比較はこちら。
これから医者をやっていく立場の人間として怖いと思うのは、こういうことがいったん記事になってしまうと、たとえばガン患者33人が「医者が不必要なX線検査をオーダーしたせいでガンになった」という訴訟を起こしたとすると、そのうち1人は勝訴してしまうということも考えられるわけで、じゃあ我々はガンを見逃す可能性を呑んだ上で「何もしない」のがいいのか、ということになる。
これから様々な追加調査は行われていくわけだが、果たしてその結果「やっぱり診断のための被爆はガンの発生と有意に関係がある」という結論になったとすると、現在日本で行われている裁判の傾向を鑑みるに、今日これから行われるCTを受けた患者さんが訴訟をお起こしになる可能性がある。なぜなら、「2004年2月10日の時点で、新聞記事として公になっていた」という事実を、裁判所は非常に重視するからである。
つねづね思うことだが、マスコミの影響というものはとても大きい。だからといって黙っていてくれと言うのはファシズムだが、本当にマスコミ人自体がそのことを自覚しているのか、時々不安になることはある。
似て異なるもの
岡山の温泉旅館、盲ろう団体の宿泊を拒否[Yomiuri On Line]
盲ろう者宿泊拒否で旅館組合などを指導 岡山県[asahi.com]
このニュースと
宿泊拒否のアイスター、学生の抗議文をHPに掲載[asahi.com]
こちらの会社では、一見似た様なことを言っているようだが、中身にはずいぶんな違いがある様に思える。
前者、岡山の温泉旅館は「宿泊する客の安全を考えたとき、責任を持ちかねるために宿泊をお断りする」という誠実な態度であり、言ってみれば「確かに世間での評判はいいが、私は整形外科の専門なので、いくらあなたの希望とはいえ心臓の弁を換えてくれと言われても責任を持ちかねる」というのと同じことだ。
実際バリアフリーといえば聞こえはいいが、ひなびた温泉旅館に手すりをつける工事を実施する費用や、案内の人員を増やす人件費など、お金を岡山県が出してくれるわけではない。今回の様になにか「まずい」ことがあった時にだけ、ただ指導を行うのである。
旅館側にしてみれば、ろくに準備もできていないのにお客を受け入れることのリスクと、報道されたり、指導が入ったりすることによって名前が傷つくリスクを、はかりにかけた上で今回の行動に至ったものだろう。それにしたって後者のリスクの方が明らかに重そうに見えて、かえって旅館の対応が私には誠実に思える。
盲ろう者宿泊拒否で旅館組合などを指導 岡山県[asahi.com]
このニュースと
宿泊拒否のアイスター、学生の抗議文をHPに掲載[asahi.com]
こちらの会社では、一見似た様なことを言っているようだが、中身にはずいぶんな違いがある様に思える。
前者、岡山の温泉旅館は「宿泊する客の安全を考えたとき、責任を持ちかねるために宿泊をお断りする」という誠実な態度であり、言ってみれば「確かに世間での評判はいいが、私は整形外科の専門なので、いくらあなたの希望とはいえ心臓の弁を換えてくれと言われても責任を持ちかねる」というのと同じことだ。
実際バリアフリーといえば聞こえはいいが、ひなびた温泉旅館に手すりをつける工事を実施する費用や、案内の人員を増やす人件費など、お金を岡山県が出してくれるわけではない。今回の様になにか「まずい」ことがあった時にだけ、ただ指導を行うのである。
旅館側にしてみれば、ろくに準備もできていないのにお客を受け入れることのリスクと、報道されたり、指導が入ったりすることによって名前が傷つくリスクを、はかりにかけた上で今回の行動に至ったものだろう。それにしたって後者のリスクの方が明らかに重そうに見えて、かえって旅館の対応が私には誠実に思える。
Sunday, February 01, 2004
くだらない
今日、取り壊し中の札幌プリンスホテルの前を通ったら、こんなことが衝立に書いてあった。
別館(旧新館)はこちらで営業中
旧新館とは言い得て妙な表現である。
旧いのか、新しいのか、どっちなんだ。
・・・・どうも読みにきてくださった方、すみません。
本当にくだらない。
--
面白き ことも無き世を 面白く 住みなすものは 心なりけり
高杉晋作
別館(旧新館)はこちらで営業中
旧新館とは言い得て妙な表現である。
旧いのか、新しいのか、どっちなんだ。
・・・・どうも読みにきてくださった方、すみません。
本当にくだらない。
--
面白き ことも無き世を 面白く 住みなすものは 心なりけり
高杉晋作
Saturday, January 31, 2004
Thursday, January 29, 2004
医師国家試験・前文
謹告
本試験において出題されている診断法・治療法に関しては、出題時点における最新の情報に基づき、正確を期するよう、出題委員並びに厚生労働省はそれぞれ最善の努力を払っています。しかし、医学・医療の進歩からみて、出題された内容があらゆる点において正確かつ完全であると保証するものではありません。
従って実際の臨床現場で、熟知していない、あるいは汎用されていない新薬を始めとする医薬品の使用、検査の測定および判読に当たっては、まず医薬品添付文書や機器、試薬の説明書、並びにオーベンのご神託などで確認の上、常に最新のデータに当たり、本試験に出題された内容が正確であるか、受験者自身で細心の注意を払われることを要望いたします。
本試験出題の診断法・治療法・医薬品・検査法・疾患への適応などが、その後の医学研究並びに診断基準の勝手な変更により本試験出題後に変更された場合、その診断法・治療法・医薬品・検査法・疾患への適応などによる不測の事故・訴訟に対して、出題委員並びに厚生労働省は、その責を負いかねます。また、技術上の制約のため、印刷物と実際の患者は一部異なる部分があります。
2004年3月
<この文章は完全なるフィクションです>
--
狂気に優る勇気なし
本試験において出題されている診断法・治療法に関しては、出題時点における最新の情報に基づき、正確を期するよう、出題委員並びに厚生労働省はそれぞれ最善の努力を払っています。しかし、医学・医療の進歩からみて、出題された内容があらゆる点において正確かつ完全であると保証するものではありません。
従って実際の臨床現場で、熟知していない、あるいは汎用されていない新薬を始めとする医薬品の使用、検査の測定および判読に当たっては、まず医薬品添付文書や機器、試薬の説明書、並びにオーベンのご神託などで確認の上、常に最新のデータに当たり、本試験に出題された内容が正確であるか、受験者自身で細心の注意を払われることを要望いたします。
本試験出題の診断法・治療法・医薬品・検査法・疾患への適応などが、その後の医学研究並びに診断基準の勝手な変更により本試験出題後に変更された場合、その診断法・治療法・医薬品・検査法・疾患への適応などによる不測の事故・訴訟に対して、出題委員並びに厚生労働省は、その責を負いかねます。また、技術上の制約のため、印刷物と実際の患者は一部異なる部分があります。
2004年3月
<この文章は完全なるフィクションです>
--
狂気に優る勇気なし
Wednesday, January 28, 2004
○○して食う、という表現。
近くの吉野家は、相も変わらず大盛況である。
もうすぐ牛丼がなくなるという恐怖感(?)からか、せっかくの「カレー丼」を注文している客は少ない。
さて、このごろ聞かなくなった表現に、生計を立てる、という意味の「食べていく」という言葉がある。「大学の教員は所詮論文を書いて食べているわけです」(ドラえもんのアンキパンではない)などという言い方があるが、現代の労働は、文字通りの「食べる(食事する)」ために行うものではないらしい。
失業者はこの通り沢山出てはいるが、実際食べることができずに餓死している者は少ない。ただ、「飽食の時代」という言い方も最近は聞かなくなった。
そこへきて、現在巷を賑わしているトピックは「食の安全」である。本日(2004年1月28日現在)google検索によって、約8万件ほどのHITが得られる。
「トレーサビリティ」という言葉も、最近のキーワードの一つである。どうやら何県何村の畑でとれた野菜かということが、都会のスーパーにいながらにしてわかる、といったことらしい。
我が国の食料は多くを輸入に頼っている。つまり、もはや日本国民の多くは、加工食品を別にすれば「食べものをつくる」職業には関わっていない。「食べる(食事する)」ための仕事を、自ら手を下して行っていない訳である。
あんまりこういうことを突き詰めて考えると、農業左翼風の書き方になってしまうが、そもそも土に触らずして食べている人間が、食い物に文句をつける権利があるのだろうか、と考えることがよくある。
人間、「食う(食事する)」ためにしなければならない仕事は、農業か漁業のはずである。その職業を選ばなかった時点で、多少質の悪いものが食卓に並んでいても、文句を言わずに食わねばならないのではないか。
都市に住む人間は、農業を捨てた時点で、本当にうまくて体にいいものを食う資格を失う。そのかわり、もし農業を選んでいたとしたら、成し遂げられなかっただけの仕事をすることができる。
そう考えた方が、私はすっきりすると思う。
--
食卓に安心して食べられる食材を、というのはよく聞く表現だが、「安心」を得るのなら食材を探すより、自分を白痴にする努力をするべきである。
白痴は恐れることを知らない。恐れることを知らない人間は、常に安心していられる。
もうすぐ牛丼がなくなるという恐怖感(?)からか、せっかくの「カレー丼」を注文している客は少ない。
さて、このごろ聞かなくなった表現に、生計を立てる、という意味の「食べていく」という言葉がある。「大学の教員は所詮論文を書いて食べているわけです」(ドラえもんのアンキパンではない)などという言い方があるが、現代の労働は、文字通りの「食べる(食事する)」ために行うものではないらしい。
失業者はこの通り沢山出てはいるが、実際食べることができずに餓死している者は少ない。ただ、「飽食の時代」という言い方も最近は聞かなくなった。
そこへきて、現在巷を賑わしているトピックは「食の安全」である。本日(2004年1月28日現在)google検索によって、約8万件ほどのHITが得られる。
「トレーサビリティ」という言葉も、最近のキーワードの一つである。どうやら何県何村の畑でとれた野菜かということが、都会のスーパーにいながらにしてわかる、といったことらしい。
我が国の食料は多くを輸入に頼っている。つまり、もはや日本国民の多くは、加工食品を別にすれば「食べものをつくる」職業には関わっていない。「食べる(食事する)」ための仕事を、自ら手を下して行っていない訳である。
あんまりこういうことを突き詰めて考えると、農業左翼風の書き方になってしまうが、そもそも土に触らずして食べている人間が、食い物に文句をつける権利があるのだろうか、と考えることがよくある。
人間、「食う(食事する)」ためにしなければならない仕事は、農業か漁業のはずである。その職業を選ばなかった時点で、多少質の悪いものが食卓に並んでいても、文句を言わずに食わねばならないのではないか。
都市に住む人間は、農業を捨てた時点で、本当にうまくて体にいいものを食う資格を失う。そのかわり、もし農業を選んでいたとしたら、成し遂げられなかっただけの仕事をすることができる。
そう考えた方が、私はすっきりすると思う。
--
食卓に安心して食べられる食材を、というのはよく聞く表現だが、「安心」を得るのなら食材を探すより、自分を白痴にする努力をするべきである。
白痴は恐れることを知らない。恐れることを知らない人間は、常に安心していられる。
銃手の祈り 試訳
MY RIFLE
我が銃(つつ)
This is my rifle.
There are many like it, but this one is MINE.
My rifle is my best friend.
It is my life.
I must master it as I must master my life.
My rifle without me is useless.
Without my rifle, I am useless.
これぞ我が銃(つつ)。
これに似たのは数々あれど、これこそ我が銃(つつ)。
我が銃(つつ)は我が最も良き友。
我が命。
我、思うがままに生きるごとく、思うがままに銃(つつ)を制す。
この銃(つつ)なしで我役に立たず。我なしでこの銃(つつ)役に立たず。
I must fire my rifle true.
I must shoot straighter than my enemy who is trying to kill me.
I must shoot him before he shoots me.
I will...
よく狙いて銃(つつ)を撃つべし。
我を殺めんとする敵より正しく銃(つつ)を撃つべし。
敵より先に敵を撃つべし。
我、必ずやかくあるべし。
My rifle and myself know that what counts in war is not the rounds we fire, the noise of our bursts, nor the smoke we make.
We know it is the hits that count.
We will hit...
我が銃(つつ)と我は知る。戦(いくさ)の要は撃つ数に非ず。我が銃声に非ず。我が硝煙に非ず。
我は知る。戦の要は中(あた)る数。
我、必ずや中(あて)るべし。
My rifle is human, even as I, because it is my life.
Thus, I will learn it as a brother.
我が銃(つつ)は人間、我と同じように。何とすればそれは我が命。
而(しこう)して我、我が銃(つつ)を同胞(はらから)とみなすべし。
I will learn its weaknesses, its strengths, its parts, its accessories, its sights, and its barrel.
I will ever guard it against the ravages of weather and damage.
I will keep my rifle clean and ready, even as I am clean and ready.
We will become part of each other. We will...
我、我が銃(つつ)の短所、長所、部品、付属品、照準、銃身を知るべし。
我、風雨風雪と損傷よりこれを守らん。
我、我が銃(つつ)を清くいつでも使えるように保たん。あたかも我が体を清くいつでも使えるよう保つが如く。
我らはともに一体とならん。
必ずかくなる。
Before God I swear this creed.
My rifle and myself are the defenders of my country.
We are the masters of our enemy.
We are the saviors of my life.
So be it, until there is no enemy, but PEACE.
神の前に我、これを誓う。我が銃(つつ)と我は国の防人。
敵にとっては、我らはそやつを屈する者。
我らにすれば、我が命を守る者。
かくあるべし、敵が亡くなり、平和が来るまで。
Major General W. H. Rupertus,USMC
W.H.ルパーツ 合衆国海兵隊少将
我が銃(つつ)
This is my rifle.
There are many like it, but this one is MINE.
My rifle is my best friend.
It is my life.
I must master it as I must master my life.
My rifle without me is useless.
Without my rifle, I am useless.
これぞ我が銃(つつ)。
これに似たのは数々あれど、これこそ我が銃(つつ)。
我が銃(つつ)は我が最も良き友。
我が命。
我、思うがままに生きるごとく、思うがままに銃(つつ)を制す。
この銃(つつ)なしで我役に立たず。我なしでこの銃(つつ)役に立たず。
I must fire my rifle true.
I must shoot straighter than my enemy who is trying to kill me.
I must shoot him before he shoots me.
I will...
よく狙いて銃(つつ)を撃つべし。
我を殺めんとする敵より正しく銃(つつ)を撃つべし。
敵より先に敵を撃つべし。
我、必ずやかくあるべし。
My rifle and myself know that what counts in war is not the rounds we fire, the noise of our bursts, nor the smoke we make.
We know it is the hits that count.
We will hit...
我が銃(つつ)と我は知る。戦(いくさ)の要は撃つ数に非ず。我が銃声に非ず。我が硝煙に非ず。
我は知る。戦の要は中(あた)る数。
我、必ずや中(あて)るべし。
My rifle is human, even as I, because it is my life.
Thus, I will learn it as a brother.
我が銃(つつ)は人間、我と同じように。何とすればそれは我が命。
而(しこう)して我、我が銃(つつ)を同胞(はらから)とみなすべし。
I will learn its weaknesses, its strengths, its parts, its accessories, its sights, and its barrel.
I will ever guard it against the ravages of weather and damage.
I will keep my rifle clean and ready, even as I am clean and ready.
We will become part of each other. We will...
我、我が銃(つつ)の短所、長所、部品、付属品、照準、銃身を知るべし。
我、風雨風雪と損傷よりこれを守らん。
我、我が銃(つつ)を清くいつでも使えるように保たん。あたかも我が体を清くいつでも使えるよう保つが如く。
我らはともに一体とならん。
必ずかくなる。
Before God I swear this creed.
My rifle and myself are the defenders of my country.
We are the masters of our enemy.
We are the saviors of my life.
So be it, until there is no enemy, but PEACE.
神の前に我、これを誓う。我が銃(つつ)と我は国の防人。
敵にとっては、我らはそやつを屈する者。
我らにすれば、我が命を守る者。
かくあるべし、敵が亡くなり、平和が来るまで。
Major General W. H. Rupertus,USMC
W.H.ルパーツ 合衆国海兵隊少将
サッチーあたりからおかしくなってきたな
古賀サンもなかなか大変な様子であるが、だいたい世間一般にはヨコモジの大学を出れば何でもありがたがる、という風潮があって、それじゃここあたりにしときゃ無難だったのに、という感想を持ったりする。
出ていない大学を「出た」と主張することは、公職選挙法での「経歴詐称」に当たるらしく、そのうち検察が動くことも必至だろう。
しかし、故・青木雄二氏も言っていたとおり、経歴詐称をひっぱたくのは、とりもなおさず学歴コンプレックスの表れである。
だいたい、野村サッチーのコロンビア大学学歴詐称疑惑あたりからおかしくなってきたんではないか。
あのときも、いったんは不起訴処分になりかけたものの「検察官の母親が『あなた、そんなことじゃだめでしょ、日本中が注目してるんだから』と息子に言ったから、再調査の結果起訴することになった」とかいう、まことしやかな噂が流れていた。本来ならば検察当局はこんな噂を厳然と否定すべきだと思うのだが、そうでないところをみると、案外こんなマザコン検察官が存在したのかもしれない。
議員在職中に残り19単位を取得したい、ということだが、実際議員の身分で本会議をほったらかしてゼミに集中するわけにもいかないだろうし、まあ単なる言い逃れの一つだろう。
ただ、一つ思うことには、我々の国は決して「ドロップアウト」を認めないところなのだなあ、ということである。
もし、これがアメリカやドイツであれば、30歳を過ぎてから大学へ行くのは普通のことである。また、20代に単位が足りなくて大学をドロップアウトしていても、改めて復学して卒業資格を取り直す人も少なくないと聞く。
つまり、古賀氏がドイツ人だったならば、衆議院選に出馬する前に堂々とペパーダイン大学へ復学し、19単位を取得して卒業資格を得ていれば、何の問題もなかった訳である。
ドロップアウトを認めない国は、すなわちチャレンジを認めない国ということである。そう考えると、田中角栄の時代からずいぶん日本も階層化したものだと思う。
最後に、「天才バカボン」のパパが首席で卒業したというバカ田大学校歌を記しておこう。
「都の西北、早稲田のとなり、バカだ、バカだ、バカだ」
(出典は2004年1月10日版朝日新聞「be」)
出ていない大学を「出た」と主張することは、公職選挙法での「経歴詐称」に当たるらしく、そのうち検察が動くことも必至だろう。
しかし、故・青木雄二氏も言っていたとおり、経歴詐称をひっぱたくのは、とりもなおさず学歴コンプレックスの表れである。
だいたい、野村サッチーのコロンビア大学学歴詐称疑惑あたりからおかしくなってきたんではないか。
あのときも、いったんは不起訴処分になりかけたものの「検察官の母親が『あなた、そんなことじゃだめでしょ、日本中が注目してるんだから』と息子に言ったから、再調査の結果起訴することになった」とかいう、まことしやかな噂が流れていた。本来ならば検察当局はこんな噂を厳然と否定すべきだと思うのだが、そうでないところをみると、案外こんなマザコン検察官が存在したのかもしれない。
議員在職中に残り19単位を取得したい、ということだが、実際議員の身分で本会議をほったらかしてゼミに集中するわけにもいかないだろうし、まあ単なる言い逃れの一つだろう。
ただ、一つ思うことには、我々の国は決して「ドロップアウト」を認めないところなのだなあ、ということである。
もし、これがアメリカやドイツであれば、30歳を過ぎてから大学へ行くのは普通のことである。また、20代に単位が足りなくて大学をドロップアウトしていても、改めて復学して卒業資格を取り直す人も少なくないと聞く。
つまり、古賀氏がドイツ人だったならば、衆議院選に出馬する前に堂々とペパーダイン大学へ復学し、19単位を取得して卒業資格を得ていれば、何の問題もなかった訳である。
ドロップアウトを認めない国は、すなわちチャレンジを認めない国ということである。そう考えると、田中角栄の時代からずいぶん日本も階層化したものだと思う。
最後に、「天才バカボン」のパパが首席で卒業したというバカ田大学校歌を記しておこう。
「都の西北、早稲田のとなり、バカだ、バカだ、バカだ」
(出典は2004年1月10日版朝日新聞「be」)
Wednesday, January 21, 2004
だーかーらー。
「52分授業」を導入へ 世田谷区立の中学校で[共同-Yahoo!JAPAN]
最近まれにみるアホな話をみた気がした。おまえらただ単に教員いじめたいだけちゃうんかと。2分延長される生徒の気持ちにもなってみろと。
そもそも「教員と生徒が1分の重みを考える意識を持ち、充実した授業に取り組んでもらうため」ならば、いっそのこと30分授業を導入すべきではないか。30分しか授業時間がないのならば、1分の重みは相対的に大きくなるのだから。
私の思うところ、教師というものは、学校を嫌いにさせなければ60点の合格点、その科目を嫌いにさせなければ80点の仕事である。優れた教師は子供の学力を上げるか、といえばまあそうなのだろうが、論理学的なその逆、つまり「子供の学力が上がったのは、優れた教師だったからだ」という命題は真ではない。
文部科学省の目指すゆとり教育とは、教育予算にゆとりを持たせる教育であって、決して生徒・児童、あるいは教育現場にゆとりを持たせるという意味ではない。
詰まるところ、小学校、中学校などというのは「同じ年齢の子供を集めて、毎日の居場所を与える」というところに第一義があるのであって、週休二日制の導入から始まった「ゆとり」教育というのはこれを否定するものである。
一昔前までは総中流社会といわれた日本も、今や「勝ち組」「負け組」という言葉に表れるように、階層化の動きが現れ始めている。義務教育で与えられる以外の場で、自分の居場所を見つけられる子供は幸いである。しかし、学校しか来るところがないような子供の方が、数としてはずっと多いのではないか。
そんな子供らに対し、「授業来年から2分長くなるから」なんて言ってみろ。まず間違いなく学校が「嫌い」になること間違いなしである。
しまいにゃ「祖国嫌い」につながることさえ、この人々は想像できないのだろうか。
「総合学習」や「ボランティア活動」「地域社会との連携」など、うまい文言をたくさん並べることはできる。しかし、「ゆとり教育」の現実は、学校本来の存在を見つけ出そうとする努力の放棄であり、学校本来の住人である生徒・児童の存在を軽視する姿勢であるように思える。
最近まれにみるアホな話をみた気がした。おまえらただ単に教員いじめたいだけちゃうんかと。2分延長される生徒の気持ちにもなってみろと。
そもそも「教員と生徒が1分の重みを考える意識を持ち、充実した授業に取り組んでもらうため」ならば、いっそのこと30分授業を導入すべきではないか。30分しか授業時間がないのならば、1分の重みは相対的に大きくなるのだから。
私の思うところ、教師というものは、学校を嫌いにさせなければ60点の合格点、その科目を嫌いにさせなければ80点の仕事である。優れた教師は子供の学力を上げるか、といえばまあそうなのだろうが、論理学的なその逆、つまり「子供の学力が上がったのは、優れた教師だったからだ」という命題は真ではない。
文部科学省の目指すゆとり教育とは、教育予算にゆとりを持たせる教育であって、決して生徒・児童、あるいは教育現場にゆとりを持たせるという意味ではない。
詰まるところ、小学校、中学校などというのは「同じ年齢の子供を集めて、毎日の居場所を与える」というところに第一義があるのであって、週休二日制の導入から始まった「ゆとり」教育というのはこれを否定するものである。
一昔前までは総中流社会といわれた日本も、今や「勝ち組」「負け組」という言葉に表れるように、階層化の動きが現れ始めている。義務教育で与えられる以外の場で、自分の居場所を見つけられる子供は幸いである。しかし、学校しか来るところがないような子供の方が、数としてはずっと多いのではないか。
そんな子供らに対し、「授業来年から2分長くなるから」なんて言ってみろ。まず間違いなく学校が「嫌い」になること間違いなしである。
しまいにゃ「祖国嫌い」につながることさえ、この人々は想像できないのだろうか。
「総合学習」や「ボランティア活動」「地域社会との連携」など、うまい文言をたくさん並べることはできる。しかし、「ゆとり教育」の現実は、学校本来の存在を見つけ出そうとする努力の放棄であり、学校本来の住人である生徒・児童の存在を軽視する姿勢であるように思える。
Monday, January 19, 2004
文房具の話
子供の頃、新しい消しゴムや鉛筆、あるいはサインペンというものがたくさん並んでいる文房具店というのは、私にとって大変心地よい空間であった。
私は育ちが田舎だったので、大きな町の文房具店などに行ったときは、やや珍しい文房具を見つけると、補給がきかないことを考えて、異様なほどたくさんペンや消しゴムの類を買い込むこともあった。
あれから時は流れ、紙の代わりにディスプレイを相手にすることの方がむしろ多くなった。ペンや消しゴムの代わりに、使いやすいマウスやキーボード、そしてプリンタの方に興味を引かれることが多くなった。
ハードウェアもそうだが、「鉛筆代わり」に使いやすいソフトウェアというものも選ぶようになった。そもそも実際の文房具とは異なり、PCを起動しなければならない、という制約はあるものの、Web上で見つけた「これは」と思うものを保存しておく、あるいは自分の考えを断片的なメモとして残すツールは使い始めると快適である。
前者の目的に応えるものとして、紙あるいはhowm(on Meadow2)といったソフトウェアを使っている。
確かに、「メモ帳」など普通のテキストエディタを使っても、「文字情報を保存する」という機能においては、これらのソフトウェアと全く変わりない結果を得ることはできる。大きく違うのは、「ファイルに適当な名前を付けて保存する」という、難しくはないが数多く行うときわめてやっかいな操作を省いてくれるところだ。
後者のために、Wikiを立てている。Wikiはhttpサーバと、PHP,PerlあるいはRubyといったインタプリタを用意しなければならないため、個人レベルで導入するには抵抗があるかもしれないが、私は幸いそういう用途に供せるサーバーを持っている。むしろサーバーの使い道を考えるのに苦労していたような状況であるので、勇んでこれに飛びついた。
Wikiは、(とくにPukiWikiは)管理者という概念を極力排除し、いつでも誰でも書き込み・編集が行えるシステムである。従って、将来的に第三者が荒らしに来るような事態も考えられるのだが、そこはGoogleで検索しても全くヒットしない「辺境」の地で運営しているため、気楽に考えている。もしもひどく荒らされて、転送料がかさむようならば、BASIC認証で全くの「個人的」用途に用いればよいだけのことだ。しかし、それはWiki本来の姿であるまい。
最近、「紙」を相手にした試験に備えなければならない以上、ペンやマーカーといった本物の文房具にも再び興味がわき始めた。本当は、そんなことするよりとりあえずは三色ボールペンでも握ってろ、といわれそうなところだが、これが私の変えられない特性というものである。
私は育ちが田舎だったので、大きな町の文房具店などに行ったときは、やや珍しい文房具を見つけると、補給がきかないことを考えて、異様なほどたくさんペンや消しゴムの類を買い込むこともあった。
あれから時は流れ、紙の代わりにディスプレイを相手にすることの方がむしろ多くなった。ペンや消しゴムの代わりに、使いやすいマウスやキーボード、そしてプリンタの方に興味を引かれることが多くなった。
ハードウェアもそうだが、「鉛筆代わり」に使いやすいソフトウェアというものも選ぶようになった。そもそも実際の文房具とは異なり、PCを起動しなければならない、という制約はあるものの、Web上で見つけた「これは」と思うものを保存しておく、あるいは自分の考えを断片的なメモとして残すツールは使い始めると快適である。
前者の目的に応えるものとして、紙あるいはhowm(on Meadow2)といったソフトウェアを使っている。
確かに、「メモ帳」など普通のテキストエディタを使っても、「文字情報を保存する」という機能においては、これらのソフトウェアと全く変わりない結果を得ることはできる。大きく違うのは、「ファイルに適当な名前を付けて保存する」という、難しくはないが数多く行うときわめてやっかいな操作を省いてくれるところだ。
後者のために、Wikiを立てている。Wikiはhttpサーバと、PHP,PerlあるいはRubyといったインタプリタを用意しなければならないため、個人レベルで導入するには抵抗があるかもしれないが、私は幸いそういう用途に供せるサーバーを持っている。むしろサーバーの使い道を考えるのに苦労していたような状況であるので、勇んでこれに飛びついた。
Wikiは、(とくにPukiWikiは)管理者という概念を極力排除し、いつでも誰でも書き込み・編集が行えるシステムである。従って、将来的に第三者が荒らしに来るような事態も考えられるのだが、そこはGoogleで検索しても全くヒットしない「辺境」の地で運営しているため、気楽に考えている。もしもひどく荒らされて、転送料がかさむようならば、BASIC認証で全くの「個人的」用途に用いればよいだけのことだ。しかし、それはWiki本来の姿であるまい。
最近、「紙」を相手にした試験に備えなければならない以上、ペンやマーカーといった本物の文房具にも再び興味がわき始めた。本当は、そんなことするよりとりあえずは三色ボールペンでも握ってろ、といわれそうなところだが、これが私の変えられない特性というものである。
Thursday, January 15, 2004
クローン人間はなぜいかんのか
ここで言うクロ-ン人間とは、「親」と全く同じDNAを持つ赤ん坊を、代理母あるいは人工子宮において出産することができる技術、と定義する。
その上で、次のような思考実験を試みよう。
--
2048年、クローン人間は既に実用化されていた。
Aさん夫妻は、待望の長男Bを出産し、生後第一週のBを乗せて産院から自動車で自宅へと向かう途中であった。
ところが、その途中X運輸の運転手Yが運転するトラックが、Aさん夫妻の車に追突し、Aさんの車は炎上。運良くAさん夫妻は車から無事脱出できたものの、後部座席に乗せていたBは焼死した。ほとんどBの体表はやけどを負っていたものの、Bの骨髄からDNAの抽出はかろうじて可能であった。
悲しみに暮れるAさん夫妻の元に、X運輸の社長であるXが訪れ、こういった。
「このたびは私どものYが大変なことをしでかし、社長の私共々責任を痛感しております。つきましては、お詫びの印といたしまして、あなたさまのお子様であるBさんのクローンをご用意させていただきたく思います。
もちろん、A様のおなかを痛めるような手間はとらせません。
米国に代理母を職業としている婦人はたくさんおりますから、そのうちの一人に『借り腹』を用意させていただきます。もちろん費用は弊社持ちでございます。
まあ、Bさんとしましても、実質的にこの世にいたのは1週間ということでございますし、この世で積んだ記憶というものもたいしたことではないでしょう。つまりは、あなたが失ったのと全く同じお子様を、私どもの方でご用意しましょう、ということでございます。
そこで、どうでしょう、我々の営業停止処分を早期に解除していただけるよう、またYのやつに執行猶予がつきますよう、嘆願書をお書きになっていただくわけにはいかないでしょうか。」
--
もうおわかりだろう。クローン人間を作ってよいかどうか、というのは、そのクローン人間にとってこの世界が幸福かどうか、ということだけを基準にして考えていいのではない。
クローン人間を許す、ということは、現在この時点において生きている人間の存在を、危険にさらす、ということだ。
別に交通事故に限らず、人命が失われるような事件では「うちの人の命を返してください」という、不可能な要求が出されることがある。それを必ずしも無茶苦茶にしない、というのがクローン技術でもあるわけだが、たとえば殺人事件の犯人が、「今から一生懸命働いて金を作り、クローンで返します」とか言い出したらどうなるのか。あるいは、医療事故で我が子を失った親に対して、病院側が「クローンで返します」と言い出したらどうなるか。
以上の議論には、「この世で生活を営んでいる時間が短い、子供を対象にしている」という仮定が留保されるが、それでもなお、クローン人間の実用化で、人命の重さは相当軽くなるに違いない。
その上で、次のような思考実験を試みよう。
--
2048年、クローン人間は既に実用化されていた。
Aさん夫妻は、待望の長男Bを出産し、生後第一週のBを乗せて産院から自動車で自宅へと向かう途中であった。
ところが、その途中X運輸の運転手Yが運転するトラックが、Aさん夫妻の車に追突し、Aさんの車は炎上。運良くAさん夫妻は車から無事脱出できたものの、後部座席に乗せていたBは焼死した。ほとんどBの体表はやけどを負っていたものの、Bの骨髄からDNAの抽出はかろうじて可能であった。
悲しみに暮れるAさん夫妻の元に、X運輸の社長であるXが訪れ、こういった。
「このたびは私どものYが大変なことをしでかし、社長の私共々責任を痛感しております。つきましては、お詫びの印といたしまして、あなたさまのお子様であるBさんのクローンをご用意させていただきたく思います。
もちろん、A様のおなかを痛めるような手間はとらせません。
米国に代理母を職業としている婦人はたくさんおりますから、そのうちの一人に『借り腹』を用意させていただきます。もちろん費用は弊社持ちでございます。
まあ、Bさんとしましても、実質的にこの世にいたのは1週間ということでございますし、この世で積んだ記憶というものもたいしたことではないでしょう。つまりは、あなたが失ったのと全く同じお子様を、私どもの方でご用意しましょう、ということでございます。
そこで、どうでしょう、我々の営業停止処分を早期に解除していただけるよう、またYのやつに執行猶予がつきますよう、嘆願書をお書きになっていただくわけにはいかないでしょうか。」
--
もうおわかりだろう。クローン人間を作ってよいかどうか、というのは、そのクローン人間にとってこの世界が幸福かどうか、ということだけを基準にして考えていいのではない。
クローン人間を許す、ということは、現在この時点において生きている人間の存在を、危険にさらす、ということだ。
別に交通事故に限らず、人命が失われるような事件では「うちの人の命を返してください」という、不可能な要求が出されることがある。それを必ずしも無茶苦茶にしない、というのがクローン技術でもあるわけだが、たとえば殺人事件の犯人が、「今から一生懸命働いて金を作り、クローンで返します」とか言い出したらどうなるのか。あるいは、医療事故で我が子を失った親に対して、病院側が「クローンで返します」と言い出したらどうなるか。
以上の議論には、「この世で生活を営んでいる時間が短い、子供を対象にしている」という仮定が留保されるが、それでもなお、クローン人間の実用化で、人命の重さは相当軽くなるに違いない。
Tuesday, January 13, 2004
マナーも一緒に・・・?
札幌市の地下鉄では、「携帯電話は、ペースメーカーなどの医療機器に影響を及ぼすおそれがあるため、電源をお切りください」というアナウンスが流れる。
確かに地下鉄車内で携帯電話を使われるのは、見よいものではない。
だが、「携帯電話は医療機器に影響を及ぼす」という言い方は、なんだか医療機器をダシに使われているようで、こちらとしても面白くないものの言い方である。
こんな見方[nikkeibp.co.jp]もある。23cm以内、という数値はつい記憶してしまったが、これはある意味その意図を持って接近しないと起こりえない距離である。
本当は、CDショップなどで設置されている盗難防止装置[yomiuri.co.jp]の方が、強力な電磁波を発する分危険ではないか、という見方もある。最近では、これを接した店舗に「立ち止まらないように」という警告文が掲示されているのもよく見る。
そもそも、なぜ地下鉄で携帯電話が使えるのかをよく考えてみれば、電話会社が駅構内にアンテナを設置したせいであるし、もしも本当に携帯電話を使ってほしくないのであれば、全駅からアンテナを撤去すべきである。
ところが、携帯電話会社というのは交通局にとってみても、大口の広告スポンサーであるから、そういう結論にはならないのである。
「白い巨塔」の浪速大学付属病院では「医療用」PHSを首から提げた医師・看護師の姿がたくさん出てくる。また、ポケットベルを院内の医師に携帯させている病院は多い。
地下鉄駅構内、あるいは車内において急病人が発生した場合、すぐに救急隊を呼べる、というメリットも携帯電話にはある。現にJR東海などでは「メールはOK,通話はデッキで」というように、携帯に対する規制が緩和されている。
果たして、「マナーも一緒に携帯しましょう」[lanstation.co.jp]というのも、戦前の国防婦人会がやったという、パーマをしたお嬢さんに「ぜいたくは敵だ」のビラを渡すといった、単なるイヤミにしかなっていないかどうか、考えてみる必要がある。
確かに地下鉄車内で携帯電話を使われるのは、見よいものではない。
だが、「携帯電話は医療機器に影響を及ぼす」という言い方は、なんだか医療機器をダシに使われているようで、こちらとしても面白くないものの言い方である。
こんな見方[nikkeibp.co.jp]もある。23cm以内、という数値はつい記憶してしまったが、これはある意味その意図を持って接近しないと起こりえない距離である。
本当は、CDショップなどで設置されている盗難防止装置[yomiuri.co.jp]の方が、強力な電磁波を発する分危険ではないか、という見方もある。最近では、これを接した店舗に「立ち止まらないように」という警告文が掲示されているのもよく見る。
そもそも、なぜ地下鉄で携帯電話が使えるのかをよく考えてみれば、電話会社が駅構内にアンテナを設置したせいであるし、もしも本当に携帯電話を使ってほしくないのであれば、全駅からアンテナを撤去すべきである。
ところが、携帯電話会社というのは交通局にとってみても、大口の広告スポンサーであるから、そういう結論にはならないのである。
「白い巨塔」の浪速大学付属病院では「医療用」PHSを首から提げた医師・看護師の姿がたくさん出てくる。また、ポケットベルを院内の医師に携帯させている病院は多い。
地下鉄駅構内、あるいは車内において急病人が発生した場合、すぐに救急隊を呼べる、というメリットも携帯電話にはある。現にJR東海などでは「メールはOK,通話はデッキで」というように、携帯に対する規制が緩和されている。
果たして、「マナーも一緒に携帯しましょう」[lanstation.co.jp]というのも、戦前の国防婦人会がやったという、パーマをしたお嬢さんに「ぜいたくは敵だ」のビラを渡すといった、単なるイヤミにしかなっていないかどうか、考えてみる必要がある。
日記本来の効用
都合このサイトを初めて2年ばかりになる。
当初は、せっかく借りたサーバーのスペースを空けておくのは無駄だから、という理由で始めたのだが、後に日記そのものが目的となり、またしばらく書かないでいた時期を経てから、最近はこうして更新することが多くなってきている。
二年前、まだ"blog"という言葉が一般的でなかった頃、純粋に自分の私的な感情を書いていたことが多かった。もちろん読み手も意識はしたが、ある程度他人には読まれては困る、という内容まで言及している部分がある。
今、こうして過去の日記を見返してみると、自分の変わることができない部分と、卵の殻一つ分くらいは丸くなった部分というのがわかって、それがまた今日一つ日記を書く理由になるのかもしれない。
"ER"でも故・グリーン先生がそんなことを言っていたっけ。
(注:グリーン役のアンソニー・エドワーズ氏はご存命です。)
当初は、せっかく借りたサーバーのスペースを空けておくのは無駄だから、という理由で始めたのだが、後に日記そのものが目的となり、またしばらく書かないでいた時期を経てから、最近はこうして更新することが多くなってきている。
二年前、まだ"blog"という言葉が一般的でなかった頃、純粋に自分の私的な感情を書いていたことが多かった。もちろん読み手も意識はしたが、ある程度他人には読まれては困る、という内容まで言及している部分がある。
今、こうして過去の日記を見返してみると、自分の変わることができない部分と、卵の殻一つ分くらいは丸くなった部分というのがわかって、それがまた今日一つ日記を書く理由になるのかもしれない。
"ER"でも故・グリーン先生がそんなことを言っていたっけ。
(注:グリーン役のアンソニー・エドワーズ氏はご存命です。)
Monday, January 12, 2004
やっぱりもめてるか
U.S. Assures Iraqis on Saddam POW Status [AP-Yahoo!]
「アメリカさん、サダムは捕虜とのたまう」
Iraqis Surprised That Saddam Is a POW [AP-Yahoo!]
「イラク人もびっくり!サダムは捕虜だった」
「アメリカさん、サダムは捕虜とのたまう」
Iraqis Surprised That Saddam Is a POW [AP-Yahoo!]
「イラク人もびっくり!サダムは捕虜だった」
Sunday, January 11, 2004
捕虜でいいのか
フセイン氏を「戦争捕虜」に正式認定 米国防総省[asahi.com]
捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)[防衛庁]には、こう定めてある。
第十七条〔捕虜の尋問〕 各捕虜は、尋問を受けた場合には、その氏名、階級及び生年月日並びに軍の番号、連隊の番号、個人番号又は登録番号(それらの番号がないときは、それに相当する事項)については答えなければならない。
この条項を厳密に適用すると、敵国の捕虜を捕らえることにたいしたメリットはないことになる。
つまり、「大量破壊兵器の在処はどこだ」とか、「一体おまえの隠し財産はどこにある」とかいうことは、聞いてはいけないのである。もし、それが尋問によりわかったとしたら、(どう考えてもフセインは自発的に話すタマではなさそうだから)それはアメリカ側による何らかの拷問や、少なくともこのジュネーブ条約に違反する事があったことを強く示唆する。
実際の軍事作戦においては、「捕虜を捕らえる」目的の作戦は多く実行されている。主に敵国の重大な軍事情報を握る将校を目的として、大きな成果を上げることが多いようだ。その裏には、「戦時国際法には罰則が存在しない」という現実がある。
ただ、何でこの時期にわざわざアメリカが「戦争捕虜」認定を行ったのか。私にはどうしても解せない。
そもそも、「戦争捕虜」とは軍人として戦ったものに与えられる一種の特権であって、たとえば市民と区別できる軍服・記章をつけないで他国の軍隊を攻撃したもの(『ゲリラ』または『テロリスト』)には、捕虜になる権利が与えられない。
サダム・フセインは、確かにイラク軍の最高司令官であるという立場から考えると、軍人の一人である。しかしながら、同時に国家規模の犯罪者である、というアメリカの主張を考えると、「捕虜ではなく、単に犯罪者である」とした方が、通り良かったのではないか。
捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)[防衛庁]には、こう定めてある。
第十七条〔捕虜の尋問〕 各捕虜は、尋問を受けた場合には、その氏名、階級及び生年月日並びに軍の番号、連隊の番号、個人番号又は登録番号(それらの番号がないときは、それに相当する事項)については答えなければならない。
この条項を厳密に適用すると、敵国の捕虜を捕らえることにたいしたメリットはないことになる。
つまり、「大量破壊兵器の在処はどこだ」とか、「一体おまえの隠し財産はどこにある」とかいうことは、聞いてはいけないのである。もし、それが尋問によりわかったとしたら、(どう考えてもフセインは自発的に話すタマではなさそうだから)それはアメリカ側による何らかの拷問や、少なくともこのジュネーブ条約に違反する事があったことを強く示唆する。
実際の軍事作戦においては、「捕虜を捕らえる」目的の作戦は多く実行されている。主に敵国の重大な軍事情報を握る将校を目的として、大きな成果を上げることが多いようだ。その裏には、「戦時国際法には罰則が存在しない」という現実がある。
ただ、何でこの時期にわざわざアメリカが「戦争捕虜」認定を行ったのか。私にはどうしても解せない。
そもそも、「戦争捕虜」とは軍人として戦ったものに与えられる一種の特権であって、たとえば市民と区別できる軍服・記章をつけないで他国の軍隊を攻撃したもの(『ゲリラ』または『テロリスト』)には、捕虜になる権利が与えられない。
サダム・フセインは、確かにイラク軍の最高司令官であるという立場から考えると、軍人の一人である。しかしながら、同時に国家規模の犯罪者である、というアメリカの主張を考えると、「捕虜ではなく、単に犯罪者である」とした方が、通り良かったのではないか。
Saturday, January 10, 2004
資格試験の限界
小2女児が最年少合格 危険物取扱者試験に
不正取得なら「無免許」と大阪府警、警察庁は「有効」
どちらも、「危険物取扱者」「運転免許」という、資格試験に対するニュース、ということで共通している。
「危険物取扱者」という資格を取った8歳の女児であるが、実際にガソリンスタンドなどで子供に危険物を任せるわけにはいくまい。だが、受験資格に年齢が制限条項として無い以上、手続きとして「合格」ということには変わりあるまい。
「運転免許」の方であるが、これは記事を読むと「免許の許否判断で最も重要なのは運転の適性や技術の有無」ということで、その本人が本当に受験者資格を有していたかどうかは、この場合無視しておく、という判例があったそうだ。
以前に述べたとおり、資格試験は「水平」「垂直」どちらに対しても平等でなければならない、という原則がある。水平的な平等性の意味において、たとえば年齢、所得、人種、国籍などはできる限り不問とすることが望ましい。
しかしながら、資格試験には「一般にやってはいけないことを、自らの責任で行うことを許す」という意味合いもある。
その意味で、たとえば普通自動車の運転免許をとるためには、18歳以上で無ければならない、という規則は意味をなす。なぜなら、自動車の運転という、本質的に危険を伴う行為について、もし事故が起こった場合の責任能力(具体的には、賠償能力)はある程度の年齢にならないと生じ得ない、と考えられるからだ。
「適性・技能・知識」を試験によって判断し、国家が「資格」というお墨付を与えたところで、それによって必ず実際の行為を行うことまで、国家は保証しない。(国から運転免許をもらったところで、国がクルマまで買ってくれるわけではない)
そう考えると、前者の「危険物取扱者」のニュースに対して、「子供に与えて本当に大丈夫なのかな」と一抹の不安は感じるものの、「まあ現実に雇う人はいないだろう」ということは容易に想像が付き、社会としても「ほほえましいニュースだ」ということで受け入れ可能である。
後者の「運転免許」のニュースに関して、私がより大きい不安を感じるのは、一つに被告の肩書きが「医師」であることで、「他人の住民票を使って免許取り直すようなやつが、果たして医師としてのモラルを守り得るのか」ということと、もう一つは「自動車の運転免許は、実際に何かが起こったときの責任能力(もっといえば、運転者の人格)までは保証していない」という当たり前の事実について、否応なく認識させられるからだ。
「資格・免許」を持った人間をどう評価するかは、結局のところ市場や社会といった水際のフィルターでしかあり得ないのだ。
不正取得なら「無免許」と大阪府警、警察庁は「有効」
どちらも、「危険物取扱者」「運転免許」という、資格試験に対するニュース、ということで共通している。
「危険物取扱者」という資格を取った8歳の女児であるが、実際にガソリンスタンドなどで子供に危険物を任せるわけにはいくまい。だが、受験資格に年齢が制限条項として無い以上、手続きとして「合格」ということには変わりあるまい。
「運転免許」の方であるが、これは記事を読むと「免許の許否判断で最も重要なのは運転の適性や技術の有無」ということで、その本人が本当に受験者資格を有していたかどうかは、この場合無視しておく、という判例があったそうだ。
以前に述べたとおり、資格試験は「水平」「垂直」どちらに対しても平等でなければならない、という原則がある。水平的な平等性の意味において、たとえば年齢、所得、人種、国籍などはできる限り不問とすることが望ましい。
しかしながら、資格試験には「一般にやってはいけないことを、自らの責任で行うことを許す」という意味合いもある。
その意味で、たとえば普通自動車の運転免許をとるためには、18歳以上で無ければならない、という規則は意味をなす。なぜなら、自動車の運転という、本質的に危険を伴う行為について、もし事故が起こった場合の責任能力(具体的には、賠償能力)はある程度の年齢にならないと生じ得ない、と考えられるからだ。
「適性・技能・知識」を試験によって判断し、国家が「資格」というお墨付を与えたところで、それによって必ず実際の行為を行うことまで、国家は保証しない。(国から運転免許をもらったところで、国がクルマまで買ってくれるわけではない)
そう考えると、前者の「危険物取扱者」のニュースに対して、「子供に与えて本当に大丈夫なのかな」と一抹の不安は感じるものの、「まあ現実に雇う人はいないだろう」ということは容易に想像が付き、社会としても「ほほえましいニュースだ」ということで受け入れ可能である。
後者の「運転免許」のニュースに関して、私がより大きい不安を感じるのは、一つに被告の肩書きが「医師」であることで、「他人の住民票を使って免許取り直すようなやつが、果たして医師としてのモラルを守り得るのか」ということと、もう一つは「自動車の運転免許は、実際に何かが起こったときの責任能力(もっといえば、運転者の人格)までは保証していない」という当たり前の事実について、否応なく認識させられるからだ。
「資格・免許」を持った人間をどう評価するかは、結局のところ市場や社会といった水際のフィルターでしかあり得ないのだ。
コントロールする責任
JIRO氏による「JIROの独断的日記」の、2004年01月09日(金)分を読んだ。
「自衛官に言論の自由はないのか。」ということだが、これは「ない」といいきるのが正しい。
私は、「自衛隊は明らかに軍隊である」という立場の持ち主であるので、その前提の元に話を進める。
確かにJIRO氏の言うとおり、日本国憲法には表現の自由や、法の下の平等を謳った条項がある。しかし、それを自衛隊=軍隊という武装集団に適用することは、根本的な誤りである。
シビリアン・コントロールの考え方については、先に述べた。「軍隊は、文民政府の命令に服従しなければならない」という近代国家に於ける原則である。
もし、自衛隊の構成員が、結社・言論の自由を根拠として、積極的な政治活動を行ったらどうだろうか。たとえば、「自衛官をイラクに派遣するという小泉政権の方針は、我々個々の自衛官にとって生存権を脅かすものであるから、小泉政権は政策を撤回すべきである」という主張が、現職の自衛官によって堂々と為されたらどうだろう。
自衛隊には、武力という文民政府を容易に転覆しうる手段が与えられている。この点において、武力を持たないその他市民と異なる。
したがって、もしシビリアン・コントロールという原則が守られないとしたら、自衛隊には武力によって政権を奪取する、すなわちクーデターという選択肢が現れる事になってしまう。
我が国の歴史において、実際にクーデターが起こったことはないのか?
ある。2・26事件がそれである。青年将校といういわば中間管理職が、下の不平を吸い上げ(つまり、一見「民主的」なプロセスにおいて)、実力行使という形で文民による政権転覆を試みたのである。結果として政権は奪取されなかったが、軍閥の発言力は著しく強くなった。後々、このことが更なる悲劇を招いたことは明らかである。
結論として、自衛隊=軍隊には、文民政府の決定に対し、いかなる抗弁権をも与えてはいけない。つまり、自衛官に言論の自由を根拠とした政権批判を許すことはタブーなのである。
さらに言うならば、自衛隊は全て志願兵による軍隊である。ここは徴兵による軍隊であるからといって譲歩されてならないところなのだが、自衛官として志願した時点で、憲法以前に存在する自然権、「生存権」さえも国家にゆだねた状態、と考えるべきである。つまり、憲法を根拠とした自衛官の権利主張は、要領を得ない。
これまで我が国の歴史では、第二次世界大戦以後外国に交戦を予想して軍隊を派遣することは絶えてなかった。したがって、国民も軍隊を「コントロールする」事について、甚だ不慣れである。その結果、自衛隊は「特別な人たちの集団」であり、一般市民とは全く別個の存在として暗黙のうちに認められてきたのである。
しかしながら、もし自衛隊がイラク人を撃つようなことになれば、イラクを含めた諸外国から見て「日本人がイラク人を撃った」という事実に変わりはない。「いや、あれは自衛隊という特別な組織の人がやったことで、一般の日本人とは違うのです」といった言い訳は、もはや通用しない。
自衛隊のイラク派遣の是非を論議するのは、我々文民たる市民のの役割であり、それは自衛隊自身にとって論議することの許されない問題である。自衛隊が今、実際にイラクに派遣されるということは、街角でものを売ったり、バスの運転をしたり、コメをつくったりという全く戦争と関わりのない「市民」がそれを許容したということに他ならない。
派遣の結果、彼我に死者が生じたとしても、それは合法的な手段によって現政権を選び取った、われわれ市民の責任に全て帰結するのである。
「自衛官に言論の自由はないのか。」ということだが、これは「ない」といいきるのが正しい。
私は、「自衛隊は明らかに軍隊である」という立場の持ち主であるので、その前提の元に話を進める。
確かにJIRO氏の言うとおり、日本国憲法には表現の自由や、法の下の平等を謳った条項がある。しかし、それを自衛隊=軍隊という武装集団に適用することは、根本的な誤りである。
シビリアン・コントロールの考え方については、先に述べた。「軍隊は、文民政府の命令に服従しなければならない」という近代国家に於ける原則である。
もし、自衛隊の構成員が、結社・言論の自由を根拠として、積極的な政治活動を行ったらどうだろうか。たとえば、「自衛官をイラクに派遣するという小泉政権の方針は、我々個々の自衛官にとって生存権を脅かすものであるから、小泉政権は政策を撤回すべきである」という主張が、現職の自衛官によって堂々と為されたらどうだろう。
自衛隊には、武力という文民政府を容易に転覆しうる手段が与えられている。この点において、武力を持たないその他市民と異なる。
したがって、もしシビリアン・コントロールという原則が守られないとしたら、自衛隊には武力によって政権を奪取する、すなわちクーデターという選択肢が現れる事になってしまう。
我が国の歴史において、実際にクーデターが起こったことはないのか?
ある。2・26事件がそれである。青年将校といういわば中間管理職が、下の不平を吸い上げ(つまり、一見「民主的」なプロセスにおいて)、実力行使という形で文民による政権転覆を試みたのである。結果として政権は奪取されなかったが、軍閥の発言力は著しく強くなった。後々、このことが更なる悲劇を招いたことは明らかである。
結論として、自衛隊=軍隊には、文民政府の決定に対し、いかなる抗弁権をも与えてはいけない。つまり、自衛官に言論の自由を根拠とした政権批判を許すことはタブーなのである。
さらに言うならば、自衛隊は全て志願兵による軍隊である。ここは徴兵による軍隊であるからといって譲歩されてならないところなのだが、自衛官として志願した時点で、憲法以前に存在する自然権、「生存権」さえも国家にゆだねた状態、と考えるべきである。つまり、憲法を根拠とした自衛官の権利主張は、要領を得ない。
これまで我が国の歴史では、第二次世界大戦以後外国に交戦を予想して軍隊を派遣することは絶えてなかった。したがって、国民も軍隊を「コントロールする」事について、甚だ不慣れである。その結果、自衛隊は「特別な人たちの集団」であり、一般市民とは全く別個の存在として暗黙のうちに認められてきたのである。
しかしながら、もし自衛隊がイラク人を撃つようなことになれば、イラクを含めた諸外国から見て「日本人がイラク人を撃った」という事実に変わりはない。「いや、あれは自衛隊という特別な組織の人がやったことで、一般の日本人とは違うのです」といった言い訳は、もはや通用しない。
自衛隊のイラク派遣の是非を論議するのは、我々文民たる市民のの役割であり、それは自衛隊自身にとって論議することの許されない問題である。自衛隊が今、実際にイラクに派遣されるということは、街角でものを売ったり、バスの運転をしたり、コメをつくったりという全く戦争と関わりのない「市民」がそれを許容したということに他ならない。
派遣の結果、彼我に死者が生じたとしても、それは合法的な手段によって現政権を選び取った、われわれ市民の責任に全て帰結するのである。
Friday, January 09, 2004
家庭医の条件
以前に受けた地域医療総合医学の臨床講義で、「家庭医の備えるべき条件」というのを聞いたことがある。
・内科から外科、皮膚・耳鼻科までたいていの病気を診てもらえること
・いつでも診てもらえること
と並んで、
・ずっと診続けてもらえること
というのがあった。
つまり、一人の患者に対し、一週間やそこらで担当する医者が変わったのでは、患者と医者の信頼関係が醸成されにくい、ということだ。その意味から行くと、5年、10年と一人の医者は同じ患者を診続ける事が理想的である。
ところが、これは若い医者にとっては非常に高いハードルだ。
それは、医者というのもまた、数多くの「場」を経験することによって成長する職業だからである。若手の医者にとって、多くの職場(診療科や病院など)で様々な経験を積む、というのは、自分の描く「よりよい医者」に近づくための必須なステップである。
だれも最初から「だめな医者」になろうと思って医学部の門をくぐるわけではない。みんな、できることなら「良い医者になろう」と思っているに違いないのだ。
「良い医者になろう」という医者自身のエゴと、「良い医療を受けたい」という患者自身のエゴの均衡点で実際の医療は成立する、というのはずいぶん前から私が立てている仮説である。
今春医学部を卒業する世代から、臨床研修は事実上義務化となり、その多くがスーパーローテート(内科・外科・小児科・精神科などを数ヶ月ずつ研修する方法)をプログラムにした病院を選択した。
だが結局のところ、一見「どんな疾患の人でも、一通りの診療ができる」といういわば家庭医をたくさん養成するプログラムに見えるスーパーローテートも、実は「一応の診療はできるが、何か一つの専門を持つ医者を養成する」という各大学の医局が建前としていた医師像と、たいして変わりのないものをつくろうとしているのではないか。
となると、本当の意味で地域が必要としている(、とされる)家庭医は依然として不足し続けることになり、10年経っても地方の医者不足は解消されないのではないか、と考える。「若い体力のある医者を地方に」という願いは、叶えられないのだ。
・内科から外科、皮膚・耳鼻科までたいていの病気を診てもらえること
・いつでも診てもらえること
と並んで、
・ずっと診続けてもらえること
というのがあった。
つまり、一人の患者に対し、一週間やそこらで担当する医者が変わったのでは、患者と医者の信頼関係が醸成されにくい、ということだ。その意味から行くと、5年、10年と一人の医者は同じ患者を診続ける事が理想的である。
ところが、これは若い医者にとっては非常に高いハードルだ。
それは、医者というのもまた、数多くの「場」を経験することによって成長する職業だからである。若手の医者にとって、多くの職場(診療科や病院など)で様々な経験を積む、というのは、自分の描く「よりよい医者」に近づくための必須なステップである。
だれも最初から「だめな医者」になろうと思って医学部の門をくぐるわけではない。みんな、できることなら「良い医者になろう」と思っているに違いないのだ。
「良い医者になろう」という医者自身のエゴと、「良い医療を受けたい」という患者自身のエゴの均衡点で実際の医療は成立する、というのはずいぶん前から私が立てている仮説である。
今春医学部を卒業する世代から、臨床研修は事実上義務化となり、その多くがスーパーローテート(内科・外科・小児科・精神科などを数ヶ月ずつ研修する方法)をプログラムにした病院を選択した。
だが結局のところ、一見「どんな疾患の人でも、一通りの診療ができる」といういわば家庭医をたくさん養成するプログラムに見えるスーパーローテートも、実は「一応の診療はできるが、何か一つの専門を持つ医者を養成する」という各大学の医局が建前としていた医師像と、たいして変わりのないものをつくろうとしているのではないか。
となると、本当の意味で地域が必要としている(、とされる)家庭医は依然として不足し続けることになり、10年経っても地方の医者不足は解消されないのではないか、と考える。「若い体力のある医者を地方に」という願いは、叶えられないのだ。
Thursday, January 08, 2004
一つの地方交付税
札幌は雪まつりの準備で忙しい。今日も通りをたくさんのトラックが雪を積んで走っている。
濃緑色のトラックである。
こんな記事がある。
北海道以外に住む、事情のわからない人のために少々解説を加えておく。
元々北海道というのは、政治的には社会党を中心とする革新系の政党の地盤であった。炭鉱業・漁業など、一次産業に従事する人々が多い土地だったせいもある。
したがって、学校行事の際に「日の丸・君が代」を実施しないという風土も、かなり昔からのものではあった。
だから、数年前文部科学省が、国旗・国歌法の制定を受けて原則卒業式などの学校行事においては、「日の丸・君が代」の実施を行うものとするように、との命令を出したとき、北海道の多くの学校ではかなり紛争が起こった。
その中でも札幌南高校で起こったそれはマスコミに大きく取り上げられたが、「子供の権利条約」を持ち出して反対側の生徒の支援をしたのが、弁護士でもある現札幌市長の上田氏である。
そういうわけで、市長としても言動・行動の一貫性を保つためには、行事での「日の丸・君が代」の実施には難色を示して見せなければなるまい、というところだろう。
それはともかくとして、気になったのは自衛隊の現職幹部の話として、「公人である市長が単なる好き嫌いで互礼会での国歌斉唱をやめ、にもかかわらずに雪まつりの協力は仰ぐとなれば、隊員に説明がつかない。」というところである。
どうやら、自衛隊というのは「部下に説明して、納得してもらわないと成り立たない」きわめて民主的な軍隊のようである。これは他の国のどこの軍隊にも当てはまらない、実にユニークな話であって、「納得しようがしまいが、上が決めたことはやる」というのが普通の軍隊である。
なぜなら、民主国家においては「シビリアン・コントロール」という、「文民政府が決めたことに、軍隊はNOという権利を有さない」というのが大前提であるからだ。「下の人間が納得しないので、上の命令には従えない」というのでは、発展途上国におけるクーデターと同じ論理を持ち込むことになってしまう。
しかし、厳密な意味で今回の発言はシビリアン・コントロールの原則を侵してはいない。自衛隊法上、地方の首長に、自衛隊に対する命令権はないからだ。「防衛出動」「治安出動」いかなる場合にも、都道府県知事は「要請」を行うのみであって、自衛隊に対する出動命令を出せるのは、内閣総理大臣に限られる。
たとえ政令指定都市であろうと「市長」というのは、そもそも自衛隊にどうこうしろ、ということのできない立場の人間なのである。
それにもかかわらず、過去数十年にわたって自衛隊は札幌「市」のイベントである雪まつりに協力してきたわけで、これは紛れもなく中央政府から北海道への、「思いやり予算」とでもいおうか、一つの地方交付税の形であったわけである。
結局のところ、このような形で地方は中央政府のコントロールを受け入れざるを得ないのである。
濃緑色のトラックである。
こんな記事がある。
北海道以外に住む、事情のわからない人のために少々解説を加えておく。
元々北海道というのは、政治的には社会党を中心とする革新系の政党の地盤であった。炭鉱業・漁業など、一次産業に従事する人々が多い土地だったせいもある。
したがって、学校行事の際に「日の丸・君が代」を実施しないという風土も、かなり昔からのものではあった。
だから、数年前文部科学省が、国旗・国歌法の制定を受けて原則卒業式などの学校行事においては、「日の丸・君が代」の実施を行うものとするように、との命令を出したとき、北海道の多くの学校ではかなり紛争が起こった。
その中でも札幌南高校で起こったそれはマスコミに大きく取り上げられたが、「子供の権利条約」を持ち出して反対側の生徒の支援をしたのが、弁護士でもある現札幌市長の上田氏である。
そういうわけで、市長としても言動・行動の一貫性を保つためには、行事での「日の丸・君が代」の実施には難色を示して見せなければなるまい、というところだろう。
それはともかくとして、気になったのは自衛隊の現職幹部の話として、「公人である市長が単なる好き嫌いで互礼会での国歌斉唱をやめ、にもかかわらずに雪まつりの協力は仰ぐとなれば、隊員に説明がつかない。」というところである。
どうやら、自衛隊というのは「部下に説明して、納得してもらわないと成り立たない」きわめて民主的な軍隊のようである。これは他の国のどこの軍隊にも当てはまらない、実にユニークな話であって、「納得しようがしまいが、上が決めたことはやる」というのが普通の軍隊である。
なぜなら、民主国家においては「シビリアン・コントロール」という、「文民政府が決めたことに、軍隊はNOという権利を有さない」というのが大前提であるからだ。「下の人間が納得しないので、上の命令には従えない」というのでは、発展途上国におけるクーデターと同じ論理を持ち込むことになってしまう。
しかし、厳密な意味で今回の発言はシビリアン・コントロールの原則を侵してはいない。自衛隊法上、地方の首長に、自衛隊に対する命令権はないからだ。「防衛出動」「治安出動」いかなる場合にも、都道府県知事は「要請」を行うのみであって、自衛隊に対する出動命令を出せるのは、内閣総理大臣に限られる。
たとえ政令指定都市であろうと「市長」というのは、そもそも自衛隊にどうこうしろ、ということのできない立場の人間なのである。
それにもかかわらず、過去数十年にわたって自衛隊は札幌「市」のイベントである雪まつりに協力してきたわけで、これは紛れもなく中央政府から北海道への、「思いやり予算」とでもいおうか、一つの地方交付税の形であったわけである。
結局のところ、このような形で地方は中央政府のコントロールを受け入れざるを得ないのである。
1月4日の朝日新聞「声」欄から。
まずは、投稿をそのまま紹介する。
名医の診断で生きる力増す
東京都 74歳
秋の成人病検診で赤血球の数が基準値の半分くらいまで低下しているのを知らされ、がく然とした。原因は不明。医者からは直ちに胃と大腸の検査を指示された。私は医学書を読み、ひとりで考え、血液のがんではないかと疑い始めた。その不安は次第に強まり、食欲はなくなり、顔色もさえなくなってきた。
やがて検査が始まり、胃は異常なし。続いて大腸の検査に赴いたが、そこでがんの権威といわれる大先生は、私の血液検査の結果を眺めながら、「貧血は進んでいるが、しばらくは薬を飲み、レバーでもたくさん食べ、元気に生活するように」とのおおらかな診断。
私はちょっと安心し、だんだん元気が出てきた。3週間後の血液検査では貧血は7割は回復し、良い方に向かっているとのこと。
昔から「病は気から」と言われているが、弱気は病気を進ませ、逆に前向きの姿勢は人間の「自然治癒力」を高め、丈夫な体を作ると実感した。高齢化社会を楽しく暮らすためにも、「前向き」の気持ちを持って元気に生きたいと思う。
問題点
[1]文脈から、この人は一人目の医者に対し批判的、二人目の医者に対しては好意的な感情を持っていると思われるが、果たしてなぜそう思われるのだろうか?二人目の医者の方が本当に優れた判断をしているのだろうか。
[2]二人目の医者は、いかなる判断のもと「おおらかな診断」を下したのだろう。本当に血液検査のデータを見ただけで、心配ないと言ったのだろうか。
[3]果たして、この投稿を載せることにした朝日新聞社の編集者は適当な判断を下したといえるのだろうか。
考察
[1]「赤血球の数が低下している」というのだから、まあ貧血であろうと考える。ここまでは医者であろうと堅気の人であろうと同じである。正確な貧血の診断を下すには、赤血球一つ当たりの、大きさとヘモグロビン量も勘案しなければならないが、この場合まずどこからかの出血を考えるというのが多くの医者のすることだろう。
どこからかの出血、といっても、外から見える部分(皮下出血も含めて)ではすぐに気付くのが普通なので、医者はこういう場合、消化管からの出血も疑うように訓練されている。
したがって、一人目の医者が言った「胃と胃腸の検査」というのは、至極標準的な手順ともいえる。
では、二人目の「がんの権威」というのは、とんでもない藪医者なのか。
そうとも思えない。こういう格言がある。「もしその検査で陽性と出たならば、あなたの治療がどう変わるか考えなさい。陽性でも陰性でも、治療方針に変わりがないのならば、その検査をやるのはやめなさい。」
つまり、たとえ大腸の検査を実施して何かが見つかったとしても、全身状態が悪ければ、その治療は後回しにせざるを得ない。あとで全身状態が回復した時に、治療を行うとしても、どのみちその時点で最新の状況を調べておかねばならないので、もう一度検査を実施する事になる。すなわち、今検査を行う意味がない。
そう考えると、二人の医者の言っていることはそれぞれ正しいように思われるが、どんな患者にも「自分が考えているよりも、少しだけいい知らせを医者から聞きたい」という望みはあるのである。
[2]上の他に、悪い方に考えるようで恐縮だが、次のようなことも考えられる。
血液検査を一別した結果、二人目の医者は病気が進行しすぎており、今の段階から完治までもっていくのは難しいだろう、と考えた。そこで、いわゆるQOL(生活の質)を考えた上で、無理な治療を行うよりもむしろ「元気に生活するように」という指示を与えるのにとどめたのではないか、と。
いずれにせよ、これは74歳の男性というバックグラウンドがあって成り立つ話である。
[3]私はこの投稿が紙面にあるのを見て、以下のようなことを考えた。
ここに、50代の男性で、検診で「貧血があるから胃と大腸の検査を受けるように」といわれた人がいたとする。その人が私と同じ記事を読み、「レバーでも食べて元気に暮らしていれば大丈夫だ」という判断に至ったら、どうだろう。むしろ、「検査に異常がある」といわれた人というものは、何かと自分にとって楽観的な情報を得ようとするものだ。
大腸がんは、がんの中でも早期に発見すればかなりの確率で「治す」事のできるものの一つである。しかし、無為に放置しておけば、それだけがんの進行も進み、治る確率も減っていく。70代の老人と、50代の比較的若年者では、がん自体の進むスピードが違うこともあるが、治療を行うことの社会的な意味合いも変わってくる。別に老人不要というわけでは無いが、働ける年代の人を失うことは、社会にとっても大きな損失となる。
この日の「声」欄のテーマが、「私の健康法」ということだが、結果として誰かの健康を崩す方向へ行ってしまったのでは、皮肉な話である。
この欄を担当する新聞編集者にとって、貧血から大腸癌を想起するのは難しいことだったろう。それを考えるのは医者の仕事であるから、その点について新聞を責めるつもりはない。
しかし、「ある特定の個人について成り立つ治療が、他のいかなる人にも有効なわけではない」という医療の特性を考えたとき、新聞というメディアがもつ「一般化」の力は大きい。「新聞という確かなメディアにこういう事が乗っていたのだから、自分にもこれが当てはまるだろう」という考え方をする人は多い。
そう考えると、「医学部を出て医者として活動しない」人の働きというのは、存外に大きいのではないか、とも思った。 巷には多くの勘違いが溢れているが、それらを本当の意味でただすことができるのは、「そちら側」の人間だけなのかも知れない。
名医の診断で生きる力増す
東京都 74歳
秋の成人病検診で赤血球の数が基準値の半分くらいまで低下しているのを知らされ、がく然とした。原因は不明。医者からは直ちに胃と大腸の検査を指示された。私は医学書を読み、ひとりで考え、血液のがんではないかと疑い始めた。その不安は次第に強まり、食欲はなくなり、顔色もさえなくなってきた。
やがて検査が始まり、胃は異常なし。続いて大腸の検査に赴いたが、そこでがんの権威といわれる大先生は、私の血液検査の結果を眺めながら、「貧血は進んでいるが、しばらくは薬を飲み、レバーでもたくさん食べ、元気に生活するように」とのおおらかな診断。
私はちょっと安心し、だんだん元気が出てきた。3週間後の血液検査では貧血は7割は回復し、良い方に向かっているとのこと。
昔から「病は気から」と言われているが、弱気は病気を進ませ、逆に前向きの姿勢は人間の「自然治癒力」を高め、丈夫な体を作ると実感した。高齢化社会を楽しく暮らすためにも、「前向き」の気持ちを持って元気に生きたいと思う。
問題点
[1]文脈から、この人は一人目の医者に対し批判的、二人目の医者に対しては好意的な感情を持っていると思われるが、果たしてなぜそう思われるのだろうか?二人目の医者の方が本当に優れた判断をしているのだろうか。
[2]二人目の医者は、いかなる判断のもと「おおらかな診断」を下したのだろう。本当に血液検査のデータを見ただけで、心配ないと言ったのだろうか。
[3]果たして、この投稿を載せることにした朝日新聞社の編集者は適当な判断を下したといえるのだろうか。
考察
[1]「赤血球の数が低下している」というのだから、まあ貧血であろうと考える。ここまでは医者であろうと堅気の人であろうと同じである。正確な貧血の診断を下すには、赤血球一つ当たりの、大きさとヘモグロビン量も勘案しなければならないが、この場合まずどこからかの出血を考えるというのが多くの医者のすることだろう。
どこからかの出血、といっても、外から見える部分(皮下出血も含めて)ではすぐに気付くのが普通なので、医者はこういう場合、消化管からの出血も疑うように訓練されている。
したがって、一人目の医者が言った「胃と胃腸の検査」というのは、至極標準的な手順ともいえる。
では、二人目の「がんの権威」というのは、とんでもない藪医者なのか。
そうとも思えない。こういう格言がある。「もしその検査で陽性と出たならば、あなたの治療がどう変わるか考えなさい。陽性でも陰性でも、治療方針に変わりがないのならば、その検査をやるのはやめなさい。」
つまり、たとえ大腸の検査を実施して何かが見つかったとしても、全身状態が悪ければ、その治療は後回しにせざるを得ない。あとで全身状態が回復した時に、治療を行うとしても、どのみちその時点で最新の状況を調べておかねばならないので、もう一度検査を実施する事になる。すなわち、今検査を行う意味がない。
そう考えると、二人の医者の言っていることはそれぞれ正しいように思われるが、どんな患者にも「自分が考えているよりも、少しだけいい知らせを医者から聞きたい」という望みはあるのである。
[2]上の他に、悪い方に考えるようで恐縮だが、次のようなことも考えられる。
血液検査を一別した結果、二人目の医者は病気が進行しすぎており、今の段階から完治までもっていくのは難しいだろう、と考えた。そこで、いわゆるQOL(生活の質)を考えた上で、無理な治療を行うよりもむしろ「元気に生活するように」という指示を与えるのにとどめたのではないか、と。
いずれにせよ、これは74歳の男性というバックグラウンドがあって成り立つ話である。
[3]私はこの投稿が紙面にあるのを見て、以下のようなことを考えた。
ここに、50代の男性で、検診で「貧血があるから胃と大腸の検査を受けるように」といわれた人がいたとする。その人が私と同じ記事を読み、「レバーでも食べて元気に暮らしていれば大丈夫だ」という判断に至ったら、どうだろう。むしろ、「検査に異常がある」といわれた人というものは、何かと自分にとって楽観的な情報を得ようとするものだ。
大腸がんは、がんの中でも早期に発見すればかなりの確率で「治す」事のできるものの一つである。しかし、無為に放置しておけば、それだけがんの進行も進み、治る確率も減っていく。70代の老人と、50代の比較的若年者では、がん自体の進むスピードが違うこともあるが、治療を行うことの社会的な意味合いも変わってくる。別に老人不要というわけでは無いが、働ける年代の人を失うことは、社会にとっても大きな損失となる。
この日の「声」欄のテーマが、「私の健康法」ということだが、結果として誰かの健康を崩す方向へ行ってしまったのでは、皮肉な話である。
この欄を担当する新聞編集者にとって、貧血から大腸癌を想起するのは難しいことだったろう。それを考えるのは医者の仕事であるから、その点について新聞を責めるつもりはない。
しかし、「ある特定の個人について成り立つ治療が、他のいかなる人にも有効なわけではない」という医療の特性を考えたとき、新聞というメディアがもつ「一般化」の力は大きい。「新聞という確かなメディアにこういう事が乗っていたのだから、自分にもこれが当てはまるだろう」という考え方をする人は多い。
そう考えると、「医学部を出て医者として活動しない」人の働きというのは、存外に大きいのではないか、とも思った。 巷には多くの勘違いが溢れているが、それらを本当の意味でただすことができるのは、「そちら側」の人間だけなのかも知れない。
Monday, January 05, 2004
流石に正月の深夜番組は豪華だ。
0時25分から北野武監督の「HANA-BI」。
んでもってその裏番組が「シベリア超特急」。
今リンクを張りながら気付いたのだが、実は「HANA-BI」よりも「シベリア超特急」のDVDの方が高い。
後者はDVDが存在すること自体驚きだが。
なぜか水野晴郎の日本語セリフにも、英語の字幕スーパーがでる。
しかも完璧なカタカナ英語をしゃべる、日本の俳優のセリフには、日本語字幕スーパー付き。
・・・・・。
本当に海外でこの映画を売ろうとしたのだろうか。
ちなみに、この邦画ツートップのさらに裏では、「酔拳2」ががんばっている。
確か最後にジャッキーがメタノールを飲んで戦うのだが、ちゃんと後でまともな酒(エタノール)を飲んで拮抗したのだろうか。
んでもってその裏番組が「シベリア超特急」。
今リンクを張りながら気付いたのだが、実は「HANA-BI」よりも「シベリア超特急」のDVDの方が高い。
後者はDVDが存在すること自体驚きだが。
なぜか水野晴郎の日本語セリフにも、英語の字幕スーパーがでる。
しかも完璧なカタカナ英語をしゃべる、日本の俳優のセリフには、日本語字幕スーパー付き。
・・・・・。
本当に海外でこの映画を売ろうとしたのだろうか。
ちなみに、この邦画ツートップのさらに裏では、「酔拳2」ががんばっている。
確か最後にジャッキーがメタノールを飲んで戦うのだが、ちゃんと後でまともな酒(エタノール)を飲んで拮抗したのだろうか。
Saturday, January 03, 2004
年賀状の宛名書き
昨年末から、2004年1月にかけて多忙な日々が続き、結局裏面を刷り上げた年賀状を持って田舎へ引き上げざるを得なかった。
愛用のマシンと別れ、ここ数年ぶりに手書きで年賀状の宛名書きを行う。
もうすでに行方のわからなくなっている戦友も多く、書く枚数はそう多くない。
思えば大学入隊後、何となくプリンタやPCを使って年賀状を「書く」のがかっこよいものだと思いこみ、Excelでつくった住所録から一太郎へと住所データをCSV形式で流し込み、自分の部屋を一時の印刷工場とするのがここ数年の常であった。
しかし、改めて昨年までに自分に寄せられている年賀状の束を見返してみると、「宛名書きまでプリンタに任せる派」はかなり少数であることに気付いた。
葉書の裏面、すなわち干支のイラストだの「謹賀新年」だのの文字の入っているほうに、美麗なイラストを毎年描き送ってくる方でも、宛名書きは手書きの筆字である。
宛名を数枚書き損じ、また何名か足りない分が出てきたので、年賀葉書を地元のコンビニにて現地調達した。
当然、裏面は私の手書きだ。
「謹んで新年のお慶びを申し上げます」と書くべきところを、途中で「慶び」の『がんだれ』をいつものくせで『やまいだれ』にしてしまい、また数枚がムダになった。
つくづく、丁寧な字で人にものを伝えるというのは難しい。
愛用のマシンと別れ、ここ数年ぶりに手書きで年賀状の宛名書きを行う。
もうすでに行方のわからなくなっている戦友も多く、書く枚数はそう多くない。
思えば大学入隊後、何となくプリンタやPCを使って年賀状を「書く」のがかっこよいものだと思いこみ、Excelでつくった住所録から一太郎へと住所データをCSV形式で流し込み、自分の部屋を一時の印刷工場とするのがここ数年の常であった。
しかし、改めて昨年までに自分に寄せられている年賀状の束を見返してみると、「宛名書きまでプリンタに任せる派」はかなり少数であることに気付いた。
葉書の裏面、すなわち干支のイラストだの「謹賀新年」だのの文字の入っているほうに、美麗なイラストを毎年描き送ってくる方でも、宛名書きは手書きの筆字である。
宛名を数枚書き損じ、また何名か足りない分が出てきたので、年賀葉書を地元のコンビニにて現地調達した。
当然、裏面は私の手書きだ。
「謹んで新年のお慶びを申し上げます」と書くべきところを、途中で「慶び」の『がんだれ』をいつものくせで『やまいだれ』にしてしまい、また数枚がムダになった。
つくづく、丁寧な字で人にものを伝えるというのは難しい。
Sunday, December 28, 2003
メルセデス・ベンツと薬剤師
外を見ると一面雪が深く積もっている。
雪が積もらない季節、私は週末自転車に乗って20キロばかり郊外の大型書店へ行く。
書店へ行くのが目的ならば、都心にいくらでも大型書店はあるのだし、そこで目的の本を探す方が効率的ではあるのだけれど、その20キロばかり、目的地へ向かうプロセスがとても好きだからである。
さて、その書店は地方都市郊外の店にしては珍しく、いくらかの洋書がおいてある。
その中に、"Mercedes Benz 1992-1996"や"Porsche 1985-1990"といったタイトルの本がある。普通の日本人の感覚でいけば、これは徳大寺某が書いているような「こういう車のここが素晴らしいから、この年式の車を買え」という内容の本ではないか、と思うのが当然だろう。
ところが、実際その手の本の中身は、非常に硬派である。「このタイヤのバーストには、こう対処しろ」「点火プラグの抜き方はこうしろ」「エンジン回転音がおかしいときは、まずここをあけてみろ」といった、クルマの修理の仕方が事細かに書いてある。
つまり、アメリカ人はベンツやポルシェといったクルマでさえ、何かあったら自分で直すのだ。もちろん、自分で直してうまくいかないときにはプロの修理工に頼むのだろうが、それはずいぶん高い技術料を取られることになる。裏を返せば、プロというものに対する要求度というものが相当に高いということになる。
昔「ハンバーガー屋のコーヒーを膝にこぼして巨万の賠償金を得た婆さん」という有名な話があったが、それ以前の話として、アメリカというのは、自己責任というものがシビアに認識されているのだ。
さて、翻ってみて我が国では、「深夜に薬剤師抜きで薬を販売していいか」「コンビニで常備薬を売るのは許されるか」といった議論が活発になされている。
「いかなる薬も、全く安全ということはできない」というのは全ての医療人が共通に認識していることだ。しかし、「薬を飲んで何かあったら、それは薬を製造したメーカーや、許可を出した役所の責任だ」という社会の風潮も、規制緩和を難しくしている一因であろう。
「実際、薬局にいる薬剤師はたいしてアレルギーの病歴も聞かずにOTC(市販薬)を売るではないか」といった批判も聞かれる。ここにも、本質的にプロというものが信用されていない社会であることが伺われる。
日本には、欧米に比して様々な規制が多くあることは周知の事実である。しかしながら、そもそもその規制を必要としたのは、他ならぬ国民自体の「責任回避」の風潮であり、欧米並みの規制緩和を求めるのならば、まず欧米並みの個人主義・自己責任を普及させるのが先だろう、という気がする。
極論すれば、「医療ミスを起こすような病院に治療してもらおうと判断したのは、他ならぬあなたではないのですか」というところまで行ってしまいそうだが。
雪が積もらない季節、私は週末自転車に乗って20キロばかり郊外の大型書店へ行く。
書店へ行くのが目的ならば、都心にいくらでも大型書店はあるのだし、そこで目的の本を探す方が効率的ではあるのだけれど、その20キロばかり、目的地へ向かうプロセスがとても好きだからである。
さて、その書店は地方都市郊外の店にしては珍しく、いくらかの洋書がおいてある。
その中に、"Mercedes Benz 1992-1996"や"Porsche 1985-1990"といったタイトルの本がある。普通の日本人の感覚でいけば、これは徳大寺某が書いているような「こういう車のここが素晴らしいから、この年式の車を買え」という内容の本ではないか、と思うのが当然だろう。
ところが、実際その手の本の中身は、非常に硬派である。「このタイヤのバーストには、こう対処しろ」「点火プラグの抜き方はこうしろ」「エンジン回転音がおかしいときは、まずここをあけてみろ」といった、クルマの修理の仕方が事細かに書いてある。
つまり、アメリカ人はベンツやポルシェといったクルマでさえ、何かあったら自分で直すのだ。もちろん、自分で直してうまくいかないときにはプロの修理工に頼むのだろうが、それはずいぶん高い技術料を取られることになる。裏を返せば、プロというものに対する要求度というものが相当に高いということになる。
昔「ハンバーガー屋のコーヒーを膝にこぼして巨万の賠償金を得た婆さん」という有名な話があったが、それ以前の話として、アメリカというのは、自己責任というものがシビアに認識されているのだ。
さて、翻ってみて我が国では、「深夜に薬剤師抜きで薬を販売していいか」「コンビニで常備薬を売るのは許されるか」といった議論が活発になされている。
「いかなる薬も、全く安全ということはできない」というのは全ての医療人が共通に認識していることだ。しかし、「薬を飲んで何かあったら、それは薬を製造したメーカーや、許可を出した役所の責任だ」という社会の風潮も、規制緩和を難しくしている一因であろう。
「実際、薬局にいる薬剤師はたいしてアレルギーの病歴も聞かずにOTC(市販薬)を売るではないか」といった批判も聞かれる。ここにも、本質的にプロというものが信用されていない社会であることが伺われる。
日本には、欧米に比して様々な規制が多くあることは周知の事実である。しかしながら、そもそもその規制を必要としたのは、他ならぬ国民自体の「責任回避」の風潮であり、欧米並みの規制緩和を求めるのならば、まず欧米並みの個人主義・自己責任を普及させるのが先だろう、という気がする。
極論すれば、「医療ミスを起こすような病院に治療してもらおうと判断したのは、他ならぬあなたではないのですか」というところまで行ってしまいそうだが。
Saturday, December 27, 2003
Tuesday, November 11, 2003
Sunday, September 14, 2003
マシンをフリーウェアでガチガチにする
「林檎の木」という秀逸なサイトを見つけた。
いわゆるフリーウェアをたくさん紹介しているサイトである。
オンラインソフトといえば、Vectorや「窓の杜」も有名であるが、前者はあまりに多くのソフトを収録しすぎたがために、本当に使う価値のあるものを見つけるのに一苦労するし、後者はその逆で、ミラーサーバーは抜群だが(使えない)ソフトを少数乗せているだけである。
その見地から見て、この「林檎の木」はとてもバランスがよい。
ここで、かねてから懸案であった愛用のLibretto L1の環境整備を図ることとした。
もともと、私のモバイルマシンであるLibretto(Transmeta Crusoe 600MHz、256MB)は「字が書ければいい(=エディタが動けばいい)、できるだけ質量の軽いマシンがほしい」との発想から衝動買いした、ヨドバシの現品処分品である。その後WinXPにアップグレードしたものの、流石にCPU負担がきついためXPのウリであるLuna(ウィンドウが丸っこくなるやつ)はあきらめ、classicスタイルで用いている。
そもそもが処分品であるため、できるだけコストを安く上げようとの発想から、ソフトウェアはフリーのものを活用することにしている。
Terapad(エディタ)、Winamp2.x(音楽プレーヤー)はもちろんのこと、Meadow(EmacsのWin移植版)、Openoffice.org(統合オフィススイート)、GnuPG(暗号化システム)などマイナーなものも多くある。特にウイルス対策ソフトもAVG-antivirus(Grisoft.com)を用いているため、ノートンを入れてあるメインマシンに比し、セキュリティには一抹の不安があった。
何と言っても、Librettoにファイアーウォール(PFW)は入れていなかったので、フリーのもので優れたものを探したかった。「林檎の木」では、海外ベンダーが出しているPFWを複数紹介しており、私はその中から「ZoneAlarm free」という製品を選んでインストールしてみた。この2時間の間に、ポートスキャン1回、Ping打ちに関しては3回やってきた。
・・・今まで一体どんだけクラックされたんだろ。
他に、HotmailをPOPメーラーで読み書きできるフィルタ、「Hotmail popper」なんかもいい感じである。今の時代、誰が好んでOutlook(またはOutlook Expresss)を使いたがるというのだろう。(じゃ、Hotmailやめろよ、という話もある)
(しかも、なぜかメーラーだけは金払ってJustsystem shuriken Pro2を使ってたりする。)
後、昔使っていた「Moonlight」というコマンドライン型ランチャによく似た、CraftLaunchというソフトがあったのでこれもインストールしてみる。ランチャというのは、しばらく使ってみないと本当の使い勝手というのはなかなか知れないものだが、MoonlightがXP上では不審な挙動を示すようになったため、代替となるものを探していたのだ。この手のちっぽけなパソコンでは、コマンドライン型ランチャはかなり使い勝手を左右する要素となる。
あとは、軽いスケジューラが何かあればいいのだが、とは思うが、これに関してはYahoo!カレンダーがなかなか使いやすいので、Librettoの遅い起動時間も手伝って、これと思うものに出会えずにいる。昔ビックカメラで売っていた4,800円のHandspring、買っとけばよかったなあ。
いわゆるフリーウェアをたくさん紹介しているサイトである。
オンラインソフトといえば、Vectorや「窓の杜」も有名であるが、前者はあまりに多くのソフトを収録しすぎたがために、本当に使う価値のあるものを見つけるのに一苦労するし、後者はその逆で、ミラーサーバーは抜群だが(使えない)ソフトを少数乗せているだけである。
その見地から見て、この「林檎の木」はとてもバランスがよい。
ここで、かねてから懸案であった愛用のLibretto L1の環境整備を図ることとした。
もともと、私のモバイルマシンであるLibretto(Transmeta Crusoe 600MHz、256MB)は「字が書ければいい(=エディタが動けばいい)、できるだけ質量の軽いマシンがほしい」との発想から衝動買いした、ヨドバシの現品処分品である。その後WinXPにアップグレードしたものの、流石にCPU負担がきついためXPのウリであるLuna(ウィンドウが丸っこくなるやつ)はあきらめ、classicスタイルで用いている。
そもそもが処分品であるため、できるだけコストを安く上げようとの発想から、ソフトウェアはフリーのものを活用することにしている。
Terapad(エディタ)、Winamp2.x(音楽プレーヤー)はもちろんのこと、Meadow(EmacsのWin移植版)、Openoffice.org(統合オフィススイート)、GnuPG(暗号化システム)などマイナーなものも多くある。特にウイルス対策ソフトもAVG-antivirus(Grisoft.com)を用いているため、ノートンを入れてあるメインマシンに比し、セキュリティには一抹の不安があった。
何と言っても、Librettoにファイアーウォール(PFW)は入れていなかったので、フリーのもので優れたものを探したかった。「林檎の木」では、海外ベンダーが出しているPFWを複数紹介しており、私はその中から「ZoneAlarm free」という製品を選んでインストールしてみた。この2時間の間に、ポートスキャン1回、Ping打ちに関しては3回やってきた。
・・・今まで一体どんだけクラックされたんだろ。
他に、HotmailをPOPメーラーで読み書きできるフィルタ、「Hotmail popper」なんかもいい感じである。今の時代、誰が好んでOutlook(またはOutlook Expresss)を使いたがるというのだろう。(じゃ、Hotmailやめろよ、という話もある)
(しかも、なぜかメーラーだけは金払ってJustsystem shuriken Pro2を使ってたりする。)
後、昔使っていた「Moonlight」というコマンドライン型ランチャによく似た、CraftLaunchというソフトがあったのでこれもインストールしてみる。ランチャというのは、しばらく使ってみないと本当の使い勝手というのはなかなか知れないものだが、MoonlightがXP上では不審な挙動を示すようになったため、代替となるものを探していたのだ。この手のちっぽけなパソコンでは、コマンドライン型ランチャはかなり使い勝手を左右する要素となる。
あとは、軽いスケジューラが何かあればいいのだが、とは思うが、これに関してはYahoo!カレンダーがなかなか使いやすいので、Librettoの遅い起動時間も手伝って、これと思うものに出会えずにいる。昔ビックカメラで売っていた4,800円のHandspring、買っとけばよかったなあ。
Saturday, September 06, 2003
何というか
最初だからイレ込みすぎているのか、それともこういうのが「たのしみ」になってしまったせいか、ふつうの「あそび」では満足できなくなってきた。
おそらく数週間経つうちには「疲労」と「飽き」が解決してくれるとは、思うのだが。
おそらく数週間経つうちには「疲労」と「飽き」が解決してくれるとは、思うのだが。
Tuesday, September 02, 2003
夏休みに学んだこと。
1.小樽へは列車を(北海道弁で言うところの「汽車」を)使いましょう。
2.松田直樹は単なる暴力DFではない。(それは波戸だ。)
3.エムボマはいい人だ。
4.自転車のタイヤとチューブは、自分で交換可能である。
5.チェーンもその気になれば何とかやれる。
6.水道の蛇口に使われるコマは、我が国では径13mmが主流である。
2.松田直樹は単なる暴力DFではない。(それは波戸だ。)
3.エムボマはいい人だ。
4.自転車のタイヤとチューブは、自分で交換可能である。
5.チェーンもその気になれば何とかやれる。
6.水道の蛇口に使われるコマは、我が国では径13mmが主流である。
前期成績表返却さる
106人中100番。
そろそろ神の領域に入ってきました(汗。
しかし、再試回数は一年生の時から数えて最低の部類に入るのに、順位も最低の部類に入るというのは、案外楽しい事実かも知れません。
そろそろ神の領域に入ってきました(汗。
しかし、再試回数は一年生の時から数えて最低の部類に入るのに、順位も最低の部類に入るというのは、案外楽しい事実かも知れません。
迷彩柄
秋になったので秋らしい色にしてみます。
何、読みにくい?CTRL+Aでも押してみれば?
(著者からの補遺:この日、オリジナルの日記の背景を茶・緑・黄土を基調とした迷彩パターンに変更していました。)
何、読みにくい?CTRL+Aでも押してみれば?
(著者からの補遺:この日、オリジナルの日記の背景を茶・緑・黄土を基調とした迷彩パターンに変更していました。)
Thursday, July 17, 2003
Tie 1000 times!
Tomorrow I have a examination to assess clinical skills,so called OSCE.
One of the skills,stureing is so important.
A sergeon of my admire,Dr.Ken Kimura says in his book,
"If you want to be a sergeon,you have to train tie strings 1000 times a day.
Then you'll have a little better sergcal skills, about 3 months later."
I don't want be a sergeon...(for the benefit of BOTH OTHRS AND I!)
But I have traind tying for a week,with a rolle of fish line.
I pray to God and othe goodness that I can success the exam!
Tomorrow I have a examination to assess clinical skills,so called OSCE.
One of the skills,stureing is so important.
A sergeon of my admire,Dr.Ken Kimura says in his book,
"If you want to be a sergeon,you have to train tie strings 1000 times a day.
Then you'll have a little better sergcal skills, about 3 months later."
I don't want be a sergeon...(for the benefit of BOTH OTHRS AND I!)
But I have traind tying for a week,with a rolle of fish line.
I pray to God and othe goodness that I can success the exam!
Wednesday, July 16, 2003
OSCE
さて、一月半も続いた試験が終わり、五年生の前期最後の課題はOSCEである。
OSCE(オスキー)と言ってもよさこいソーランに出てくる信販会社の・・・・・
このネタはずいぶん昔に使ったのでやめる。
OSCE="Objective Structured Clinical Examination"(客観的臨床能力試験)
と言うことで、要するに実技試験のことと考えてもらえればよい。
実技試験と言っても、ウチの大学の場合、『初期OSCE』とやらで「聴診器を胸の正しい場所に当てる」(=実際何が聞こえてるかまで関知しない)とか、「縫合は一針のみ」(=ぶすっと一針刺して、糸をひゅっと結んで終わり)だったりかなりユルユルなところが多かったりする。
かと思えば、CPR(心肺蘇生)の実習では倒れてる人を見つけるところから、周りの人に「AED持ってきてくださ~い」と大声でその場を仕切り、実際にスイッチを押してバン!と電流を流すところまでやったりする。胸毛の濃い人は電流流す前にカミソリで剃れ、とかここだけはやけに細かい。
やっている上でいくつか疑問点を感じたことがあるので、忘れないうちにここに書いておく。というのも、後数年でこのOSCEは関門化すなわちほぼ国家試験と同等の意味を持ち得ることになるからだ。
まず一つ目。実際に患者の体に触れる実習(胸部診察など)は、どうしても患者役(SP:Sumilated/Situation Patient)が男性になってしまう。具体的に言えば、胸部診察では胸骨という胸のど真ん中にある骨の位置をまず指で触って確かめ、そこを基準にして聴診器を当てる場所を決めることになる。もちろん実際の診療現場では、医者はいちいちこんなことはしないことが多いと思う。あくまで教育上の都合(、という書き方が正しいのかどうかは疑問であるが)である。
ただ、このような実習スタイルでは胸に触っても問題がない男性のSPのみで実習を積むことになる。ただ一人の女性SPも、胸部診察の実習対象とはならないのである。(もちろんこの後病棟実習に出ればそんなことはない。)何か引っかかるのは、最近主な国立病院には「女性外来」を設置するという傾向が現れ、また一部の女性からは「聴診の際に上半身裸にされるのはおかしい。」という声が上がって来たりする。(そういう女性の話を聞くと、どうやらシャツの下から聴診器を入れて聴診を行う方法が自尊心を傷つけないやり方らしい。)
別に私はタヂマヨーコ先生の肩を持つわけではないが、どうも「患者は男である」という前提の基に実習を行うのはちょっと変なのではないだろうか、と考えたりした。まあ別に、他の医療面接(今まで「問診」とされていたもの)、神経学的診察などの実習では女性がSPになることもあるので、そんなにかまうことでもないのかもしれない。
ただ、前述した「女性外来」設置の流れや、医学部の男女比の動きなどを考えると、ひょっとして20年、30年たったときには、「原則男性の患者は男性医師が、女性の患者は女性医師が診る」ということになっていたりするのかなあ、などということを漠然と思ったりする。
OSCE(オスキー)と言ってもよさこいソーランに出てくる信販会社の・・・・・
このネタはずいぶん昔に使ったのでやめる。
OSCE="Objective Structured Clinical Examination"(客観的臨床能力試験)
と言うことで、要するに実技試験のことと考えてもらえればよい。
実技試験と言っても、ウチの大学の場合、『初期OSCE』とやらで「聴診器を胸の正しい場所に当てる」(=実際何が聞こえてるかまで関知しない)とか、「縫合は一針のみ」(=ぶすっと一針刺して、糸をひゅっと結んで終わり)だったりかなりユルユルなところが多かったりする。
かと思えば、CPR(心肺蘇生)の実習では倒れてる人を見つけるところから、周りの人に「AED持ってきてくださ~い」と大声でその場を仕切り、実際にスイッチを押してバン!と電流を流すところまでやったりする。胸毛の濃い人は電流流す前にカミソリで剃れ、とかここだけはやけに細かい。
やっている上でいくつか疑問点を感じたことがあるので、忘れないうちにここに書いておく。というのも、後数年でこのOSCEは関門化すなわちほぼ国家試験と同等の意味を持ち得ることになるからだ。
まず一つ目。実際に患者の体に触れる実習(胸部診察など)は、どうしても患者役(SP:Sumilated/Situation Patient)が男性になってしまう。具体的に言えば、胸部診察では胸骨という胸のど真ん中にある骨の位置をまず指で触って確かめ、そこを基準にして聴診器を当てる場所を決めることになる。もちろん実際の診療現場では、医者はいちいちこんなことはしないことが多いと思う。あくまで教育上の都合(、という書き方が正しいのかどうかは疑問であるが)である。
ただ、このような実習スタイルでは胸に触っても問題がない男性のSPのみで実習を積むことになる。ただ一人の女性SPも、胸部診察の実習対象とはならないのである。(もちろんこの後病棟実習に出ればそんなことはない。)何か引っかかるのは、最近主な国立病院には「女性外来」を設置するという傾向が現れ、また一部の女性からは「聴診の際に上半身裸にされるのはおかしい。」という声が上がって来たりする。(そういう女性の話を聞くと、どうやらシャツの下から聴診器を入れて聴診を行う方法が自尊心を傷つけないやり方らしい。)
別に私はタヂマヨーコ先生の肩を持つわけではないが、どうも「患者は男である」という前提の基に実習を行うのはちょっと変なのではないだろうか、と考えたりした。まあ別に、他の医療面接(今まで「問診」とされていたもの)、神経学的診察などの実習では女性がSPになることもあるので、そんなにかまうことでもないのかもしれない。
ただ、前述した「女性外来」設置の流れや、医学部の男女比の動きなどを考えると、ひょっとして20年、30年たったときには、「原則男性の患者は男性医師が、女性の患者は女性医師が診る」ということになっていたりするのかなあ、などということを漠然と思ったりする。
クロスプレー
http://www2.asahi.com/koshien2003/nanboku/TKY200307150197.html
こんな記事を見つけた。
野球規則なんてかなり厳密に(レアケースも想定して)作ってあるものだが、結局規則を運用するのも人間である。
こんな記事を見つけた。
野球規則なんてかなり厳密に(レアケースも想定して)作ってあるものだが、結局規則を運用するのも人間である。
Last summer
I am in the 5th grade of the medical school.
Scince I will have to serch some training hospitals where I can work as a intern next summer,this is the last summer can find some free time.
And, this means this is the last sommer vacation as a student.
I had planned to read some books,such as Robbins Pathologic basis of disease every time before vacation,I have faild to accompanish that.
I am in the 5th grade of the medical school.
Scince I will have to serch some training hospitals where I can work as a intern next summer,this is the last summer can find some free time.
And, this means this is the last sommer vacation as a student.
I had planned to read some books,such as Robbins Pathologic basis of disease every time before vacation,I have faild to accompanish that.
Tuesday, June 17, 2003
Thursday, June 12, 2003
それで結局
RedHat7.2をインストールし直す。
一回目は、GRUBの設定を間違えてWindowsXPが起動しなくなった。
結局ブートイメージの位置を張り間違えていただけだったが、かなり焦った。これは応急的にXPのCD-ROMからrescue起動して、MBRを書き換える事にしたが、sambaの設定やらmozillaのバージョンやら、いろいろなことを考えると随分惜しいことをしたものである。
いい加減K6-2のスピードが遅く感じられるようになってきた。
夏休みは働いて、一ついいのを組み直すか。部品が容易に手に入る環境にいるうちに。
一回目は、GRUBの設定を間違えてWindowsXPが起動しなくなった。
結局ブートイメージの位置を張り間違えていただけだったが、かなり焦った。これは応急的にXPのCD-ROMからrescue起動して、MBRを書き換える事にしたが、sambaの設定やらmozillaのバージョンやら、いろいろなことを考えると随分惜しいことをしたものである。
いい加減K6-2のスピードが遅く感じられるようになってきた。
夏休みは働いて、一ついいのを組み直すか。部品が容易に手に入る環境にいるうちに。
Tuesday, June 10, 2003
投票行動
先日は市長選再選挙の投票日であった。
私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。
はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。
しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)
(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。
(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。
したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。
しかし、これは案外難しい。
そこで、私はこのように考えることにした。
選挙を競馬のように考える。
つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。
だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。
何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?
だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。
私もこの町に住民票を移している成人である以上、投票の葉書が来るのである。
はっきり言って、どの候補も魅力がなかった。むしろ皆悪人に見えた。
しかし、いかに私が合衆国憲法修正第二条のかたくなな信奉者(*1)であり、「抵抗権」思想の持ち主であった(*2)としても、ライフルを握って市庁舎に突入する前には、やれることがあるはずである。
事実、私は成年に達してから選挙の日には投票を欠かしたことがない。(セミプロ市民か、オレは。)
(*1)忘れているかもしれないが、管理人のHNは"*******"である。
(*2)そもそも民主主義社会において為政者は民衆の信託を受けた存在であるから、為政者がその道を外したとなれば武力を用いてこれを打ち倒すことも許される、とする思想。日本でこれを唱えたのは植木枝盛(の、はず)。
したがって、事実上三人の候補者の中から、最もふさわしいと思われる人物に投票するのが「やれることをやる」というわけだ。理想的には。
しかし、これは案外難しい。
そこで、私はこのように考えることにした。
選挙を競馬のように考える。
つまり、「自分のふさわしいと思う候補」と言うより、むしろ「現実に勝ちそうな候補」に投票するのである。それなら、話はグッと簡単だ。
だいたい、自分が「現実に勝ちそうな候補」としてイメージするのは、深層心理として本来自分の望んでいる候補像と一致するのではないか。それに、自分の応援したワルそうなオッサン候補が当選した方が、清廉潔白そうな気鋭に満ちた若手候補に投票して落選する姿を見るより、ずっと寝付きにいいではないか。
何、不謹慎だ?民主主義をなめてる?
だってオレ、民主主義大っ嫌いだからなあ。
Tuesday, June 03, 2003
間合いを取るということ
先日、「医療には間合いが必要だ」と書いた。そのことについて、もう少し書いておきたい。
まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。
患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。
「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)
私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。
もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。
もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。
最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。
人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。
一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。
少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。
このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。
そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。
『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。
まず、近年確立されたテーゼとして「パターナリズム(父権主義)の否定」ということがある。これは、「患者にとってこれが一番いい方法なのだ」ということを、医者が自分で勝手に判断してはいけませんよ、ということだ。
具体的に言えば、がん告知の問題にしても、昔は「知らないでいた方が幸せだから」ということで、医者が真実を告げないことがよくあった。(現在でも、地方によってはこういうやり方がいいのだ、とする考え方が支配的なところもある。)ところが、様々な判例を積み重ねるに従って、インフォームド・コンセントの概念が確立し、患者にこういうことを秘密にしておいてはダメだ、という考え方が主流になっている。
患者と親身になって考える、といえば一見聞こえはいい。だが、それは医者が患者と自分の立場を同化させた視点に立つことになる。すなわち、患者のするべき判断を自分でやってしまっていることになりかねない。これは、現在の医療では反則になる、ということだ。
「東海大安楽死事件」という事件が昔マスコミを賑わせたことがあった。意識のほとんどない、死に瀕したある患者の家族から、「見ていられないので早く楽にしてやってくれ」と再三、執拗に頼まれた研修医が、エアウェイをはずし、またカリウムを静注して患者の心臓を止めてしまった。この一件で研修医は、殺人罪に問われた。(公判で家族は「『楽にしてやってくれ』とは言ったが、それは『殺してくれ』という意味ではなかった」旨の主張をした。)
私は、この研修医は、おそらく患者の身に立って、また家族の立場になってその感情を受け止め続けたのだと思う。そして、その結果、本来自分では為すべきではない(患者本人にしかできない)判断を、してしまった。相手と自分との距離を、計り損ねたのである。
もう一つ注目したいのは、彼がカリウムの静注などという手段を使えたのは、彼が医師であったからだ、という命題である。家族がいくら「見ていられないから」といったところで、包丁一本持ち出してぐさりとやるほどの度胸が家族にあったとは思えない。しかし。彼が医師という特権を持ち得る立場であり、カリウムというある意味において「スマートな」手段を行使できる立場であったからこそ、この事件は成立したのである。
もし、この研修医が「自分は『医師』という大きな権限を与えられた職業人である」という、一種傲慢なまでに確固たる自覚を持ったパーソナリティーであったならば、患者の懇願に抗い得るほどの強さを発揮することが出来ただろう。
実際、そういう方法によって自分自身の感情を守っている人は、この世界に多くいる。
最近、私は医療の本質というものが、実は「エゴを守る」ということではないのか、という疑念を抱きつつある。
人間にとって、「オレの命を救ってくれ」というのは、自我の保存という最も根本的なエゴである。そこまで極端ではなくとも、「世の中には私よりもっともっと大変な人がいるんだから、これくらいの痛みは我慢しなくちゃ」という人は、そもそも病院へやって来ない。
一方、私を含め、医療を行う側にもエゴはある。それを否定してはいけない。
いくら「お医者さんは自分の利益を捨て、病める人への奉仕を考えるべきだ」と理想論を説いてみたところで、実際医者になるには少なくとも競争率4,5倍はする医学部の入学試験を突破しているわけで、そこで「オレが、オレが」という気持ちのない奴がそもそも医者をやっているはずはないのである。
少なくとも、「この世の中には、オレにしかできないことがあるはずだ」「このオレがやれば、医療はもっとよくなる」というくらいのエゴはあるわけで、その論理は医療を進歩させるエネルギーの一つになっている。「オレでなくても、ほかの誰がやっててもこのポジションはいい」と思っていたら、とっくの間にそんな仕事は辞めているはずで、それは、ほかのどんな業種でも一緒だろう。
このように、医療現場というのは、様々なエゴが正面切ってぶつかり合う場でもあって、きちんとした「間合い」を取っていないと、私のエゴが患者のエゴを飲み込むか、それとも患者のエゴが私のエゴを飲み込むか、ということになりかねない。
そうなれば、その結末は必ず悲惨なものになる。
『東海大安楽死』にしても『和田移植』にしても、背景にあるのはこの問題ではないのか、と思う。
Saturday, May 24, 2003
金曜ロードショーの裏番組
「ブラックジャックによろしく」という漫画がある。
今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。
今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。
確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。
脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。
さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。
このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。
医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。
今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。
今は、ドラマになっているので、見ている人もそれなりに多いだろう。
どちらもなかなか、よい出来になっているのではないか、と思っている。
今まで、このような医療ドラマの手合いは「毎週毎週奇跡を起こし続ける医者」が主人公であったり、そうでなくとも看護師を主人公にしたものが多かった。この作品のように、「医者の言い分」を正直に描いたドラマは、日本にはかつて無かった。
確かに、主人公を含めて、みんな不自然に「アツい」ひとたちばかりで、「んなわけねえだろ」と思うことはある。だが、所詮テレビドラマなのだから、それくらいの演出というものがあるのはやむを得まい。そういうことにいちいち突っ込むのは、「ウエスト・サイド・ストーリー」を見ながら「あんなところでいきなり踊る奴はいない」と叫ぶくらいの野暮である。
脇役(指導医役)の三浦友和や、笑福亭鶴瓶も、かなり好演している。「実際、こういう医者なら、いてもそんなにおかしくないな」というレベルには達している。
さて、鶴瓶が演じる小児科の指導医だが、原作の漫画では一回であるが、ドラマではかなり強調された部分がある。ダウン症の子供を持った家族に対し、「あの家族とは絶対に親しくするな」という言葉である。
このドラマでは当然のごとく、主人公の研修医はそれに反発し、「医者として見過ごすわけにはいかないんだ」と、かなりアツイ言葉をお吐きになる。原作、ドラマの流れでは、指導医やNICUの看護師も、なんとか父親に手術の同意を取り付けるべく奔走することになっているが、見ている私としては、まあこれは少々やりすぎだろう、と思う。
医療には絶対に、「間合い」というものが必要だと考えているからだ。その一線を越えてしまっては、医療人として失格だと思う。。
今日は少々疲れているのでこれくらいで筆を置くが、次回はその「間合い」というのがいかなるものか、そしてそれがなぜ必要なのか、書いてみたいと思う。
Sunday, May 11, 2003
医療における競争原理について
先ほど、医療は一対一のサービスではない、と書いた。この考え方について、もう少し書いておく。
この4月に話題になった事の一つに、「サラリーマンの医療保険三割負担に」ということがある。今までの本人一割負担に比べれば、単純に考えて負担が三倍になったわけで、患者「様」にしてみれば大変なことである。(ちなみに扶養家族などに関しては元から三割負担だったわけで、「働く世代」の負担が増えたと言うことだ)
だが、逆に考えれば、依然として七割は「保険様」が払う、ということである。
その七割は、国民医療保険、あるいは各企業体などで構成している共済保険などの基金が出しているわけで、それも元をたどれば、組合員の掛け金(+税金投入分)が拠出金になっているのである。
そもそも保険というものは、「わずかな」掛け金を出し合って大きなリスクに備えるものである。つまり、その保険を構成する要員全てに大きなリスクが起こった場合、それは当然保険ではまかないきれないくらいの事態、ということになる。(従って、火災保険などには天変地異に対する特記事項というものがある)
何が言いたいか。
つまり、お医者さんというのは実際のところ、病院に来る「患者様」よりも、「少なくとも今は病院に来ていない人」から、たくさんのお金をもらっていることになる。保健医療制度、というのはそういうことなのだ。
従って、「患者様中心の医療」とか言っている割には、現実には「保険様中心の医療」ということである。
だって、ふつうに考えてみなさい。町中の医者(あるいは病院経営者)を全部集めてみようと思ったら、次のうちどちらのポスターがふさわしいか。
A.「医師の自由参加による、市民のための健康相談を実施します。」
B.「来月から変わる保険の算定方法についての講習会を開きます。医師の参加は自由です。」
しかも、医療保険というものが厄介なのは、それが存在することによって医療というものを、市場原理で計算することが一層困難になっているということだ。
「医療はサービス業」論者は、「患者にとって利益となる医療を行う医者(あるいは施設)は、より多くの患者をとることができる。従って、そのような医療機関はより多くの利益を上げることができ、競争に勝ち残る事ができ、逆の医療機関は淘汰される」という。
たしかに、これは正しい。仮に患者自らが全額を病院に支払うシステムになっていれば、の話だが。
実際は、需要側の「患者」と、供給側の「医療」の間に、第三のファクターである「公的保険」が絡むので、あたかも「囚人のジレンマ」のごとく互いの利益は反目しあうのである。
話をわかりやすくするために、まず「医者」と「病院」の需給モデルを考えてみよう。
まず、患者側の利益を考えると、「安価で、しかも質の高い医療」ということになる。
しかし、病院側は、「高価、しかも質の低い医療」を供給することがベストである。
(経済的な立場から「利益」を論じているので、そういう病院はけしからん、というのは無し。)
この二者の妥協点として、「それなりに適正な価格と質の医療」が供給されることになる。もちろん、この前提には「安価で極度に質の高い医療を求める患者」と、「極度に高価で質の低い医療を供給する病院」は、排除されるということがある。
ここで、第三者たる「公的保険」を登場させる。
(なぜ「公的保険」としたかというと、それは患者に対する掛け金を強制的に集め得る立場にあるからである。保険料が高いという理由で、それから脱退することは、今の日本で認められていない。つまり、先に述べた排除の原則が公的保険には無いのだ)
消費者たる患者から資金を得る「公的保険」が追求する利益は、ただ一つ「とにかく安価な医療」ということになる。実質上病院から得るものは何もなく、ただ金を払うだけの立場であるからだ。
そうすると、病院側にとって最優先事項となるのは、消費者たる患者の利益ではなく実際は「公的保険」に対する利益ということになるのである。
ここに、大きなゆがみの生じる余地がある。
まず第一に、保険側に大きな利権が集中することによって、たとえば病院が保険機関の構成員に対して何らかの利便を図り、自分たちに回るパイを大きくしようと試みるおそれがある。
第二に、保険機構の利益と、患者の利益は一致しない。一致しないにもかかわらず、「医療費の削減」という言葉は、消費者たる患者の払う金額を減少させられるかのような錯覚を生じさせる。
一年ほど前、「ジョン・Q」という映画を見た。息子の心臓移植を求めて、父親が拳銃を手に病院を占拠するという、オスカー俳優デンゼル・ワシントンが熱演した割には、先の容易に読めるストーリー展開ではあったものの、その実みているうちに様々なことを考えさせられる作品であった。
その中で、研修医が、父親デンゼルと心臓外科の権威に対してこういう言葉を吐く場面がある。「なんで健康診断が息子さんの病気を見逃したかって?HMO(米国の公的医療保険)は、たくさん検診を行っても『異常』の診断を出さない医者にはボーナスを出す。その方が安上がりだからな。」心臓外科医が答えて曰く、『あり得ん話ではないな。」
前に書いた「たばこは医療費削減によい」というところでも述べたが、実際難しい病気を早期に発見し、長い間治療することよりも、さんざん病態が進んだところで発見し、二ヶ月たったところで「手を尽くしましたが・・・残念です」というほうが都合がいい連中がいる、ということなのだ。
自己弁護にはなるが、打算的にみても医者はそういう考えでは利益を得られない。早く見つけて、長く治療した方が多く儲かる立場である。
もちろん、私は医療保険制度の全てを悪いと言うのではない。
しかしながら、公的な医療保険制度そのものが抱える矛盾というものはそれができた当初から存在する。
しかも、現在は「入ってくる金よりも出る金の方が絶対的に多い」という医療保険の問題が不況下で浮き彫りになっている時代である。
ここで単に「企業原理により病院間の競争を進める」事が、本当に消費者(依頼人)の利益にかなうことなのか、医療者の側としても考えることがある、ということだ。
その意味で、「患者様」という言い方の裏には、何やらテーブルの上では作り笑いを浮かべながら、足の指では、もう半分も無くなったパイを必死で奪い合うことしか考えていない医者たちの顔が見え隠れして、薄っぺらな商業主義の香りがして、何とも吐き気がするのだ。
この4月に話題になった事の一つに、「サラリーマンの医療保険三割負担に」ということがある。今までの本人一割負担に比べれば、単純に考えて負担が三倍になったわけで、患者「様」にしてみれば大変なことである。(ちなみに扶養家族などに関しては元から三割負担だったわけで、「働く世代」の負担が増えたと言うことだ)
だが、逆に考えれば、依然として七割は「保険様」が払う、ということである。
その七割は、国民医療保険、あるいは各企業体などで構成している共済保険などの基金が出しているわけで、それも元をたどれば、組合員の掛け金(+税金投入分)が拠出金になっているのである。
そもそも保険というものは、「わずかな」掛け金を出し合って大きなリスクに備えるものである。つまり、その保険を構成する要員全てに大きなリスクが起こった場合、それは当然保険ではまかないきれないくらいの事態、ということになる。(従って、火災保険などには天変地異に対する特記事項というものがある)
何が言いたいか。
つまり、お医者さんというのは実際のところ、病院に来る「患者様」よりも、「少なくとも今は病院に来ていない人」から、たくさんのお金をもらっていることになる。保健医療制度、というのはそういうことなのだ。
従って、「患者様中心の医療」とか言っている割には、現実には「保険様中心の医療」ということである。
だって、ふつうに考えてみなさい。町中の医者(あるいは病院経営者)を全部集めてみようと思ったら、次のうちどちらのポスターがふさわしいか。
A.「医師の自由参加による、市民のための健康相談を実施します。」
B.「来月から変わる保険の算定方法についての講習会を開きます。医師の参加は自由です。」
しかも、医療保険というものが厄介なのは、それが存在することによって医療というものを、市場原理で計算することが一層困難になっているということだ。
「医療はサービス業」論者は、「患者にとって利益となる医療を行う医者(あるいは施設)は、より多くの患者をとることができる。従って、そのような医療機関はより多くの利益を上げることができ、競争に勝ち残る事ができ、逆の医療機関は淘汰される」という。
たしかに、これは正しい。仮に患者自らが全額を病院に支払うシステムになっていれば、の話だが。
実際は、需要側の「患者」と、供給側の「医療」の間に、第三のファクターである「公的保険」が絡むので、あたかも「囚人のジレンマ」のごとく互いの利益は反目しあうのである。
話をわかりやすくするために、まず「医者」と「病院」の需給モデルを考えてみよう。
まず、患者側の利益を考えると、「安価で、しかも質の高い医療」ということになる。
しかし、病院側は、「高価、しかも質の低い医療」を供給することがベストである。
(経済的な立場から「利益」を論じているので、そういう病院はけしからん、というのは無し。)
この二者の妥協点として、「それなりに適正な価格と質の医療」が供給されることになる。もちろん、この前提には「安価で極度に質の高い医療を求める患者」と、「極度に高価で質の低い医療を供給する病院」は、排除されるということがある。
ここで、第三者たる「公的保険」を登場させる。
(なぜ「公的保険」としたかというと、それは患者に対する掛け金を強制的に集め得る立場にあるからである。保険料が高いという理由で、それから脱退することは、今の日本で認められていない。つまり、先に述べた排除の原則が公的保険には無いのだ)
消費者たる患者から資金を得る「公的保険」が追求する利益は、ただ一つ「とにかく安価な医療」ということになる。実質上病院から得るものは何もなく、ただ金を払うだけの立場であるからだ。
そうすると、病院側にとって最優先事項となるのは、消費者たる患者の利益ではなく実際は「公的保険」に対する利益ということになるのである。
ここに、大きなゆがみの生じる余地がある。
まず第一に、保険側に大きな利権が集中することによって、たとえば病院が保険機関の構成員に対して何らかの利便を図り、自分たちに回るパイを大きくしようと試みるおそれがある。
第二に、保険機構の利益と、患者の利益は一致しない。一致しないにもかかわらず、「医療費の削減」という言葉は、消費者たる患者の払う金額を減少させられるかのような錯覚を生じさせる。
一年ほど前、「ジョン・Q」という映画を見た。息子の心臓移植を求めて、父親が拳銃を手に病院を占拠するという、オスカー俳優デンゼル・ワシントンが熱演した割には、先の容易に読めるストーリー展開ではあったものの、その実みているうちに様々なことを考えさせられる作品であった。
その中で、研修医が、父親デンゼルと心臓外科の権威に対してこういう言葉を吐く場面がある。「なんで健康診断が息子さんの病気を見逃したかって?HMO(米国の公的医療保険)は、たくさん検診を行っても『異常』の診断を出さない医者にはボーナスを出す。その方が安上がりだからな。」心臓外科医が答えて曰く、『あり得ん話ではないな。」
前に書いた「たばこは医療費削減によい」というところでも述べたが、実際難しい病気を早期に発見し、長い間治療することよりも、さんざん病態が進んだところで発見し、二ヶ月たったところで「手を尽くしましたが・・・残念です」というほうが都合がいい連中がいる、ということなのだ。
自己弁護にはなるが、打算的にみても医者はそういう考えでは利益を得られない。早く見つけて、長く治療した方が多く儲かる立場である。
もちろん、私は医療保険制度の全てを悪いと言うのではない。
しかしながら、公的な医療保険制度そのものが抱える矛盾というものはそれができた当初から存在する。
しかも、現在は「入ってくる金よりも出る金の方が絶対的に多い」という医療保険の問題が不況下で浮き彫りになっている時代である。
ここで単に「企業原理により病院間の競争を進める」事が、本当に消費者(依頼人)の利益にかなうことなのか、医療者の側としても考えることがある、ということだ。
その意味で、「患者様」という言い方の裏には、何やらテーブルの上では作り笑いを浮かべながら、足の指では、もう半分も無くなったパイを必死で奪い合うことしか考えていない医者たちの顔が見え隠れして、薄っぺらな商業主義の香りがして、何とも吐き気がするのだ。
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